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#論理哲学論考
straycatboogie · 10 months
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2023/07/08
BGM: New Order - World in Motion
ぼくはウィトゲンシュタインから哲学のイロハを学んだ。いや、生きる方針やライフハックを学んだと言ってもいい。彼は『論理哲学論考』の中で「世界は私の意志から独立である」と書いている。これをアンポンタンなぼくなりに噛み砕くと、「ぼくがどう考えようがそれとは関係なく世界は動く」となる。この考え方がぼくには実にしっくりくる。というのは、ぼくは高校生の頃にまさにこのウィトゲンシュタイン的な体験をしたからだ。ぼくは当時、好きな音楽の話をシェアしたいと思って放送部に入った。でも、そこで部員全員からおみそにされて、まったく嫌われるという経験をした。ぼくは何か嫌われるようなことをしたのだろうか。思い出せない。ぼくの立ち居振る舞いや音楽のセンスが引き金/トリガーとなって、ぼくにいかなる釈明のチャンスも与えられずに嫌われ者にされてしまう経験をしてしまった……そのことが今でも実はトラウマとなって残っていて、「何かしくじればまたみんなぼくの元から去ってしまう」と、まるでナイン・インチ・ネイルズの歌詞みたいに絶望的なことを考えてしまうのである。何かしくじれば、みんな去っていく。そして、ぼくはいかなることも弁明できず独りぼっちにされてしまう……。
だから、ぼくは「いじめに打ち克つ強さ」「いじめに負けない心」といったものを信用しない。暴力的な手段で跳ね返していじめに勝つという発想はぼくのようなひ弱な人間にはリアルじゃないと思ってしまうし(それにそうして「跳ね返す」と、「結局暴力でしかいじめは解決できない」という教訓を得て「力で人をねじ伏せることはいいことだ」と味をしめてしまうのではないかと危惧する)、あるいは自分だけの世界に閉じこもってやりすごしていじめを耐え抜くという解決方法もなんだかリアルじゃないとも思ってしまう。孤独を生き抜きいじめに打ち克つと、そこから結局他者とのコミュニケーションによって育まれるべき自尊感情が育たなくなってしまう。ぼくの場合は大学に入ってからもなかなか人に心を開くことができず、上に書いたこととつながるけれど「相手に嫌われているのではないか」「この人もいつかぼくから離れていくのではないか」と思ってしまってそれで友だちを作れず、したがって鬱をこじらせるしかなく苦しい時期を過ごした。ようやくいじめから解放されたのに、ぼくのマインドはズタズタにされたままだった。
そして今……今はこうしていろいろな人とつながることができている。そしてその人たちがぼくを見放すことはないだろう、と確かに信じられる。ぼくは完全無欠ではないので失敗もするし、ブザマな姿も晒す。でも、ぼくの友だちはぼくのことをわかってくれる。そこにぼくは確かな「絆」を感じる。「そのままのあなたでいい」……そんなメッセージを感じる。だから、ぼくは安心してブザマな自分自身をそのまま晒して恥をかくこともできる。そうして失敗しても、確かに「やっちまった」と思うこともあるけれど、でもみんなぼくを全否定したりしないとわかっているからだ。この「絆」……いや、証書を書いたわけではないからぼくたちはいちいち「絆」の存在を確かめ合って生きるわけではない。だから確率的なことを言えば明日その「絆」を反故にされて絶交される可能性だってゼロではない。現にぼくはそんな不条理に悩んできた……でも今は、ぼくはそんなことを心配したりしない。可能性の話をすれば「ぼくの心臓がある日突然止まる可能性」だってゼロではないけれど、それでもぼくは「あえて」楽しく生きることを選ぶ。それと同じで、あれこれ思い悩むより「ケ・セラ・セラ」の精神で「とりあえず」成り立っている「今」を楽しみたいと思う。
今日はダラダラと過ごしてしまった。サルトル『嘔吐』の読書も進まず、映画も観られず(アマプラで観られるらしいブライアン・ウィルソンについての映画を観たいと思っているのだけれど)。夜に両親にLINEで、「橋になりたい」という自分の夢について話す。この町と世界をつなぐ人材の1人になりたい、と。母から「メールありがとう。応援しているよ」と返事が届いた。両親とこうして「絆」を結び直すことができたことに新たに喜びを感じる。そして、ウィトゲンシュタイン的な「世界は私の意志から独立である」という言葉が示す別の真実の位相について考える。ぼくというちっぽけな脳、ちっぽけな人間の思惑を超えて広大な世界が外にあり、その世界にぼくは包み込まれている……なんだかスピリチュアルな響きのある考え方になってきたが、ぼくにとってはこれもまたリアルというかしっくりくる考え方だ。ぼくは1人ではない。ぼくの存在はぼくだけのものではない。それこそがこの世にぼくがいるという意味なのかなと思ってしまう。「とても大事な キミの想いは 無駄にならない 世界は廻る」(Perfume「ポリリズム」)。
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copyoffice · 8 months
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慶應義塾高等学校野球部 部訓 日本一になろう。日本一になりたいと思わないものはなれない Enjoy Baseball(スポーツは明るいもの、楽しいもの) 礼儀正しくあれ。どんな人に対しても、どんな場にあっても、通用するのは人間性。一人一人の人間性が慶応義塾の評価を決める。挨拶は人との最初の勝負。 自分一人で生きていると思うな。自分一人で野球をやっていると思うな。周りの者に感謝の気持ちを持て。感謝の気持ちは「ありがとう」世の中にそれほど以心伝心はない。言葉は使ってはじめて活きる。 時間厳守。組織が成り立つ、人の信頼を勝ち取る最大の武器。 個と全。グランド出たら個人の技術、精神力を高めるための最大の努力をせよ。そして同時にチーム全体の流れ、ムードを考えてプレーせよ。1人1人がキャプテンだと思っているチームのみが勝つ。自分がやって50、人をやらせて50。 他人の悪口を言うものの周りにはいつも悪口ばかり言っている者が集まる。自分の不運を嘆く者の周りにはいつも同じ類が集まる。結果とは関係なく自分のやっている事にプライドを持て。君は誇り高き我慶應義塾の同志だ。 グランド、用具は大事に。最後に神様が微笑んでくれる。 闘争心を持て。ただし相手を口で罵倒するような事はやめよう。相手の好プレーには拍手を送ろう。 グランドでは上級生、下級生は対等。しかし下級生は上級生に敬意を払い、上級生は下級生に色々と教え、叱り、同時に模範となる練習態度、学業態度を示せ。 理論武装をせよ。君達は将来の指導者だ。子供たちに正しい事を教えるために、ルール、技術論、フォーメーション、勝負哲学、体の構造、医学知識、栄養学、運動力学を知れ。慶応義塾は「身・技・体・学・伝」 返事はただ。広いグランドでは大きな声と動作がコミュニケーション。 凡人は習慣で1日を送る。天才はその日1日が生涯である。毎日が本番。大会前だけ盛り上がって全国制覇ができるか。泥棒に練習試合はない。 今の自分を許すな。自分のプログラミングが出来ない人間が負ける。 文武両道。カッコイイ生き方をしたいな。 自分の評価は自分でしろ。人の目、人の評価を気にしてばかりいるとパイプが詰まる。 自分がどんなに頑張っててもダメという相手でも、絶対に負けるのを嫌え。勝ち負けの勝負にはとことんこだわれ。負けても淡々としている奴は勝てない。早すぎるんだよ切り替えが。30対0で負けていても逆転すれば世間はそれを奇跡というんだ。自分で自分の逃げ道を作るんじゃねえ。 (コツコツと真面目だけじゃ我慢できない。とことん勝負師) 男は危機に立って初めて真価が問われるものだ。チームもここぞで点をやらなきゃいいんだろ。最後は勝てばいいんだろ。 雨と風と延長とナイトゲーム、そして決勝戦には勝つ エンドレス(いつまででもやってやろうじゃないか)
部訓 - 慶應義塾高等学校 野球部
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rabbitboy · 7 days
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1: 〇(東京都) [JP] 2024/04/17(水) 15:20:42.42 ID:j6+6HxA80● BE:393671931-2BP(2000) 最新の筋トレの科学 ・筋トレの頻度は高いほど筋肥大の効果が高い。毎日やるのが最高。 ・セット数は多ければ多いほど筋肥大の効果が高くなる。 ・筋トレでオーバートレーニングになることはほとんどない。 ・筋肉痛は筋肉の損傷とは関係ない。筋肉痛があっても筋トレをした方がいい。 ・筋トレを長期間続けて疲れがたまっていると���じるのは、飽きた、やる気がなくなったなどの精神的な理由。 ・高負荷低回数の筋トレより低負荷高回数の筋トレの方が筋肥大する。 ・筋肉を意識すると挙げられる重量が下がる。 ・フリーウエイトもマシンも筋肥大の効果は同じ。 ・筋トレ後30分以内にたんぱく質を摂取しても、ほかのタイミングで摂取する場合と比べて効果は変わらない。 ・寝る前のたんぱく質摂取は睡眠の質を下げる。 ・まとめて食事を摂取しても小分けにして摂取しても筋肥大に差はない。 ・たんぱく質と炭水化物を同時に摂取しても、たんぱく質だけ摂取する場合と比べて筋肉の合成に差はない。 ・EAAは値段が高いだけで効果はプロテインと同じ。 ・筋トレ前に炭水化物を摂取しても筋トレのパフォーマンスは上がらない。 ・空腹で運動しても筋肉は分解されない。 ・1日16時間絶食しても筋肉は分解されない。 SmithMachineBenchPress 16: 警備員[Lv.2][新][苗](長崎県) [JP] 2024/04/17(水) 15:30:21.86 ID:KIcH2jGN0 「最新の論文」は批判的考察がまだされていない 新しいから正しいなんてことはなくむしろ危ない
【悲報】最新の筋トレの科学、過去の常識をことごとく否定してしまう。:哲学ニュースnwk
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taizooo · 2 months
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ヘアは戦地の捕虜収容所で、サルトルは占領下のフランスで、この世に与えられた意味はなく、すべての価値は本来無価値な世界に、孤独な主体が与えるものだと考えた。第一次世界大戦への従軍中に『論理哲学論考』をまとめたウィトゲンシュタインも、同様に考える。戦争を典型とする非常時の下では、すべての価値は剝奪される。あらゆる価値は主体が自ら選択し、無価値な世界に与えるしかない。しかしそれは戦地での、より一般化すれば非常時での生き方である。通常時の生き方とは異なる。人は一人きりで生きてはいない。人々が共に棲まう日常世界では、人は所与の生活様式を当然の前提とする。
【憲法学の散歩道/長谷部恭男】 第37回 価値なき世界と価値に満ちた世界 - けいそうビブリオフィル
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ryotarox · 2 months
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パレルゴン/エルゴン | 現代美術用語辞典ver.2.0
パレルゴン/エルゴン Parergon/Ergon
いずれもギリシャ語を語源とし、エルゴンは「作品」、パレルゴンは「作品の外、付随的なもの、二次的なもの」などを意味する。
伝統的には、作品そのもの、ないし作品の本質に相当するエルゴンに対し、パレルゴンはあくまでもその外的かつ非本質的な付随物にすぎないと考えられるのがつねであった。しかしフランスの哲学者ジャック・デリダ(1930-2004)は、『絵画における真理』(1978)に所収の論考「パレルゴン」において、この両者の主従関係を大胆な仕方で問い直した。
パレルゴンは、その名が示すとおり、エルゴンの完全な外部ではなく、むしろ「エルゴンergon」の「傍らにpara-」位置するものである。たとえば絵画作品の場合、「額縁」こそ絵画にとってのもっとも重要なパレルゴンにほかならない。作品が作品であることを枠づけ、作品を作品として屹立させているものこそが額縁(=パレルゴン)なのである。
それに加えて、カントの『判断力批判』(1790)に代表される芸術や趣味についての理論は、われわれがエルゴン(本質的なもの)とパレルゴン(非本質的なもの)を明確に峻別できるということを前提としているが、こうした前提一般がそもそも疑わしい。
カントは、パレルゴンの例として「額縁」のほかに「彫像の衣服」「建築物の列柱」を挙げているが、実際にはこのエルゴン/パレルゴン、本質的/非本質的という区別そのものが問いに付されるべきだ、とデリダは主張するのである(事実、彫像の肉体と衣服、建築物の構造と列柱は明確に峻別できるたぐいのものではない)。
デリダによる上記のような「エルゴン/パレルゴン」の問い直しは20世紀末の美術界にも少なからぬ影響を与え、結果としてこの「パレルゴン」という概念は、1980年代以降の美術批評や展覧会などにおいてしばしば参照される重要な参照項のひとつとなった。
イマヌエル・カント(Immanuel Kant) ジャック・デリダ(Jacques Derrida)
絵画における真理 | カーリル
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yoga-onion · 1 year
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Legends and myths about trees
Celtic beliefs in trees (5)
Druids - Immortality of the spirits
The Celts worshipped nature, especially trees. They set aside a place surrounded by trees and nature as a sanctuary, which they called 'Nemeton'. Religious ceremonies were officiated by druids and took place in sanctuaries with oak trees, the trees most venerated by the Celts.
The druids were adept at magic and witchcraft, had the ability to foretell the future. They had specially recognised privileges and the inhabitants of the community did not go against the decisions of the druids.
We do not know with certainty what their doctrines (Druidism) were, as the druids placed great emphasis on oral tradition and left no written records. We can rely on the Greek and Roman classical writers:
According to Posidonius (135-51 BCE, Greek politician, philosopher and historian), “the Celts believed that the human soul is immortal and that the soul moves to another body and lives another life”. Strabo ( 64 or 63 BCE – c. 24 CE)  also notes that the Druids' “the human soul and the world are immortal. But sometimes fire and water prevail", recording a similar idea to Pythagoras.
The Pythagorean doctrine prevails among the Gauls' teaching that the souls of men are immortal, and that after a fixed number of years they will enter into another body.
Caesar made similar observations:
The main object of all education is, in their opinion, to imbue their scholars with a firm belief in the indestructibility of the human soul, which, according to their belief, merely passes at death from one tenement to another; for by such doctrine alone, they say, which robs death of all its terrors, can the highest form of human courage be developed. Subsidiary to the teachings of this main principle, they hold various lectures and discussions on the stars and their movement, on the extent and geographical distribution of the earth, on the different branches of natural philosophy, and on many problems connected with religion.
One cannot help but think that at the heart of Druidism was the theory of the 'immortality of the spirit'.
If the Druidism is valid, then there would be a mixture of people around us today who have inherited the spirit of the ancient Druids as various other lives all over the world. For example, a star football player who gives people hope for life or ....... maybe just a tea lady.
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木にまつわる伝説・神話
ケルト人の樹木の信仰 (5)
ドルイド〜霊魂の不滅
ケルト人は自然、特に樹木を崇拝した。木々と自然に囲まれた地を聖域として確保し、「ネメートン」とと呼んだ。宗教的儀式はドルイドが司祭となって、ケルト人が最も崇拝した樹木であるオークの木のある聖域で行われた。
ドルイドは魔法や呪術に通じ、未来を予言する能力があった。彼らは特別に認められた特権をもち、共同体の住民は、ドルイドの決定に逆らうことはなかった。
ドルイドは口承を重視し、文字記録を残さなかったので、ドルイドたちの教義 (ドルイディズム) がどのようなものであったか確実なことはわからない。ギリシャ・ローマの古典作���たちに頼れば:
ポシドニウス (紀元前135~51年、ギリシャの政治家・哲学者・歴史家)によれば「ケルト人は人間の魂は不滅であり、魂は別の体へと移り、別の生を生きる」と考えた。また、ストラボン (紀元前64年または63年 - 紀元24年頃) は、ドルイドの「人間の魂と世界は不滅である。しかし、時に火と水が勝つことがある」というピタゴラスと同じような考えを記録している。
ピタゴラス学派の教義はガリア人の間で広まっており、人の魂は不滅であり、一定の年月が経てば別の肉体に入るという教えである。
シーザーも同様の考察をしている:
あらゆる教えの主目的は、彼らの意見によれば、人間の魂の不滅性に対する確固たる信念を学者に植え付けることであり、それは彼らの信念によれば、死によって一つの天幕から別の天幕へと移るにすぎない。なぜなら、死の恐怖をすべて取り除くこのような教義によってのみ、人間の最高の勇気が育まれると彼らは言っている。この大原則の教えに付随して、彼らは星とその動き、地球の広さと地理的分布、自然哲学のさまざまな分野、宗教に関連する多くの問題について、さまざまな講義や討論を行っている。
ドルイドの教義の中核には「霊魂の不滅」説があったと思わざるを得ない。
もし、このドルイドたちの教義 (ドルイディズム) が有効であるならば、現代の私たちの周りにも、古代ドルイドの精神を受け継いだ人々が、世界中のさまざまな生として混在していることになる。たとえば、人々に生きる希望を与えるサッカーのスター選手とか...... あるいは、ただの給仕係のおばさんかもしれない。
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ari0921 · 5 months
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我が国の未来を見通す(94)
���強靭な国家』を造る(31)
 総括「『強靭な国家』を造る」(前段)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに──「『強靭な国家』を造る」を総括す
るにあたって
 「『強靭な国家』をいかに造るか」というテーマ
で20回にわたり延々と書いてしまいました。すべ
てが「強靭な国家」を造るという“「大目的」のた
め”ということから、あえて、毎回のテーマを変え
ないまま書き綴った結果でした。
改めて読み直してみますと、あくまで私の“独りよ
がり”ではあるのですが、“「強靭な国家」を造る
ことがいかに大変なことか”について再び考え込ん
でしまいます。
卑近な例をとりあげますと、現在ハマスと戦争の最
中にあるイスラエルは、日本などと比較して、20
00年にも及ぶ長い間、国を挙げてあらゆる分野で
「強靭な国家」造りを最優先して実行し続けてきた
国家であり、(すでに触れたような)その“強さ”
は、昨日今日に出来あがったものではありません。
しかし、そのようなイスラエルであっても、今回の
ような事態を招く結果になってしまいました。ハマ
ス側からすれば、10月8日の奇襲攻撃に対する報
復が、現時点において1万5千人以上の犠牲者を含
むガザ地区の壊滅に至ったわけですから、人質交換
のための一時的な停戦合意は継続していても、その
後の展開が不明であることを考えると、“割に合わ
ない、とんでもないことをしでかしたものだ”と思
ってしまいます。
イスラエルの“非情”ともいえる作戦は、単に報復
に留まらず、“この機会にハマスを壊滅する、少な
くとも、未来永劫にハマスに手出しをさせない”と、
本来の戦略に立ち返ってこれまで以上に“強い決
意”をもって作戦を遂行した結果でしょう。それこ
そが、これまでもそうであったように、将来のため
に「強靭な国造り」をめざすイスラエルという国の
“生き様”であり、「国の形」であると私は考えて
います。
我が国にあっては、明治維新に「富国強兵」「殖産
興業」という「国家目標」を打ち立て、迫りくる西
欧諸国の脅威に立ち向かうことを主目的に、まさに
“強靭な「近代国家」”を造ることを目指してきま
したが、幾多の戦争や大震災、世界恐慌の影響など
を経て、ついには「大東亜戦争」を招く結果となっ
てしまいました。
「歴史は物語である」「歴史は検証できない」とは
東洋史学者・岡田英弘氏の名言ですが、“仮に日本
が明治初期に「富国強兵」などを唱えず、「近代国
家」を目指さなかったら、その後の歴史はどうなっ
たであろうか”については検証できないのです。
しかし、18世紀後半、地球の85%を支配した西
欧諸国の植民地主義の拡大、その中でイギリスをは
じめとする西欧諸国に割譲されるという形で独立を
失った「清」の例などを見れば、明治以降の我が国
の「国の形」が相当違っていただろうということは
容易に想像できます。
現在から先の「未来」についても同様のことが言え
るでしょう。“歴史の大きな転換点にある現時点”
において、私たちが、後世のために未来起点のアプ
ローチに基づき、さまざまな手段を行使して“「強
靭な国家」造り”を目指そうとする場合と、逆にそ
のような努力を怠る場合とでは、我が国の「未来図」
を大きく変わることは疑いようがないのです。
昭和16年、日米開戦に至る一連の交渉のなか、9
月6日の御前会議で、海軍軍令部総長・永野修身が
「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬと
すれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族
永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するな
らば、たとえ戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、
われらの子孫はかならず再起三起するであろう」と
発言されたとの記録が残っています(フィクション
だったという説もありますが)。
残念ながら、そのような精神は戦後、無情にもGH
Qによって打ち砕かれたかのように見えますが、こ
れまで縷々述べてきましたような、日本人の根底に
ある“強さ”、 まさに中西輝政氏が指摘する「日本
人の『荒魂(あらみたま)』」は、戦前の歴史を否
定した大方の日本人には忘れられていても、各為政
者の時々の発言などから、周辺国にはその記録や記
憶が依然として“残っている”と想像できるのです。
「強靭な国家」造りの中で、「国家戦略」の目標と
して掲げた「安全」については、我が国は、今回の
イスラエルのように、ハマスによる攻撃の後、つま
り“有事”が起きてしまった後に「手を出すのでは
なかった」と思わせるのではなく、手を出す前から、
「日本に手を出すと“大損”をする」と相手に“躊
躇”させること、つまり「抑止」を目指さなければ
なりません。
これは容易なことではありませんが、その根底に永
野軍令部総長のいう「祖国護持の精神」がなければ
ならないことは明白でしょうし、周辺国に記録と記
憶が“残っている”間に、「抑止」のための「強い
意志」と「能力」を明示しておかねばならないと考
えます。
本メルマガでは、あえて軍事とか安全保障には詳し
く触れませんでした。しかし、終戦後、法律家や歴
史学者など有識者たちがこぞって「再軍備」に反対
していたことをはじめ、最近でも高名な経済学者が
「日本経済の復興が最優先で、防衛力増強などやっ
ている場合ではない」旨を自著に書き記していた事
実を知って、「それぞれの専門家にまかせておいて
は、この国はダメになる」と思う危機意識がますま
す膨らみました。
前置きが長くなりました。我が国の未来に降りかか
るであろう、ほかの「暗雲」でも同じことが言える
と思います。それぞれの分野で“致命的な事象”が
発生してから慌てても遅いのです。我が国が“苦
手”としている「抑止」とか「未然防止」とか「回
避」などをキーワードにして、「下降期」の中で
“どんでん返し”を狙って“「強靭な国家」造り”
を目指さなければならないとの認識が、私には一層
強まっています。
▼「国家」を再生する
“強くて、しなやか”な「国家」をいかに造るかに
ついて、これまで、“強靭性”を主に取り上げてき
ました。
実は、本メルマガの総括にあたる第4編を「『強靭
な国家』を造る」とした訳には、“強靭性”のみな
らず、“「国家」の再生”の方にもかなりのウエイ
トがありました。今回はその「国家」について取り
まとめておきたいと考えます。
ウクライナ戦争やコロナ禍の状況から、「自分の国
を自分たちで守れない国は生き残れない」と気づい
た元朝日新聞主筆の船橋洋一氏の言葉を紹介し、同
氏の「日本には『国家安全保障』という『国の形』
がない。そして、その『国の形』をつくるのを阻ん
できた『戦後の形』がある」との言葉も紹介しまし
た。
私は、この発言を船橋氏の“自責の念”と解釈して
いますが、氏の書籍の中にも「国」という言葉が何
度も出て来ます。一方、その「国の形」をつくるこ
とを拒んできた「戦後の形」にはとても“根深いも
のがある”とも考えてしまいます。
しかし、その要因は明らかでしょう。まずは、戦前、
特に満州事変以降、軍部主導のもとの「挙国一致」
が強調され、教育面でも「国粋讃美」とか「尽忠報
国」などを強要されたことに対する“揺り戻し”、
つまり「反動」があるのでしょう。
そして、終戦後、GHQの巧妙な対日政策もあって、
その“揺り戻し”は、日教組など唯物史観に染まっ
ている人たちにとっては自分たちの思想拡大の絶好
のチャンスとなって、その“揺り戻しが度を越し
た”格好になりました。
なかでも、彼らが好むトロツキーの言葉である「す
べての国家は暴力の上に基礎づけられている」が発
展し、「国家は悪」として、「国」とか「国家」を
全否定する考え方にまで拡大しました。
私は「国家論」について社会学的に深く解説できる
能力はありませんが、少しだけ踏み込んでみましょ
う。まず「国家」の起源ですが、これもまた社会学
的には解釈が分かれるようですが、門外漢の私が理
解した言葉で要約してみます。
欧州諸国が「主権国家」として独立したのは、「3
0年戦争」(1618年~48年)の結果、疲弊し
た諸国が結んだ「ウェストファリア条約」(164
8年)でした。その直後から「国家」の意義づけに
ついて社会学的な論争があったようです。
まず、「ウェストファリア条約」によって、「王が
持つ主権はキリスト教ではなく神から直に授けられ
たもの」(「王権神授説」)とする考えが普及し、
王政国家が欧州各地に出来上がりましたが、その考
えに反発するような格好で、3年後の1651年、
有名な『リバイアサン』が出版され、著者のトマス
・ホッブス(イングランドの哲学者)は、「自然状
態では、人々は絶え間なく恐怖と暴力による死の危
険さえある悲惨な状態にあり、そこを脱して、安全
と平和を手にするために“社会契約”を結び、その
結果、『国家』が出来上がった」と意義付けました。
これからしばらく過ぎた1690年、同じく英国の
哲学者ジョン・ロックは『統治二論』を世に出し、
「自然状態にある人間はすでに理性を持っている」
としながら、「自分の自然権を守るために、その一
部を放棄し、『1つの集合体』に委ねる、その集合
体が『コモンウエルス』と呼ばれる『国家』の起源
である」と説きました。
つまり、ホッブスが、「場合によっては生きるか死
ぬかの岐路に立たされかねない自然状態にあって国
家が不可欠である」としたのに対して、ロックは
「国家は、自然権を破った者に対して有無を言わさ
ず、強制的な手段をもって『処罰』するために作ら
れた」として、「保険に加入するように『より大き
な防御』のためにあり、必ずしも国家は不可欠なも
のではない」とも解釈したようです。
このように、“社会契約説”としての「国家」の起
源が発展し、やがて「市民革命」に至って近代国家
が出来上がるのですが、それからしばらく後、マル
クスによる共産主義思想が普及し、「国家」の性質
を「暴力の独占」とするトロツキー的な国家論が興
隆することになります。
一方、同じ時代に生まれたドイツ社会学者のマック
ス・ヴェーバー(ウェーバー)は、名著『職業とし
ての政治』(脇圭平訳)の中で、「国家とは、ある
一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占
を要求する人間共同体である」と定義しました。
本書は、1917年、ドイツが第1次世界大戦で敗
戦した後、ミュンヘンにある学生団体のために行な
った公開演説をまとめたもので、それまでのドイツ
社会が、「ドイツ帝国」は存在しても、多種多様な
団体が物理的暴力をノーマルな手段として認めてい
た事実とは違った意義が「国家」にあると解説した
のです。
しかも、トロツキーとは違い、国家の「“合法的
な”暴力の独占」を定義し、「許容した範囲の中で
物理的な暴力行使が求められている」として、「警
察や軍隊はその主な���具・装置である」と解釈した
のでした。
このように考えると、安全保障を米国に丸投げした
まま、あくまで「警察予備隊」として発足し、しば
らく“再軍備”を否定し続けた「吉田ドクトリン」
は、その後長い間、唯物史観の人たちに巧妙に利用
されてしまいました。彼らは、マックス・ヴェーバ
ーの「“合法的な”暴力を独占するのが『国家』で
ある」との考えに至らないまま、(単なる暴力装置
としての)「国家」自体を否定している間に時が流
れ、我が国の「戦後の形」として定着してしまった
と解釈できるのではないでしょうか。
余談ですが、マックス・ヴェーバーによって「国家
論」を叩きこまれたドイツに、やがてヒトラー率い
るナチスが合法的に誕生するのですから、歴史とは
皮肉なものです。
さて、我が国の「国家」には、さらに長い歴史があ
ります。我が国の建国は、まだ「国家」という呼称
はなかったものの、「神武天皇の即位」(紀元前6
60年1月1日〔旧暦〕、2月11日〔新暦〕)とされて
いますし、近代国家の建設が始まった「明治維新」
も「国家の起源」として考えられる場合もあります。
戦前の歴史家の巨匠・坂本太郎氏の『日本の歴史の
特性』によれば、我が国の歴史の中で「国家」とい
う文字が初めて出てくるのは、正倉院宝物の中の
「国家珍宝帳」(756年頃に献上された献物帳
(宝物の目録))だそうですが、この場合の「国家」
は、現在の「国家」とは違う意味をもっており、国
家はミカド、つまり天皇と同義に用いられていたよ
うです。同様の表現は、当時の“現行法”であった
「律」の中にもあり、同じく国家=ミカドを意味し
ていたのだそうです。
つまり、トロツキーの「国家の性質を暴力の独占」
のような概念を我が国の「国家」論に当てはめよう
としたのは最初から無理があったのですが、結果と
して一人歩きしまったのでした。
今なお、公の場で「国」「国家」「国益」「国力」
「国体」などの使用が何となく憚(はばか)られ、
挙句の果てには「愛国心」のようなものまで否定さ
れ、放置されたまま今日に至っていることもすでに
取り上げました。一日も早く、真の意味での「国家」
の再生が望まれると考えます。
改めて、「国家」の現代的な理解をまとめてみます
と、「国家」とは、「その領土と人口を通じて、特
定の地域における社会的、政治的、経済的な活動を
組織し、調整する役割を果たし、個々の国民が自由
で平等な生活を送ることができるように、公正で公
平な社会を維持するための枠組み」のようです。
つまり「社会的、政治的、経済的な活動を組織」を
手段として、「個々の市民(国民)が自由で平等な
生活を送ることができる」ことを目的とした「公正
で公平な社会を維持するための枠組み」を指すとい
うことでしょう。
「国家」の起源にさかのぼるまでもなく、手段も目
的もそれぞれが複雑で、幅広く、奥も深く、しかも
現時点のみならず、未来においても、“自由で平等
な生活”を担保する必要があるわけですから、その
ためにも「国家」に「強靭性」を備える必要性がま
すます増大していると考えます。
▼国際社会に“リバイアサン”が復活した
さて、国際社会においても、冷戦後しばらくの間は、
「国対国」の争いから「国対テロ集団」のような争
いがクローズアップされてきました。しかし、この
たびのウクライナ戦争を境にして、再び「国対国」
の争いがクローズアップされ、それが発展して“新
冷戦”のような「分裂の時代」が現実のものになっ
てきました。
現下の情勢下、国際連合の無力さも露呈したことも
あって、ホッブスの言葉を借りれば、国際社会は
“リバイアサン”(つまり“怪獣”)が大暴れし、
それを制御するのが困難な時代になりました。この
厳しい国際社会の中で生き残るため、つまり、暴れ
まくる(可能性がある)“リバイアサン”から生命
や財産や平穏な生活を守るためには、船橋氏の言葉
を借りるまでもなく、個々の「国」あるいは「国家」
を主体に物事を考え、同じ認識を共有する「国」ど
うしの“社会契約説”ともいえる「同盟」とか「連
携」の必要性が“より増してきた”といえるでしょ
う。
“リバイアサン”を制御するためには、「外交力」
とともに「軍事力」が必要なことは明白ですので、
国家の“暴力装置”の重要性がより増して来たとも
いえるでしょう。しかし、その意味は、「世界同時
革命」に立ちはだかった時点の国家の“暴力装置”
と全く意味が違います。
総括しますと、厳しい国際情勢の中で、我が国が生
き残るために、依然として存在している唯物史観、
あるいは自虐史観の持ち主たち(ちょっとでもその
ような考え方に同調する人たちを含め)が自分たち
の信条とか先入観と決別する時が来たのではないで
しょうか。つまり、マックス・ヴェーバーの「国家
は“合法的な暴力”を独占する人間共同体」の考え
を理解し、容認することが求められているのです。
そのステップを踏んで、時計の針を戻して再出発し
てこそ、大多数の国民がこぞって「国家」を取り戻
し、後世のために“「強靭な国家」造り”に邁進で
きるものと考えます。
くどいようですが、戦前のように、あるいは中国や
北朝鮮などのように、我が国にあっては、国家の
「強制力」を行使できないのは明白です。「国を挙
げて」、つまり「挙国一致」と唱えても、大多数の
国民一人一人が“その気になる”ことがなければ、
いかなる政策も「国家戦略」も絵に描いた餅にしか
なりません。
すなわち、「『国家』を再生する」ことは「国民が
その気になる(覚醒する)」とイコールでもありま
す。そのようなことを狙いつつ、「国家意思」を分
析したつもりですが、天変地異や外圧に寄らず、い
かにして“国民が自発的に覚醒するか”を考えると、
そこにまた難題が待っていることもすでに述べたと
おりです。
今回はここまでにしておきます。次回、我が国の
「国家」論から派生する「統治のありかた」や「政
治」についても取りまとめて、第4編の総括を終了
したいと考えています。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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ken1ymd · 7 days
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https://x.com/HashimotoKotoe/status/1781980998546370853
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橋本琴絵
いま東京都江東区(東京15区)の衆院補選に立候補している飯山陽(いいやまあかり)という人がおるんじゃ。
そこでな、なぜワシが衆議院議員に飯山陽さんが相応しいと思うか、その理由を語るぞ。
それはな! 「移民政策の根幹」にかかわるからじゃ。 一口で移民政策といっても、それは国体(憲法)にかかわる。 イギリスでは移民政策を継続するか終了するか (移民受け入れ義務があるEUを離脱するか否かで) 2016年7月に国民投票をして大騒ぎしたことは記憶に新しいな。 飯山陽候補は、イスラム研究者じゃ。 文科省の官費留学生でモロッコにいったり、 フジテレビのエジプト支局員になったり、 様々なフィールドワークをこなして東大で博士号を取った人じゃ。
それでな 現在多くの日本人イスラム研究者は、 過去おきた様々なテロや残虐な事件は、 看板としてはイスラム教を掲げているが 実際にはイスラム教とは無関係で、 単に野蛮な人なだけ という思想をもち、 それを政府の諮問会議とかで政府高官に伝えておる。 日本政府は 「じゃあ色んなテロや犯罪はイスラム教とは全く無関係なんですね! それなら安心してイスラム教徒を日本に大量に住まわせても 問題は起きませんね!」 となりつつあるんじゃ。
しかし、飯山陽さんは 「いやいや、全く無関係なわけないでしょ。 むしろ教義がテロの原因ではないと言い切ることは難しいでしょ!」 という研究結果を出している。 ワシはもちろんイスラム教についての素人だが 確かに 「十字軍が遠征で残酷なことをしたのはキリスト教と関係あるが。 アルカイダがテロをしたのはイスラム教と全く無関係」 と言われてもピンとこないよな。 むしろ、コーランを批判した中央大学の教授が キャンパス内で首を切断されたのに犯人が捕まらなかったり、 神社とかを破壊している動機が 「宗教とは無関係な個人的な犯行動機」 の一点でゴネるのは流石に無理があるじゃろ。 でも、日本人イスラム研究者らは 「全然無関係です!」と言い張り、 政府は「あらそう?じゃあ移民は安全安心だね!」という方向性で政策を決める。 これ、もし間違っていたらとんでもないことになるのはわかるよな?  信仰によって殺人や強姦が肯定される人々が 何百万人に増えた場合、ワシらの社会はどうなる?
ワシは2011年から2014年までイギリスに留学し、大学院で学んでいた。 なので、このときのイギリスがどんな状態だったか、この目でみている。 毎日、イギリス人の子どもが犯され、殺されていた。 日本でも昔、移民による犯罪が多発した時期もあったが、 事件後はそれなりに反省したり、 または「日本人に差別されていたから仕返しだった」と言い訳したり、 一応殺人や強姦を「悪」という認識だけは共有していたが、 連中は違うぞ。 「教えの通りやりました!」と 「善」だと確信している言動がある。 悪を悪と認識した上でやるのと、 悪を善だと認識した上でやるのとでは 桁違いじゃぞ。
もちろんワシにはイスラム教の同級生がいて 「テロは許されない」と言っていたから「イスラム=テロ」ではないことはわかる。 しかし、だからといって「無関係」は難しいじゃろ。 これはスペクトラムで、黒白はっきりせず、 因果関係はグラデーションになっているとワシは思う。 アメリカの哲学に「プラグマティズム」というものがある。 これはな、理論的にどうとかいう問題ではなく、 実際の結果としてどうだったかを重要視する哲学じゃ。 例えば、幽霊をみたという人がいる。 これに対し「幽霊はいる」とか「いない」とかいうのは無意味で 「幽霊をみた」と主張している人がそこにいるのは確かなのだから それをまず認めた上で「考えろ」(病気か、幽霊が光に反射して見えるか)ということじゃ。 テロ動機に宗教をあげている人たちがそこにいるのは確かじゃろが! 移民が増えれば労働力は確保できると思われがちだが、 実際は治安維持費や社会保障費が増えただけという 諸外国の結果を無視しても意味ないじゃろ!
なので飯山陽候補は、 これからの日本の移民政策という、 ワシらの生活の細部にかかわる 方向性を決めるのに重要な人物なので、 ワシは応援している。
移民が増えた社会を実体験で経験したワシからみれば、 日本はやばいぞ!埼玉県をみろ!
みんな、江東区の親戚知人に応援依頼してな!
写真は多摩動物公園でライオンをみたワシじゃ。 みんなの意見を聞かせてな!
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moznohayanie · 6 months
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(...)また、アドラーだけでなく、古代ギリシア以来、哲学者たちが論じていることですが、我々の人生にも「目的」がある、と考えています。その「目的」は端的に言うと、「幸福である」ということです。皆さんはそういったことを、改まって考えたことはないかもしれませんが、結局のところ我々は「幸せになりたい」というように考えるのが、古代ギリシア以来の考え方です。「幸せになりたくない人」はいない。ただし、その「幸せになる」ための手段の選択を誤っている、ということはあります。
ですから、皆さんがどういった人生を送りたいと思っているかはわかりませんが、例えば「人生で成功すればいい」と思っている方が、「有名な大学に進学する」ということを目指していられるかもしれません。しかし、果たして進学することが自分の幸福につながるのかどうか。「幸福」という目的を達成するために有用なのか、ということを立ち止まって考えなければいけない。
(...)先ほどから「原因」と「目的」の話をしているように、少し言いすぎかもしれませんが、きっかけはどうあってもいいのです。仮に親がエゴで子どもを産んだとしますね。しかし、今の自分を受け入れるところからしか始めることができないのです。
皆さん、憲法の勉強をされたと思います。日本の憲法はアメリカから押し付けられた、だからダメだ、という人がいます。でも、きっかけはどうであれ、できあがった憲法は非常に良いものなのです。
だから、皆さんもそうだと思うのです。どんな環境で、どんな親から、どんな思いで生まれた自分であっても、この私が、この世に生命を受けた以上は、この私を活かしていく。先ほど「使用の心理学」という言葉で説明したことですが、この私をどのように活かしていくのかということを考えて生きてほしいと考えています。
【アドラー心理学に学ぶ!】あなたのしていることは最終的に「自分の幸せ」につながるのか? 哲人と高校生の対話(1)
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kennak · 2 months
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同性愛者の、教会の差別的な姿勢などに反対する運動はしばしば騒擾と化しており、人々の共感を勝ち得るどころか、潜在的な支持者まで追い払ってしまうようなものである。しかし、そこにはもう少し、大きな問題がある。 合衆国の法的な伝統は宗教的な組織が政治的な統制を免れるように意図している。その背景にある考え方は私的な組織はほかの人々の基本的な権利を深刻な危険に晒さない限り、自由にその方針を決められるというものである。その原則からすると、宗教的な組織は同性愛反対の見解を自由に変更できると同時に、その見解を変えないことも自由である。憲法修正条項も、言論の自由を廻るリベラルな見解も同性愛者の大義が価値あるものであるとしても、同性愛者が宗教的な儀礼を乱すことを是認しないし、同性愛者が聖書を検閲し、明らかに同性愛を非難している文章を削除することを可能にするわけでもない。 既婚の女性に言い寄る男性は両者の関係が性的なものに発展しないとしても、婚姻の安定と夫、子供の幸福を脅かすものである。その例において「言い寄る男性」を「言い寄る女性」に置き換えるとしよう。既婚の女性と言い寄る女性の間の関係は今や同性愛的な関係であるけれども、その関係が不正であるという点は元の異性愛的な関係の例と変わらない。不義が不義であるということはその関係が同性愛的であるとしても、異性愛的であるとしても、変わらない。私たちは最早、不義を刑事的に訴追しないから、そのような事例において刑法上の措置は不適切であるとしても、道徳的な非難は適切だろう。すなわち異性愛者に当て嵌まることは同じように同性愛者にも当て嵌まる。 同性愛者は今までほかの人々に痛め付けられてきたから、sexualityを廻る見解を共有しない人々に対し、無感覚になってしまっているかもしれない。自分自身の傾向性を追求することに専心しているから、同性愛者はその過程において自分たちが如何に他人を痛め付けているか、わかっていないかもしれない。例えば同性愛者の父母が子供の生き方を受け入れるということは極度に痛々しい経験である。同性愛者は親が自分の生き方受け入れることを当然、望んでいるけれども、その欲求は親の側の困難を理解するということと相伴うべきである。 他方、同性愛に反対だからなどという理由で、瀕死のAIDS患者を家族が見捨てるということ以上に残酷で、心無いこともない。AIDS患者はその多数が自分の恋人以外、看病するものもないまま、しかもその恋人もAIDSを患っているという状態の中、死んでいく。最も近しい両親などは子供を理解し、同情する力を失ってしまった自分自身の怒りと悲しみへの対処に忙殺されている。そのような状況は現代の最も悲惨な道徳的な苦難である。自然法があるならば、その自然法は何か見解の相違があるとしても、最も近しい人間が苦しんでいる時にはその人間に配慮するように教えるものであってほしいと思う。実際、そのような要請にまさに英雄的に応じようとする人々もいる。しかし、大多数の人々はそんなことはできない。 ほかのさまざまな問題同様、同性愛的な関係を廻る問題は複雑であり、深い感情を孕んでいる。哲学者は議論に光を投げ掛けるられるだろうが、最終的な分析においては全ての人々の共感と善き意志のみが痛々しい問題の解決に繋がるような理解と受容を齎すだろう。
翻訳ゲリラ:バートン・レイザー「同性愛、道徳、自然法」 | 江口某の不如意研究室
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nyantria · 6 months
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アゴリスト・ネクサス独占:コルベット・リポートのジェームズ・コルベットが、アゴリズム、コビッド・サイオプ、日本でのリバタリアンライフについて語る。
by Graham Smith April 10, 2021
https://www.agoristnexus.com/agorist-nexus-exclusive-james-corbett-of-the-corbett-report-weighs-in-on-agorism-the-covid-psyop-and-libertarian-life-in-japan/
ジェームズ・コルベットは、オルタナティヴ・メディア界では実に侮れない存在である。コルベット・リポートでの彼の多作で、厳格で、目を見張るような仕事は、世界中のアゴリストやアナーキスト・サークルで当然の尊敬と注目を集めている。こうした影響力の圏外でも、彼は大きな影響を与えている。Agorist Nexusの寄稿者であるグラハム・スミスは最近、彼をデジタル・インタビューのために探し出し、アゴリズム、コビッド・サイオプ、日本でのリバタリアン生活などについてジェームスに意見を求めた。
アゴリスト・ネクサス:「アゴリズム」という言葉があなたの意識に最初に入ったのはいつですか?アゴリズムという概念を初めて聞いた人に、どのように説明しますか?
ジェームス・コルベット:アゴリズムに初めて触れたのは正確には覚えていないが、ウェブサイトでこのトピックを最初に探ったのは2015年のことなので、それ以前のことだろう。コンキンに倣って、私はアゴリズムを「国家を弱体化させ、真に自発的な社会の創造に必要な平和的革命を達成するために、反経済理論を用いること」と定義している。
AN:私たちは今、潜在的なワクチン・パスポートや企業向けの「WELLヘルス・シール」の導入を目の当たりにしている。この強力な世界的権威主義的権力に打ち勝つ希望はあるのでしょうか?
JC:お住まいの地域にもよりますが、ワクチン・パスポートの導入には法的・政治的な課題がいくつもあります。しかし、実践的な反経済学者として、唯一実行可能な長期的な解決策は、中央集権的な権力の指令の外で平和的に取引を行いたい人々のために、グレー・マーケットやブラック・マーケットの空間を作り出すことです。
AN:日本文化にアゴーリスティックな要素やアナーキズム的な要素があるとすれば、どのようなものがあるとお考えですか?
JC:日本の家庭は一般的に、いまだに家族経営の農場/田んぼ/庭とのつながりを持ち、田舎の「ふるさと」空間を偶像化しています。これは、中央集権的な食料生産・流通メカニズムに代わる手段が、少なくとも(減少しつつあることは認めますが)存在することを意味します。このことはまた、食糧供給が途絶えたときに、コミュニティ・ガーデンやファーマーズ・マーケットが生まれる(あるいは脚光を浴びる)機会があることを意味する。これは、(少なくとも他の多くの国と比べて)日本ではすでに比較的広く普及している暗号通貨を含む、コミュニティ通貨や代替通貨などを組み込んだ、日本における反経済的抵抗勢力を構築するために利用できるレバレッジポイントである。とはいえ、日本では反経済活動に対する哲学的な理解(あるいは関心)はほとんどないし、日本人の封建的な条件付け(現在は企業封建主義として現れている)が、大規模な経済的混乱が起きない限り、ここでのアゴリスト革命の可能性を低くしている。
AN:現在カナダやイギリスなどで起きているような、国家による全面的な封鎖が日本でまだ行われていないのはなぜだと思いますか?このような規制はいずれ日出ずる国にも及ぶのでしょうか?
JC:一言で言えば、オリンピックです。日本は、ますます不正確な名称になりつつある東京「2020」オリンピックが、どのような去勢された形であれ開催されるように、まだ平常心を装おうとしている。それが実現すれば(あるいは大会が完全に中止されれば)、歌舞伎のショーは終わり、より厳しい規制が導入されるだろう。政府はすでに、(罰金という形で)店舗の営業時間などを都道府県の手に委ねようとする新たな法案を可決している。そのため、オリンピックが一段落した後、日本がどこまで迅速に「正常化」(つまり、非人道的な封鎖規則を導入)するかは、この新たな緊急権限に対する法的挑戦によって決まるだろう。
AN:政治家、保健当局者、その他の著名人が、マスクに関する自らの勧告や警告に従わなかった例はたくさんある。ジョー・バイデンは、連邦政府敷地内でのマスク着用を義務付ける自身の大統領令に従わなかった。ここ日本では、女子サッカー日本代表がオリンピックの聖火リレーでマスクをせずに走った。なぜ大衆は、このような明らかな矛盾にもっと注意を払わないのだろうか?
JC:大衆が気づいていること、気づいていないこと、信じていること、信じていないことについて、主流メディアが私たちの認識を形成しないように注意しよう。国民の大部分には大きな不満の兆候があり、その怒りがほとんどの主流メディアに反映されていないからといって、それがそれほど強力でないということにはならない(例えば、クオモ知事やその他の役人が路上で憤慨した市民に立ち向かっている動画がソーシャルメディアにいくらでも出回っているのを見てほしい)。真の問題は、政治家やその他の人々が、いかなる種類の説明責任からも完全に隔離されていることであり、こうした明らかな偽善行為を指摘されても、一般人は何もできないと感じるのだ。
AN:2025年の世界をどう見ていますか?
JC:未来はまだ書かれていない。もし私たちがグレート・リセットのアジェンダを野放しにするのであれば、2025年までに、私たちはバイオセキュリティ国家の制度化への道を歩むことになるでしょう。このシステムは、中央銀行のデジタル通貨や「ユニバーサル」ベーシックインカムの支給に連動するバイオメトリクスIDや社会的信用スコアに結びついたワクチンパスポートによって促進されるだろう。大規模な市民的不服従が起これば、このアジェンダは後退するか、最悪のシナリオでは当分の間頓挫することも考えられるが、反経済革命が分散型通貨を使った平和的で自発的な個人間の真の自由貿易の場を切り開かない限り、そして切り開かない限り、このアジェンダが本当に阻止されることはないだろう。
AN:2020年初頭にコビッド・サイオプが一般大衆に向けて開始されて以来、あなたの報道は驚異的なものだった。ビル・ゲイツに関する暴露記事は驚くほど詳細で、目を見張るものがあります。何があなたをそこまで深く掘り下げ、数え切れないほどの時間を費やしてこの重要な情報をまとめ、あなたのファンやフォロワーに提示する原動力になっているのでしょうか?
JC:自分のことを深刻に考え過ぎないようにしていますが、同時に、私が提示しようとしている情報は極めて深刻に受け止めています。ゲノム編集技術や脳チップ、中央銀行のデジタル通貨など、テクノロジーの進歩が優生主義者たちの手の届くところになってきており、人類の未来が危機に瀕していることを実感しているからだ。私たちが直面しているアジェンダの本質を真に理解し、警鐘を鳴らし、峠を越えてそれを阻止するために全力を尽くさない者は、すでに人間性を喪失している。
AN:もし、あなたがたった3つの言葉で世界にひとつのメッセージを伝えることができ、誰もがそのメッセージを聞き、理解し、行動するとしたら、それは何ですか?
JC: You. Are. Free.
Agorism - Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Agorism
アゴリズム(Agorism)とは、非暴力革命の側面と関わりながら、対経済学によって人と人との関係がすべて自発的な交換であるような社会を作ることを提唱する社会哲学である。アゴリズムはアナーコ資本主義と似た要素を持つが、一部のアナーコ資本主義者とは異なり、ほとんどのアゴリストは望む結果を達成するための戦略として投票に厳しく反対している[1]。 アメリカのリバタリアン哲学者サミュエル・エドワード・コンキン3世(1947-2004)によって、1974年10月のCounterCon Iと1975年5月のCounterCon IIという2つの会議で初めて提唱された。
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straycatboogie · 2 years
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2022/06/21
また村上春樹に関心が戻りつつある。彼のデビュー作『風の歌を聴け』を読みたい、と思っているのだった。実に他愛のない、ビーチ・ボーイズを聴きながら女の子をナンパしたり友だちとビールを飲みながらおしゃべりしたりラジオで音楽を聴いたり、そうして無為に時間を過ごすというそれだけの小説……だがそんな「他愛のない日常」を小説として書くという試みこそが、深刻な事柄を小説として扱うこれまでの文学の伝統をぶち破り世界を塗り替えてしまった(と受け取っている。もしかしたら勘違いかもしれない)。そんな作品を読み、私自身もまた「他愛のない日常」を肯定する決意を固め直したいと思う。 私が物心ついた頃というのは、「日常」の価値が問い直された時期だったのではないかと思う。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたことで、この世界における魂の救済や生きる意味が問い直された。私もまた、生きづらさを感じて過ごしていたせいで「生きる意味は何だろう」と(実に愚直に)問いながら日々を生きていたことを思い出す。『完全自殺マニュアル』がベストセラーとなり、宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」と語ったことを思い出した。この退屈な日常は永遠に終わらない。だから、その日常に順応して生きろ、と……そして死ぬまで生きろ、と。 だが、その価値観の根底にあるのは「終わりなき日常を生き」るということが辛いことだというペシミズムではないだろうか。かつて私もまた、そんなペシミスティックな価値観を抱えて生きていたことを思い出す。生きることはどうしたって辛いことだし、そんな辛い人生を耐え抜いて生きたとしても後に残せるものなんて何もないし、人生は結局のところ何の意味もない……そんな価値観。いや、私もきれいごとは言いたくない。私の人生だって結局だいそれたものではなく、ただ「ひまつぶし」(深沢七郎)なのかもしれない。 しかし、私はそれでも「しょせんすべてに意味なんてない」と冷笑的になる生き方はしたくないと思うのだった。意味なんてないかもしれないが、それでもグループホームの食事をいただいている時にその美味に充実感を覚える。その美味しさがいろんなことを考えさせる。『論理哲学論考』において「世界は私の意志から独立である」とウィトゲンシュタインは語っている。つまり、私がコントロールできない事柄(グループホームの世話人さんの料理の美味しさなど)が確かに存在するという、この端的な事実。この「当たり前」こそが崇高な神秘なのだとウィトゲンシュタインは語った(と私は信じる)。そして私もまた、彼のそんな素朴すぎる価値観を見習いたいと思う。 意味なんてもう何もないなんて 僕が飛ばしすぎたジョークさ 神様がそばにいるような時間 続く (小沢健二「ローラースケート・パーク」)
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takahashicleaning · 5 months
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TEDにて
ジェニファー・パルカ:コーディングでより良いスマートな賢い政府を創造する!
(詳しくご覧になりたい場合は上記リンクからどうぞ)
注意!!現在、基本的人権を侵害するストーカーアルゴリズムしか能力のない人工知能です。
注意!!現在、基本的人権を侵害するストーカーアルゴリズムしか能力のない人工知能です。
注意!!現在、基本的人権を侵害するストーカーアルゴリズムしか能力のない人工知能です。
国家システムの単位である行政府を、インターネットのように運営できないだろうか?インターネットは、オープンで許可を待つ必要がない世界です。
コーダー(プログラマーのことです)であり、活動家のジェニファー・パルカは、そんな風に行政府を運営できるだろうと考えています。
迅速かつ安く作られたアプリは、一般市民をスマートな賢い行政府とつなぎ、ご近所との関係も築く強力で新しいやり方であるでしょうと言っています。
これは公共経済学の分野で言われる「行政府の失敗」のリスクを低くする試みです。「市場の失敗」に対し、これらを改善するために行政府の介入が正当化されることになる口実に使用されるためです。
理論的には、産業政策で「市場の失敗」が回避できたことによる経済メリットが政策推進で生じる「行政府の失敗」のデメリットを上回る時に産業政策は正当化されます。
しかし、「市場の失敗」が生じる形態は、個別の具体事例により大きく異なることから、ここの事例に対して市場の機能不全がどれほどの弊害を引き起こし得るかを評価することが出発点になります。
「市場の失敗」の程度を指標化できれば良いが、最先端の経済学を持ってしても、そこまで信頼性に足る指標は存在しませんのでクリエイトする必要があります。
プログラムは人間の限界をはるかに超えて 、光速まで処理できるので、人工知能の時代には、人間の議論のスピードを超えていける可能性すらあります(新型コロナウイルス2020がパンデミックを引き起こして、人間の概念を数��化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した)
MITの物理学者であり、AIの研究者であるマックス・テグマークの言うように・・・
ロケットの話と似ていて技術が単に強力になれば良いというものではなく、もし、本当に野心的になろうとするなら、コントロールの仕方と、どこへ向かうべきかも理解しないといけません。
エリエゼル・ユドカウスキーが、「友好的なAI」と呼ぶものです。そして、これができれば素晴らしいことでしょう。病気、貧困、犯罪など苦痛というマイナスの経験を無くすことができるだけではなく、様々な新しいプラスの経験から、選択する自由を与えてくれるかもしれません。
そうなれば、私たちは自分の手で運命を決められるのです。そして、準備がないままにつまづきながらアジャイル(=機敏さ)で進んで行くとおそらく人類史上最大の間違いとなるでしょう。
それは認めるべきです。冷酷な全世界的独裁政権が可能になり、前代未聞の差別、監視社会と苦しみが産まれ、さらに、人類の絶滅さえ起こるかもしれません。
しかし、注意深くコントロールすれば、誰もが裕福になれる素晴らしい未来にたどり着くかもしれません。貧乏人は、金持ちにより近づき、金持ちはさらに金持ちになり、みんなが健康で夢を追い求めながら自由に人生を送れることでしょう。
その他に、行政府自身が社会システム全体の資源配分の効率化を目的とする保証はないため政治家や官僚は自らの私的利益のために行動を歪め、市場の失敗を矯正するどころか資源配分をより非効率にする可能性すらあります。
数年前、こんな活動を始めました。超人気の技術屋や設計屋に1年間休職してもらって、彼らが気に入りそうにもない職場環境で働いてもらおうというものです。
つまり、市の行政機関で働いてもらうのです。「コード・フォー・アメリカ」と呼んでいて、マニア版「ピースコープ(平和部隊)」のような活動をします。
毎年、フェローを選んで市の行政機関で働いてもらいます。途上国に送り出すのではなく、市役所という未開の地に送り込んでます。
そこで、フェローは役立つアプリを作って市役所職員と検討します。しかし、実際には、彼らは今ある技術で何ができるかを示しているのです。
もし、行政府が使う技術をご存知でしたら、通常こんな風には、ものごとが進まないのをご存知でしょう。
通常なら行政府の情報システム調達には2~3年かかるところを、昨年プロジェクトに参加した別のチームは3人で2カ月半しかかけずにこのプロジェクトを終了しました。
アプリは、数日で書きあげられてバイラルに広がっていきます。これは行政府機関に対する威嚇射撃のようなものです。これは行政府運営を改善する方法を示唆しています。
多くの人が、行政府そうあるべきと考えるような民営の会社のようにするのではなく、技術系の会社のようにするのでもなく、インターネット自体が成り立っている方法です。
許可を待ってから動くものではなく、オープンで依存せずに自らを創造していくものです。
そして、それこそが重要なのです。しかし、このアプリでもっと重要なのは、新しい世代が行政府の問題にどう取り組んでいるのかを表しているからです。
硬直した組織の問題としてではなく、皆で取り組む問題として捉えています。これは非常によい知らせです。デジタル技術を使った共同行動が非常に得意だと分かったからです。
行政府について考えないといけないことで大切なことの一つは、政治とは違うということです。これはほとんどの人が理解できるのですが、入力を与えれば出力が得られると考えてしまうのです。
すなわち、行政府のシステムへの入力は投票と考えてしまうのです。人は政治に惹きつけられているように思われますが、もし、行政府機関に力になってほしいなら、官僚機構を惹きつけられるものにしなければならないでしょう。
なぜなら、官僚機構でこそ、実際の行政府の仕事がなされているからです。行政府への期待を捨てた人には、どんな世界を子供たちに残したいと思うのか?
を自問する時です。子供たちがどれほど巨大な 問題に直面するか考えなければなりません。
私たちを代表して行動する行政府機関を正すことなくして、私たちが行くべき所に辿りつくことができるでしょうか?ジョン・ロックの言うように、行政府なしではできませんし、より効率的であるために私たちには政府が絶対に必要です。
ジョン・ロックは、イギリスの哲学者。哲学者としては、イギリス経験論の父と呼ばれ「人間悟性論」において経験論的認識論を体系化しました。社会契約説と立憲主義を簡単に説明すると自然は、誰のものでもない!同意ある制限付きの権利は、政府(行政府)が勝手に作っているだけ!
厳しい自然から抜け出したければ、多数派の管理する社会に入って従わなければならないようになっていく。
つまり、行政府。この政府の優劣が重要と説いた初めての人とされている。マイケルサンデルが著書で言っています。
よい知らせは、市民社会システムを強化していくことにより規模を拡張していくというやり方で最新技術を用いて行政府機能の抜本的な再編成が実現できることです。
この国には、インターネットで育った世代がいて、この世代は協力して実行するのがそれほど難しいことでないと知っています。システムを正しく設計しさえすればよいのです。
このため、この世代が行政府の問題に直面したら、主張する代表者を決める選挙のような手段はあまりあてにしません。手を使うのです。手を使って行政府がよりよく機能するためのアプリを作るのです。
2020年に発表されたAppleシリコン搭載Macの方は・・・
「Mシリーズ」チップとして名称が付いてます。これは、Rosetta2と言うソフトウェアなどを活用。
3回目のAppleシリコン搭載Macへの大規模な国家システムに匹敵するくらいの全体的なOSレベルでのシステム移植の自動化を行っています。
このレベルで、しかも、最速で!移行の自動化ができるノウハウを保有しているのは全世界で、唯一、Appleのみ。
他に、Intel CPU向けとAppleシリコン向けコードを同梱したソフトウェア「Universal 2」もあります。
さらに、Appleシリコンは、iPhone用に、当時のスティーブジョブズがゼロから開発構築した遺産です!
高度なセキュリティーや高いプライバシーに投資を積極的に行い、力を入れています。
Appleはこれらの対策として提案した内容がこれ。
データミニマイゼーション!
取得する情報・できる情報を最小化する。データが取れなければ、守る必要も漏れる可能性もない!
オンデバイスでのインテリジェンス!
スマートフォンなど機器のなかで処理を完結させることでプライバシーにかかわる部分を端末内に留める。
クラウドにアップロードして、照会プロセスを最小化することで、漏洩や不適切な保存の可能性を排除する!
高い透明性とコントロール!
どんなデータを集め、送っているのか、どう使うのかを明示し、ユーザーが理解したうえで自身で選んだり変更できるようにする!
セキュリティプロテクション!
機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守るセキュリティプロテクション!
機器上などで、どうしても発生するデータに関しては指紋認証や顔認証などを使ったセキュリティ技術で、漏えいがないようにしっかりと守る
202012のApp Storeプライバシー情報セクションは、3つ目「透明性とコントロール」の取り組み。
位置情報などは自己申告だが、アップルとユーザーを欺いて不適切な利用をしていることが分かればガイドラインと契約違反になり、App Storeからの削除や開発者登録の抹消もありえます。
このプライバシー情報の開示は12月8日から、iOS、iPadOS、macOS、tvOSなどOSを問わず、新アプリの審査時または更新時に提出が求められるようになっています。
最後に、マクロ経済学の大目標には、「長期的に生活水準を高め、今日のこども達がおじいさん達よりも良い暮らしを送れるようにする!!」という目標があります。
経済成長を「パーセント」という指数関数的な指標で数値化します。経験則的に毎年、経済成長2%くらいで巡航速度にて上昇すれば良いことがわかっています。
たった、経済成長2%のように見えますが、毎年、積み重ねるとムーアの法則みたいに膨大な量になって行きます。
また、経済学は、大前提としてある個人、法人モデルを扱う。それは、身勝手で自己中心的な欲望を満たしていく人間の部類としては最低クズというハードルの高い個人、法人。
たとえば、生産性、利益という欲だけを追求する人間。地球を救うという欲だけを追求する人間。利益と真逆なぐうたらしたい時間を最大化したいという欲を追求する人間。などの最低生活を保護、向上しつつお金の循環を通じて個人同士の相互作用も考えていく(また、憎しみの連鎖も解消する)
多様性はあるが、欲という側面では皆平等。つまり、利益以外からも解決策を見出しお金儲けだけの話だけではないのが経済学(カントの「永遠平和のために」思想も含めて国家や権力者は透明性を究極にして個人のプライバシーも考慮)
(合成の誤謬について)
合成の誤謬とは、ミクロの視点では正しいことでも、それが、合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じること。物理学では、相転移みたいな現象です。性質が変わってしまうということ。
ミクロのメカニズムが個人同士の経済における仕組みであるのに対して、マクロのメカニズムは、国家間や経済全体の循環における仕組みだからである。
例えば、家計の貯蓄などがよく登場するが悪い例えです。前提条件が、所得が一定の場合!!所得が一定じゃない増加する場合は?これは、論じていませんので参考になりません!!(法人が提供する製品やサービスの価格も一定の場合も前提条件です)
1930年代のアメリカ経済が金融危機2008と似たような状態に陥った時、ケインズは、「倹約のパラドックス」というケインズ経済学の法則を発見しています。
それは、ポール・A・サミュエルソン(1915-2009)が、近代経済学の教科書「経済学」の冒頭で「個人を富裕にする貯金は、経済全体を貧困にする!(所得が一定の場合)」というわかりやすい言葉で表現しました。しかし、庶民の所得が増加し、貯蓄が投資、消費に回る場合には、「倹約のパラドックス」は生じません。
その後、この「倹約のパラドックス」は、アメリカの経済学者・ケネス・J・アロー(1921- )が「合成の誤謬」を数学的論理に基づいて「個人個人がそれぞれ合理的選択をしても、社会システム全体は合理的選択をするとは限らない」を検証してみせた。 要するに、部分最適ではなく、全体最適させていくということ。
つまり、新産業でイノベーションが起きるとゲーム理論でいうところのプラスサムになるから既存の産業との 戦争に発展しないため共存関係を構築できるメリットがあります。デフレスパイラルも予防できる?人間の限界を超えてることが前提だけど
しかし、独占禁止法を軽視してるわけではありませんので、既存産業の戦争を避けるため新産業だけの限定で限界を超えてください!ということに集約していきます。
なお、金融危機2008では、マイケル・メトカルフェも言うように、「特別資金引出権(SDR)」は、2008年に行われた緊急対策で、一国だけで行われたのではなく、驚くほど足並みの揃った協調の下に国際通貨基金(IMF)を構成する188ヶ国が各国通貨で総額2500億ドル相当を「特別資金引出権(SDR)」を用いて世界中の準備通貨を潤沢にする目的で増刷してます。
このアイデアの根本は、元FRB議長であったベンバーナンキの書籍「大恐慌論」です。この研究がなければ、誰一人として、変動相場制での当時の状況を改善し解決できなかったと言われています。
それ以前では、固定相場制でのマーシャルプランが有名です。
続いて、トリクルダウンと新自由主義
インターネットの情報爆発により隠れていた価値観も言葉となり爆発していくことになった。
しかし、法定通貨の方が、その価値、概念に対する通貨量拡大として価格で応じることができず、圧倒的に通貨量が足りない状況が生まれていたのが、2010年代の問題点のひとつでした。
リーマンショックの後に、新自由主義が誤りであることが、ピケティやサンデルによって指摘され、当時のFRBバーナンキ議長が、通貨供給量を大幅に増やした対策により、ベースマネーの金融、銀行間の相互不信を解消して収束した。
それでも、まだ足りないが、適正水準に収まったことで、さらに価値も増幅され、マネーストックの財政政策から再分配、事前分配を大規模に行い、さらなる通貨供給量が重要となっている現在の日本国内。
例えば
Googleがしようとしてた事は、まだ新産業として、基礎研究から発展できない機械学習の先端の成果をすべて持ち込んだ社会実験に近いこと。
シュンペーターの創造的破壊は、一定数の創造の基礎を蓄積後に、未来を高密度なアイデアで練り上げてから破壊をするのが本質です。
こうして、憎しみの連鎖や混乱を最小限にする。
アルビン・トフラーの言うように、法人と行政府とのスピードの違いが縮まらないのは、構造上の違いであって、それを補うためにプラスサムな連携するということが、必要になってくることを説いています。
三権分立が、規制のないGAFAMを非政府部門としてMMT(現代貨幣理論)からプラスサムに連携したらどこで均衡するのか?という社会実験も兼ねています。
このような前提で、あらゆるインターネット企業が、創業時、貢献するためコンセプトの中心であったものが、今では、悪性に変質して違う目的に成り下がっています。
再分配、事前分配の強化がスッポリ抜けてる欠点があり、ここに明かしたくないイノベーションの余地があります!!
2021年には、新自由主義のような弱肉強食では自然とトリクルダウンは生じないことは明らかになる。
確かに、トリクルダウンは発生しないが、法律で人工的に同じ効果は、貨幣の再分配、事前分配という形にできる可能性は高い。
再分配や事前分配をケムにまく「金持ちを貧乏にしても、貧乏人は金持ちにならない」「価値を生み出している人を罰するつもりがないのであれば税に差をつけないほうがいい」(サッチャー)
とあるが、新自由主義は誤りで、ピケティやサンデルによると違うみたいだ。
(個人的なアイデア)
As Alvin Toffler says, the speed of the government and the speed of the company are fundamentally different from each other, so it will be more difficult to go backwards.
アルビントフラーも言うように、政府のスピードと企業のスピードは根本的に異なるため、どうしても後手に回ることが多くなります。
Therefore, by carefully intervening in the market, utilizing the power of artificial intelligence etc., if you speed up the routine work of bureaucrats including police to light speed
そのため、市場への介入は慎重にして人工知能などのパワーを活用して、警察を含めた官僚のルーティンワークを光の速さまで高速化すれば
It may approach the speed of the company. Also, it is privacy infringement to use artificial intelligence in surveillance cameras in Japan without a court warrant.
企業のスピード並みに近づけるかもしれません。また、日本では裁判所の令状なしに監視カメラに人工知能を使用するのはプライバシー侵害です。
Perhaps also to conceal the communication of the Constitution of Japan? Pressure against the common people who are weak? I read the number of the car without permission.
It is installed as a huge politician of the influence, a government office, a police, a television station and a large and medium enterprise for reporting
How about showing an example?
もしかして、日本国憲法の通信の秘匿にも?弱者である庶民への圧力?自動車のナンバーも無許可で読み取っています。
影響力の巨大な政治家、役所、警察、テレビ局や大中企業の内部通報用として搭載して
手本を示してはいかがでしょうか?
Since it is not applied in Japan, it may be better to mandate a warrant application legally.
日本では、適用されていないから令状申請を法律で義務化すればいいかもしれない。
続いて
前提として、公人、有名人、俳優、著名人は知名度と言う概念での優越的地位の乱用を防止するため徹底追跡可能にしておくこと。
人間自体を、追跡すると基本的人権からプライバシーの侵害やセキュリティ上の問題から絶対に不可能です!!
これは、基本的人権がないと権力者が悪逆非道の限りを尽くしてしまうことは、先の第二次大戦で白日の元にさらされたのは、記憶に新しいことです。
マンハッタン計画、ヒットラーのテクノロジー、拷問、奴隷や人体実験など、権力者の思うままに任せるとこうなるという真の男女平等弱肉強食の究極が白日の元にさらされ、戦争の負の遺産に。
基本的人権がないがしろにされたことを教訓に、人権に対して厳しく権力者を監視したり、カントの思想などを源流にした国際連合を創設します。他にもあります。
参考として、フランスの哲学者であり啓蒙思想家のモンテスキュー。
法の原理として、三権分立論を提唱。フランス革命(立憲君主制とは異なり王様は処刑されました)の理念やアメリカ独立の思想に大きな影響を与え、現代においても、言葉の定義を決めつつも、再解釈されながら議論されています。
また、ジョン・ロックの「統治二論」を基礎において修正を加え、権力分立、法の規範、奴隷制度の廃止や市民的自由の保持などの提案もしています。現代では権力分立のアイデアは「トリレンマ」「ゲーム理論の均衡状態」に似ています。概念を数値化できるかもしれません。
権限が分離されていても、各権力を実行する人間が、同一人物であれば権力分立は意味をなさない。
そのため、権力の分離の一つの要素として兼職の禁止が挙げられるが、その他、法律上、日本ではどうなのか?権力者を縛るための日本国憲法側には書いてない。
モンテスキューの「法の精神」からのバランス上、法律側なのか不明。
立法と行政の関係においては、アメリカ型の限定的な独裁である大統領制において、相互の抑制均衡を重視し、厳格な分立をとるのに対し、イギリス、日本などの議院内閣制は、相互の協働関係を重んじるため、ゆるい権力分立にとどまる。
アメリカ型の限定的な独裁である大統領制は、立法権と行政権を厳格に独立させるもので、行政権をつかさどる大統領選挙と立法権をつかさどる議員選挙を、別々に選出する政治制度となっている。
通常の「プロトコル」の定義は、独占禁止法の優越的地位の乱用、基本的人権の尊重に深く関わってきます。
通信に特化した通信プロトコルとは違います。言葉に特化した言葉プロトコル。またの名を、言論の自由ともいわれますがこれとも異なります。
基本的人権がないと科学者やエンジニア(ここでは、サイエンスプロトコルと定義します)はどうなるかは、歴史が証明している!独占独裁君主に口封じに形を変えつつ処刑される!確実に!これでも人権に無関係といえますか?だから、マスメディアも含めた権力者を厳しくファクトチェックし説明責任、透明性を高めて監視しないといけない。
今回、未知のウイルス。新型コロナウイルス2020では、様々な概念が重なり合うため、均衡点を決断できるのは、人間の倫理観が最も重要!人間の概念を数値化できないストーカー人工知能では、不可能!と判明した。
複数概念をざっくりと瞬時に数値化できるのは、人間の倫理観だ。
そして、サンデルやマルクスガブリエルも言うように、哲学の善悪を判別し、格差原理、功利主義も考慮した善性側に相対的にでかい影響力を持たせるため、弱者側の視点で、XAI(説明可能なAI)、インターネット、マスメディアができるだけ透明な議論をしてコンピューターのアルゴリズムをファクトチェックする必要があります。
<おすすめサイト>
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クレイ・シャーキー:インターネットが (いつの日か) 政治を変える
イギリス保守党。党首デービッド・キャメロン: 政府の新時代
マーク・フォーサイス: 政治における言葉について
デイヴィッド・ブルックス:人間の本質と社会的動物
ルトハー・ブレフマン:貧困は「人格の欠如」ではなく「金銭の欠乏」である!
個人賃金→年収保障、ベーシックインカムは、労働市場に対する破壊的イノベーションということ?2022(人間の限界を遥かに超えることが前提条件)
世界の通貨供給量は、幸福の最低ライン人間ひとりで年収6万ドルに到達しているのか?2017
ベティーナ・ウォーバーグ: ブロックチェーンが経済にもたらす劇的な変化
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ku-neru-kotoba · 7 months
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被害者であり加害者である
36人もの死者が出た京都アニメーション放課事件の記事。ここに書かれていることについて、ずっと考えている。
===== 被害者参加の代理人弁護士が「放火殺人で人が死ぬと分かっている中で被害者のことは考えなかったのか」と尋ねると、被告が少しムッとした声で「逆に聞くが、京アニが(自身の)作品をパクったときには何か考えたのか」と反論する場面があった。
裁判官が「あなたが質問する場ではありません」と注意したが、被告は「パクりや『レイプ魔』と(被告自身が)言われたことに京アニは良心の呵責(かしゃく)はなく何も感じず、被害者としての立場だけ述べてどう思うのか」などとまくしたてた。 =====
この記事に関するコメントには、「何も反省してないな」「周りがどれだけ説得しようと、パクられたというのは絶対に覆らない事実化している」という内容のものがあった。
まずこの事件に関して、放火は明らかな犯罪であり適切に裁かれるべきだと思っている。けれど、この被告の反論は、どうしても他人事としては見れない何かを感じた。
仮に、客観的に見て100%自分が悪いことをしてしまったとしたら、自分は一生懸命謝罪するだろう。けれど、もし99%ぐらいだったら、どうだろうか。果たして何も反論せずにただただ反省の様子を見せることができるだろうか。
「悪いと思わなかったの?」「悪いとわかっててやったの?」そうやって責められるたびに、心のどこかで「うるせえな」という気持ちが膨らんでくる。「本当に俺だけが悪いのかよ」「お前にだって少なからず原因あるだろ」そういう怒りが、ふつふつと湧いてくるだろう。
そしてもし、そんな怒りをうっかり表出してしまった時には「全然反省してないじゃん」「ありえない」「責任感じてるの?」という、まさに被告に向けられた言葉が、当然のように飛んでくるだろう。
逆のパターンもある。自分の過失に永遠に無自覚のまま、相手が100%悪いと思い込んで反省を求め、反省の色が見えない場合は「ありえない」といった感じてさらに責め立てる。「反省して当然」という意識から抜け出せない。「反省」という言葉の曖昧さを逆手に、反省の“色”があるかどうかの審査員になりたがる。
会社の研修で『哲学ゼミ』というものを受講している。その中で哲学者である先生が「特権的なバルコニーに立ってダンスフロアを見下ろすことなど誰にもできない」と繰り返し語っていた。
これは元々「ダンスフロアとバルコニー」という比喩の話で、ここで言うダンスフロアは、何かに集中している状態のことを指す。対してバルコニーは、その様子が眺められる高い場所を意味する。要は「バルコニーに立つように、俯瞰した視点を持ちましょう」という話だ。
けれど先生は「そんなこと無理」と言う。(だからこそ哲学を学んで他者の思考・視点をインストールしましょう、と言った)
自分を客観視することは、世間で大事そうに語られている割に、想像以上にとんでもなく難しい。常に自分の加害性には盲目で、常に自分は被害者として生きようとしてしまう。
誰かから「加害者だよ」と指摘をもらった時に、ああそうだったんですねと素直に受け止められるなら全然いい。けれど実際にはとてつもない反発の意識が発動してしまう。むしろそういうあなたも加害者だ!と攻めはじめることだってある。自分がどんなに大犯罪を犯していたとしても。
この問題に、どう対処すべきなのかは自分でもまだわからない。自責思考を強めれば万事解決というわけでもないと思うし、適切な反論も時には必要だったりするだろう。
ただ、なんとなく思っているのは「どちらがより“悪い”か」という部分に意識が大きく向かってしまうところを考える必要がある気がしている。どっちが悪いかというのは、実はそこまで本質ではなく、誤って解消されるならそうすればいいだけのはずなのである。謝罪と反省、その先の和解が目的なら、どちらが悪いかを決めるのは単なるひとつの手段にすぎない。自分が悪くなくたって、謝ったっていいはずなのだ。
それでも謝れず、「どちらがより“悪い”か」論争を繰り広げ、相手に“反省の色”を強要してしまうのは、きっと自分の中の何かを守っているからなんだろう。その「何か」を知ることが、今の自分には必要なんだと思う。
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Kafka and Hamlet (Essay)
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Franz Kafka
I once came across a fragment of Kafka's writing and writing by the philosopher Wittgenstein almost simultaneously(Both are German-speaking people.), and compared them. Kafka's sentences were incoherent, and I could only read that his consciousness was clouded. On the other hand, Wittgenstein's writings were logically clear and conveyed the purity of his mind.
When I thought about what this big difference was, I concluded that it came down to the difference in the qualities of the two men. To begin with, isn't Kafka, a literary figure, overrated? His famous unfinished posthumous work ``The Castle: Das Schloss'' is famous because the story does not progress at all. No matter how many hundreds of pages you spend, the situation surrounding the main character remains the same. Reading works like this is a waste of time. Kafka's readers are masochists. It's better to read the manga.
Shakespeare's ``Hamlet'' comes to mind when we think of ``The Castle.'' In the case of this work, the main character, Hamlet, is indecisive and should immediately take revenge on his uncle who killed his father and usurped the throne. Still, he pretends to impose a moratorium and procrastinates, causing his lover to commit suicide. Almost all of them died, with comical results. I think "Hamlet" is a bad work.
In the case of ``The Castle,'' the story does not progress due to Kafka's intentions, whereas in ``Hamlet,'' due to the main character. The difference is that the story does not move forward due to hesitation, but both works do little more than appeal to the sickly modern spirit of modern people who are either indecisive or are forced into indecision. They look very similar. These are works that are not food for a healthy mind.
Rei Morishita
カフカとハムレット(エッセイ)
私は以前、カフカの文章の断章と、哲学者ウィトゲンシュタインの文章(2人ともドイツ語圏の人)をほぼ同時に目にし、比較したことがある。カフカの文章は支離滅裂で、彼の意識が混濁していることだけを読み取った。一方ウィトゲンシュタインの文章は論理明快、彼の精神の清澄さが伝わった。
この大きな違いは何かと考えてみるに、2人の資質の違いに帰着するという結論に落ち着いた。そもそも、カフカいう文学者は過大評価されているのではないか。有名な未完の遺作「城」は、話がまったく進行しないので有名だ。何百ページ費やしても、主人公を巡る状況は変わらない。こんな作品を読むのは時間の無駄だ。カフカの読者はマゾヒストだ。マンガを読むほうがいい。
「城」に関連して想起されるのが、シェークスピアの「ハムレット」だ。この作品の場合、主人公のハムレットが優柔不断で、父王を殺して王位を簒奪した叔父にすぐさま復讐すべきなのに、モラトリアムを気取り、ずるずると先延ばしにした挙句、恋人を自殺させ、登場人物のほぼ全てが死亡するという、お笑いの結果を招いた。私は「ハムレット」は駄作だと思う。
「城」の場合は、カフカ自身の意図で話が進まないのに対し、「ハムレット」では主人公
逡巡で話が進まないという違いあるが、両作品とも、不決断あるか、それを強いられる病的な現代人の精神に訴えるという意味以上の何者でもあるまい。よく似ている。健全な精神の糧にはならない作品だ。
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chisasarasa · 2 months
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231130
朝、なんの変哲もないロールパンをコーンスープに浸して、食べる。 おいしくて、ロールパンも捨てたもんじゃないなと思った。 わたしはロールパンをただふくらんだだけのパンだ、と思っている節がある。
見上げれば空は高くて、夏よりも、空が高いぶん、わたしはどんどん小さくなっているみたいだった。 小さくなって、見えなくなって、やっぱり透明なのだった。 存在があやうい。 今の仕事をやめたら、わたしの、学生の頃から、理系だった要素みたいなものはどこへいくのだろう。 ここで働かせてもらって、素敵な人と働いて、実験はたのしい。 実験をたのしいと感じられるわたしは消えてしまうのだろうか。 すべての時間をつくることに使えたらいいのに、と思うけれど、そうなったら、わたしはどこへいってしまうのだろう。
夜、かぶのポタージュを作る。 生まれて初めて、かぶを買った。 詩を書いていたら、かぶがでてきたから。 でも、わたしはかぶを知らなくて、途中でうまいこと書けなくなってしまっていた。 かぶは丸いのに、硬かった。 包丁に力をかけて、すとん、と切る。 塩を振って、シャワーを浴びて、戻ったころには水分が滲んでいた。 鍋に放り込んで、煮る。 バターとローリエも。 ローリエは高橋さん家のローリエ。白いかぶの上にひらりと1枚あるだけで、おしゃれなものだった。 グラグラでは強すぎて、コトコトでは弱すぎる、とレシピに書いてある通りに火をかけて、待つ。 立ったまま、詩を書く。 こうして、生活の中で、詩を書いていればよいのだな、と思う。 今、一番詩を書くのがはかどるのは電車での移動時間だと思っていて、こうして、スープを作る、みたいな時間はそのときと、きっと同じで。 コンソメがなくて、鶏がらスープの素で代用してみたけれど、コンソメと鶏がらスープの素は、別物だった。たぶ���、だいぶやさしい味になっていた。
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231202
朝、顔を洗う水道水が冷たい。 手の先を流れる血管が一瞬でつららになるみたいな感覚。 カレンダーを12月に変える。 最後の1枚。お気に入りの絵たち。 蕪の詩を書く。 かぶを変換すると、まず先に株がでてきて、これは微生物の株で、修論を書いていたわたしがいた。 展示をみにいく。 いろんな紙で作られた封筒。ひらひらと。 いつかこうなりたい。 いつかこういうことをして過ごしていたい、があった。
夜、彼と電話をする。 だる、と言うと、「あなた、だるとか言うのだったっけ」と言われた。 職場の人たちの言葉がうつってきているのだろうなと思う。
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231203
朝、身体が火照っている。 昨日の夜、あまりにも寒くて、暖房をつけっぱなしでねたから。 経済的にも環境的にも、たぶんよくないけれど、そのおかげで布団からでることができた。 生ぬるい綿をかぶったみたいな頭を目覚めさせたくて、りんごを切る。 シャリ、と軽快な音だけで、散漫としていたリズムが整う。 アルバイト。 「死んだおふくろの日記がでてきたんだ」とみせてもらう。 流れるようなきれいな字。きっと流れるように書いていたのだろう。 歌詞も書いてあって、それが写したものなのか、おふくろさんの考えたものなのか、わからなかったけれど、赤とんぼという言葉が何やら印象に残った。 友人と、本屋とお茶。 シュトーレンを食べた。 コーヒーと一緒にでてきたお菓子はたぶん外国の輸入クッキーで、外国の味がした。
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231204
朝、部屋が暗くて、電気をつける。 日が昇る時間が遅れてきているのを感じる。 いつも、日記は朝に書いている。 朝の時間がないときには仕事のお昼休みとかに書いている。 その日の夜に書くことはほとんどない。 気にしたこともなかったけれど、気が付いたらこの習慣が身についていた。 夜に書くと、その日の出来事を詳細に書きすぎて、自分で嫌になるのだと思う。 寝て起きて、残ったものだけを残す。 残らなかったものは残らなくてもいいものなんだ、きっと。
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