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#そんな懐かしさもあってやっぱりこの地域も泊まりがけでじっくりと何日かかけて楽しみたいんですけどね
kennak · 1 year
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姉から連絡があり、母さんの体調が悪いこと、癌の可能性もあることを知らされる。母さんは自分の意志でがん検診は受けていなかったから、不安を感じつつも、「姉は大袈裟だからなー」と、大ごとになるとは思っていなかった。ただ、残念ながら婦人科系の癌だった。コロナ禍ではあったものの、運良く地域の基幹病院に入院することができ、溜まっていた腹水を抜いてもらったり、検査をしたりと、色々と処置をしてもらったらしい。医者からは一般論として「5年後にはいないだろう」という話をされたが、「医者は短めに言うんだろうな」と、前向きに捉えようとした。仕事の帰り、一つ手前の駅で降りて、歩きながら母さんに電話した。「そうじゃないかと思ってたから、分かってスッキリしてるよ。子供たちは立派に独立して、みんな家族もいるし、私は思い残すことはないから。」とサラッと話していた。なんとか気丈に話そうとしたが、涙が出た。帰宅し、妻に報告したら、また涙が出た。祖父を癌で看取った妻は「そんな簡単に亡くなりはしないよ」と、怒っていた。彼女なりに励ましてくれてたんだろう。「何で癌で人が死ぬのか」ということすら知らないことに気づいて、いくつかの本を読んで、「多臓器不全で死ぬ」ということを今さらながら知った。翌月、帰省すると、「で、何しに帰ってきたの?」と、とぼけたことを聞かれたので「様子見にだわ」と。特段変わった様子はなく、いつもの調子。溜まっていた腹水を抜いてもらって、楽になったらしい。「しばらくは大丈夫かな」と思う。翌朝、母さんは「そのうち、『あれが最後に作ってもらった朝ごはんだったな』ってなるわよ」と軽口を叩きながら、目玉焼きを焼いてくれた。その後の検査で、癌はそれなりに進行していて、「ステージⅢの後ろの方」と評価された。外科手術や放射線治療を行う段階にはなく、化学療法(プラチナ製剤)を試してみて、癌細胞が小さくなるようであれば、外科手術や放射線治療を検討しようということに。母さんは「『髪の毛が抜けることがある』じゃなくて『絶対抜ける』って言われたわ」と笑っていた。程なく、抗がん剤治療が開始され、母さんの髪の毛が抜けた。この頃は、抗がん剤の副作用が抜ければ、食べたいものだとかも色々あったから、買いだめしといてあげたりした。実家に家族と帰省して、夜遅くまで母さんも交えて酒を飲んだりもした。まだ、言葉もしゃべれなかった娘も、母さんにはよく懐いていた。副作用に耐えながら抗がん剤治療を続けたものの、思うような効果は得られなかった。「癌の専門医の先生の方がいいんじゃないか」という思いもあり、主治医の先生にも相談の上で、セカンドオピニオンを取ることにした。その道の専門医の先生2名にお話を伺いに行ったが、どちらも「うちなら治るかもよ」だとか「この治療法よりも、こっちの方がいい」なんて話は、当然なく、今診てもらってる病院で、「そのままお世話になる方が良い」とやんわりと伝えられた。それでも、「やっぱり経験値が高い専門医の先生の方がいいんじゃないか」と、先の2名の先生のうちお一人にお世話になることにした。細かく検査もしてもらったが、「やれることは限られている。選択肢がないわけではないが、リスキーな上、効果の期待値は低いので、おススメはしない。本人の希望に沿うならば、通いやすい、もともと診てもらっていた病院で改めて診てもらっては。」とのお話があり、結局、出戻ることにした。その病院からの帰路、高速道路の大きなSAに寄った。「あなたたちが小さい頃には、旅行の度に、いつもこのSAに寄ってたのよ」と懐かしそうに話していた。ちなみに、今でもそのSAを通過すると、その時の母さんを思い出して、なんだか泣きそうになる。改めてもともと診てもらっていた病院に伺ったところ、事前に調整はしていたこともあってか、主治医の先生は嫌な顔一つ見せず引き受けてくださり、次の段階の抗がん剤(単剤)にトライすることになった。これ以降、段々と体力の低下、食欲不振が顕著になりだし、当初は「抗がん剤の副作用かな」と考えていた。思うような効果が得られず、抗がん剤の投与を中止してからも状態は改善しなかった。母さんが癌であることは、母さんの希望もあって、積極的に知らせることもせず、また隠すこともしなかったが、状況を知った遠方の親類達が揃って見舞いにきてくれたりもした。この頃は、まだ座ってコーヒー飲むらいのことはできていて、楽しそうにお喋りもしていた。妹が介護休業を取り、母さんの面倒を見てくれることになった。その時点では、自分のことは自分でできていたし、正直言って「早いんじゃないかな」と思っていたが、結果的には、ドンピシャのタイミングだった。死ぬまでに行きたいと言っていたスカイツリー。東京で結婚式に出席したので、その足でスカイツリーに行き、ビデオ通話で見てもらった。「すごいねー」と笑ってくれた。12月下旬は、早めの冬休みを取って実家に。妹からは、体力の低下が著しいということは聞いていたが、想像よりずっと悪かった。ベッドの脇に座って吐いてばかりいた。思っていた以上の状態に言葉が出なかった。夜も眠れず、食事も摂れず、水分を摂れば吐き。かわいそうで見ていられなかった。足のむくみもひどく、母さん曰く、頭の中は「しんどい」一色だった様子。肩をさすったり、足を揉んであげたりしかできない。足をマッサージしてあげていると、少しの間だけ、寝てくれたのが、せめてもの救いだった。そんな中、母さんは「とても渡せそうにないから」と、お年玉と一緒に娘の七五三の祝いを渡してくれた。涙が溢れた。母さんも「湿っぽくなってごめんね。」と言いながら泣いていた。年明けも早々に再入院。あまりに辛そうな母さんの姿に、打ちのめされてしまった。母さんの希望は、「できる限り家にいたい」だったので、妹が訪問看護の段取りを取ってくれ、病院には無理を言って予定より早く退院した。この訪問看護のチームが素晴らしく、親身になって、それも超速で対応してくれた。母さんは「病院から逃げ出して正解だった」と、喜んでいた。急遽、仕事を休み、実家へ。妹と交代で診る体制に。眠れず、体の置き所がない母さんは、15分おきくらいで、姿勢を変えてあげなければいけなかった。辛そうだった。少し話ができそうなタイミングで、「今までありがとう。母さんの子どもで良かったよ。」と口に出すと、涙が溢れた。喋るのも辛く、手をあげるのもしんどいはずの母さんは「何を言ってるの。こっちのほうが、ありがとうよ。いい子だね。」と言って、頭や頬を撫でてくれた。涙が止まらなかった。妹と交代で眠りながら看ていたが、日に日に意思疎通がとれなくなり、意識レベルも低下。せめて、苦しまず、穏やかに逝かせてあげたいと、鎮静剤の量も増やしていった。眠る時間が増え、顔をしかめる頻度も少なくなり。「母さん、先に横になるね。また後でね。」と声をかけて寝ようとしたところ、ほとんど意識のないはずの母さんが、少し手を上げて応えてくれた。「バイバイしてんの?」と、妹と2人で笑った。その晩、妹に「やばいかも」と起こされ、会ったときにはほとんど呼吸もなく。子供3人が揃ったところで、母さんは静かに息をひきとった。目を瞑り、とても穏やかな顔だった。皆、口々に「お疲れ様。よく頑張ったね。」と母さんの闘病生活の終わりを労った。泣き崩れてしまうかもと思っていたが、不思議と涙は出ず、ホッとしたような気持ちになった。訪問看護に連絡したところ、深夜にも関わらず、看護師さんが来てくれた。死亡診断は医師しかできないとのことだったが、脈拍を見たり、瞳孔を見たりして「確かに亡くなられていますね」と手を合わせてくれた。そこからは、子供三人で、看護師さんの指示に従って、母さんの体を拭いたり服を着せたり。服は死装束じゃなく、妹が見繕ってくれていた、いつも母さんが来ていた服を着せることにした。最後に看護師さんが、母さんに化粧をしてくれると、すっかり血色が良くなって、まるで寝てるみたいだった。看護師さんが帰られてからは、葬儀屋を探したり、段取りや役割分担を話したり。葬儀屋は、空いてるところに頼むしかなかったというのが実態で、なんなら「火葬場に直送しろ」くらいのことを言っていた母さんの考えとは違ったんだろうけど、普通に葬儀屋に頼むことになった。一旦、各自寝て、翌日以降に備えた。翌日は午前6時の医師の死亡診断に始まり、寺や葬儀屋との調整や、親類への連絡、行政関係の手続きなどで忙殺され、あっという間に通夜になった。どんな感じで動いたのか、正直、思い出せない。覚えているのは、いつも気にかけてくれていた母さんの友達が、偶然訪ねて来られ、母さんに会って「信じられない」と泣いてくれたことと、一報を受けた母さんの義姉にあたるおばさんが寄ってくれて、母さんに会って「寝てるみたい」と泣いてくれたこと。おばさんは「お母さんは若い頃はお父さん(自分の祖父。自分が小さい頃に他界。)と、喧嘩ばかりしててね。今頃、お父さんから「うるさいのが来た」って言われて、また喧嘩してるかも。」と、知らない話をしてくれた。納棺のときには、たくさんの花と一緒に父さんの写真や、自分を含む子どもの写真を納めた。短い髪の毛の頭には、ウィッグをつけたかったんだけど、生前に「あんな高いものを燃やすなんてもったいないから、棺桶には入れるな。」と言われていたので、やむなく頭はそのままに。誰が使うんだよ。マジで。葬祭会館で通夜を終え、そのままそこに泊まることにし、姉と妹は一旦、家族と帰宅。酒を飲みながら待ち、時々、隣室の母さんの顔を覗きに行っては、線香をあげ、その度に泣いた。夜中の2時になっても、誰も帰って来ず、体力的にも限界だったので、寝た。深夜に姉が、朝型に妹が戻ってきた。翌日も葬儀、火葬とバタバタ。孫たちが大騒ぎしてくれたおかげ(?)で、終始、湿っぽくならずに済んだような気がする。母さんも、「あんたらねぇ」と笑ってくれただろう。母さんが望んでいたような「火葬場に直送」じゃなくて、普通の見送り方にはなってしまったけれど、許してくれると思う。それから職場に復帰するまでは、皆で家の片付けや、クレジットカードの解約やら銀行関係やらのたくさんの事務手続き、親類縁者への連絡などを分担して対応している間に、あっという間に過ぎていった。その間、近所の方だとか、母さんの旧来の友達だとかがたくさん弔問に訪ねてきてくれた。皆が口々に「いい写真だね」と言ってくれた祭壇の遺影は、母さんが自分で選んで、わざわざトリミングまでしていたものだったから、本人も満足してるだろう。母さんの旧来の友達からは、母さんの若い頃の話や、その後の友人関係の話しを伺った。学生時代のことや、社会人時代のことだとか、自分が知らない母さんの一面をたくさん知ることになった。当たり前だけど、母さんは「母」としてだけでなく、一人の人間として、たくさんの人と関係を作り、それを続けていたんだなと気付き、なんだか新鮮な気持ちになった。そういえば、ウィッグは友達の一人で、自分もよく知っているおばさんが貰い受けてくれることになった。何度も「管理が大変だけど大丈夫?」と聞いたけど、それを踏まえて快く受け取ってくれた。ウィッグの販売店には、その旨は連絡しておいた。弔問に来てくれた時にお渡ししたところ、母の遺影に向かって「返さないからね」と笑っていた。思い返してみると、母さんが癌になってからというもの、母さんとは色んな話ができた。父さんのことだとか、嫁いできた経緯だとか、これからのことだとか。癌との闘いは、とても辛かったと思うけど、近い将来確実に訪れる「死」に向かって、本人も家族も、心の整理も含めて、時間をかけて準備することができたように思う。僕は癌で死にたくないけれど、そんなふうに、ちゃんと準備をして死にたいなと思う。母さん、ありがとう。母さんの子どもで良かったよ。【追記】たくさんの方に、暖かな言葉をいただき、恐縮しております。ありがとうございました。私自身が、母さんが癌になるまで癌のことを何も知らず、また、どのような経過を辿るのかを知らなかったので、「自分用に書いたけど、同じ境遇を迎えてたり、これから迎えるかもしれない誰かのためになるかも」と、乱文を投稿させていただきました。野暮かなとも思いましたが、いくつかコメントいただいた内容を踏まえ、その趣旨に合うかなとも思うので、いくつか追記いたします。母さんが癌の宣告を受けたのは、2月上旬で、翌年の1月中旬に60台後半で他界しました。10月頃まではまずまず元気でしたが、以降は段々と体力の低下が顕著になりました。12月中旬までは、体調が良ければ妹の運転でドライブに行く程度の元気さもあったのですが、食事を受け付けなくなってからは、あっという間でした。思っていたよりもずっと早い経過だったので、「もっと会いに帰ったら良かった」と思うこともありますが、「そうさせないところが母さんらしいな」とも感じています。経過は個人差が非常に大きいものだと思います。母さんよりも早い経過を辿る方もいれば、もっと緩やかな経過を辿る方もおられるでしょう。早い経過を辿ることを前提に、たくさん話し合って、準備をしておいた方が良いと思います。特に、残された時間はできたら住み慣れた自宅で過ごしたいという方が多いと思うので、それができるよう、家族の介護+訪問看護の体制を整えられるかをしっかり考えておくべきだとも思います。うちの場合は、姉が実家の比較的近くに住んでいたこと、妹が介護休業に理解のある職場���境だったこと、また、訪問看護のチームが素晴らしかったこと等、様々な要因が重なって、自宅で看取ることができました。なお、母さんがやっていてくれた事で本当に助かったのは、エンディングノートをしっかり書いていてくれたことと、重要書類(通帳、カード、年金手帳、マイナンバーカード等)を整理してくれていたことです。特に、亡くなったことを誰に知らせるのかは、親類縁者ならまだしも、友人関係はほとんど分からなかったので、これがなかったら不可能でした。「私も書くから一緒に書かない?」と、提案されてみても良いと思います。長くなってしまいましたが、皆様の一助になりましたら、幸いです。皆様のコメントから、元気をもらいました。改めて、ありがとうございました。
母さんがガンで死んだ(追記)
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tieslog · 5 years
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ドとレとミとファとソとラとシの音がー出なーい。(訳:喉がやられて声がでません)
正月明けから喉が死に死にしている。正月明けから雲のデザインが斬新すぎるからどう考えてもケムトレイルのせいなんですけど、何撒いてるんでしょうかね?最近ニュースで肺炎流行ってるとか言って不安煽ってるらしいので、肺にダメージを与える物質なのでしょうか。
というわけで(?)2019年を振り返る。中編です。
夏が過ぎて秋、11月といえばRaptさんたちの教会に不審者がレンタカーで乗り込んできた回がありましたね。
武井繁剛っていう不審者で、お米作ってる人らしいのだけど、不法侵入しても警察が庇ってくれる御身分でもあるらしい(まあのちのち上級国民の血筋だったって発覚したんですが…詳しくはTwitterにて「 武井繁剛 」で検索して下さい)。全能神教会関係者といい、皇族関係者といい、カルトは本当にしつこいし、やることなすこと全てがクレイジーで害悪。はやく滅びますように。
11月11日には福島県に行ってきました。トップ画像は福島の海沿いからみた景色です。余裕をもって現地で過ごせるように10日に出発したのですが、その夜その日の朝会を再生したらなんと10日についてのお話もあったのでびっくりしました。11月11日とはなんぞや?という方はこちらの記事をお読みください。
なぜ福島県に行くことにしたのか…それは放射能が嘘だからとか、魚が美味しいからとか、海を眺めるのが好きとか、色々な理由があったりするわけなのですが…とにかく初めて行く県なのでドキドキワクワクでした。家に帰るまでが祝祭日ですよ。
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これは夜の海です。遠くに漁船の明かりが浮いていて良い感じじゃないですか。ビルのない水平線は東京ではなかなか見ることができないので貴重。
あと木が沢山生えていて気温もそこまで低くなくて(もちろんダウンジャケットは着ていましたが)、とても過ごしやすかったです。福島には寒い地域もあるけど年間通してまあまあ温かい地域もあるということらしい。
緑も多く酸素が豊富で呼吸が楽でした。それとなぜか沢庵的なニオイがして何なのかな?ってなったんですけど、どうやらなにかしら小動物が死ぬとそういうニオイがするらしい。乳酸菌の一種でしょうか?
もちろん麻生太郎達が引き起こした人工地震のせいで津波が発生した地域でもあったので廃墟も沢山ありました。麻生太郎は自分がセメントの会社をもってるからって、コンクリが地震に弱いのわかってて人工地震を起こしてきた卑怯者( 材料力学で脆性素材について学んだ人はこの儲けシステムつくった麻生太郎の設計における外道さめっちゃよくわかると思う)なので、本当に一刻もはやく滅んでほしい。
自分は水族館が好きなので、広いと噂のアクアマリンふくしまにも行ってきました。
行ったらなぜか縄文推しのコーナーから始まったので「???」ってなった。縄文の窓とかいう通路があるんですが、その窓の向こうには、ばっちりイオンモールが建っていて、前を歩いていた地元民と思しきご夫婦も「ぜんぜん縄文感ないな!」ってツッコミを入れていた。本当にね。
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ちなみにこれが水族館の館長なんですが、安倍晋三に似ていませんか…?
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安倍じゃなくて安部だけどそっくりですよね。
もし安倍晋三の血縁ならば縄文推しも納得です。ちなみに安倍晋三は出雲族で蝦夷で陰陽師の血筋です。そうです。あの安倍晴明の陰陽師です。文字が安倍でも安部でもルーツは同じみたいです。
そっくりさんシートに追加しとこうかしら。最近更新が滞っていて申し訳無さでいっぱいなのですが、なんかもうTwitterにアップするには(1投稿につき4枚しか投稿できないので)人数が多すぎて分散させないと駄目かもしれない…でもTwitter社最近スレッド全部表示させないとか陰険なことしてくるんだものな。なんか他に考えた方がいいのかな。
というか李家の存在を認識してから一気に顔画像が増えたのですが、イルミナティの人たちが乱交しすぎてて、顔の似通りが錯綜してしまっていて並べにくいというのがある。できるだけ同じ画像を頻出させずにスッキリさせたいので本当に困っています。神様、いいアイディアはないものでしょうか…?というか誰か他にもやってるのではと思っていたのですが意外とシート状に画像連結してる人はいないっぽい…?目が疲れますもんね。私も充血してます。でも上級国民の正体は李家と天皇家だってわかったのだし、見やすく改変したいですね。
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ほい。安倍晋三周辺だけでもめちゃめちゃな数いる。ちなみに今現在も日々増えつつある。
まあ政治家と芸能人だけでもものすごい数いますし、大企業のトップにもそっくりさん大勢いるんで、通ってる学校の校長とか、勤めている会社の社長とか役員とか、取引先の偉い人とか、天下りしてる人とか、みんなもチェックしてみると面白いと思います。
なんでこんなことやってるのかと言えば、私自身、芸能人や歴史人物の顔を覚えるのが苦手だったからです。全員似てるから覚えられなかったんだなぁって今はわかります。学校のクラスメイトの顔のほうがまだバリエーションあったもの。
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縄文といえば、この東出融(アップルのCMに出てた東出風馬の父親で稼業は詐欺師)も縄文推しやってる人なんですよね。安倍晋三や麻生太郎と一緒に人工地震にも手を染めています。最低ですね。Twitterでさんざんやらかしたあと親子共々ベラルーシに逃亡したらしいんですが、そこでも詐欺をやっているのでしょうか。
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ちなみにこの館長はシーラカンスオタクらしく、館内にはやたらとシーラカンス推しのコーナーがあり、メインの売店の他にわざわざシーラカンスグッズだけをあつめた雑貨屋まであった。
ただシーラカンスのコーナーにシーラカンスの仲間なのか何だか忘れましたが、でっかい魚がせっまい水槽に飼われていて、あまりにあまりな光景だったので、とてもその魚の写真を撮る気にはなれませんでした。本当に館長は魚好きなのかと疑問に思うレベル。
一番のびのびのんびり泳いでいたのは金魚だった気がする。
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海の魚はメインの建物に収まっている感じなのですが、金魚のコーナーは外の別館にありました。
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いいお値段がしそうな金魚が沢山いました。膨らんでる部分は空気ではなくて(空気だと浮いちゃって泳げない)体液というかリンパ液らしい。へー。でもこんなに膨らんでいて生活に支障をきたしたりはしないのでしょうか?まあ、金魚の生活において何が最も重要視されていることなのかは私にもわからないんだけど…
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これは品種改良された金魚特有のものなのかもしれませんが、なんというか…表情が犬みある気がする。犬って全部顔に出るじゃないですか。まあ猫もそういうとこあるけど。対して魚はもうちょっとサバサバしているというか、冷たい印象があるのだけれど、どうしてこういう品種改良された金魚は表情豊かなのだろうか?人懐っこいし。脳の構造まで変異しているのだろうか。金魚の脳がどんなもんなのか、詳しくはわからないけれど。鯉はもっと単純思考な感じなのにな。顔面における線の多さがそう錯覚させているだけなのでしょうか?
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これは個人的に良いなと思った通路です。PL法があるから注意書きは大切なんですけど、デザインがかわいくないで��か。
そういえば(この通路とは全然関係ない話なんですけど)、最近の東京都水道局はオゾン処理してるらしいんですが、オゾン水で金魚を育てると巨大化しちゃうらしいですね。クワガタも巨大化するらしい。別に細胞が増えるわけじゃなくって、細胞自体が肥大するみたいなのね。ドットが粗くなる感じ(ドットの粗い金魚だと字面が珍妙すぎる気がするけど)?
学校の非常勤講師によるとキノコに電気を流すと収穫量が増えるのと似たような現象だそうなのですが…どうなんでしょう?昔恐竜が大きかったのと関係ありそうじゃないですか?
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これは個人的に好きなガーという魚です。
これはアリゲーターガーという種類なのだけれど、大きく育ちすぎて飼いきれなくなくなった人が川に放流しまくったせいで、今では生きたまま持ち運ぶだけで捕まるという、面倒見きれなくなったらもう食べるしかないよねみたいな、そういう魚で、味は鶏肉っぽいという噂。
ワニも鶏肉に似てるって言うけど、もしやアリゲーターの名はそこから…?ちなみにクックパッドにもレシピが1件だけある。
鳥羽水族館っていう三重県の水族館のガーの方が大きくてゆったりしていて私は好きなんですけど、模様がカッコいい気がする。
こうして見るとガーも若干犬っぽい顔してますね。神様はこれまで(いや今この瞬間もなんですが)ものすごい種類の生物創ってるわけなんですけど、意にそぐわない生物も誕生しちゃったけどねみたいな話も以前されていたと思うんですけど、どれが神様的にナイスな生物なのか、いつか詳しく知りたいですね。ヨブ記にあるカバ(訳によってはカバじゃないけど)及びその他創造物の解説とか激アツですもんね。
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この魚すごくないですか。初めて見た魚なんですけど、めっちゃラメラメギラギラしている。スパンコールでも縫い付けたんですかみたいな、グリッター感がすごい。
実はピラニアだそうなんですが…そのためか人が襲われないようにキッチリ蓋してありました。近付くとものすごい勢いで寄ってくるのは食欲のせいだったのか。顔は普通にチンピラみたい。
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雨の予報で実際降ったりもしたのですが、明け方日の出をみたときはまだ降っていなくて、室内で朝食を食べているときにザンザン降りで、水族館に出かけるころには弱まって、そして完全に晴れてしまったのでした。結局傘の出番があまりなかったので、折りたたみ傘で正解でした。いい天気過ぎてとても暑くて、まるで夏みたいでした。
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そんな感じで、あまりにいい天気だったので外の貝を炭火で焼いて食べるコーナーで貝を食べました。
とても美味しかったのですが、実はこの日の夜、食べすぎにより胃腸を壊しました。普段も既にお腹いっぱいなのに付き合いでご飯食べて頭がぼんやりすることがあったから、改めなさいって神様が教えて下さったのだと思う。11日は祝祭日なのだけれど、改善すべき点がある場合は裁かれる日でもあります。個室でめちゃめちゃ懺悔しました(翌日には全快して元気に東京へ帰ることができました。露天風呂も綺麗でとても楽しかったです)。
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水族館から宿泊施設まで徒歩で帰ったのですが(都民だから1時間弱なら平気で歩く)、天使の階段ができていました。
泊まった施設は山?丘?みたいな公園みたいな���所の中にあったのですが、実はここら一帯は私達がきた頃ちょうど全面禁煙になったようで、なんだかものずごく神様のお気遣いを感じました(本当にありがとうございます)。
本当は祝祭日以降全てを後編としてアップしようと考えていたのだけれど、知人や家族によく「詰め込みすぎ」とか「一度の話に情報多すぎてなんかもう…ちょっとタイム」とか言われるほうなので3分割にしてここまでを中編にしました。後編に続きます。
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nakatani-seminar · 5 years
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中国で千年村をみつける
2019年中国雲南省調査
9/15-23に中国に調査旅行へ行ってきました。調査は雲南大学との共同で行われました。雲南大学との調査は今年で2年目です。今年は中谷先生を含め4名(中谷、余、蔡、齋藤)が参加しました。雲南省昆明の周辺で詳細な調査を行った3つの村落を含め、7つの村落を訪問しました。 昆明は雲南省の中心都市であり、滇池という大きな湖がつくる平野部分に立地しています。昆明の都市を中心にこの平野部(滇池バーツ*)では大規模な都市開発が現在でもすごい勢いで進められています。今回の調査では都市部の周縁や周辺部の地域で古くから持続していそうな村を調査しました。 *雲南省の総面積の9割以上が山地であり、残りの山間部や川沿いの平地は「バーツ」と呼ばれています。
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本日は、研究室を卒業してから現在は行方市で地域おこし協力隊として活動している松木直人さんをお迎えして、調査内容を振り返りました。我々が調査で撮った写真を机の上に並べ、その中から松木さんに興味を持ったものを選んでいただき、そこから話を進めていきました。話題は調査で発見したことから始まり、中国と日本の村落の比較、さらには地域を研究する意義とは何か、というテーマにまで発展しました。ここではその様子を対談形式でお伝えします。
雲南での千年村調査とは
蔡(M2)、以下蔡)本日はよろしくお願いします。まずは今回の雲南調査についての概要を簡単に説明いたします。調査対象は雲南省の中心都市昆明というところで、滇池という大きな湖を持っています。 松木さん、以下松木)昆明には空港がありますよね。インド行くときなど乗り換えで使ったことが何回もあります。 齋藤(M1)、以下齋藤)雲南省は西南シルクロードと言われるようなルートが通っていたと言われ、昔から中国と東南アジアやインドへの交通の要衝でした。今でも空路を含め、交通的には重要な場所であるということですね。 蔡)調査目的の重要な一つとしては日本の千年村的手法が中国でも実現可能かどうかを試すことです。今回は滇池東側の呈貢区について古い文献からプロットしました。そして、水系図、地質図などを参照しながら、山、丘、低地という立地の幾つかの調査対象村落を選定しました。松木さん、まずはこのなかの写真から選んでいただき、自由な感想をください。
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観光化が進む城子村
雲南省紅河州瀘西県永宁郷城子村
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松木)この村は山を切り開いてつくっていますね。村の前の湿地帯の左側では稲作をやってますが、右側は庭園のようなになっておりまるでモンサンミッシェルのようです。なんでこんな状況が生まれたんでしょう。 蔡)この村は城子村という村です。昆明から車で3時間ほど離れた立地で、今回の調査の中では、先ほど述べた調査目的からは性格が違うものです。 齋藤)まず、湿地帯についてですが、かつてはすべて田んぼでした。庭園はなぜ造られたのかというと、この村はもともとはイ族という民族によってつくられた村でしたが、現在は政府による観光地化が進められています。それによって田んぼから庭園に変えられてしまいました。 蔡)つい10年ほど前は田んぼだったようです。 松木)観光地化によってどのような人が来るのでしょうか。 蔡)まだ計画中で完全にパブリックにはなっていません。家もボロボロの状態のものがあるので整備が必要で、リノベーションしてイ族文化体験施設や宿泊所にしようとしています。もとの住人たちは外に追い出されてしまうこともあるようです。 齋藤)建物のでき方はおもしろいです。屋根は陸屋根であり土で固められています。屋根にはパラペットのような仕組みがありました。ちょうど調査の終わりかけたときに雨が降り始めて、雨が日干し煉瓦の壁に直接当たらないようにする工夫も見ることができました。 蔡)観光化されたら、行ってみたいですか? 松木)はい。この写真みたいに家畜がいる風景がドラマチックですね。
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齋藤)調査中、斜面のトウモロコシ畑を登っていると、急に奥からロバが現れびっくりしました。今でも斜面に入っていくにはロバなど家畜の力が必要です。 蔡)このあたりの田んぼの土は固いものであったこともあり、耕作のための牛の働きも重要でした。 松木)機械化以前の世界では家畜の力を借りる必要がありますね。 齋藤)集落の中の道も狭いため車は入れません。荷台付きの二輪車でも切り返しができるポイントがないためか後ろ向きでギリギリ走っていくところを目撃しました。超絶テクニックがないと二輪者でも厳しいのです。 蔡)観光価値はあるが交通が不便な所にあるため、観光客は行きにくい状況にあります。 松木)観光化についてどう捉えるかですが、この場所で稲作の必要性が薄れているとしたら、昔のような生活の様式を維持していくのは難しいでしょう。建物を中心として考えるなら観光化はひとつの道というようにもいえます。大きな経済原理の中で考えると自然なこととかもしれません。
移住するのか?江尾村
雲南省呈貢区斗南街道江尾村
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蔡)つづいてはこの写真ですね。 松木)不思議な集まりの様子ですね。青い布を頭に巻いていますね。 蔡)これは昔ながらの風俗です。今でもおばあちゃんたちは布を頭に着けています。この村は滇池のすぐ近くにある江尾村という村です。昔は漁業が盛んだったり、滇池の西側と交易するなど水運が栄えていました。ちなみに西側からは石が運ばれていました。 松木)このお年寄りたちはなぜ集まっているのでしょうか。 蔡)若者が少ないこの村は、やはり残っている人たちが寂しいのではないでしょうか。実は、この村は政府が滇池をまもるために、近年から近くに30階くらいの高層マンションを建てて住民を移住させる計画があります。高層マンションだとそこから農業を行うのは難しくなってしまう。高齢者たちにとっても外に出ることが大変不便になるでしょう。そうすれば、写真のような楽しい集まりも見えなくなってしまうかもしれませんね。また、残った空き家はどういう風に扱われるでしょうか。実は城子村ほどの独特と言えないですが、この村の古い住宅も面白かったですね。 齋藤)はい。日干しレンガの中に貝殻が含まれている壁を見つけました。原料となった泥に貝殻が含まれていたのです。新石器時代の地図を見ると、滇池の水岸線は全体的に現在よりも高い位置にありますが、この村があると思われる場所は湖にはりだす岬のような地形に立地していました。この時代に住んでいた人が貝を捨てでできた貝塚が、後の時代の人によって建築材料の原料の採取地として発見されたのだと考えられます。
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松木)貝が含まれていると頑丈になるんでしょうか? 齋藤)その土地のそこにあった土にたまたま貝が含まれていただけかもしれません。そこに積極的な意味があったかどうかはわかりません。 蔡)住人は貝が含まれている方が頑丈なのではないかと言っていましたよ。 松木)私もヴァナキュラーな知恵があるのだと思います。ケヴィン・リンチ『廃棄の文化誌』という本で、巨大な貝塚が時を経て発見され、それが石灰の原料の採掘所として有効に使われたという例が紹介されてます。昔の人が廃棄物として集めたものが後の時代の人にとっては恩恵になったという例です。この村ではそのような資源性を発見し、選択的に貝を含んだものを選んだ可能性も充分に考えられるでしょう。
ここは譲れない!斗南村
雲南省呈貢区斗南街道斗南村
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蔡)開発と移住の話が出て来ましたので、江尾村と同様の立地の村落であるにも関わらず、違う道を歩いている斗南村もぜひ合わせて紹介したいと思います。江尾村は古い建物が残っているのに対して、斗南村は比較的新しい5階建て程度の建物が並んでいます。すぐ近くには高層ビルが建てられています。この村はすぐ周りが都市化されているのにも関わらず、ここはなぜ高層ビルが建てられないでいるのでしょうか。 松木)地域のコミュニティが強いからでしょうか? 齋藤)その通りだと思います。実はこの村落は我々がこの調査で最初に訪れた場所でした。村落というイメージからすると、新しい建物に変わってしまっているイメージを最初は持ちましたが、ある様子を見てそのイメージが変わりました。この建物は集会所のように使われているのですが、そこで結婚式をやっていました。結婚式ではほぼ村民全員を呼んで、食事をふるまっています。どういう流れか、我々もそこで食事を御馳走になることになりました。建物に入ってみるとその奥には多くの人が食事を楽しんでおり、ものすごい活気でした。これが村の建物の様子は変わっても、コミュニティはしっかりと維持されていると感じた理由です。
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蔡)住人のコミュニティが強く地域経営がしっかりと維持されています。 松木)若い人が多いですね。この建物群が出来たくらいに育った世代なのではないでしょうか。日本でも団地が出来て住み始めた最初の世代は境遇が似ているので、つながりが強いというようなことがあったようです。ここでもそのような同時に住み始めたことによる強いつながりがあるかもしれませんね。 蔡)現在の問題で考えると、高層ビルでもこのコミュニティの強さは生まれるかということですね。中国ではこれからは高層ビルが日常になるという考えを持っている人は多いです。近年中国の建築家はこのなかでどのようにコミュニティができるかを考えている人が多いです。また、この村では周辺の土地は買収されてしまったのにも関わらず、他の県の土地を借りて花の栽培が続けられおり、家の一階ではパッケージが行われたりしています。やはり生業が続けられているということが重要だと思います。
復活の刘家营村
雲南省呈貢区吴家営街道刘家营村
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蔡)続いては刘家营村ですね。刘家营は昆明の平野部から少し入り込んだ山間部の斜面に立地する村です。すぐ上流側にはダムがあります。実はかつての村は1950年代に建設されたダムの底に沈んでしまっていたのです。ダムに沈没後、各地に移動していた住人たちがやはり昔の集まりを懐かしんで、政府に願望を出しました。政府もちゃんと願望に応えたので、今の村は政府主導の下に、呈貢区の多数の村落の村民たちの協働によって、1960年代に計画的につくられた村落だったのです。 齋藤)確かに新しくつくられた村であるためか、山の中腹というちょっと不自然な立地に在りますよね。このような立地なので大きな開発はできないでしょう。また都市に近いので都市まで通勤することもできます。またその土地での生業としては観賞用の葉っぱが栽培されています。 蔡)8割の人が外へ通勤し、2割の人がこの土地での農業をやっています。夜になると、外で働いている方もちゃんと戻るため、この村は割と元気な感じがしますね。 齋藤)都市との距離という視点が重要ですね。 松木)多数の村落の村民たちの協働によってできたというのが面白いですね。写真ですと際立った特徴はわかりませんが、経済的安定がそれとなく感じられます。世代が降れば山を降りていくのか、都市化して広がっていくのか、これからの動きが気になりますね。
浙江省の高地の村落
浙江省金華市磐安県烏石村・横路村ほか
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松木)次に、この別荘が気になりました。 蔡)実は、ここは雲南省ではないですね。おまけとして紹介いたします。 齋藤)我々は雲南をあとにし、上海を経由し、杭州から車で3時間の、浙江省の山奥の地域に向かいました。 蔡)ここは、農村のなかの高級別荘です。ディベロッパーは周りの伝統的な村を修復し、そこを観光価値として高めるだけでなく、その近くに別荘を建てて売るというように、これらを全体的にひとつのブランドとして計画しようとしています。 松木)集落を含めたブランディングというのが日本と大きく異なっており、面白いですね。住んでる側はたまったもんじゃないですが、地域に根付いた暮らしの形をフィクションとしてしか生き残らないものとして受け止め、残す方向を探るというのはとても現代的な価値観な気がします。
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蔡)石でできた街並みの村を2つ訪問しました。ここは海でとれた塩を運ぶための道があり、そのために栄えた村落です。 齋藤)黒くて重たい石がびっしりと積まれている風景が印象的でした。石の家のでき方が気になりました。複数の家がまとまって一つの建物にアパートのように集住しています。通りに面する面は石積みの壁ですが、家の内部側は木造がむき出しになっています。なぜこのような形態になったのでしょうか。まず、通りに側のみを石の壁にしているのは防御のためだと考えられます。ひとつなぎにすることで石を積む作業が省略できますし、防御性も上がると思います。 松木)石の積み方に順番があるのがわかりますね。意匠性の高い積み方をしている部分と、無造作に積まれている部分などがあって面白いですね。崩れたりして増築したりした跡が見えます。 
さいごに
蔡)この調査では色々な村の住まい方を見ることができました。建物が新しく変わっても、昔ながらの生活を維持しているところもありますし、古い建物を残すために生活様式を維持するのが難しい例などありました。
松木)生活の様式とその土地から生まれている状態は美しく感動的ですが、それがずれていっている。しかし、それがずれていった状態も積極的に捉えて、元地域の住民と外部の人間が共有される価値として定着していくといいです
一同)ありがとうございました!
2019.10.11 at中谷研究室
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mark311text · 6 years
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私は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)出身です。
今日は2011年から7年。2018年3月11日、午後2時46分から1分間の黙祷を終えたところです。
2011年3月11日
私は中学2年生で、卒業式の予行練習で午前授業だった。お昼過ぎには家に帰って、両親の部屋でテレビを見ていた。高校生だった兄も帰宅していて、家には私と兄と猫の太郎がいた。
こたつに入って横になっていると、突然、「ゴーーーー」というものすごい音がした。長かった。びっくりして固まっていると、次は激しい地震がおこった。体がゆさぶられるような揺れだった。太郎は驚いてこたつの中にとびこんだ。見ていたテレビが倒れ、画面が割れ、ここにいては危ないと思った私は、ベッドの上にあがり、上になにもない部屋のすみに避難した。クローゼットの扉は全開になり、中の荷物が全て床に落ちた。お母さんが使っていた、普段はうごかせないほど重いドレッサーも、揺れに合わせて生き物のようにズ、ズ、と前に動いていた。ガタガタと揺れる音や、ガシャーンと1階の台所からか食器の割れるような音が聞こえ、すごく怖かった。揺れはなかなか収まらず、もしかしてこのままずっと揺れているんじゃないかと怖くなり、耳をふさぎながら「あーあー!」と大きな声で叫んでやりすごした。
しばらくして揺れがおさまったので、自分の部屋に戻ろうとすると、ふた間続きになっている手前の兄の部屋は、タンスの引き出しや勉強机の上にあったものが全て落ち、足の踏み場がなくなっていた。地層みたいだった。物を踏みながら奥の自分の部屋に行くと、そこも同じように物の海になっていた。
兄に「とりあえずお父さんのところに行こう( お父さんは家の近くの公民館職員)。」と言われ、部活で使っていたエナメルバッグに持ち出せそうなものを入れ、ラックの上にひっかかっていた薄手の黒いジャンパーを着た。
もしかしたら役に立つかもしれないとお母さんドレッサーの引き出しに入っていた、カード会社や保険会社からの郵便物もカバンに入れた。無意識だったけど、もう家に戻ってこられないかもしれないと思ったのかもしれない。
兄が「避難所では猫の食べるようなものはもらえないと思う」と言うので太郎のご飯が入ったタッパーも鞄に入れた。太郎が怖がってこたつの中から出てこなかったので、兄に頼んで無理やり引っ張り出してもらった。このとき、兄は膝を悪くしていて、無理をすると膝の皿がずれてしまう状態だった。太郎を無理にだしたので膝が痛んだようで、少し休憩してから家をでた。その間も何回か揺れがきていて、家の壁には亀裂が入っていた。
外にでると、道路はでこぼこになっていて、マンホールからは水が溢れていた。家や電柱は傾いて、いつもの景色がゆがんでいるようだった。私たちと同じように、みんな近くの避難所へ移動しようとしている様子で、公民館に向かった。公民館のグラウンドでは小さい子たちが楽しそうに遊んでいた。状況がよくわかっておらず、興奮しているようだった。
公民館の中で誘導をしていたお父さんに会いに行くと、「津波がくるそうだ。公民館は津波の指定避難所ではないから( 公民館は二階建てで低い建物) 小学校か中学校に誘導するよう連絡がきたから、お前たちもそっちに早く避難しろ。」と言われた。
お父さんに話しかけるまで舞台の上で座っているときに、自分の膝から血が出ていたことに初めて気づいた。どこかにこすったようだったけど、不思議と痛くなかったことを覚えている。
お父さんから、津波がくると言われたけど、いつも津波がきても何センチかで結局大したことなかったので、今回もそんなもんだろうと思っていた。いつだったかのチリ地震の際もそうだったからだ。同じようなことを話している人もたくさんいた。私たちは2キロ先の小学校に向かった。
小学校に向かう途中、生協の前でNちゃんに会った。お兄ちゃんとはぐれたらしく、家に一回戻ると言っていた。私は津波が来るらしいから戻らないほうがいいと言ったが、大丈夫だからとNちゃんは戻ってしまった。
Nちゃんは津波にのまれて死んでしまった。
もっと強く引き止めていればよかった。
消防車が走って避難を呼びかけていた。
いつも何かあると鳴る、町のサイレンはこの日、鳴らなかった。
中学校の前で兄の膝が痛み出したので、予定を変更して中学校に避難することにした。中に入ると誰かが「3階か屋上へ!」と叫んでいた。兄と私は上へと向かった。外階段から中へ入られるドアをガンガン叩く音が聞こえ、見ると女の人が必死にドアを叩いていた。ドアの前に机が置いてあり、開かないようだった。でも、みんな自分の避難に必死で誰もどかそうとはしなかった。兄と机をどかし���ドアを開けた。「津波だ!」と、窓の外を見た。黒い水がじわじわと学校の駐車場に流れてくるのが見え、おじいちゃんが一人、まだ外にいるのを見つけた。「逃げて!」と叫んだけど、そのおじいちゃんが助かったかはわからない。
少し遠くを見ると。ず……、と、景色がそのままゆっくりゆっくりと動いた。町の中に船が見えた。船が家にぶつかり、家はぼろぼろになって崩れていった。あちこちに水の上なのに火が見えた。町全体が濃い灰色だった。兄と三階の教室から、水没したグラウンドを見た。水でいっぱいで、まるで映画を見ているようだった。夜になるにつれてどんどん暗くなり、懐中電灯を教室の真ん中あたりに置き、壁や周りにアルミホイルを貼って反射させて明かりを作った。持ってきたラジオからは、「絶対に水辺には近寄らないでください。被害の状況は­———」というような声が繰り返し聞こえていた。私は湿った教室の床に横になり、太郎を抱いていた。何も食べていないはずなのにお腹は空いていなかったし、眠気も全く来なかった。気づいたら朝になっていた。
朝になると水は引いていた。町を見たくて屋上にいった。それと、太郎がトイレをするかなと思って。屋上から見た景色に、町はもうなかった。グラウンドには車や船や瓦礫のようなものがぐちゃぐちゃになっていた。目の前にあった生協もなかった。今度は町が茶色だった。
あのときのトイレは今でも思い出すと吐きそうになる。人の用を足したものが積み重なり、ひどい臭いだった。吐きそうになりながら用をたした。学校には知ってる人がたくさんいて、Sちゃんに会った。Sちゃんは学校のジャージで、お腹から下は泥まみれだった。津波に少し飲まれたらしい。Sちゃんはお母さんとまだ合流できてない、小学校の方にいるかなあと言っていた。あとから知ったが、Sちゃんのお母さんは津波で死んでしまっていた。
お昼前ぐらいに兄が自宅の様子を見に行くと言って、少しして戻って来た。うちがあった場所には、うちの二階の屋根があっただけだったようだ。まだ実感がなく、そうなんだうちはもうないのか、と冷静に思った。
そのうちに大人の人たちが崩れてしまったお店から、食べ物や飲み物を持ち出してきた。避難した時に食料を持ち出すことのできた人たちから少しだけお裾分けをもらった。でも全員分はもちろんないので、たしか私はベビーチーズのようなものを一口分食べた。太郎にはお水を少しだけもらえたのでそれをあげた。
安全な内陸の避難所に全員移動することになったが、中学校の出入り口やバスが迎えに来てくれるおおきな道路にでるまでの道には、船や車や瓦礫などがたくさんあって、大勢の人が移動できるような状況ではなかった。なので自衛隊が道を作ってくれるまで待機するように言われた。
暗くなる前に作業は終わり、みんなでバスのところまで歩いた。海水のようなにおいと、ものが燃えたこげたにおいとガソリンのようなにおいがした。いたるところに車や船があって、きっと中には人がいたかもしれない。水は引いていたけど泥がすごくて、靴はすぐにぐしゃぐしゃになった。靴にビニールをかぶせていた人もいたけど、結局みんなどろどろになって歩いていた。
私と兄と太郎は、内陸の小学校の体育館に避難することになった。着くとすでに近隣の地域の人も避難していて、人がいっぱいいた。入り口でおにぎり一つと使い捨ておしぼりを一つずつ配られた。どこか寝る場所を確保しようとしたけど全然場所がなくて、体育館の中のゴミ回収のスペースの前が少し空いていたのでそこに落ち着いた。おにぎりを食べて、おしぼりで足を拭いた。毛布やシートも物資で配られたりしたようだったけどわたしたちがついた頃にはもうなかったので、余っている段ボールをもらって、段ボールを床に敷いて横になった。近くから避難してきた人たちは、自分の家から持ってきた毛布や服などであたたかそうで、わたしたちみたいな海から逃げてきた人たちとはギャップを感じた。目も怖かった。太郎も不安なのか、私のジャンパーの中から出てこようとしなかった。でもそのおかげで、すごく寒かったけど、お腹はあったかかった。中学の先生が状況把握のため点呼をとっていて、太郎をお腹に抱えた様子をちょっと笑われた。
夜、暗い中で何回か余震があって、そのたびに体育館の照明が大きく揺れて、ざわざわした夜だった。
朝になると支援物資が届いた。飲み物はコップがないともらえないと言われて、考えて、ひとり一個もらえるパンの中からサンドイッチ用のパンを選んで、その空き容器で飲み物をもらうことにした。兄はマヨネーズ入りのカロリーの高いロールパンを選んで、とにかく栄養を確保するように2人で食べた。トイレは、プールの水をバケツでくんで流せたので困らなかった。古着も物資で届いたので、パーカーなどの着られそうなものをもらった。���たしたちの隣にいた老夫婦が小さな犬を連れて避難していて、太郎は犬に懐かれていて面白かった。
兄と座っていると、名前を呼ばれた。お母さんとお姉ちゃんが走ってこちらに向かって来ていた。
生きててよかったと抱きしめられた。みんなで号泣した。
お母さんは仕事で内陸にいて、お姉ちゃんもバイトで海からは少し離れたコンビニにいて、津波が来る前に東部道路に避難して助かっていた。2 人は違う小学校で合流できていたようで、わたしたちの地域の人たちが避難している場所を探していてくれたようだった。お母さんが働いていた保育所の休憩室を間借りしていいといわれたらしく、そこに移動することにした。車できたからそれでいこうと外にでると、血の繋がっている方の父がいた( 私の両親は離婚していて、お母さんは再婚して、新しいお父さんがいます)。私は父のことを嫌っていたし、何年も会ってなかったけど、そのときはなぜだかとっても安心して、頭を撫でられて肩を抱かれると泣いてしまった。非常事態だったので、お母さんも連絡をとって食料や布団などをわけてもらったらしい。
車に乗り、保育所に向かう途中、太郎が安心しておしっこをもらした。避難所では粗相をしなかったので、太郎もがんばっていたのだなと思った。
保育所の休憩室は、5畳ないくらいのスペースで小上がりの畳になっていた。畳の上に段ボールを敷いて、布団を敷いて、家族で川の字になって眠った。やっぱり寒くてなかなか寝付けなかったけど、お母さんが抱きしめてくれたおかげで、よく眠れた。
次はお父さんと合流しようと、情報を求めて市役所に向かった。市役所の中に入ると、壁いっぱいに「◯◯に避難しています◯◯みたらここに連絡をください」といったような内容の紙がびっしりと貼られていた。その中には知っている名前も幾つかあって、ああ無事だったのだなと安心したこともあった。お父さんの名前を見つけたけど、けがをしている、というようなことが書いてあったので焦った。とりあえずお父さんがいるという避難所へ向かうと、お父さんは元気そうに出入り口近くの椅子に座っていた。安心したお母さんはへなへなになって笑った。あのときは情報が錯綜していたので、間違ってそう書かれてしまったらしい。すぐに同じ場所にお父さんも移動したかったけど、お父さんは公務員なので被災者の誘導等の仕事があったのですぐには保育所に一緒に戻れなかった。
保育所での生活は体育館にいるときよりずっと過ごしやすかった。狭かったけど、家族がみんないて、人の目を気にしなくていいのはすごく救われた。電気はまだ復旧していなかったけど、水道が使えて嬉しかった。ごはんも、お母さんの仕事仲間の人が炊き出してくれたりして、あたたかいものを食べられた。ずっとお風呂に入れてなかったので気持ち悪くなって一度、水で頭だけ洗ったけど、寒すぎて凍えた。被災してから一週間たたないくらいに、電気が復旧し始めて、近くの家に住んでいたお母さんの職場の人の好意でお風呂に入らせてもらった。久しぶりのお湯はあったかくてきもちよかった。
お店もすこしずつものを売られるようになって、学校もない私と兄と姉はそれぞれ生活に必要なものを行ける範囲で探し回った。持ち出せたお小遣いをもって、とにかくいろんなお店でなにか買えないか歩き回った。個数制限で、ひとり3個までしかものが買えなかったり、なにも残ってなかったり、3時間以上並んだりした。
あるとき、ひとりでお店の列に並んでいると、知らないおじいちゃんに話しかけられた。どこからきたのかなんでひとりなのか聞かれ、答えると「大変だったね」と自分が買ったバナナを分けてくれた。少し泣いてしまった。いろいろなところで食べ物などを買えてうれしかったけど、そのころは物資不足で窃盗や空き巣が多発していたので、ビクビクしながら保育所に帰る道を早歩きでいつも帰っていた。
銀行でお金をおろせるようになり、保育所も再開するので長くはいられないと、アパートを借りることになった。お父さんががんばって見つけてくれた。引越して、いろんな人の好意で家電や家具をもらって、なんとか避難所生活はひとまず終わった。
アパートで炊飯器をつかって炊いた、炊きたてごはんをたべたときはすごくすごくおいしくて、おかずは缶詰の鯖だったけど、何杯もおかわりをした。あのとき食べたごはん以上に美味しいと感じたものは今もない。
アパートで暮らし始めて少しして、携帯の電話番号を覚えていた友達に電話をかけてみた。その子は飼っていたペットたちは犠牲になってしまったけど無事だった。ただ、その子との電話で「Aちゃん残念だったね。」と言われた。Aちゃんは私のすごく仲良しの女の子で、どういうことなのか理解できなかった。
Aちゃんの妹の名前と避難先の書かれたメモを市役所でみていたので、Aちゃんもきっと無事だろうと思っていた。「新聞の犠牲者の欄に名前が載っていた」そう言われて、後の会話は覚えていない。電話の後に新聞を読み返して犠牲者の欄を探したら、Aちゃんの名前を見つけてしまった。新聞に名前が載っている,という証拠のようなものをつきつけられて、一気に怖くなり、悔しくて信じられなくてまた泣いてしまった。
兄もその欄に仲の良かった友達の名前を見つけてしまったようで、リビングのテーブルに突っ伏して、「なんでだよ」とつぶやきながらテーブルを叩いていた。
4月のある日の夜、また大きな地震が起こった。また津波が来るのではないかと家族全員で車に乗り、指定避難所に急いだ。幸い、なにもなかったが、その日の夜は怖くて車から降りられず、朝まで起きていた。
通っていた中学校から一度学生も職員も集まるよう連絡が来た。当日は市の文化会館に集合し、そこからバスで市内の小学校に移動した。久しぶりに同級生と再会して、今どこに住んでいるのか家族は無事だったのかたくさん喋った。そしてみんなが集まった前で先生が、犠牲になった同級生の名前を読み上げた。Aちゃんの名前も呼ばれた。先生の声は震えていて、最後は泣きながら私たちに向かって話していた。7人の友達が死んでしまった。学校全体では、14人の生徒が犠牲になった。
私はすごく後悔していることがある。遺体安置所に行かなかったことだ。市内のボーリング場が安置所になっていて、そこにAちゃんがいることもわかっていたが、怖気づいていけなかった。私とAちゃんともう一人とで三人で仲良くしていて、そのもうひとりの子は会いに行っていた。顔中があざだらけでむくんでいた、と言っていた。お化粧をしてあげたよと聞いた。私も会いに行けば良かった。
学校は市内の小学校の旧校舎を間借りして再開した。歩いて行ける距離ではなく、駅から毎日臨時のスクールバスが出ていたので、私はそこから毎日学校に通った。文房具や教材は支援物資が届いて、しばらくは制服もなかったので私服登校だった。何週間も字を書いてなかったので、文字が下手くそになっていた。遠くに避難して、転校してしまった子もいたけど毎日家族以外の人とも会えるのは嬉しかった。でも、間借りしていることは肩身が狭かった。間借り先の小学校の子とは話した記憶がない。支援物資や有名人がきた時は「ずるい」、「 そっちばっかり」と言われるようなこともあった。自分は生徒会役員だったため、お礼状や物資管理を手伝っていたけど、千羽鶴や「頑張って!」、「絆」などのメッセージを見るたびに複雑な気持ちになった。無理やり前向きになれと言われているようだった。
学校も落ち着いた頃、同級生の一人のお葬式に参加した。小学校の頃から係活動で仲良くなった子だった。その子はお母さんも亡くなって、その子のお父さんから良かったらきてほしいと連絡があった。とても天気のいい暑い日で、田舎の方の緑がたくさんあるところでお葬式が行われた。久しぶりに会ったKちゃんは小さな箱になっていた。焼かれて骨���なって骨壷に入ったKちゃんは、軽くて白かった。お墓にお箸で骨を一つ入れさせてもらった。「ああ、Kちゃんはもういないんだ」と、「こんなに小さくなってるなんて」と、脱力した。
私は夢を見るようになっていた。夢の中で津波から逃げたり、友達と会ったりしていた。その中でも強烈だったのが二つ
ある。一つは、どこかのホテルに友達と泊まりに来ていて、ホテルのベッドで飛び跳ねて遊んでいた。途中までは私も遊んでいたけど、何か変だと感じて、だんだん飛び跳ねている音がうるさくなってきて、「ねえもうやめようよ」と声をかけた。するとその音は「ゴーーーー」という地鳴りの音に変わって、私は耳を塞いでしゃがみこみ、叫んだところで目が覚めた。自分の叫び声で起きた。
もう一つは、なぜか私は小学生で、小学校の帰り道をAちゃんと何人かの友達と歩いていた。夢の中では納得していたけど、不思議なことにみんなでAちゃんのお葬式に行こうとしていた。道の途中で、2本に分かれているけど少し行くとまた繋がる道があり、そこで私はAちゃんをびっくりさせようと「また後でね!」と違う方の道を走って待ち伏せしていた。でも、だんだん不安になって、泣きながらAちゃんを探した。立ち止まっているAちゃんを見つけて、「 行かないで!」と抱きついた、Aちゃんは静かに「なんで私のお葬式があるの?」と、聞いてきた。
そこで目が覚めた。しばらく体は動かず、寝ながら泣いていたようで、頬が涙でカピカピになっていた。
冬になって、12月11日の早朝、お母さんとお姉ちゃんの声で起きた。どうしたのかとリビングに行くと、2人が「お父さん!」と声をかけて、体を揺すっていた。後から聞いた話によると、朝、お姉ちゃんがバイトの支度をしているときに、お父さんから寝息が聞こえず、お母さんに「変じゃない?」と言って、2 人で起こそうとしたようだった。私も声をかけたが起きず、お母さんは「かなこ!( お姉ちゃんの名前) 救急車!」と叫んで、心臓マッサージを始めた。バキバキと骨の折れる音が聞こえた。お父さんの胸はベコベコにされていたが、起きない。私も交代でマッサージをして、救急車を待った。救急車が到着して運ばれる直前、そっとお父さんの足を触った、氷のように冷たくて硬かった。救急車を後ろからお母さんの車で追いかけ、病院についた。ドラマで見たような部屋に運ばれ、看護師に心臓マッサージをされていた。心電図はまっすぐで、「ピー」という音がなっていた。何分間かどれくらい経ったか、マッサージが止まり、瞳孔を見られていた。「すいません」と看護師の方が言い、「ご臨終です」と、初めて聞く言葉を耳にした。病室には「ピー」という音とが響いていた。
みんな無言で家に戻り、お母さんがリビングに座ったところで、「どうして!」と泣き叫んだ。お母さんがそんなに泣いているところを初めて見た。お父さんのことはまだショックでよくわかっていなかったけど、その姿がどうしようもなく悲しくて、お姉ちゃんと抱き合って泣いた。
中学校には、お母さんが色々な手続きで忙しそうだったので、自分で電話をした。担任の先生に繋がり、ほぼ文章になっていなかったけど泣きながら事情を説明した。先生はゆっくり聞いてくれて、学校のことは心配しなくていいよと言ってくれた。
お葬式までの間、斎場でお父さんと過ごした、ドライアイスで冷やされて、冷たかったけど、箱の中にはずっといて、怖くもなかったし、もしかしたら起きるんじゃないかなんて思ったりもした。まあ、当たり前にそんなことはなく、火葬の日がきた。
お父さんが焼かれる場所へ、親族一同で向かった。炉の中へ入れられるとき、もう体さえもなくなってしまうんだと、お父さんに会えなくなるんだと理解した私は一気に悲しくなり、「お父さん」とつぶやいた。涙が止まらなくなり、「行かないでよ」とつぶやいた。お母さんが私の背中をさすった。兄が私の頭に手を添えた。
お父さんは焼かれた。ちゃんとお骨を拾い、壺の中にお父さんは収まった。
お父さんは公民館職員で、そして糖尿病を患っていた。震災の日、公民館は建物が低いので、違う避難場所に誘導している途中で津波が来た。目の前で他の職員が流されるのを見たそうだ。公民館にいた人はギリギリ二階に登り助かったものの、船が建物にぶつかって半壊し、もう少しでみんな死んでしまうところだった。でも、避難途中で犠牲になった人の遺族からすれば、いたら助かったじゃないか! とひどく責められていたらしい。
避難場所でも、公務員はずるい優遇されていると同じ被災者なのに責められ、ストレスで体がおかしくなっていた。持病の糖尿病が悪化し、20キロ体重が増えていた。お母さんから後から聞いた話によると、毎晩のように公民館のグラウンドいっぱいに遺体が並び、こっちに来いと呼ばれる夢を見ていたそうだ。死因は無呼吸からの心肺停止だった。
お父さんは震災に殺された。
お父さんの死と、自分の受験のシーズンが重なり、私は少しおかしくなっていた。受験している場合なのかと悩んで、身が入らなくなっていた。トイレで隠れて手首を切るようなこともあった。今思えば、なにも考えたくなかったからそういうことをしてしまったのかもしれない。様子がおかしいと思われたのか、スクールカウンセラーの先生に、週1回、カウンセリングを受けることになった。行きたくなくてサボった日もあるけど、先生は怒らなかった。優しくいろんな話をしてくれた。友達にも支えられて、なんとかいつも通りに過ごせるようになった。
高校受験もおわり、合格発表の日、私は1人で受験した高校に結果を見に来ていた。無事番号を見つけてお母さんに連絡すると、すぐにメールで返事が帰ってきた。メールが2通届いて、確認してみると、もう1通はお父さんの携帯からだった。「合格おめでとう!」と、本当にお父さんからきたかと思って嬉しかった。すぐにお母さんがお父さんの携帯で送ってくれたのだろうと気づいたけどとっても嬉しかった。
高校では美術科に在籍していたため、常にコンペに向けて制作をしていた。一度だけ、Aちゃんを描いたことがあったけど、周りには誰ということはなにも言わずにただ描いた。それっきり震災関連で制作をすることはなかった。
高校生活の中で辛かった授業がある。保健体育の授業だ。心肺蘇生の心臓マッサージを学ぶ授業の時は、お父さんの感触を思い出して辛かった。避難について学ぶ授業では、ふざけた男子生徒が、避難のシミュレーションを発表するときに「津波だー!」とヘラヘラしながら津波のモノマネをしていて腹がたった。そういう授業があった日は、その日1日は震災のことなどで頭がいっぱいになり、帰ってからいつもお母さんやお姉ちゃんに慰めてもらった。
そして何度か震災復興のためのアートプロジェクトに参加した。被災者として何かしなければと義務感に駆られて、割と積極的に参加した。でも、いつも心の隅には、こんなことをしてなにになるのだと皮肉な自分もいた。震災の時のことを公演してくれ、文章にしてくれ、という依頼は全て断った。語ったりはしたくなかった。
高校の卒業制作展で、ゲストを迎えたパネルディスカッションを行った。ゲストは有名な大学の先生で、私は卒展の実行委員長としてトークをした。その中で、「地域復興」の話題を担当し、いろいろなことを話したけど、「私もゆくゆくは自分の地域をなにかしら盛り上げたい」と口にした後は「本当にそう思っているのか?」と、苦しい気持ちになった。立派なことを言わなければ、というプレッシャーがあった。
いつも3月11日は家で家族と過ごすようにしていたけど、2015年のその日は、震災以来初めて閖上にいた。
京都に引っ越す前にみんなに挨拶がしたいと思ったからだ。お花を持って友達と待ち合わせをして、久しぶりに来た日和山は、前はみんなで鬼ごっこをして遊んだ場所だったけど、今は慰霊の場所になっていて、上から街を見渡すと、何にもなかった。まっさらでたまに草が伸びている、そんな景色だった。
中学校に移動して、2時46分を待った。鳩の形の風船が配られて、メッセージを書いた。「行って来ます。」と。そして2時46分、みんなで風船を飛ばした。
でもその瞬間はひどいものだった。多くの人がスマホを構えて、風船を飛ばす瞬間を撮っていた。カメラの音がたくさん聞こえて悲しくなった。なんのためにやっていることなのか、気持ち悪かった。一緒に来ていた友達も怒っていた。イベントじゃないんだ、と叫びたかった。
京造に進学してからは、震災の話題に触れることは少なくなった。し、自分でも避けるようになった。
宮城出身です、というと大体「震災大変だったでしょ?」と言われた。「そうですね」と正直に言うと、気まずそうな申し訳なさそうな対応をされた。それが嫌で、出身は言いづらくなって、「震災大変だったでしょ?」と言われても、「大丈夫でしたよ」と言うようにした。一回生の授業である先生が、どんな内容で言ったのかは忘れてしまったけど、「津波はあっけなく人を殺すからね〜。」と、さらっと言ったことがあった。私はショックで涙がとまらなくなった。俯いて、寝てるふりをした。周りの子にはバレていたかもしれない。その日はずっと気分が上がらず、帰ってからお母さんに電話をした。当時一緒に住んでいたルームメイトに抱きしめてもらった。
二回生の時は、授業中に阪神淡路大震災の映像が流されて、震災の時の記憶がフラッシュバックしたこともあった。イヤホンをつけて目をつぶってやり過ごして、大階段を登ってすぐ横の芝生のベンチで家族に片っ端から電話をかけた。午前中でなかなか繋がらず、体育すわりをしながらずっと待っていた。お姉ちゃんとつながって、落ち着かせてもらって、その日は授業があったけど、一度家に帰った。夜は眠れなかった。
7年経った今でも、津波の映像や写真は見ることができない。彷彿とさせるようなものも苦手だ。3月はいつものように睡眠を取ることもできなくなる。11 日は家族と実家で過ごすようにしている。閖上の方向を向いて必ず黙祷をして、黙祷している時は、悲しい、悔しい、いろんな感情が混ざったように涙が出る。
私はずっと震災に潰されている。それが、とても嫌だ。
——
でも、このままでいるのはもっと嫌だ!
だから私は向き合うことにした。
制作をはじめると同時にひまわりの種を植えた。ひまわりは、お父さんの1番好きな花だったから。
だけど、ひまわりは咲かずに途中で枯れてしまった。
私にはもう少し、時間が必要なようだ。
もうすぐ、8年目の3月11日がくる。
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buriedbornes · 6 years
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第21話 『水と油の漂泊者《バガボンド》(1) - 俺を見るな』 Opposite vagabonds chapter 1 - “Do not see me”
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一筋の光が、空に瞬いた。
光は尾を引いて空を舞い、やがて夜空の果てに消えた。
全てのはじまりはなにか?
それを定める事は難しい。
病の蔓延が始まるまでには、1年以上の歳月を経ていた。
広がる病の真の恐怖が人々に認識されるまでにも、また数ヶ月かかった。
しかし、この地に災厄が訪れた瞬間を全てのはじまりとするならば、間違いなくこの夜こそが、全てのはじまりであったと言える。
この光の筋は幾人かの天文学者や占星術師達によって観測はされていたが、それをこの災厄と結びつけて考えた者は一人もいなかった。
それは、そうした立場に置かれた学者達が、同時に訪れた災厄と向き合うだけの余裕がある者がいなかったためとも言える。
或いは、仮にそのつながりに気がつけたとしても、何らかの手立てを打つ術を持つ者が一切いなかったのかもしれない。
奇病という災厄が細々と隠れ暮らす人々を襲い始め、コミュニティが存続するための僅かな生命線として機能していた流通は、今や自身の命を脅かす死の交易と化していた。
一切を断つ事もまた、生活に必要な物資の枯渇を、つまりは事実上の死を意味する。
人々は病の恐怖に怯えながらも、それでもコミュニティ同士をつなぐつながりを断ち切る事はできずにいた。
病が自分達のコミュニティには訪れないと祈りながら、まるで突然の死刑執行を待つ死刑囚のように、戦々恐々と日々を過ごしていた。
だが、それ自体もまた、彼らにとってはある意味で日常でしかない。
死の恐怖は昨日までも現実のものとして草葉の影から彼らを見つめていた。
「リスクの種類が1つ増えた」と書けば、或いはそれはそれだけの事だったと捉えられなくもない。
奇病がもたらすものは、既存の医療の知識からは全くの想定外のものだった。
感染者は徐々にその肉体を蝕まれ、どこともなく臓器不全を起こし、そしてそれは全身へ転移し、肌はまるで灰のように枯れ、やがてまるで炭の燃えカスのように、崩れて朽ち果てるのだ。
その肉体が崩れ落ちるその瞬間までは、犠牲者の意識や苦痛は損なわれない事が、またこの病が畏れられた所以となっている。
崩れ落ちていく自身に戦慄し上げられた断末魔は、生存者達に心的外傷をも与えた。
一方で、この病は別の脅威を生んでいた。
病の感染が見られた地域では、数の限られた家畜も、そのほとんどが命を奪われた。
だが、一部の家畜、そして野生の動物には、明らかに異常な、"変貌"とも呼ぶべき変化がもたらされていた。
四肢の不均一な膨張と萎縮、多眼化、硬質化や軟体化など、およそ同じ変化が見られる個体すらないほどに、その変貌は多岐に渡った。
植物にも変化が見られ、人間の肉体と同様に灰のように朽ちて枯れるものばかりであったが、その一部は異常な程にその幹や枝を太らせて、肉塊じみて歪に変形した実を実らせたりしていた。
こうした災厄が猛威を振るう中、この災厄が追い風となった者達もいた。
多くの人間はその宗教観、倫理観から、そしてまた、恐るべき地下の軍勢のもたらした呪いへの恐怖から、屍体に触れる事を極度に避ける傾向にあった。
しかし、必ずしも全ての人々がそうであるとは限らなかった。
忌み嫌われようとも生きる事を全力で選択する者達は、屍体から得られるものを得る事に躊躇う事はなかった。
いわゆる屍体さらい達は、そうして各地の墓所や犠牲の現場に現れては、屍体から活用可能なものを奪っていくのだ。
外傷で失われた命は、とても価値が高い。
臓器の移植は生存者の助けになるばかりでなく、冒涜の研究者達にとってはこの上ない"材料"ともなる。
勿論、肉体ばかりが屍体の活用方法ではない。
屍体の身につけたものは、当然どんなものでも新しい持ち主を必要としているだろう。
由緒のある人物の屍体であれば、その帰りを待つ人物がどこかにいるかもしれない。
僅かばかりか、或いは莫大な謝礼が得られる事もある、言ってしまえば"大穴狙い"の屍体だ。
社会の崩壊以前であれば重罪となったこうした行為も、今となっては咎められる者もいない。
「手を汚す事は避けたい」「でも欲しいものは手にしたい」という生存者は、彼らにとって良いお客さんだった。
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旧市街跡の奥を利用し、ひっそりと営まれていたこの集落も、やはり病に蝕まれて崩壊した。
瓦礫や建物の跡に張られたテントの下では、粉末のように崩れ去った灰や、まだ形を残した屍体などが残されている。
集落全体には酷い悪臭が立ち込めて、常人であれば意識を保つ事すら難しい空間に、蠢く人影が3つ。
まるで甲冑のようにその身を布で包み、顔を覆い、長靴で邪魔な屍体を足蹴にしながら周囲を物色する3人の部外者。
一人が、三重に織られた鍋つかみのごとき手袋で、屍体の灰を払い、主をなくした指輪をつまみ上げ、袋にそっと入れ、呟いた。
「このところはしけてんなァ…」
「ないよりはマシってな~」
隣の一人が、テントの中に顔を覗き入れながら答える。
「お前ら、黙って仕事しろ」
先行した一人が、後ろで愚痴を零す二人に促す。
「言うてリーダー、喋ったとこで手が止まるわけでもないでしょうに」
「違う、ここにはまだ何かいるかもしれん」
リーダーと呼ばれた男が立ち止まる。
視界の先に、うず高く積まれた屍体の山。
屍体の山?
後方の二人は、周囲を見渡し、背を屈めて懐から短刀を取り出した。
「先客が?」
「同業なら、叩く。だが、何らかの魔物ならすぐにここを出るぞ」
「「了解」」
張り詰めた空気が、薄暗い路地に重くのしかかる。
奇襲も予測したが、結果はそうはならなかった。
前方の瓦礫の先から、屍体を担いだ人影がゆっくりと出てくる。
リーダーは意を決し、口を開く。
「そこにいる者!こちらに来い!」
声を張り上げて、呼びかける。
人影は、一瞬動きが止まったかと思うと、ゆっくりとこちらに歩み寄って、担いだ屍体をゆっくり積まれた山に乗せた。
「なんだお前達は?」
屍体あさり達と同様に、布で全身を覆った男が、不敵に言い放つ。
「なんでもいいだろう」
リーダーが腰から短い杖のようなものを取り出し答える。
それを見て、男は大きなため息をつく。
「屍体あさりか、最近は本当に到着が早いな…」
言いながら、振り返りまたどこかへと向かうと足を進めようとする。
「待て」
リーダーは腕組みをして立ち尽くしている。
後ろの二人がゆっくりと前進し、男を左右から挟むように広がっていく。
「率直に言おう。ここは我々の縄張りだ。屍体を置いて、消えてもらえないか?」
背を見せたまま、男は足を止める。
「それならこちらも、率直に言おう… すぐにここを立ち去れ。死にたくないならな」
その言葉は、"悪党"なら嫌というほど耳にするものである。
そうして、その言葉に従う事が、自分達の立場にとって死活問題である事も彼らは重々承知していた。
程度の低い"悪党"ならここで大笑いしたり、激昂するところだが、彼らは違った。
3人の眼光が一層鋭く輝く。
リーダーもまた、深く息を吐いた。
「それを素直に聞ければ、我々も困らないんだがね…」
リーダーもまた、短刀を構える。
男はまだその場を動かない。
だが、指先が剣を求め、ゆっくりと開くのが見える。
抜かせる前に終わらせる。
そう思い、足の筋肉に力を入れる。
その瞬間、聞き慣れぬ鋭い音が響き、黒い影が頭上から飛来する。
頭上?
影は瞬く間に、広がった二人の屍体あさりの上部に覆いかぶさり、押し倒す。
黒い影を視界の端に捉える事に成功したリーダーは、突然の襲撃者を確認する間もなく回避する。
視界の先で、同じく飛来した黒い影をかわし、二つに断ち切る姿が見えた。
「なん…!?」
見ると、奇怪に変色し肥大化したカミキリムシのようなものが、しかしその大きさは大人の獅子ほどか?
覆いかぶさるように飛来したその昆虫は、倒れ伏した二人の屍体あさりの覆い布の薄い顔面に歯を立て食らいつき、声にならぬ悲鳴が街路に響く。
どこから現れた?
視線を上げる。
狭い路地の上方、建物の屋上から、さらに数え切れぬほどの昆虫がぞろぞろと壁に沿って降りてくる姿が見える。
倒れ込んだリーダーの周囲を、瞬く間に昆虫達が包囲する。
死んでたまるか。
立ち上がり、再び短刀を構える。
だが、周囲の昆虫達が動き出す前に、鋭い音が再び奥から聞こえてくる。
まるで並べられた瓶でも払うかのように、街路にひしめく昆虫をなぎ倒しながら、あの男が猛然とリーダーに向かい駆けてくる。
殺される…
咄嗟に目をつぶる。
しかし、想像されたものとは異なる衝撃が全身を打ち付ける。
三半規管が揺さぶられる感覚。
目を開くと、男はリーダーを脇に抱え、全力疾走している。
道中の昆虫達の間を抜け��、狭い街路を風のように駆けていく。
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目を開く。
街の外れ。
あの短時間で、人間一人を抱えて、この距離を?
一瞬、頭が理解に追いつかず、呆けのように周囲を見回す。
「だから言っただろうが、死にたくないなら立ち去れって」
男が、装いを解きながら悪態をつく。
「あ゛ー、暑い!!やっぱ俺はこれ嫌いだわ、アンタは?」
そう言いながら、男は着込んだ防護服を脱ぎ捨てた。
隆起した僧帽筋。
決して太くはないが、その内に鋼のような硬さを内包した上腕二頭筋。
男のその尋常ではない身体能力は、今隠される事もなく明らかにされていた。
水浴びでもしたかのように汗を流しながら、男はこちらを見て言う。
「ん?」
呆然と眺めてしまったがために、返事が遅れてしまった。
何を言えばいいのか?
自らが命を奪おうとした者に命を救われて、その者に何を?
「あ、ありがとう…」
それしか言えない。
彼はきっと、最初から、我々の身を案じてくれていたのだ。
だが、それ以上に、私はその強さに、心を奪われていた。
自分だけでなく、他人の、それも"敵"であるべき私の命さえも、何故守れるのか。
私は強くない。
誰も守れない。二人も…
二人はもう助からないだろう。
俺のせいで死んだんだ、あいつらは。
まだ若かったのに。
頭こそ良くはなかったが、悪い奴らでもなかったのに。
「俺はジョセフ。アンタ、名前は?」
その弾けるような笑顔を私に向けないでくれ。
私は、出来損ないの人間だ。
こんな拾い物の杖に頼るような、半端者だ。
生きた人間も相手にできないような、臆病者だ。
彼のような、本物の冒険者とは違う。
自分一人も守れないような、弱い人間だ…
目をそらし、服を脱ぎ、答える。
「俺は… ゴードンだ」
衰えた、柳のような貧相な肉体。
これだけの厚着でも、汗もそれほどかいていない。
しなびた白髪、髭。
屍体あさりがこんな枯れた老人だなんて、笑いものだろう。
だが、ジョセフは真顔だった。
「アンタだけでも無事で良かったよ」
笑ってくれた方がまだ幾分か良かったろうにと思った。
今一番目にしたくない顔、慈悲に満ちた哀れみが、そこにはあった。
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~つづく~
水と油の漂泊者《バガボンド》(2) - ”金のため” (執筆中)
「ショートストーリー」は、Buriedbornesの本編で語られる事のない物語を補完するためのゲーム外コンテンツです。「ショートストーリー」で、よりBuriedbornesの世界を楽しんでいただけましたら幸いです。
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xf-2 · 6 years
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本庶佑京都大学特別教授のノーベル生理学・医学賞受賞が決まり祝福ムードが高まるなか、「大学への補助金を増やせ」という論調が目立ち始めた。しかし補助金を増やせば研究は必ず活性化するのか。橋下徹氏が異論を唱える。プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(10月23日配信)より、抜粋記事をお届けします――。 ■同級生のお父さん、本庶教授は日本の誇りだが……  10月1日、本庶佑京都大学特別教授がノーベル生理学・医学賞を受賞することが決定した。日本の誇りである。本庶さんは、僕の高校の同級生である本庶君のお父さん。僕は本庶君とは親しい間柄ではなかった。彼は、僕の高校の中で学業超優秀な学生として有名で、僕が親しくしていた友人連中のグループとは別グループだったんだよね(笑)。僕らが高校生だった今から約30年前のときに、「本庶のお父さんはノーベル賞を取るような人やで」という話を既に耳にしていた。ノーベル賞は、やっぱり取るべき人が取るもんなんだね。  本庶さんの受賞を受けて、「大学への補助金を増やせ」という議論が起きている。しかし僕は、今の日本の大学の状況のまま、大学の予算を増額することには反対だ。僕は大学予算、研究予算に限らず、税金のあらゆる使い道はしっかりとチェックすべきだということを強く訴えて、政治活動をやってきた。これが僕の政治活動の柱だ。  民間企業は、カネの使い道を誤ってしょうもないことをやれば、すぐに倒産だ。民間企業の場合には、この倒産のリスクがあるから、基本的にはカネの使い方には自ずと厳しくなる。カネの使い方がいい加減な民間企業は倒産して消えていく。  しかし、政治行政の世界には倒産がない。ゆえに金の使い方を誤っても何のリスクもないので、放っておけばいい加減な金の使い方になる。大阪府政、大阪市政における税金の無駄遣いも酷かった。  (略)  僕が大阪市長に当選した2011年頃は、心斎橋筋商店街も道頓堀界隈も、黒門市場も、どこもかしこも閑古鳥が鳴いていた。それが今は、満員電車状態だ。  大阪��公園も人で溢れかえっている。たこ焼き屋が3年間で1億円以上の脱税をやって捕まるくらいの勢いだ。1億円以上の脱税って、たこ焼きだけでどれだけ儲けていたんだ?   閑古鳥が鳴いていた黒門市場も、世界の潮流に従い、イートイン、すなわち食べる市場として完全復活した。もう市場は売るだけではダメだ。ロンドンでもパリでもフィレンツェでも、市場は巨大なレストランと化している。日本の市場も金沢の近江町市場をはじめイートインに転向していって大流行り。黒門市場も外国人観光客相手に大流行りだ。
僕がかつて住んでいた地域の、どうってことのない普通の商店街やそこにある外国人向けの宿泊施設は、お客が減って経営が苦しくなってきた銭湯とタッグを組んだ。銭湯を外国人に無料開放したんだ。その資金は宿泊施設などがサポートする。  そうしたら外国人は銭湯が物珍しくてしょうがないんだろうね。ツイッターなどのSNSで噂が広がり、大量の外国人観光客が押し寄せるようになった。あの脱衣所の感じ、広い洗い場と湯舟、そしてなんと言っても壁にかかれた大きな富士山の画。外国人にとって楽しくてしょうがないらしい。しかも無料。そりゃ、押し寄せるわな。  そうなると外国人向け宿泊施設は儲かるし、その状況を聞きつけた賢い商売人は宿泊施設を新たなに建設する。周辺の飲食店などは、その外国人をターゲットに商売をする。イイ循環になっている。ゴーストタウン化していた数年前の様子が想像もできないような状況になっている。  この時の重要な政策ポイントとして、僕は商店街や銭湯に対する補助金を削減しにいったんだよね。当時の商店街振興策、銭湯振興策は、とにかく税による補助金を出すこと。これは全国どこでも一緒だと思う。毎年毎年、予算の時期になると、商店街補助金を増やす必要性、銭湯補助金を増やす必要性について、役所の担当部局などがそれらしい資料を僕のところに持ってくるんだよね。  まさに、今の国立大学協会や文部科学省高等教育局国立大学法人支援課が作っている資料と同じようなもの。大学と商店街、銭湯の違いがあっても、言っている趣旨やロジックは全く同じなんだよ。役所に補助金増額をお願いするやり方は、皆同じなんだよね。  で、これまで役所が商店街補助金や銭湯補助金をずっと出し続けてきた結果、商店街や銭湯はどうなったか。衰退の一途だった。それでも毎年、補助金増額の話ばかり。
■国立大学は「補助金増額」以外の創意工夫を  関西国際空港もそうだった。いまでこそ成田の営業利益を超えるようになり、過去最大の利用客数となっている関空だけど、僕が知事に就任した2008年当時は、就航便数や利用客数が少なくてどうしようもなかった。そして、恒例の補助金。毎年、国からは200億円近くの補助金が出ていた。関西の自治体からも合計で10億近くの補助金。それでも関空は一向に経営改善しない。  僕はまずは関空の補助金を0にして、関空や国土交通省に危機感を持ってもらった。そして当時の前原国土交通大臣が知恵と工夫で練り上げた関空・伊丹統合+運営権民間売却案なるもので、みごと関空は復活した。LCCと貨物の拠点空港という位置づけを明確にし、物販飲食で儲けて、航空会社の発着陸料コストを下げる。今は補助金なんかなくてもきちんと営業をしている。  伊丹空港も完全民営化となって、これまでとは全く異なる空港になった。それまで南北離れて別れていたJALとANAの出口が二階の真ん中で一本化された。そして出口扉を出ると、そこには洒落たショッピング街が待ち受ける。  さすが民間だよね。JALとANAで出口が別れていたら、お店もそれぞれにばらけるし、店の前を通るお客もJALとANAの客でばらけてしまう。昔は、大阪名物豚まんの551蓬莱の店もANA側の出口にしかなかったんだよ。  倒産のリスクがない、売り上げを伸ばす必要のない国営伊丹空港だった時には、誰もそんな状態を変えようとしなかった。しかし、補助金もなく、自分たちで努力しなければならなくなった新生民間伊丹空港は、出口を一本化すれば、客の流れが倍になることを見逃さなかった。そしてその上で、ショッピング街も一本化。  (略)  国営空港だった時に放ったらかしにされていた、タクシーターミナル、バスターミナルもみごとに整理された。それまで結構な利益が上がっていた駐車場や飲食店が集まるターミナルビルは、それぞれが天下り団体になっていて、利益が天下りの懐に消えていた。それらも全て新生関空・伊丹統合会社に合流させて、その利益を新生会社に合理的に使ってもらうようにした。このようにして天下りの懐に消えていたお金が、空港施設への投資に回るようになったんだ。  商店街だって、銭湯だって、補助金がなくなれば、自分たちの知恵で創意工夫するしかなくなる。全国どこでも同じだと思うけど、商店街振興策は、年末の餅つき大会、夏の夜店、福引セールに、カラオケ大会などのイベントへの補助金ばかり。それも毎年同じイベント。そんなことで商店街が活性化するわけがない。  ほんと補助金って、麻薬みたいなものなんだよね。これにいったん浸かってしまうと、もうあとは補助金の増額しか言わなくなるんだよ。  国立大学協会の会長は、京都大学の学長だ。いつもイノベーションだ、創意工夫だと言っているくせに、自分たちの補助金のことになると、旧態依然とした、役所に補助金増額をお願いするやり方しかやらない。そこにイノベーションや知恵と創意工夫の姿形は全く見えない。  国立大学協会や文部科学省の国立大学法人支援課が作っている資料を見ただけで、こりゃ日本の大学はダメだわな、と感じるね。僕が知事、市長のときに経験した、役所と事業者のダメな主張の典型例。こういうのを正すことこそが政治の役割であって、柴山昌彦文部科学大臣の手腕に期待している。  (略)  (ここまでリード文を除き約3000字、メールマガジン全文は約9600字です)  ※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.124(10月23日配信)を一部抜粋し、加筆修正したものです。もっと読みたい方はメールマガジンで!  今号は《【大学改革と観光行政(1)】大阪で実証!  補助金削減&創意工夫こそが成長へ続く王道だ》特集です。
前大阪市長・元大阪府知事 橋下 徹 写真=時事通信フォト
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yumie-morohoshi · 4 years
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やまがたり-出羽國如月独り旅
旅に出る場所。
私は寒いのが大の苦手、という理由だけで
それまでは、自分の生まれ育った関東より西南の、どちらかというと温暖な地域に偏っていた。
真冬の北国だなんて、聞いただけで寒気がしてきていた。
ところが、である。
たまたま近所のカフェで何気なく手に取った、写真家・シャルル・フレジェの写真集「YOKAI NO SHIMA」の中に
藁でできた衣装を身に纏った人たちが、踊り回っている場面を見つけ
なんだこれは・・・面白そう、観に行きたい、という気持ちが頭をもたげてきた。
山形県上山市で毎年2月に行われる民俗行事「カセ鳥」。
寒いの嫌だ、と常日ごろ口にしていた私は
2019年の年明け、生まれて初めて、ユニクロの「ヒートテック」なるものを新宿まで買い求めに行き
「ヒートテック」なる繊維が生地に織り込まれている靴下と肌着を手に入れた。
それまで、ヒートテックというものがどういう形状をしているのか、まったく想像がつかなかった。
東北へ足を運ぶのは人生2度目、10年ぶり。
銀座にある、山形のアンテナショップの観光案内でバスの時刻表や地図をもらい
旅の相談をした。
まずは、昔ながらの旅館の外壁に鏝絵が施されているという銀山温泉。
翌日にちょうど、カセ鳥が行われる上山温泉。
2月の初旬、新幹線「つばさ」に乗り込んだ。
那須塩原を過ぎたあたりから雪が舞い始め、福島では止み
その後、また雪が深くなっていった。
新幹線といえば、東海道新幹線ばかり乗っている私にとって
山形に近づくにつれ、くねくねとカーブを描いてゆっくり走行していく新幹線はとても新鮮だった。
最初の目的地、大石田駅に到着。
もう雪が人間の背丈ほども積もっていて「わあ」と驚く。
シーズン中とあって、銀山温泉行きのバスを待つ人はかなりの長蛇の列で、当然バスの中はぎゅうぎゅう詰め。
入口近くで、なんとか足を踏ん張って30分強の道のりをやり過ごす。
銀山温泉は観光客でなかなかの賑わい。
共同浴場があるようだが、さすがにシーズン中は地元住民限定、と張り紙がしてある。
こんなに観光客が押し寄せてしまったら、昔から住んでいるかたがたは大変だろうなぁ、と思いを馳せた。
本日の宿は天童温泉。
そのまま銀山温泉に泊まればいいのに・・・とお思いかもしれないが。
あろうことか、観光案内でいただいた宿リストの上から順に電話をかけていき、シーズン中の一人客という理由で、見事にすべての宿からお断りの返答をいただいたのであった。
致し方あるまい。
もちろん銀山温泉周辺もかなりの寒さなのだが
日が落ちて、すっかり暗くなった天童の街を歩くと
しんしんと身体の奥まで染み渡る冷たさ。
スマホの地図の温度表示はマイナスを指している。
翌朝、かみのやま温泉へと向かう。
上山の街はこぢんまりし、昔ながらの建物がそこかしこに残っていて
どことなく、親しみがもてそうである。
高台にある上山城まで歩いたり、とにかくうろうろして
なんとなくの土地勘を掴む。
ここ良さそうだな、となんとなく目星をつけたカフェで
1人でも入りやすい、おすすめの夕食どころを尋ねる。
教えていただいた小さなご飯屋さんでは、年配の女性が温かく迎えてくれ
郷土料理の一つ、お麩を揚げたものをいただいた。
次の日。
いよいよカセ鳥の執り行われる当日。
上山城で祈願式が行われるのは朝10時からだったが、私はワクワクして待ちきれず
9時から敷地内にスタンバイし、着々と準備が進められる様子を眺め、関係者がやってくるのを待ち構えていた。
まず最初に、カセ鳥に扮する若者(だけではないと思うが・・・)が
頭に手ぬぐい、上半身裸(女性はタンクトップ)、ショートパンツにわらじを履いた姿で、お城の建物の前の石段にずらりと並び
一人ずつ順番に出身地と名前、カセ鳥に参加した回数を言っていく。
「埼玉県出身、○○ ○○、10回!」と参加者が声を上げるたびに、周囲から拍手や笑い声が起こって
それがまた一層、私たち見物客の心をワクワクさせるのだった。
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その後、若者たちは「ケンダイ」と呼ばれる、藁でできた蓑を頭から被せてもらい
何グループかに分かれて、街へと下りて行く。
私も迷わず、第一陣のグループのあとをついて、街へと下りる。
しばらく歩き、街の交差点のように少し広くなっているところへ差し掛かると
先頭にいたおじさんが、スピーカーで
「カセ鳥さまのーお通りだー!」と声を張り上げたのを合図に
ソレ カッカッカーのカッカッカー
カセ鳥 カセ鳥 お祝いだ
商売繁盛 火の用心
ソレ カッカッカーのカッカッカー
と、カセ鳥たちが声を揃えて囃し立てながら
輪になってユーモラスに踊る。
彼らが踊っているとき、街を練り歩いているとき。
住民たちは構わず、彼らに柄杓やらバケツやらを使って水をかけまくる。
カセ鳥たちは黙って受け入れる。
いや、むしろ自ら進んで水をかけられに行く、という方が正しいだろうか。
当日、雪でも降っていたら、カセ鳥さんたちはさぞかし辛いだろう・・・と思っていたのだが
幸い、穏やかに晴れ上がり、寒さもそれほど厳しくはなかった。
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周りで見守る地元住民も、カセ鳥に扮した面々も、私のように後をついて回る見物客たちも
みな、満面の笑みを浮かべている。
藁の衣装を纏っていないにしても、まるで自分がお祭りの主役の一員になったかのような
一体感、高揚感を身体に感じつつ、結局正午くらいまで、ずっと一緒になって街を歩き回った。
しかし---さすがに、ずっと歩き通しではそろそろ空腹を感じる時分に差し掛かった。
一段落したタイミングを見計らって、駅から40分あまり歩いたところにあるドーナツ屋さんを目指した。
カセ鳥を追って歩き回った上、さらにそこそこの距離を歩いたものだから
店に辿り着くや否や、空腹に耐えきれず、普段どちらかというと少食ぎみの私が、気づけばドーナツを4つも注文しており
お店のかたが「大丈夫ですか?」と面食らっていた。
案の定、3つ目を食す頃にかなりの満腹を感じたため
残りの1つは持ち帰りにしてもらった。
そして、空腹だけではなく---もう一つの危機感を覚えることになる。
カメラのフィルムの残り、である。
カセ鳥の活躍っぷりを余すところなく捉えたい、と意気込んで撮影し続けるあまり
フィルムの残が心もとなくなっていた。
ここはほぼ土地勘のない東北、山形・・・
上山は大都市というほどの規模ではないから、フィルムを置いているお店がまったくない、という可能性も十分ありうる。
とりあえず足で探すしかない、とばかりに
近くのコンビニ、土産物屋、写真館などをあたってみるが、手応えはないまま。
どうしよう・・・と焦りばかりを募らせていた、のだったが。
あれ?
そういえば・・・駅のすぐ近くに、レトロな佇まいの写真屋さんがあったよな・・・
もしかしたら、あそこなら、置いてあるかもしれない・・・
どきどきしながら、ドアを開ける。
左手のショーケースには年季の入ったカメラ(おそらくフィルムカメラなのではと思う)が数台並び
年の頃が私と同じくらいか、少し若いくらいのお兄さんが正面のカウンターに立っている。
「フィルム?ありますよ!」
やった!
鹿児島・枕崎に次いで、ここ山形でも運良く命拾いをしたのであった。
お祭りがお開きになる15時ごろ、一連のカセ鳥たちが一斉に駅前の広場に集まって
カッカッカー、カッカッカーと締めの踊りを披露する。
カセ鳥役の若者たちが、次々と藁のケンダイを頭から脱いでいく。
役割を終えたケンダイは軽トラに無造作に放り込まれ、そのままどこかへ持って行かれてしまった。
名残惜しいけれども、終バスに間に合うよう、次の目的地の宿に向かわねばならない。
在来線のボックス席に腰掛け、どこまでも広がる雪の積もった平野を眺める。
夕陽が薄く差してはいたが、雲は厚くたれ込め、真っ白い畑の向こうに数軒の家がぽつぽつ見える。
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もし私が、こういう雪国に生まれ、生活していたとしたら・・・
なんとなく、気分が塞いでしまうのではないか。
ここに住むひとたちは、厳しい環境下にあっても
それなりに日常を愉しめているだろうか・・・
地元のかたには失礼極まりないかもしれないが、そんなことをぼんやり考えていた。
17時ごろ、米沢駅に着き
白布(しらぶ)温泉行きのバスに乗り込む。
この温泉地は、たまたま銀座にある山形のアンテナショップの観光案内でお薦めされ
当初、訪れるつもりはなかったけれども予定に組み込んだ地である。
バスは、すっかり暗くなり、灯りも差さない山道をくねくねと進んでいく。
ほんとうにこんな山奥に、温泉なんてあるんだろうか・・・
バスには乗客は私一人しか乗っておらず、道中不安で心細くて仕方なかったが
バス停に着くと・・・ほど近いところに門柱があり、男性が懐中電灯を持って待っていてくれた。
すっかり雪の積もった石段を下る。
「足下、気をつけて下さいね」と懐中電灯で照らしてくれた。
なんて温かい心遣いなんだろう・・・
宿の入口を入ると、正面に囲炉裏のある和室があり
女将さんが、甘酒を振る舞ってくださった。
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それまでの不安は一気に払拭され
温かな感謝の気持ちでいっぱいになった。
宿はなかなか年季の入った建物だが、丁寧に手入れされている。
当日は祝日で、翌日が平日だったからか
宿泊客はあまりおらず
大浴場も、利用した際は私一人だけだった。
こんなに広々としたお風呂や空間を独り占めしてよいものか…
少々戸惑いながらも、仄かな白熱灯の灯る空間の湯船でゆったり身体を休めた。
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翌朝。
せっかくなので、露天風呂に入ってみようと思い立ち
大浴場の隣の、簡易な脱衣所の引き戸を開ける。
やはり、今日も誰もいない。
屋外に出てみると
予想通り、身を斬るような冷たさが全身を襲う。
しかし、ひとたび湯船に身を沈めると…
筆舌に尽くし難いほどの幸福感、安心感。
辺りには雪を冠った針葉樹が広がり
時折、ばさっ、と音を立てて雪が雪崩れ落ちる。
そんな様子を眺めながら
ぼんやりと、朝の雪国の空気と、じんわり身体を包み込むお湯の温かさを膚で感じていたのであった。
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旅の道中、積もった雪を観るばかりで
あまり雪に降られることはなかったのだが
米沢の街に来たところで、しんしんと
けっこうな量の雪が降り始めた。
バスの便が悪く、お昼を食べようと思った喫茶店まで
駅から40分あまりの道のりを、降雪をかき分け歩くことになった。
米沢牛、と書かれた看板のお店を尻目に
橋を渡り、喫茶店へ。
お昼を食べて、また40分あまりかけて
駅へと戻る。
雪は勢いを衰えさせることなく、ただしんしんと降り続けている。
駅の軒先で、ふう、と一息つくと
いつの間に現れたのか、見知らぬご婦人が
「ねえ、ちょっと、雪払っていい?」と仰って
雪をサッサっと払ってくださり
そのまま、何も言わずに去ってしまった。
自分では分からなかったのだが…私はその時、全身かなりの雪まみれだったようである。
土地勘のない雪国で、住民と一体になってカセ鳥を楽しんだこと。
温かなおもてなしをいただいたこと。
思わぬ親切を受けたこと。
2月のこの思い出は、静かに穏やかに
いまも私のこころを暖かくさせる。
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nejiresoukakusuigun · 4 years
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米の眠り姫
笹帽子
 十四歳のその夜、私たちの睡眠スコアはゼロだった。眠らなかったのだ。それは、反社会的で、不道徳で、愚かで……うつくしい夜だった。大人たちが隠していた甘露を舐めた私たち二人分の罰。受けたのは彼女一人だ。睡眠スコア三十万。私が二十四歳になった春、未だ目を覚まさない彼女はスコアを積み続けていた。
  *
「ねえサクラ、これ、外しちゃって平気なの?」
「平気、平気。一晩くらい外したって誰も見ちゃいないよ」
「本当に?」
「ミヅキは心配性だなぁ。何か言われたら、お風呂入るとき外して付けるの忘れてたって言えば良いんだよ」
「私お風呂入るとき外さないよ」
「外さない派か。よし、じゃあ今日は私と入ろう。それでいつもと違うから流れで外したってことにして」
「ほわ、さ、サクラと一緒に、おふ、お風呂」
「せっかくお泊まり会なんだから良いでしょ?」
「う、うーん……」
「よし、じゃあ服を脱ごうか」
「まだお風呂じゃないよ!」
「平気、平気。一枚くらい脱いだって誰も見ちゃいないよ」
「ガン見!」
「ミヅキは心配性だなぁ。何か言われたら、昨日お風呂に入るときに脱いで履くの忘れたって言えば良いんだよ」
「忘れすぎだよ! あと着るじゃなくて履くなのがなんか露骨!」
「ひょっとしてお風呂入るとき脱がない派?」
「どんどん特殊な方向に話を盛らないで!」
「ほら、明日で私たちは十四歳だよ。今日のうちにできることはなんでもやろう。あ、そうだ、それに子供のうちの睡眠スコアは参考記録だって、お父さんが言ってた。だからやっぱり外してオッケーだよ」
「ええと、サクラのお父さんは、《米/Mi》基盤局の人だったよね?」
「そうそう、だから確実だよ。でも逆に、明日からはダメなんだって。十四歳を過ぎて役目を貰ったら、それを果たさないといけないから」
「うん、じゃあ私、信じる」
「安心してよ、もし先生に怒られそうになったりしたら、私がミヅキを守るから」
「ほわ、嬉しい」
「ほわって何、ほわって」
「嬉しいの!」
「よし、じゃあ」
「お風呂は一緒に入らないからね!」
  *
 満月の光が、稲穂の金色を思わせた。
 その下の全ての生をゆったりと祝福する淡い光。篝火の弾ける音。堀の外を生い茂るススキを静かに揺らす風。野面積みの柔らかな石垣に静謐が染みていく。月光の中に聳える城郭もまた輝いているが、なかでも一際美しいのが月見櫓だ。天守よりも、あれが良い。あそこから月を眺めたらどんなにか美しかろうと思う。それをぼんやり眺めていた私は、突然に気がついた。
 あそこに、未だ目覚めぬ彼女が――十四歳���誕生日の夜を共に過ごした私の親友、ミヅキがいる。私はそれを幻視していた。あの夜と同じように月光の祝福を浴びて輝く射干玉の黒髪を。恥ずかしそうに微笑む口元を。無邪気な子供の、世界の希望を信じていた瞳を。
 やっと引き当てた。
 ミヅキにまた会える。
 それが何故だか、根拠もないのに、分かった。
 そう思うと、身体の奥に熱いものが満ち、鼓動が自然と早くなる。厄斬りとして本格的に役目を任されるようになってから五年以上、この夜を心待ちにしてきたのだ。
 その昂ぶりに冷や水を浴びせる振動が左の手首に乗る。
「厄が接近しています。まもなく現れますよ。それとサクラさん、心拍数が上がっていますが」
 手首に巻いた《米帯》から男児の声が響く。私の意識の中に直接響いているその声は、戦闘支援人格《入津》のものだ。
「サクラ、いまさら緊張? マ?」
 今度は甲高い女児の声。《入津》と対を為す人格《回着》が煽るように言う。だが戦闘支援に特化した彼らは、《米帯》から私のバイタルが読み取れこそすれ、心中を知る訳ではない。
「別に。何でもない」
 それでも、厄と会敵する前に呼吸を整えるべく、《米帯》の呼吸メニューを呼び出す。手首に浮かぶ円形のシンボルの収縮に合わせ、ゆっくりと、腹から息��吸い、吐く。呼気と共に雑念を吐き出し、いまは厄を斬ることに集中する。
「来ます」
《入津》が告げる。目を上げれば、黒門を抜けてくる影たちがあった。
 私は、整えた呼吸のまま、静かに抜刀する。
  *
 人が自由でいられるのは――つまり、子供でいられるのは――十四歳の誕生日までだ。十四歳までは見守られるだけだった私たちは、しかし、その日を境に、社会に対して役目を果たさなくてはならなくなる。
 かつて、人は労働力を売り、得た価値で家計を営み労働力を再生産していたという。食糧を初めとする各種の資源が圧倒的に不足していて、だからこそ価値のあった時代の話だ。人々は、働かなくては生きていけなかった。この『労働』は、現代の私たちの『役目』とは似て非なるものだ、と学校では教わる。当時の労働は、それをした対価として金銭が得られ、それによって初めて生活が成り立つという代物だ。教師はこれを教えるとき、決まって『働かざる者食うべからず』という古い言葉を引く。そんな狂った時代がかつてはあったのだ、と。対して役目というのは、その者の能力や性質に合わせて果たすものであって、生活はその対価ではないとされている。まず私たちの生活は無条件に保証されていて、その上で、与えられた役目は果たすべきものだとされる。人によって役目は量も質も異なるし、ほとんど役目を果たせない人も中にはいる。それでも良いのだとされている。
 例えば睡眠スコアが七十の市民は、睡眠中にスコアにして一から三相当の脳リソースを社会基盤に供出する。だが、仮に睡眠スコアが五十を割っている市民がいたとすると、彼らは脳リソースの供出は不要だ(もっとも、睡眠スコアが低すぎれば医療措置の対象となるが)。この睡眠スコアに応じた脳リソース供出――《徴米》制度――はしかし、過去の労働や租税とは根本的に異なる。供出している脳リソースの量にかかわらず、皆が豊かな生活を保障されているからだ。
 食糧、燃料、材料、その他あらゆる資源の不足というものを過去にしてしまった超高度AI《米》は、労働とその対価という概念を破壊したのだ。
 私とミヅキは同じ日に生まれ、同じ日に十四歳となった。
 そうして、違う役目を与えられた。
  *
 厄は首無しの武者の姿をしていた。
 本丸に流れ込んだ武者たちは一様に鉄紺の禍々しい瘴気を放っており、月光にも照らされぬ呪いを受けていた。落とされた首は青黒い血に湿り、無くした頭は一様に月見櫓を目指していた。そこに求める水場があるかのように、首無し武者たちが月見櫓へとよたよたと歩を進める。櫓の上に立つ私には目もくれない。
「とはいえ、斬ればこちらに向かってきます。囲まれないように」
 左手から《入津》の声が響く。
「御意」
 私はそうつぶやき、先頭を歩く一体の武者に狙いを定め、《回着》の赤い指示マーカーめがけて跳んだ。体重を乗せた刃が武者の肩から心の臓までを貫き通し、鉄紺の血が迸る。
 紫電一閃。私が握る刀の銘・稲光に相応しい。
 空気を震わす呪われた苦悶が響き、厄のはじめの一体が倒れ伏す。いよいよ首無し武者たちが一斉に私の方を向く。
 今夜の厄斬りが始まった。
 続けざまに刀を振るい、武者を斬る。三度の連撃に体勢を崩した首無しの肩を踏み宙を廻り、背後から刺し貫く。怨霊の苦悶の啜り泣きが耳元で響く。
「サクラー、後ろ後ろ!」
《回着》の示すマーカー誘導に従って、振り向きざまに浴びせかけられた太刀筋を稲光で弾き、反動でよろめく武者の胴に深く切り込む。止めにもう一閃貫け、と《回着》がマーカーで指示を出す。私は従う。粘つく血を振り、低い構えで次の首無し武者に向き直る。
「危!」
 首無しが振りかぶり、怨念を纏う太刀を振るった。下段を刈ろうと大ぶりに放たれた攻撃を《回着》の支援で見切った私は跳び、その首の断面を蹴りつける。堪らず崩れた首無しの背を稲光が貫いた。
「は! こいつら体幹クソザコだね! どんどん殺っちゃお!」
 無邪気な声色で《回着》が言う。
「ですが一撃は重い。背後を取られないように注意してください」
 一方の《入津》は冷静だった。
「喰らわなければどうということはないよ」
 私はそう嘯きながら、さらに二体の首無し武者を斬り伏せる。《入津》の言うことは正しく、この重い攻撃をまともに喰らえばこちらも安心ではいられない。攻撃を正しく透かし、あるいは確実に弾けるよう、背後を取られてはならない。だがこの怨霊、ただ群れているといった風体で、こちらを囲おうとか、連携して叩こうといった意図はまるで見えない。これなら物量だけを処理すれば良い。稲光が迸り、雷轟電撃、首無し武者の死体がまた一つ本丸の地に積もった。
 油断をしていたとは思わない。だが、私にはそれが見えていなかった。
 満月が、翳る。
「危!」
「上です!」
 二人から同時に発された警告に私の判断は遅れた。咄嗟、対象を見切らないうちから地面を蹴って跳ぶ。跳んだ瞬間にはもう蹉跌を悟っている。タイミングが早すぎる。空から飛来した鉄紺の瘴気を纏う巨体。並の男の倍ほどはあろうかという巨躯の首無し怨霊武者。大きく地を削り取るように繰り出された太刀が、容赦なく私の着地を刈り取る。叩き飛ばされた私は湿った地面に顔面を強かに打ち付け、口の中に血の味が広がる。両脚に深手を負った。《米帯》がバイタル危険域の警告を発している。
「喰らってんじゃん!」
《回着》が喚く。喚きながら私の視野にマーカーを投影する。首無し。ゲージ2本。
「あれが今夜の厄の本体です。さっきまでの雑魚は撒き餌でしょう」
 そう《入津》が分析した。
「距離を取って回復してください」
 言われずとも、と私は転がる。振り下ろされる太刀をすんでの所で躱し、《回着》が応急的に痛覚マスキングを施した足で危ういバックステップを踏み、黒門側に距離を取る。怨霊から離れれば差す月光が目に染みる。私は懐から一握りの米を取り出し、口に入れて己の血と共に噛み締めた。
 噛めば噛むほど、甘い。
  *
「眠らないの?」
「そう、せっかくだから、一緒に誕生日をお祝いしよう」
「その後も?」
「うん、だってこんなに月が綺麗だから」
「サクラ、変なの」
「いいよ、ミヅキは眠っても。そうしたら私は寝顔を眺めてるから」
「ほわ、やめてよそれ、恥ずかしいよ」
「だったら起きてないとね」
「……うん、そうする」
  *
 十四歳の誕生日を迎える前の子供たちの身体は、その睡眠は、左手に巻かれた《米帯》によってモニタリングされているけれど、それはただモニタリングされているというだけ。脳リソースを供出する機能はオフにされている。私たちはそれすら気に入らず、誕生日のあの夜には二人して《米帯》を外し夜を明かすなどという暴挙に出たのだけれど、それは子供らしい一時の反抗であって、本気で《米帯》を捨てようなどとは考えていなかった。
 今の私たちは、《米帯》なしに生きることなどできない。超高度AI《米》なくしてこの社会は成り立たず、私たちの日々の暮らしが何一つ成立しないことは、子供でも知っている。だから、誕生日のあの夜のささやかな反抗を終えて、翌朝から私たちは、与えられた役目を果たす大人になるつもりだった。
 実際に、そうなった。
 ミヅキに与えられた役目は、眠り姫だった。大変に尊い役目だとされている。昏々と眠り続け、その睡眠リソースのほとんど全てを超高度AI《米》に提供するという特別な役目。
 何かの罰なんじゃないか、と十四歳の私は思った。夜を徹して語らい、同じ月を見上げたことがそんなに悪いことだったのか。
 実際にはそれは罰でもなんでもない。子供が一時《米帯》を外そうが、一夜の睡眠スコアを計測不能にしようが、その程度のことで一々罰するほど超高度AIは暇ではないし、まして罰で役目を決めることなどあり得ないと、大人になった私には分かる。
 眠り姫は、単に特別に秀でた睡眠スコアの持ち主が就くというだけのこと。
 現在の彼女が叩き出す睡眠スコアは三十万。
 累計ではない。一晩で三十万だ。
 一方で私のスコアは散々だった。だが超高度AI《米》は私にも適切な役目を用意していた。
  *
 巨躯の首無しが瘴気を放つ太刀を振り下ろす。稲光がそれを弾いて、火花が舞う。首無しがこちらへとよろめきながら今度は左右に太刀を振るう。怨念の澱みに足を取られステップが効かない私は攻撃を弾くことに専念する。
「弾いて弾いて斬る! 弾いて弾いて斬る! ワンツーさんし!」
 陽気に合いの手を入れる《回着》だが、一拍多いので役に立たない。首無しの攻撃の予備動作はゆっくりしているかと思えば俊敏で、見切りには集中力が要求される。余計なしゃべりをやめてほしい。こちらの斬撃はその巨体を削るが、前座の首無し武者どもとは比べものにならない体幹はなかなかに揺るがない。ゲージは二本目。焦りが出やすい時間帯だ。
「集中してください。これを倒せば上がりですからね」
 口を挟む《入津》。そんなことは分かっている。却って集中が乱れた。これを倒せば上がり。今日の厄斬りは終わり。夜が明けるまでまだ時間がある。役目を果たせば、後は自由だ。そうすれば、あの月見櫓の戸を叩く。きっと中には、彼女がいる。見てもいないのに、私にはそれが分かっている。今日のこの日のため、この夜のため、私は……。
「危!」
 ハッと目を見開けば、首無しの姿が消えている。一瞬の気の緩みを完全に読まれた。
 だが《回着》のアラートへの反射で、咄嗟に殺気を感じる背後を斬り上げる。考えるより先に動く。迷えば破れる。稲光が轟き首無しの青黒い血が迸る。
「危ない。いま背後から掴まれたら終わっていましたよ」
 誰のせいだよ。だがもう要領を掴んだ私は止まらない。首無しの太刀を弾き、斬撃を矢継ぎ早に繰り出す。遅い振りかぶりに浮舟渡りの五連撃を放ち、巨躯を削りきる。
「いけいけ! そこだ!」
 囃し立てる《回着》が表示した赤マーカー目がけ、崩れた首無しの巨体を蹴って駆け上がり、天から稲光を貫き落とす。
 一際大きな苦悶の泣き声を上げ、首無し武者は倒れ落ちた。
【厄斬り】のクソデカテロップを《回着》が視界に表示してくる中、私は納刀した。
 視界が晴れたときには、怨霊たちは皆消え、その青黒い瘴気も、流れた血も、粘つく澱みもたち消えてしまう。
 再び月明かりだけが冴え冴えとした空気に染みこみ、夜を満たしていた。
「本日もお役目、ご苦労様でした」
「おつ! 今日も楽しかったよ!」
 戦闘支援人格の二人の声を、もう私は聞いていなかった。
 見上げるは月見櫓。やはり天守よりも美しい。
 あそこに、ミヅキがいる。
  *
 果たして畳敷きの部屋に、その少女は座っていた。
 十四歳の誕生日のあの夜と同じ目をして、月を見上げていた。
 ずっとこうして、会いに来たかった。厄斬りの役目を得てから、この夜をずっと待っていた。今すぐにでも彼女に話しかけたいと思いながら、そうして同時に、私はこのまま彼女に気づかれず、ここからミヅキの姿を眺めていたいとも思えた。今日の満月は稲穂の金色。その輝きを反射する彼女の肌は、あの夜と同じ宝物の色。子供でいられた最後のうつくしい瞬間が、まだここにだけはある。それを壊したくない。
 あの夜、私たちはパジャマを着て、彼女の部屋のベランダに腰掛けて月を見上げていた。今夜のミヅキは、けれど、服装は違っていた。和装だった。城に住まう姫なのだからそういうものなのかもしれない。私は着たことがないし、歴史のこともよく知らないから、種類はよく分からない。それにあわせてか、長く伸ばして後ろで一つにまとめている黒髪は、やはり輝いていた。彼女は月光の祝福を受けるに値するのだと、今でも変わらずそうなのだと、私は思った。
 ゆらり、とその瞳がこちらを向く。
「サクラ……」
 名前を、呼ばれた。
「ミヅキ」
 私たちは十四歳で、パジャマを着て、ミヅキの部屋のベランダに腰掛けて月を見上げていた。世界が変調している。夜明けが近い。
「そうか、今夜はサクラが私を守ってくれたんだね」
「うん」
「嬉しいな、またサクラが守ってくれて」
 そう言って、ミヅキは微笑んだ。あの夜と同じ、体温を感じる。
  *
 覚醒する。左手首の《米帯》が震えている。朝だ。
 起き上がり伸びをする。和風だったな。武器も刀って。珍しい。
《入津》が昨夜の厄斬りの成功と評価点を通知しているが、適当に読み飛ばす。真打ち登場時に一撃喰らったのがマイナス評価だが、無事に眠り姫を守護したことで総合点は良、概ねそんなところだろう。
 私はそんな評価はどうでも良かった。
 眠り姫たちの睡眠効率を高めるため、その夢から悪夢を退ける役目、厄斬り。
 普通の人間が休んでいる間に役目を果たすのだから、心身を削られる。私もこの役目が好きだとは言えない。
 けれど今朝は違う。私が守ったのが、誰とも知らぬ眠り姫でなく、他でもない彼女だったから。
 部屋を出ようとすると、思い出したように《米帯》の機械音声が通知する。
「昨夜の睡眠スコアは十五です。深い眠りが不足しています」
 やかましいわ、と私は呟いて靴を履いた。
 ミヅキに会いに行こう。久しぶりに、あの子の、あの日は見られなかった寝顔を見に行こう。
 今日の私にはその資格があるはずだ。
 彼女の平穏な眠りを、守ったのだから。
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この作品は、睡眠スコアバトルSF小説コンペに参加しています。
https://twitter.com/sasaboushi/status/1338477547932119041
冒頭部初出ツイート:
https://twitter.com/sasaboushi/status/1338486086423642115
スペシャルサンクス(あるいは謝罪先):
・Mi band 5
https://www.mi.com/jp/mi-smart-band-5/
※睡眠スコアバトルとは、スマートバンドにより睡眠スコアを測定し、SNS上でそのスコアでバトルする風習を指しています(多分)。特に最近、安価で手軽に試せるMi band 5が人気です。私も買いました。
・Sekiro: Shadows die twice
※睡眠スコアバトルとは本来何の関係もありません。お米は大事。
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yoml · 7 years
Text
1612-1911 断片、その先(全章)
1-1612 三年前 
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」 
 ヴィクトルがコーチになったその年のグランプリファイナル。試合後のバンケットも終わり、それぞれの部屋に戻る途中のことだった。何の文脈もなく発せられたその台詞に続く言葉が予想できなくて、勇利は少し身構えた。エレベーターのボタンを押して、ヴィクトルは続ける。 「ときどき思うんだ。例えば勇利が絶不調のときね。心がもたないよ。ただのライバルなら、今回は競争相手が一人減ったなって喜ぶだけで済むだろうに」  なんだ、とありがちな話に勇利は少し安心して、「ヴィクトルでもライバルが減るとうれしいと思うんだ」と笑って返した。 「思うさ。俺は勝利に貪欲だからね」 エレベーターの扉が開く。乗客は誰もいない。 「僕はヴィクトルがコーチじゃなきゃよかったなんて、思ったこと一度もない」  ヴィクトルが少し間を置いた。「うれしいことを言ってくれるね」と微かに笑う。 「だけどやっぱり俺は思うよ。コーチじゃなきゃよかったって。特にこういうときなんかは」 「銀メダルでごめんなさい……」 「うん、いや、そうじゃなくて」  ヴィクトルが勇利の目をまっすぐ捕らえた。青い目に違和感があった。 「勇利が欲しくてたまらないとき」  言われた言葉の意味がわからなくて、勇利は文字通りきょとん、とした。エレベーターの扉が開く。ヴィクトルが先に降りて、勇利は慌ててあとに続きながら軽く混乱する。今、この人なんて言った? 返事ができないまま歩いていると急にヴィクトルが振り返った。 「勇利の部屋はあっち」  ハッと気付く。 「おやすみ勇利。今回の滑りは最高だったよ」  コーチの部屋の扉が閉まり、オートロックの鍵が閉まる小さな機械音が廊下に響いた。  三年前のことだった。 
2-1710 新宿の夜 
 これはたぶん何かを超えてしまった。  そう勇利が悟ったのは、ロシアに拠点を移してから半年、スポンサーとの仕事で日本に一時帰国したときだった。一年間のコーチ生活ですっかり日本が気に入ってしまったヴィクトルは、ここぞとばかりに勇利に同行した。が、この時の彼はもう勇利のコーチではなかった。グランプリファイナルでライバルたちの勇姿を見た彼が浮かれた頭で思い描いたコーチ兼ライバルという関係は、とはいえ到底現実的なものではなかったのだ。それでも勇利がロシアに渡ったのはただ日本にふさわしいコーチがいなかったからで、その頃の勇利には、ヴィクトルのコーチであるヤコフ・フェルツマンの紹介で新たな(そして有能な)ロシア人コーチがついていた。  仕事の前に無理やり長谷津に立ち寄って、実家に一泊だけしてから東京へ移動しいくつかの撮影やインタビューを済ませると、たった四泊の慌ただしい日本滞在はあっという間に終わってしまった。日本にいる間は不思議な感覚だった。二人の関係は常に変わっていく。憧れ続けたスター選手とどこにでもいるスケーター。突然現れたコーチと再起をかけた瀕死のスケーター。そして、最高のライバルを得た世界トップクラスのスケーター同士。自分の立場の変化に、ときどき勇利の心は追いつかない。こんなに遠くまで本当に自分の足でたどり着いたのか、いまだに半信半疑でいた。「もしこの人を追いかけていなかったら���。ヴィクトルのいない人生を思うと、勇利はいつも自分の存在自体を疑いたくなるのだった。  日本滞在最後の夜、新宿のホテルの近くにある焼き鳥屋で、二人はだらだらとビールを飲んだ。小さな飲み屋が連なるそのエリアは外国人観光客で溢れていて、煙だらけの狭い店内に不思議と馴染んだヴィクトルは普段よりも一段と楽しそうに笑っていた。めったに味わうことのない観光気分が、彼の抱えるプレッシャーを和らげていたのかもしれない。「博多の夜を思い出すよ」なんて言いながら、コーチ時代の思い出を語り始める。妙に懐かしかった。あれから大して時間も経っていないのに、二人にはそれがはるか昔のことのように思えたのだ。 「ずっと聞きたかったんだけど」  店内の騒々しさを良いことに、勇利はこれまでずっと不安に思い続けてきたことを聞いてみた。 「コーチをしていた一年を、ヴィクトルは後悔していないの」  ヴィクトルはそれまで上機嫌に細めていた目を大きく見開くと、何を言ってる? と言わんばかりの顔で勇利を見返した。そしてすぐに、ふっと笑った。 「勇利はびっくりした?」 「した。今でもあの頃が信じられないし、ロシアに拠点を移した今の状況もまだ信じられないよ」 「俺もね、びっくりしたんだ」 「自分の行動に?」 「全部だよ」 「全部」 「そう、全部。勇利のコーチになれたことは大きな意味があったんだ」 「コーチになって良かった?」
「俺が勇利のコーチじゃなきゃいいのに」
 突然、頭の片隅で声がした。バルセロナで聞いたあの台詞。目の前のヴィクトルは何も答えず笑っているだけで、あの時のことを覚えていたかはわからない。だけどなぜかそれ以上聞いてはいけない気がして、勇利は飲みかけのビールを手に取った。
 その後もだらだらと話を続けた二人は、ホテルへの帰り道、どういうわけか、本当にどういうわけか、気付くとキスを交わしていた。何がそうさせたのか、勇利は今でもわからない。まっすぐ帰ればいいところを、なぜかわざわざ回り道をして、ときどき肩をぶつけては、時間を惜しむようにゆっくりと二人は歩いていた。ちょっとした流れのようなものだった。右足が出たら次に左足が出るように、それくらい自然に、歩く二人の距離が近づいた。それで唇が触れ合ったその瞬間、喧騒が消え、街灯が消え、視界は閉ざされ、過去から繋がってきた一つの線がそこで急にプツリと途絶えた。このあと一体どうすればいいのかわからない二人は、そのまましばらく唇の熱を分け合いながら、たぶんもう戻れない。そう思った。 
   ホテルの部屋は別々にとっていた。足早にエレベーターに乗り込むと、勇利はヴィクトルのフロアのボタンだけを押した。乗客は二人だけ。行き先は一つだけ。決定打を押したのも勇利だった。銀髪に触れるほどの距離で、彼は小さく囁いた。 「ヴィクトルはもうコーチじゃないよ」
 その夜、勇利は初めて男に触れられる感覚を知った。
3-1904 春を走る
 東京では浜辺を走れない。ランニングの途中で砂浜に降りて、ウミネコを眺めながらぼんやりする、そうした時間はここにはない。代わりに勇利は公園を走る。少年野球のチームや、体育大学の学生や、小洒落たウェアに身を包んだ若者や、犬の散歩をする老人に混ざって、長谷津よりもひんやりとした東京の春を彼は走る。トレーニングではない、ただの日課。帰り道、公園脇のカフェでショートサイズのコーヒーを買う。カップを持つ彼の右手に、かつてはめられていた指輪はない。マンションに着くと、シャワーを浴びて仕事のメールを確認する。マネージメントを任せているエージェンシーから、新しいアイスショーの話が来ていた。断る理由もないので、淡々と勇利は返信を打つ。
 新しい日々が始まっていた。一人のプロスケーターとして、日本のスケート史上に名を残したメダリストとして、人生の次のキャリアを進み始めた26歳の青年として、東京の勇利は忙しかった。
4-1908 ときどき思い出す
 スケートに関わっている限り、勇利がヴィクトルのことを避けて生きてくことはできない。お互いすでに引退した選手だとはいえ、レジェンドの称号を得た男がスケート界の過去になるには、まだまだ時間が足りなかった。    引退後のヴィクトルの活動は、悪い言い方をすれば多くの人の期待を裏切るかのように地味なものだった。セレブタレントの座に落ち着くことはなく、無駄に広告やメディアに露出することもなく、フィギュアスケート連盟の一員として選手強化と環境改善に従事した。もちろん天性のカリスマ性とスター性は裏方になってもなお人々の目を引き、解説者やコメンテーターとしてテレビに出れば視聴者は彼の一言一句に注目したが、いずれにせよ今のヴィクトルの活動は今後の主軸を定めるための調整期間のように見えていた。どこかふわふわしていたのだ。  コーチ業に転身しなかったことを不思議がる人もいなくはなかったが、多くのファンや関係者にとってヴィクトルが勇利のコーチをしていた一年間はラッキーな気まぐれのようなものとして記憶されていたし、あのシーズンの勇利が劇的な活躍を見せたのも、ヴィクトルのコーチ手腕というよりはライバル同士の妙なケミストリーの結果だと認識されていた。「コーチごっこ」とは当時の辛辣なメディアが何度も書き連ねた言葉だが、誰もが心のどこかでそう思っていたのだ。誰もヴィクトルにコーチになって欲しくなかった。まだ十分に戦える絶対王者として、華やかなその演技で自分たちの目を楽しませて欲しかった――ただ一人を除いて。勝生勇利、彼の教え子になり得たたった一人の男、彼の独りよがりな望みだけが、世界中の期待を跳ね除けたのだ。だけどそれも今となっては、たくさんの過去のひと幕に過ぎない。  今でも勇利が取材を受けるときは、決まってヴィクトルのことを聞かれる。ロシアで切磋琢磨した二年間(とはいえ勇利が渡露した一年後にヴィクトルはあっさり引退したわけだが)、帰国後の一年間、かつてのコーチでありライバルでもあった彼とはどんな関係を築いていたのか。それで今、二人はどんな関係にあるのか。そう言われても、と勇利は思う。  連絡は取っていなかった。取るわけがなかった。理由がないのだ。ロシアのスケート連盟と日本のプロスケーターが個人的に連絡をする必要はないし、人は二人を「元ライバル」なんて呼ぶけれど、正しく言うならばその関係は「元恋人」と言うべきもので、そんな二人が連絡を取らないことに説明は要らない。    勇利は昔から熱心にヴィクトルを追いかけてきたけれど、何かにつけて、彼を遮断するときがあった。自分のスケートに集中しきっているとき、成績が振るわずヴィクトルの栄冠を見るのがつらいとき、絶望しているとき、他に心奪われるものができたとき。今はそのどれでもないけれど、だから勇利はヴィクトルの遮断にわりと慣れていて、今もその最中だった。ヴィクトルのことはわからないし興味もないです、なんてことが言えるわけもなく、勇利は当り障りのない言葉でインタビュアーをごまかすのだった。  メディアで彼を見かけることもあった。勇利は別にそうしたものを一切視界に入れないようシャットアウトしているわけではない。見ても何も思わないよう、自分の心に遮断機を下ろすのだ。ヴィクトルは相変わらず美しく、今でも目を奪うには十分すぎる魅力がある。それでときどき、本当にときどきだけど、その細く乾いた銀髪を見ながら勇利はこう思う。 「僕はこの人のセックスを知っている」  だけどそれがどんなものだったか、あの途方もない感覚を勇利はうまく思い出せない。
5-1710 変化の朝
 初めて体の関係を持った新宿の夜、勇利はそれをセックスと呼んでいいのかすらわからなかった。ホテルの部屋のドアを開けるなり、二人は貪るかのようにキスをして、無抵抗の勇利はヴィクトルの手になぞられるままにその肌を露わにした。首筋から肩に流れるラインにヴィクトルの唇がひときわ強く吸い付くと、勇利はだけど耐え切れない恥ずかしさと緊張で相手の両肩をぐっと押した。「汗、かいてるし、においも、さっきの」。うまく繋がらない一言一言を、ヴィクトルはうん、うん、と逐一頷きながら拾って、どうしてもそれてしまう勇利の目をまっすぐ追いかけた。「じゃあシャワー行こう」と言って腕を引くと、バスルームの引き戸を開けてシャワーをひねり、自分はあっさりと服を脱ぎ捨てた。熱湯で一気に眼鏡が曇る。まだかけてたんだ、とヴィクトルは笑って、勇利からそっと眼鏡を外すと彼をシャワールームに引き連れた。肌を流れる水が、たくさんのものを洗い流していく。汗と、恥じらいと、ためらいと、キスと、手の感触。ぴったりと密着した下半身でどちらともなく硬くなったそこを感じると、勇利は思わず声を漏らした。ヴィクトルの大きな掌が二人のそれを握りしめる。流れ続けるシャワーの音が二人を世界から隔離したように思えて、勇利はただ耳だけを澄ませながら、見えない感覚に身を委ねた。腰が砕けたのはそのすぐあとだ。ヴィクトルの体にしがみつくと、水がベールのように二人の体を包み込み、発散しきれない熱にともすれば意識を失いかねない。立ち上る水蒸気に混じって、知らない精液のにおいがした。
 早朝に目を覚ました勇利は、しばらくベッドの中でぼんやりしていた。鼻の先にあるヴィクトルの肩は、まだ静かな眠りの呼吸に揺れている。頭が現実を取り戻してくると、突然今日のフライトを思い出した。慌ててベッドから起き上がり、銀髪の人を軽く揺らして声を掛ける。 「ねぇ、荷物まとめないと。僕、一度部屋に戻るよ」  ヴィクトルは目を開けなかったけれど、ん、と声を漏らしながら腕を伸ばすと、手探りで勇利の頬に触れた。 「キスをして」
 脱ぎ散らかした服を手早く身に付けると、勇利はヴィクトルの部屋を出た。誰もいないホテルの廊下を歩きながら、ああ、僕はゲイだったんだ、と思った。昨晩の衝撃と、今朝の納得と、変わりすぎた二人の関係に、勇利はどこかまだぼんやりしていた。ぼんやりしながら、踊り出したいくらいにうれしかった。
6-1909 走れない日
走りに行けない朝がある。 カーテンの端を見つめたまま、勇利の体はどうにも動かない。 一人分の体温と一人分の空白を抱えながら、ベッドの中で涙が乾くのをじっと待っている。
7-1812 男たちの別れ
 ヴィクトルが引退した翌年、勇利のロシア二年目のシーズン、勇利には今が自分のラストシーズンになる確信があった。それは別にネガティブなものではなく、肉体的なピークと精神的な充足感が奇跡的なリンクを成し、ごく自然なかたちで、彼は自分自身に引退の道を許したのだった。スケーターとしての勇利にとっては何の問題もない選択だったけれど、一方で一人の男にとって、ある種の偉業をなし得たとはいえまだまだ二十代も半ばを過ぎたばかりの未熟な男にとっては、巨大な不安がはっきりと顔をもたげ始めた瞬間だった。この先自分は何者として、どこで、誰と、どう生きていけばいいのだろう。
 その不安はヴィクトルとの関係において顕著だった。具体的に言えばその頃から、勇利はヴィクトルとのセックスを拒否するようになっていた。勇利の人生にとってスケートとヴィクトルは常にセットで、スケートを介さなければ決して出会うことがなかったように、スケートなしでは二人が恋人の(ような)関係になることはあり得なかった。だからこそ勇利はこわかったのだ。自分からスケート選手という肩書きがなくなったとき、すでに現役選手としての肩書きを捨てている���ィクトルと、果たして純粋に今の関係を続けられるのかが。  勇利が初めてヴィクトルと関係を持ってからの一年間、二人のセックスは、よく言えば情熱的な、悪く言えば無茶苦茶なものだった。スケートと同じくらいの情熱を持って何かを愛するという経験を持たなかった二人は、それまで溜め込んできた「愛する」という欲望のすべてを互いにぶつけ合った。セックス自体の経験値こそまるで違えど、ぶつかる熱の高さは競いようもなく、貪欲な絶頂に幾度となく体を震わせた。競技者という者たちが決定的に抱える孤独が、その時だけは確かに溶けていくと実感できた。その意味において、勇利にとってヴィクトルとのセックスは、特別な意味を持ち過ぎていたのだ。ヴィクトルなしでは成立し得ない彼の人生は、それまではスケートという枠組みの中だけに言えることだった。だけど今は、全部なのだ。全部。
「セックスがつらいから別れるの?」 「そうじゃない」 「わからない、じゃあなんで」 「ヴィクトルはそれでもいいの」 「セックスのために一緒にいるわけじゃない」   「違うよ、違う、だけどつらくて仕方がないんだよ」 「自分だけがつらいふりをして!」
 ヴィクトルにはわからなかった。勇利に惹かれ、勇利を求め、勇利といたい、それ以外の想いなんて彼にはなかった。肌を重ねるたび、互いの中に入るたび、全身でその気持ちを伝えてきたつもりだった。最初のためらいを超えて勇利がヴィクトルを受け入れるようになってからはなおさら、彼はどんどん自由になっているようにすら見えた。全身で愛されることの喜び、誰かを抱くことの自信、解放された感情、そうしたものは勇利という人間のあり方を確かにある面で変えていたし、スケーティングにおいてもそれは顕著だった。二人の関係を周囲が騒ぎ立てることもあったけれど、そんなノイズの一つや二つ、二人が気にするまでのものではなかったし、くだらないメディアに対して沈黙を貫く二人の姿勢は、彼らが作り出す領域の不可侵性を高める一方だった。なのに、なぜ。失おうとしているものの大きさに、ヴィクトルはただただ腹を立てていた。怒りに震えたその指では、掛け違えたボタンを直すことなんてできなかった。
 誰を責めるのも正しくはなかった。一度崩れたバランスが崩壊するのは不可抗力としか言いようがない。涙をためていたのはお互いだったけれど、それが嗚咽に変わることはないまま凍ってしまった。呆れるほどに強くなりすぎたのだ。外の世界と、あるいは互いの世界と、戦い続けている間に。
 ちょうどその頃、勇利は引退を発表した。そういうことか、とヴィクトルは思った。コーチでもない、恋人でもない、今となっては勇利の何でもないヴィクトルには、その勝手な引退の決意を咎める権利なんてなかった。コミットする権利を奪われたのだ。最愛の人に。ヴィクトルは何も言わず、勇利の帰国を見送った。本当はできることならもう一度、その黒髪に指を通し、こめかみに幾度となくキスを落としたかった。どれだけ腹を立てていようと、どれだけその後がつらくなろうと、もしかしたら何かが変わるかもしれない。そんな望みを、あるいは抱いていたのかもしれない。
 勇利の送別会が終わった翌日、ヴィクトルはベッドのシーツを剥ぎ取ると、壁に飾っていた一枚の写真を外した。どこまでも青く広がった、遠い異国の、風に揺れる、穏やかな海の景色だった。 
8-1807 ネヴァ川を見る
 サンクトペテルブルクに、海の記憶はあまりない。代わりに勇利は川を思い出す。いくつもの運河が入り混じる水の街の主流を成すネヴァ川。その川沿いに建ち並ぶ巨大で仰々しい建物の名前を、だけど勇利はなかなか覚えなかった。それが美術館だろうと大学だろうと聖堂だろうと、勇利にはわりとどうでもよかったのだ。ただこの景色がヴィクトルの日常であり、自分が今その日常の中でスケーティングを続けている、その事実だけが重要だった。  それでもいつだったか、早朝に川岸を走っていたときふと目をやったペテルブルクの風景は、日本からやって来た若い青年の胸を打つには十分な異国情緒があった。スマートフォンを取り出すと、普段めったに使わないカメラを立ち上げて、勇利は下手くそな写真を撮った。オレンジともピンクとも紫とも言えない朝日が、ついさっき暗くなったばかりのネイビーの空を、圧倒的な存在感で染め上げていく。混じり合う色と色のグラデーションが急速に消えていくのがなんだか妙に惜しくて、勇利はこのまま空を見続けていたいと思った。写真は全然素敵なものではなかったけれど、勇利は何年振りかに、それをスマートフォンの背景画像に変更した。  その日の夜、そういえば、と勇利はベッドサイドテーブルの上で充電ケーブルに繋がれていたスマートフォンを手に取って、ヴィクトルにネヴァ川の写真を見せた。 「これ、今朝の。きれいだった」  ヴィクトルは勇利が自分で撮った写真を見せてくれる、ということにまずおどろきながら、写真を覗き込む。 「勇利、写真にはもっと構図ってものが……」とヴィクトルがからかうので、勇利は彼の顔を枕でぎゅっと押しつぶす。 「うそうそ、ごめん、きれいだよ、本当に」 「あれみたいに飾れるレベルだといいんだけど」  ヴィクトルの寝室には一枚の海の写真が飾られている。コーチとして長谷津にいた頃、ロシアから雑誌の取材が来たことがあった。スチール撮影は海を背景に行われ、その時カメラマンが押さえた風景カットがとてもきれいで、ヴィクトルはスタッフに頼んでそのデータをもらったのだ。ベッドに寝そべるとちょうど目に入るくらいの位置に、大きく引き伸ばされたその海は飾られている。 「わかるよ、俺もそういう空が好き」  さっき枕を押し付けられたせいで、ヴィクトルの前髪は不恰好に癖がついている。それを気に留める様子もなく、彼は写真をじっと見つめる。 「あの時の衣装みたいだ」
9-1911 冬が来る
  玄関のドアを開けた瞬間、季節が変わった、と勇利は思った。寒さを感じるにはまだ少し遠い、それでも確かにひんやりと冷えた朝の空気。いつもと違うにおいをゆっくり吸い込むと、鼻の奥がつんとした。冬がやってくる。     四階の部屋から、エレベーターは使わず外階段をたんたんと駆け下りる。エントランスを抜けて通りに出ると、いつものランニングコースへ足を向ける。最初は少し歩く。駅へと向かう近所のサラリーマンたちとすれ違う。ぐいっと腕を上げて肩を回すと、おもむろに勇利は走り始める。もう一度風のにおいを嗅ぐ。十分ほど走って公園につくと、ドッグランを横目にそのままランニングレーンに入る。  一周二キロのコースの二週目に入ったあたりで、この日の勇利はなんだか急に面倒になって走るのをやめた。虚しくなった、というほうが正しかったかもしれない。普段あまり意識しない感情の重さに、勇利は少しだけうんざりした。それとほぼ同時に、ウェアのポケットに入れていたスマートフォンが鳴る。こんな朝から、と歩きながらスマートフォンを取り出した勇利の足が、突然ぴたりと止まる。手の中でバイブを続けるスマートフォン。動かない勇利の指。画面につと現れたあの名前。 「“Victor Nikiforov”」
10-1911 コーチの助言
「人というのは、自分が守られているとわかっているときにこそ心置きなく冒険できるものなんだ、ヴィーチャ」 ヴィクトルは時折この話を思い出す。大昔のことだ。 「お前の安心はなんだ? メダル? 名声? それとも尊敬?」  ヴィクトルは考えた。そのどれもが、彼にとっては確かに重要なものだった。 「もしお前の足が止まるようなことがあれば、そうしたものを一度見直してみるといい」  そう言われると、ヴィクトルは少し腹が立った。自分が心血を注いで獲得してきたものを、真っ向から否定されている気がしたのだ。 「自分を守ると思っていたものが突然自らの足枷になって、お前を縛り付けるかもしれないからな」
 目的地までの残り時間を告げる機長のアナウンスで、ヴィクトルは目を覚ました。モニターをタッチしてフライトマップを映し出す。飛行機はいよいよユーラシア大陸を超え、Naritaの文字まであと少し。あれからもう何年も経つというのに、いまだにコーチの助言は有効力を失ってはいなかった。まだ少し焦点が合わない目で明け方の空を眺めながら、ヴィクトルはその言葉を声に出してみる。
「安全基地を見失うな」
11-1911 ジンクスと可能性
 バゲージクレームのベルトコンベヤーの前で、ヴィクトルは荷物が出てくるのをじっと待っていた。レーンの先を真剣に見つめているのは、なにも焦っているからでも大切なものを預けているからでもない。ジンクスがあるのだ。ベルトコンベヤーに乗せられた自分のスーツケースが、表を向いていればその滞在はうまくいく。裏を向いていれば用心が必要。ベルトコンベヤーが動き出す。プライオリティタグの付いた彼の荷物が出てくるまで、時間はそんなにかからない。見慣れたシルバーのスーツケースが視界に入ると、ヴィクトルは思わず苦笑した。流れてきたスーツケースは、サイドの持ち手に手が届きやすいよう、行儀良く横置きされていた。  荷物を受け取ってロビーに出ると、時刻は朝の八時を少し回ったところだった。スマートフォンを取り出すと、ヴィクトルは自分でも少し驚くくらいためらいなく、勇利への発信ボタンをタップした。朝のランニングを日課にしている彼のことだから、今頃はそれを終えて朝食でもとっているか、その日の仕事に出かけるところだろう。だけど予想通り、その着信に答える声はなかった。スマートフォンをポケットにしまうと、ヴィクトルは軽いため息をついて成田エクスプレスの乗り場へ。「事前予告なんて俺らしくない」と思ってはみたものの、だけどヴィクトルには向かうべき先がわからなかった。東京に拠点を移したということ以外、勇利の居場所についてはなに一つ知らなかったのだ。唯一向かう先として確定している新宿へのルートを確認しながら、やっぱり羽田着にすれば良かったと思った。彼はいい加減に疲れていた。サンクトペテルブルクからモスクワ、モスクワから成田、成田から新宿。スムーズなルートではあるものの、これ以上時間をかけるのが煩わしい。その気持ちもあってかどうか、新宿に到着するのとほぼ同時に、ヴィクトルは勇利にメッセージを送った。 「しばらく東京にいる。可能性は?」
“可能性”?
 勇利がメッセージに気づいたのはその日の正午ごろだった。ヴィクトルの着信を無視して家に戻ってから、打ち合わせのためにマネージメント会社の事務所に向かった。スケジュール諸々の確認を済ませ、いくつかの事務的な話を終えて事務所を出ると、いつも無視するだけのSNS通知に混じってそのメッセージは届いていた。  精神的ヴィクトル遮断期の成果か、勇利は着信を見た時もメッセージに気づいた時も、思っていたほどのダメージを受けなかった。その代わり、「可能性」の文字が勇利の前に立ちはだかる。それはこの一年間、勇利がもっとも望み、同時にかき消そうと努めてきたものだった。メトロの入り口までの道を歩く間、勇利は逡巡した。が、地下に入って改札機にICカードをタッチすると、その瞬間に案外あっさり答えが決まった。募らせてきた孤独と愛おしさを開放するには、改札が開く小さなその電子音だけで十分だったのだ。 「どのホテル?」  メトロに乗り込む。5分ほどでヴィクトルからの返信。ホテルの名前を見た瞬間、勇利は一気に胸を掴まれた。スマートフォンをポケットではなく鞄に入れると、両手で思わず顔を覆ってひときわ大きなため息をついた。遮断機は壊れてしまった。抑揚のあるあの声を、肌に触れる乾いたあの髪の感触を、抱きしめたときの体の厚みを、汗と香水のにおいを、熱を、息を、そして氷上をしなやかに滑るあの姿を、勇利の体は鮮明に思い出した。メトロの中で、勇利はほとんど泣いていた。
12-1911/1812 言えなかった
 目が覚めると午後五時を回っていた。約束の時間まであと一時間。フライトの疲れはたぶん取れている。ヴィクトルはシャワーを浴びると、小ざっぱりとした自分自身を鏡越しに見つめた。現役時代と比べれば筋肉量は若干落ちたものの、傍目には変わらない体型を維持している。銀髪に混じる白髪は前からのことで、目の下のシワも見慣れている。だけどやはり変わったなと思うのは、その目元だった。ひとしきりの怒りとさみしさを通過したヴィクトルの目は、少し力なく、だけどそれ以上に、優しくなっていた。  話す言葉は何一つ用意していない。これからどうしたいかも決めていない。とにかく会えば、会えさえすれば、なんて甘えたことも思っていない。だけどヴィクトルは日本にやって来たし、勇利はそれをはねのけなかった。思えばあの時もそうだったのだ。自分が勇利のコーチになる可能性なんて本当はどこにもなかった。無茶苦茶なことをしている自覚もあった。持ち前の奔放さで周囲を驚かせてきた彼だったが、本当はいつだって、自分が一番驚いていたのだ。未知へと足を踏み入れたことに。不安を乗り越えられたことに。新しい安全基地を、確かに手に入れられたことに。ヴィクトルの冒険と不安を受け入れたのは勇利以外の何でもなかった。一緒に居れば何者にだってなれる。ただそれを、あの人に伝えたかった。 「ねぇ勇利」  鏡越しに独り言を呟く。
「今日から俺は勇利の何になる?」
 同じ台詞を、二人は別れる直前にも聞いていた。元師弟とも元ライバルとも恋人とも言える二人の関係を終わらせようとしている勇利の心を、ヴィクトルはどうしても知りたかった。いや、変えたかった。 「何だっていい。ヴィクトルはヴィクトルでいてくれたらいい」 「勇利は俺の何になる?」 「何だっていいよ」 「それがこわいのに?」  勇利は答えなかった。その通りだった。ヴィクトルがヴィクトルであること、勇利が勇利であること。口で言うには響きの良い台詞だけれど、その意味を、その事実を受け入れることは、思っていたよりたやすくなかったのだ。 「いつかこわくなくなると思う」 勇利は最後の最後になって、すがるようにヴィクトルの首元に腕を回し、鎖骨のあたりに顔を埋めた。自分勝手さなんて痛いほどわかっていた。ヴィクトルの手が軽く背中に触れたけれど、それはただ、触れただけだった。
「だからそれまで待っていて」とは、勇利はとても言えなかった。
13-1711 ゆだねる
「やっぱりこわい。ていうか……抵抗感がある」 「うん、無理にとは言わない」 「……ヴィクトルはどっちなの」 「どちらでも。勇利とならどっちでもいい」 「そういうもの?」 「俺はね。相手と一番気持ちいい関係でいたいから」 「どんな関係が一番かなんてわかんないよ」 「だから試さないと。そうだね、わがままを言うなら、俺は勇利に“受け入れる心地よさ”を経験してみてほしいかな」 「痛そうじゃん……」 「最初はね。でも相手にゆだねてしまえば、きっと良くなる。絶対に無理強いはしない」
 そう言いながら、これがハードルなんだろうな、とヴィクトルは思った。勇利は簡単に誰かに身をゆだねられるタイプの人間ではなかった。自信のなさはかつての彼の最大の欠点とも言えたが、言い換えればそれは一重にプライドの高さと自分への責任感であり、自分を支える存在を求めながらもその対象に依存するようなことは考えられないだろう。たとえそれが、氷上だろうとベッドであろうと。アスリートとして身につけてきた彼のストイックさを、怖れを超えたその先で解放される表現者としての素質を、だけどヴィクトルは何よりも愛していた。
「勇利の準備ができるまで、いつだって待つよ」
14-1910 空になったグラス
「どうせ誰かの専属コーチになることはないんだろ」  久しぶりに会った友人は、テーブルの企画書を片付けるとグラスに残っていたワインをゆっくりと飲み干した。 「おもしろいプロジェクトだと思う、君らしい。感情にさえ流されなければうまく行くんじゃない? まあそこが君の魅力だけど」 「余計な心配だ」  ヴィクトルの冗談を端的にかわすと、ポポーヴィッチは少し思案した後じっとヴィクトルを見つめた。 「真剣に聞いているんだ。このまま君が連盟の一員になっていくなんてとても思えない。コーチはしないまでも、その才能を裏方に回すなんて誰が望む? 凡庸なスケートショーに誘っているわけじゃない。一種のアートの試みだよ」  二年前、ポポーヴィッチはヴィクトルと同時期に引退し振付師へと転身した。もともと芸術家肌だった彼の野心は振り付けだけにとどまらず、最近ではショー全体のプロデュースに取り組みはじめ、スケート界の新しい動きとして一部から期待と注目を集めていた。 「とはいえ俺はアスリート気質だからねぇ。エンターテイナーでいることは苦手なんだよ、わかるだろ」 「エンターテイナーになれなんて言っていない。ヴィクトルという一人の人間として滑ってほしいんだ」 「ヴィクトルという人間、ねぇ……」  すでに空になっている自分のグラスを見つめながらそう呟くと、ヴィクトルはなぜか笑いたい気持ちになった。 「“お前は何者なんだ、ヴィクトル!”」  突然古風な芝居じみた口調で笑いだす友人に、ポポーヴィッチは呆れてため息をつく。 「本当に、ヴィクトル、これからどうするのかヤコフも心配している。最近じゃあのユーリですら……」  愛すべき友人の言葉を最後まで聞かずに、ヴィクトルはさっと立ち上がった。 「そろそろ決めてもらわないとね、俺が何者か」 「?」 「プロジェクトのことは考えておくよ、スパシーバ」  訝しげに見つめる友人の肩をぽんと叩いて、ヴィクトルは一人店を出る。帰りのタクシーの中でスマートフォンを取り出すと、ためらいなく成田行きのフライトを予約した。不思議なほどに、意気揚々と。
15-1911 それでも、なお
 ホテルのロビーで一人掛けのソファに腰を下ろした勇利は今、行き交う宿泊客をながめている。どうしていつも急に来るのだろうと、初めて彼が長谷津に現れたときのことを思い出す。頭の中で月日を数えて、勇利は思う。まだ4年も経っていないのか、と。どうしてヴィクトルが東京にいるのか、どうして勇利と会おうとしたのか、勇利には見当がつかない。これから会ってどんな話をするのか、勇利の方にだって何の準備もない。自分から離れた相手なのだ。どんな態度でどんな話をされたとしても、勇利はそれを受け入れるしかないとわかっている。それでもなお、勇利は思う。そこに可能性があるのなら。自分を失うこわさと引き換えに、別の何かを見つけ出す可能性があるのなら。自分を���義づけてくれる存在を、もう手放すようなことをしてはいけない。
 新宿に来る前、勇利は一度マンションに戻っていた。まっすぐ寝室に向かうと、クローゼットの奥から彼の持ち物の中では異質な黒い小箱を取り出した。最後にそれを見てから、もう一年近くが経とうとしている。「この歳になってもまだおまじないか」と苦笑いを混ぜて呟くと、それでも最大限の愛おしさを込めて、乾いた右手の薬指に小さな金の環を通した。それから右手を唇にぐっと押し当てるようにキスする癖は、一年経っても忘れてはいなかった。
 賭けをしよう。あの人の指にも同じものがあるだろうか。あるいは祈りを、あるいは冒険、あるいは。
 エレベーターがロビーフロアに到着する。数人の宿泊客とともに銀髪の彼が現れる。青い視線が黒髪を見つける。聞きなれたあの声が、勇利の名前をまっすぐ呼ぶ。
fin
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honryu · 4 years
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ナポレオンのロシアからの撤退を彷彿する  2012年のグレート・キャラバンの旅 (2020年夏実施予定)
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もし、アメリカの西部開拓はフロンティア精神の表れならば、シルクロードの精神は、人間自身の果てしない野望への冒険ではないだろうか。それこそが今の日本に一番必要とされる精神かもしれない。
シルクロード、古来、主に三つのルートがあった。天山山脈北に広がるのが草原の道。この草原の道は今から4千年も前、一番古くから交易路として栄えていた。その理由も馬にあったのだ。馬は人間の移動、交易範囲を広めただけでなく、人間の遠い、知らない世界を知りたいという冒険心のようなものを引き出したのだ。
古代の冒険者たちの道をもう一度、馬で辿る。これこそ、この「グレートキャラバン」の趣旨なのだ。
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■第一幕 騎馬遊牧民の歴史の舞台
 トルファンから巴仑台、和静を通り抜け、車に揺られて10時間、天山の真中に広がるバインブルク大草原へ辿りついた。ここは、遠古時代では騎馬民族の匈奴や烏孫氏が駆けめぐった。そして今から1500年前、中国の唐王朝と張り合った突厥帝国がここに都を置いた。遊牧民族は建造物を作らなかった。今では草原を吹き過ぎる風だけはここでかつて起きた歴史を語ってくれるのだ。
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    今ではここに住み着いているのは、四百年前、ロシアのキップチャック草原から帰来したモンゴル部落だ。13世紀、チンギス?ハンの大遠征と伴い、ヨーロッパでキップチャックハン国がチンギス?ハンの子孫たちによって作られていた。しかし15世紀にモスクワ公国に滅ぼされ、17世紀にそこに残ったモンゴル部族がロシアに支配されていた。エイカリナ一世の頃、ロシアとオースマントルコの間頻繁に戦争が行われ、そこのモンゴル部族が過酷な兵役に強いられていた。ここままではこの部族が消滅してしまうという危機感から、部族のリーダーオバシハンは部族を率いて、モンゴル高原への帰還を目指した。しかし、ロシア側は戦闘力として活躍してほしいという思いから帰らせたくなかった。だから、ここのモンゴル部族は寄り道しながら、ロシアと戦いながら、2万キロを渡り、最終的にイリ河を渡り、中国(※)への帰還を果たした。(当時中国?モンゴルを統治しているのは清王朝。清は自ら中国と呼ぶため、ここは“中国への帰還”の言葉を使った)当時の清の皇帝はその熱い故郷への思いを讃え、世界にも稀なほど豊な草原、バインブルク大草原を与えた。20万人の部族は帰って来た時、残りわずか6万人だった。今でも6万人のモンゴル人がここで暮らしている。この民族大移動は、世界史の中では、最後の民族大移動とも言われている。
今ではここのモンゴル族の風習の中に、チンギス?ハン時代の古い風習が残されつつ、顔付きなどでは純粋なモンゴル的な顔もいれば、ヨーロッパ的な感じの顔付も多いことは、このような歴史から見れば、解明できるかもしれない。
■第二幕 匈奴のお墓
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   出発して間もなく一面平坦な草原に着いた。ここで競馬とモンゴル相撲を行うことにした。競馬を行った場所は、古代の匈奴のお墓だった場所だ。今はわずかに高い丘の形しか残っていない。地下では発掘されていない。中国政府が発掘を禁止しているためだ。他に既にたくさんのお墓を発掘しているので、残りのものは後世に残すため、地下に眠らせたいためだと考えられる。
  丘の四方では非常に平らになっていて、この自然な円形を利用して、地元の遊牧民では毎年ここでナーダム大会を行い、競馬はまさにこのお墓を沿って行っている。
  遊牧民の人たちはいつもここにいるので、匈奴のお墓にもおそらく無頓着になっていただろうが、僕にはそれがいつも特別な意味を持つように思え、畏怖な気持ちに包まれてしまう???
  実は相撲の間に、非常に重大なお知らせがガイドの陳さんから知らされた。反日気運の高まりで、バインブルク政府並びに公安局が日本人退去の指令が出された(政府主導の反日という意味ではなく、各地方政府は自分の管轄地域で揉め事が起きてほしくないための保守的なやり方だ。)最初それを聞いた時に、所詮旅行会社の『自作劇』で、余分に苦労料をもらいたいだけではないか半信半疑だった。だから、その後の競馬に自分が参加したのもその嫌な気持ちを拭払したかった。しかし、政府から電話の調べがあり、最後、北京のホテルから退去勧告があった情報が日本の事務所から聞かされて、ちょっとしたことではないと本気で心配し始めた。
  しかし、旅が始まったばかりだし、何としてもここで終わるわけにはいかない。日本ではかつてテレビに放送されたアドベンチャー企画だし、以前中国観光局が後援になっていたなど話し、そして裏の約束も含め、政府?公安局との交渉を重ね、結果的に、現地公安局が安全保障のため同行するという条件付きでの滞在となりました。(実際のところ公安局も本気で心配していないので、奔流の団体から何らかの献上金がほしいだけで、一度現れて後は実質同行していない)
  だから、結局、次の日、彼らの到来を待たなくてはいけないため、白鳥の湖へ行って今日の宿泊地に戻ることになった。実は次の朝までに僕が宿営地が移動しないことに完全に納得していないが、夜は非常に冷えたので、次の朝また悪天候だったため、無理にしていたら、政府を怒らせるだけでなく、テントを濡れている地面に立ててしまうと、参加者も夜の寒さにやられる。これらを考え、次の日の朝、参加者を集合し、事情を話し、この日の宿営地に留まることにした。
  ■第三幕 白鳥の湖
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     朝、曇りの中、西へと出発した。しばらく進むと、滑らかな丘を登り始め、一面に見慣れぬ濃密の草と赤い花が点々と咲いている。馬から降りて写真を撮っている間、なぜか先頭が止まっているように見えた。急いて先頭に駆け着いた。石だらけの峠の前に、どのように進むか参加者の一部が戸惑い、止まったのだ。遊牧民スタッフはちっとも問題にしていないが、初めて馬に乗る人にしては、一つの試練になるに違いない。ろくに操れていない初心者たちにして、転ぶと身の危険があるとだれでも感じるはずだ。その時に僕がやるべきことが三つあった。①先頭の遊牧民にもっと緩やかな下りやすい道がないかと探す指示を出す。②参加者に安心させて、馬自身もこういう時に慎重に進路を考えていることを伝えることだ。③先頭に進んでいる人たちを止め、でないと後ろの馬が焦ってしまったら危険が高まるためだ。なんとか全員、峠を越えた。
  すると、目の前に羊の群れと、そのもっと先に、山に囲まれた大きな湖が見えた。神秘でグレーに近い色で全く波紋もない湖。中に白い点が遠からも見える。白鳥が生息しているのだ。湖に向かって進む間にどこからかたくさんの羊と牛がやってきて、湖の畔が覆われていた。
  湖の畔を沿って進むと、ヤックとも遭偶した。近くにいると、あまりにもの大きさに少し怖くも感じた。もちろん、襲ってこない。ここは、あらゆる動物がとても平和に穏やかに暮らしている。何人かの遊牧民以外、彼らはきっと人間のことを知らない。人間の怖さも当然知らないはずだ。遊牧民スタッフ一人が畔にある馬の群れを追いたてると、馬の群れが狂うように逃げ始めた。その一瞬、カメラに収めた。
  余談だが、これらの馬は野生馬ではない。野生馬というのは、体つきはむしろ少しロバに似ていて、世界でも若何十頭しか存在しない。自然の中にいる馬の群れはどれも誰かが飼っているもので、「野生馬」に関違う理由は、馬の群れを飼うことはほとんど人間が何もタッチする必要がない。馬の群れは大抵オスが一頭だけで後は全部メス。繁殖まで馬の群れは自立で管理できるのだ。仔馬が生まれて三歳になったら群れから追い出される。群れを飼っている遊牧民はそれを他の遊牧民に売ればよい。だから馬の群れはほとんど野生のままに草原にいるのだ。
  ここの景色は恐らく参加者には一生忘れないだろう。帰りに、山と山の谷間を通る場所があって、山の上に何人かの遊牧民の少年たちが多分面白がって、ずっと見下ろしている。西部映画のワン?シーンを思い浮かべた――山の上に敵が現れる。それでも進むしかない。双方とも何事もないように。そして次の一瞬、打ち合いが始まる???どうでもいい幻想がいっぱい思い浮かぶ。それだけ白鳥の湖の後、自分の気持ちが高揚しているのがわかる。
  ■第四幕 黒い草原
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    昨日夕焼けが見えたのに朝になってなぜか雪に変わった。これは高原の気候なのかもしれない。今日は南を目指した。雪のためあたりははっきり見えなくてとにかく道路を沿って進んだ記憶があった。少し寒かった。先の道路状況がはっきり読めないため、ペースを速足。吹雪の中で参加者が必死について来たようにも見えた。
  しばらくして景色が少し変化があった。草原は凸凹に覆われている。馬を並足で慎重に進めるしかない。そうしたら、左側に黒い山脈が見えてきた。崖が一面のような山脈だった。草が深く濃く生えているため黒く見えた。違う種類の草だった。岩石も散らかっていた。崖の下に緩やかに広がる草原の斜面に、夥しい数の羊、ヤギ、ヤックがいた。雪の天気もあって、違うプラネットにいる錯覚さえした。そして、鷲もいた。堂々と、大きいな岩石にひとり立つ、黄い「鎧」に覆われて。地元でも「ゴールド鷲」と呼ばれている。
  チンギス?ハンを描く小説「蒼き狼」の中に、黒い森という地域があったが、そこから連想して、ここは「黒い草原」と勝手に名付けた。
  黒い草原を後にして、今度また緩やかな草原に入る。今度川と草原が交り、その先に吊り橋があった。一部の馬は吊り橋を怖がる恐れがあるため、全員降りて馬を引いて吊り橋を渡った。今日の宿泊地は吊り橋のすぐ向こうにあった。
  雪のため休憩せず一気に宿営地に駆け着いたため、テントはまだできていない。そこに一つとても小さな店があった。チョーコレットを買って皆を喜ばせようと思って店に入ったが、チョーコレットがなかったので、おやつを買って配った。その後、腰の痛みが顕著になってきたため、とにかく馬を降りてからはスタッフに任せればいいから、一人で店に入って休んだ。腰は去年のグレート?キャラバンの最後の最後に、冷えと疲れでヘルニアになり、今年の7月中旬、出発直前に激しい運動をしている時に再発してしまった。馬に乗る時はなんとか腰に負担の欠けない乗り方はできるが、悪天候にはどうしようもない。雪や雨の日では、腰の痛みが増してくるのだ。でも、良く考えたら、ヘルニア直後で、ここまで二か月間連続で、ここまで過酷な状況の中で馬乗れる人はそうそういないだろう。いつか日本の競馬買の連中に自慢しようと思うようになり、自分一人で秘かに笑った。
  到着3時間くらい経っただろうが、外は晴れてきた。周りは絶景だった。広がる草原、ゆったりと流れる川、遠くに雲の中の白い山々???参加者たちは外に出ていっぱい遊んだ。
  ■第五幕 開都河の畔
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      今日は悪天候と予測されるため、宿営地を移動せず、替りに景色が素晴らしいと言われる北の方に向かう。しかし出発して間もなく天候が崩れるどころか、少しずつ快晴となった。もし、二日目の景色がアイルランドっぽいとすれば、三日目はカナダのイメージ、そして今はアメリカ西部に彷彿できる。しかし2時間して少しずつ草が高くなり、緑も眩しくなってくる。草原はこの季節ではかなり黄色になっていたが、ここだけはなぜか緑に見える。草は更に高くなる。草とも木ともいえないくらいの高さになってくる。先��道はどんどん細く見えた。通れるかの心配もあるし、あまりにも美しかったから、そこでお昼休憩にした。
  河は翠色だった。参加者たちは河の畔で休んだ。馬たちは草の深いところに入った。すべてのんびりしていた。人間の声以外、自然は茂っていて、しかし音が立たない。私はこの間、大好きの白い馬と下見に出た。この先の道は一般の参加者にしてはきっと厳しいと分かったから、午後は路案内人を雇い、違う方法へ向かうことにした。
  休憩の間に、白い馬と寄り添って日記を書き始めた。「この河はタリム盆地、そしてかつての楼蘭王国に流れる河。今僕たちはその上流から下流に向かって。毎日手付かない大自然を旅し、地球のダイナミックな景色と出会い、驚きと感動が絶えない。昨日はヤクと鷲と出会った。一昨日は白鳥たちの地に踏み入れた。雁の群れが宿営地の空を通り過ぎ、雪の山が当たりに時間の流れをも止めている。何千年も昔、古の人々と、今私��ちは同じ世界を生きている、、、」
  ■第六幕 天空の草原へ
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  午後、現地の遊牧民少年の案内で進んだ。知らず内になぜか馬で山を登り始めた。60度ほどの急斜面だ。参加者たちは必死に鞍に絡みついているが、案内人の少年は何事もないように悠々と峰の上で馬の上で眺めている。一体どこを案内したいのか。馬と一体になっての登山運動が終わると、現れたのが平坦な台地、天空の草原なのだ。四方の草原を見下ろせ、遠くの山脈の聳えている雪の山頂を平行に眺めながら馬を進める。夢の中のようだ。
  途中、案内人の彼も迷ったように見えた。登るのがいいが、どこから降りるかは見失ったようだ。
  ■第七幕 雪原の行進
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           朝6時頃、外では騒ぎ越えが聞こえた。大地は大雪に覆われていた。20センチほどもあり、テントの一角は雪の重さで壊れた。参加者は突然の大雪に楽しんでいるが、こちらでは様々な決断に強いられていた。①雪の中で危険を冒しても進むべきかどうか。②クチャまでの路が封鎖された場合どのようにウルムチに向かうか。③どこで迎えに来る車と合流するか、そしてどうやって。
  雨でも、車が滑り、ランドオフの車さえ嵌る可能性がある。まして大型バスでは草原の道はとても無理だ。それは昨日の朝、身をもって体験していた。泥の中で、一時間ほど泥と横滑りと戦っていた。予定通り先に行く場合、急な斜面があったりするらしく、雪では非常に危険だと言われる。
  決断のために、やるべきことが二つあった。一つ私たち今いる場所の天気予報だ。ここは高原の中なので、ラジオの天気予報だけでは信用できない。地元の気象局にも電話することにした。もう一つは遊牧民スタッフを集め、危険の度合いを詳細に聞いた。結果的にこの日から連日の降雪らしく、先の路では危険すぎで、更に身の危険をたとえ何とか回避できるとしても、国道に辿りつくはずもなく、そしてバスと合流できなくなってくる。いざという時にも、ランドオフの車がついてこられない。そして更に最悪の場合、クチャまで完全に封鎖されたら、この先ではウルムチにさえ行けなくなる。以上を鑑じて、元の道を辿ることにした。いざの際にバスが迎えに来られるし、クチャまで封鎖されても、来た道で天山を横切り、和静県に向かう道が残る。
  雪の中の大撤退が始まった。『戦争と平和』という映画の中のナポレオンがロシアから撤退するシーンと彷彿するほどだ。馬の旅はやはりロマンが多い。たとえ撤退でも。
  雪の中の注意点を伝えた。足跡を沿っていくとか、雪の中でどう馬を動かすとか、足が鐙から外れやすいとか。でも、自分は結構雪の中を駆けていた。一つはもともと止めづらい馬だし、もう一つなぜかうれしくなった。夏なのに、雪の行進は楽しい。偶に一番先頭にいると、真っ白の一面、他に何もない。冒険者の気持ちに燃えた。
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  5、6時間後、全員無事に予定している場所に着いた。参加者の多くはもっと乗りたかったように見えた。バスを待っている間に、風雪の中に最後の草原の食事を食べた。遊牧民と別れを惜しんだ。彼らはまたこの寒さの中に家まで長い行程があるはずだ。
  帰りに、僕は食事を運ぶ車に乗った。運転手の掛けている音楽が好きだからそれに乗った。細い山道で曲るところでもまったくスピードを落とさない。スリルを楽しんでいるように見えた。なんと、この二人の運転手は、毎日100キロ先の街から暖かい朝食、昼食、夕食を届けるためこの道を三往復している人だから、この道を知り尽くしているはずだ。
    ■第八幕 クチャへ
山路のため、降雪すると、バスでは通れなくなる。やむなく8代のタクシーを雇い、合計11台の車の隊列でクチャへ向かった。車の中では景色を楽しむ以外やることがなかったため、写真と、そして妄想で楽しんでいた。本来、僕の車が一番先頭でないといけないが、途中、何台かの気早い若き運転手に越された。面白いことに、途中僕の車がやってきたのを見かけや、付近に散らかって休憩している参加者を運転手たちが呼び、一瞬にして全員に車に乗った。その風景が、パイロットたちが指示を受けて素早く戦闘機に登場するシーンと重ねた。夕方前クチャに着いた。
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    (この旅で最も印象深かった人。きっと立派な起業家になるように予感する)
■後書 天山バインブルク大草原は世界の壮観を網羅したように思う。天候の違う時に訪れたら、まったく違う景色が目の当たりにした。そして馬で奥へ進むにつれて、一日の中でも、カナダのような景色、ロッキー山脈の景色、映画の中のインディア人居住地のような景色、アイルランドの景色など移り変わっていきます。 ここはまた野生動物の天国だ。ヤックや白鳥、鷲は馬隊のすぐ横に擦り違う。そして世界で狼を見かけられる数少ない場所の一つだ。私たちは山の中に深く入っていかないので、遭遇はしないが、夜になると狼の鳴き声が聞こえてくる時があった。 ここの遊牧民は外国人はもちろん、外の世界の人をあまり見たことがなく、人懐こいというか、純粋で心が透き通っているように見える。外部と接触少ないゆえに、彼らの文化はモンゴル共和国などよりも、チンギスハン時代のものが残されているのだ。その証拠の一つはモンゴル相撲のやり方は独特だった。現代見世物にもなれるようなモンゴル相撲ではなく、純粋に戦うためにあるものだった。 でも、羊の解体はモンゴルの遊牧民と違って、イスラムのやり方だった。本来モンゴルは心臓の動脈と止める、血を大地に流さないやり方ですが、それでは周辺のウィグル人やカザフ人は買いに来てくれないので、知らず内にイスラムの人々に合わせたと言えます。人間は文化、プライドよりもまずは生きていくことが大事ということを物語っているように思います。
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my-orange-pekoee · 5 years
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【ムンバイのダラビ】
今回は、今月行ってきたムンバイ旅行の事を書きたい。
いつも旅行中は日記をつけるようにしているのだが、たいてい途中で面倒になってしまい、書くことをサボってしまう。
この旅行でも、1日目の昼までのことしか書けていなかった。
2020年1月18日
この日はムンバイ旅行2日目だった。
この日は9時からツアーの予定があった。
時差ボケか疲れなのか、8時半に起床してしまい、身支度もまともにせず、散らかった荷物達をリュックサックに詰め込んで、慌ててチェックアウトをした。
本当は7時くらいに外に出てインド門周辺の写真を撮りたかったのだが。
ロビーで待つようにとバウチャーには書かれていたが、外の人が見えていない状態はなんとなく不安なので外で待っていた。
何人かの宿泊客がタクシーを捕まえ、次々と宿を離れていく。野良猫を眺めていると、1人の男性(名前はわかるがあえて伏せる)が私の名前らしきものを呼んだ。ツアーの人だった。
彼は私にタージマハルの写真のポストカードと、ダージリンの茶葉をお土産にくれた。
迎えの車が��るまで、どこから来たの?とか、話したのだが、相変わらず私は極度なシャイで、自分から話を振ったり、質問したりしなかった。(本当にこの性格が嫌になる。)
私は自分がいかにつまらない奴か、もう十分にわかってしまっている。普段からそうだが、日本から出るとよりそのことが浮き彫りになってしまっていて、人と距離を自らとってしまう。いつも。
そんな事を考えながら待っていると、迎えの車が来た。
車の中では2人の男性が、淡々と会話をしていた。なんの話をしていたのかはわからない。ただ理解できる単語からは、真面目な人生についての話なんだろうと推測できた。全く違う話かもしれないが。
1人旅だと、移動の際は話す相手もいないので、ひたすら外を眺めるだけになる。でも私は、この時間が好きだった。
混み合っている道路の脇に駐車をしたかと思うと、降りるよう言われた。
てっきり初めに合った男性がガイドなのかと思っていたが、別の男性が現れ、彼が今回のダラビツアーのガイドなのだと知った。ガイドではなかった男性がガイドに、私が英語が苦手だという事を、恐らく伝えてくれていた。
そこからガイドと、私の2人行動が始まった。まずは横断歩道のない道路を渡ることから始まった。1年前に行ったカイロでも何度もやったので、今更驚きはしないのだが、慣れてもいなかった。彼がリードしてくれたので、スムーズに渡れた。
その後よくダラビを舞台にしたインド映画でよく見かける歩道橋に行き、ダラビの入り口を俯瞰した。ガイドが「これから行く場所はスラムと呼ばれる場所だが、私たちはそう呼ばれるのが好きではない。だからneighborと呼ぶ。君もスラムとは呼ばないで欲しい。何か質問があったら何でも聞いて欲しい。写真は撮る前に私に許可を取って。そして、安全な場所だから、どうか怖がらないで欲しい。」と丁寧に説明してくれた。完璧な日本語訳にはなっていない。ニュアンスだけだが。
「スラム」と聞くと、なんとなく犯罪が多発している、所謂治安の悪い場所、のようなイメージが、一般的にはある。
私自身は、人々が安定して生活している場所はそこまで危険に思う必要はないと思っているが、メディアが作り上げたイメージの断片が自分の頭のどこかに存在していることは否めない。
しかしこのダラビという場所に関しては、いくつかのインド映画で舞台にされていることもあって、そもそも不安に思ったりとか、そういう気持ちはなかった。まあ1人でふらりと行けはしない場所ではあると思う。地理的に。
彼は経済学を学んでいるとの事だった。
ムンバイ行きの便で、映画「ガリーボーイ」をみていて良かったと思った。あの映画はダラビという場所のリアルに近くつくられていたと思う。ダラビの住人ではないため、断言はできないが。その映画の主人公も大学生であった。
話が逸れてしまうが、以前Twitterで反スラムツーリズムに関する意見を見かけてから、私はスラムツアーというものに懐疑的でいた。グエル公園やグランドキャニオンなどの観光地で観光客がセルカ棒を振り回し、母語を大きな声で話しはしゃぐことはまあ理解できる。観光ってそういうものだ。しかし、スラム(というより住宅地)のツアーというのは、人々が日常生活をしている場所だ。日本でいったら商店街だったり、電車だったり、マンションの入り口や、家のキッチンだ。そんな場所で無神経に写真を撮られたり、文化の違いに関して声高々に議論などされたら、たしかにあまりいい気分はしない。少なくとも私はそう思う。だから私もそんなことはしたくないと思っていた。
だが、やはり我慢できなかったのは私の悪いところだ。自分はやりたくないと思っていたことを、やった。だが、だからといってダラビの人々の生活に全く以って無関心であるわけではない。無礼になることが嫌なのであって、インド最大のスラムなどと呼ばれる地域の人々の様子について、関心はあった。だから私は正直学生の自分にとっては少々高額な金額を払うことで罪悪感を消されるのではないかと愚かな期待をしていた。2つのジレンマに対して、お金が免罪符になってくれるだろうと考えたのだ。我ながら本当に呆れる。早くまともな思考ができる人間になってくれ、頼むから。
そのような罪悪感があったから、正直言うと地元民であるガイドの彼に対する言葉も慎重に選んでいた。彼は彼の母が料理上手であること、下に3人の弟がいること、ツアーはアルバイトでやっており他に2つものアルバイトをしていること、など沢山の私生活のことを教えてくれた。そして、その度に私のことも尋ねてくれた。
ダラビの生活についても、ユーモアたっぷりに紹介してくれた。映画館とは言わないような1つの部屋にプロジェクターで映し出される「映画館」は1ドルで何本もの映画がみれるらしい。インドでは"copyright"は"right to copy"だそうだ。映画がいかに人々の人生を豊にしてくれるのか痛感する私にとっては、映画館が賑わうことは嬉しかった。そして地上の混雑を整理するために政府が作った歩道橋は誰にも使われず、舗装されていない土が剥き出しになった道路を、さまざまな車、バイク、人、犬が行き交っていた。この場所には八百屋も、病院も、学校も、なんでも揃っている。個人的には、ヒンドゥー教、キリスト教、イスラム教の拝礼場が一箇所に集まっていた事に驚いた。そのような場所って、あまり聴いた事がなかった。
恥ずかしながら、ずっとインドはヒンドゥー教が圧倒的多数だと思っていたし、なんならイスラム教はあまり歓迎されていないのかと思っていた。(本当に無知だ。)しかし、宗教同士で住む場所が違ったり、排除されているような風では全くなく、まさに「共存」していると、ここ最近知った。
初めに行った地区は主に労働者が行き交う場で、安全を配慮し子供は連れてこないんだそうだ。奥まったところではプラスチックのリサイクルがされており、捨てられたプラスチックを細かくし、重さによって2種類に分け、洗い、チップにしていく。これが次に生まれるプラスチック製商品の原料になるらしい。彼は、「この仕事を誰もしなくなればムンバイはゴミだらけになる。だから彼ら(労働者)はヒーローなんだ。尊敬している。」と言っていた。私も同感だった。
他にもリサイクルに使う機械を作っていたり、人工のレザーだったり、スーツのケースを作っていた。改めて、この世にあるあらゆる商品というのは、作り手あってのものだと思った。
もう十分わかるだろう。この場所が「所謂スラム」かどうか。
私の他にもツアー客らしき人がいた。大体は団体で、1人ぼっちなのは私くらいだった。
色々と話をしていく中で、彼は私と同じ22歳で、明日が誕生日なのだと知った。別に歳はただの数字に過ぎないと思うが、やっぱり親近感がわくというか、ほんの少しだけ、(同じ時代を生きてきた者同士なのだ)と、実に勝手に思ったりした。もちろん人生の中の経験は個々で違うが。そして、貴重な誕生日前日を私などのために使ってくれた申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいだった。
そこから、小学校を訪れたり、彼の家がある通りを覗いたり、新鮮な野菜やフルーツを売るマーケット通りを歩いたり、壺を家業として作っている人々の住む場所に行ったりした。通りでガイドの彼と、その知り合いが親しげに挨拶しているのをみて、(極めて当たり前な事だが)この街に住んでいる人々なのだと思ったりした。当たり前だ。未だに私はこの場所を何かのテーマパークか何かと思っているんだろうか。再度自分に呆れながらも、相変わらず私は人々の生活というものに美しさを感じていた。まだ私の言語能力では表現できないが、美しいのだ。人々がある場所を基盤にし、生活を営むというのは。
帰り道、ふと結婚しているか聞かれたので、していないと答えた。する予定はあるかと聞かれ、私は日本で常に考えている、「結婚は相手との契約であり同時に人生の終わりまで続く責任との結婚でもある。結婚によって幸か不幸かは決まらず、納得できる相手に出会えない事には始まらない。何より、相手が見つかる自信がない」という事を、英語でなんと言えばいいのか分からず黙り込んでしまった。「まだわかんないや」と言えば良かったものを。彼は気まずそうに、プロポーズしているわけじゃない、と言いかけて私はまた自分の英語力のなさと退屈さに後悔するのだった。当たり前だ。そんな質問だなんて、1ミリも考えなかった。また不要な誤解を招いてしまったし、そして決まって気まずくなる。本当に恥ずかしかった。(無論自分自身が。)
あっという間に2時間のツアーは終わり、迎えの車のもとに着いた。私はずっと、ツアー手配会社に渡すよう言われていた「チップ」について考えた。渡すべきか否か。いや、インドにチップ文化がある以上、勿論渡すべきである。しかし、なんというかあまりにも「ガイドと客」感がなかった事と、現金を手渡すという行為が未だに私には抵抗があった。なんというか、それは比較的裕福な人間が裕福でない人間に渡るとき、金額に対する価値観の違いが一瞬で変わるあの感じがどうしても苦手だった。彼らにとっての大切な稼ぎが、私たちの「お気持ち」だなんて、頭ではそういうものだと分かっていても変な感じがする。ただ私はこの感謝の気持ちを何にも表さず帰るのが嫌だった。その意味もあって、私は車に乗り込む直前に、彼に300ルピーほどを、誕生日おめでとう、と言いながら渡した。彼は驚きと困惑と気まずさが混じった(ように見える)表情をした。本当の胸の内はわからない。ただ、もし、もしそれが「スラムに住む青年男性に日本の(海外旅行に行けるだけの金を持ち、親による厚いサポートを持つ)女子大学生が心ばかりの現金を渡す行為」というふうに映るのであれば、これほど抵抗のあることはない。しかしながら、もちろん2時間ガイドをしてもらったくらいで親しい友達になれたとも思わない。
複雑な話だ。私はアルバイトをして貯めたお金を簡単に、しかも2日間で十数万円使うというようなことをしている。しかしダラビに住む多くの人は、その土地で生きていく(大学に通ったり、余暇を楽しんだりすることも含め)ためにお金を使う。そこには明らかに貧富の差は存在している。ない、だなんて、死んだって言えない。しかし、「ほら、ありがとう。感謝のお金だよ」みたいなやり取りはあまりにも悲しすぎる。しかも、300ルピーだ。私はそもそもこのツアーに対して30倍以上のお金を払っているのに。もうわからない。何が正解なのか。考えることすら疲れてくる。
ただ、きっと、私はそうやって考え続けるべきなのだ。考えもせず、楽になっちゃだめだ。自分は自分にせめても心理的負担をかけ続けなきゃ、だめだ。悩む事を諦め、面倒だからと、目の前にある、自分以外の他者が関わった明らかな問題を投げ捨てる人間にだけは、なってはいけない。死ぬまで背負わなければならない、私への課題だ。
そんなこんなで、ダラビツアーを終えた。
帰り道の途中にカシミアストール屋さんに連れて行ってもらったが(頼んではないないが断りもしなかった)5000円以上するものを、買おうとは思えなかった。
確かにインドと日本は経済力が違う。まだ多少は、日本は力を持つ方の国ではある。だが、現地であまり買う気になれないものにまでお金を出せるほどではないのだ。往復の航空券と宿、食費といくつかの安めのお土産を買うだけの予算しか持ち合わせていない。決して買える財力があるのに相手国の価格でしか買おうとしないような、ケチくさい人間になりたいのではない。
きっとインドは直ぐにも経済力を伸ばし、日本を抜いていくだろう。そういうものだ。別にそれで日本が国としての価値が落ちるわけではない。そもそも国としての価値など、どの国にも決められるものではないと思う。
そんな事を考えていた。
午後についてはまた今度書こうと思う。
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kurihara-yumeko · 7 years
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【小説】鳴かない (下)
 大学四年生の郡田さんは単位が不足していて、そのせいで卒業が危うかった。
 長い長い夏休みが終わって大学がまた始まると、彼からくる連絡は、遊びの誘いではなくて、朝、授業に間に合うように起こしに来てくれ、というものになった。
 お互いのアパートが近かった私は、郡田さんの部屋の合鍵を預かり、講義の時間に間に合うように彼の部屋へ行き、布団をひっぺがして起こさなくていけなかった。
 郡田さんの部屋は散らかってはいるものの、物が多いという印象はなく、生活に必要最低限の物だけがかき集められているという感じがした。寝ている人、しかも年上の男性の部屋に、鍵を開けて堂々と踏み込むというのは、なんだか心のどこかに引っ掛かるものを覚えた。
 夏が終わっても郡田さんは相変わらずで、ベッドの中には、裸同然の格好をした女性が一緒にいることも多かったけれど、いつの間にか慣れた。いつまでも不慣れなのは連れ込まれた女性の方で、朝、突然鍵を開けてやって来た私を、彼の本命の彼女なのだと勘違いして、しどろもどろに慌て始めることがしょっちゅうだった。彼の部屋で同じ女性と鉢合わせになることは一度もなく、私は毎回、素っ裸かそれに近い下着姿の女性に、初めまして郡田さんのサークルの後輩です、恋人ではないのでご安心を、という挨拶をしなければならなかった。
 肝心の郡田さんはいつも通り飄々としていて、まだ寝惚けているのだろう、起こしてくれてありがとう、なんて言いながら、全裸のまま私に抱きついたりすることもあった。
 人の裸というものは、日頃は見る機会もなく、見えたとしても決して見てはいけないという気持ちになるが、見慣れればどうってことはない。素っ裸のまま布団に包まって眠っていた彼らよりも、そんな彼らの部屋にずけずけと踏み込み、布団を引き剥がす私という存在の方が、よっぽど恥ずべき生き物のような気がした。
 郡田さんは起きるとさっさと女性を部屋から退出させて、シャワーを浴びる。その間に私は台所を拝借し、冷蔵庫の中の残り物で何か適当に朝食を作った。郡田さんはそれをいつも美味しそうに食べ、私に感謝の言葉を述べた。軽いハグが、その言葉とセットの時もあった。私はその度に、自分の身体が不自然にぎくしゃくと軋む音を立てているような気がした。
 郡田さんの身支度が済むと一緒に部屋を出る。大学までの道を、二人並んでゆらゆらと歩いた。秋の光に照らされた朝の景色は、いつもどこか白くきらきらと瞬いていて、濃厚な金木犀の甘ったるいにおいに頭がくらくらした。少しずつ冷えていく風の温度に、私はいつも少しだけ泣きたくなった。
 休みの日は夏と変わらず、私と鷹谷はよく郡田さんに誘われて飲みに行ったり遊びに行ったりした。他の部員が一緒に来る時もあれば、三人だけで集まることもあったけれど、郡田さんが私に手を出してくることはやっぱりなかった。せいぜい酔っ払ってもたれかかってくるくらいで、無理にお酒を飲ませてどうこうしようということはなかった。彼はこの頃、部の飲み会で女の子に手を出すということをしなくなっていた。私以外の女子には全員、手を出した後だったからだ。
 女の子を連れ帰らなくなった郡田さんは、飲み会でへろへろに酔っ払うようになった。家が近所で、合鍵も預かっている私が、彼を送ることが増えた。時々、彼は自分の家ではなく私の家に行きたいと言って聞かず、渋々部屋へ上げることもあった。けれどそんな時も郡田さんは私が来客用の布団を敷くのを大人しく待ち、その布団にころんと横になってすぐに眠った。
 一度だけ、急に冷え込んだ秋の夜、郡田さんは私を抱き締めたまま眠ったことがあった。優しい力で私を腕に抱いたまま、しばらくこうさせて、と言ったきり、そのまま眠ってしまったのだ。けれど、その晩もそれ以上何かしてくるということはなかった。
 彼の腕に抱かれていると、身体が不自然にねじ切れていくような錯覚を覚えた。眠れないまま、暗闇にじっと目を凝らし、私はあの花火の夜のことを思い出していた。あの夏の蝉たちは、皆ひとりぼっちから抜け出せたのだろうか。
 あの時、交わした言葉について、その後彼と語ることはなかった。あの子供のようなくちづけの意味も、すきだよという声の重みも。
 鷹谷はそんな��と郡田さんの関係を、少しばかり心配していた。鷹谷は、私が酔った彼を送って帰る度、何か言いたげな表情をしていたけれど、結局は何も意見しなかった。
「大丈夫か」
 鷹谷はそんな一言で私に問いかけた。
「大丈夫だよ」
 私はいつもそう返した。鷹谷が何についてそう尋ね、私は何についてそう答えたのか、何もわからないまま、だけど必ずそう返事をした。
 郡田さんがどう思っているのか、私にはわからなかった。誰かにこの話をすれば、彼は美茂咲のことが本当に大切で、だから手を出さないのだ、美茂咲だけは抱かれないのだ、と言う人と、美茂咲は都合良く使われているだけだ、遊ばれているだけなのだ、と言う人がいた。
 どちらの意見にも賛同できなかった。いつものように優しく笑う郡田さんを見ていると、前者の意見のような気がして、酔った夜に私の前だけで見せる、何かを失ってしまった悲しみに囚われているような儚い笑い方をする彼を見ていると、後者のような気がした。
「郡田さんは私のこと、どう思っているんですか」
 そう本人に問いかけることができたのは、十一月が終わる頃だった。その日私は、特にこれといった用もないのに、郡田さんの部屋でだらだらと過ごしていた。彼は友達から借りてきたのだというテレビゲームをしており、私はそれをぼんやり眺めていた。
 私の言葉に、うん、と彼は返事をした。
「魚原は、そうだね、頭は良いし真面目なんだけど、時々、妙に抜けてるよね」
「そうですか」
「たまにリュックの肩紐がねじれてるの、気になるんだよなぁ」
「言って下さいよ、それは」
 私が顔をしかめてそう言うと、彼はコントローラーを握り、画面を見つめたまま、うん、そうするね、と言った。画面の中では郡田さんは極悪非道人になっていて、ヘリコプターを強奪すると、夜景の上を飛びながら、暗殺対象がいるビル目がけてミサイルを発射していた。
「魚原は、俺のことどう思ってるの」
 爆音、建物が崩壊する音、人々の悲鳴。凝った音響を聞きながら、それでも彼は容赦なく二発目のミサイルを撃つ。
「郡田さんは――」
 画面の中でビルが完全に崩れ去る。よくやった、引き返せ、という次の指令が画面下に字幕となって表示される。けれど彼は、瓦礫の山となった、粉塵をまとうビルの残骸に向けて、さらにもう一発、ミサイルを落とす。
「――変な人です」
「どう変なの」
「次々違う女の人を引っかけてきては、すぐ寝るし」
「うん」
「サークルの女の子全員に手を出すし」
「全員っていうのは言いすぎ。まだ魚原には手ぇ出してないでしょ」
「それも変です」
「変? どうして?」
 ビルの残骸が燃えていた。真っ赤な火柱がわっと立ち上がる。次々と街が燃えていく。漆黒の中の銀河のような煌めきが、夜景が、人々の営みが、全て炎の中へと飲み込まれていく。郡田さんの操縦するヘリはゆっくりと上昇し踵を返す。来た道を引き返すように飛んでいく。
「魚原に手を出してないことが、どう変なの」
「どうして、私だけなんですか」
「魚原だけじゃなかったら、いいの」
 郡田さんはそこでちらりと画面から目を離した。画面の中で、ビルを崩壊させ、街に火を放ったその目で、私のことを見た。
「魚原以外にも、手を出してない女の子が他にいれば、それで良かった?」
 私は、答えられなかった。
 ずっと気になっていた。どうして彼は私を抱かないのか。その機会はいくらでもあるのに、どうしてそうしないのか。私のことをどう思っているのか。
 けれど、その問いを持つ度、口に出す度、こうして郡田さんに質問で返される度、どうしたらいいのかわからなくなる。私はどうしたいのだろうか。その問いの答えを知りたいのだろうか。真実を知りたい、そうなのかもしれない。でも本当に、そうなのだろうか。
 本当のことを知りたいのであれば何故、郡田さんが口を開くことが、その口から零れ落ちてくる言葉を私の耳が拾い上げることが、こんなにも恐ろしいのだろう。郡田さんの目を見つめることが、こんなにも怖いのだろう。
 私は、何を求めているのだろう。
 彼に抱かれたいのだろうか。彼に抱かれなかったことを不満に思っているのだろうか。どうして私だけ、と彼を責めているのだろうか。抱かれたいのであれば、どうして抱かれたいのだろう。彼に抱かれたら、何か変わるのだろうか。
 彼がどんな答えを出してくれることを、私は望んでいるんだろう。一体何を、彼に尋ねたいのだろう。
 何も答えられないでいると、郡田さんはゲームの手を止めた。彼の両腕が伸びてくる。最初は、押し倒されるのかと思った。けれどそうじゃなかった。彼は私のことを抱き寄せ、その両腕の中にすっぽりと私を片付けてしまった。
「泣くなよ」
「……泣いてません」
「悪かった、泣かないでくれ」
 郡田さんの声が、頭の上からする。
「どうしても抱かれたいなら、抱かないこともないけど」
 私はその言葉に首をぶんぶんと横に振った。考えて言葉を紡ぐより先に、身体がそう反応した。うん、と郡田さんはまた返事をする。
「俺の態度の何かが、魚原を傷つけているのはわかるよ。でも俺は、それがなんなのかよくわからないんだよ」
 そんなことを言われたって困る。私がそれを訊きたいぐらいだ。
「俺がいろんな女の子と寝てるのが悪いの?」
 私は、郡田さんが多くの女性と肉体関係を持つことに、傷ついているのだろうか。彼に誰とも寝てほしくないのだろうか。
「魚原のことは、ちゃんと女の子として見てるよ。異性として、意識してる。でも、抱かなくてもいいんだ」
 郡田さんの言葉に、胸が苦しくなる。どうして苦しくなるんだろう。
 理由もわからないままに零れていく涙を、郡田さんのシャツが吸い込んでいく。濡らしてごめんなさい、と言おうと口を開いたけれど、嗚咽が混じった私の言葉は、自分の耳ですら上手く聞き取れなかった。それでも、うん、と郡田さんは返事をしてくれる。
「俺が悪いんだろうな。ごめんね」
 私はまた首を横に振ろうとして、振れなかった。
「魚原は、俺のことがすき?」
 もう首を縦にも横にも振れなかった。肯定も否定もできない。郡田さんは、そんな何もできない私の頭を撫でた。
「俺は魚原がすきだよ」
 そんな言葉が降ってくる。だけれどもう私には、それにどう答えていいのか、何もわからなかった。
 こんな男、最低だ。
 涙を拭って、そう思った。
 顔を上げ、思わず彼の頬を平手打ちした。郡田さんは一瞬、呆気に取られたような顔をして、けれど、すぐに困ったような表情で笑った。
 私はこみ上げてくる涙を堪えることもできずに、郡田さんの胸元を濡らした。
 彼の優しさは罪だった。彼の優しさは私を蝕んだ。ぎしぎしと心が軋んだ。ずきずきと胸が痛んだ。
 ちくしょう。
 思わず、そんな言葉が私の口を突いて出てくる。
 悔しくて、情けなくて、こんなに憎たらしいのに、こんなに憎みたいのに、悲しいほどに、この人を憎めない。
 泣き止むまでずっと抱き締めていてくれた彼の腕の中で、私は郡田さんが嫌いになった。
 クリスマスが近付いてきた頃、私の処女を奪ったのは、郡田さんではなく、鷹谷だった。
 あの一件以来、私と郡田さんは少し距離を置くようになった。それは意図的な、心理的な理由ももちろんあったけれど、郡田さんが卒論と就職活動に追われ、他人をかまう暇があまりなくなってしまったということが、大きな要因だった。よくよく考えてみれば、四年生の彼が、夏休みあんなに遊び呆けていられるはずはなく、そのしわ寄せが全てこの冬にやって来たのだった。
 郡田さんが遊びに誘ってこなくなっても、私と鷹谷は二人で飲みに行ったり、遊びに出掛けたりしていた。
 何気ない雑談をしながら居酒屋で飲み、もう一軒どこかへ行きたいねと私が言うと、鷹谷は時計をちらりと見やり、「もう十一時半だ、帰れ」と低く断った。店を出て、送る、と言って歩き出した鷹谷に半ば無理矢理引きずられるようにして家へ帰った私は、完全にただの酔っ払いだった。
 私は鷹谷が酔ったところを見たことがない。私がいくら酔っ払っていても、同じ量、時には私よりもずっと多く酒を飲んだはずの彼は、いつもと全く変わらない。顔も赤くならないし、足元がふらつくなんてこともない。言動も感情の起伏も、全て素面の時のままだ。
 その日、私はとても酔っていて、部屋まで送ってくれた彼の腕にしがみついて、嫌だ帰らないでと泣いた。鷹谷と二人で飲んでいても、不意に郡田さんのことを思い出して、突然胸の奥の方から、言いようのない感情が湧き上がってくる。今まではそれをじっと我慢していたが、自分の部屋に帰ってきて、最後の最後、感情が爆発したのかもしれない。
 鷹谷はそんな私を、まるで小さな子供でも見ているかのような、どうしたらいいのかわからないという、困った表情をしていたが、延々と泣き止まない私を見て何を思ったのか、それとも、実は鷹谷も相当に酔っていたのか、唐突に私を押し倒した。驚いた私が思わず動けずにいると、仏頂面の男友達の口から聞こえてきたのは、すまん、という一言だった。
 「魚原は、郡田さんのことが好きなんだろう」
 全てが終わると、さっさと元通りに服を着た鷹谷は、まだ布団の中、裸のまま毛布に包まっている私に温かい飲み物を淹れてくれながら、確かにそう言った。
「なのにどうして、郡田さんを嫌うんだ」
「……私、彼のことが好きなのかな」
 未だに起き上がれない私がぽつりとつぶやくようにそう言うと、鷹谷は台所に立ったまま、怪訝そうに眉間の皺をより深くした。
「好きじゃないのか」
「そう思う?」
「そうとしか思えん」
「どうして?」
「そうにしか見えん」
 鷹谷はマグカップを二つ持ってやって来て、私にホットミルクを差し出した。私がなんとか起き上がってそれを受け取ると、彼は布団の側に腰を降ろし、自分のマグカップを口元へと運んだ。中身は見えなかったが、においでわかった、コーヒーだ。
 鷹谷はいつも、コーヒーをブラックで飲む。まだ出会ったばかりの頃、渋いね、大人だね、と私が言うと、彼が「砂糖とかミルクとか、正直よくわからん」と返事をしたのを思い出す。
「すまなかった」
「何が?」
「こういうことは、合意の上でするべきだった」
 鷹谷が苦い顔をしてコーヒーを飲んだ。そうだね、と私は返してミルクを口へ運ぶ。
 もうこれで、郡田さんのことを何も責められない。
 いくら酔っていたとはいえ、抵抗しようと思えば、いくらでもできたはずだ。鷹谷に押し倒された時、彼のことを突き飛ばさなかったのは、私がそれを望んでいたから、なのだろうか。嫌ではなかったから、彼のことを拒まなかったのか。では嫌ではなかったら、私はなんでも受け入れるのだろうか。
 郡田さんのことを考えている時のような、何かもやもやとした黒い霧が、頭の中に立ち込め、胸元で渦を巻き、私の息を詰まらせ、苦しくさせる。また涙が零れた。名前も付けられない感情が、心を滅茶苦茶にかき乱す。
 ああそうか。
 名前だ。この感情に、名前を付けたい。名前を付けるよりも先に、行為ばかりが、行動ばかりが先へ進むから、いつもこんなにも苦しくなるのだ。
 郡田さんがどうして私を抱かないのかを考えるよりも先に、郡田さんのことが好きなんだと思えれば良かった。鷹谷のことを受け入れるか拒絶するか考えるより先に、私のことが好きなのかと、一言問えば良かっ��。どうしてそんな、簡単なことに気がつかなかったのだろう。
 私たちは、距離が近すぎた。少し身体を動かせば、お互いの身体が触れ合うくらい、距離が近かった。相手のことをどう思っているかなんて、考える暇は与えられなかった。お互いの身体がぶつからないように気を遣うことで精いっぱいで、ぶつかればぶつかったで、そのことに思い悩んだ。相手のことをじっくりと見つめる時間も、自分のことを見つめ直す余裕もなかった。
「大丈夫か」
 鷹谷が私の涙に気付いて、そう尋ねる。私はそれに何度も頷いた。
「大丈夫だよ」
 鷹谷が何についてそう尋ねたのかは、やっぱりわからない。わからないけれど、それでも大丈夫だと思えた。
 鷹谷は泣く私を抱き締めることなんかしなかった。すきだよ、なんて言わなかった。きっと彼は、郡田さんのように優しい力の使い方なんてできないのだろう。でもそのことが、今の私には最も優しいことのように思えた。
 ホットミルクが、酒ばかりに溺れていた私の内臓にじんわりと染みていくのを感じた。ゆっくり深呼吸をひとつすると、部屋の中の空気は、もう冬のにおいがした。
 郡田さんは卒論を書き上げ、内定も無事に手に入れた。
 連絡があったのは、雪がたくさん降った翌日で、久しぶりに私たちは三人で集まり、彼の部屋でトマトチーズ鍋をすることになった。郡田さんの家でごはんを食べることは、今までにも何度かあった。こういう時、買い出しに行くのは後輩である私と鷹谷と決まっていたのだけれど、この時、鷹谷は出掛けるのを渋った。
「魚原は家が近いからいいけど、俺はここまで来るのに雪をかき分けて大変だった。できればもうしばらくは出掛けたくない。買い出しは、二人で行って来て下さい」
 雪がほとんど降らない海沿いの地域から、大学進学を機にこの街にやって来た鷹谷は、不機嫌そうな表情でそんなことを言って、私と郡田さんを追い出した。鷹谷の態度は、本気で怒っているように見えたけれど、気を遣ってくれたんだろう、ということはすぐにわかった。私が郡田さんと二人で話ができるように、彼なりに配慮してくれたのだ。
「なんだか、久しぶりだね」
 まだ雪が多く積もっている道を歩きながら、郡田さんはそう言った。彼のことを嫌いになって以来、部室で会えば挨拶程度の言葉は交わしていたが、こうやってお互いにゆっくり向かい合うのは、初めてだった。といっても、せいぜい一ヶ月しか経っていない。けれど夏休みの始めに親しくなって以来、私たちは一ヶ月間も関係が希薄だったことなんかなかった。
「私がいなくても、ちゃんと朝起きれてましたか?」
「うん、まぁ、なんとかね。目覚まし時計、新しく二つ買ったんだよ」
「ああそうだ、内定、おめでとうございます」
「ありがとう。春からは、東京だ」
「今度は、社内の女性全員に手を出すんですか?」
「ははは、即クビになりそうだなぁ」
 私が冗談めかして言った言葉に、郡田さんは白い息を吐いて笑った。それから私をまっすぐに見つめて、言う。
「もう、不特定多数の女の人と寝るのはやめたよ」
 やめるよ、ではなく、やめたよ、であることに気がついて、私は少しだけ驚いた。忙しくて、そんな暇がなかったのかもしれない、とすぐに思った。
「そうですか」
 私の口から出た言葉は、やけに淡泊だった。うん、と郡田さんが頷く。
「もう魚原が泣くの、見たくないからね」
「泣いてなどいません」
「嘘つけ」
 私が睨むと、郡田さんは困ったような表情をしていた。その顔を見て思わず微笑むと、私の表情を見て、彼も口元を緩めた。
 郡田さんは右手を差し出してきた。私は黙って、左手を絡める。私の指先は冷え切っていたのに、彼の手は温かかった。いつも人より少しだけ温度が高い、この人の持つ熱量を思い出して、私はそれを懐かしく思った。
 何も話さないまま、二人手を繋いで、雪の道を歩いた。
 私の歩調に合わせてくれているのを感じながら、それでも私は転ばないように、雪に足を取られないように、下ばかりを向いて歩いた。郡田さんが時々思い出したかのようにくちずさむ鼻歌は、どれも知らない曲ばかりで、聞いたそばからどんな歌だったか忘れてしまった。
 吹く風は冷たかった。冷気に晒された鼻先がじんと痛くなり、私はときどき鼻をすすった。
 今日、寒いね。風邪でも引いたの?
 郡田さんは私を振り向きもせず、そんなことを言った。なんでもないです、大丈夫です、と答えて、私は涙を誤魔化した。
 どんなに鼻水が垂れてきそうになっても、視界が水気を帯びてぐちゃぐちゃになっても、それでも拭うことはしなかった。荷物を持っていない方の手は、郡田さんが握ってくれていたから。
 その晩は、今までで一番楽しい夜となった。
 私も郡田さんもすっかり酔っ払ってしまって、ほんの���さなつまらないことでも、馬鹿みたいにげらげらと笑っては肩を寄せ合ってじゃれていた。いくら酒を飲んでも変化のない鷹谷も、この晩だけは、眉間の皺を緩めて、穏やかな表情をしていた。
 途中で郡田さんは眠ってしまい、わー、郡田さん寝ちゃやだよぉ、なんて言っているうちに私も寝てしまったようだった。目が覚めた時、部屋の中は恐ろしく片付いていて、私と郡田さんは仲良く同じベッドの中に寝かされていた。ふと見れば、鷹谷はひとり、大きな身体を折り曲げるようにして、炬燵に肩まで潜って眠っている。私たちが眠りに落ちた後、鷹谷が何から何まで全部やってくれたんだとすぐにわかった。
 いくら飲んでも平気な鷹谷が羨ましい、と思っていたけれど、酒で潰れることのない人間は、それはそれで損な役回りをしているのかもしれない。
 この夜以降は、夏休みに逆戻りだった。
 郡田さんは、また積極的に私たちを遊びに誘ってくれるようになった。もうじき卒業してこの街を去ってしまう彼と過ごせる時間を惜しむかのように、年末年始も三人とも帰省などせず、一月、二月、三月と、毎日のように顔を合わせた。もちろんそれは三人きりだけではなかったけれど、他の誰がいたとしても、この三人のうちの誰かがいないということはまずなかった。
 その頃になってようやく、郡田さんの優しさが、毒ではなくなった。彼に触れられることも怖くなくなった。彼に触れられると、感情がひどくかき乱されていたけれど、もうそんなことはなかった。
 彼が女性と寝なくなったことが、そのことに関係しているのかはわからない。けれど彼が私に言う「すき」という言葉や、柔らかいハグや、頬やおでこに落としてくれるついばむようなくちづけを、受け入れることができるようになった。
 その変化に比べれば、私と鷹谷の関係は、ほとんど何も変化していなかった。一度は肉体関係を持った私と鷹谷だったけれど、最も親しい友人だという認識は変わらなかったし、再び身体を重ね合うことはなかった。そういう、男と女の艶っぽい雰囲気になることもなかった。
 私と鷹谷は郡田さんの引っ越しの準備も手伝って、退居当日の荷物の運び出しまで一緒にやった。
 いろんな思い出の詰まった郡田さんの家はみるみる空っぽになっていった。最後、何もなくなってしまった彼の部屋で、この部屋はこんなに広かっただろうか、と思った。家具どころか絨毯もカーテンさえない部屋は、もはやどこにも郡田さんの面影を見つけることなどできず、ただただ無機質な空間が広がっているだけだった。
 大学を卒業し、東京で新しい生活を始めた彼を訪ねることは一度もしなかった。郡田さんがこっちへ足を運ぶこともなかった。
 私は郡田さんと連絡を取らなかった。郡田さんも私に連絡してくることはなかった。私は、彼が今どこでどうしているのかを知らない。知らなくていいとすら思っていた。知るべき時が来たら、知るだろうと思った。その時までは、記憶の中に、三人で過ごした日々をそっと仕舞っておきたかった。
 郡田さんの存在はいつの間にかサークル内ではタブーとされるようになり、誰もが彼のことを忘れようとしていた。在学中は部員にあれだけ慕われていたのが嘘のようだった。
 大学二年生に上がる頃、部室のアルバムから、郡田さんの写真を一枚、拝借したのは、彼のことを、ずっと心の中に留めておきたいと思ったからだ。
 私はあと何回、郡田さんと関われるのだろう。私の人生に、もう一度彼が関与することがあるのかすら、わからない。もしかしたら、もう二度と関われないのかもしれない。
 わからないけれど、どんな未来が待っているにせよ、彼のことを忘れる日だけは来てほしくなかった。私はそっと郡田さんの写真を手帳に挟め、春が来て手帳を新しくする度に、写真を静かに挟め直した。
  ***
 写真を見つめていたら電話の音がして、はっと我に返る。
 ポケットに入れっぱなしだったスマートフォンを取り出して、操作する。画面に表示された鷹谷篤という三文字に、急いで電話に出た。
「もしもし?」
「紡紀は」
 電話口で開口一番、ぶっきらぼうにそう言った友人に思わず笑いそうになりながら、私は後ろを振り返る。後輩の彼は、酒のせいだろうか、わんわんと泣き出して、今は泣き疲れたのか布団に突っ伏すようにして眠っていた。
「寝てるよ。ついさっき眠ったとこ」
「魚原が寝る場所は」
「大丈夫、布団もう一組敷くから」
「話したのか」
「何を?」
「写真」
「ああ、うん……」
「そうか」
 鷹谷の声には溜め息が混じっていた。吐き出された息がノイズとなって、私の耳元でざらつく。
「紡紀には、つらいかもしれんな」
 この後輩が、私に少なからず好意を抱いていることは、その態度からなんとなく感付いてはいた。彼は私をよく慕ってくれている。声をかければ、飲み会だろうがカラオケだろうが、彼は私について来る。郡田さんに対する私と鷹谷が、以前そうであったように。
 そして自分が、彼の気持ちに応えようとしないであろうということも、私は知っていた。どんなに一緒にいたとしても、私の心の中に、彼が腰を降ろせる椅子はない。
 郡田さんがこの街を去って以来、心の中にある椅子は、しばらく誰にも使われてはいないけれども、それでもその椅子にこの後輩が座ることは、きっと一生ないだろう。
「二次会、終わったの?」
 時計を見ればもうすぐ日付が変わるところだった。うちのサークルにしては、二次会が終わる時間には早い。電話口の向こうに大勢の人の気配がしなかったので、もう解散したのだろうか、と思っての質問だった。
「いや、早めに抜けた。明日、面接だから」
「ああそうか、就活。頑張ってね」
「ありがとう」
 私はもう内定をもらっていて、春からの就職を決めていた。鷹谷の方は、いくつか内定は得たものの、本当にやりたい仕事ではないと、他の企業の面接に回っているのだった。鷹谷の真面目さとひたむきさには、本当に身が締まる思いがする。そのくせ、面接の前日に、飲み会の二次会にまで参加する彼の律儀さと神経の図太さにも、心が震える。
「大丈夫か」
 鷹谷がそう訊く。
「大丈夫だよ」
 私はそう答える。
 もう何度も繰り返したこのやりとりを、私はあと何回、繰り返すのだろう。少しは私の「大丈夫だよ」に、鷹谷を安心させる響きが含まれているだろうか。
 何かあったら遠慮せず電話しろ、とだけ言い残して、おやすみも言わせずに鷹谷は通話を切った。不器用な優しさが、そんなところにまで滲み出ている。
 いつの間にか室内はすっかり冷え切り、半袖のTシャツ一枚の私には少し寒いくらいだった。リモコンを操作してエアコンを止め、寝ている後輩を踏まないようにベランダに向かい、網戸を全開にした。
 夏の熱気がむわっと室内へと流れ込んでくる。聞こ��てくる蝉の声に改めて気付いた。ああ、夏だ、と思う。孤独から抜け出そうと、闇の中、ただ声を枯らして叫ぶ、夏。
 息を大きく吸い込んだら、火薬のにおいがした。こんな真夜中にどこかで、誰かが花火をしているんだろうか。
 思い出す、あの夏の日。
 すきだよ、と言ってくれた、郡田さんの声。
 今でも耳にこびりついて、取れない。
 結局、私は一度も、郡田さんに自分の気持ちを伝えなかった。伝えなくても、伝わっていたかもしれない、と思うのは、慢心だろうか。けれど、この気持ちを好きという言葉で表現することが、本当に正しいことなのか、私自身、今もわからない。
 彼が卒業してこの街を発ってしまったことを、三年も経つのに私は未だに実感できない。今でも朝早くに彼のアパートに行けば、そこで彼が眠っているような気がする。部室にも飲み会にもすっかり顔を出さなくなってしまったけれど、まだ大学構内のどこかに、彼がいるような気がする。
 彼に会えなくて寂しいだなんて、一度も思わなかった。連絡も取っていない、顔も見ていない。けれども私の心の中の最も身近なところに、まだ彼はいる。
 ――軽々しく好きと口にできるほど、それは気安い感情ではなかった。好きの二文字に圧縮できるほど、薄っぺらくもなかった。
 一体なんという言葉が、この感情を呼ぶのに適切なのか、私は知らない。
 名前を付けられないうちは、まだ行動を起こしたくなかった。あと何回、私の人生に機会が残っているのかはわからない。けれど、私という存在がぐちゃぐちゃに歪んでしまわないように、生きていたいと思った。
 蝉が鳴いている。
 まだ見ぬ誰かを求めて、蝉が鳴いている。
 いつかこの感情に名前を付けることができたら、私も郡田さんに伝えよう。だからそれまでは、全部仕舞っておくのだ。心のずっと奥の方に、けれど、決して忘れてしまわないように。
 私はそう思って、静かに手帳を閉じた。 
 <了>
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carguytimes · 7 years
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キャンピングカーの防寒/防暑対策:キャンピングカー生活の日常・その9【車中泊女子の全国縦断記】
そもそも筆者がキャンピングカー生活をしたいと思いはじめたきっかけは、「夏は北海道、冬は九州・沖縄で過ごしたい」という妄想からでした。インターネットを通して仕事ができれば可能ではないかと考えたのです。 実際のところ先立つものがなければ実現は困難、特に沖縄はフェリー代が高すぎてキャンピングカーで渡ったことはないのですが、おおむね「暑ければ避暑地、寒ければ暖かい地域」へと移動しながら過ごすことはできています。 ただ、それでも寒さ・暑さを避けられない日もあります。標高が高い場所で停泊したとき、朝起きたら銀世界だったこともありました。九州出身の筆者にとって5月はもう「初夏」。東北・北陸ならまだしも、西日本でもまだ雪が残っているところが多いことに驚いたものです。 逆に北海道ならどこでも涼しい訳ではないことも学習しました。近年では北海道でも都市部は35度をマークしたり、ゲリラ豪雨に見舞われたり、台風も直撃します。蒸し暑い中、雨で窓も開けられないのは最悪です。 筆者は愛犬と旅をしていたので、自分だけ空調の利いた施設に逃げ込む訳にもいきません。そこで、ないアタマを絞って考えた、できるだけ安価で手軽にできる防寒/防暑対策の小技をご紹介します。 【防寒対策】 キャンピングカーの暖房には、FFヒーターを装備しているものが多いです。クルマのガソリン/軽油を燃料としており、エンジンを切っていても作動できます。 対して我が家Rocky21はガス暖房です。キッチンや冷蔵庫でも使用するため、Rocky21にはLPガスボンベを積んでいます。そのガスを使うのですが、さすがアメ車というべきか「ゴ———」と凄い音がします。温まるのは早いですが、ガスの減り方も早いです。ふだんは5kgボンベ1本で10日くらい保つのですが、ガス暖房を多用すると4〜5日くらいで終了してしまいます。それでは不経済だし、何よりうるさいのが難点。特に就寝時、不意に「ゴ———ッ!」と作動音が響くので安眠できません。 まずはオーソドックスに、エントランスドアからの隙間風や窓からの冷気をシャットアウト。エントランスドアには標準装備として厚手のカーテンが付いていますが、パチっとホックで留めるだけなので、その金具の間にマジックテープを付けて更に隙間風を防いでいます。シャワールームのドア下にも5mmほどの隙間が空いているので、床に隙間テープを貼っています。 Rocky21はカナダ製、寒冷地仕様なのでフロント以外の窓はすべてペアガラスなのですが、それでも冷気を感じるので保温シート(銀マット、アルミシートなど商品名は様々)を当てています。窓用断熱シートを貼ろうかとも思ったのですが、見た目があまりよくないのでやめました。車窓の眺めも楽しみたいですし。 クルマはタイヤの分、地面から浮いているので底冷えします。そこで床にも銀マットを敷いたところ、スリッパなしでも冷たく感じなくなりました。筆者は銀色の面を下(床側)にして敷いています。 ダイニングテーブルの足元にちょうどダクトが空いているのでヒーターを作動させているうちは熱いくらいなのですが、切ってしまうとダクトから冷気が流れ込んでくることで冷えてしまいます。銀マットをカットして足元を床も壁も覆い、ダクト部分は扉状になるよう工作したところ、ずいぶんと冷気を防ぐことができました。 就寝時には暖房を切っています。湯たんぽは欠かせません! それでも寒い夜には、掛け布団の上に保温シートを安全ピンで留めてます。100円ショップで販売されているような薄っぺらいシートですが、これだけでかなり温かいです。使わないときは折り畳んで収納できるので場所もとりません。 イワタニのカセットガスストーブも重宝してます。カセットガス1本で3時間半くらいしか保ちませんが、軽くて持ち運びが容易、静かだし、電源も不要です。他社製品も使ってみたところ、気温が低いとガスボンベ自体が冷えて燃焼しなくなるという本末転倒ぶりでしたが、同じカセットガスでもイワタニ製品は問題ありません。ただし車内でご使用の際には、取り扱いに充分ご注意ください。 【暑さ対策】 「寒いのは着込めば何とかなるけど暑いのはどうしようもない」という話はキャンパー同士でよく聞きます。クーラーも装備していますが、大容量の電力を必要としますので発電機を作動させるか外部電源を使用することになります。どちらも「いつでも・どこでも」という訳にはいかない方法です��で、筆者にとっては最終手段です。 まずは当たり前ですが窓を開けます。キャンピングカーの窓およびエントランスドアには網戸がついているのでムシの進入もある程度は防げます。運転席・助手席の窓を開ける場合は、ドアごとすっぽり被せる網戸代わりの虫除けネットが市販されていて、犬連れキャンパーさんにも人気です。風を通すには、天井についている換気扇を回すと効果も倍増します。 車内が丸見えになるのが気になるなら、カーテンではなくブラインドがおススメです。なぜならカーテンだと網戸にした際に風が通りづらいからです。余談ですがRocky21には白いブラインドがついていたのですが、ストライプ柄のように目がチラチラするので木目調のブラインドに付け替えました。 寝苦しい夜には、やっぱりクール寝具。効果あるのかな? と懐疑的だったのですが、確かにヒンヤリ気持ち好いです! 筆者はシーツと枕を使用、大きめの枕カバーは背中に敷いてます。 ベッドを嵩上げした際、床を「すのこ」状にDIYしたのもよかったです。ちなみに冬はマットや毛布を二重に敷くなど補填しますが、銀マットにすると通気性が悪くなるので毎日こまめに布団を乾かさないとカビが生えてしまいます、ご注意ください。 冬場はクルマを南向きに停めて太陽の光をボンネットいっぱいに浴びると車内が暖かくなり、夏はこれを逆にすれば、かなり暑さを凌げます。ただキャンピングカー車内の配置によっては、後ろが二段ベッドになっているなどかえって熱がこもりやすくなるかも知れません。また、我が家は屋根にソーラーが4枚載っているので、必然的に陰ができている状態とも言えます。 冒頭でも述べましたが、蒸し暑い中、雨で窓が開けられない時のためにダイニングの窓側にも小さいオーニングをつけました。これがあれば、風(風向き)さえ考慮すれば窓を開けておくことができます。 夏、もっとも活躍しているのは充電式の扇風機です。これは本当に便利! ソーラーが発電している日中に充電しておけば、夜間はバッテリーで稼働させられます。筆者が持っている扇風機は満充電15時間で、連続8時間使用可能です。 車内で快適に過ごすため、加湿器とプラズマクラスター搭載イオン発生機(どちらも車載用)も持っています。積めるスペースが限られているため、モノを買うならその分ひとつ下ろす、というのも大事です。何でもかんでも詰め込んでクルマが重くなれば燃費も悪くなります。キャンピングカー生活では常に「いるもの/いらないもの」を精査するので、収納・お片づけ能力がアップするかも知れませんね。 ここまで9回にわたって、キャンピングカー生活における日常的、基本的な部分を綴ってきました。次回はそのまとめ、購入を考えている方がキャンピングカーを選ぶ際に参考となれるようなポイントを、筆者なりの観点から書いてみようと思います。 (松本しう周己) 【関連記事】 我が家=キャンピングカーについて:キャンピングカー生活の日常・その1【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/01/29/554687/ キャンピングカーの維持費はどれくらい?:キャンピングカー生活の日常・その2【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/02/555492/ キャンピングカーの光熱費ってどんなもの?:キャンピングカー生活の日常・その3【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/03/555863/ インターネット環境と通信費:キャンピングカー生活の日常・その4【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/04/556355/ 1年分の衣類や寝具の収納・洗濯はどうしてる?:キャンピングカー生活の日常・その5【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/06/556800/ 車中泊旅の入浴場所さがし:キャンピングカー生活の日常・その6【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/08/557164/ 車中泊旅、最大の難関かも知れない停泊場所さがし:キャンピングカー生活の日常・その7【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/11/557423/ キャンピングカーの水まわり:キャンピングカー生活の日常・その8【車中泊女子の全国縦断記】 https://clicccar.com/2018/02/13/558140/ あわせて読みたい * キャンピングカーの水まわり:キャンピングカー生活の日常・その8【車中泊女子の全国縦断記】 * 【JAPANキャンピングカーショー2018】充実装備にゆとりある居住空間。1200万円クラスの国産キャブコンモデル * 【JAPANキャンピングカーショー2018】小さくても大きく使える、大胆にストレッチしたタウンエース・ライトエース(バン)ベースの8ナンバー仕様車 * 車中泊旅で最大の難関かも知れない停泊場所さがし:キャンピングカー生活の日常・その7【車中泊女子の全国縦断記】 * 【JAPANキャンピングカーショー2018】ホワイトハウスが新型N-BOXをベースとした「N BOX Camper Neo」を初公開 http://dlvr.it/QGGg0P
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25、26日と福島市で合同練習!
来月の東京、郡山での公演までちょうど1ヶ月となりました。 今月の練習会場は東北ユースオーケストラ(TYO)はじめての福島市公会堂です。こちら、1200名以上を収容する歴史ある福島市のホールに続々と団員が集まってきます。
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あとは本番前の直前合宿での練習を残すのみとなりました。気合が入ってきた指揮の栁澤敏男さんには後光が刺しているようです。
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とりわけ「ふつうジュニアオケ、ユースオケではまず演奏しない(演奏できない)」と言われるグスタフ・マーラーの交響曲第1番については、楽譜のポストイットも毎回増えていっているように感じます。
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果たして立派に演奏できるのかなという現況を応援するかのように今日はたくさんの差し入れをいただきました。まずはパーカッション塘英純くん、ヴァイオリン三浦千奈さんのお母さまからバラエティに富んだお菓子の数々と、そして福島事務局の大塚真里さんからお薦めの地元福島市の「ゆずみそ焼おにぎり」(と書くだけでも、さらにどんぶり飯を食べれそう)。
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そして、この二日間の合同練習会ではJA共済、JA共済連福島から多大なるご支援をいただきました。今回のレポートでは結果的にこれから何度も「JA共済」という言葉が踊り、画面に写り込むことになり、「この引率の先生は個人的に何か貰っているのでなかろうか」と訝しがられること間違い無いと思うのですが、確かにたくさんの恩恵をいただいているのですよ、東北ユースオーケストラ一同が!
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まずは小出しに。初日の昼と長い練習の間食用にと、地元でつくられたパンを各種とお茶を110名分いただきました。
ホール内では午前中からマーラー交響曲第1番を絶賛練習中のところ、
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かたや降り番中学生、トロンボーン西野蒼さんとクラリネット小野葵さんの、ダブル・ノアオイズが何を嗅ぎつけたかロビーに登場。
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中学生というのは、とにかくお腹が空く年頃だよなと受け止めておりましたら新たなJA共済さんからの差し入れが届きました。
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「水虫パン」です。事前にいただいた贈答品リストに「お茶」「お弁当」「トースト」などに混じって「水虫パン」という物品を見つけた時のわたくしの衝撃をお察しください。何かの誤植であろうとたかをくくっていたら、本当に「水虫パン」が作り手の「オカザキドーナツ」店主岡崎隆一さん(75)によって、自転車にて納品されるという、想像を超える現実の恐ろしさを感じました。しかもJA共済さんは自社製品では無く、地域振興の観点から地元の商品をわざわざ買ってくださったのですね、この水虫パンを。まさに足型の水虫パンは、ピーナッツバター味、イチゴジャム味、チョコレート味とバラエティに富んでおり、水虫に見立てられたと思わしきカリカリ部分の食感が絶妙な、昭和生まれには懐かしい美味でありました。水虫パンについてさらなる見聞を広げたい向きには、一般社団法人東北ユースオーケストラの理事メンバーでもある仙台の河北新報の記事をお薦めします。 以上、福島市観光情報でした。
この日は実家で栽培、販売されている苺の差し入れとともに練習会場にお越しいただいた、今年70歳の男性がいらっしゃいました。
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気仙沼から娘さんの車でお見えになった、古希の方の名刺には、 「NPO法人海べの森をつくろう会 副理事長 三浦秋男」と書かれています。 先月のレポートをお読みいただいていたらピンとおわかりかと。パーカッションの三浦瑞穂さん(中3)のお爺様でした。
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まずは311に気仙沼で地区の自治会長をされていた、元高校教師の三浦秋男先生から昼休みの後半30分を使って団員全員に向かってお話をしていただきました。 これまでに体験したことの無い強い長い揺れで、障子が外れ、目の前で家の壁が割れ、町の信号機がすべて消えた驚き。ラジオから6mの津波との報せが入り(実際は気仙沼では20mを超えた)、海岸沿いから軽トラックに乗ったご夫婦が「津波が来る!」と逃げてきて、それが現実に起こることとわかり、日頃の防災訓練に則って行動されたこと。指定避難所の階上(はしかみ)中学校での避難生活がはじまり、地元の建設業者の大型発電機のおかげで直後から電気を得られたこと、意外とガス炊飯器が活躍したこと、地元農協が提供してくれたお米も2000人の避難民ではあっという間に無くなってしまったものの昔ながらの精米機のおかげで米が食べられたこと、地元の水産加工場の保冷庫のおかげでマグロ、ぶり、ほたてなど贅沢な食材も口にすることができたこと、10日後に自衛隊からの食事を支給されてほっとしたことなどなど。
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強く強調されていたのは、日頃からの小中高校での避難訓練の重要性、防災教育の大切さでした。防災減災の3ステップとして、まずは自助、そして共助、公助と言われるが、地元コミュニティの共助の力を今回は強く感じられたそうです。震災後6年経っても仮設住宅は残っており、地区によっては自治会が解散したり統合を余儀なくされている場所もある。被害はまちまちで家族8人で高校生の娘さんだけが生き残った家もある。最後に三浦さんがおっしゃった言葉が響きました。「生かされたわたしの使命は地元のコミュニティを立て直し、守ることです」 こないだのお孫さん瑞穂さんの言葉「生かされたなりのことをしなくちゃいけない」とも共鳴する、限りある命を捧げたいという静かで強い意志。お二人の記念写真を撮りました。
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今回三浦瑞穂さんのお爺様にお越しいただいたのは、311の貴重な体験談だけではありませんでした。実は三浦秋男さんは別の先生でもあったのです。
さて続きです。気仙沼のパーカッション三浦瑞穂さん(中3)のお爺様、元高校教員の三浦秋男さんは、なんと民謡の先生でもあったのです。前回の合同練習会で、今回の演奏会で披露する���北三県の民謡をアレンジした「ThreeTohokuSongs」練習中に、団員たちがあまりに地元の民謡を知らないので、掛け声をどうすればいいかわからない問題が発覚し、降り番の掛け声専門部隊「チーム・チョイサー」を組成したのではありますが、では指導者をどうしたものか、と。坂本監督からも「地元の年長者に教わるのがいい」とのアドバイスを受け、ふと思い出したのです。昨年7月に仙台で行った2016年度の入団説明会で、「今回は民謡にチャレンジしようと思うのですが、保護者のみなさんには馴染みあります?」とお尋ねしたんですね。その時、向かって右手の最前列に座っていた黄色い服着た女子の保護者の方から「この子のおじいちゃんが民謡の指導をしています」と伺ったのを思い出したのですね。そこで、誰だったかとその時の写真を見てみたのです。記録写真は撮っておくものですね。
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なんと!あの三浦瑞穂さんではありませんか。ということで、今日の合同練習に合わせて、お母様の運転で片道3時間かけて福島市まで、311の体験談講話と民謡の掛け声指導に来ていただいたのです。それでは指導風景を動画でご紹介しましょう。まずは相馬盆唄から。
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三浦秋男先生の揉み手にご注目ください。あとでお孫さんの瑞穂さんは「テンポが早くならないように、この揉み手が大事!」と言っていたとのこと。当方、人生48年にして初めて「揉み手の意義」を知りま��た。秋男先生によると、伊達藩だった気仙沼では藩主により盆踊りが禁止されていたため地元の盆踊り歌が生まれず、この福島の「相馬盆唄」を歌っていたそうです。ということは、こっそり殿様に隠れてこっそり盆踊りをしていたのですね。盆踊りについては民俗学的視点からの面白い研究の本があります。あえてリンクは貼りませんが・・・。 そして、掛け声について。出だしのタメがポイントのようです。先生による指導シーン、その2でございます。
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そして、チーム・チョイサーの由来となった「南部よしゃれ」から。
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指導のあと三浦秋男先生にお話を伺いましたところ、「震災の後、音楽のチカラというのを強く感じます。音楽を聴いて元気になる人もいれば、歌を歌ってチカラをもらう人もいる。東北ユースオーケストラもみんなが元気になるいい演奏をして欲しい。応援しています」 団員のみなさん、励みになりますね。 遠方より苺を持参でご参加いただいた三浦さんファミリー、ありがとうございました。初めて食べる気仙沼の苺があんなに大きくて甘いとは。団員たちも大喜びで、1パート1パック以上の半ダーズケースもお持ちいただいたのにすぐに約100個の胃袋におさまってしまったのでした。
さて、本番まで1ヶ月となり、昨年は1週間前から進行台本を書きはじめた愚を修正しようと、オープニングのファンファーレの作曲を前回に引き続き塘英純くん(将来は作曲家志望)に依頼しました。
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背が伸びたね。その分、内容も成長していこうと、トランペット二重奏から今年はトランペット三重奏で頼むと言ったところ、
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さっそく休憩時間にMacBookAirで取り掛かってくれていました。やるな今どきの中学生。手にしているのはメインのマーラー交響曲第1番のポケット楽譜。たぶんマーラーへのオマージュを意識して作曲するのでしょう。できたら坂本監督に見てもらおうね。
3月に演奏するマーラーの「巨人」には「特殊楽器」を用います。と知ったかぶりしましたが、ど素人のわたくしは「特殊楽器」という用語すらこの仕事に関わるまで知りませんでした。標準的なオーケストラの編成では使わない楽器のことです。今月の合同練習では「エスクラリネット」をどう調達するかが事前の課題になっておりました。わたくしは、今回の一件で、「エス」が「S」で「Sサイズ」のことで、フランス語だと“petite clarinette”で、だったら「ピークラリネット」じゃなかろうかとも思い、それはともかく通常のクラリネットより小さくて変ホ調で、買うととっても高いということを知りました。
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こちら特殊楽器関係者です。左からTYOのテクニカル・ディレクターの飯島則充さんは、トロンボーン奏者で音大卒でプロマックスの取締役で、団員の演奏に関わること全般から、プロを目指す子供たちの相談役を担当されています。中央の男性はTYO福島事務局のまとめ役の渡辺豊さん。子供の頃はFTVジュニアオーケストラに所属してやはりトロンボーンを吹き、現在は福島市の管楽器専門店ブリリアントの経営者、社長です。福島県内での練習場所の確保やレンタル楽器の交渉、練習当日の搬出入を仕切っていただきながら、団員の楽器のメンテナンスもお願いしています。そして、右が団員のクラリネット奏者、福島高校に通う菊地桃加さんです。 さてどうやって解決したかと言うと、実は飯島さんの奥様がプロのクラリネット奏者でシエナ・ウインド・オーケストラに所属されている飯島泉さんだったと、これも今回初めて知ったのですが、なんとご自身愛用の楽器を特別に貸し出していただけました。飯島さんが「妻から絶対に壊さないように言われました」と暗い顔でおっしゃるので、気軽に「いくらぐらいするんですか?」とも聞けません。「ビュッフェクランポン プレステージュ グリンライン」という楽器名も怖いです。「プレステージュ」は英語のPrestigeのフランス語読みだと思われます。わたくしは今回の練習で菊地桃加さんに会うたびに「楽器はだいじょうぶ?壊れてない?」とネタのように聞いていました。
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お借りした高級特殊楽器をそっと握りしめる菊池さんの図です。ポキッと折れそうと心配になりますが、実際は温度差に弱いのだとこれも今回はじめて知りました。快くお貸し出しいただいた飯島泉様、どうもありがとうございました。
初日は20時まで実質半日みっちりと練習をしました。さすがに団員もお疲れのご様子です。今回、岩手県、宮城県、北海道や山形、関東から参加の30名以上の団員についての宿泊問題は、JA共済さんに解決していただけました。閑散期だから大丈夫ですよと、練習会場から車で20分のJA共済経営「摺上亭大鳥」旅館に泊めていただくことができたのです。
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しかも、宿までのバスも手配していただき、着いた先は身に余る高級旅館でした・・・。日中、福島の団員数々から「いいなぁ」と言われていた訳がよーくわかりました。一昨年の宮古島合宿でエコノミーなユースホステルでヤモリ他小昆虫と寝食を共にした身としては、この振れ幅にめまいですよ。
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21時過ぎというレイトチェックインにも関わらず、「東北ユースオーケストラ」の横長の紙まで貼り出す専用の部屋をご用意いただきお食事をいただくおもてなしまで受けてしまいました。宿泊のオリエンをする「TYOのお姉さん」岡田直美さんの声も上ずります。 今年度の活動のはじめに「われわれは弱小、貧乏楽団であって“いつまでもあると思うな、TYO”です」と標語までつくったわたくしとしては、「今回は特別です。JA共済さんに感謝しましょう」と壊れたロボットのように言いつづけました。
TYOの日曜の朝は早い。こちらメイクや髪の手入れはしないおっさんですから遅めの6時半に起きました。
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JA共済さんのお宿で朝食をいただきました。この撮影のために仲良く食事中の小・中学生三人には大人の配慮で席を移動してもらいました。ふつうなら朝ごはんを食べて、もうひと風呂が正しい温泉の流儀でありますが、朝の散歩組の引率者としてはそんなことは許されません。その発端は福島市在住のホルンの赤間奏良(あかまそら)くんからの前週に届いたLINEのメッセージでした。
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確かにせっかくの宿泊滞在なのだから、飯坂温泉の魅力を知り、世の中に発信するのが恩恵を受けたものの務めだと思い、前日の練習のあと、赤間くんに飯坂温泉について語ってもらいました。
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で、この企画に賛同してくれたのは小中学生6人のチビッコチーム。約1時間ほどブラタモリ並みに飯坂温泉を練り歩いたものの、早朝過ぎて足湯にはつかれず、道中問いかけた松尾芭蕉クイズもいまいち反応が悪かったのですが、飯坂温泉の情緒ある街並みを楽しめましたよ。
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震災後は県外からの宿泊客がまだまだ戻っていないと聞きました。芭蕉も奥の細道で立ち寄った古湯、フォトジェニックな場所も数々あって、円盤餃子も美味しい飯坂温泉を旅の候補地にご検討ください。飯坂温泉駅前には松尾芭蕉の立派な銅像があって、しかし、その向かいには「白ポスト」なる訝しいオブジェもあり、これは美観としてどうなんだろうかと引率の先生としては思った次第。
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散歩を提案してくれた生意気小学生の赤間奏良くん、どうもありがとう。そう言えば、芭蕉の旅のお供の名前は曽良だったな。 以上、飯坂温泉観光情報でした。
さて、朝の散歩組の中の一人、中学一年生の藤田サーレムくんとは昨晩遅くに露天風呂につなりながら裸のトークをしたのでありました。
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ここでミニ団員紹介コーナーを展開しますと、岩手県盛岡市から参加の藤田サーレムくん、トランペット奏者の中学一年生です。前夜に風呂に入りながらこんな会話をしたのでした。 「サーレムくんはお父さんが外国の人だっけ?」 「父がイラクの人です」 「あ、イラクなんだ!」 実は、ついさっき旅館での夕飯の席で「お米に合うものはだいたい日本酒に合いますよね」とお酒も飲まずに話をしたら、指揮者の栁澤さんから「コメはいくらに合うけども、米はイラクに合わないと言いますね」という渋いアメリカ風ジョークを聞いたばかりでだったので、あまりにタイムリーな「イラク」の発語に驚いたのでありました。それは、さておき、 「えっ、お父さんはひょっとしておれ(48)と同じくらいの年か年下だったりするのかな?」 「あ、結構年いっていて60くらいかな」 「何してはんの?」 「父は大学の教授で、AIの研究をしていて、ほとんど海外出張でいなんです」 「いま旬な研究者じゃない。ということは、来月の本番の公演には観に来られない?」 「そうですね、ドイツに滞在しているみたいです」 「それはさびしいね。ところで、サーレムくん、トランペットうまいね。何年やってるの?」 「もう4年ですかね」 「4年でそんなに上手に吹けるようになるものなの?」 「トランペットを吹くのが好きなんです。だからはじめた頃からついつい好きでずっと吹いていたらこうなりました。」 「先生について教えてもらったりしていないの?」 「いや、先生に教わると、その人の幅に制限されてしまうから。でも、こないだ(トランペットのパートリーダーの中村)祐登さんに紹介されて、はじめてプロの先生にみてもらいました。吹く音が明るく響く。タンギング(舌を使って音を細かく切ることらしいです)が速いと言ってもらえました」 「好きで吹き続けてたら、いつの間にか上達していたなんて理想的じゃないか。それは極めたほうがいいね。」 「来月もコンクールで忙しくって、東北ユースオーケストラの演奏会の後、盛岡に戻ってまたすぐ東京に行きます」 「その全国大会ではいい線いくの?」 「たぶん入賞はできると思います」 「すごいな。将来は何になりたいの?」 「プロか、農業したいです」 「あはは、プロのトランペッターか、農家なんだ。どっちも楽しそうだなあ」 ぜひ藤田サーレムくんの今後にご注目ください。
さて、二日目の練習はマーラーの交響曲第1番からスタートです。
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そして、今日も福島市公会堂のロビーには、朝から合流した大学生トランペットの中村くんの大阪土産も加わって、差し入れのお菓子が並びます。
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このロビーに団員を激励にとJA共済連福島の地域活動支援室の八代孝明課長がお見えになりました。
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昨日に続いてJA共済連福島からのお茶��
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さらに間食用のパンを各種!!
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そして、110名分のお弁当を運び入れていただきました。お一人で来られていた八代さんの助っ人で福島民報社の吉田高徳副部長も起こしになって、お昼休憩の前に二人でロビーに弁当を並べることまでしていただきました。
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ふつう大企業ですと、こういう現場には若い者を連れて手伝わせるのが通常の光景です。しかし、この日は管理職お二人が二人だけで車に積み込んだダンボールを運び、丁寧に団員のためのお弁当を並べ、5つごとに包まれていた大きなレジ袋を一枚一枚(22枚です)きちんと畳んでまとめていらっしゃる姿に心打たれ、確信しました。 このお二人は「休日出勤をする企業に勤める会社員」という枠を超えて、「TYOを応援する熱いひとりの個人」として、この場に来られているのだな、と。 お二人とも固辞されたのですが、ここは団員に一言激励の言葉をいただいたほうがいいと思い、無理を言ってお引き止めし、午前中の練習終わりのタイミングでお話しをいただきました。
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「ありがとうございます」とお礼を言う団員を前に八代さん。 「わたしは中学生の時にモノラルのラジオから流れるYMOの『テクノポリス』を聴いて育った世代です。小さい頃から憧れの坂本龍一さんと共演するみんながうらやましいくらいです。その坂本龍一さんが監督として東北ユースオーケストラを通じて復興支援していただけるのですから、しっかり応援します。演奏会に向けてがんばってください。」
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続いて、昨日の練習が紹介された記事が掲載された朝刊を片手に吉田さん。 「今回、福島民報社の125周年事業として郡山公演を主催させていただくことになりました。本番までがんばって練習してください。応援しています。」 お言葉の通り、今回初めての郡山公演は興行リスクを取って主催者になっていただくことで地元公演そのものが実現しました。今日、現在でまだ売れ残っていると聞いています。坂本龍一監督以外にも吉永小百合さん、うないぐみさんにゲスト出演していただくコンサートが、S席3,000円、A席2,000円と東京大阪では考えられない価値の高さです。3月26日は日曜日ですから遠方からのご来場でも十二分に値打ちがあるはずと自信を持ってお知らせします。ぜひ満員の客席からご声援いただけたらと思います。
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お昼休み、おかげさまで食事をいただくロビーは元気な笑顔でいっぱいでした。あらためてありがとうございました。 さっそく東北ユースオーケストラのInstagramに感謝のコメントともにアップする団員がいました。
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ハッシュタグの使い方が慣れてますね。
二日目の午後の練習の休憩時間には、「みやぎ鎮魂の日」である3月11日の土曜日に石巻の復興住宅の集会場で行う有志メンバーでの演奏の練習も行いました。
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当日は約20名の団員が自主参加して、地元の自治会が中心となって行われる追悼セレモニーでの防災訓練や炊き出しにも参加する予定と聞いています。気仙沼の三浦秋男さんのお話でも常日頃からの訓練が大切とおっしゃっていましたね。 また翌日の3月12日の日曜日には仙台三越で弦と金管のそれぞれアンサンブルでの演奏を行います。というのも、3月1日から三越伊勢丹グループではじまった「東日本復興支援どんぐりバッジチャリティ」に応援曲として昨年の演奏会で披露した坂本龍一作曲『ETUDE』をご提供したからです。現在全国の店舗で流れておりまして、仙台三越のチャリティイベントに出演することになりました。応援曲『ETUDE』はこちらの告知ページからお聞きいただけます。
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これが団員に見せたどんぐりバッジのサンプルです。1個300円で各店舗1種類の28種類のバッジを販売中となっています。お近くの伊勢丹三越グループのお店で実物をご覧いただき、『ETUDE』の館内放送をお聞きいただければ!
二日間の充実した練習も終わりました。しかし演奏の練習は終わっても毎回マストな重要任務があります。お借りした大型楽器を運び出し、傷つけることなくトラックに積み込むという団員が声をかけあって協力し合う作業です。
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トラックに乗り込んでいる恰幅のいい大学生は、いわき市出身の冨澤悠太くん。チューバをいつも持ち歩いているだけに、いつも力仕事のリーダーです。ティンパニなどの楽器は昨年度に引き続き、福島県立橘高校から無償貸与いただいております。いつもありがとうございます。
そして、福島駅から仙台駅に向かうバスをいつものようにみんなで見送りました。
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このブルーの大型バスについても仙台の団員のお母様がお勤めのバス会社で毎度お世話になっております。繰り返しになりますが、いつもありがとうございます。
今回の二日間の合同練習であらためて実感したのは、さまざまな人や企業、団体に支えられ、この東北ユースオーケストラは成り立っているのだなあという事実です。個人の方からいただくご寄付、企業からいただく協賛金などの「お金」、そして団員が音楽活動を続けるための楽器や練習場所や飲食、宿泊、移動などの「モノ(物資)」を無償だったり、通常より安価にご提供いただいています。こういう現物支給によるご支援の受け方を英語だと”Value In Kind”、略してVIKと言ったりします。まさにお金も現物も、活動を支えるValue(価値)というモノサシでは同じです。 ピーター・ドラッカーという近代経営学の父、「マネジメント」概念を発明した泰斗に『非営利組織の経営』という著作があります。
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この冒頭の一文が飛び抜けています。「非営利組織とは一人ひとりの人と社会を変える存在である。」 東北ユースオーケストラは、そんな組織になっているだろうか? なっているようでもあり、まだまだのようでもあり。しかし、たくさんの方々から「お金」と「モノ(物資)」をご支援いただいてきています。そして、もう一つ、とても重要な支援のかたちに気づいたのです。よく経営資源の3つでヒト/モノ/カネと言いますが、「ヒト」という資源を分入って見えることがあると思ったのです。 それは、「(人の)時間」です。人の生は有限で、しょせん、どんな人も、遅かれ早かれ、いつか死ぬ。この圧倒的な事実の前に、何に限られた時間を使うのか。その大切な時間を東北ユースオーケストラのために使っていただいている人がたくさんいらっしゃる。「時間を提供する」という第三の支援です。 気仙沼の三浦さんご家族は、311の死に瀕した体験を通して、生かされた自分の残された人生の使命を強く意識されていました。このことは、3年前に中咽頭がんが見つかり、克服された坂本龍一代表・監督によって、団員のためにオーケストラアレンジの譜面を書き起こしていただいたり、その貴重な時間というギフトを受けていることにも通じます。関係者のみなさんの有限な時間の贈与によって東北ユースオーケストラは成り立っています。 折しも今回の練習では決められた休憩時間が終わったらすぐに練習できるようにしようと、タイムマネジメントリーダーを福島の大学生、服部未来子さんにお願いすることにしました。これで全員のチューニングが済んだ状態でオンタイムで栁澤寿男さんを待つことができるはずです(理想)。
ついつい日常の時間の中で忘れがちなのですね。 輪廻転生を信じようが信じまいが、 この人生は一回きりであることを。
今回のレポートは合間の時間に更新しているうちについつい長くなってしまいました。わたくしは「包容力のある実存主義者」になりたいものだと思います。
あらためて引き続き東北ユースオーケストラへのご支援をよろしくお願いいたします。
引率の先生役レポーター 田中宏和拝
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takenos · 8 years
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2016年を振り返る
年末の振り返り、毎年やっている途中に年が明けてしまうのですが、学生生活が終わって、これからの一年一年は積み重ねていくのが大事だと思うので、完成させておきます。
2016年の出来事は大きなところで4つくらいありました。それぞれについて思うことを書いていこうと思います。
大学生活の終わり
西ヨーロッパを旅行する
会社に入る
引っ越した
大学生活の終わり
もう結構前のことに感じますが、修士まで含め6年間を過ごした大学生活が終わりました。やりたいことをやった大学生活だったなあと感じます。少し振り返ってみたいと思います。
実は大学に入る前は機械か情報のどちらかをやりたいと思っていて、受験は機械 -> 情報 の順番でとりあえず志望したのですが、点数の関係で情報系に入ることになりました。それなら両方やってみようと思って、ロボット技術研究会(ロ技研)というサークルで機械・電子工作をやりました。実際に動くものが出来るのは純粋に楽しかったのですが、ハードウェアを扱っていくことで逆にソフトウェアの技術の特徴を認識することにもなりました。例えば、簡単なロボットを作成するのにしても、アルミ材や電子部品、足りない場合は適宜調達、調達後は旋盤・フライスで加工、と言った工程が必要になります。工作好きとしては楽しいものでしたが、高校時代に経験した、ソフトウェア(ゲーム)を作ってインターネットを通して友達に使ってもらった経験からすると、自分がやりたいのはそちらではないと感じました。この点は、ジョナサン・ジットレイという人の書いた “The Future of The Internet”(邦題:『インターネットが死ぬ日』)という本でより構造的に説明されています。汎用性に加えて伝搬性や習熟性など、いくつかの条件が揃った道具は、それ自体から新しいものを生み出す肥沃な(generativeな)システムとして機��する、というような議論です。
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インターネットが死ぬ日 (ハヤカワ新書juice)
ジョナサン・ジットレイン 早川書房
もうひとつ、大学の研究室を取材して学部生に説明するメディアを発行している団体にも所属していました。理工系という枠の中ではあるけれど、特定の分野に依らない環境というのは当時は貴重で、ここで人と話したことがあとあとの科学全体への理解に役に立った気がします。
そういった学生団体以外のところでは、プログラミングの本を読んだり、バイトをしたりしながらふらふらやっていました。今では手に入りにくいみたいですが、『コンピュータプログラミングの概念・技法・モデル』という分厚い本を時間をかけて読んだのが良い思い出です。
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コンピュータプログラミングの概念・技法・モデル (IT Architects' Archiveクラシックモダン・コンピューティング)
セイフ・ハリディ ピーター・ヴァン・ロイ Peter Van-Roy Seif Haridi 翔泳社
この本はその名の通りプログラミングの本なのですが、プログラミングを統合的な学問として教えるのはどうすればいいか?ということを意識して書かれたもので、いま思うと非常にビジョンに溢れた仕事でした。この本を読むことで、状態(state)や並行(concurrency)といったソフトウェア概念への正確な理解から、そもそも抽象化とは何か?という根本的な話まで、知ることができました。
抽象を設計することは必ずしも容易ではない。いろいろな考え方を試し、破棄し、改良し、といった長くつらい道のりになることがある。しかし、その見返りは非常に大きい。文明はよくできた抽象の上に建立される、といっても過言ではない。毎日、新しい抽象が設計されている。車輪やアーチといった古代の抽象のいくつかはいまに残っている。セル電話のような新しい抽象のいくつかは速やかに現代の日常生活の一部になった。
良い本を読むたびにいつも思うのですが、その本の射程距離と言うか、書き手が読み手をどこまで連れて行ってくれるかは、ほとんどの場合、序文を読めば鋭敏に分わかります。最初の問いかけが、問題意識が、その可能性としての範囲を決めている。
そういえば、ずっと昔、高校生のときに読んだこの記事なんかは、そういう思考の"強度"みたいなものの存在を知った最初のものでした。
ネットに時間を使いすぎると人生が破壊される。人生を根底から豊かで納得のいくものにしてくれる良書25冊を紹介 - 分裂勘違い君劇場
これは自分の話ですが、技術を手に入れると、最初、何かを作れるということ自体に喜びを見出します。しかし、少し考えてみれば、世の中には、素晴らしいと思うモノもあれば、そうでもないと感じるモノもある。
それを分ける違いってなんだろう?「価値」って何だろう?「意味」ってどうやって生まれるんだろう?…実はそういうことを抜きにして技術だけを持っていても、真に納得のあることってできないんじゃないか――もしかしたら専門特化で市場価値だけは手に入れられるかもしれないけど、それは現代において幸せとは関係が薄い――、そういうようなことを思ったのが大学生活の中頃だったように思います。
それからは、デザインみたいなものづくりに近いところから始まり、思想、 言語、社会みたいな、かつて興味を感じていたけど離れていたものに触れたり、あるいはゲーム、エンターテイメントを好きなだけ体験しました。そして今では、そこで得たもの抜きで何かを思考することは考えられないくらいに、世界の見え方が質的に変わりました。
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ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート
フェルディナン・ド ソシュール 東京大学出版会
例えば、自分の使っている身近なサービスであっても、それを単に機能と見なすのか、大きなマクロの流れを見据えた人間の行動と見るのかで、感じられる価値って圧倒的に違ってきますが、これってその周辺に対する文脈的・構造的な理解なしには得られないものです。同様に、エンターテイメントを咀嚼していけば、小さなできごとにものすごく大きな意味がありそれが面白さに深く関わっていることが分かるし、ゲームは、最近よく描かれるように、「仮想的」なものに内的な意味が生まれてそれが「現実」への問い掛けとして機能します。
先に紹介した、良い本や物語が人生を豊かにするという高校時代に出会ったイデオロギーは、こうして自分の中で消化されていきました。
1990年代から2010年代までの物語類型の変遷~「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
実を言うと、「専門」外の方向に向かった背景として、ここで書いた以外にも、理工系の大学にいてそこで用いられる枠組みに、それだけでいいのか?という感覚や、枠組みを用いるときにその特性を理解しておきたいということもあったと思います。ただそれは経緯というかきっかけであって、今もそういったものに価値を感じるのは、単純にそれが豊かだという以上の理由はないです。
西ヨーロッパを旅行する
大学生活最後の春休みには、イギリス・フランス・ドイツの西ヨーロッパ地域を一ヶ月ほど一人で旅しました。大きく時間を取れることもしばらくないからというよくある考えですが、この地域を旅行先に選んだのは、前述のような思考履歴を辿った自分にとっては、ごく自然な流れでした。
現代から遡る形で勉強していくと、いかに多くのものがこの地域世界から流れてきているかということを痛感します。日本だと、明治以降、いわゆる近代化ですが、そのことは、渡辺京二の『行きし世の面影』を読んでより強く自覚しました。この本は幕末-明治に日本を訪れた西洋人の記述を集めて、在りし日の「ある文明」を描写したものなのですが、読んでみて驚くのは、その世界を現代に生きる僕は、その時代の日本人ではなく日本を訪れた当時の西洋人の視点から(!)解釈・理解してしまうことなんですね。それほどまでに異なる秩序を持った生活世界がかつてあり、それがある時代を区切りに全く別の存在になったことを以って著者は「文明が滅んだ」と言っているわけですが、ともかく、現代日本がその多くを西洋近代文明に負っているということをまざまざと認識されられた本でした。
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逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)
渡辺 京二 平凡社
話を戻すと、旅行はイギリス・ロンドンから始めてイングランドの地方を周りつつ、フランス・パリに移動。そこからドイツのバイエルン地方をいくつか街を経由しつつミュンヘンまで行きました。
月並みな感想ですが、実際に行って見て理解できるものって、全然、本とかで読むのと違いますね。イギリスとフランスの違いとか、歴史を知れば文脈的な立ち位置とか理解できますけど、行ってみるまで感覚として理解できてなかったなと思いました。ロンドンからパリに移動して一歩街に足を踏み入れただけで、一日街を回っただけで、こんなに違うのかと感じました。こういうことは総体としてそう感じるものなので、短く言葉にするのが難しいところはありますけど、例えばロンドンの街では英語が基本で、なんと言うか、国際都市としては純度が高く感じました。それがパリに踏み入れるとあらゆる言語が入り混じっている。あるいはミュンヘンの酒場に行けばスイス人やイタリア人が出張で来ていたりする。自分は子供の頃インドネシアに住んでいたこともありますが、考えてみればそれも島国で、実はこれまで「大陸」に行ったことがなかったので、普通に外国人がちょっと移動して来るみたいなのは感覚としてありませんでした。その点一つとってもイギリスの立ち位置って違うなと思いましたし、ちょうど返ってきて少し後で Brexit がありましたけど、それまで積み重ねられてきたヨーロッパ統合の流れの転換点になる出来事でやはり衝撃を受けつつも、納得するところもありました。
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イギリス 繁栄のあとさき (講談社学術文庫)
川北 稔 講談社
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フランス史10講 (岩波新書)
柴田 三千雄 岩波書店
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ドイツ史10講 (岩波新書)
坂井 栄八郎 岩波書店
こうやって実際に行ってみるとその後もより色々な出来事を面白く感じるようになったので、またどこか行きたいなあ。
あと、宿泊は全て Airbnb で行いましたが、これは旅行体験を別の次元に引き上げてくれる、本当に素晴らしいサービスだと思いました。機会があればちゃんと書きたいところですが、現代みたいに世界が近づきつつある(と思っていたら2016年はそれに逆行する出来事が象徴的な年になりましたが)時代って当然文化的なコンフリクトも色々起こるとおもうのですが、それを暮らしというミクロなレベルから地道に解決していくアプローチは、プラクティカルではあるけど妥協の無いもので、僕はとても好きになりました。
Wantedly に入社する
4月になって、本格的に働くときが来ました。働く先は Wantedly という会社に決めていました。会社選び、かなり多くのパラメータを使って決めていて、自分が考慮したなと意識したものでも普通に50個くらいはある気がするんだけど、ざっくり言うと、エンジニアリング・カルチャー・ビジョンの3点で良いと思ったと言えば近い気がする。
ここでビジョンについてだけ言及すると、熱中して仕事に取り組むような人を世の中に増やす、という目的でやっています。僕はこれを見たとき、ああ、これって今やることに意味があることだ、と思いました。
これは結構早い段階で思っていたことですが、正直、今の世の中食べていくだけですごい困ることはなくて、娯楽もインターネットにつなぐだけでコンテンツに困ることもないですよね。これって結構すごいことだと思ってて、また、同時に新しい問題を生むとも思います。
過去を振り返れば、戦後とか食べることがリアルに重要な問題であるときもありました。その後の高度経済成長の時代も、結構「物」を手に入れるということに価値を感じていた時代だと思ってます。「機能」にお金を払うことが多かった、と言ってもいいかもしれない。
実際問題として、平均的な大衆のために開発された、どれも悪くはないが実のところ本当には自分にフィットしていない商品群に出会うのが、二十世紀の商品棚の典型となる - x-DESIGN
一方、当時、僕が iPhone を買うとき、何に対してお金を払っているんだろう?と考えたとき、純粋に何かが出来るということ以上に、新しい何かを見せてくれるのではないかという「期待」や、製品のディテールにこだわるという彼らの行動様式への「共感」に対して払っている部分が大きい、と感じていました。そして、そういう行動は自分以外にも普遍的に見られるように思えたし、エンターテイメントもこの傾向を反映しているように見える。
この考えを仕事というものに敷衍していくと、近代以来の時間を対価とした労働観念も、少しずつ変わっていくのかなと思いました。そして、そこではいくつかの選択肢があるべきで、その中の一つとして、仕事って面白い、と思ってそこに金銭的対価以上のものを見いだせるという選択肢が用意されるべきだと感じていました。ここで少し強い言葉を使っているのは、当時、もしかしたらその選択肢があれば選んだかもしれないけれど、無いがために選ばなかったと感じた事例を見たからでした。
なんか、色々話を聞いていると「退却」してしまう人が多いなと感じていて、それはそれで戦略としては正解なんだと思うんだけど、やっぱりどこか残念だと思うよね。
もちろん、趣味に生きるのはすごくありだと思ってて。自分自身、しばしばそっ��に振っていたし、それで最後まで楽しそうにしていた人というのも知っている。
なのだけど、それはナチュラルにそうであったという場合であって、「退却」するケースというのは、だいたい最初に希望があって、それを全うできない「疲れ」がそうさせたみたいなストーリーになっている。
趣味に生きるのは良いけど、趣味に生きざる負えないみたいなのは、残念だ。
残念な事象が類型化されると、そういう風になってしまうシステムが残念だという思いに至る。だから、ここで言う残念というのは、人ではなくて構造に向かっている。
構造と言っても色々なレイヤーで見ることができて。
いちばんは、そういう事象が生み出されるのが、構造と要素のミスマッチによるものであるということ。
そして、そういうミスマッチが生み出されるような構造によるものだということ。
さらに、それを生み出す構造が維持され生き残るような、文化によるもの。
…何やら話が少し重くなってしまいましたが、そういう経緯もあり、仕事自体はかなり楽しんでやっています。個別の内容については今は振り返るほど過去にはなっていないので、このあたりにしておきますが。
引っ越した
2016年後半の個人的にエポックメイキングな出来事は引っ越しでした。大学のある大岡山から、会社のある白金台へ。2ヶ月前に出来た家賃補助制度を活用して、1ヶ月前に出来た部屋に引っ越しました。会社まで徒歩1分のところにあり、めちゃくちゃ落ち着いている。
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住居、何を求めるかだと思っていて、「寝る」という機能だけを求めるのか、「生活する」基盤にするのかで違ってくるというのがありました。
大学時代の部屋は正直そんなに居たいと思えるような部屋ではなくて、それは採光や諸々のデザインの制約で変えられないと思っていて、ただそれでずっと不満はなかった。なかったのだけれど、「生活する」というのをしっかりやると、そこで感覚のチューニングもできるようになるし、意外と大事だなーというように考えを変え、ここには投資しました。結果的には、驚くほど生活の質が上がったので、これは完全に正解だったなあと思います。
ここでは備忘も兼ねて、引っ越しの際に考えたことを4つくらい上げておきます。
ポテンシャルのある部屋を選ぶ
まず、経験的に、部屋は、生活の質の上限を決める。これが部屋の定理。
そもそも綺麗でないと綺麗に保つ気にならないという意味で、きれいである必要があるし、ベースとなるデザインが良くないと結構どうしようもない。窓やそこから見える景色は変えられないので超重要。また、キッチンが部屋と分離されていると使わないという自分の経験則があったので、インテグレートされているのが望ましい。また、広さはそんなに必要ないことも分かっていて、それ以外を優先する。
徹底的な断捨離
ネットで見つかるきれいな部屋の隠れた法則として、そもそもものが少ない、というのがある。
このため、3週間くらいかけて、本当に自分に必要なものとそうでないものを選んで、処分・売却していった。この結果8割くらいのものを処分することになり、引っ越し先でもものが溢れずに済んでいる。
とは言っても、思い出のもので捨てづらいとかもある。そういうものはひとしきり懐かしんだあと、写真を撮って送り出す。ありがとう。
生活サイクルの再設計
おそらく超基本的なことなんだけど、掃除、洗濯、食事をまともにやれていなくて部屋がゴミのようだった。それもあって部屋にいる時間がゼロに近いかたちで運用していた。次の部屋でそうならないように、適切なタイミングの設定と、それを行うコストを下げるように色々導入した。
これはちゃんと成功していて、今は部屋は綺麗に保たれていて、洗濯も定期的に行っていて、とても精神衛生が良くなった。
生活空間の再設計
部屋は広くはないので、そもそもの部屋でやることを絞るというのも重要だった。会社が近いので本格的な事務作業は全て切り捨て、平日の寝ることと、休日の食事しながら本を読んだり映画を見たりすることにフォーカスした。本とエンターテイメントがあれば幸せに生きていける。
基本的な知識がないと良いものはできないので、インテリアの本を一冊買った。インテリア本、イケてる部屋の例みたいなのを載せてるだけのものが多くて微妙な感じだったけど、マンション・インテリアに特化したものを見つけて買った。
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ライフスタイルを生かす マンション・インテリアの基本
新星出版社 (2016-07-01)
その他、集約する方向ばかりだと面白くならないので、事前に Pinterest で良さそうなものを集めてイメージをふくらませたり、インターネットで色々面白そうな部屋の使い方を仕入れたりという感じで、引っ越しプロジェクトは大変だったけど結構楽しかったです。
おまけ:2016年個人的エンターテイメント史
2016年の後半はやはり映画が熱かった
『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』『君の名は。』『聲の形』は残ってる
ラノベは好きなタイトルが軒並み続編が出なくてかなしい
『ログ・ホライズン』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』
マンガはまずまず順調
2017年はそろそろ『ヒストリエ』10巻が出ることを期待
2017年について少し
今年について簡単に思ってることを書いておきたいと思います。
まず、仕事の面は、ちゃんとコミットすることでこそ得られるものがあるというのが自分の中で実証されました。今しばらくこのままいろいろ積んでいきましょうという感じです。
あと、これは意図的にそうしていた面もあるのだけど、2016年の4月以降はほとんど本を読んでいなくて、これはそろそろ変えたいなと思っています。いま振り返ってみても、色々なポイントでの判断にそこの積み重ねが活きているのはやっぱり間違いないので。
その他、生活面では、もっとエンターテイメントを消費していくこと、本格的に料理を始めること、 プロジェクタを買いたい、とか色々ありますけど、まあここはなるようになれという感じですね。
そんな感じで2017年もよろしくお願いします。
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