#豊臣家墓所
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興福寺
【3,868��・7分】

泉谷康夫『興福寺』(吉川弘文館)
大和の大寺・興福寺の創建から明治時代までを扱った通史である。ありていに言って「貴賤の信仰を集めた」とは言い難い興福寺が歴史(少なくとも大和国の)の中で注目を集めるのは中世である。中世の興福寺は僧兵を擁し大和一円に検断権を行使する大勢力だった。なぜそうなったのか、その後どうなったのか、といったことが興福寺の歴史のハイライトだろう。
興福寺の歴史を左右したもっとも大きな要因は「藤原氏の氏寺」だったことである。
摂関政治の最盛期において、興福寺は摂関家に依存しながら勢力の伸長をはかったが、摂関家の側から興福寺に依存するところはあまりなかったようである。それが院政期に入ると一変し、摂関家は子弟を別当に就任させ、興福寺のことを「御寺」と称し、興福寺への支配力を強化しようと試みるのである。
(「第二 興福寺の創建と発展」より「一 興福寺と藤原氏」)
貴族の子弟が僧侶として興福寺に入ることは10���紀からあったが、11世紀後半(つまり院政期)になると貴種・良家の子弟が興福寺に入ることが常態化してくる。そこで生まれたのが「院家」である。
興福寺の住僧達は最初ここ(引用注:東西と北の三面僧房)に居住していたと思われるが、十二世紀に入ると、堂舎を寺域内に建立しそこに居住する僧侶が現れ、やがてそのような居住形態が一般化してゆく。すなわち諸院家の成立である。
財力があり都での華やかな生活を見聞していた彼等(引用注:貴族出身の僧侶)にとって、三面僧房の狭い部屋での質素な生活はおそらく不自由に思えたに違いない。
(「第三 興福寺の変質」より「一 院家の成立」)
こうして藤原摂関家と興福寺との間に院家というパイプが成立すると、それを頼って在地土豪が興福寺に集まってくる。その目的は、今風に言えば、律令制下における「脱税」である。大和の大寺というだけなら東大寺も薬師寺も大寺だったが、院家という藤原摂関家とのパイプが興福寺を特別な存在にしていく。
一般的にいって在地土豪層が保護を求めて結集するのは中央貴族と赴任してきた受領であるが、大和国の場合、中央貴族や受領だけでなく、大寺の中心的学侶が加わっており、この学侶の比重が大きかったのが、他の国々と非常に異なる点であったといえるようである。
このような大寺の僧侶が在地土豪結集の中心となりえたのは、その有する宗教的権威によるものであったことはいうまでもないが、寺内には国司の検断権が及ばなかったこともその一因だったと思われる。すなわち、寺院は国司による追求からのがれる絶好の場所だったのである。一方、律令制の崩壊に伴なう国家的保護の減少は、寺院に住む人達の生活を圧迫してくる。そこで寺僧達は経済的基盤を確立する必要があった。そこに、寺僧の側からも在地土豪層との結びつきを求めてゆく必要があったのである。
やがて興福寺が、藤原氏の氏寺として、特に摂関家との深いかかわりから、受領や他の諸大寺に優越する力をもつようになると、在地領主の結集の中心は次第に興福寺僧に集中し、寺僧領が多く成立して寺僧達の経済的基盤を形成していった。このように寺僧と在地土豪は、相互依存の関係を保ちながら大和国で勢力を伸ばしていったのである。
(「第四 興福寺の大和国支配」より「一 在地の動向」)
こうした在地土豪ははじめ興福寺の中で学侶の下働きを務めていたが、興福寺全体が豊かになるにつれて自ら学侶として修行に加わる余裕が出てくる。のちの時代に大和国の戦国大名となる筒井順慶などもこうした興福寺の衆徒だった(だから僧形なのである)。
このように経済力と軍事力を貯えた興福寺は、同様��藤原家とゆかりのある多武峰寺(鎌足の墓所といわれる、現在の談山神社)と大和国の支配権をかけて抗争を繰り広げ(当時の多武峰寺は延暦寺の末寺で抗争には延暦寺の援助があった)、最終的に勝利することで大和国一円の支配権を確立する。
平清盛は寺僧領からも官物を徴収する方針を取り、興福寺をはじめとする寺社がこれに反発すると平重衡に南都を焼き討ちさせる。これを恨みに思った南都諸寺は源氏方につくが、源頼朝と義経との間に対立が生じると南都諸寺は義経をかくまい、義経を討った頼朝は、係争地に地頭を配する形で、大和国にも少しずつ圧力をかけていく。
室町時代になると興福寺の中にも下剋上の機運が生まれる。
室町時代になると、興福寺は歴史の主役から退き、代って衆徒・国民(引用注:「衆徒」は興福寺に拠った、「国民」は春日社に拠った、それぞれ在地土豪)が登場してくる。彼等は武士であり、興福寺の武力として活躍してきたが、次第に独自の公道をとるようになり、興福寺の命令にそのまま従わないようになってくるのである。すなわち、下剋上である。しかし、彼等は興福寺を倒すことはできなかった。
興福寺は、摂関家を通して、京都の朝廷とも不可分に結びついていた。周知のとおり、朝廷と室町幕府は一体の関係にあった。このような中で興福寺を倒すことは、京都の朝廷、ひいては幕府を敵に廻して戦うことであった。衆徒・国民は、自身の成長のため、積極的に幕府の要人と結びついていった。その限りにおいて、中世的な興福寺の呪縛から彼等は逃れることができなかったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「一 衆徒と国民」)
足利義満が衆徒・国民に直接支配を及ぼすようになって以降、衆徒・国民は興福寺の支配を離れて独自の道を歩み内紛と和合を繰り返すようになる。この流れを決定的にしたのが松永久秀の登場である。彼は大和国に侵入すると多門城を築いて大和国を支配したが、その際知行割を行い、大規模な給人の入れ替えを行った。
久秀は寺社成を保障する態度を保持してきたが、この大規模な給人の入れ替えは、従来の興福寺の諸荘園における在地支配を事実上断ち切る役割を果したようである。すなわち、寺社成が否定され、新しい給人達は、他国におけるのと同様、荘園領主に年貢を渡さなくなったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
信長は久秀を駆逐し筒井順慶に大和国の支配を任せる。信長の代官としてだったが、興福寺はこれを「衆徒筒井の復活」と考えた。この信長が光秀に倒されたあと、順慶は秀吉によって大和の「守護」と認められ20万石の大名になる。だが順慶が死ぬと子孫は国替を命じられ、興福寺と衆徒・国民との関係は断ち切られる。
こうし��興福寺は、新しい知行体系の中に組み込まれてゆき、中世的な収取の在り方は、豊臣政権により完全に払拭されてしまったのである。秀吉の寺社に対する政策はそれだけではなかった。興福寺はもちろんのこと、奈良の諸大寺は武器の提出を命じられた。寺社の活動は宗教面に限定されたのであり、宗教活動に専念する限りにおいて、朱印地が与えられ、保護されるようになったのである。
(「第六 下剋上と興福寺」より「二 室町・戦国期の大和国」)
江戸時代には奈良奉行所が置かれ興福寺以下南都諸大寺はその検断権に服した。中世に誇った興福寺の権威は払拭されたのである。
南円堂は観音に現世利益を求める信仰によって庶民と深く結びついていたが、興福寺自体は、庶民と直接かかわりのないところに聳え立つ大寺院であり、農民にとっては年貢を納める「お殿様」であった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「一 近世の興福寺」)
さて明治時代になると興福寺は一山復飾(還俗)願を提出し自ら廃寺とする。摂関家を通して明治政府と近過ぎたことによる勇み足に見える。
維新政府と興福寺との情報の伝達は早かったようで、すでに慶応四年三月には、新政府によって神仏分離政策の実施されることが興福寺に伝えられている。これに応じて、一乗院・大乗院両門跡は一寺一体の復飾願を提出することを決め、衆徒一同にも意見を徴した。三月二十一日、衆徒達は、自分達も従来より春日社に奉仕してきたのであるから、一緒に復飾し、勤王のために尽力したいと申出ている。こうして四月十三日、興福寺は一山復飾願を提出し、この願いはただちに許容された。興福寺僧達は新宮司と称して春日社に奉仕し、社頭の仏具等はことごとく取除かれることになった。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
この一山復飾は神仏分離・廃仏毀釈政策に対する興福寺僧侶たちの生き残り策だったのだが、明治5年に春日社が官幣大社春日神社となると同社の神職は官吏扱いとなり定員の枠も作られて、復飾により神職となった元僧侶たちは結局失職する。このような中で明治10年代に入ると興福寺再興を唱える声が盛り上がり、明治14年に再興の正式認可が内務省から下される。
神仏分離令とこれから派生した廃仏毀釈の嵐によっ��興福寺は大きな打撃を受けたが、政府の宗教政策も漸次変り、明治十三年には古社寺保存金の給付がはじまり、同三十年には「古社寺保存法」が制定され、興福寺では、北円堂・三重塔・五重塔が保護建造物の指定をうけ、弥勒菩薩坐像など一一点が国宝に指定された。境内地も徐々に公園指定���解除、返還され、現在はほぼ二万五〇〇〇坪が興福寺の所有になっているという。こうして、現在の興福寺は成立した。
(「第七 近世から明治維新へ」より「明治維新と興福寺」)
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【かいわいの時】慶長二十年(1615)六月八日:松平忠明、大坂城主となる(新修大阪市史編纂所「今日は何の日」)
慶長19年(1614)、大坂冬の陣では河内口方面の大将として参戦し、後に休戦協定が豊臣方と結ばれると大坂城外堀・内堀の埋め立て奉行を担当した。さらに夏の陣では、第1陣・水野勝成率いる7千人、第2陣・伊勢衆5千人を率いる本多忠政に続き、忠明は第3陣として美濃衆7千人を率い、茶臼山方面に参戦。忠明の家来で高齢の奥平金弥が大和口の先手として一番首を上げ、別の家来が大坂方の勇将・後藤又兵衛を道明寺の戦いで打ち取った。戦後、家康は京都二条城において諸将と共に大坂の陣の論功を行った。詮議の結果、松平忠明が戦功第一に決まり、元和元年(1615)、32歳で家康の命により摂津大坂藩10万石を与えられ、藩主として戦災復興に当たった。
忠明は、大坂城の復興よりも、大坂市街地や農村地帯の復興を優先した。天下の台所としての繁栄に不可欠な堀川の開削をはじめ、寺院や墓地を移転して市街地を拡大。大坂城三の丸を開放して京都伏見の町人を移住させ、合計80余町の伏見町を新たにつくった[最近の学説では、伏見町の完成は元和5年(1619)で、忠明の郡山藩主への転出後とされる]。武家屋敷や御用達商人の住居を東横堀川の東側の上町に当て、一般町家は西側に復興させ今日の船場の基礎を確立し、新たな町割りの実施と水帳(検地帳)を作成、さらに戦時中に中断していた道頓堀の開削を行った(江並一嘉)。 なにわ大坂をつくった100人「48話 松平忠明まつだいらただあきら(1583–1644年)」より。
(写真)大坂天満宮梅花殿中庭の石灯籠。天満宮に移設された川崎東照宮の石灯籠三基のうちの一つで、松平忠明が寄進したと伝わる。(画像は、ashisatsのブログより)
当宮境内に忠明が寄進した川崎東照宮の「石灯籠」が3基伝えられている。そのうち1基には「奉寄進 東照大権現宮 元和三丁巳年四月十七日 従四位下行侍従兼下総守 源朝臣忠明」と川崎東照宮の創建と同日の元和3年の銘を持つ石灯籠が梅花殿南側の中庭あり、残る2基は幣殿脇の西唐門前と東唐門前にある。なお、忠明が「従四位下行侍従」になるのは元和5年に大和郡山へ加増移封された後の寛永22年で、「東照宮」と称されるのは前述のとおり忠明が寛永21年に没した後の正保2年で、灯籠の銘は追刻か、あるいは寄進が東照宮創建よりのちの時代であるが遡って刻したとも考えられる。同宮には他に、川崎東照宮の「神輿土蔵」と「神輿」1基が伝えられている(湯川敏男)。「大阪にあった東照宮の“その後”」(大阪府立大学21世紀科学研究センター大阪検定客員研究員平成29年度研究成果報告書)より。
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太宰府天満宮の御本殿(改修中 2023年5月から)。 狛犬(5体ある。白っぽい珍しいものがあるのに、6年前も同じのを撮影してる)。 太宰府天満宮(2017年6月)6年ぶり。 905年、門弟だった味酒安行が道真の墓所に廟を建てたのが始まり。明治維新までは安楽寺だった。919年、醍醐天皇の命によって最初の御社殿が造営。現在の御社殿は1591年、小早川隆景によって造営。 小早川隆景(1533−1597)。毛利元成の三男。五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家)(亡くなった後、上杉景勝がなる。前田利長)。実施はなく小早川秀秋(関ヶ原で裏切った)を養子にした。 毛利元就危篤時に兄弟結束を促した際(有名な3本の矢の話)に、「争いは欲より起こるもの。欲をやめて義を守るならば、兄弟の不和は起きませぬ」と述べた。 黒田官兵衛:亡くなった時、「これで日本に賢人がいなくなった」。 豊臣秀吉:「日本の西は小早川隆景に任せれば全て安泰である」。 道真の遺言に「私の亡骸は牛の車に乗せ、人に引かせずに、その牛の行くところに止めよ。」との文言があり、遺言のとおり、牛が止まったところに道真を葬り、その上に社殿を建てた。 2023年5月より3年をかけて、御本殿124年ぶりの大改修。 菅原道真が亡くなって1125年、2027年の式年大祭前に完成予定。
25年毎に行う式年大祭。25という数字は菅原道真に縁が深い数字。誕生日(6月25日)、亡くなった日(2月25日)、太宰府に左遷が決まった日(1月25日)。
3年限定の仮殿(2023年6月)。 飛梅(本殿右側)。 飛梅伝説。道真が太宰府に左遷された際に、いなくなる道真を慕う庭木たち。桜は枯れてしまい、松と梅は太宰府へ向けて飛び立ち、松は途中で力尽き(神戸の板宿八幡神社)、梅は太宰府までたどり着いた。
菅原道真の和歌。
百人一首。 東風(こち)吹かば、匂ひおこせよ、梅の花、主なしとて、春を忘るな。 東風が吹いたら(その風にのせて)香りを送ってくれ 梅の花よ 主人がいないからといって春を忘れるなよ(大宰府に左遷されることが決まった道真が庭の梅に別れを告げた歌)。 Dazaifu Shrine. Fukuoka.
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大魯上人
大魯上人
鹿児島の浄土真宗の礎を築いた大魯和尚(だいろ)の墓は旧吹上町の光専寺の敷地内にございます。
大魯は幕末に本願寺で起きた教義上の論争(三業惑乱)で異端者として追放され、京都から肥後、天草を経て薩摩に逃れた。
当時藩では浄土真宗を厳しく禁じていた(※かくれ念仏のぺージ参照)
それでも大魯は煙草講(たばここう)などの名で人々を集め、洞穴に隠れて念仏の教えを説いた。
そして各地を回り30年、多くの人々に慕われながら天保7(1836)年上草田の辻の久保で没した。明治の初め、藩の政策で薩摩半島の技術者が大隅半島に移住したが、その中に大魯の影響を受けた念仏者がいて教えを伝えた。その後、明治22年にこの地に改葬した。やがて念仏禁制が解かれると浄土真宗は県全域に広まった。
鹿児島で浄土真宗がこれだけ広まっている事は大魯和尚の功績が大きいといえる。
大魯上人が本願寺から追放された理由
大魯上人が本願寺から追放された理由である「三業惑乱」というのは、江戸時代に浄土真宗本願寺派(西本願寺)において起きた法論(教えをめぐっての論争)のことです。
この騒動を寺社奉行として裁断したのが、龍野藩の第8代目藩主の脇坂安董(わきざかやすただ)であったというお話です。
『脇坂家譜』の安董についての欄には「同月(文化3年7月)十一日西本願寺宗意惑乱之ヲ裁断ス」と記されています。
善龍寺(龍野市)では龍野で出版された『真宗新義古義裁断実記』という書物も残っています。
この「三業惑乱」事件というのは異安心(いあんじん)論争で、異安心とは真宗の安心(「あんじん」と読みます。救いの境地)と相違した誤った安心を言い、どちらが正意の安心かをめぐっての論争です。救いとは究極は各自の心の問題なので、本来なら安心自体を判断裁定することは無意味でもあるし不当なことと思いますが、安心がその人の思考をともない教相(教え)として外面化し他人に説いた場合、多くの人に影響を及ぼしてしまいますので、看過するというわけにもいかなくなったのです。
安心と教相(教え)とは密接不離な関係にありますので、教えが違えば迷信、邪信を生み出すというような可能性もはらんでいるのです。
ですから厳密には、「安心論争」「異安心論争」というよりは「教義論争」といったほうが妥当だと思われます。
そして教義は真宗の場合は溯れば開祖である親鸞聖人にあり(その本源は阿弥陀如来の「本願」にありますが)、その著述に基づいて、教義論争が行われます。
この事件が発生したのが寛政9年(1797)で一件落着したのが文化3年(1806)で、実に10年の歳月を要しています。安董が寺社奉行として幕政に参与していた期間が寛政3年(1791)から文化10年(1813)までの22年間ですから、安董はこの「三業惑乱」事件の発生から落着まで寺社奉行として見届けていたことになります。
そして最期に落着させました。本願寺派の教義は安董によって守られたという歴史的側面も多分にあると思います。面白いことに、脇坂家の始祖の甚内安治(じんないやすはる)は、天正6年に豊臣秀吉の命を受けて石山合戦(織田信長対本願寺の戦争)で本願寺側であった三木城を攻めたとき、抜群の手柄を立てたそうで、いわば本願寺の敵であったのですが、その本願寺の窮地を子孫の安董が救ったということになるのですから、脇坂家と本願寺とは順逆の違いはあれ縁深いと言えます。
安董は「三業惑乱」事件の裁断によって、その手腕が高く評価されたこともあり、天保8年(1837)には老中に就任しました。
この事件の発端は、寛政10年(1798)に行なわれた蓮如上人(真宗の中興上人、本願寺第8代法主)の300回法要のあと、その前年の寛政9年(1797)に学林(僧侶の修学道場)の第7代能化(「のうけ」と読みます。
宗派の教義を研鑚し人を教化する学寮の責任者)に就任した智洞が門主の文如上人に代わって『無量寿経』の講説を行ない、この中で「三業帰命」の説を唱えたことにあります。
この説は溯れば第2代能化の知空(ちくう)、及びその弟子の峻諦(しゅんたい)などより発し、第6代の能化となった功存(こうぞん)が『願生帰命弁』という著書を著わして「三業帰命」の説がますます鮮明に示され、その後を継いで能化となった智洞に至った頃には、本願寺派の真宗安心の規準とまでなっていました。
「三業帰命」とは「三業安心」ともいわれ、「帰命(きみょう)」の曲解より起こった異安心です。
すなわち、「三業帰命」とは、「阿弥陀様助けてください」と意業(心で)、口業(口で)、身業(体で)の三業で阿弥陀仏に救済を求めることで、三業に帰命の相がともなっていなければならないという説です。
「これだけ阿弥陀様のことを思っているから救われる」「念仏を称えていれば助かる」「これだけ仏壇の前で拝んでいるから救ってくださる」といった自己の三業(行ない)を阿弥陀仏にさしむけることで救いの助けにしようとしたり、三業で帰命していることを救いの証拠にしようというのですから、とどのつまり、その計らい心、自惚れ心(自力)は阿弥陀仏の救済を絶対的に信知していないことから生じるのであって、三業による「たすけたまえ」という「帰命」はその表われの何物でもありません。阿弥陀仏の本願に不足があるから、その不足分を三業で補おうとする心が働くのです。
これは結局は阿弥陀仏の本願を疑っている姿です。機の深信に徹していないから救われるための手段が自分にあると自惚れ、法の深信に徹していないから本願力に不足を思うのです。
どうして功存が『願生帰命弁』という著書を著わして、「三業帰命」説を強調したかというと、当時、北陸を中心に「十劫安心」という異安心が広まっていました。また京都では「土蔵秘事」という異安心が広がっていました。
功存は特に「十劫安心」を正すために『願生帰命弁』を著述したと思われます。 「十劫安心」という異安心は、「十劫秘事」とも「十劫正覚の秘事」「十劫領解」とも呼ばれ、十劫の昔に阿弥陀仏が成仏されたときに、すでに衆生の救済も成就されているのだから、それを忘れないのが信心であるという邪義です。「十劫安心」は必然「無帰命安心」であり、仏に帰命せずともよい、帰命の安心を不要とします。そこで、功存は帰命の安心の欠けた「十劫安心」を正すために、著書の中で「たのむ一念」の帰命を力説したのです。本願寺派で真宗の教化に絶大な能化の取り締まりにより、「十劫安心」は一応の収まりをみせましたが、その教化が未徹底なままで功存は病死してしまいました。
また、功存が能化だった頃には、「本尊論」についての法論も起こりました。
播州の智暹(ちせん)が『真宗本尊義』を著述して学林を問い質した法論でした。 明和4年(1767)5月のことです。本山は両者を戒告して事件を解決しようとしました。
同年の6月には学林は裁決を不服として本山に乱入したりしました。
また功存の『願生帰命弁』に記された「三業帰命」説に対しては多くの批判が上がっていました。
安永4年(1784)7月、大麟(だいりん)が『真宗安心正偽編』などを著述して功存の『願生帰命弁』を批判、安永7年(1787)4月、宝厳(ほうげん)が『興復記』を著してこれまた功存の説の批判を展開しました。
功存が『願生帰命弁』を刊行してからというもの本願寺派内は法論が頻発に起きていました。
功存が能化の時代に「三業惑乱」という爆弾の導火線にすでに火がついていたのです。
功存は「阿弥陀仏をたのむ」こと「帰命」することに力を入れて説いたために教化が「三業帰命」に傾きましたが、それをより徹底して教化すべく、智洞は「三業帰命」説を前面に出して説きました。そして全国の僧侶・門信徒が集まる法要のときにも、智洞が公然と「三業帰命」説を唱えたものですから、この説に不審を抱いた安芸の大瀛(だいえい)、河内の道隠(どうおん)などの在野の学僧(古義派、正義派)が、智洞を代表とする学林(新義派、三業安心派)と対立し、ついに寛政・享和・文化にまたがる10年間にわたって、西本願寺教団内部をはじめ、24カ国に及ぶ未曾有の大紛争となってしまいました。
大瀛は智洞の説の誤りを明らかにするために『横超直道金剛ベイ』を執筆しました。教義の解釈上の対立、相違問題は政治的な紛争へと発展し、混乱と暴動事件を引き起こし、ついには幕府の裁断を受けなければならなくなり、そこで寺社奉行であった安董の出番ということに相成ったわけです。
「三業安心」説の是非をめぐっての争論が各地でまきおこり、ことが「後生の一大事」、救いに関わる問題ですから、門信徒は動揺し、その是非を手次寺に糺すものの埒があかず、嘆願書で本願寺派本山に問い合わせても、本山はこれをとりあげようとしません。
享和元年(1801)になると、門信徒の中には示威行動に出る者も現れて、京都の町々は動揺する門信徒であふれ、奉行所から内々で注意を受けることになります。
大瀛は享和元年(1801)5月に『横超直道金剛ベイ』を刊行しましたが、翌月には販売禁止にされてしまいました。本山は混乱するだけで事態を収拾することができず、翌年の1月になって美濃国大垣領の門信徒の百姓たちが一揆のいでたちで、本山に詰め掛けようと河原に集結しました。このことを知った領主の戸田采女正は当時の老中で、百姓たちの動揺を静めるために本山に対して、宗旨を整えて門信徒の不安を一掃するようにと要請しました。それにも関わらず本山は何ら手段を講じないまま7月に入り、大垣領の門信徒は再び集結しましたが、代官に鎮圧されました。
事態を重く見た戸田采女正は事件を幕府に届け、もはや一宗門内の紛争ですまなくなりました。
7月の終わりには、江戸築地の輪番(江戸在住の本山の役僧)が寺社奉行脇坂淡路守役宅へ呼び出され、留守居役星野鉄三郎から事情聴取されています。
幕府は従来、寺社に対し、教義や宗門の紛争などは余程のことがない限り、黙認する方針でした。しかし、ことが「一向一揆」に似た社会的に不穏な行動であったため介入せざるを得なくなってしまいました。
この事件を担当した寺社奉行師匠番脇坂安董は享和2年(1802)11月、本願寺派本山に対し幕府の厳しい警告書を突き付けたため、本山役人は事態を収拾しようとして三業安心派の学林と対立するようになりました。翌年の享和3年(1803)1月、三業安心派の僧侶・門信徒は巻き返しのために本山に押し寄せ、安心(往生)の権限を学林へ一任せよと強要し、ついに槍を持って門主の室近くへ侵入するなどの狼藉を極める暴挙に出て、宗門はますます混乱してしまいました。
これに対して諸国の古義派の門信徒、特に安芸門徒の学僧たちは大瀛を中心にして、智洞の誤りを全国に訴え、何度も公開討論を申し込んだり、門主の権限を回復するように本山にせまりましたが、本山はこれを黙殺しました。享和3年(1803)2月には、能化智洞の退職を求めました。
大瀛とそれを支持する石見の履善(りぜん)、京都の春貞(しゅんてい)、河内の道隠などは上洛して本山に論戦を挑んだために京都は騒然となりました。
4月になると学林は本山の休講措置を無視して安居講会を開こうとして古義新義の2派が対立したため、本山はこの処置に窮して京の町奉行所へ訴えてしまいました。
町奉行所はこの時とばかりに両派の取り調べを開始し、5月には智洞、大瀛をはじめとする、この騒動に関わった中心人物たち40人余りの入牢を命じました。
翌年の文化元年(1804)1月に幕府は取り調べのため智洞・道隠・大瀛らを江戸に連行しました。
智洞はこのときすでに罪人として鶤鶏籠(とうまるかご)で江戸へ護送されています。
そして2月2日より寺社奉行役宅にて取り調べを受けました。
5月には正義派の中心的存在であった大瀛がこの事件の結末を見ることなく獄死しました。
智洞もまた獄中にあって死に、その他の者も遠島に処せられた。
学林の僧はこの事件が宗門の教義のことだからと安心していましたが、安董は寺社奉行の中でも、また歴代の奉行の中でも仏教に通じていて、しかも、安董の陰には真宗大谷派の宗学を大成した大谷派講師の香月院深励(こうがついんじんれい)師が控えておりましたから、突っ込んだ取り調べを行ないました。
文化3年(1806)7月11日、安董は「三業帰命」は不正義とする判決を下して、本願寺派本山に対して、宗門不取締の責を問い100日間閉門という寛大な処分を行ないました。そして、8月21日登城し、老中の松平伊豆守より、���度の宗論裁断について、勲労の論旨を賜わるとともに御調役の星野鉄三郎に銀10枚、西田金次郎・清水兵蔵両名に銀7枚を賜わりました。
閉門が解除された11月、門主の本如上人は、『御裁断御書』を発表して宗門内としても事件は一件落着しました。
「三業惑乱」事件が契機となり、能化職制度は廃止され、本願寺派の宗学は、学轍分裂に至り、行信論に三業を論じることを嫌うあまりに、極端な離三業の所行説が発展しました。
その代表的学轍が空華轍で、現在の本願寺派宗学の筆頭勢力となっています。
ちなみに智洞一派の徒は、三業惑乱後もまだ智洞の遺響を守っていたことから、如何に智洞の異説が教界内に一大勢力を持っていたかが窺われます。
また、三業惑乱後も三業だのみ説を強く誡めている説法がしばしば見られたことからも、如何に三業惑乱が本派にとって一大苦難であったかが知られます。
本派の三業惑乱は隣山の大派にも影響を及ぼし、大派でも三業帰命説、及びそこから派生する異説、諸問題について研究されることとなりました。
「三業惑乱」以降、本願寺派に属する僧侶たちは三業を論じない傾向になりましたが、「無帰命安心」に堕してもいけなくなり、困惑が続いていたようです。
「三業惑乱」後に、本山は全国の本願寺派僧侶から各自の信仰の申告書を集めたそうです。
そこには、蓮如上人の言葉を書写して自分の信仰を表わす人が多かったということです。「信心」に関しての無難な回答をすることで自己の信仰が糾弾されることを免れたのでしょう。
ちなみに脇坂安董は、この「三業惑乱」事件の他にも、延命院事件といって延命院住持日道の不行跡を糾弾しました。ことは大奥にも関係する難事件でありましたが、断固として日道を斬罪に処して寺僧をふるえあがらせたという。
三業惑乱終結後、龍野に帰った安董に、八十歳の母が「三業惑乱はなんと治まった」と尋ねた。それに答えて安董は、「何もほかのことではなかった。阿弥陀様は真実の親であった」と答えた。
母は、「噫(ああ)そうであったかそうであったか。親子の仲なら、かれこれ云うことはいらなんだのう」と喜んだという。
浄土真宗光専寺
仏事・法事等で不明点あればご連絡下さい。
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高野山奥の院/和歌山県高野町【世界遺産】金剛峯寺から徒歩で御廟まで往復して参拝
奥の院とは 高野山奥の院は、和歌山県伊都郡高野町高野山(わかやまけんいとぐんこうやちょうこうやさん)にある高野山真言宗の総本山だ。 壇上伽藍と並び高野山の信仰の中心で、弘法大師が入定(にゅうじょう)している聖地になっている。 高野山の信仰の中心であり、弘法大師さまが御入定されている聖地です。正式には一の橋から参拝します。一の橋から御廟まで約2キロメートルの道のりには、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。 名所一覧 | 高野山真言宗 総本山金剛峯寺 から引用 (more…)

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当麻曼荼(陀)羅(たいま まんだら)とは、奈良の當麻寺に伝わる中将姫伝説のある蓮糸曼荼羅と言われる根本曼荼羅(當麻寺 #当麻曼荼羅 と中将姫説話を参照 )の図像に基づいて作られた浄土曼荼羅の総称である。


本堂 曼陀羅寺 旧の円福寺
塔頭 (墓所) は以外の8院
1️⃣ 本誓院 - 蜂須賀家政が幼少時に勉学した寺
家政の位牌と勉学に使用した机を所蔵している
2️⃣世尊院
3️⃣修造院
4️⃣光明院
5️⃣常照院
6️⃣寛立院
7️⃣慈光院
8️⃣霊鷲院
行事
菊まつり - 2006年(平成18年)からすいとぴあ江南に場所を移した。
2004年(平成16年)には愛知万博のマスコットのモリゾーとキッコロをかたどったものも出た。
#墓所#影彫観経曼陀羅#双龍園#霊鷲院#飛保の曼陀羅寺#曼荼羅#マンダラ#藤の名所#日輪山#後醍醐天皇#天真乗運#後奈良天皇#円福寺#豊臣秀吉#蜂須賀家政#浄土宗西山曼陀羅寺派#塔頭#弥陀桜#ヒガンザクラ#当麻曼荼羅#本誓院#嫁見餅#躑躅#お地蔵様#まんだら餅#よもぎ餅
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和三年(2021)9月4日(土曜日)
通巻第7038号 <前日発行>
管首相、突然の辞任は予想されていた
横浜市長選敗北で孤立感、二階とともに政権を去るもよし
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高市皇子は壬申の乱で天武天皇の勝利を導いた立役者である。
大海人皇子(後の天武天皇)の長男で、大和国高市郡にて育った。日本史を揺るがせた壬申の乱が勃発したとき、高市皇子は近江大津京にいたが、すぐに行動を起こし、伊賀で父親の軍と合流した。
天武天皇の陣には尾張氏ら有力な豪族が味方し不破関を占拠、各地に増員命令を出した。
天武天皇は現在の四日市市郊外の高台に陣を敷いた。高市皇子は合流する豪族の軍隊を掌握し、大海に攻め込む手筈を整える。
劣勢を知った大友皇子(弘文天皇)は自ら果てた。極めて短時日裡に壬申の乱は天武天皇の勝利となった。西国の豪族が近江に合流しなかったのは防人任務の疲れと財政逼迫と言われたが、隠れた要素は大友皇子の出自(采女と天智天皇の間に生まれた)と言われる。
天武天皇薨去後、皇后の持統が称制を経て即位した。序列で高市皇子は草壁皇子、大津皇子に次ぐ皇位継承権第三位だった。だが、直後に大津皇子が誣いられ、続いて草壁皇太子が薨御、天武天皇皇后だった?野讚良皇女が政権を掌握した経過がある。
高市皇子は太政大臣にとなる。文字通り、持統天皇を支え、高市皇子の長男が後に大和朝廷の実権を握る長屋王である。
壬申の乱の前段は「乙巳の変」だった。蘇我入鹿暗殺は、大化の改新へ繋がる嚆矢となる。
大化の改新は西暦645年(この年から元号を制定し、大化元年となる)だった。。
たしかに中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)による蘇我入鹿の暗殺というクーデターが切っ掛けである。蘇我稲目いらい、馬子があろう事か渡来人を唆して、安康天皇を暗殺し、入鹿は権勢を恣にしていた。父親の蘇我蝦夷も翌日、自殺に追い込まれた。
従って「乙巳の変」��は暗殺事件による蘇我氏滅亡を指す狭義である。広義には公地公民などの政治改革は継続され、大化の改新とは税制を改め、半世紀後の大宝律令へといたる天皇親政システムの確立にあり、難波への遷都も行われた。蘇我馬子は聖徳太子の保護者にして実力者だった。蘇我氏に正面から楯突く有力者は不在だったが、舒明天皇擁立をめぐって滅ぼされることとなる。
革新的な思想の背景に、留学帰りのイデオローグが存在した。南淵請康は渡来系の学僧だが、飛鳥に住んだ。覚えが速く、学識豊かで、早くから外国語に通じていた。第一回遣隋使で留学僧に選ばれて隋へ渡った。シナは隋が滅び、唐王朝に交替していたが南淵は留学を続け、32年後に飛鳥へ戻った。彼の帰国は640年のこととされる。
そして飛鳥の知識人、政治家、有力者に歴史、孔孟、四書五経など学問を教えた。南淵塾には中大兄皇子と中臣鎌足が通っていた。鎌足は蹴鞠の場で中大兄皇子との接触に成功し昵懇となっていた。
ふたりの密談の場所といわれる桜井の談山神社は、宏大な敷地を誇る。その境内の何処かに南淵塾があった。南淵請康の墓は蘇我馬子の墓と言われる石舞台をさらに南下した明日香村にあり、小さな鳥居、大きな石碑、中規模の墓は苔むしている。
さて、なぜ高市皇子のことを書いたか、もうお分かりだろう?
高市早苗議員は奈良県畝傍高校出身、松下政経塾OB。むろん、高市皇子との血縁はない。
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魏の建国者でありながら(あるがゆえに?)「古代から現代まで、滅亡しない国家は存在しなかったし、また発掘されない墳墓は存在しなかった」と悲観的に、あるいは現実的に語る曹丕は、自身の墓を自然の山に埋もれさせ、王朝滅亡の後には「その場所をわからなくさせ」たかった。また墓を死後の住処とする考えを否定し、薄葬を徹底して盗掘による破壊を防ぐことが、むしろ魂を守る手段となると考える。同時に、建造を担う民の負担も軽減できる。壮大な陵墓で帝王の権勢を誇示し、立派な副葬品を入れて死後の世界でも豊かな暮らしを営むといった、古代の一般的(?)価値観からは離れた、独特の感性の産物のようにも思われる。いずれにせよ、やはり薄葬を旨とした曹操の陵墓では行われた、妃の合葬や親族の陪葬すらも禁じた曹丕が、臣下の陪葬を望むことは確かに考え難い。 だが、司馬懿の墓所の決定はおそらく曹芳時代のことであり、必ずしも曹丕の主義に沿ったものとは限らない。次世代の曹叡が既に、曹丕の徹底した薄葬主義にはやや否定的に見える。曹丕の意向にかかわらず、後から陪葬墓が作られることはあり得るのではないか。 いつかはその存在すらわからなくしようとする墓で、孤独な眠りを望むかのように他者を近づけず、この詔勅に違反することは自分へのはずかしめであり不忠不孝である、とまで���言した曹丕の魂に、ある意味「勝手に」陪葬墓として付近に建造されたのかもしれない司馬懿の墓は、どう映ったことだろう。司馬懿自身が望んだものと仮定して、果たしてそれは忠なのか、反逆なのか。あるいは不忠な愛という矛盾かもしれない。 冒頭に引用した遺言でわかるように、司馬懿も同様に自分の墓を目立たせないことや、副葬品、合葬の禁止などを徹底させた。「陪葬」を望んだとしても、それは権勢を後世に誇示する目的ではなかっただろう。近年、曹操の墓である高陵が発掘され話題となったが、現在、曹丕と司馬懿の墓はともに(曹丕の望みどおり、山と同化して所在不明となり)発見されていない。
司馬懿と曹丕、首陽山の二つの陵墓 | W/L
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📸素玄寺庭園 [ 岐阜県高山市 ] Sogenji Temple Garden, Takayama, Gifu の写真・記事を更新しました。 ーー #金森可重 が建立した戦国武将 #金森長近 の菩提寺に残る“宗和好みの庭”。高山市指定名勝。高山城🏯から移築された本堂も。 ...... 「高隆山 素玄寺」は初代飛騨高山城主をつとめた戦国武将・金森長近の菩提寺として、その子で二代目藩主の金森可重により創建された寺院。本堂が高山市指定文化財、庭園が高山市指定名勝。飛騨三十三観音霊場4番札所。 . 6月に約7年ぶりに訪れた飛騨高山。町並み🏘の知名度と比べると有名な“庭園”は無い飛騨高山ですが、市指定史跡・市指定名勝の庭園が3つあります。こちらがその3つ目! . 高山に古い町並みの東部、東山⛰の麓はお寺が立ち並ぶ��リア。先に紹介した『宗猷寺庭園』から山裾の道を歩いていくと素玄寺に辿り着きます。 先にお電話でご住職がいらっしゃる時は庭園も拝観可能とお聞きした上で伺いました。 . 1608年(慶長13年)京都伏見で没した金森長近。墓所は京都・大徳寺の『龍源院』にありますが、領地である高山にも菩提寺が建立されました。 当初の本堂が火災🔥で焼失すると、1635年(寛永12年)に高山城二の丸から評議場として用いられていた建物が移築。創建よりも古い安土桃山時代の建造物が現代まで残ります。 . 伽藍の裏側に書院座敷から眺められる庭園があります。東山の斜面を活かした池泉回遊式庭園で、細長い池泉や滝石組といったところに『宗猷寺』との類似性が見られる“金森宗和好みの庭”。 . もっとも“今年は(行事も少なく)見られる機会が少ないから、あまり手が行き届いてなくて…”とのことで。写真の印象よりも実際はもう少し飛び石もしっかりとある感じ。 秋には頭上の多くの紅葉🍁が美しそうなので、また今後季節を変えて再訪したい。 . その他、金森家から寄進された金森長近の鶴毛陣羽織・軍扇・采配や金森長近肖像画などの寺宝も市指定文化財(※それらの寺宝は今回は見ていません)。中でも鶴毛陣羽織は豊臣秀吉から金森長近に贈られたものとも。 . 今回紹介した庭園以外にも“宗和好みの庭”と言い伝えられる庭園が飛騨高山では親しまれている。“金森宗和好みの庭園”、盛り上がるといいなあ。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/sogenji-temple-%e7%b4%a0%e7%8e%84%e5%af%ba/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #japanesearchitecture #japanarchitecture #japantemple #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #飛騨高山 #岐阜庭園 #文化財庭園 #寺社仏閣 #宗和好み #おにわさん #oniwasan (素玄寺) https://www.instagram.com/p/CTSDTagPbFS/?utm_medium=tumblr
#金森可重#金森長近#japanesegarden#japanesegardens#jardinjaponais#japanischergarten#jardinjapones#jardimjapones#японскийсад#japanesearchitecture#japanarchitecture#japantemple#日本庭園#庭園#庭院#庭园#飛騨高山#岐阜庭園#文化財庭園#寺社仏閣#宗和好み#おにわさん#oniwasan
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映画『モヒカン故郷に帰る』 〜死にゆく人と向き合うとき〜
2016年 日本 監督:沖田修一 脚本:沖田修一 撮影:芦澤明子 美術:安宅紀史 編集:佐藤崇 出演:松田龍平、柄本明、前田敦子、もたいまさこ、千葉雄大
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好きな映画は無数にありますが、その中でも僕にとってこれまでの人生で出会えて本当に良かったと思う大切な映画がいくつかあります。その一つが『横道世之介』(2013)。特に強くメッセージ性を押し出してくる感じは無い、ただ上京したての大学1年生の1年間を描いている映画なんですが、人との出会いとか、人生のちょっとしたことがかけがえのない瞬間だったりするんだなと思わせてくれる映画で、何だか昔の友だちと会いたくなる映画です。
映画『横道世之介』予告編
この映画を観て以来、監督である沖田修一さんの作品に興味を持っていて、今回沖田監督が広島で撮影した映画である『モヒカン故郷に帰る』を観たのですが、これも大変良い作品だったのでレビューを書きたいと思います。
あらすじ
デスメタルバンド「断末魔」のボーカル、田村永吉(松田龍平)は、妊娠した恋人の会沢由佳(前田敦子)を連れて、結婚報告のために故郷広島の戸鼻島にある実家へ帰省する。矢沢永吉ファンの父・治(柄本明)、カープファンの母・春子(もたいまさこ)、弟・浩二(千葉雄大)は、長男が7年ぶりに帰ってきたことに驚き、さらには家族喧嘩が勃発するも、最終的には結婚を祝福する。結婚祝いの宴会後、突然倒れた治は救急搬送され、末期肺癌であることを知らされる。死にゆく父親の世話をするため、永吉と由佳はしばらく島で暮らすことを決める・・・。
リアルな広島の島暮らしを観ているかのようだ!
この映画はオール広島ロケで撮影されていて、主に広島県呉市の下蒲刈島、上蒲刈島、豊島、大崎下島がロケ地となっている上、エキストラも現地の住民を多用しています。そのおかげで非常にリアルな瀬戸内の田舎の雰囲気を作り上げることに成功していると思います。僕はこのような島の患者さんを多数診療することがありますし、このような島々を訪れたことは何度もあり、いつも見かける光景、いつも見かけるような人々の営みが垣間見える映画で、映画と現実がリンクしたような妙な気分になりました。役者の広島弁も概ねナチュラルで、時々若干のぎこちなさは感じましたが、ほぼ違和感なかったです。「はよ出んさいや!」、「安川のほうじゃった」、「なんかあるじゃろ!」、こういう台詞は完全に我々の日常で飛び交っている言い方そのまんまでしたし、若い人と高齢の人で広島弁の訛り具合を変えているところもリアル。
ロケ地ガイド
余談ですが、ロケ地になった病院は下蒲刈病院というところで、僕はここに行ったことがあります。目の前が船着き場で隣が中学校という独特な立地が面白い場所です。柄本明演じるお父さんが、入院中に病院の屋上から吹奏楽部の指導をするというシーンがありましたが、この立地ならではの演出ですね。また冒頭で主人公が属するデスメタルバンド(というよりハードコアバンド?)がライブをするシーンのロケ地はBad Landsというライブハウスだと思いますが、僕は大学生時代にバンドをやっていて、ここで何度かライブをしたことがあり、懐かしかったです。
引用元
柄本明の演技がすごい!
役者陣については、それ��れ個性的な役を、良い感じに演じていてとても良かったと思います。松田龍平のイケメンだけどさりげないダメ男感とか、前田敦子のバカっぽいけど素直で良い女の子キャラとか、とても魅力出来でした。しかし何と言っても柄本明がすごい!進行癌の患者を演じているのですが、リアル過ぎてびっくりしました。現実にこういう癌の患者さんいます!歩き方とか、ベッドに横たわっている時の様子は、本当に患者さんかと思うレベルでしたし、時間が立つにつれて病気が進行して衰弱していく様子も、全然わざとらしくないのに、ひと目で前より悪くなったと分からせる佇まいが見事。
びっくりしたのは呼吸の演技です。診断時のCTを見るかぎり、肺癌だけでなく基礎疾患として比較的進行したCOPDを患っていることが分かるのですが、墓参りに行くときに階段を登るシーンの呼吸の仕方が完全にCOPD患者の演技をしている!ちゃんと息を吐く時間が長くて、少しヒューヒューゼーゼーした音がして、COPD患者の息切れ演技としてバッチリなんですよ。これにはびっくりしました。おそらくこのような細かい人物描写もちゃんとこだわって演技しているのだと思われます。こんなにちゃんとCOPD演技をしている映画は珍しいです。柄本明、恐るべしですね。
ちなみに僕は長く広島県に住んでいますが、矢沢永吉が広島出身だということは有名であっても、柄本明演じる父・治のような矢沢永吉原理主義者は今まで見たことはありません。一方で、もたいまさこ演じる母・春子のようなハードコアなカープファンはちょくちょく見かけます。やたらとグッズや記念品を飾ってたり、サインをたくさん持ってる、あんなノリのおじさんおばさんは珍しくありません。
※COPDとは:chronic obstructive pulmonary diseaseの略で、日本語では慢性閉塞性肺疾患といいます。たばこの煙などの有害物質が原因で気管支が炎症を起こして内腔が狭くなったり、肺が破壊されたりして、呼吸がしんどくなる病気です。
引用元
沖田修一印の会話劇と演出
以前、映画『キツツキと雨』について書いたときにも少し触れましたが、沖田監督の持ち味は、オフビートな笑いや少し間の抜けたコミカルな掛け合いによる会話劇で、その中で少しずつ移りゆく人間関係や心情変化を、説明的な台詞は多様せず、表情やちょっとした行動、または小道具や音楽など台詞以外の周辺情報でじんわりと伝えることのように思います。本作もそのような監督の持ち味が生きた映画でした。音楽室での吹奏楽部の演奏シーン、ラッパ少年を車で送るシーン、浜辺でおにぎりを食べるシーンなどは、ちょっとコミカルだけど別に感情を吐露する台詞もないのに、グッと胸に来るものがありました。ただ最終的に亡くなる治の、死に際の一連の件は若干コミカルにし過ぎな気がしないでもないですが・・・。
一番印象的だったのは広島カープ・菊池選手の使われ方です。カープファンの母・春子はどうやら菊池選手推しの様ですが、劇中前半、ラジオから聞こえるカープ中継では菊池選手が得点のチャンスを逃してしまうシーンばかり流れています。それは夫の治が進行癌だと分かって入院した時に聴いていたラジオでもそうでした。しかし中盤のある展開で流れているカープ中継では、菊池のホームランでサヨナラ勝ちするのです。そして母・春子は大喜びで大げさにも涙を流す。このシーンは、一家の一つのポジティブな転換点を、野球中継を通してさり気なく演出していて上手いと思いましたし、春子の涙と永吉の笑顔を見て僕もホロリしてしまいました。
死にゆく人と向き合うことの大切さ
本作は、死が避けられない父親を目の当たりにした主人公が、父親が幸せに過ごしてもらえるよう奮闘し、死が近い父親との生活の中で父親の本当の姿や気持ちを知り、そして自分も父親になるのだという新たな人生の転機を受け入れていく物語です。僕は仕事柄、たくさんの進行癌患者さんたちを診療してきましたし、それによって亡くなる人たちを看取ってきました。この一家のように、終末期の患者さんができるだけ自宅で過ごせるよう奮闘した家族もたくさん知っています。死を迎えることはとても悲しいことではあるのですが、この映画のように死を迎えつつある家族���一員と真剣に、そして前向きに向き合ってきたご家族は、いよいよ死を迎えるとき、悲しい気持ちは当然あるけれど、穏やかで温かい最後を迎えられることが多い気はしています。すべてがそうとは言いませんし、いろんな死の迎え方がありますから、これが正しいと言うつもりは無いのですが、どういう状況であれ、辛いけれど死にゆく人と真剣に向き合うことは重要で、それをアシストするのも医療のしごとなのかなと、この映画を見て改めて思ったりしました。
また例えどんなに元気でも、みんな衰え、いずれは死を迎えます。突然死が訪れることだってあります。この映画で描かれたように、親はいつまでも元気というわけではありません。最近、自分の親も衰えたなと実感することが増えました。多分、いずれ自分もこの映��の主人公のような立場に立たされることがあると思います。その時自分はどうするだろうか。親は自分に何をしてほしいと思うのだろうか。そんな事を考える切っ掛けになる映画でした。そして、たまには実家に帰ろう。
最後に
この映画では主人公永吉が死にゆく父親の看病をしながら、親はどういう思いで自分にこの名前をつけたのか、親は成長した自分に対してどういう思いをしていたのかなどを思い知らされ、自身もまた親になったことで思いを新たにすることになります。
最近、僕も妻の間にも子供を授かり、現在絶賛育児中です。親になったことで、少しずつ自分の親がどういう思いで自分を育てたのかということを理解したり想像できるようになってきました。この映画のラストはそんな自分にも重なるような、開かれた終わり方になっていて、このタイミングでこの映画を観たことは本当に良かったです。
細野晴臣が手掛けた主題歌「MOHICAN」も素敵なのでぜひ聴いてみてください。沖田監督の新作『おらおらでひとりいぐも』も楽しみです!
MOHICAN - 細野晴臣
映画『おらおらでひとりいぐも』予告編
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【富山県謡曲古跡めぐり呉西編】2日目2箇所目 2021/3/23・4/4
能「木曾」
埴生護国八幡宮 《富山県小矢部市埴生》 木曽(源)義仲が埴は生にゅう八幡の加護によって越中砺波山に陣取った平維盛が率いる平家の大軍を、世に名高い火牛の計をもって打ち破り大勝。その経緯を題材にした能「木曽」から一部〝願書〟だけを取り出したもの。底本は平家物語巻第六条第63句〝木曽の願書〟で、義仲が陣中で祐筆の智将・大夫坊覚明に命じて書き上げ、埴生八幡の神前に献じて読み上げた願書。流儀では安宅の〝勧進帳〟、正尊の〝起請文〟と共に〝三読物〟として重く扱われる。原本は今も什じゅう宝ほうとして埴生八幡宮に保管されている。|地図番号⑳|22熊くま坂さか(能シテ佐野玄宜〈蔦玄会主宰〉)ゆかりの地・○石加賀市加賀I・C近く○福あわら市金津I・C近く熊坂長範は、石川五右衛門と並んで歴史上の代表的な盗賊とされるが、伝説的な人物で能では本曲と「烏帽子折」に登場し、「熊坂」は美濃国の赤坂・青墓・垂水辺りを根城とした大盗賊の最後を描いた尾キリ能。悪党とも義賊とも評価は区々、原典は「義経記」など。この長範の出自は勿論定かではないが、曲中に〝加賀の国には熊坂の長範究く竟きょうの痴しれ者もの〟とあり、加賀と越前の国境に牛ノ谷峠を挟んで熊坂という集落があって、この地を出身地とする説が伝承され、今も亡霊が出没すると伝わるが、古蹟らしきものは何もない。地獄谷硫黄の噴煙で荒涼とした谷(S42.8)埴生護国八幡宮と駒札(H14.6.28撮影)加賀熊坂 加賀I・C近く(H26.10.10撮影)越前熊坂 金津I・C近く(H26.10.10撮影)
国道八号線で石川富山の県境の倶利伽羅トンネルを抜けると小矢部市石動に入ります。すぐ陸橋を渡って小矢部インターへ出る道を行くと、五分で「埴生」という村にでます。高速小矢部インターからだと、インターを出て左へ曲がり小矢部市の方へ一直線。突き当たりが埴生の村です。 この村の真中に八幡宮があり「護国八幡宮」とも言われています。戦勝を祈って神に願書を捧げる、謡曲「木曾」の舞台となっているのがここです。
木曾義仲戦勝祈願の図 きそよしなか せんしょうきがんのず 宮縁起によれば奈良時代養老年間に宇佐八幡宮の御分霊を勧請【かんじょう】(お迎え)したのに始まり、天平時代に越中の国守大伴家持が祈願したと伝えられる。天平時代の末、寿永二年(1183)五月木曾義仲は埴生に陣をとり、倶利伽羅山に二倍の軍勢をしく平維盛【たいらのこれもり】の大軍と決戦するにあたって当社に戦勝を祈願し、八幡神の霊験を得て大勝利を果たした。このことは、平家物語、源平盛衰記、謡曲木曽など多くの古典文学の中に語られている。
佐々成政や、武田信玄、豊臣秀吉など戦国武将の信仰も篤く加賀藩前田家によって建てられた社殿は 大正13年に国宝となり、現在は国の重要文化財に指定されています。
戦いの中で、絆を深め、永遠の愛を誓った義仲と巴御前の絵馬に願いを込めれば 「恋愛成就」「勝負運」もアップしそう。
寿永二年五月、利伽羅峠で平惟盛との合戦前に、木曾義仲はこの神社に願書をあげ戦勝を祈願しました。以来武将の崇敬厚く今の社殿は前田氏の寄進で重要文化財です。宝物殿があり願書などが見せてもらえます。後ろの山が源平の古戦場で、ドライブウエイが通じています。巴塚・葵塚などあり惟盛本陣跡の猿ガ馬場に「義仲の 寝覚の山や 月かなし」の芭蕉の句碑があります。八重桜の名所です。宝生流では残念ながら能は廃曲になり謡曲「願書」だけが三読物として残っています。
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(ウクライナの昔話 訳:山室静)
やさしい子供たち
神様が人間に対してお怒りになったため、三年のあいだ世界が大飢饉になりました。 世界のどこでも一粒も穀物ができず、せっかく蒔いた種も日でりのために芽を出しません。 三年間というもの、ひと粒の雨も降らず、露もおかなかったからです。 一年は、古い麦をこなして、どうにか食いつなぎました。 穀物の値段がひどくあがったため、金持はお金をもうけました。 秋になると、種をまだ持っているか、買うことができた者は、それを蒔いて、熱心に神様に祈りました—— どうぞ私たちの罪を許して、豊作をお恵み下さいと。 しかし、無駄でした。 神様の慈悲はえられなかったのです。 彼らの持っていた最後の種を蒔いたのに、多少は芽を出したのがあっても、そのまま枯れてしまいました。 ま��、なんという悲しみでしたろう! 人々は泣いて悲しみましたが、飢死の時が日に日に近づいてくるだけでした。 その冬は、それでもどうやら過しました。 春になると、まだ種を持っていた者は、それを蒔きました。 しかし、やはり祝福はえられなかったのです。 冬に雪が少なかったため、どこもかしこも乾ききってしまい、草一本生えません。 世界じゅうが死の姿になり、人々も家畜も、次々と死んでいきました。 ちょうどその頃、ある国に強大な若い皇帝がいましたが、若者が若者を愛するように、この皇帝もただ若い者だけを愛して、内閣にも役所にも軍隊にも、ただ若者だけを用いて、老人は一人も用いなかったのです。 ところが、若者の知識は未熟ですから、この国では大臣も未熟で、その意見も未熟でした。 さて、一年がすぎ、二年がすぎ、三年目になって世界がいまにも死に絶えそうになると、若い皇帝は若い大臣たちを集めて会議を開きました。 するとみんなは若者らしい意見を出して、王様にすすめました。 やれやれ、彼らが決定したことは、それをロにするだけでも罪になりそうな決定でしたっけ。 そうです、皇帝は彼らのすすめに従って、こんなお触れを出したのでした。—— 「若者にはパンを与える必要があるが、老人にパンをやるのは無駄である。だから老人はみな水に溺らしてしまえ。老人を隠して養う者は死刑に処す」と。 そして皇帝は全国に使いを出して、この命令を伝えさせたのです。 そこで悪党どもは、片っぱしから老人をつかまえて、情け容赦もなく水になげこんだのです。 さてその頃、ある村に年とった父親をもつ三人兄弟がいました。 兄弟がこのお触れをきいて父親に話すと、父は言いました。 「息子たちよ、それが神様の思召しで、皇帝のお心なら、さっそくわしを死なして、お前たちが生きのびるがよい。わしはもう墓の中に片足をつっこんでいる身の上だからな。」 しかし、心のやさしい兄弟は、 「いいえ、お父さん、わたしたちが死ぬようなことになろうと、決してあなたを見捨てるようなことはしません。わたしたちの食べる分を減らしてでも、きっとあなたを養いますよ。」 と口々に言って父親を抱きしめたのでした。 それから兄弟は、年とった父親を小屋へつれて行くと、床の下を掘って寝部屋をつくりました。 藁が少なかったので、毛皮を敷いて老人をそこに寝かせ、土のように黒い一塊のパンを傍らにおいてから、また床板をはったのです。 老人はそこで二、三ヵ月くらしました。 その間に息子たちは、時々こっそりと、どうにかして手に入れた食料を運んでやりました。 その夏もすぎましたが、収穫はぜんぜんありません。 秋も悲嘆の中にすぎ、冬も同じことでした。 ようやく春が来て、あたたかい日が照りはじめました。 種を蒔く時です。 しかし、蒔く種がありません。 世界は広いけれど、どこにも穀物の種は一粒もなかったのです。 いよいよ世界の終りがきたかと思われました。 そのとき三人の息子は、父親のところへ行ってたずねました。 「お父さん、種を蒔く時が来て、今年は神様の恵みで雨も降り、地もあたたまっているのに、ひと粒も麦がありません。どうしたものでしょうか?」 「息子たちよ、そんなら古い藁屋根をひっぱいで、その麦藁の束をからさおで打って、その屑を蒔いてごらん。」 息子たちは主屋と納屋の屋根をはぐと、麦藁の束が粉々になるまで、汗みどろになって打ちました。 それからその屑を蒔くと、神様の祝福があって、一週間で畑は青々として来ました。 ひと月たち、ふた月すると、ふさふさと穂が出て、しかもそこにはあらゆる種類の穀物がはえたのです—— ライ麦も、小麦も、大麦も、そう、ソバやアワまで一、二本はまじっていましたっけ。 世界のどこを見ても穀物一本見られず、どこもかしこも雑草やアザミでおおわれていたのに、兄弟の畑だけは穀物が波うっていたのです。 人々はどんなにおどろいたことか! 噂は世間に広がって、とうとう皇帝の耳までとどきました。 皇帝は三人の兄弟に出頭を命じました。 兄弟は通知をうけると、頭をたたいて叫びました。 「これでおれたちもおしまいだ!」と。 兄弟は、また父のところへ行って、言いました。 「お父さん、皇帝がぼくたちに出頭せよというのです。どうしたらいいか、教えて下さい。」 「息子たちよ、行ってありのまま皇帝に申し上げるのだ。あとは、なるようにならせるばかりだよ。」 兄弟が旅立って、皇帝の許へ来ると、皇帝はきびしい声でいいました。 「悪党ども、きさまたちは、飢饉で多勢の人間が餓死している時に、穀物を隠していたのだな。真実を申せ。申さぬと拷問にかけて、死ぬまで苦しめてやるぞ。」 兄弟は始めから終りまでありのままに申し上げて、最後に言いました。 「さて、いま申し上げた通りですから、拷間にかけるなり、御慈悲をたれるなり、好きになさって下さいまし。」 急に皇帝の顔はなごみ、眼は澄んできました。 それから皇帝は、兄弟の年老いた父親をすぐさまお呼びになって、自分の玉座の隣りに坐らせ、老人が死ぬまで、その意見をきかれたのでした。 息子たちにはまた、ゆたかな贈物をなさいました。 それから皇帝は布告されました—— 兄弟の畑の穀物を、一穂ももれなくつんで、人間の手で丁寧にもみほぐし、すべての国に送るようにと。 そしてこの種から全世界のいまの尊い穀物は、すべて生じたのだといいます。
山室静「花と虫と昔話と — 七月の日記から —」
八坂書房 山室静 著『植物的生活から』(昭和48年10月31日刊)
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. (^o^)/おはよー(^▽^)ゴザイマース(^_-)-☆. . . 5月10日(火) #先勝(癸亥) 旧暦 4/10 月齢 9.3 年始から130日目(閏年では131日目)にあたり、年末まではあと235日です。 . . 朝は希望に起き⤴️昼は努力に生き💪 夜を感謝に眠ろう😪💤夜が来ない 朝はありませんし、朝が来ない夜 はない💦睡眠は明日を迎える為の ☀️未来へのスタートです🏃♂💦 でお馴染みのRascalでございます😅. . 1970年頃に大流行した「oil shock」 この嘘の大デマに世界中が騙されて 大パニックに落ち入りました⤵️後に 石油の値上げがしたい為の理由なの が判ったのですが、誰も怒りを発し ませんもんね💦それは覇者である 金の孟者が無力の愚民に向けた事で あるから誰も不満を返せない⤵️⤵️ 今の起きてる騒動も、それより悪質 で巧妙に仕掛けられたトリックだから 見抜けないままで居るんだろうねw って今朝は「大寝坊の巻」です🤣 1時間も寝坊です💦早く寝なきゃ⤵️ . 今日一日どなた様も💁お体ご自愛 なさって❤️お過ごし下さいませ🙋 モウ!頑張るしか✋はない! ガンバリマショウ\(^O^)/ ワーイ! ✨本日もご安全に参りましょう✌️ . . ■今日は何の日■. #ソニーSL-6300発売. 1975(昭和50)年5月10日(土)、ソニーがベータマックスの家庭用ビデオテープレコーダ1号機、SL-6300を発売した。 チューナーやタイマーはなく、すべてオプションだったが、今では当たり前の「タイムシフト」機能が備わった事で これまで、番組が始まる時間にテレビの前で待ち構えなくても良くなり「好きなときに好きなだけ テレビを観られる」の謳い文句で羨望であったでしょう✋価格はビデオデッキSL-6300 ¥229,800と 同時に売出されて居たトリニトロンカラーテレビLV-1801 ¥220,000を合わせて購入で¥449,800となりました。 1975(昭和50)年、当時の大卒初任給が89,300円でサラリーマンの月給は推定値で131,000円ですから ほぼ、月給の3.5倍ですから結納金ぐらいな高値の花だったんじゃないでしょうか😅💦🤣😆🤣💦 ベータマックスのカセットサイズは文庫本サイズで小さく私も買うとしたらVHSよりもベータのが良いなぁ~って 思って居たので��が、他社の戦略に嵌り潰されてしまいましたよね。。。_| ̄|○残念にも😅💦 . #先勝(サキガチ、センカチ、センショウ). 陰陽道(おんみょうどう)の六曜日の一つ。 この日は勝負ごと、訴訟や急用などに運がよいとされ、早い時刻ほど良くとされ、午後は凶になるなどの俗信がある。 寝坊は、もっての他とされますね😅💦 . #三隣亡. 九星の俗信の一つ。 建築関係において大凶日。 この日に建築をすれば火事を起こし、近所隣を滅ぼすと云われる日。 棟上げや土起こしなど建築に関することは一切忌むべき日。 「さんりんぼ」とも言う。 . #神吉日(カミヨシニチ). 「かみよしび」ともいい、神社への参拝や、祭礼、先祖を祀るなどの祭事にいいとされています。 この日は神社への参拝や、お墓まいりに行くといい日です。 . #VIOケアの日. . #五十音図・あいうえおの日. . #黄金糖の日. . #袋物の日. . #金鳥コンバットの日. . #ファイトの日. . #日本気象協会設立記念日. . #ミリオンゴッドの日. . #五島の日. . #バイナリーオプションの日. . #ダンテの日. . #コトネの日. . #コンクリート住宅の日. . #メイトーの日. . #リプトンの日. . #地質の日. . #コットンの日. . #街区表示板の日. . #奄美黒糖焼酎の日. . #コメドの日. . #こいのわの日. . #グリコ・森永事件(#兵庫青酸菓子ばら撒き事件). . ●コッペパンの日(毎月10日). . ●Windows10の日(毎月10日). . ●糖化の日(毎月10日). . ●パンケーキの日(毎月10日). . ●アメリカンフライドポテトの日(毎月10日). . ●スカイプロポーズの日(毎月10日). . ●キャッシュレスの日(毎月0の付く日). . ●愛鳥週間(5月16日まで). . ●ミクロネシア連邦憲法記念日. . . ■今日のつぶやき■. #鳴くまで待とう時鳥(ナクマデマトウホトトギス) 【解説】 徳川家康が詠んだとされ、家康の辛抱強い性格を表した句。 これに対し、織田信長が「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」、豊臣秀吉が「鳴かぬなら鳴かしてみせよう時鳥」と詠んだとされている。 好機が来るまで、辛抱強く待つと云う事。 . . 1954(昭和29)年5月10日(月) #丸山圭子 (#まるやまけいこ) 【シンガーソングライター・洗足学園音楽大学客員教授】 〔埼玉県浦和市〕 . . (日暮里駅) https://www.instagram.com/p/CdWpSbbh6E6rCEREGdp0gKpXJHCs8iN9dpGp3Y0/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ふと思い立ったので高野山から熊野大社の総本社まで、京都から和歌山の端まで横断してきました。 一生に一度は行きたかった高野山は山自体がパワースポットであり空海(弘法大師)が開いたとされる真言宗の総本山金剛峯寺があり、その奥にある奥の院では空海が今も尚生きていてこの世の人々のために祈りを捧げてくださっているそうで、その時代から絶えぬ火や、117箇所もお寺がある正に聖地オブ聖地。 精進料理だけだと飽きるからとスパゲティやピザなんかも作って持っていくそうな。 どれだけすごい所かというと名だたる戦国武将の墓がずらり。 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀に武田信玄、勝頼親子に上杉謙信と伊達政宗。 最後にジャニー喜多川w まぁ、男子アイドル戦国時代を作って統一したある意味武将だもんね。 そして撮影禁止の禁足地、空海のいる奥の院に入った時に不思議な体験をしました。 伊勢神宮の時にも同じ体験をしたんですがいきなり頭の中に情報がガツンと入ってくる。 今回は何故ここまでパワースポットを巡るか、そして仕事をする事の意味が明確にガツンと降りてきたんです。 後半へ続く。 (高野山) https://www.instagram.com/p/CPNAEeWA3tF/?utm_medium=tumblr
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📸南明院庭園“蒼穹庭” [ 京都市東山区 ] Tofukuji Nanmeiin Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー2021年秋に初の特別公開! #豊臣秀吉 の妹で #徳川家康 の正室・旭姫ゆかりの寺院に、京都 #明貫造園 により令和元年に作庭された枯山水庭園。 ...... 「凌雲山 南明院」は京都を代表する寺院の一つ『東福寺』の塔頭寺院。通常非公開ですが、2021年秋の『第57回京都非公開文化財特別公開』で初公開中(~明日11月7日まで!)。 本堂や御本尊、旭姫肖像画🖼のほか、2019年に作庭された令和の庭園“蒼穹庭”があります。堂内は撮影禁止ですが庭園のみ撮影可でしたので紹介。 . 豊臣秀吉の妹で、秀吉の政略で徳川家康の正室となった“駿河御前”旭姫👸(朝日姫・南明院)の菩提寺で、そのため“秀吉により創建”“家康により建立”とWikipediaには書かれているけど、お寺の公式情報としては室町時代の1414年(応永21年)に室町幕府4代目将軍 #足利義持 による創建。 . 当時は多くの国指定重要文化財の絵画を残した東福寺の画僧 #吉山明兆 🖌も住職を務め、今回の特別公開では近年発見・修復された明兆自画像も展示。 . 桃山時代~江戸時代には前述の旭姫ゆかりの寺院として家康以降の徳川秀忠・徳川家光ら歴代将軍も上洛した際には墓参りに訪れたそう。 境内の高台部に旭姫の墓所(五輪塔)が残るほか、今回は旭姫の肖像画や秀忠の書状📜を展示・公開。徳川家歴代の位牌も。 続く。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/kyoto-nanmeiin-temple-%e5%8d%97%e6%98%8e%e9%99%a2/ ーーーーーーーー #japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #zengarden #kyotogarden #kyotoarchitecture #kyototemple #japanarchitecture #japanesearchitecture #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #京都庭園 #特別拝観 #京都特別拝観 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #おにわさん #oniwasan (東福寺) https://www.instagram.com/p/CV79kpuvnXH/?utm_medium=tumblr
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