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#ウィトゲンシュタイン
straycatboogie · 2 years
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2022/10/18
今日は休みだった。朝、イオンで片岡義男『日本語で生きるとは』を読む。ふと、ここで書かれている日本人論を読みながら、自分自身のことを考えてしまった。私は日本語と英語を話す人間だが、日本人らしさから自由になれたと考えたことは一度もない。流行りの言葉を使えば「純ジャパ」の人間であり、サザンオールスターズの音楽に懐かしさを感じる人間でもある。ならば、そんな人間が片岡義男の日本人批判を読む時はどこに立場を置けばいいのか考えてしまう。私はいったい何のつもりで英語を学び、日本人らしさから少しだけ離れた立場を目指そうとしているのだろう。
中島義道の本で知ったのだけれど、ル・クレジオが「たまたま地上にぼくは生まれた」と記しているらしい。この「たまたま」というところがミソなのだろうな、と思う。私も何だかよくわからないが、途方もなく金持ちでもなければ貧乏というわけでもない田舎の中産階級の家で生まれた(『王立宇宙軍 オネアミスの翼』のオープニングみたいだ)。私の生まれ育った条件はその意味で私にも選べなかったわけだ。だが、その生育の不条理から目をそらして(あるいは意識することもなく)私は生きられている。これもまた面白いことだ。
図書館に行き、鶴見俊輔の本を借りる。その後ジョブコーチのことでメールを書く。地元のミニコミ誌に載せてもらえるかもしれない文章を書く。小さな文章だが、私が今に至るまで生きてきたその過程を少し振り返る作業となった。今から10年ほど前、にっちもさっちもいかなくなって結果的に働けなくなり、実家でくすぶっていた時に車谷長吉の本を読んだこと。あの頃の読書もまた今の自分を作っている。あの頃から比べれば今は仲間がいる。そして、支えとなる仕事にも私生活にもありがたみを感じられている。それが幸せだと思う。
夜、ウィトゲンシュタイン『ラスト・ライティングス』を少し読む。ウィトゲンシュタインの書いたものにまた感心が戻っている。私自身は哲学に一生を捧げられるタマではない、とも思う。もっと世俗的な成功や快楽に幸せを感じてしまうし、考えを純粋に極めるということもできないからだ。『ラスト・ライティングス』を読み返すのは久しぶりだったのだけれど、ここで展開される自問自答に(そして、その自問の過程をまざまざと書き付ける彼の執念に)息を呑む。やはり自分は彼から影響を受け続けているな、と思った。
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takahashicleaning · 5 months
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TEDにて
ポエト・アリ:「人間(じんかん)であること」という言語
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
前提として「一神教の個人」より「多神教の人間(じんかん)」の概念に近い感じです。
「あなたは自分が思っているよりもずっとたくさんの言語がわかるはずだ」とポエト・アリは言います。
「言語」という概念がいかに「単語の集まり」をはるかに超越し、「愛」「笑い」「孤独」など万人共通の体験を伝え
そして、私たちみんなを結びつける「文化」「感情」「思想」などへと導いてくれるのかを明かしていく奥深いトークです。
(ポエト・アリ)こんにちは。(観客)こんにちは
(アリ)質問です。皆さんは、いくつの言語を話しますか。言葉通りの質問です。頭の中で数字を出してください。簡単だと思う人もいるでしょう。
「1つだね。あんたが今話してるだろ。以上!」みたいな、逆に迷っている人もいるでしょう。「元カレや元カノから罵り言葉ばかり教わった言語も数に入れていいのかな」
もちろんいいですよ。自分に優しくね。僕自身、数えてみたら4つでした。お酒が入ると5つになるという説も。
(イタリア語)ワインが入れば、イタリア語も話せます。ところが、よくよく考えてみたら83言語にもなり、83で数え疲れて止めましたが、「言語」というものの定義を見直さざるをえなくなりました。
辞書の最初の定義は「人間のコミュニケーション手段。音声または文字の形をとる特定の構造や慣例に従った語の使用から成る」
最後に出てくる定義は、医学、科学、技術など専門分野に関するものです。独特の言い回し、つまり専門用語がありますから。
でも僕が一番気になったのは、ど真ん中にある定義です「特定の集団や国で使われるコミュニケーションの仕組み」
この定義を変えたいわけではありません。人間が携わる全ての物事に当てはめてみたいんです。人は自分で思っているよりずっとたくさんの言語がわかるはずですから。
では、トークが終わるまである1つの言語を使いたいと思います。皆さん全員がネイティブである言語です。
そうすると少し趣向が変わり、もはや「講演」ではなくなります。
「会話」になります。「会話」である以上、何らかのやりとりが必要です。やりとりをするためには、ある程度の意欲が、双方になければなりません、
意欲さえあれば、すごいことが起こることもあります。少しばかり意欲があればいいのです。
そこで、比較的リスクが低く万人に通じる体験を選んで皆さんに意欲があるかどうかを測ることにしました「幸せなら手を叩こう」
(スペイン語)スペイン語がわかる皆さん。お立ちください。そして隣に座っている人を見て噴き出してください。
(英語)ありがとうございました。お座りください。少し居心地悪く感じた人。あなたをネタにして笑ったわけでは、ありませんのでご安心を。
単にスペイン語がわかる皆さんに立ち上がってもらい、近くに座っている人を見て笑い声を上げてもらっただけです。
ちょっと意地悪でしたよね。ごめんなさい。でも、この短い時間で何かを感じた人がいるはずです。
他の人の母国語を話すと、しばしば言語の働きに気づかされます。つながりや絆を生むといった効果のことです。
一方で、その言語がわからない人に与える作用を忘れがちです。相手を孤立させ疎外感を感じさせてしまうということに。
この感覚を意識しながら言語について色々とお話していきましょう。
(ペルシャ語)今、ペルシャ語で「ペルシャ文化における“t'aarof”という概念を説明したい」と言いました。
英語には相当する言葉が存在しません。あえて言うなら「極度の礼儀正しさ。極度の謙遜」あたりですが、いまいち言い表わせていません。
なので例を出します。男性2人がバッタリ会ったら大抵、ひとりが相手のほうを向いてこう言います(ペルシャ語)(英語)意味は「あなたに恩がある」です。
もうひとりはこう返答します(ペルシャ語)(英語)意味は「あなたのためにシャツを開こう」です。相手はこう返事します(ペルシャ語)「私はあなたの召使だ」
それに対し、相手はさらにこう言います、(ペルシャ語)(英語)文字通りに訳すと「私はあなたが踏みつけている土」
ピンと来なかった人のためこちらが具体例です。このような例を出した理由は、知らない言語には、それまで知らなかった概念がついてくるものだからです。
もうひとつ言うと言語といえば単語の意味を理解することだと考える人もいますが、僕は言語とは、単語に自分にとっての意味付けをすることだと考えています。
ここにある単語の羅列をパッとスクリーンに映した場合、これが何なのか即、理解できる人もいるし、若干解読に苦労する人もいるでしょう。
「多分、ここを境にはっきりと分かれる」っていう線が、35歳以上か35歳以下か。だと思います。理解できる年齢層の皆さんは、今のがショートメール特有のSMS語だとわかります。
最大限の意味を最小限の文字に込めた文字列のことでそう言うと「言語」の定義に結構似ていますよね「特定の集団で使われるコミュニケーションの仕組み」
さてショートメール上で喧嘩になったことがある人ならコミュニケーション方法としては、今ひとつだと証言できるでしょう。��も、今お見せしたものが今どきのラブレターだとしたら?
一緒に文字を追ってください「今のところ大好きだよ。いいところをすごい引き出してくれるから。超ウケる、ていうか、最近どう?だって君って可愛いと思うし、僕的につき合ってくれたら嬉しいな、
君がフリーだったらだけど。ちなみにずっと君のそばにいるからね。とにかくまた連絡して返信不要。元気でね。誰かがこの文を見るかもとかわかんないしどうでもいい。その話はしないで。またね。バイバイ。ハグ&キス。人生は一度きりだぜ」
現代のロミオかジュリエットってとこですね。
さて今、笑った人。もうひとつ別の言語がわかるということです。
説明不要の言語「笑い」です。
世界で最も普遍的な共通言語のひとつです。誰も説明を必要としないし、誰にでも自然に起こるものです。
お笑いや音楽がどこにでもあるのはそういうわけです。不思議と言葉での説明を超越し、膨大な量の意味を伝える力があるからです。
どんな言語を学んでも別の言語への入り口になります。知れば知るほど表現が広がります。誰でもしていることですが、新しく出会った概念を���分にとっての既知の現実という枠を通して見ています。
だからこそ言語は重要なのです。
他人とだけでなく新しい世界とも繋がる手段だからです。その本質は、見る聞くことだけでなく感じ、体験し、共有することでもあるのです。
さて様々な言語を取り上げましたが、まだこの世で最も深遠な部類に入る言語の話はしていません。
「経験」という言語です。
だから誰かと話をしているときお互い経験済みの話であれば、あまり説明する必要がなくだからこそ経験談を話していて相手が、いまいち話についてこれないとき誰もがまずこう言うのです。
「実際その場にいてみないとね」この話だって今この場にいないと実感がわかないものかもしれません。
この感覚、説明しがたいですよね。
研究も兼ねて最後は、もう一度、皆さんに参加してもらいます。
今度は「経験」という言語です。
これから登場する言語が、ご自分が知っている言語だったら立ち上がってそのまま立っていてください。ご自分の判断で「わかるよ」と示してください。
そうすれば僕にも皆さんがこの「経験」という言語がわかるのだとわかりますから。さあ、この言語がわかりますか?子供のころ小学校では、学年末にお祝い会があっていつも場所を多数決で遊園地かウォーターパークか選んでいた。
ウォーターパークだけは嫌だった。水着を着なきゃいけないからみんなはどうか知らないけど僕は試着室の前に来ると時々、勝手に汗が出てくる。
だって試着した服が、僕の体型じゃマネキンみたいにはならないと予想がつくから。あとはこれ。家族親戚のお祝いや集まりの席でおかわりをしたいときいつもだったけど。
したらどうなるかという計算で頭がいっぱいだった。親戚の僕を見る目が「まだ食べる気か? もういいだろ?」って感じだったからさ。ほっぺたに「つねって」って見えない文字でもあったのかな。
ここで、もじもじし始めた人、笑った人、立ち上がった人、立ち上がろうとしている人、あなたが理解した言語は、僕が愛を込めて名付けた。
「子供の頃太っていた語」です。体型に関する劣等感はどれもこの言語の方言のようなものです。
立ったままでいてください。僕の話す言語がわかる人は、立ってくださいね。請求書を2枚握っているとして1つは電話料金。もう1つは電気料金「ど・ち・ら・に・し・よ・う。片方払って、片方捨てよう」
要は「今は両方支払う余裕がない」ってこと。知恵を絞って切り抜けなきゃなんない。今、立った人は、ギリギリでやりくりする「生活苦」という言語がわかったということです。
この言語が話せるくらいの経験を持つ恵まれた皆さんは「欠乏」ほど向上心をかき立てるものはないということをご存知でしょう。
資質に恵まれない。容姿に恵まれない。金銭的に恵まれない。そんな、「痩せた土地」こそ懸命に耕され、最も実りある種が収穫されることも多いのです。
次の言語はわかるでしょうか。ピンと来たらすぐに立ってください。告知を聞いた時「勘弁してよ」って思った。
「よりにもよってそれかよ。それだけは嫌だ」次に質問を始める「確かですか?」「転移してるんですか」「あとどのくらいなんですか先生」
これに続く返答で誰かの余命が判明するんだ。食欲がありそうなら家族全員テーブルに急いだ。いつも家族みんな一緒に食べてたからこれからもずっとそうするんだからと。
負けが見えてきてなぜなのか理解できなかった。だって何かと戦うとき正しい精神で臨めば、必ず勝てるって教わってきたから。
なのに勝てないなんて。立ち上がった人は、よくおわかりのはず。今のは「愛する家族が、がんと戦うのを見守る」という言語です。
死に至る病ならどれもが、この言語の派生言語だといえます。
これから話す言語が最後です。
いや聞いてるって。はいはい。いや、そうじゃなくて。聞いてるってば。だから聞いてるだろっての。
真っ暗な部屋でブルーライトが顔を照らす中、ベッドに横になっている皆さんの中にも僕みたいに顔に携帯を落っことした人がいるはず。
こんなのもありますね?助手席ではパニック「道路を見ろっての!」立ち上がった人は、僕が「つながりを断つ言語」と呼ぶものがわかる人です。
「つながりを求める言語」だと言われますが、「つながりを断つ」がいいと思います。「つながるに飢える」ではなく「断絶」のほうの意味です。
人と人の断絶です。お互いからの断絶。今いる場所や自分の思考からの断絶。心はどこか他の場所にあるのです。
まだ座っている人は、取り残される気持ちがおわかりでしょう。
こんな気持ちがわかるはずですね。誰もが皆、参加しているのに自分は違う。そんな少数派の気持ちです。皆さんの言語を話しているのでどうぞ立ってください。
共通の言語を話しているわけですから。この少数派であるという言語は、皆さんが学ぶ言語の中でも最も重要な部類に入ります。弱い立場に置かれたときに感じることが、逆に自分が強い立場に立ったときの行動を決定するでしょう。
ご協力ありがとうございました。お座りください。
次が最後の言語になります。
今度は座ったままでどうぞ「アレ」が何のことかわかるでしょうか?
世界中の女の子のほとんどが愚痴ってる「アレ」世界中の詩のほとんどが題材にしてきた「アレ」ラジオから流れる音楽のほとんどが嘆く、わめく、毒づく「アレ」
歌謡業界じゃ歌詞として吐き出される「アレ」世界中の歌のほとんどで語られてる「アレ」失恋した知り合いのほとんどが失ったまま歩き回るか存在を疑い始めるか失って途方に暮れる「アレ」
暗闇に潜む影のほとんどが、忘れ去ってしまった「アレ」世界中誰もがそれなしでは、正気を失う「アレ」男も女も誰もそれなしでは、生きていけず、苦しみ、空っぽになる「アレ」
埋まったページのほとんどが、その話で埋まる「アレ」
[「アレ」=愛]が答えです。
流される涙は、そのために流される「アレ」感じたことのある人は、正直に認める「アレ」それなしの人生では、目的を見失ってしまう「アレ」その渦中にいれば、大声で語りたくなる「アレ」
全世界誰もが何のことか知ってる「アレ」それを拒絶した俺は間違ってたと傷心、絶望、慟哭する「アレ」それなしでは、心の傷や痛みは癒えない「アレ」それについて感じていることは、隠せない「アレ」
それについて誰もが理想を持ち夢を見て懇願する「アレ」
「アレ」の何がそんなにすごいんだろう
「アレ」なしじゃ人生も夢に過ぎないって真剣に知ろうとしてるってこと?物書きでしかない僕が「アレ」について何を明かせるというのか。
どうして世界で最も万人に語られている言語が、言い表すとなると最も苦労する言語なのでしょうか。どれだけ本を読んでセミナーに出てどれだけライフ・コーチングのセッションを受けても飽き足りることがありません。
さてお聞きしますが、冒頭に数えていただいた言語の数は変わりましたか?次、誰かに会ったときは、ぜひ考えてみてください。
「この人と共通の言語は何だろう」何も思い浮かばなければ「では、何の言語を共有できるだろう」と考えてみましょう。
それでも何も思い浮かばないなら「自分は何の言語を学べるだろうか」と考えてください。
その会話がどんなに自分には、無関係でどうでもいいことのようにその時は思えたとしてもそのうち必ず自分のためになると保証しましょう。
ポエト・アリでした。ありがとうございました。
ソシュールの「一般言語学講義」から始まり・・・
プログラミング言語もこの哲学から発展しています。
そして、その後は・・・
ウィトゲンシュタインの発見がキッカケです。
ウィトゲンシュタインは、哲学を創造的破壊した人です。2000年もある哲学自体を意味のないものとしてしまった。「論理哲学論考」で「語り得るもの」と「語りえないもの」の判別を見極めること。
「言語の限界」は「知識の限界」そして、「世界の限界」の判別を見極めること。で事実をそのまま表現しない言葉は、誤りではなく、意味がないということに初めて気づいた人です。
<おすすめサイト>
ウリ・ハッソン:コミュニケーション中の脳の反応
レラ・ボロディツキー:言語はいかに我々の考えを形作るのか
マーク・パーゲル:言語能力が人類に与えた影響について
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
マーク・フォーサイス: 政治における言葉について
<提供>
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ogawa-xd · 1 year
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■ウィトゲンシュタインとクワイン
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ウィトゲンシュタインは、哲学のなかでも難解ななかに入るだろうか。 彼は何をいおうとしているのか。「簡単に」のべてみる。 個人的な感覚としては、彼はさまざまな事象をしっかりわかりたかった人なんだなと思う。そしてわかったことをはっきりと語りたいと強く思っていた人という印象が強く、だからこそ思想が変遷した。 哲学者なら誰でもそうである、ともいえるが、とくにそう思う。
・ウィトゲンシュタイン前期
ウィトゲンシュタインは前期と後期とで大きく思想が変わる。
前期は、論理的に考えればすべては明快になるはず、というもの。「確かなこと」からはじめて、できるだけ論理を飛躍させずに、大きな全体像を構築しようとしたのが「論理哲学論考」。それだけ、それ以前の議論が「論理的」にはいい加減と強く感じていたのだろう。これを指導したのがラッセルだが、どちらも数学、論理学に通じている。
「論理哲学論考」はユークリッド幾何学(「原論」)を彷彿とさせる(読んでいませんが)。その最後の言葉が「語りえぬものについては沈黙を」だ。
しかしやがて彼は自分の考えに行き詰まった。本当に論理的にすべてを語りきることなんかできるのか? そんな疑念にぶち当たってしばし沈黙した。
・後期/言語ゲーム/家族的類似
復活した後期の代表的な考えが**「言語ゲーム」**。これはおもしろい考え方だと思うし、わたしたちの多くの議論――日常の会話も含めて――でのすれ違いを説明している。
いろいろな時と場の中で成立している「対話」は、一つ一つが言葉のゲームであって、それぞれは別のルールのうえで行われている別のゲームである。
実際にそれぞれのゲームで使われている言葉は、日本語や英語などの同じ単語であるが、ルールがちがえばその言葉が指すものは正確には同じものではなく、そのゲームルール固有のものである。
たとえば「リベラル」という言葉は、あちらの陣営やこちらの陣営、教科書での意味とSNSでの意味は、正確に同じものではない。もちろん、まったくちがうということではなく、親と子、兄弟同士が似ている程度には似ている(「家族的類似」)のだが、でもやはり「ちがう」のであって、それを同じものとしてしまうと議論はすれ違う。
ウィトゲンシュタインさん、前期はまだ青かったけど、後期は大人になったということだ。
・信念のネットワーク/ホーリズム
ウィトゲンシュタインと少し離れるが、クワイン(ネオ・プラグマティズム)は、ホーリズムという思考のなかで**「信念のネットワーク」**ということを述べている。「リベラル」の意味は、「リベラル」という一語で決まるのではなく、その時と場で語られている、リベラル以外のいろいろな言葉(信念)との関係性(ネットワーク)のなかで、全体として(ホーリズム)決まる、という趣旨かと思う。
これと「言語ゲーム」は響きあっている。つまり一つの言葉の意味は、それが語られているゲームを知らなければ特定できない(完全な「特定」などありはしないのだが)ということであり、一つの言葉はゲームの中で他の言葉(信念)とネットワークをなして、ネットワークがその意味を支えている、ということ。
自分は今、「デザインと哲学」というゲームをしている。
・言葉の定義はむずかしい
こういった事情が「言葉の定義」をむずかしくしている。
いや、事情が定義をむずかしくしているのではなく、「言葉の定義」とは元々、かくのごとく思ったより単純ではない構造をしている、ということなのだ。
さてここからデザインは何を学べるだろうか。
230314
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yasudai · 2 years
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#野矢茂樹 #ウィトゲンシュタイン #哲学探究という戦い 読了。 「哲学探究」を読んでみても、謎めいた文章が続き、そもそもL.W.が何を問題にしているのかさえ分からなかった。本書は、その謎めいた文章を解きほぐし、理解可能なものにしてくれた。長年の著者の研究と思索が結晶したものが本書だと思う。 #wittgenstein #ludwigwittgenstein https://www.instagram.com/p/CdKguh2pGSq/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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taizooo · 2 months
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ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。
【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル
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Kafka and Hamlet (Essay)
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Franz Kafka
I once came across a fragment of Kafka's writing and writing by the philosopher Wittgenstein almost simultaneously(Both are German-speaking people.), and compared them. Kafka's sentences were incoherent, and I could only read that his consciousness was clouded. On the other hand, Wittgenstein's writings were logically clear and conveyed the purity of his mind.
When I thought about what this big difference was, I concluded that it came down to the difference in the qualities of the two men. To begin with, isn't Kafka, a literary figure, overrated? His famous unfinished posthumous work ``The Castle: Das Schloss'' is famous because the story does not progress at all. No matter how many hundreds of pages you spend, the situation surrounding the main character remains the same. Reading works like this is a waste of time. Kafka's readers are masochists. It's better to read the manga.
Shakespeare's ``Hamlet'' comes to mind when we think of ``The Castle.'' In the case of this work, the main character, Hamlet, is indecisive and should immediately take revenge on his uncle who killed his father and usurped the throne. Still, he pretends to impose a moratorium and procrastinates, causing his lover to commit suicide. Almost all of them died, with comical results. I think "Hamlet" is a bad work.
In the case of ``The Castle,'' the story does not progress due to Kafka's intentions, whereas in ``Hamlet,'' due to the main character. The difference is that the story does not move forward due to hesitation, but both works do little more than appeal to the sickly modern spirit of modern people who are either indecisive or are forced into indecision. They look very similar. These are works that are not food for a healthy mind.
Rei Morishita
カフカとハムレット(エッセイ)
私は以前、カフカの文章の断章と、哲学者ウィトゲンシュタインの文章(2人ともドイツ語圏の人)をほぼ同時に目にし、比較したことがある。カフカの文章は支離滅裂で、彼の意識が混濁していることだけを読み取った。一方ウィトゲンシュタインの文章は論理明快、彼の精神の清澄さが伝わった。
この大きな違いは何かと考えてみるに、2人の資質の違いに帰着するという結論に落ち着いた。そもそも、カフカいう文学者は過大評価されているのではないか。有名な未完の遺作「城」は、話がまったく進行しないので有名だ。何百ページ費やしても、主人公を巡る状況は変わらない。こんな作品を読むのは時間の無駄だ。カフカの読者はマゾヒストだ。マンガを読むほうがいい。
「城」に関連して想起されるのが、シェークスピアの「ハムレット」だ。この作品の場合、主人公のハムレットが優柔不断で、父王を殺して王位を簒奪した叔父にすぐさま復讐すべきなのに、モラトリアムを気取り、ずるずると先延ばしにした挙句、恋人を自殺させ、登場人物のほぼ全てが死亡するという、お笑いの結果を招いた。私は「ハムレット」は駄作だと思う。
「城」の場合は、カフカ自身の意図で話が進まないのに対し、「ハムレット」では主人公
逡巡で話が進まないという違いあるが、両作品とも、不決断あるか、それを強いられる病的な現代人の精神に訴えるという意味以上の何者でもあるまい。よく似ている。健全な精神の糧にはならない作品だ。
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kennak · 9 months
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ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、私たちがチェスを「発見」した可能性が高いのでしょうか、それとも発明した可能性が高いでしょうか? 彼は、すべての数学をこのように、トートロジーを表現するますます複雑な方法として考える必要があると提案しています。
直観主義 | ハッカーニュース
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petapeta · 10 months
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世界がどのようになっているか、でなく、世界があるということ、これが謎である。 — ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』(1921年) 6. 44、土屋賢二訳
なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia
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qofthequinine · 6 months
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ウィトゲンシュタインを起点に、哲学者の誤謬を指摘する試論
ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものについては、沈黙せざるを得ない」と示した。そこから哲学は行き詰まったり、社会やもっと大きな仕組みについて議論する道具になった。本来は、人間の内心を検討するものだった哲学は、文字にして出版することでしかその内容を解説できない状況にある。
では、語り得ぬものを語るには、どうすればいいか?
言葉を知らない赤ん坊は、言語的には語らずに沈黙しているが、我々の特に母親は、察知して把握する。なぜか? 喜怒哀楽を、全身で表現する。感情と身体が直通している。ボディランゲージと言えば理解できる。感情の身体的な表明。語っていないが、表現している。
ある程度成長すると、言語に依存する。人間社会に参加するなら、言語の獲得は必須事項だからだ。また、ネガティブな言語的表明は良しとされない。年嵩の人間は、「よくわからないことを若いのが言ってら」と面倒くさがって、説教する。
そうすると、感情を身体で表明できなくなる。感情を言葉にしてみようと試みる。そもそもそういうふうに、言語で解説できるようなものとして、感情はできあがっていない。「ムカつく」「うざい」「それな」「ヤバい」など、若者のスラングは、実はその不満の解消を試みている。しかしそれが全体に波及したころには、また新たな世代が新言語を生み出している。
言語で伝えようとする試みを、可能な限り理解しようとしながら、それ以前に、Themの感情を可能な限り自分の内側を参照して、共感してほしい。それは社会状況を反映していたり、小さなコミュニティの叫びだったりする。
言葉よりもまず、顔から姿勢から歩き方や顔色、体臭、発話の雰囲気やスピードを観察して、逆に自分もそれをしっかり体で表明して、もっと上機嫌と不機嫌を明確に、さらに言葉と共に伝えよう。
表現は全身である。文学であり、音楽であり、絵画であり、彫刻であり、写真であり、映像である。好き嫌いはもちろんある。「上品な」「下品な」の価値基準は、人間の階層化を進めるだけで、彼自身や自分自身を分断する。
だから、語れないなら、全身を使って表明すべきだ。しかし、それができない人もたくさんいる。彼らの表明は、彼らを理解している人にしか感覚できない。
身体に異常がなければ、全身を使おう。身体の回復可能な異常であれば、休息と放心を試みよう。不可逆な疾患については、まだテクノロジーが発達していない。検査はできても、治療や復元ができるかどうかは、未だ研究段階だ。
個人的な状況は、明日にならないとわからないが、マクロな組織については、明日に丸投げしたツケが、当事者ではない下の世代に回ってくる。
あなたはあなたを守り、それから誰かのことを思い、そして生まれいずる命を祝福し、彼らに申し訳が立たなくなるような行為は、全力で阻止しよう。
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2022年の読書(2022年12月28日現在)
2022年の読書(2022年12月28日現在)読了206冊
特に印象深かった本(順不同) 《文芸》 『たったひとつの冴えたやりかた』(ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア著/浅倉久志訳/カバーイラスト:片山若子/ハヤカワ文庫) 『リリアン卿――黒弥撒』(ジャック・ダデルスワル=フェルサン著/大野露井訳/装丁:柳川貴代/国書刊行会) 『骸骨 ジェローム・K・ジェローム幻想奇譚』(ジェローム・K・ジェローム著/中野善夫訳/装丁:岡本洋平/国書刊行会) 『ハイ・ライズ』(J・G・バラード著/村上博基訳/創元SF文庫) 『旱魃世界』(J・G・バラード著/山田和子訳/牧眞司解説/カバーディレクション&デザイン:岩郷重力+R.F/創元SF文庫) 『ウィトゲンシュタインの愛人』(デイヴィッド・マークソン著/木原善彦訳/装幀:アルビレオ/装画:ケッソクヒデキ/国書刊行会) 『スキャナー・ダークリー』(フィリップ・K・ディック著/浅倉久志訳/扉デザイン:土井宏明(ポジトロン)/ハヤカワ文庫/Kindle版) 『耄碌寸前』(森於菟著/池内紀解説/みすず書房) 『時の子供たち 上下巻』(エイドリアン・チャイコフスキー著/内田昌之訳/竹書房文庫/Kindle版) 『クララとお日さま』(カズオ・イシグロ著/土屋政雄訳/早川書房/Kindle版) 『純潔』(嶽本野ばら著/造本:松田行正+日向麻梨子/新潮社) 『シシリエンヌ』(嶽本野ばら著/新潮社/Kindle版) 『プロジェクト・ヘイル・メアリー 上下巻』(アンディ・ウィアー著/小野田和子訳/早川書房) 『異形の愛』(キャサリン・ダン著/柳下毅一郎訳/装丁:木庭貴信+岩本萌(オクターヴ)/河出書房新社) 『葉書でドナルド・エヴァンズに』(平出隆著/三松幸雄解説著者目録/デザイン:菊地信義+水戸部功/講談社文芸文庫) 『詩歌探偵フラヌール』(高原英里著/装幀:名久井直子/装画:カワグチタクヤ/帯文:梅﨑実奈/河出書房新社) 『日々のきのこ』(高原英理著/帯文:岸本佐知子/名久井直子装丁/ヒグチユウコ装画/河出書房新社) 『幾度目かの最期』(久坂葉子著/青空文庫/Kindle版) 『ボダ子』(赤松利市著/新潮文庫/Kindle版) 『喜べ、幸いなる魂よ』(佐藤亜紀著/綿引明浩装画/國枝達也装丁/角川書店) 『どちらでもいい』(アゴタ・クリストフ著/カバーオブジェ:勝本みつる/カバーデザイン:ハヤカワ・デザイン/ハヤカワepi文庫) 『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(マーク・ハッドン著/小尾芙佐訳/装幀:服部一成/ハヤカワepi文庫) 『氷』(アンナ・カヴァン著/山田和子訳/川上弘美解説/カバーデザイン水戸部功/ちくま文庫) 『懐中時計』(小沼丹著/秋山駿解説/作家案内、著書目録:中村明/デザイン:菊地信義/講談社文芸文庫) 『後藤明生・電子書籍コレクション 行方不明』(後藤明生著/アーリーバード・ブックス/Kindle版) 『私は幽霊を見ない』(藤野可織著/朝吹真理子解説/カバー絵:Angela Deane/カバーデザイン:大原由衣/角川文庫/Kindle版) 『百鬼園戦後日記(全三巻合本)』(内田百閒著/巻末エッセイ:谷中安規、高原四郎、平山三郎、中村武志/解説:佐伯泰英/カバー画:山髙登/カバー図版:内田百閒戦後日記(岡山県郷土文化財団所蔵)/カバーデザイン:中央公論新社デザイン室/中公文庫/Kindle版) 『木になった亜沙』(今村夏子著/装画:木原未沙紀/装丁:野中深雪/文藝春秋) 『小島』(小山田浩子著/新潮社/Kindle版) 『死ぬまでに行きたい海』(岸本佐知子著/岸本佐知子写真/装幀:宮古美智代/スイッチ・パブリッシング) 『少年』(谷崎潤一郎著/青空文庫/Kindle版) 『外套』(ニコライ・ゴーゴリ著/平井肇訳/青空文庫/Kindle版) 『鳳仙花』(川崎長太郎著/講談社文芸文庫/Kindle版)
《その他》 『寄生生物の果てしなき進化』(トゥオマス・アイヴェロ著/セルボ貴子訳/倉持利明解説/草思社/Kindle版) 『「ネコひねり問題」を超一流の科学者たちが全力で考えてみた――「ネコの空中立ち直り反射」という驚くべき謎に迫る』(グレゴリー・J・グバー著/水谷淳訳/装丁:寄藤文平+古屋郁美(文平銀座)/Kindle版) 『みんなが手話で話した島』(ノーラ・エレン・グロース著/佐野正信訳/澁谷智子解説/はじめに:ジョン・W・M・ホワイティング/ハヤカワ文庫NF) 『スピルオーバー——ウイルスはなぜ動物からヒトへ飛び移るのか』(デビッド・クアメン著/甘糟智子訳/装丁:間村俊一/明石書店) 『新・動物記4 夜のイチジクの木の上で─フルーツ好きの食肉類シベット』(中林雅著/新・動物記シリーズ編集:黒田末壽、西江仁徳/ブックデザイン・装画:森華/京都大学学術出版会) 『共立スマートセレクション5 オーストラリアの荒野によみがえる原始生命』(杉谷健一郎著/コーディネーター:掛川武/共立出版/Kindle版) 『共立スマートセレクション10 美の起源 ─アートの行動生物学』(渡辺茂著/コーディネーター:長谷川寿一/共立出版/Kindle版) 『共立スマートセレクション16 ベクションとは何だ!?』(妹尾武治著/コーディネーター:鈴木宏昭/共立出版/Kindle版) 『世界を変えた建築構造の物語』(ロマ・アグラワル著/牧尾晴喜訳/装幀者:トサカデザイン(戸倉巌、小酒保子)/草思社/Kindle版) 『宇宙創成 上下 合本版』(サイモン・シン/青木薫/新潮文庫/Kindle版) 『岩波科学ライブラリー310 食虫植物─進化の迷宮をゆく』(福島健児著/カバーイラスト・一部図版:安斉俊/岩波書店) 『銀河の死なない子供たちへ 上下巻』(施川ユウキ著/カバー・本文デザイン:セキネシンイチ制作室/電撃コミックス NEXT/KADOKAWA)
この一年間で複数の著作物を読了(著者名/冊数) 後藤明生/25 西村賢太/8 フィリップ・K・ディック/7 川崎長太郎/6 小沼丹/6 嶽本野ばら/6 藤野可織/6 今村夏子/6 橋本治/5 J・G・バラード/4 岸本佐知子/4 内田百閒/4 小山田浩子/3
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junsho-ji · 12 days
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探究の中止は、見方の固定化・思考の硬直化を呼び込む。
我々が生活のなかで相手にする物事の大半は、単一の見方だけで見通せるほど平板で単純なものではなく、複雑で奥行きのあるものだ。
ー古田徹也 著『はじめてのウィトゲンシュタイン』(NHKブックス)よりー
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straycatboogie · 10 months
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2023/07/08
BGM: New Order - World in Motion
ぼくはウィトゲンシュタインから哲学のイロハを学んだ。いや、生きる方針やライフハックを学んだと言ってもいい。彼は『論理哲学論考』の中で「世界は私の意志から独立である」と書いている。これをアンポンタンなぼくなりに噛み砕くと、「ぼくがどう考えようがそれとは関係なく世界は動く」となる。この考え方がぼくには実にしっくりくる。というのは、ぼくは高校生の頃にまさにこのウィトゲンシュタイン的な体験をしたからだ。ぼくは当時、好きな音楽の話をシェアしたいと思って放送部に入った。でも、そこで部員全員からおみそにされて、まったく嫌われるという経験をした。ぼくは何か嫌われるようなことをしたのだろうか。思い出せない。ぼくの立ち居振る舞いや音楽のセンスが引き金/トリガーとなって、ぼくにいかなる釈明のチャンスも与えられずに嫌われ者にされてしまう経験をしてしまった……そのことが今でも実はトラウマとなって残っていて、「何かしくじればまたみんなぼくの元から去ってしまう」と、まるでナイン・インチ・ネイルズの歌詞みたいに絶望的なことを考えてしまうのである。何かしくじれば、みんな去っていく。そして、ぼくはいかなることも弁明できず独りぼっちにされてしまう……。
だから、ぼくは「いじめに打ち克つ強さ」「いじめに負けない心」といったものを信用しない。暴力的な手段で跳ね返していじめに勝つという発想はぼくのようなひ弱な人間にはリアルじゃないと思ってしまうし(それにそうして「跳ね返す」と、「結局暴力でしかいじめは解決できない」という教訓を得て「力で人をねじ伏せることはいいことだ」と味をしめてしまうのではないかと危惧する)、あるいは自分だけの世界に閉じこもってやりすごしていじめを耐え抜くという解決方法もなんだかリアルじゃないとも思ってしまう。孤独を生き抜きいじめに打ち克つと、そこから結局他者とのコミュニケーションによって育まれるべき自尊感情が育たなくなってしまう。ぼくの場合は大学に入ってからもなかなか人に心を開くことができず、上に書いたこととつながるけれど「相手に嫌われているのではないか」「この人もいつかぼくから離れていくのではないか」と思ってしまってそれで友だちを作れず、したがって鬱をこじらせるしかなく苦しい時期を過ごした。ようやくいじめから解放されたのに、ぼくのマインドはズタズタにされたままだった。
そして今……今はこうしていろいろな人とつながることができている。そしてその人たちがぼくを見放すことはないだろう、と確かに信じられる。ぼくは完全無欠ではないので失敗もするし、ブザマな姿も晒す。でも、ぼくの友だちはぼくのことをわかってくれる。そこにぼくは確かな「絆」を感じる。「そのままのあなたでいい」……そんなメッセージを感じる。だから、ぼくは安心してブザマな自分自身をそのまま晒して恥をかくこともできる。そうして失敗しても、確かに「やっちまった」と思うこともあるけれど、でもみんなぼくを全否定したりしないとわかっているからだ。この「絆」……いや、証書を書いたわけではないからぼくたちはいちいち「絆」の存在を確かめ合って生きるわけではない。だから確率的なことを言えば明日その「絆」を反故にされて絶交される可能性だってゼロではない。現にぼくはそんな不条理に悩んできた……でも今は、ぼくはそんなことを心配したりしない。可能性の話をすれば「ぼくの心臓がある日突然止まる可能性」だってゼロではないけれど、それでもぼくは「あえて」楽しく生きることを選ぶ。それと同じで、あれこれ思い悩むより「ケ・セラ・セラ」の精神で「とりあえず」成り立っている「今」を楽しみたいと思う。
今日はダラダラと過ごしてしまった。サルトル『嘔吐』の読書も進まず、映画も観られず(アマプラで観られるらしいブライアン・ウィルソンについての映画を観たいと思っているのだけれど)。夜に両親にLINEで、「橋になりたい」という自分の夢について話す。この町と世界をつなぐ人材の1人になりたい、と。母から「メールありがとう。応援しているよ」と返事が届いた。両親とこうして「絆」を結び直すことができたことに新たに喜びを感じる。そして、ウィトゲンシュタイン的な「世界は私の意志から独立である」という言葉が示す別の真実の位相について考える。ぼくというちっぽけな脳、ちっぽけな人間の思惑を超えて広大な世界が外にあり、その世界にぼくは包み込まれている……なんだかスピリチュアルな響きのある考え方になってきたが、ぼくにとってはこれもまたリアルというかしっくりくる考え方だ。ぼくは1人ではない。ぼくの存在はぼくだけのものではない。それこそがこの世にぼくがいるという意味なのかなと思ってしまう。「とても大事な キミの想いは 無駄にならない 世界は廻る」(Perfume「ポリリズム」)。
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takahashicleaning · 8 months
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TEDにて
レラ・ボロディツキー:言語はいかに我々の考えを形作るのか
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
世界では、約7千の言語が使われており、それぞれに異なる音、語彙、構造を持っています。
でも、言語は、私たちの考え方に影響するのでしょうか?
認知科学者のレラ・ボロディツキーが、左右の代わりに方角を使うオーストラリアに住むアボリジニの言葉や、青を複数の語で言い分けるロシア語といった様々な事例を紹介し、この問いへの答えが「イエス」であることを示します。
ボロディツキーは言います。
「言語の多様性が素晴らしいのは、人の心が、いかに巧みで柔軟かを明らかにするからです。人間の精神は、認知的な宇宙を1つではなく、7千も生み出してきたのです」
私は言葉を使って皆さんにお話しします。
そうできますので。これは人間の持つ不思議な力のひとつです。とても複雑な考えを伝え合うことができます。
私が今しているのは、息を吐きながら口を使って音を作るということでかすれた音やはじける音を出し、それが空気を振動させ、その空気の振動が、皆さんのところに届いて鼓膜にぶつかり
その鼓膜の振動を脳が、思考へと変えるのです。
願わくは。そうなっていることを期待します。この能力のお陰で人間は自分の考えを時間や空間を越えて伝えることができます。
心から心へと知識を伝えることができるんです。
皆さんの頭に新しい変な考えを紛れ込ませることもできますよ。たとえば「図書館でワルツを踊りながら量子力学について考えているクラゲ」とか。
これまでの人生が、比較的順調だったならそんなことを考えたことはたぶんなかったでしょう。
でも、今、私が言葉を使って、皆さんに、そう考えさせたのです。
もちろん世界にある言語は、1つだけではなく7千くらいの言語が使われています。それぞれの言語は、様々な面で異なっています。
言語ごとに異なる音を持ち異なる語彙を持ち、そして重要なことに異なる構造を持っています。
そこで疑問が生まれます。話す言語は、考え方に影響するのか?これは古くからある疑問で人々は、このことをずっと考えてきました。
神聖ローマ皇帝、シャルルマーニュは「第2の言語を持つのは、第2の魂を持つことである」と言いましたが、これは言語が現実を作り出すという強い主張です。
一方で、シェイクスピアは、ジュリエットに言わせています「名前が何だというの?バラは別の名前で呼ぼうと変わらず、いい香りがするでしょう」
これは名前によって現実は変わらないと言っているように聞こえます。
この議論は何千年も続けられてきましたが、最近になるまで決着を付けられるようなデータがありませんでした。
でも、私のところを含め世界の様々な研究室で研究がなされるようになりこの疑問に答えられる科学的なデータが出てきました。
私の好きな例をいくつかお話ししましょう。まず私が研究する機会のあったオーストラリアのアボリジニの話から始めましょう。これはクウク・サアヨッレ族の人々です。ヨーク岬半島の西端のポーンプラーウに住んでいます。
クウク・サアヨッレ語の面白いところは、「左」や「右」という言い方はせず、あらゆることを東西南北の方角で言い表すことです。
文字通りに「あらゆること」を表します「あら、南西の脚にアリがいるわよ」みたいな言い方をするんです。あるいは「コップを少し、北北東にずらして」とか。
挨拶にしてもクウク・サアヨッレ語では「どちらの方に行くの?」と言い、それに対する答えは、「ちょっと北北東の方へ、あなたは?」という具合です。
考えてみてください。一日の中で会う人、会う人に向かう方角を言わなきゃいけないんです。
方角に鋭くなることでしょう、どの方角に向かっているのか分からないと挨拶もできないんですから。実際このような言語を話す人たちは、方角をとても良く把握しています。
かつて人間に可能だと思われていたよりもずっとです。生物学的な理由によりこの面で人間は、他の動物より劣ると思われていました。
人間は嘴や鱗に磁石がないからと。でも、言語や文化がそうすることを求めるならできるようになるんです。
世界には方角を本当によく把握している人々がいます。
これが、私たちのあり方といかに違うか分かるようにちょっと目を閉じていただけますか?では、南東を指差してください。
目は閉じたままで指差して、じゃあ目を開けていいですよ。皆さん、あっちを指したりこっちを指したりでどっちなのか私も分かりませんが
皆さん、あんまり助けになりませんでした。
どうも、この会場にいる人は方角には疎いようです。言語によって認知力に大きな違いが生じているということです。皆さんのようなグループでは、どっちがどの方角なのか分かりませんが、別のグループでは5歳児に聞いても正しい答えが返ってきます。
時間の考え方にも大きな違いがあります。これは私の祖父のそれぞれの年代の写真です。英語を話す人に時間順に並べてと言ったらたぶん、このように左から右へと並べます。
これは書く向きによるのでしょう。ヘブライ語やアラビア語を話す人なら逆向きに右から左へと並べるかもしれません。
さきほどお話ししたアボリジニのクウク・サアヨッレ族ならどうするでしょう?
彼らは「左」とか「右」という言葉を使いません。ヒントをあげます。南に向いているときは、左から右へと並べます。北に向いているときは、右から左へと並べます。東に向いているときは、向こうから手前へと並べます。
パターンが分かりますか?東から西なんです。彼らにとって時間の向きは、自分の体にではなく大地に対応したものなんです。
私の場合は、こちらを向いていたら時間はこう進み。こちらを向いていたら時間はこう進み。こちらを向いていたら時間はこう進むという具合にずいぶん自己中心的ですよね。
体の向きを変えるとそれに従って時間の進む方向も変わるなんて。でもクウク・サアヨッレの人たちには、時間の向きは固定されています。時間に対して、とても異なった考え方をしているんです。
これは人間の巧みな技の別の例ですが、ここにペンギンは何羽いるでしょう?
皆さんが、この問題をどう解くか分かります「1、2、3、4、5、6、7、8」と数を数えてそれぞれに番号を付けていき最後の番号がペンギンの数になります。
これは子供の頃に教わったやり方です。みんな数について教わりその使い方を学びました。ちょっとした言語的技術です。
言語によってはこのようにはしません。正確な数を表す語がないためです「7」とか「8」という語がないんです。
数がない言語を話す人たちは、正確な量の把握が苦手です。たとえば、このペンギンたちと同じ数のアヒルを結びつけるように言ったら皆さんは数えることでそうするでしょうが、そのような言語的技術を持たない人にはそれができません。
言語によって色の見分け方。視覚的な世界も違います。
色を表す言葉が、沢山ある言語もあれば「薄い色」「濃い色」みたいなわずかな言葉しかない言語もあり、色の境界をどこに置くかも異なります。
たとえば、英語なら今、画面に出ている色すべてを指す「blue」という語がありますが、ロシア語では、そのような単一の語はなくロシア語の話者は薄い青「goluboy」と濃い青「siniy」を区別する必要があります。
ロシア人は生涯にわたって言語的にこれらの色を区別するのです。視覚的にこれらの色を区別する力をテストするとロシア語話者は、この言語的な境界を越えたことにすぐ気付きます。
青の濃さの違いをより素早く見分けられるんです。色を見ている人の脳を観察してみると、色が薄い青から濃い青へとゆっくり変化するとき薄い青と濃い青に別の語を使う人の脳は、青の濃さが変わるときに驚いたような反応をします。
「おや、何かが切り替わったぞ」と。でも、たとえば英語話者の脳だとこの切り替わりがなく驚きはありません。何も切り替わってはいないからです。
言語には構造的に奇妙な点がいろいろあります。
これは私の好きな例ですが、多くの言語に文法上の性があります。それぞれの名詞に男性か女性かが、割り当てられていますが、どちらの性別かは、言語によって異なります。
たとえば太陽は、ドイツ語では女性名詞ですが、スペイン語では男性名詞で月はその逆です。
これは人の考え方に影響を及ぼすのでしょうか?
ドイツ語話者は、太陽をより女性的なものとして月をより男性的なものとして見るのか?
実は、そうであることが分かります。ドイツ語話者とスペイン語話者にここにあるような橋を形容してもらうと
「橋」は文法上、ドイツ語では女性名詞。スペイン語では男性名詞なんですが、ドイツ語話者の場合「美しい」とか「優雅」といった女性的な言葉を使う傾向があり
一方でスペイン語話者の場合「力強い」とか「長い」といった男性的な言葉を、使う傾向があります。
言語によって出来事の言い表し方にも違いがあります。このような出来事、事故があったとき、英語では「彼は壺を壊した」と言って構いませんが、スペイン語のような言語では「壺が壊れた」という言い方のほうが普通です。
事故であれば誰がやったとは言わないのです。英語では奇妙なことに「I broke my arm.」(私は自分の腕を折った)、みたいな言い方さえします。
多くの言語では、このような言い方は、その人が狂っていて自分の腕を折ろうと試み、それに成功したというのでもなければ使えません。事故であれば、別の言い方をします。
これには現実の結果が伴います。異なる言語を使う人は、注意を向ける点が異なります。注意を向ける部分が、言語によって異なるためです。
だから同じ事故を英語話者とスペイン語話者に見せたとき、英語話者は誰がやったのかをよく覚えているでしょう。英語では「彼が」壺を壊した。という言い方をするためです。
だから訴訟関係に厳しくなる?
一方でスペイン語話者は、それが事故なら誰がやったのかはあまり覚えておらず「それは事故だった」ということをよく記憶しているでしょう。
情熱的なラテン系に見えるのはこのため?
意図的かどうかという点を覚えているのです。すると2人の人が、同じ出来事、同じ犯罪を目撃しても記憶している内容が違うということが起きます。
もちろん、これは目撃証言では大きな意味を持ち責任や罰ということにも影響してきます。
誰かが壺を壊した場面を英語話者に見せて「壺が壊れた」ではなく「彼が壺を壊した」と説明するならそれを自分の目で映像として壺に対する犯行の場面を見られる場合でも「壺が壊れた」ではなく「彼が壊した」と言われると
その人を非難し、責任を問うことになりやすいでしょう。物事についての論理的思考にも言語は影響するのです。
だから訴訟関係に厳しくなる?
言語が人の考え方をいかに形作るかという例をいくつか紹介しました。
その影響の仕方はいろいろあります。大きな影響を言語が及ぼし得ることは、時間と空間の例で見た通りです。
時間や空間の捉え方は、言語によってまったく異なり得ます。言語には、とても深い影響もあって数の例で見た通りです。
数えるための言葉、数を表す語があることで数学の世界が開けます。
カントも同じことを言っています。
数えないなら計算もできず、この会場のようなものを建設したり、この放送をしたりするのに必要なことが何もできないでしょう。
世界共通言語とも言える数を表す語というちょっとした仕掛けが、新たな認知的世界への足掛かりになるのです。
とても早くからの影響も言語にはあり、それを色の例で見ましたが、本当に単純で基本的な、知覚的判断です。
そういう判断を私たちは、日常的に数多く行っていますが、そんな細かな知覚的判断にも言語は影響しているのです。
とても広い影響を言語は及ぼし得ます。
文法的な性の例は、たわいもないものに見えるかもしれませんが、それは、すべての名詞に適用されるわけですから名詞で表されるあらゆるものの考え方に言語が影響することになります。すごく沢山ありますよね。
そして、何に重きを置くかにも言語は影響するという例を示しました。
責任や罰や目撃者の記憶に関わる話で日常生活で大事なことです。
言語の多様性が素晴らしいのは、人の心がいかに巧みで柔軟かを明らかにするからです。
人間の精神は認知的な宇宙を1つではなく、7千も生み出しています。
世界には7千の言語があります(哲学で言われるように7千の同時並行世界があるとも言えます)もっと作ることもできます。
言語は生きているものであり、必要に応じて磨きをかけ変えていけるものです。
残念なことに私たちは、この言語的多様性を失いつつあります。週に1つの言語が失われており、今後百年間で世界の言語の半数が失われると見られています。
さらに問題なのは、現在の人間の心や脳についての知見の多くが、英語話者のアメリカ人学部生を被験者にした研究に基づいていることです。
人類のほとんどが除外されているわけです。人間の心について分かっていることは、実のところ非常に狭く偏ったものであり科学はもっと良い仕事をする必要があります。
最後に皆さんに、考えてほしいことがあります。
異なる言語の話者がいかに違った考え方をするかという話をしましたが、これは他所の人がどう考えるかということではなく、皆さんがどう考えるかということ。
皆さんの使う言語が皆さんの考え方にいかに影響するかということです。
プロパガンダ装置のTV局やマスメディアが言葉の定義を決めて世の中に発信しなければいけない理由です。
プロパガンダ装置のTV局やマスメディアが言葉の定義を決めて世の中に発信しなければいけない理由です。
プロパガンダ装置のTV局やマスメディアが言葉の定義を決めて世の中に発信しなければいけない理由です。
これは自問する機会を与えてくれるでしょう。
「なぜ自分は、こんな考え方をするのか?」
「どうすれば違った考え方ができるだろう?」
あるいはまた「どんな考えを生み出したいと思うか?」
ありがとうございました。
ここまでは、ソシュールの「一般言語学講義」から始まり・・・
プログラミング言語もこの哲学から発展しています。
そして、その後は・・・
ウィトゲンシュタインの発見がキッカケです。
ウィトゲンシュタインは、哲学を創造的破壊した人です。2000年もある哲学自体を意味のないものとしてしまった。「論理哲学論考」で「語り得るもの」と「語りえないもの」の判別を見極めること。
「言語の限界」は「知識の限界」そして、「世界の限界」の判別を見極めること。で事実をそのまま表現しない言葉は、誤りではなく、意味がないということに初めて気づいた人です。
量子論のコペンハーゲン解釈に似ています。
2018年現在では、サピエンスは20万年前からアフリカで進化し、紀元前3万年に集団が形成され、氷河のまだ残るヨーロッパへ進出。紀元前2万年くらいにネアンデルタール人との生存競争に勝ち残ります。
そして、約1万2千年前のギョベクリ・テペの神殿遺跡(トルコ)から古代シュメール人の可能性もあり得るかもしれないので、今後の「T型オベリスク」など発掘作業の進展具合で判明するかもしれません。
メソポタミアのシュメール文明よりも古いことは、年代測定で確認されています。古代エジプトは、約5千年前の紀元前3000年に人類最初の王朝が誕生しています。
<おすすめサイト>
マーク・パーゲル:言語能力が人類に与えた影響について
ユバル・ノア・ハラーリ:人類の台頭はいかにして起こったか?
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ogawa-xd · 1 year
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「デザインと哲学」
Facebookグループを作ったときのリード文と招待文。 https://www.facebook.com/groups/484038026926003
「デザインと哲学」というグループをはじめました。関心のある方はお気軽にご参加ください。
デザインも哲学も、どちらもわかりにくいので、これを掛け合わせるとさらにややこしいものになりそうですし、どこまで話題が広がるかわかりませんがとりあえず楽しんで進めたいと思います。このグループは、責任感とか義務感あるいは使命感からはじめるわけではなく、まさに楽しいからはじめたということを忘れないでいたいと思います。
主催者はデザイナーなのでデザインは専門ですが、哲学は素人ですので哲学についての内容の正確性はあまり保証できません。まちがいがあれば指摘していただけるとうれしいです。
■はじめに■
1. 哲学という行為
哲学という行為は、「ほんとうはどういうことなのか?」と物事を追及していく行為 です。
自分でも長いあいだ、哲学とは何か、といろいろ考えてきたのですが、これが一番しっくりくる言い切り方だと思います。目から鱗、コロンブスのタマゴ、みたいな。最大限大きく哲学行為をとらえるとそういうことになる。
また哲学が対象を問わない、というのは面白いところです。だからどういうことについても哲学を問えます。問えそうにもない場合には、なぜ問えないのか? という子供のような切り返しもできます。もうこれ以上問いようがない/問うてもしかたない、ということになるとそこで哲学は終わりになります(ウィトゲンシュタインという哲学者はそう言っています、たぶん)。
哲学が「問い」の学といわれるのは、このようなことだろうし、また哲学ではしばしば「真理」というものが議論になるわけですが、これは平たくいえば「ほんとうはどうなの?」と問うていることになるのでしょう。
このことばは、貫成人(ぬきしげと)という哲学者のことばですが、この方とは波長が合うのか、どの本を読んでも胸落ちします。たぶん気づきの元となる体験や体験を受けとめる感性が似ているのだろうと思います、年齢も近いし。ほかの人にもピンとくるかどうかはむずかしいところですけれど。
2. 哲学ということば
哲学は「知の学」でなく「愛知の学」である、というソクラテスのお話しは有名なのでここでは割愛します。一般的によく使われる「哲学」には、たとえば野球やサッカーの名監督の「野村哲学」とか「オシム哲学」みたいなのがあります。デザインについても、「誰々の(何々派の)デザイン哲学」とよくいわれます。「○○イズム」といういわれ方もしますね。自分はあまり言いませんが。
それらはどういう意味か? その監督やデザイナーがその人独自の一本芯の通った一貫性のある考えやスタンスの元でブレずに采配をくだしたり、ものづくりをしている、ということだろうと思います。それはおそらく彼らが実践のなかでつかみ取った「ほんとう」の野球やサッカー、デザインのエッセンスなのでしょう。
けれどここでは、「マイ・デザイン哲学」といった個人や個性に収束する「哲学」を語ろうとは考えてはいません。「わたしのデザイン哲学の理由」ならOKという気はします。
ということで、そういう哲学ではなく、いわゆる学問分野としての「哲学」とデザインについて考えていきたいと思います。ここで敷居がぐっと上がったかもしれませんね。
3. 哲学という学問
哲学は確かに難解で、いったい何の役にたつのかと、自分でもあまりに理解できなくて頭にくることはよくあります。どちらかというとわからないことの方が多いくらい。でも自分は、哲学は役に立つべきだと考えています。自分が学んで役に立たないようなら、その哲学は、少なくとも自分にとって学ぶ意味がないと考えてよいと思います。
4. デザインと哲学
では今、なぜ「デザインと哲学」なのでしょうか? その位置関係はどのようなものでありうるでしょうか。
自分が大学でデザインを学んだ4~50年前は、デザインを教えている大学は数えるほどでしたが、いまや多くの大学でデザインに関連する学部や学科があります。高校でもデザインに関する授業が始まっています。また公的な活動の指針にも、大きな会社の目標ステートメントの中にもデザインということばが踊っています。でもみなわかったような顔をしていますが、話しを聞くとその内容には大きな振れ幅があるように感じます。
またコンピュータのおかげもあって、デザインの技術的なスキルは日々確実に進歩しているように見えますし、それら技術や「やり方」にかんする情報もあふれています。ということでデザインの意味はどんどん拡散しているといえるでしょう。
もちろん拡散するものなら拡散すればよい、という話しもありますが、しかしまさに「デザインするって、ほんとうはどういうことなの?」という哲学的な問いが抜け落ちているように感じますし、そのことが自分の頭の中からはなれません。年齢のせいかもしれませんが、とにかく自分は問うてみたいと思うのです。もちろんそれをするのが楽しいからです。
哲学が現代のわたしたちの���ザインに直接的な答えを教えてくれるわけではありませんが、デザインとよく似た形の問題を哲学の中にみることはできますし、哲学の中にデザインの問いを考えるヒントはたくさんあると感じます。
また逆に、デザインという問題へのアプローチが、哲学に新しい光を投げかける可能性(の手触り)をなんとなく感じたりもしています。
これらの理由の一つは、どちらも「人」を主たる考慮要素にもっているという点があります。古代ギリシアのはじめの哲学者タレスらの主題は「世界/自然」はどうなっているのか、でした(自然学者)。そしてその少しあとのアテナイのソクラテスが「人の問題」として哲学を再定義しました。自然や世界についてはやがて「自然科学」へ枝分かれしていきますが、その分節点が「人」です。そしてデザインもまた「人」は欠かせない要素です。
つまりデザインも哲学も、どちらも根底に「人とはほんとうは何か」「人のふるまいとはほんとうはどういうことか」という問いを共有しているということです。
ということで、「デザインと哲学」です。
221202
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ryotaroishihara · 4 months
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写像論的作品解釈の構造と音楽への実践 (2024)
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要旨:
当論文の目的は作曲行為及び制作における「素材」そして「作品」の関係性を解体、観察し、楽曲および作品のもつ構造上の性質を共時的な立場から明るみにすることを試みるものであり、これは全4章から成り立っている。
第1章ではその目的に対する検証方法やその方法論的根拠を解説し、この論の全体的な方向づけと位置付け、つまりこの論自体の「座標」を思案する。なおその方向づけとは、楽曲ならびに「作品」を見る上での共時的な立場に寄与することであり、また位置付けとはある種の方法論的な無秩序を前提としながら、そこに何らかの方法をもたらすことにより、あるパースペクティヴを見ようとするものである。
第2章ではルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインLudwig Josef Johann Wittgenstein 1889-1951の前期著作、『論理哲学論考』(Logisch-Philosophische Abhandlung, 1921)において示される「映像がもつ描写の形式」のコンセプトを参照しながら、「素材(マテリアル)」、「素材定項(マテリアルコンスタント)」、「定義定項(ディファインコンスタント)」などからなる作品の「見方」を提出し、具体的な演繹的基盤を措定する。またこの基盤を用いた分析として、フェルディナン・ド・ソシュールFerdinand de Saussure 1857-1913に関する文献を参照しながら素材(マテリアル)の「表徴度」、素材定項(マテリアルコンスタント)の「形式度」からなる座標上に楽曲の構造上の性質を分類する方法を提案する。また補足のセクションでは「メディウム」、「素材のエンジニアリング/ブリコラージュ」、「定義のエンジニアリング/ブリコラージュ」、および「要素関数性作品」と「窓さ」などの、このパースペクティヴから導き出される概念を定義、考察する。
第3章では措定された第2章において示された整理方法を実際に用い、実例分析に入る。この際、第2章で提示された諸概念が、作品においていかに適用されるかについて、実例を用いながら示す。また筆者が制作した楽曲も分析の対象とした。
第4章では以上の検証の振り返りを行う。
<分析対象作品>
銅金祐司・藤枝守《Ecological Plantron》
W.A.モーツァルト《Musikalisches Würfelspiel》(K.516f)
ピーエル・アンリ《Variations pour une porte et un soupir》 – Balancement 1
石原遼太郎《Synthesis of three-voice polyphony with camera input》
石原遼太郎《Snaps I》
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mreiyouscience · 2 months
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コミュニケーションとは何か?~情報伝達としてのコミュニケーション的行為の二項対立を超えて~
 僕とウィトゲンシュタインとの出会いは浪人中の最中であり、論理哲学論考というタイトルに思わず惹かれて書店で手に取ってしまうようなどうしようもない浪人生でした。
 さて、この”青本”はウィトゲンシュタインが言語哲学から転じて言語ゲームを提唱した言わばターニングポイントと呼べるような歴史的に非常に重要な位置づけにあると思います。しかし、その重要性を加味しつつも、やはり、コミュニケーションに対して非言語的なシグナルを捨象して言語的なシグナルに留まっている点が残念でなりません。とはいえ、言語的コミュニケーション vs 非言語的コミュニケーションといった二項対立はいささか古臭く感じ、これらをどのように結び付けられるかが今後言語学で重要になってくるかと思います。
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