#一乗寺美容院
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indigolikeawa · 1 year ago
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2024年6月13日木曜日
病院の待合室にて20
くちずさむ歌はなんだい?思い出すことはなんだい?(2)
 まだ13時過ぎなんだけど。楽しいのになぜか時間が過ぎないという、最高なような不気味なような現象が起こっていた。でも大丈夫。鳴門といえば渦潮だから。まだ渦潮見てないから。徳島と淡路島を結ぶ大鳴門橋、その橋の中がトンネルのようにくり抜かれており、そこに遊歩道が作られていて、鳴門の渦潮に徒歩で近づく事ができる、その名も『渦の道』。そこに行くことにした。私は多分行くの3回目ぐらい。結構好きな観光スポット。たくさん歩けるし。渦が見えるかもしれないし(満潮とか干潮とかちゃんと渦が出るタイミングを狙わないと見えない事が多い)。
 渦の道に車で向かっている道中では、私達はフィッシュマンズの話をしていた。Tくんは中学生の頃からフィッシュマンズを聞いていて、これは私の当時の感覚だと相当早かったように思う。私たちが13歳から15歳というと、1997年から99年に当たる。フィッシュマンズにとっては、『宇宙 日本 世田谷』、『8月の現状』、『ゆらめき IN THE AIR』、男達の別れツアー、佐藤さんの逝去、そしてライブ盤『98. 12. 28 男達の別れ』という激動の3年である。今でもありありと思い出せるTくんの部屋には、フィッシュマンズのCDが何枚か置かれていて、私は『ゆらめき IN THE AIR』や『宇宙 日本 世田谷』のジャケットを見て、かっこよいと思ったりしていた。私はTくんに、最近フィッシュマンズが海外で高く評価されていて、音楽の食べログことRate Your Musicでも『男達の別れ』が金字塔のように扱われていたり、ついこないだもPitchforkのSunday Reviewで『ロングシーズン』が採り上げられていたんだよ、と早口でまくし立てていた。どうして早口になったかというと、こ��な話ができる人はあんまりいなくて(でもよく考えると今も私の友達でいてくれてる人は、多分この話みんなできる)嬉しくなっちゃったから。Tくんはそういったことを全然知らなかったが、東京から福岡までの飛行機の中で『ロングシーズン』を聞いていたらしい。無意識で世界とシンクロしていく人間。ホンモノとはこういう人のことを言うのだと思う。
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「そのピッチフォークのレビューでね、「走ってる…」のところが”Driving…”って訳されてたの。あれって車の歌だったの気づいてた?よく考えたら夕暮れ時を二人で走って東京の街のスミからスミまで行かないよね」
「気づいてなかった!そっか」
 Tくんに「どうしてフィッシュマンズ聞くようになったの?」と尋ねてみた。きっかけは、彼がかつて好きだった女の子、彼がバンドをやってる時に歌にまでした女の子が、フィッシュマンズを好きだったことだという。Tくんは最初に『Neo Yankees’ Holiday』を買ったらしく、一枚目としてはまあnice choiceだと思うのだが、その女の子は「まあ、あれもいいよねー」ぐらいの感じだったらしい。Tくんがすばらしくnice choiceであるためには、いわゆる世田谷三部作に手を出さなくてはいけなかったのだった。そして私はこの話を聞きながら、こんな素敵な話は、当然むかし���度聞いたことがあったのを思い出していた。でもそんなことは言い出せずにいたし、こんな話��何度聞いたって素敵なのでよかった。
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 渦巻は巻いてるのか巻いてないのかよく分からなかった。私が行く時はいつも、巻いてるのか巻いてないのかわからない状態である事が多い。時間とか潮の満ち引きとか考えず、適当に行ってるからだと思う。橋をその内側から見るのも、私は楽しいから大丈夫なのだが、相当歩いたので疲れてしまった。もう一箇所、鳴門には霊山寺という四国八十八箇所巡礼の一番札所であるお寺があり、そこも観光名所として有名なのだが、疲れてしまったので、行くかどうかを決める会議が私とTくんとで開かれた。そして、入るかどうかは別として、ドライブがてら行ってみようとなった。なんとなく高速に乗りたかったので、鳴門北ICから板野ICまで乗ろうと思った。せっかくだから音楽をかけようと思い、Apple Musicで、『はじめてのフィッシュマンズ』というプレイリストを掛けた。一曲目は『いかれたBaby』だった。やっぱり初めて買うフィッシュマンズは『Neo Yankees’ Holiday』で全然いいと思った。ほとんど誰も走っていない高速に、少し傾いてきた陽の光が射して、そこに音楽が混ざって気持ちよかった。鳴門の街のスミからスミまで、僕ら半分夢の中…もちろん運転中だから完全覚醒中だったけども。Tくんを無傷で東京に帰す事も運転手としての責務である。
 高松道を降りて、霊山寺に着くまでの間に少しだけ、音楽ではなく、Tくんの私生活について話す時間があった。その内容については当然ここに書く事は出来ない。唯一言えることと言えば、Tくんは本当にエンターテイナーだということだけである。
 霊山寺に来たのは私個人としては2回目だけれど、記憶よりこじんまりとしていたので、車から降りて参拝することにした。霊山寺は天井から多数の灯籠が吊ってあるのがとにかく綺麗でかっこよいのですが、それをTくんに見てもらえてよかった。ここは八十八箇所巡礼の一番札所なので、RPGの最初の町のように、お遍路さんになるための装備品、白衣や輪袈裟や遍路笠や金剛杖や納経帳などが全て揃えられるお店があり、入って眺めていると、「僕、数珠とか持ってないんだよね」と言って、Tくんが数珠を買おうとしていた。お店の中なのであんまり言えなかったが、数珠はいちばん安価なもので1600円くらいして、上は8000円くらいするものもあり、私は「高くない?」と思っていた。「数珠は高い方がいい。法事の価値観ではそう定義されています」みたいのは聞いたことがないけど、まあ本人が納得してたらいいか。Tくんはいちばん安価ではあるがしっかりしていると思しき数珠(数珠の審美眼など私にあるわけないけど)を購入していた。法事の度に私と四国のことを思い出すか、あっけなく失くすかのどちらかになるだろう。
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 午後三時を過ぎたので、本日宿泊予定のビジネスホテルにチェックインすることが可能になった。ホテルは徳島市内にあって、ここから三十分くらい。いったん。いったんチェックインしてみようか。しなくてはならないことを早めにやって、気持ちに余裕を蓄えていこうじゃないか。ホテルまでの道中では、Tくんがやっていたバンドについての話をしたと思う。彼らが発表したCDやCD‐Rのうち、私が一番好きなのは最初のミニアルバムである『ワンダフルまたはフレッシュ』、二番目に好きなのはその次のミニアルバムの『ギターでおしゃべり』という作品で、初めてこれらの音源を聞いた私は感動のあまり、この二枚の解説を頼まれもしないのに書き上げ、それがバンドのウェブサイトで公開されるということがあった(追記:改めて思い返すと、一枚目の『ワンダフルまたはフレッシュ』には解説を書いていないような気がしてきた。二枚目の全曲解説は書きました。これは間違いありません)。私はあの解説を書いたことを、どちらかと言えば良かったことだったと思っているが、割と最近になって、解説を書くのではなく、バンドにインタビューをした方が良かったのかもしれないと思ったのだった。なぜなら例えば、私が彼らのレパートリーで一番好きなのは、最初のミニアルバム所収の『湯河原で男女』という曲だが、このマジカルな曲をどうやって書き、どうやってアレンジし、どうやって録音したのか、ということをあいつらは絶対忘れてしまっているからだった。そういうことをつぶさに訊いて、記録に残しておけば良かった。誰のために?もちろん私のためにである。他の人も読みたかったら勝手に読めばいいと思うけど。一応車の中でTくんに『湯河原で男女』を書いた時のことを訊いてみたが、やっぱりあんまり覚えていなかった。しかし、彼自身のこの曲についての解釈と、自分自身の作家性への分析のようなものが聞けたので、それは嬉しかった。それをここで書いてもいいのだが、彼のバンドは一応現在「曲作り中」であるらしいので(12年くらい曲作り中みたいです)、万が一の時のために書かないでおく。なんか種明かしっぽくなりそうだから。他にも『国鉄に乗って』という曲を書いた時の大変面白いエピソードなどを聞けたので、ファンの私は大満足だった。まあ話に夢中になって、途中かなり道を間違えたりしたが、言わなかったので多分ばれてないと思う。土地勘のない人とするドライブにはこういう好都合な面がある。あと売るほど時間があるから大丈夫���時間の叩き売り。持ってけ時間泥棒。
つづく
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manganjiiji · 2 years ago
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かくかくじかじか
おなかがすいて眠れない、または、興奮さめやらず眠れない。今日はとても楽しかった。といっても朝はかなり筋肉痛でからだが痛く、Twitterでお子の様子��心配で(病院行けたのか?)、気圧がぐんぐん下がり死体のようになっていた。湯船に熱い湯をはり、どうにかカラータイルをやりまくって、風呂を出て気合いで化粧して着替えて家を出た。家を出る時にはちょうど雨が止んでいた!
待ち合わせ場所で「ずーん…」という感じで立っていると、蝶子さんが駆けつけてきてくれた。私のテンションがしぬほど低いので、かなり心配させてしまった。そのあと、電車の逆方向に乗ったらしい赤森さんがわりとすぐに来て、腹ごしらえをしてから公園(動物園)へ行った。なんとなくプライヴァシーを意識してぼかしているが、吉祥寺です。雨のなか動物を見たり、東屋でChillったり、寿司を食べたり、ヤマネコがかわいかったり、3人でぼさーっとしたかんじでだらだら会話してすごく楽しかった。この3人、ふしぎな居心地の良さがあると思う、というか、言語がらんらんと横滑りしていくのだが、それがおもしろい。なんか変なことを言ってもゆるされるし(3人ともボケなのだが、かろうじて控えめに蝶子さんが突っ込んでくれたりする)。2人は美術への造詣も深いので、私にはよくわからないことでも何かふんふんと深く感じるところがあるんだろうなと思ったりする。今気づいたけど3人とも字書きだった。あと2人ともかなりおしゃれである。「いい女」オーラがすごい。私はひとり芋女で恥ずかしかった(GUのワンピースだし…髪は乾かしただけだし…)。でもまあ外見とか全然会ったらどうでもよくなった!楽しかった。フライングタイガーを見ている時私の中で盛り上がりが最高潮だった。帰路に着いてから、実は赤森さんの体調がそんなによくなかったらしいと聞き、ご本人に「(反応が悪くて)感じ悪かったですよね」と言われたが、全くそんなことは思わず、いつもどおりキレッキレのボケをかましていたし、反応にこの世界になれていない小さき人のような可憐さが相変わらずあり、よかった。蝶子さんはいつもどおりちゃきちゃきしたりぼけぼけだったりした。ぼんやりした3人組として力を抜いて会えた。ちるった。動物園では、あとカモシカとフェネックが良いと思った。
帰宅してから、私の大好きな燐一の神が更新されたのを読んで、我慢できなくなり、とうとう短編というか書きたいところだけ書いてしまった。神が「フリー素材です!」とおっしゃっていたのでその設定をお借りして書きたい、とツイートしたら、すでに「ありがとうございます」と言われてしまい、やば、やば���…書こう、今…!となり、1時くらいに書き終わってTwitterに上げた。深夜なので当然神は既にTLにいらっしゃらなくて、誰も反応しないだろうけどどきどき…としていたら、韓国の方が翻訳して読んでくださって、RTして感想まで言ってくださった!翻訳して日本語で…!嬉しすぎたので韓国語の翻訳を使い、英語も使いながら簡単だがリプライで謝意を伝えた。とてもとても嬉しいことをさらに言っていただけて、う、ど、同人…たのしい…!となった!小説だから海外の方と全然今まで交流がなかったけど、韓国の方はかなり翻訳にかけて読んでくださる文化があるみたいで、すごい…!!となった!!私もハングルの小説、翻訳にかけて読んでみよう!!と意気込んだ。(あんすたではハングルの小説をかなり日本の方も読んでいる!私も今度から読む。)
ということで、今日は1秒も勉強しなかった。やや余裕のある進行をしているとはいえ、大丈夫かよ…となった。大丈夫じゃない気がする。でも小説のようなものを久しぶりに書けて嬉しい。やっと自分に戻ってこれた感じがする。文字を組み合わせて文にすること、本当に好きだ。
体調記録やうつ状態のときのツイートをしていた鍵垢を本格的に自分用にしようと思って、一次創作用のほとんどツイートしていなかったアカウントを鍵垢にして、友人たちにはそちらに移行してもらった。といって、とくに鍵垢で何を言っているでもなく、本当に古い付き合いの友人の鍵垢(身の回りの事を言う用のやつ)と繋がっているだけである。今後はできる限り日常ツイートも全部公開アカウントでして、鍵垢はリプライに特化しようと思う。体調記録は自分一人のアカウントで引き続きつけていく。Twitterだと意識が朦朧としていても打てるし、日付と時刻をかってに記録してくれるし、検索も容易なので、やはり記録用に使ってしまう。すまん、日本ツイッター社。それか、いっそ闘病アカウントとして公開にしてしまおうかな?とも思う、アカウントの文字列を適当に変えて。しかし、それにしては過去のツイートがオタクの本垢運用時のそれなので(刀剣乱舞時代)、なにか変なことになっても困るか。やめよう。鍵垢にして封印しておくに限る。基本的には公開の本垢ひとつで完結するようにしたい。一次創作も今のところアカウントを分けなくていいかなと思う。日常ツイートも、公開アカウントで書ける範囲のことのみすればいいと思う。Twitterに書けないことは引き続き紙のノートに書くなり、メモ帳に打つなりして、アウトプットだけしていくことにする。
あまりにもおなかがすいて眠れないのでバナナを食べ、朝のミルクティーを温め直して飲んだ。明日は診察の日なので本当に眠れないと困るが、4:20になってしまった。
2023.11.10
燐一小説のリンクを貼っておきます(ログイン限定)。
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mxargent · 2 years ago
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"Kill them with kindness" Wrong. CURSE OF MINATOMO NO YORITOMO
アイウエオカキクケコガギグゲゴサシスセソザジズゼゾタチツテトダ ヂ ヅ デ ドナニヌネノハヒフヘホバ ビ ブ ベ ボパ ピ プ ペ ポマミムメモヤユヨrラリルレロワヰヱヲあいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやゆよらりるれろわゐゑを日一国会人年大十二本中長出三同時政事自行社見月分議後前民生連五発間対上部東者党地合市業内相方四定今回新場金員九入選立開手米力学問高代明実円関決子動京全目表戦経通外最言氏現理調体化田当八六約主題下首意法不来作性的要用制治度務強気小七成期公持野協取都和統以機平総加山思家話世受区領多県続進正安設保改数記院女初北午指権心界支第産結百派点教報済書府活原先共得解名交資予川向際査勝面委告軍文反元重近千考判認画海参売利組知案道信策集在件団別物側任引使求所次水半品昨論計死官増係感特情投示変打男基私各始島直両朝革価式確村提運終挙果西勢減台広容必応演電歳住争談能無再位置企真流格有疑口過局少放税検藤町常校料沢裁状工建語球営空職証土与急止送援供可役構木割聞身費付施切由説転食比難防補車優夫研収断井何南石足違消境神番規術護展態導鮮備宅害配副算視条幹独警宮究育席輸訪楽起万着乗店述残想線率病農州武声質念待試族象銀域助労例衛然早張映限親額監環験追審商葉義伝働形景落欧担好退準賞訴辺造英被株頭技低毎医復仕去姿味負閣韓渡失移差衆個門写評課末守若脳極種美岡影命含福蔵量望松非撃佐核観察整段横融型白深字答夜製票況音申様財港識注呼渉達良響阪帰針専推谷古候史天階程満敗管値歌買突兵接請器士光討路悪科攻崎督授催細効図週積丸他及湾録処省旧室憲太橋歩離岸客風紙激否周師摘材登系批郎母易健黒火戸速存花春飛殺央券赤号単盟座青破編捜竹除完降超責並療従右修捕隊危採織森競拡故館振給屋介読弁根色友苦就迎走販園具左異歴辞将秋因献厳馬愛幅休維富浜父遺彼般未塁貿講邦舞林装諸夏素亡劇河遣航抗冷模雄適婦鉄寄益込顔緊類児余禁印逆王返標換久短油妻暴輪占宣背昭廃植熱宿薬伊江清習険頼僚覚吉盛船倍均億途圧芸許皇臨踏駅署抜壊債便伸留罪停興爆陸玉源儀波創障継筋狙帯延羽努固闘精則葬乱避普散司康測豊洋静善逮婚厚喜齢囲卒迫略承���惑崩順紀聴脱旅絶級幸岩練押軽倒了庁博城患締等救執層版老令角絡損房募曲撤裏払削密庭徒措仏績築貨志混載昇池陣我勤為血遅抑幕居染温雑招奈季困星傷永択秀著徴誌庫弾償刊像功拠香欠更秘拒刑坂刻底賛塚致抱繰服犯尾描布恐寺鈴盤息宇項喪伴遠養懸戻街巨震願絵希越契掲躍棄欲痛触邸依籍汚縮還枚属笑互複慮郵束仲栄札枠似夕恵板列露沖探逃借緩節需骨射傾届曜遊迷夢巻購揮君燃充雨閉緒跡包駐貢鹿弱却端賃折紹獲郡併草徹飲貴埼衝焦奪雇災浦暮替析預焼簡譲称肉納樹挑章臓律誘紛貸至宗促慎控贈智握照宙酒俊銭薄堂渋群銃悲秒操携奥診詰託晴撮誕侵括掛謝双孝刺到駆寝透津壁稲仮暗裂敏鳥純是飯排裕堅訳盗芝綱吸典賀扱顧弘看訟戒祉誉歓勉奏勧騒翌陽閥甲快縄片郷敬揺免既薦隣悩華泉御範隠冬徳皮哲漁杉里釈己荒貯硬妥威豪熊歯滞微隆埋症暫忠倉昼茶彦肝柱喚沿妙唱祭袋阿索誠忘襲雪筆吹訓懇浴俳童宝柄驚麻封胸娘砂李塩浩誤剤瀬趣陥斎貫仙慰賢序弟旬腕兼聖旨即洗柳舎偽較覇兆床畑慣詳毛緑尊抵脅祝礼窓柔茂犠旗距雅飾網竜詩昔繁殿濃翼牛茨潟敵魅嫌魚斉液貧敷擁衣肩圏零酸兄罰怒滅泳礎腐祖幼脚菱荷潮梅泊尽杯僕桜滑孤黄煕炎賠句寿鋼頑甘臣鎖彩摩浅励掃雲掘縦輝蓄軸巡疲稼瞬捨皆砲軟噴沈誇祥牲秩帝宏唆鳴阻泰賄撲凍堀腹菊絞乳煙縁唯膨矢耐恋塾漏紅慶猛芳懲郊剣腰炭踊幌彰棋丁冊恒眠揚冒之勇曽械倫陳憶怖犬菜耳潜珍
“kill them with kindness” Wrong. CURSE OF RA 𓀀 𓀁 𓀂 𓀃 𓀄 𓀅 𓀆 𓀇 𓀈 𓀉 𓀊 𓀋 𓀌 𓀍 𓀎 𓀏 𓀐 𓀑 𓀒 𓀓 𓀔 𓀕 𓀖 𓀗 𓀘 𓀙 𓀚 𓀛 𓀜 𓀝 𓀞 𓀟 𓀠 𓀡 𓀢 𓀣 𓀤 𓀥 𓀦 𓀧 𓀨 𓀩 𓀪 𓀫 𓀬 𓀭 𓀮 𓀯 𓀰 𓀱 𓀲 𓀳 𓀴 𓀵 𓀶 𓀷 𓀸 𓀹 𓀺 𓀻 𓀼 𓀽 𓀾 𓀿 𓁀 𓁁 𓁂 𓁃 𓁄 𓁅 𓁆 𓁇 𓁈 𓁉 𓁊 𓁋 𓁌 𓁍 𓁎 𓁏 𓁐 𓁑 𓀄 𓀅 𓀆
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yotchan-blog · 1 month ago
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2025/4/28 7:00:17現在のニュース
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kachoushi · 2 months ago
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虚子自選揮毫『虚子百句』を読む ⅩⅥ
花鳥誌2025年4月号より転載
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日本文学研究者
井上 泰至
30 川を見るバナナの皮は手より落ち
 『ホトトギス』昭和十年一月号初出は「落つ」の形だった。『ホトトギス』同年十一月号には「落ち」の形で「十一月四日。武蔵野探勝。浜町、日本橋倶楽部。」と注記。『五百句』には「明治九年十一月四日。武蔵野探勝会。浜町、日本橋倶楽部。」と注記。  この句は、今夏の句とされているが、それは「バナナ」が夏の季語となったからで、この句そのものは最初から季感は薄い。それは日本の四季とは別枠の「熱帯季題」としての「バナナ」の句だったからである。
 星野立子の句評につけば、こうある。
 一人の男か女があって、ぼんやりと川の面を眺めております。その人はバナナを食べようと思って皮をむきながら手に持っております。そして失神したようにぽかんと川を見ています。バナナの皮は手から離れて下に落ちました。そのことさえも知らぬげになお川を見ております、という句であります。
 この解説に従えば、虚子は「一人の男か女」を見て詠んだことになるが、『ホトトギス』の初出では「手より落つ」とあって、バナナの皮は虚子自身の手から滑り落ちた可能性を否定できない。特に「から」でなく「より」という助詞に注目すれば、「落つ」では無論のこと、「落ち」であっても、この「バナナ」は作者自身の手から落ちた含意が読み取れる。
 この句の主語の所在が問題になるのも、虚子句全体の傾向として近代的主客分離の意識が薄い句が多いことに由来する。それは連句の特徴につながる。連句はそもそも一句の独立にこだわらない散文性に特徴がある。実際「雑」と称する無季の句も必ずある。そもそも海外詠とは、日本の風土に依拠する季題を核とする虚子一門にとって、例外的存在、つまり「雑」の句に近いものであった。そこで、在地特有の季題を別にこしらえ、これを連句由来の散文的文体に載せて詠めばいいというのが、バランスのいい虚子らしい、現実的な対応だったのである。
 五七五に七七を付け、さらに五七五を付けていく集団制作の文芸たる連句には、以下のような内容的分類が可能である。
 「場の句」=風景の句  「人情句」=人が詠み込まれている句  「自分」が詠まれている「自の句」(主観の句)  「他人」が詠まれている「他の句」(客観の句)  「自分」と「他人」が詠まれている「自他半の句」
 ここで最後に太字にした「自他半の句」こそが、虚子句の主客合一句と関連するので、現代の連句作品から例を引いてみてみよう。
  「もう少し歩きたいの」と由比ヶ浜 兎弦
    ソネット『久米仙人』より        平成二十年三月二十三日
 この句は、女性が詠んだものとも、女性からそう言われて詠んだものとも、どちらともつかない。その主客があいまいで、どちらとも解釈できうるところが、次々と場面と転換していく連句の「変化」には有力な詠み方なのである。虚子句の一大秘鍵は、近代俳句の主役でありながら、俳句の先祖の古さを使って、自然との対話を試みる文体を得たことだったという見通しがここに得られる。
 「バナナ」の句に戻れば、川を見詰め、バナナの皮を流してしまった虚子自身を見つめる、「天」の視線がこの句にはあったとも言い得るのであって、この句を英訳して、主語を「I」もしくは「He」としてしまったときに、この句に漂う放心状態で主客未分の気分というものは、翻訳によって失われてしまう。ロスト・イン・トランスレーションの陥穽が口を開けて待ち構えているのである。
 昭和十一年、虚子は渡欧に際して、南方にも寄港、これを機に「熱帯季題」を提唱する。「バナナ」も当然この中に入ることになる。その背景は、日本を飛び出して活躍する邦人の多さにあった。例えば、問題のバナナ句が詠まれた昭和九年の『ホトトギス』雑詠欄を通覧すれば、高野素十や池内友次郎の欧州留学組を除いても、海外および外地詠は目立つ。シンガポール・バダビア・ビルマ・アメリカ・奉天・ハルピン・青島・上海・サイパン・パラオ・ニュージーランド・アメリカ・ブラジル等々。もはや、世界各地から送られてくる俳句への対応に迫られることになっていたのである。
 虚子が、晩秋に詠んだ無国籍なバナナの句は、こうした背景抜きに語れない。アメリカでは、「バナナ共和制」という言葉がある。典型的な植民的栽培植物であるバナナを主産業や産地とする、遅れてきた民主主義を指していう。後にアメリカに吞み込まれるハワイ共和国大統領の一族が、今日のドールバナナを起こした。やがて植民地となったフィリピンでの大量生産は、日本人にもおなじみだが、日本とて台湾領有時代、同様のことは行っており、バナナは戦前から日本の食卓を賑わしたのである。バナナは今日風に言えば、グローバリズムの先駆けたる食品植物だった。(『俳句』令和六年九月号「虚子の遺産⑥」)
31 汝にやる十二単衣といふ草を
 『五百五十句』注記に「(昭和十四年)六月十一日黒部峡探勝。つき来りし宿の婢に。」とある。「ホトトギス」昭和十五年六月号「句日記(昭和十四年六月)」に初出。前年七月号の「消息」には、「先月の九日の夜汽車で富山に行つて、二日ばかり同地の俳人諸君に厄介になつて帰つて来たのでありました。蓬矢知事の格別なる斡旋、普羅君はじめ辛夷社の好意、又無外君の黒部嚮導に迎の労を多としなければなりません、茲に謹んで御礼を申上げます」とある。
 掲句については『喜寿艶』に次のような自句自解がある。
 宇奈月の延対寺といふ旅館に泊つて、翌朝一行二十人ばかりは黒部鉄道に乗つた。美しい娘が一人宿から随いて来て何かと世話をやいた。黒部に降りて鐘釣温泉のほとりに行くとそこに鷺草のやうな可憐な草花が咲いてゐた。それは十二単衣といふ草であると案内する人が云つた。私はその一本を摘んで、貴女に上げやうと云てその婢に渡した。
 現存する延対寺旅館は、明治三十三年創業。黒部の絶景が売り物で、竹久夢二・与謝野晶子・川端康成など様々な作家・文化人に愛された。接待した「蓬矢知事」とは、内務・警察官僚で、当時の富山県知事だった矢野兼三である。戦前の知事は選挙でなく、内務官僚が任命・派遣された。昭和十三年四月から県知事になっている。前田普羅を筆頭とした地元の俳人も大勢参加した。「無外君」とは吉沢庄作。魚津生まれで黒部の吉沢家に養子として���り、富山県尋常師範学校卒業後、小学校教師を経て、魚津中学校で博物学教育を担当。三、四年かけて集められた植物標本は約一七〇〇点。登山家としては、新ルートを開拓し、数々の記録的登山を成し遂げ、多くの紀行文を残した。また、黒部保勝会・黒部案内人組合等を設立し、登山環境整備を行うとともに、黒部の自然保護運動を展開し、中部山岳国立公園の指定を得るためにも貢献した(黒部市HP)。
 十二単衣は、二十センチほどのシソ科の多年草で、紫の花が重なって咲く姿を、平安朝の女房の礼装の十二単衣に例えて、この名がある。一句は、その名を教えられ即興で詠んだところがポイントで、『奥の細道』の那須野で、道に迷いやすいところを、馬を引いて案内した少女に、名を問うと「かさね」と答えるので、「かさねとは八重撫子の名なるべし」と曽良が詠んだ例を彷彿とさせる。
 なお、「句日記」の掲句の前後には、こうある。
 六月十日。昨夜、夜汽車にて上野を発す。朝六時八分三日市着、直ちに黒部鉄道にて宇奈月に行く。延対寺泊り。
  田の畦におしめ干したり田草取る   箕を脇にかかへて農婦立ち涼し   供華のため畦に芍薬つくるとか   立山の夏かげの皺凡ならず   夏山の剣といふは美(く)はし山   立山と􄽈気楼ある魚津よし   腰に籠晩涼に何をする人ぞ   六月十一日。黒部峡探勝。   黒薙川   茂みより細々と出し吊橋が   雪渓を見上げてトロの進むまま   つき来たりし宿の婢に   汝にやる十二単衣といふ草を   猿飛を見て戻り急夏山路   岩の上の大夏木の根八方に   夏山やトロに命を托しつつ   雪渓の下にたぎれる黒部川   鉄板の覆したるトロ涼
 一覧すると、倒置法を使って末尾を助詞で終える句が多いことに気付かされる。全体に虚子には目新しい句材多く、このような抑揚の利いた文体を選ばせたものと想像される。
『虚子百句』より虚子揮毫
31 汝にやる十二単衣といふ草を 32 山川にひとり髪洗ふ神ぞ知る
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国立国会図書館デジタルコレクションより
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井上 泰至(いのうえ・やすし)   1961年京都市生まれ 日本伝統俳句協会常務理事・防衛大学校教授。 専攻、江戸文学・近代俳句
著書に 『子規の内なる江戸』(角川学芸出版) 『近代俳句の誕生』 (日本伝統俳句協会) 『改訂雨月物語』 (角川ソフィア文庫) 『恋愛小説の誕生』 (笠間書院)など 多数
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kozuemori · 10 months ago
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関東地方も梅雨が明けました。既に十分暑いですが、いよいよ夏本番です。こんな気候でも我が家のバラはどんどん蕾を増やしていて、メダカの赤ちゃんもグリーンウォーターの中でスイスイ泳いでいますし、親メダカの産卵も活発です。残念なのは暑すぎてその様子をベランダでじっくりと観察できないこと。猛暑すぎるのか、蚊もいつの間にか見かけなくなりました。水分や睡眠を十分に摂りながら、お元気でお��ごしくださいね。
夏学期クラスがすベて終了しました。3ヶ月間たくさんの方々と一緒に学び、お互いの光や笑顔を分かち合い、共に楽しい時間を過ごすことができましたことに、心より感謝いたします。
先日お問合せをいただいたので、秋学期のベーシッククラスについて追記をしたいと思います。秋学期のベーシック前期クラスは土曜日の19時から21時までの開催となり、ベーシック後期クラス(2025年春学期開催)も同じ土曜日の19時から21時までの開催となります。また、ベーシック通信(メール)クラスは1学期(6回の課題)で完結となり、試験に合格した方は次学期よりオールレベルクラスへご進級いただけます。参加する方々のご都合により、適宜Zoomクラスの曜日や時間帯を変更する場合もありますので、曜日や時間のご希望がありましたらご遠慮なくお問い合わせください。
夏学期クラスで行った誘導瞑想の中から『Six Senses』をYouTubeにアップいたしました。中世ヨーロッパの至宝である6枚のタペストリー(大型の織物)の秘密に触れながら、自分自身の6つの感覚に出会ってゆく瞑想で、実在する謎に包まれたタペストリー『貴婦人と一角獣』からヒントを得ました。8月後半に開催するワークショップ『Spirit of Wonder 〜シックスセンスと六大要素〜』の序章ともいえる内容となっていますので、ご興味がある方はぜひ夏休み中にやってみてくださいね!
また、新たに6つの誘導瞑想の音源ファイルを販売中です。夏学期クラスで行った中から選び、一部は長さを調整しています。
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誘導瞑想「ヒーリングプール」 31:00
イルカたちに誘われながら、太平洋の楽園ハワイへ旅します。夏の明るい日差しと澄み切った青い海の輝きに導かれながら到達した美しい島で、森羅万象に宿る絶えることのないエネルギーに触れてみましょう。また、神聖な癒しをもたらす潮溜まりであるヒーリングプールを訪れて自らをその浄化のエネルギーに浸しながら、その清浄さと一体となってください。
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誘導瞑想「ピュタゴリアン」 31:15
この誘導瞑想では地中海に浮かぶ古代ギリシャの島を訪れ、その神域で共同生活を営んでいる輪廻思想を持つ人々『ピュタゴリアン』たちに出会います。霊魂の不滅を信じ、日常生活を通じて魂の浄化と魂の救済を目指し、平和で平等な生活を送る彼らとの出会いを通して、神聖なる数や厳格な食生活を通した霊性開花の学びへのヒントを受け取ってください。
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誘導瞑想「天空の村」 33:30
神秘な光を放ちながら蒼空にそびえる霊峰、ヒマラヤ山脈に見守られながら、手付かずの自然の中に突如現れる幻のような聖地『天空の祈りの村』へと誘われます。古来からの教えに従って熱心に修行に励んでいる人々と共に祈りを捧げながら、その心地の良い平和に満ちた聖音を通して自らの内にある小宇宙と出会い、指導霊のメッセージを受け取ってください。
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誘導瞑想「ドリーミング」 31:30
夢の世界は日常と霊界を結ぶ架け橋のような場所です。古来からさまざまな文化圏で人々は『夢見』を通して聖なるメッセージを受け取ってきました。この誘導瞑想ではシャーマンと出会い、その導きで古代エジプトを旅しながら眠りの寺院を訪れます。そこで催眠療法の語源となった神や世界最初のヒーラーと呼ばれる神と出会い、夢見を通した学びを深めましょう。
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誘導瞑想「アートマンの馬車」 33:50
アートマンの馬車と呼ばれる『ラタ・カルパナ』は肉体と魂の関係性を表しています。古代インドの教典『カタ・ウパニシャッド』によると、本当の自分と呼ばれるアートマンは馬車に乗る人です。どうすればスムーズに思ったように馬車を目的地へ走らせることことができるのか、その制御法を学びながら、より平和で幸せな道へと自らの馬車を進ませてゆきましょう。
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誘導瞑想「見えるもの、その先に」 31:30
この誘導瞑想では光の列車に乗って同乗者である画家と共に北欧の街を訪れます。画家がもたらす聖なるエネルギーに触発され、高次の意識の存在とトランス状態になって交信しながら、人間の内面と外界との関係、信仰と探究心、私たち人間が自分で考えているのとは違うものであり、目に見えない世界や説明できない精神世界への探究を深めてゆきましょう。
全て動画ではな��音声ファイルです。サイトまたは直接ショップからご購入いただけます。
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Spirit of Wonder 〜シックスセンスと六大要素〜
8月24日(土)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
8月26日(月)10:00~17:00(1時間のお昼休憩あり)
料金:1回 8,000円(アイイス会員・税込)・10,000円(非会員・税込)
どなたでもご参加いただけます
最少催行人数:3名
私たちの周りにある五大要素ともう一つの元素、そしてそれらと自分自身の中にある五感と直感との関連について学びます。あなたの外側と内側にあるエネルギーについて理解を深め、その学びを日常生活において実践し、継続しながら、さらなる霊性開花を目指す6時間ワークショップです。レクチャーやゲーム感覚で楽しめる実習やカルマの法や輪廻思想などの哲学を通した内観を通して、ご自身の中にある光をさらに見出していただきたいと思います。
あなたの中に潜在する能力を探り、知り、育み、五感や直感の中で特化した感覚をさらに伸ばして磨き上げましょう。そして同時に自分の苦手分野を知り、それを伸ばす方法も試してみましょう。
私たち全員が生まれついた時点で履修する、人生においてずっと学び続けることのできる共通のカリキュラムが霊性開花です。それは私たちが永遠の可能性を秘めていること、大いなる存在に近づき、さらに明るい光になること教えてくれます。けれど、霊性開花は1人だけでは学べません。あなたの霊性を導いているスピリットの介在、その指導や協力があってこそ、あなたの魂は磨かれ、輝くことができます。スピリットとのコミュニケーションに欠かせないのが自分の感覚を伸ばし、育むことです。このワークショップでは五感や直感、インスピレーションやアイデアのアンテナをさらに伸ばしながら、霊��あり光である本来の自分に出会っていただくお手伝いをしたいと思います。
レクチャー内容
 ・五大要素と最初の元素
 ・シックスセンスと直感
 ・大宇宙と小宇宙
 ・チャクラとオーラ
 ・聖なるマトリックス
 ・ミディアムシップにおける六大要素 
実習
 ・シッティング・イン・ザ・パワー 
 ・六大要素を感じ、活かす
 ・マトリックス内観
 ・直感と指導霊により深く繋がるための各実習
 このワークショップは以下のような方に向いています
 ・六大要素への理解を深めたい
 ・直感の練習、経験をしてみたい
 ・人体とオーラ、チャクラ、元素、世界との関連を知りたい
 ・指導霊との繋がりを深めたい
 ・本当の自分の人生の目的を探りたい
 ・自分自身の可能性や能力を探りたい
 ・霊性開花を通して人の役に立ちたい、社会に貢献したい
このワークショップは、2019年夏イベントで開催した同タイトルのワークショップを一部変更し、内容を加えたりアレンジしてアップデートしています。
詳細・お申し込みはこちらからどうぞ。
ショップからも直接お申し込みいただけます。
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秋学期クラスへのお申し込みを受付中です。クラスの詳細とラインナップはサイトとショップからご覧いただけます。(アイイスのサイトでも告知されています)
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秋学期は春に種を蒔き、夏に大切に育てた果実を収穫する季節です。十分に栄養が行き渡った今年の霊性開花の学びの成果を皆で味わいながら共に分かち合いましょう。皆さまのご参加をお待ちしています!
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アウェアネス・ベーシック前期 Zoomクラス 
土曜日:19:00~21:00 (後期も土曜日・同じ時間に開催) 日程:9/7、9/21、10/5、10/19、11/2
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アウェアネス・ベーシック後期 Zoomクラス   
火曜日:10:00~12:00 日程:9/3、9/17、10/1、10/15、10/29
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アウェアネス・ベーシック通信クラス
開催日程:全6回 お申し込み締め切り:9/15
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アウェアネス・オールレベルZoomクラス
火曜日:19:00~21:00  日程:9/10、9/24、10/8、10/22、11/5
木曜日:10:00〜12:00 日程:9/5、9/19、10/3、10/17、10/31
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アウェアネス・マスターZoom クラス
火曜日:19:00〜21:00 日程:9/3、9/17、10/1、10/15、10/29
金曜日:19:00〜21:00 日程:9/13、9/27、10/11、10/25、11/8
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サイキックアートZoomクラス
日曜日:17:00~19:00  日程:9/8、9/22、10/6、10/20、11/3 水曜日:16:00~18:00  日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
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インナージャーニー 〜瞑想と内観〜 Zoomクラス  
月曜日:16:00~17:00   日程:9/16、9/30、10/14、10/28、11/11
土曜日:10:00~11:00 日程:9/7、9/21、10/5、10/19、11/2
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マントラ入門 Zoomクラス  
土曜日:13:00~15:00 日程:9/14、9/28、10/12、10/26、11/9
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トランスZoomクラス
水曜日:10:00~12:00  日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
土曜日:19:00~21:00  日程:9/14、9/28、10/12、10/26、11/9
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サンスクリット・般若心経 Zoomクラス 
月曜日:13:00~15:00   日程:9/16、9/30、10/14、10/28、11/11
水曜日:19:00~21:00    日程:9/11、9/25、10/9、10/23、11/6
クラスの詳細はサイトのこちらのページをご覧ください。
継続受講の方は直接ショップからお申し込みください。
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サマーフェスティバル&ヒーリングサマーフェスティバル2024
8月11日(日)13:00~16:30
今年のアイイスの夏祭りはタイトルのとおり、「サマーフェスティバル」と「ヒーリングサマーフェスティバル」を同時開催します!皆様は上記2つのフェスティバルに参加でき、この間を行ったり来たりしていただけます。この日は夏の暑い日差しを避けて、アイイスの光の祭典に参加しませんか?私たちが集まると、光の世界の仲間も集まってきます。光は、集まれば集まるほど大きくなり、光の世界も無視できなくなります。私たちの光を大きくして世界中に広げませんか?今、世界は私たちの光を必要としています。アイイスから光を発信しましょう。「サマーフェスティバル」では光の世界から送られる愛と光を受け取り、「ヒーリングサマーフェスティバル」ではたくさんの癒しを受け取り、この夏を乗り切りましょう。ぜひお知り合いやお友達をお誘いの上、ご参加ください。
プログラム、参加ミディアム・ヒーラなどの��細はこちらから。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
サマーフェスティバル用URL
ヒーリングサマーフェスティバル用URL
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サンデー・サービス(日曜 12:30〜14:00)詳細はこちらから。
9月29日  担当ミディアム:惠子・森
11月17日 担当ミディアム:松山:森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
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ドロップイン・ナイト 
10月17日(木)19:00〜20:00 会員限定・参加費2,500円
指導霊(スピリット・ガイド)のサイキックアート
詳細とお申し込みはこちらからどうぞ。
過去の開催の様子はこちらからご覧ください。
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モーニングワーシップ&コミュニオン(目覚めと祈りと瞑想)
10/27(日)9:00〜10:30  担当ミディアム:開堂・森
ご参加は無料ですが、一口500円からの寄付金をお願いしています。
当日は以下のリンクよりご参加ください。
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ss0014 · 1 year ago
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2024.4.14
こんなに質量のある日は他にあったんかな。
朝7時に千晶さんと初めて会う。吉祥寺。ファミレスでモーニング。
去年の11月に府中のおうちでかけてもらったラジオから流れてきた曲。
それが出会い。
千晶さんは今ニューヨークに住んでる。一時帰国のタイミングで初めて会った。
前から知ってる人みたいな会話の始まり。
美容院に行って髪の毛のメンテナンス。
お昼過ぎにももちゃんと会う。出会いはインスタグラムから手紙でのやりとり。
バイキングがおいしかった。初台〜新宿を散歩。日差しがきついね。
ショートカットの彼女を初めて見た。かわいくって、こっそり盗み見してしまう。
やわらかい笑顔で返事をする彼女。
新宿の喧騒も切り取られて。
帰ってから日焼けで顔が痛いので保冷剤を顔に乗せてベッドに横たわる。
冷たいものは痛い。
夜は中野から歩いて練馬へ。夜の散歩も楽しい。
白い桜が夜空に舞って大変綺麗。
22時半に吉祥寺に戻る。
ただちゃんとかずきくん。
ただちゃんはレモンサワーを飲んでご機嫌。
「星野さんはすごいから」と何度も言ってくれる。
「星野さんはブルースなんだよ」と言う。言いたいことはわかったけど気持ちはわからなかった。
私はただちゃんが好きや。
そのあと「星野さんの意気地なし!」と言われた。私も、自分の気持ちのことはわからない。
意気地なしみたい
0時過ぎ、お互い終電近くで帰る。
思い返せば今日は、過去に自分がビビッときて繋がった人たちばかりに会った。
一目みてなにか思ったひとばかりで時間が過ぎてもこうやって話せる。
極めつけはインスタグラムでの出会いであった。
こんな日に、ドキドキするようなアクションがあったのだ。すごく不思議やけどそれくらい気持ちも
強くなってたってこと?
三日月ぼんやり。ちょっと酔った。
もう眠ったらいいのに
2024.4.15 
あだち麗三郎さんの曲を聴いている。
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ichinichi-okure · 2 years ago
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2023.11.11sat_tokyo
今日の予定 ・天王洲アイル、サベラティッカでのランチ ・國學院大博物館での三嶋信仰にまつわる企画展 ・高円寺で円筒分水の写真展 9時頃起床。外は曇り気温は10℃以下。 朝食/蒸したブロッコリー 出かける準備を済ませランチでサベラティッカ(天王洲アイル) ここは美味しいんだけど、驚く程安く、そして心配になる程に空いている。が、いつも店員は余裕ある接客。きっとオーナーは石油王か不動産王。 日によってシェフが違うのか同じメニューの出来や使用されるスパイスにかなりのバラつきがあるため運試しの定点観測。 この日のビリヤニは大当たり(前回は何故か激辛) これからも運試し続けます。
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恵比寿へ向かいバスに乗り継ぎ國學院大博物館へ。 こちらは、日本に2つしかない神道系大学の1つ(もう一つは伊勢の皇學館)で柳田國男や折口信夫もこちらで教鞭をとった。 校舎の周囲にはよくわからないオブジェの様なものや風化して原型を��めていない狛犬などが"無造作"といって良い状態で転がっている。さすが神道系
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精霊カワンチャの魔力は地味
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博物館の方は入館料無料ながら中々見応えのある内容で、三嶋の神がいかにして信仰されたのかを、プレートテクトニクスの説明も交え丁寧に解説していた。(そういえばこの企画も伊豆半島のジオパーク選定5周年を記念しての催し) 地形や地質等の環境と信仰にはそもそも切っても切り離せない関係があり、例えば伊豆の三嶋神も御島(みしま)が神格化され、半島のプレート北上と丹沢山地との大陸衝突に伴う大噴火や大地震の度にそれらを制御する為神格が高められてきた経緯がある。神様の世界でも地位や名誉は大事なのだろう すっかり暗くなった頃、東高円寺に到着、円筒分水の写真展へ。 ライバル(Rival)という単語の語源をたどると、ラテン語で小川の意味を持つrivusから派生したrivalisを語源としており、rivalisは同じ小川を巡って争う人々、転じて1つのものを求めて競い争う人々という意味になったように、水資源を巡り争いにまで発展した例は歴史的に見ても枚挙に遑がない。 そんな状況に一石を投じたのが円の持つ特性を用い、公平に灌漑用水を分配するため大正3年、可知貫一によって考案された円筒分水。 文化遺産としての価値はさておき、分水比が一目瞭然で誰にでも公平さが納得できる構造、また水と一体になった時の有機的な機能美、、ベッヒャーの給水塔シリーズのようにタイポロジーとしての写真集になっていても面白そうだ これまであまり意識したことは無かったが、この写真展を機に、これから旅する際は立ち寄ってみる事にしよう。
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-プロフィール- ヒゴ 品川区 DJ / フーテン/チリチリ酒場 https://instagram.com/noah_higo
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ronpe0524 · 2 years ago
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この世には不思議なことなど何もない9月(2023年9月の日記)
■2023/9/1 金曜日。9月がはじまった。そろそろ映画祭モードになっていくけど、今月はまだ余裕かな。007や寅さんを見進めることもできるでしょう。たぶん。お昼は丸亀製麺にて、釜揚げ大といなり。釜揚げ半額、ありがとうございます。WOWOWオンデマンドにて『姑獲鳥の夏』を見る。小説を読み直す余裕はないのでせめて映画を見直す。映画公開当時の自分より、いまの自分の方がこの映画に対する評価は高いし楽しめる。田中麗奈の中禅寺敦子が最高だし。ちなみに映像化される前の僕の敦子のイメージは松たか子だった気がする。京極堂はトヨエツ。榎さんは本木雅弘。木場修は小西博之、みたいなイメージだった。仕事終わりで下北へ。移動しながらNetflix『ONE PIECE』E2を見る。やはりアクションがもったいなさすぎる。アクション監督に谷垣健治さんを呼んでいたらすごい面白い作品になったんじゃないだろうか。下北到着と同時に『コワすぎ』のチケ取り。舞台挨拶回を取ってしまいましたよ。オムニバスコント公演 実弾生活23「旅のマシーン」@下北沢 駅前劇場。コント公演でもいろいろ話の構造とか考えながら観てしまう。どうやったらこうゆう発想が出てくるんだろう、とか。帰宅して寝る前に音源編集を1本やる。
■2023/9/2 土曜日。昼に受ける検査のために朝7時までしか食事をできない。なので早めに起きて朝食を食べる。PFFアワード2023のオンライン試写で『移動する記憶装置展』と『また来週』を見る。なかなか良い企画ですよね。しかもこれに参加すると映画祭のチケットまでもらるという。毎年やってください。実家で車を借りて病院へ。PET CTという何かのがんになったことがある人であればおなじみの検査。僕なんかもう慣れたものですが。まぁ検査自体が身体にいいものではないのでそんなに頻繁には受けられない。高額だし。問診の医師に「1年ぶり7回目ですねー」と甲子園出場校のカウントみたいな云われかたをした。別の病院でも過去に1回受けているので、僕はトータル8回この検査をしてるってことかな。検査が終わるともう14時過ぎ。車があるのでついでに昭島図書館へ行き本を返したり借りたり。実家に車を返しに行くと「これ食べていいよ」となぜかパックされた寿司があったのでありがたくいただく。中途半端な時間だったけど、これ食べるともう夕飯はあまりいらないやつだな。電車で帰宅。U-NEXT『フレンジー』を見る。clubhouseにて、U-NEXT『メディア王 ~華麗なる一族~』S4E9同時視聴に参加。ジ��ームズ・クロムウェル、ここにきてすごい演技(場面的にある程度読みながらできるところではあるけど)。来週のメルマガをもう書いてしまってから寝る。仕事が早い。
■2023/9/3 日曜日。僕が住んでいる立川市は投票日。歩いて5分のところに投票場所があるのはありがたい。午前中からAmazon Prime Video『赤と白とロイヤルブルー』を見る。昼から立川へ。kino cinéma 立川高島屋S.C.館にて『福田村事件』鑑賞。シネマシティにて『オオカミの家』と併映の『骨』を鑑賞。帰宅してからDAZNにてFC東京×福岡戦を見る。立ち上がりの10分ほどで2失点は痛すぎた。clubhouseにて、U-NEXT『メディア王 ~華麗なる一族~』S4E10同時視聴に参加。これにて完走です。大企業が家族経営の場合、裏側ではこんなバカなことが起きている。というのをなるべく1エピソード1シチュエーションで見せる、というコメディであったと僕は見たのですが、後半になってくると各キャラクターに深みが出すぎて、クリエイター側も当初意図していなかったぐらいのところまでいってしまったドラマ作品だったと思います。構成として近いと思ったのはダニー・ボイルの『スティーブ・ジョブズ』ですかね。最終回ということで僕が作ってきたクイズ大会もできて良かったです。
■2023/9/4 月曜日。朝から予定変更がありバタバタと連絡。雨が降っているので朝ウォーキングはお休みです。しかもぼんやり最寄り駅に向かったら乗るはずの電車に間に合わず、いつもより遅い出勤となってしまいました。どんまい。お昼はCoCo壱にて、マッサマンスパイスカレー(一辛)。1000円超えてしまったよ。僕のランチ予算の倍ですよ。USにメールしてもすべて不在通知が返ってくる。そういえば昨夜の同時視聴でUSから参加しているワーママさんが祝日だと云っていた。仕事終わりで立川へ。U-NEXT『魍魎の匣』を見る。めずらしく夜にあった中尾ちひろさんのカラオケ配信を見る。舞台お疲れさまでした。kino cinéma 立川高島屋S.C.館にて『アステロイド・シティ』鑑賞。帰宅してから映画の感想を1本考える。
■2023/9/5 火曜日。iPhoneのソフトケース的なやつが割れてしまった(ソフトのくせに)ので、Amazonの購入履歴を遡って同じものをオーダーしたのが到着。透明なシリコンのケースなんですけど交換したらびっくりするほどiPhoneの白が見えるようになった。「黄変しにくい」って書いてあるのにどんだけ変色してたんだ。お昼は丸亀製麺にて、てりやきタル鶏ぶっかけうどん冷並と太刀魚天。丸亀の新作は発売日に食べておきたいですね。うっかり太刀魚天まで食べてしまったら900円以上になってしまったが。Netflix『ONE PIECE』E3を見る。しかし考察やレビュー的なものを「ツイート」で、発表されたばかりの作品に対して明らかなネタバレ(どのキャラクターが死ぬ等)を含むかたちでやるのって明らかにモラルがないと思う。どんなに立派な(つもりで)言及をしていたとしても。そういうのやる人って、人の言動にばかり厳しく接している印象で、自分が発進するものへのチェックは雑なんだなぁと思う。常に自分は正しいという考えなんでしょうね。というようなことは、この日記だけで書いておく。自分のTwitterでは決してツイートしない内容。帰宅してからAmazon Peime Video『オフライン・ワールドへようこそ』を見る。これ見ただけで疲れてしまっておねむ。映画の感想を考えるのを1本やりたかったけど断念。
■2023/9/6 水曜日。昨夜早々に寝てしまったので睡眠はばっちりであります。絶賛遅れて見ている『あまちゃん』再放送、ついに東京編に突入です(遅い)。朝ウォーキング中にジャンプを立ち読み。『人造人間100』が最終回。来週から3週連続で新連載がはじまるみたいなのであと2作は終わるのでしょう。あれとあれかなぁ。お昼はマクドナルドにて、七味香る牛すき月見。本日発売のやつ。Netflix『ONE PIECE』E4を見る。仕事を17時半で切り上げ、ようとしていたら、17時20分に上司が「ちょっといいかな」と話しはじめ、全力で聞かれたことを説明し、話しながらPCを落とし、なんとかオフィスを脱出してギリギリで予定の電車に乗り込む。あぶねー。有楽町を向かう。『アソーカ』を見はじめたらなんだか睡魔が。おかしいな、昨夜はがっつり寝たはずなのに。ここは寝た方がいい気がして寝ながら移動。ヒュートラ有楽町にて『イ・チャンドン アイロニーの芸術』と『悪魔の追跡』を鑑賞。2本ともかなり集中して観れたので電車で寝ておいて正解だったなぁ。帰りながらDisney+『スター・ウォーズ:アソーカ』E4を見る。面白いしサビーヌが大変良い。帰宅してからDisney+『アイ・アム・グルート』S2E1を見る。
■2023/9/7 木曜日。7日?もう9月に入って1週間ということを意味している数字だと思うのですが俄かには信じられません。お昼はマクドナルドにて、月見マックシェイク長野県産シャインマスカットとチキンマックナゲット柚子胡椒マヨソース。会社の近くの店舗でもちいかわのおまけ、品切れだった。Netflix『ONE PIECE』E5を見る。帰宅しながらDisney+『アイ・アム・グルート』S2E2を見る。帰宅してからNetflix『GAMERA -Rebirth-』E1を見る。U-NEXT『コンフィデンシャル 共助』を見る。映画の感想をひとつ考える。clubhouseにて『アステロイド・シティ』感想会に参加。あと即席で準備したクイズ。話し終わるとChemical Brothersの新譜がリリースされていた。いえーい。
■2023/9/8 金曜日。大雨。娘は学校からお休みの連絡を待っていたようですが休校にはならなかったようです。残念。朝ウォーキングはさすがに断念。お昼も買っておいたコンビニパンを自席で食べる。自席では動画とか見にくいし、やはりお昼は外に出たいところです。帰宅しながらNetflix『ONE PIECE』E6を見る。帰宅してからDisney+『アイ・アム・グルート』S2E3を見る。Netflix『GAMERA -Rebirth-』E2を見る。U-NEXT『わたし達はおとな』を見る。うーむ、こいつはなかなかしんどい映画だ。映画の感想を1本まとめてから寝る。
■2023/9/9 土曜日。午前中から渋谷へ向かう。移動しながらWOWOWオンデマンド『バッドガイズ』を見る。途中でChemical Brothersの『GO』が流れるとこ、かっこいい。ヒュートラ渋谷で『戦慄怪奇ワールド コワすぎ!』鑑賞。豪華キャストにより舞台挨拶付き。とくに赤い女を演じた南條琴美さんはあまり表に出てこない人なので登壇がとても嬉しい。昔よく聴いていた「ペガの屋根裏部屋」というPodcastにゲスト出演していたりで僕は知っていたのですが、以前に名古屋のシネマスコーレで映画を観たときに同じ回を観にきてた南條さんを見かけたことがあったんですよね。また映画とか出てほしいところ。村山章さんががっつり手がけたパンフも購入です。お昼を食べる時間はなかったので帰宅してからヤンニョムうどんを作って食べる。かなりテキトーな調味料のバランスで作ったけど美味しくできた。もう二度と再現はできない。コチュジャンは偉大なり。PFFアワード2023のオンライン配信がはじまった。今年も順番に見ていこうと思います。U-NEXTで『ふれる』『Flip-Up Tonic』『Parking Area』を見る。塾から帰宅した娘の夕飯を準備。よく食べるようになったなぁ。Netflix『ONE PIECE』E7を見る。Disney+『アイ・アム・グルート』S2E4を見る。U-NEXT『エルム街の悪夢 』を見る。clubhouseにて、U-NEXT『チェルノブイリ』E4同時視聴に参加。本当に重いドラマだ。延長戦的にとあるテストに参加。これは楽しめそうですね。
■2023/9/10 日曜日。早朝に行われていたサッカー、ドイツ代表×日本代表の試合は見れなかったけど結果を見てびっくり。午前中から昭島へMOVIX昭島にて『ほつれる』『禁じられた遊び』『PATHAAN/パターン』鑑賞。3本観る間にバタピーしか食べていなかったけどぜんぜん大丈夫でした。インターバル時間に昭島図書館にも行けた。帰宅してからU-NEXTでPFFアワード作品『リテイク』を見る。clubhouseにて、U-NEXT『チェルノブイリ』E5同時視聴に参加。これで完走。評価が高いだけあって見応えありますよね。僕は2度目でしたけど本当に要点をわかりやすく描いていると思います。でもやはりぐったりします。延長戦的なclubhouseではあまりのバカバカしさに大笑いしましたが。U-NEXTでPFFアワード作品『ちょっと吐くね』を見る。
■2023/9/11 月曜日。お昼休みにNetflix『ONE PIECE』E8を見る。これで完走。まぁまぁ楽しめたと思いますし、子供が見れる海外ドラマとしてもいいと思います。Disney+『アイ・アム・グルート』S2E5を見る。これでシーズン2完走。4~5分の作品でも律儀に1日1エピソードを見ていくスタイル。仕事終わりで実家へ。実家に泊まらせてもらう。娘と泊まりにくると娘が寝るまで大変なのですが、ひとりで泊まりにいくと本当に楽。母上の無限に続く話を聞いていればいいだけです。U-NEXTで『逃避』『うらぼんえ』『こころざしと東京の街』を見る。PFFアワード作品。病み上がりのラロッカさんとDiggin' Netflix収録。やや元気のないラロッカさんの映画感想は来週配信予定です。
■2023/9/12 火曜日。実家の朝食をいただく。ごはん3杯ぐらい食えそうなおかずが出てくる。いやいや。朝ウォーキングもできないのでゆっくりめの出勤。めんどくさい調査、問い合わせ、これ俺の仕事じゃないよね?的な案件が多くて憂鬱です。吉祥寺プラザが閉館するとの報。まぁしょうがないかなぁ。最後に行ったのは2021年の『野球少女』だったかな。帰宅してからサッカー日本代表×トルコ代表の試合を見る。伊東純也はやいー。次のW杯もいけるのかな。映画の感想を1本考える。U-NEXTにて『リバーシブル/リバーシブル』『肉にまつわる日常の話』『Sewing Love』を見る。PFFアワード作品。そろそろ半分ぐらい今年のアワード作品を見たと思うのですが、今さらU-NEXTでプログラム単位で見ていくより、DOKUSO映画館の見放題プランみたいので見た方が安いということに気づいてしまった。今から切り替えてもさらにお金がかかってしまう。くそー。
■2023/9/13 水曜日。娘は今日から小学校の移動教室的なやつで八ヶ岳へ。なんか旅行委員的なやつ(あったなーそういうの)をやっている娘は出発前の生徒代表挨拶みたいのを読むらしくちょっと緊張していた。妻が録画した動画を見てみたらうまく読めてた。がんばったがんばった。まず旅行に行けて良かったね、という状況ですが、楽しくすごせたらいいね。お昼はOKで買った骨なしフライドチキンとおにぎり。Disney+『スター・ウォーズ:アソーカ』E5を見る。こういう展開かー。あと日本語のエピソードタイトルはちょっと違うと思います。そのうち修正されそう。帰宅途中、拝島駅構内の書店で京極夏彦の新刊『鵺の碑』が並んでいるのを確認。でも今回は電子で読むのでぐっとこらえる。帰宅してからU-NEXT『鳥籠』『サッドカラー』を見る。PFFアワード作品。イシヤマさんとDiggin' U-NEXT収録。次のお題がちょっと特殊なのでその話もする。収録終わってU-NEXTの書籍で検索したら『鵺の碑』があった。購入してちょっとだけ読む。なかなか本編がはじまらない構成。どんぐらい読んだかなぁと確認したら3%だった。さすが京極夏彦。寝る。
■2023/9/14 木曜日。朝から八王子の病院へ。本日は先日受けた検査の結果を聞くのみ。結果は問題なし、という感じではなく、ちょっと心配な部分があるからいろいろ追加で検査してみましょう、という感じに。こういうのはけっこう落ち込みますね。すぐに会社に向かえば午前半休をキャンセルしてフレックスで吸収できそうだったけど、病院のロビーに座って読書。現実逃避。午後から出勤。帰宅してからもなるべく『鵺の碑』を読む。関口、益田、木場修、京極堂。モジュラー型で話が進んでいるようでそのすべてが日光に関係してきそう。いまのところ一番面白かったのは益田と薬局の人たちの話。けんす君、なんすけ君とDiggin' Amazon Prime Videoの収録。収録終わってからもちょっとだけ『鵺の碑』を読む。一週間ほどで読み終えることができる筈。がっつり読書するのが久しぶりなので自分のペエスが判らない。些か文章の書き方まで影響が出てきた気がする。ちなみに僕の文章で「いう」という言葉の表記が「言う」ではなく、殆どの場合「云う」と表記しているのは完全に京極夏彦の影響です。『鵺の碑』、現在32%。
■2023/9/15 金曜日。通勤の電車でも『鵺の碑』を読む。問題は電車に乗ってる時間が10分ぐらいしかないことである。お昼は丸亀製麺にて、焼きたて肉うどん並。750円なり。U-NEXT『バリー』S4E1を見る。待望の最終シーズン。仕事終わりで渋谷へ向かう。移動中はなるべく読書。Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』鑑賞。上映後トークにはアルノー・デプレシャン監督のトーク付き。メルヴィル・プポーのビデオメッセージもあり。帰りの電車からclubhouseに参加。帰宅してシャワーあびたりしてからまたclubhouseに戻り夜中まで話してしまった。『鵺の碑』、43パーセント。
■2023/9/16 土曜日。今日から3連休だー。昨日、八ヶ岳から戻った娘。疲れているのか微妙に機嫌が悪い。こういう時は気を付けて接しないといけない。お土産のソフトキャンディをくれた。Netflix『モンキー・キング』を見る。U-NEXT『バリー』S4E2を見る。電車で小川町へ。豊はるにて、パイカ玉うどん(冷やし)を食べる。「豊しま」で働いていた方が独立して出したお店のようですね。平日のお昼は混んでいるんだろうなぁ。京橋へ移動。歩いたら40分ぐらいなのですが、暑いから電車で移動。国立映画アーカイブに向かう途中でまるゆさんを発見。トートバッグが目立つ。PFF、アルノー・デプレシャン監督特集 『イスマエルの亡霊たち』鑑賞。数年前のTIFFで見逃がしたやつ、まさか観るにこんなに待つことになるとは。上映後トークにはアルノー・デプレシャン監督と、聞き手として清原惟監督が登壇。予定時間をオーバーするぐらいのがっつりした内容でした。さらにもう1本アルノー・デプレシャン監督特集 の『二十歳の死』も鑑賞。こちらはPFFアワード作品のオンライン試写の参加特典として招待いただいたものなので無料。オンライン試写で映画も見せてもらって、さらに映画に招待いただけるとは。ありがとうPFF。なるべく読書しながら帰宅。寝る前に音源の編集を1本やろうと思ったが途中で眠くて断念。『鵺の碑』、60%。
■2023/9/17 日曜日。 午前中から下北へ。北沢タウンホールにて下北沢映画祭「群青いろ」新作特集 『雨降って、ジ・エンド。』鑑賞。上映後には高橋泉監督と廣末哲万さん登壇によるトークも。上映前には映画を観にきていたまつむらしんご監督に遭遇してちょっとだけご挨拶。Podcast出てもらったお礼をあらためて。渋谷へ移動。なんか渋谷はお祭りの日だった。ユーロスペースにて『燃えあがる女性記者たち』鑑賞。上映後にはなんどり稲垣紀子さんのトークあり。帰りに吉祥寺のさとうに寄りコロッケとカレーコロッケを買って帰る。コロッケサンドにして夕食に食べる。夜はなるべく集中読書。U-NEXT『マイ・ダディ』を見る。音源を1本編集。メルマガ原稿もやる。『バリー』を1本見ようと思ったけど眠くて断念。『鵺の碑』は80%。
■2023/9/18 祝日の月曜日。3連休って素晴らしいですよね。午前中から立川へ。シネマシティで午前十時の映画祭13『ミツバチのささやき』鑑賞。お客さんいっぱいだ。昨日買ったさとうのコロッケで作っておいたサンドをお昼に食べる。食べながらも読書。シネマシティで『グランツーリスモ』鑑賞、aスタ極爆上映で。帰宅してからも集中読書。で、ついに『鵺の碑』読了。木曜からだから5日かかった。僕はもともと本を読むのも漫画を読むのも遅いのですが、ここまで集中して小説を読むのは久々。以前の百鬼夜行シリーズであれば徹夜をするように読んでいたのですがもうそんなことはできない。17年ぶりってあらためてすごいですよね。『邪魅の雫』のとき、僕はまだ29歳だったということか。まだ結婚もしてなかったし、大きな病気もする前で今から考えればとても元気だった。ムリもできた。驚くことに東日本大震災よりぜんぜん前で、それですでに『鵺の碑』は予告されていた。作品の内容的にはその時点でもうこのテーマを含んでいたのだろうか。見事にミスリイドされた部分はありましたが今回も堪能いたしました。あと僕は「巷説」シリーズを途中までしか読んでいないので、これもいずれ読まないとなぁ。久々に集中して読書を楽しめたのは嬉しかったけど、ただやはり今の僕には読書に時間を取るのは難しいということもわかった。どう考えても(主に家で見る)映画鑑賞をストップしてしまうのだ。この時間の足りなさはなんとも悩ましい。夜、ラフランスさんTomokaさんと『グランツーリスモ』感想clubhouse。そんな感じで3連休はお終い。
■2023/9/19 火曜日。朝ウォーキングしているとまだまだ暑い。そろそろ東京国際映画祭のラインナップ発表があると思うんですけどね。と思っていたら昼前にすごい中途半端な情報が出た。フルラインナップはもっと遅いってことだろうか。あとケリー・ライカートが来日するってことは『First Cow』を上映するってことですかね。なんの枠か知らないけど。仕事終わりで昭島へ。今日発売の新商品を食べる気まんまんで松屋に行ったらなんか暗い。どうやら店舗が停電しちゃってるみたいでまともに営業できてない感じ。あきらめてすき家へ。月見旨辛すきやき牛丼を食べる。こちらも美味しかったのでよし。U-NEXTで『名探偵ポワロ』S12「ハロウィーン・パーティ」回を見る。配信、とてもありがたいのですがU-NEXTは字幕のみのポワロさんなんですよね。モンデュー。吹替で見たかったよモナミ。あと英語で見るとポワロさんがやたら「indeed」って云うんですね。MOVIX昭島にて『ミステリと言う勿れ』観賞。ムビチケ提供Yuさん。ありがとうございます!Twitterの映画感想には書かないことをこちらで書きますけど、まず僕は『ミステリと言う勿れ』の原作は未読です。ドラマはすべて見ています。その上で映画版はとてもよくできていたと思います。ドラマ版もよくできていたとは思うのですが、気になる部分もあったのです。僕は原作を未読なのでそれが原作通りなのか、ドラマ版の脚色なのかまではわかりません。ひとつ挙げると、たしか小日向文世が出演していた病院のエピソードで整くん���例えば、という過程の話で正解ではない事件の構造というか、動機のような部分をすごいスピードで説明します。その論理的な思考の面白さ、という場面ではあるのですが、ここで説明される話は、別のミステリ作品の真相(トリックといってもよい)そのものです。ものすごい有名な構造だし、実際に僕はその作品を読んでいるから、そこに思い至ったわけですが、とくにあのドラマを見ていた多くの若い視聴者はそのミステリ作品を読んでいないでしょう。そして将来、ミステリが好きになってその作品を読むかもしれない、そう考えるとドラマの中であのような話を出してしまうのはどうなのだろう、と思ってしまいます。昔、『金田一少年の事件簿』という漫画作品でとある有名本格ミステリのトリックの流用がありました。SNSがない時代でも問題となっていたのを覚えています。ミステリ作品でトリックやネががかぶることはある程度許容すべきだとは思うのですが、あまりにもそのまんまであったり、その話をする必要があったのだろうか?という部分についてはやはり気になってしまいます。帰宅してからU-NEXT『ジョン・ウィック』を見る。復讐、いや復習開始がちょっと遅かったなぁ。
■2023/9/20 水曜日。お昼はマクドナルドにて、プリプリエビプリオを食べる。プリプリしている。Disney+『スター・ウォーズ:アソーカ』E6を見る。いやー素晴らしいな。泣いちゃうよこんなの。仕事終わりで昭島へ。U-NEXT『バリー』S4E3を見る。『レインマン』見たくなってしまったな。MOVIX昭島にて『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』観賞。帰宅してからU-NEXTにて『ジョン・ウィック チャプター2』を見る。音源編集1本やりたかったけど無理だ。寝る。
■2023/9/21 木曜日。午前半休で八王子の病院へ。先日の検査の結果を受けて普段は行かない消化器内科へ。まぁ大丈夫でしょうけど、と云われつついろいろ検査を予約。久々に大腸検査を受けることになってしまった。あの下剤飲むの苦手なんすよねぇ。採血までやってたらもうお昼。病院のパン屋で買ったパンでランチ。U-NEXT『バリー』S4E4を見る。豪華(?)ゲストが。あと砂のやつにびっくり。あとラストの展開にもびっくり。午後から出勤。通院のための休暇を設定する。検査で休暇が減っていく。帰宅してからU-NEXT『ジョン・ウィック パラベラム』を見る。馬フーのとこ、声出して笑ってしまう。音源の編集を1本やる。ここまでやったらもう眠い。未見のPFFアワード作も見たいんですけどね。
■2023/9/22 金曜日。雨が降りそうだけど朝ウォーキング行けるか?どうなのか?と思いつつ歩く。ちょっとだけ降られたけど傘を出すほどではなかったのよしとしましょう。お昼も雨かもしれない、とサンドイッチを作って持参したのですが晴れてた。U-NEXT『バリー』S4E5を見る。どっかで見た人が出てるなぁと思ったら『ピースメイカー』の刑事の人か。アニー・チャン。仕事終わりで立川へ。U-NEXTで『完璧な若い女性』を見る。PFFアワード作品。シネマシティにてBOND60『007は二度死ぬ  4Kレストア版』鑑賞。そしてコヨイチの『二度死ぬ』回を見ながら帰る。この4レストア版見てからのコヨイチ、おすすめです。
■2023/9/23 土曜日。土曜の祝日で損した気分。U-NEXT『ホモ・アミークス』を見る。PFFアワード作品。午前中から昭島へ。MOVIX昭島にて『バーナデット ママは行方不明』鑑賞。昭島図書館で娘の本を返したり借りたり。予約本だけで15冊。重っ。MOVIX昭島にて『ジョン・ウィック コンセクエンス』鑑賞。ド兄さんのステッカーもらえて嬉しい。途中からになってしまったけどDAZNでFC東京×鳥栖戦を見る。逆転勝利、熱い。WOWOWオンデマンド『リミット』を見る。韓国映画のやつ。音源編集を1本やる。U-NEXT『バリー』S4E6を見る。clubhouseにて、U-NEXT『イコライザー』同時視聴に参加。初マッコールさんの人が多くて楽しい同時視聴となりましたー。
■2023/9/24 日曜日。急に秋。お彼岸ってこともあり娘と実家へ。お昼ごろに従妹が娘ちゃんを連れてやってくる。従妹の娘ちゃんはまだ幼稚園の年中さんとのこと。うちの娘が昔遊んでたおもちゃを出してきて遊んであげていた。えらいぞ。従妹の姉ちゃんは僕より二つ上だけど、彼女も数年前に大きな病気をしていた。この年齢になってくると久々に会っても病気の話と子供の話ばかりになる。午後はがっつり昼寝をしてしまう。びっくりするほど実家だと安心して寝てしまう。娘はひとりで勉強したり本を読んだり絵を描いて遊んでいたようだ。えらいぞ。夕飯はスシロー。ちくわ天寿司(120円)が写真のビジュアルとかなり違っていてびっくり。帰宅してからU-NEXT『じゃ、また。』『ハーフタイム』『不在の出来事』を見る。PFFアワード作品。ラジオを聴きながらメルマガ執筆。clubhouseでひと笑いしてから寝る。
■2023/9/25 月曜日。通勤する服装が急に難しくなってまいりました。お昼は丸亀製麺にてひやかけ並とかしわ天。食べれるうちにひやかけを食べておきましょう。U-NEXT『バリー』S4E7を見る。クジノー先生がすすめようとしてる映画化の話が面白い。仕事終わりで昭島へ。松屋にて、ネギ塩牛焼肉丼。うまい、うまいですよネギが。MOVIX昭島にて『ミュータント・タートルズ ミュータント・パニック!』鑑賞。吹き替え版で。カワバンガ!帰宅してからU-NEXT『USE BY YOUTH』と『ただいまはいまだ』を見る。これで今年のPFFアワード作品を全作見れた。予定より見るのが(鵺の碑のせいで)大幅に遅れてしまいました。今年の僕の中でのグランプリは、たかはしそうた監督作『移動する記憶装置展』でした。こちらはそのうち普通に劇場公開すると思うのでみなさん是非是非。うとうとしながら音源編集を1本やって寝る。やりながら半分寝てしまっていたけど大���夫だろうか。
■2023/9/26 火曜日。Twitterでアカウントごとに「リポストをオフにする」という設定、機能があることを今さら認識する。これいいな。フォローしている人でもとにかくRTがうざい人っているんですけど、これを使えば良かったのか。お昼休みにU-NEXT『バリー』S4E8を見る。これにて『バリー』は完走です。シーズン4は全エピソード、ビル・ヘイダー自らが監督。ヒロ・ムライのクレジットもなかったと思うし、自分でこのバリーの物語を完結させたかったのかな。やりきったと思います。仕事終わりで立飛へ。TOHOシネマズ立川立飛にて『コンフィデンシャル 国際共助捜査』鑑賞。残念ながらのおひとり様鑑賞でした。面白いのになー。帰宅してからWOWOWオンデマンド『三姉妹』を見る。音源編集を1本やってから寝る。
■2023/9/27 水曜日。MUSIC GARAGE:ROOM 101をradikoタイムフリーで聴きながら朝ウォーキングをしていたら僕のツイートが志保辺さんに読まれていて嬉しかったです。お昼前に会社の避難訓練。4年ぶりの開催とのこと。もういろいろ忘れてます。フロアの副隊長的な役目なのでいろいろやんなきゃいけないし。とゆうわけでいつもより遅くなったお昼ごはん。丸亀製麺にてひやかけ並と万願寺とうがらし天。Disney+『スター・ウォーズ:アソーカ』E7を見る。ヘラの窮地を救ったのは意外なゲスト。14時からTIFFの会見なんですが、14時半からMeetingという。くそー。Meeting終わってからざっとラインナップを確認。いろいろ調べはじめないと。帰宅してからNetflix『伯爵』を見る。もうちょいいろいろやりたいことがあったのに眠くなってしまい早々に撃沈。むむむ。
■2023/9/28 木曜日。本日は休暇をいただいております。明日の検査のために、今日一日は水かお茶しか飲んじゃダメとのこと。普段、コーヒーを飲んでるのでなんかさみしい。あれ。Bluetoothイヤホンの右が死んでる。これ、この前買ったやつなんだけどな。うーん、安いやつは弱いのか。午前中から祖師谷大蔵へ。はじめて降りる駅だ。なんかウルトラマンを推している感じがするのでなんかゆかりのある地なんだろう。調べれば5秒でわかりそうな気がしますが調べません。天たまや 祖師谷大蔵店にて、天とじうどん(えび天一本)。ごはんも無料で付けられる。ラストは出汁にごはんを投入。満足。下北へ移動。ヨーロッパ企画第42回公演 「切り裂かないけど攫(さら)いはするジャック」観劇@本多劇場。アフタートークまで含め堪能。隣の人がちょっとにおいがきつい人だったんですけど、こうゆう時はティッシュを鼻につめてしまう。こんな時、マスク社会はいいですね。息苦しいですけど臭いのをがまんして観劇をするよりはまし。帰宅して早めの夕食を食べる。U-NEXT『魂のゆくえ』を見る。WOWOWオンデマンド『カラミティ』を見る。夜の散歩をしながらMCTOS『モンキー・キング』回に参加。ラロッカさんが不在だったのでアフタートーク的スペースにも参加です。
■2023/9/29 金曜日。朝食抜き。午前半休で八王子の病院へ。実ははじめての胃カメラ。口がまともに開かない僕は鼻からの内視鏡です。さすがに気持ち悪かった。でも検査してくれた医師が「詳細は後日ですが、大丈夫でしたよ」と軽く云ってくれてとても安心。こういうのありがたいです。病院のパン屋で買ったパンでランチ。Amazon Prime Video『ジェン・ブイ』E1を見る。けっこう面白いぞ。午後から出勤。1.5日休んだわりにはメールがたまってなくてホッとする。仕事終わりで昭島へ。MOVIX昭島にて『ハント』鑑賞。ひとり客が多くて、熱心な韓国映画ファンが集まっていたのかも。帰宅してからU-NEXT『男はつらいよ 寅次郎と殿様』を見る。余裕が出てきたので月一寅さんも再開。これで19作目。自分が生まれた1977年の作品だ。寅さんVS執事(三木のり平)が最高。
■2023/9/30 土曜日。なんか雨降ってますけど。電車で仙川に向かう。移動しながらAmazon Prime Video『ジェン・ブイ』E2を見る。電車を分倍河原で乗り換えようと思ってたら人身事故により調布あたりで京王線が止まってる。どうしようかと思ったけど、やや遠回りの稲田堤乗り換えで向かうことに。稲田堤は南武線��駅と京王線の駅が離れているので街中を歩くことになる。稲田堤って20年以上前、社会人になって最初にお付き合いした人が住んでた場所なのでかつて知ったる街なのですが、さすがに様変わりしていてぜんぜんわからない。京王の駅前に知らないうどん屋さんを見つけたのでメモる。予定よりかなり遅れたけど仙川にたどり着けた。「手打ちうどん 麦ヶ丘」にて、とり天せいろ。今年OPENしたうどん屋さんをいろいろ食べているけど本命的な一店かもしれない。行って良かった。そしてこれで2023年新規OPENのうどん屋10店目に行けた。つまり年間ベスト10が出せるレベルとなりました。下北へ移動。古本屋をぷらぷらしてからスズナリへ。赤堀雅秋 一人芝居「日本対俺」観劇。めちゃくちゃ面白かったし、この回を選んで良かった。吉祥寺のさとうでまたコロッケを買って帰る。帰りの電車でAmazon Prime Video『ザ・コンチネンタル:ジョン・ウィックの世界から』E1を見る。おっとまたマトリックスのオマージュが。インスタを見てたら入江監督のポストによく知った顔を発見。チートイツさん、みなみ会館まで行ってるー。帰宅してからWOWOWオンデマンド『チケット・トゥ・パラダイス』を見る。夜はclubhouseで最近観た映画について話したり映画クイズしたり。京都みなみ会館の閉館を惜しみつつ9月も終わり。
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shisui2021 · 2 years ago
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2023.08.03
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足利市立美術館に「顕神の夢ー霊性の表現者ー超越的なもののおとずれ」を見に行った。 元々JRの,のんびりホリデーパスを使い倒したいという願望があり,丁度端っこにある足利で展覧会をやっていることに気づき,数日前から通い始めた都立図書館の休館日に合わせて,急遽予定を組み立てた次第である。 何度かTwitterで見て興味はあったものの,足利ってどこだ,というくらいの認識で,なかなか行けそうには思っていなかった。けれども,私の住まう町から2時間半もあれば,到着してしまうことが判明し,東京ー広島間の4時間半に耐えた身としては,臍で茶を沸かすようなものだった。結局,修論も,見えないけれどある世界,と,どう対峙していくか,ということになりそうだし,逃れられないところに来ている。
降り立った町足利は,沼津にも似た地方都市で,基本的に駅の目の前は栄えていないことがわかった。街を歩いていると,古いものと新しいものが共存する姿は鳥取にも似ていて,面白さを感じる。街が造られた時代もあるのかもしれない。 事前情報では知っていたものの,足利市立美術館は,美術館の上にマンションタイプの住宅がある。いざ,目の前にしてみると,なかなかに奇妙な光景である。「足利市立美術館」と掲げられた文字の下に,団地のような佇まいの家々があり,その下にはガラス張りの美術館がある。それらは,平坦な足利市街からは,飛び出していて,より一層奇怪さを醸し出している。 平日の,開館から30分位しか経っていない時間なのに,会場にはそこそこの人がいて,面食らうとともに安心した。生物群さんのtweet(https://twitter.com/kmngr/status/1685286401242447872?s=20)にもあったが,”場の歪み”を感じた。あ,やばいところにきた,という感じで,鳥肌が立った。ここに一人で取り残されたらいてもたってもいられなくなるだろうな,という感じがした。
展示は出口なおの自動書記から始まり,次々と続いていく。最初に出口なおを持ってくるあたり,やってんな,と思う。字も書けない農家の一般女性が,神がかりにあった途端,神の言葉が書けるようになるなんて,なかなかどうして信じ難い。でも,彼女の筆跡は「かみさま」の「ま」だけ,どの字も大きく張り出していて,その緻密さが,歪で異常だった。 見えないものが見えるとは,こういうことか,と感心させられる。私が見えていないだけで,世界は存外広く豊かなものだと痛感させられる。宮川隆の絵が好きだった。人間の顔がみな仏の顔をしていて,あぁ見えちゃったんだな,と笑ってしまった。京都の三十三間堂を思い出した。どこかに自分の知ってる顔の仏様がいる。線がとても良い。今川宇宙ちゃんが昔よく描いていた,イラストの線によく似ている。どこかで同じなのかもしれない。 花沢忍も良かった。図録に書かれていた,おばさんが夢に出てくる話はよく知っていることだった。私もそういう夢を見たから。だからこそ,そのことを,向こう側との垣根のなさに捉えているのが嬉しかった。おんなじように世界を捉えようとしている人がいることを知れて嬉し���なった。 あとは,全般的に解説が,「無いとされているもの」に対して寛容で,けれどもあちら側には行かず,その存在を認めた上で,こちら側に立って話をしてくれているのが良かった。彼らのことをフラットに手渡してくれる書きぶりに好感が持てた。 眺めていると,視線が気になった。作品に描かれている人,自画像であっても,どの人も眼差しが強い。見られている,という感覚に陥る。看取られている。見透かされている。その眼差しの異様さに怯えてしまう。 道中に読んでいたデイヴィッド・アーモンドの『肩甲骨は翼のなごり』を思い出す。ウィリアム・ブレイクをこよなく愛する母子の眼はとても強く,あらゆることを見通すような眼差しだった。そういうことか。見えている人特有の眼があるのだ。彼らはみな無意識かどうかその眼を知っているのだ。その眼は日常とは異なっているから,ズレが生まれるのだ。不思議なところでつながりが生まれるから,���うしたって世界に触れることは面白い。今まで話したことを全て覚えている彼女に「強い眼をしている」と言われた私はどうだろう。何が見えているんだろう。 エネルギーが吸い取られるのを感じながら,図録を買おうか迷いミュージアムショップへ向かう。宮川隆の作品集『みやこ』を発見したため,即購入する。出会うべき時に出会った本は,ただちに買う。
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ぶらりと入った喫茶店でカレーを食べ,チャイを飲みながら机に齧り付くようにして宮川隆の作品集を読む。隣の席には上品な車椅子のおばあさんと息子夫婦と思しきグループがいて,チラチラと様子を伺ってしまった。 その後,炎天下の中足利学校と鑁阿寺(ばんなじ)に行き,フラフラになりながら渡瀬川を見にいく。暑さのせいであまり記憶がないが,一人でものびのび行動できる自分に戻ってきた。そこから佐野に移動し,フラフラと佐野厄除け大師に向かう。一応寺院なのに,間違えて拍手をして参拝してしまった。方位厄であることが発覚し,お守りを買おうかどうか閉場ギリギリまで迷っているとアリに足を噛まれたので,買えと言うことか,と思い,諦めて900円の方位よけを買う。高かった。水子供養の大きな塔があり,水子にお供えを!などというお菓子の自販機もあり,少し背筋が寒くなった。自分が妙齢の女性であることに気付かされる。何もなければ良い。 せっかく佐野に来たのだから佐野ラーメンでも食べるか,と思い,近くでGoogleマップの評価が良さそうな店に行く。店先で長髪の男性が佇んでおり,すわタバコを吸いに出た客かと思うが,あにはからんや店主であった。「お食事ですか?」「あ,いいですか?」「中へどうぞ」と言われ店内に入る。休憩中だったのであれば申し訳ないことをしたな,と思い,気まずさを隠しきれないまま,店の隅で小さく座る。とっとと食べて出て行こうと思った。佐野ラーメンはあっさりしていて美味しかった。いよいよ食べ終わる段になって,「ここ,地元の人ですか?」と聞かれ,店主と話をする。意外と話好きなようで,今日の美術館のこと,足利市が山姥切りを買ったこと,佐野市の美術館のこと,自分の息子のことなどを話してくれた。久々に人とこういう形で会話をしたので,その新鮮さに感動していた。帰り際にさのまるの話をすると,マンホールカードをくれた。お前はこういうところがあるから気をつけなくてはいけない。
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ゆらゆらと列車を乗り継いで帰る。小山ー大宮間で見た夕焼けがひどく綺麗だった。紺と橙のあわいが空に溶けていて,いい旅をしたと思った。車窓の左端はもう夜になっていて,右側だけがまだ微かに昼の明るさを残していた。まさに越境だった。いい絵だと思った。
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brashbis · 7 years ago
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昨日はななみちゃんのカラーと撮影。 これやってみたくて、カッターで作りましたw(^O^) #一乗寺 #一乗寺美容室 #一乗寺美容院 #京都 #京都美容室 #美容室 #美容院 #撮影 #ヘアカラー #brashbis #ブラッシュビス #一乗寺brashbis #salonmodel #サロンモデル #instagood #instalike #instaphoto #fhoto #portofino #portraitphotography #ポートレイト (BRASH bis)
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ari0921 · 3 years ago
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桜林美佐の「美佐日記」(189)
際立った「軍」の存在ーエリザベス女王の国葬
桜林美佐(防衛問題研究家)
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おはようございます。桜林です。「男もすなる日記
といふものを、女もしてみむとてするなり」の『土
佐日記』ならぬ『美佐日記』、令和4年9月の今回
は189回目となります。
 前回、日本人とマスクの関係について書きました
が、同様の内容記事があるぞということで教えて頂
いたのが、こちら「デイリー新潮」です。
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c1454b1ac72fba0961d8d8746ca7fc7e2339ca8
 私はとても共感しますが、どうやらコメントには
批判的なものが多い様子(不快になるので全部は見
ませんが)。この気づきが自衛隊へのエールだと気
づかないのかな・・と。
提灯記事みたいなものだけを称賛するのが「自衛隊
応援団」であるならばとても残念です。
 コロナ時代になってからのことなのか分かりませ
んが、自衛官と道ですれ違ってこちらから挨拶して
も、おはようもこんにちはも言わない自衛官もいて、
マスクをしているのだからそれくらいはすべきだ
ろう!と、私は本当にこれは非常識な行為だと思っ
ています。
 何度もここで書いているように、自衛隊内での感
染拡大を防ぐため、家族とも会わないなど一般人か
らすれば想像以上の対策をし、国防に影響を及ぼさ
ない措置をしていたことに私は敬意を表します。
 しかし、そのために人としての常識を失ったら元
も子もないというものでしょう。そのあたりのバラ
ンシングがなんとも不器用な日本人です。
 先日はイギリスのエリザベス女王の国葬が執り行
われました。あ、そういえば、私がかつてニュース
デスクを務めていたラジオ局ニッポン放送では「エ
リザベス2世女王陛下崩御」としています。これま
でも「皇后さま」ではなく「皇后陛下」、「皇太子
さま」ではなく「皇太子殿下」などの呼称を重んじ
る数少ない(唯一?)の地上波メディアでしたので
誇らしく思います。
 産経新聞によりますと、天皇陛下を除く皇族の方
々の敬称に「さま」が広く用いられるようになった
のは平成以降のことで、各報道機関が「開かれた皇
室」や「親しみやすさ」のためにこのようにしよう
と自主的に判断したのだそうです。
 何と申しますか、昨今「人として大事なこと」「
日本人として大事なこと」の、いずれも軽んじられ
ていると思わざるを得ません。とはいえ、英国王室
につきましてはここでも「エリザベス女王」の呼称
を使わせて頂くことをお許し下さい。
先日の国葬に関する報道で驚いたのは、ここでも「
マスク問題」が取り上げられていたことです。
 参列された天皇皇后両陛下がマスクを外されてい
たことが各メディアでのトピックスになっていまし
た。
 テレビ中継されたウエストミンスター寺院でのs
ervisをご覧になった方はお気づきだと思いますが、
誰もマスクをしていません。
 それどころか、広大な寺院とはいえ聖歌の合唱、
主の祈りの奉唱、国歌斉唱、全てが声高らかに行な
われました。これらの多くが、日本国内の教会では
今なお実施されていないと仄聞しています。
 参列者には高齢の方もお見受けし、不安もあった
とは思いますが頓着していません。やはり、世界で
は今「最も大事なこと」を尊重する流れになってい
るのでしょう。
 もう一つ、イギリスが国家として大切にしている
ことと感じたのは、やはり「軍」の存在です。
ロイヤルファミリーの軍服での正装が見られました
が、皇室を離脱したヘンリー王子は軍服での参列を
認められなかったといいます。
 ヘンリー王子は陸軍に10年間在籍していました。
しかし、王室離脱後も軍の名誉職にとどまること
を望んでいたものの却下されたということです。
 ヘンリー王子は2005年に20才でサンドハー
スト王立陸軍士官学校に入り、装甲偵察の訓練後、
2007年アフガニスタンに派遣されました。
その後、陸軍航空隊でパイロットとしての訓練を受
け2012年の2度目の時はAH-64Dアパッチ
攻撃ヘリ乗組員としてタリバン掃討作戦に従事しま
した。
 帰還後は、負傷兵の心身回復プログラム策定など
に携わり、2015年に名誉除隊しています。
 それほどの経験をしていても、離脱すれば制服着
用は許されない。それがイギリス王室の制服に対す
る価値観なのです。
兄のウィリアム王子も2006年に同じくサンドハ
ースト王立陸軍士官学校を経た後、に入り、続いて
空軍でパイロットとしての訓練を受けています。
ウィリアム王子は主にイギリス周辺海域での捜索救
難業務を7年半務めました。156回の捜索救難飛
行に参加し、149人の救出に貢献したといいます。
両王子の父チャールズ国王も、空軍でパイロットと
しての訓練を受けた後、海空軍で約5年の軍務に就
いています。
そして、弟のアンドリュー王子、エドワード王子も
軍歴がありますので、エリザベス女王の息子たち全
てが軍務についていたわけです。
軍の最高指揮官であるエリザベス女王ご自身も、第
二次大戦末期に女子国防軍に入隊し、軍用車両の整
備や運転に加え弾薬管理などの任務に当たっていた
のだそうです。
身分の高い人が社会的責任を果たさなくてはならな
いという「ノブレスオブリージュ」の考え方が根付
いているのだと感じます。
日本では「軍事色」を消し「宗教色」を嫌い、そし
て何もなくなった。・・・みたいな、本当に空虚な
ものを感じるばかりです。そう思うと、改めて皇室
の存在がありがたいと同時に、そろそろ、敗戦国症
候群みたいなものを克服したいものだと、つくづく
思います。
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monqu1y · 4 years ago
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戦後の事件簿  「日本が受諾したポツダム宣言は、イギリス首相、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席の名において発された。ソ連は後から加わり追認した。中共は、抗戦相手ではなかった。大日本帝国の一部を形成する朝鮮半島の住民と内地の住民も、戦火を交える敵同士ではなかった。しかし、どこまでも敗戦革命にこだわる報道関係者たちは、中国や韓国や北朝鮮に戦勝国とウソをつかせたうえで、日本に対する理由のない非難と恐喝をするよう唆している。そして、韓国人や朝鮮人は本名を隠し日本人名を名乗っている。彼らの犯罪は、日本人による犯罪のように報道されるか、犯罪そのものが報道されない」という話を聞いた  図書館に行って朝鮮人の犯罪を調べたら、次のような記録が見つかった  1945年10月22日、大阿仁村事件が起こった。秋田県北秋田郡阿仁合町の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁村の伏影集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、双方数名が負傷した。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧の為に急行した  1945年12月24日、生田警察署襲撃事件が起こった。午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊によって暴動が鎮圧された。襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない  1945年12月29日、直江津駅リンチ殺人事件が起こった。午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の朝鮮人が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで彼らは列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、その男性を直江津駅のプラットホームに引きずり降ろし、駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。警察が緊急配備したとこ��、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した  1946年1月3日、富坂警察署襲撃事件が起こった。正午、春日町交差点において多くの不審者を乗せたトラック2台が富坂警察署方面へ向かうのを、交通整理にあたっていた警察官が発見、直ちに署に連絡した。連絡を受けてまもなく、例のトラックが富坂警察署に到着、警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入し、留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求した。危険を察知した警部が警察電話を通じて、警備隊の応援を要請したところ、在日朝鮮人20人が電話室に乱入し占拠した。これにより外部との連絡が絶たれた。交渉にあたった署長は「朝鮮人は留置していない」と突っぱねたが、情報が漏れていたらしく、在日朝鮮人たちが留置場を探し始めた。これを阻止しようとした警察官に対して殴る蹴るの暴行を加えて負傷者を続出させた。在日朝鮮人はついに留置場を発見、中にいた容疑者を連れ出し、「署長は、朝鮮人は留置していないと我々を欺いた」と署長を責めた後、富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走した  1946年1月9日、生田警察署襲撃事件が起こった。翌年、三宮ガード下で賭博団が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した  1946年5月13日、長崎警察署襲撃事件が起こった。午前10時30分、280人の警官隊が一斉取締を開始し、日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行した。その直後、在日本朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけ、被疑者の即時釈放を要求したが、署長は取調前の釈放はできないと拒否した。午後2時30分頃、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃した。これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った。その後、余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えている  1946年8月5日、富山駅前派出所襲撃事件が起こった。午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙した。しかし、それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた。そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。署に救援を頼んだが、その前に大乱闘となった。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷した  1946年9月22日、坂町事件が起こった。午前0時50分頃、村上警察署の署員8人が坂町駅に赴き、ヤミ米の取締に当たった。署員が現れるや、約50人の朝鮮人・中国人は一斉に姿をかくした。警察官がホーム上に置き去りにされたヤミ米を押収しようとすると、「殴れ!」「叩け!」の叫び声を合図に襲いかかって来た。警察官が応戦している最中に列車が到着し、列車内から朝鮮人20人が下車し加勢、警察官に暴行を加えた後、発車間際の列車に乗り込み逃走した。この日の午後になり、「また、ヤミ米を運搬しようとしている」との情報が入った。警察官 10人が現場に向かい取り締まろうとしたところ、約50人の朝鮮人・中国人が襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加えた。金屋村警防団は警察官の応援に駆けつけたが、逆に鳶口や木刀を取り上げられて、彼等の武器にされる始末であった。その後、撤退命令が出たので、警察官等は一旦引き上げた。その後、進駐軍の新潟軍政部の係官が現地に到着し、朝鮮人・中国人に対して「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡した。軍政部のお墨付きが出たことで、警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された  1946年9月26日~29日、新潟日報社襲撃事件が起こった。在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求した。両社は「即答はできない」として、29日まで猶予してもらうことになった。その後読売新聞社は、9月28日になって譲歩し、誤報を認め謝罪記事を掲載することで話がついた。9月29日、朝鮮人16人が再度新潟日報社を訪れ、新潟日報社側の返答をせまった。新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した。新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕した  1946年12月20日、首相官邸デモ事件が起こった。の全国大会では、約1万人の朝鮮人が結集した。日本共産党の徳田球一も出席しており、徳田球一の演説の後、生活権擁護の決議文を採択し、午後1時頃に集会は一旦終了した。午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到した。警官隊は侵入を阻止するため門を閉鎖しようとしたが、デモ隊は投石やプラカードを振り回すなどして暴れ、遂に首相官邸に侵入した。午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた  1947年10月20日、尾花沢派出所襲撃事件が起こった。朝鮮人7人は警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく、派出所の襲撃を計画し、午後3時頃に楯岡警察署の尾花沢派出所に乗り込んだ。警察官が不在だったため、派出所内の器物を破壊し、門標を取り外した後引き揚げた。その後、外出から戻った警察官が、派出所内の惨状を見て驚き、直ちに署に連絡した。その直後、前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み、火鉢を投げつけるなどの暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕した  1948年4月23日~25日、阪神教育事件が起こった。9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。集会には在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結した。16人の代表が選出され、大阪府庁舎で大阪府知事・赤間文三との交渉を行うことになった。12時30分、大阪府庁知事室において副知事と朝鮮人代表者16人との交渉が始まったが合意には至らず、15時になって在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中からシュプレヒコールが起こった。同時に50人余の青年が行動隊を編成し、スクラムを組んで大阪府庁前の阻止線を突破した。15時30分には行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も大阪府庁に暴力で突入し、3階までの廊下を占拠。副知事は警察官の誘導で、戦時中に作られていた地下道を通って脱出した。17時頃には群衆が知事室になだれ込み、ドアや調度品を破壊するといった行動に出る。日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は川上貫一衆議院議員とともに知事室に駆けつけたが、収拾がつかない状態だった。夜になって大阪城周辺の各所で在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人によってかがり火が焚かれ、朝連としては川上を代表として交渉の場を作ろうとした。しかしそこへアメリカ軍や武装警官が到着し、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らと乱闘。在日朝鮮人のうち1人が死亡し20人が負傷した。警官側の負傷者は、31人だった。179人が騒擾罪で検挙された。4月25日には朝連や日本人約300人が南警察署に押しかけ逮捕者の釈放を要求したが、抗議に来た群衆に向けて警官隊が威嚇射撃を行い追い返した。翌4月26日に朝連は大阪東成区や旭区などで「朝鮮人学校弾圧反対人民大会」を開催。午後には朝鮮人代表者と赤間府知事との間で再度交渉が行われたが、15時40分に別室で待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。これに対し在日朝鮮人1600人のデモ隊��再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で投石を開始。武装警官隊は消防車に放水をさせ、デモ隊に突入し拳銃で発砲した。この衝突で当時16歳であった在日朝鮮人金太一が死亡する。検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が重労働4年以下の判決を受けた。このうち当時の朝鮮総連の朴柱範兵庫県本部委員長は神戸刑務所に服役し、1949年11月25日に病気を理由に仮釈放されたが僅か数時間後に死亡した。事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。兵庫県非常事態宣言布告を報じた朝日新聞号外アイケルバーガー司令官の神戸視察を報じた神戸新聞10日に兵庫県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を発令。これを受けて14日に朝連は兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求した。言動はしばしば威圧的・脅迫的になった。4月23日に警官隊と米軍MPが朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖すると、翌24日に封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が兵庫県県庁前に集結。9時30分に兵庫県庁知事室で、岸田知事と神戸市長・小寺謙吉、検事正ら15人が朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。協議が行われているとの情報は朝連にも伝わり、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入。知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、壁を打ち破って知事室になだれ込み岸田知事やMPを拉致監禁するに至る。知事室に乱入した在日朝鮮人や日本人は電話線を切断して外部との連絡を絶ち、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田知事に要求。半ば監禁状態にあって岸田は、17時に諸要求の受け入れを誓約。しかしその日の22時に岸田知事と吉川覚副知事・市丸検事正・田辺次席検事・出井兵庫県警察長・古山神戸市警察局長らが、占領軍兵庫県軍政部に召集され、23時に兵庫県軍政部が「非常事態宣言」を発令。軍政部の非常事態宣言によって兵庫県と神戸市の全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に入り、兵庫県庁への乱入者の徹底検挙命令と共に岸田知事が一旦受け入れた在日朝鮮人の要求への誓約を無効とした。25日早朝にMPと米軍憲兵司令官指揮下の警官による県庁乱入者の検挙を開始し、29日までに、1590人もしくは7295人 を検挙。日本共産党の神戸市議会議員・堀川一知も拘引された。4月28日には米軍軍政部の非常事態宣言も解除。検挙した者から主だった者を拘留し、23人を軍事裁判にかけた。唯一の日本人被告人だったは堀川は重労働10年の判決を受け、在日朝鮮人には最高重労働15年の判決が出されて刑期終了後は本国に強制送還されることになった  1948年10月11日~12日、評定河原事件が起こった。の10時から開会式が始まった。北朝鮮国旗の掲揚をめぐり仙台市警察が警告を発するなどのトラブルがあったが、1日目は特に混乱も無く終了した。2日目の10月12日は運動会が開かれた。国旗掲揚の代わりに国旗を頭上に捧げ持って行進したため、米軍の憲兵が行進の中止を命じた。その後、運動会は再開され、16時30分頃に閉会式が開かれた。そのとき、酒を飲んだ数人の朝鮮人が会場内に入って歌を歌い始めた。これに同調する者が次々と現れ、赤旗を掲げてデモ行進するなど不穏な空気に包まれた。その中で、北朝鮮国旗を持った一団がデモ行進をし、米軍憲兵の制止を無視し行進を続けたため、米軍憲兵は国旗を押収し、参加者4人を検挙した。その後の米軍憲兵隊の捜査で、更に2人が検挙された  1948年12月9日、宇部事件が起こった。約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した。大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなったが、警察側の発砲によって鎮圧された  1949年1月25日、益田事件が起こった。島根県美濃郡益田町の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して、令状なしで摘発に乗り出したが、「令状のない捜査は違法である」と拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したが約100名の朝鮮人に奪還された。翌日、被疑者9名を検挙したものの、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために警察官と乱闘になり48名が検挙された。逮捕されたもののうち9名が起訴され、騒乱罪で有罪となった  1949年4月6日~13日、枝川事件が起こった。午後6時頃、3人の捜査員は主犯を発見、逮捕しようとした。しかし主犯は別人を主張、周りの朝鮮人数人も捜査員を見ていたため、任意同行に切り替えた。そして、屋外に出ようとしたところ、主犯は捜査員を突き飛ばし、裸足のまま逃走した。捜査員は拳銃を3発威嚇発砲して制止しようとしたが、逃走を続けたため、遂に主犯に向けて発砲した。そしてなんとか逮捕することができたが、主犯はその際に負傷した。それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行した。もう1人の捜査員は、事態の重大性を察知し、近くの民家の電話を借りて枝川地区を所轄する深川警察署と月島警察署に通報した。まもなく深川警察署と月島警察署の応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させたが、アメリカ軍憲兵隊が来ると急に態度を軟化させた。その後の交渉で朝鮮人側は暴行犯人の引渡しを確約したが、4月8日になっても引き渡さず、逆に捜査員の処分を求める有様であった。4月9日より、警察は枝川地区に架かる橋に検問所を設置、通行者全員に検問を開始した。それと並行して内偵調査を行った。その結果、警察官に暴行した容疑者が割り出されたため、4月13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕された  1949年4月7日~11日、高田ドブロク事件が起こった。午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を開始した。早朝であったため、この取締そのものは整然と行われ、午前8時30分頃には引き上げた。午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求した。しかし警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石を行い窓ガラス十数枚を破損させた。4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求した。4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れた。一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、あっという間に14・15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求してきた。警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。4月10日、検挙者の自供により、高田市においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査した。4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進を行った。彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制していた。ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件も収束に向かい始めた  1949年6月2日~11日、本郷村事件が起こった。国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議した。幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲した。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。朝鮮人側は 暴行警察官の罷免 被害者に対する損害賠償 朝鮮人に対する謝罪 朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすることなどを要求したが、警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かった。待ち構えていた朝鮮人200人が、石や糞尿を投げつけて逮捕を妨害したが、なんとか強行突破し、2人を予定通り逮捕した。その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた  1949年8月20日、下関事件[騒乱]が起こった。19日午後11時頃、朝連事務所前に約150人の在日朝鮮人が集結し、民団を非難する集会を開いた。集会そのものは特に問題なく終了したが、警備に当たっていた朝連の構成員と民団の構成員が路上で遭遇、乱闘となり、民団側が所持していた日本刀で朝連側に負傷者を出した。朝連は、これに報復すべく8月20日午前2時30分頃、構成員約200人を招集し、民団下関支部や民団構成員の自宅を襲撃した。そして被害家屋から金品を略奪するなどの狼藉を働いたあと解散した。このため、未明にも係らず市内は一時大混乱になった。下関市警察は、直ちに国家地方警察山口県本部に応援を要請した。国家地方警察は、自治体警察を含む山口県内の全警察に非常招集を発令、警察学校の学生をも動員した。県内各地から来る応援部隊の到着後、朝連や民団の施設を一斉に捜索を開始し、939 人の警察官のうち 14 人が負傷したが、73人を検挙した。翌日8月21日には、下関市警察と国家地方警察の合同による「下関事件合同警備本部」を設置するとともに、市内各所に検問所を設けて逃亡を阻止した。最終的に208人が検挙され、殺人未遂罪のほか、騒擾罪などで75人が起訴された  1950年3月20日、台東会館事件が起こった。10日午前9時、東京都の係官が台東会館に赴いた。警視庁では不測の事態に備えて多数の警察官を警戒に当たらせた。係官は会館を引き渡すよう命じたが、旧朝連はそれを無視したばかりか、投石を行い抵抗した。そのため、この日の接収は一旦取りやめになり、3月20日に再度接収を行うことになった。旧朝連側は接収予定日の前日から、会館入口にバリケードを設け、周辺道路を巡回して警戒していた。3月20日午前7時、係官が台東会館に入ろうとしたが妨害を受けた。そして、警戒に当たっていた警察官に向かって、石や唐辛子粉を投げつけて抵抗した。そのため警察は強行突入を断行し、朝鮮人119人を検挙した  1950年8月15日、連島町事件が起こった。1949年9月8日、GHQの指示を受けた法務府は告示第51号を出し、在日本朝聯と在日本朝鮮民主青年同盟に対し団体等規正令を適用して解散命令を下す。また朝鮮学校と民団総連も解散請求を受けた。これらの措置は在日朝鮮人の生活に直接の打撃を与えた。将来に不安を抱いた朝鮮人同胞らの中には、革命を叫んで公共施設を不法占拠し火炎瓶で武装した事件が起きた。こうした世情不安の中、岡山県浅口郡連島町で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり集会を強行したため、これを制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙した。この事件で警察官15名が負傷した  1950年11月20日~27日、長田区役所襲撃事件[第二神戸事件]が起こった。午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけた。要求は「市民税免除」と「生活保護の徹底」である。しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した。神戸市警察は直ちに出動、30人が逮捕された。11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求した。区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕された。11月27日朝、24日に逮捕された仲間の奪還などを求め、姫路市、明石市、尼崎市などから約600人の朝鮮人が神戸に向かっているとの情報が警察にもたらされた。警察は甲号非常招集を発令、神戸市警察および国家警察兵庫県本部の警官約3000人に待機命令をかけた。長田区にある西神戸朝鮮人学校に神戸市在住の者も含め約千人の朝鮮人が集結。「祖国統一決起大会」を開催し、投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を始めた。遂に警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗し、約60人が逮捕された。その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどした。最終的に179人が逮捕された  1951年1月23日、四日市事件が起こった。旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。そのため、執行係官7名が全治2 - 3週間の重軽傷を負った。警察が出動して、公務執行妨害容疑で15名を検挙した  1951年3月7日、王子朝鮮人学校事件が起こった。当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。警察はこの事件で28人が重軽傷を負った  1951年6月13日、神奈川事件が起こった。横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。運動会終了後、約500名の在日朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで奇声をあげた。 そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙した  1951年10月22日、下里村役場集団恐喝事件が起こった。下里村において、在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために村役場に押しかけた  1951年12月1日、東成警察署襲撃事件が起こった。午前11時頃、朝鮮人たちは旧御幸森朝鮮人小学校に集まり、東成警察署までデモ行進した。その後、元御幸森朝鮮人学校に集合し、12時15分ごろ東成警察正門前に到着した。さらに同署の東方道路から約20名、南方道路から20名が殺到し気勢を上げて署内に突入しようとしたので、大阪市警視庁機動隊はそれを阻止した。その際デモ隊は、クロールピクリン酸入りサイダーびん3本、投石や唐辛子を投げつけて抵抗した。この事件で3人が公務執行妨害罪で逮捕された 。12月16日午後、不法デモをおこない3隊に分かれ、生野区、巽町の工場を襲撃した  1951年12月18日、日野事件が起こった。10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。デモ隊は日野郵便局前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。そして警官隊に棍棒で襲い掛かったため、公務執行妨害罪で20人が検挙された  1952年2月21日~23日。木造地区警察署襲撃事件が起こった。国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけた。2月23日に入り、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、警察署の玄関のガラス戸が破壊された。また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生している  1952年3月26日~30日、多奈川町事件が起こった。以前より多奈川町警察は、隣接の国家地方警察泉南地区署の応援を得、幾度も朝鮮人による密造酒の摘発を行っていたが後を絶たず、増加するばかりであった  1952年3月24日、大阪国税局は、同局泉佐野税務署・大阪地方検察庁岸和田支部・国家地方警察泉南地区署と合同捜査会議を行い、一斉摘発を決定。同年3月26日午前5時40分ごろ、泉南地区署に、国税局員45名・検事1名・副検事1名・検察事務官12名・制服警察官50名の合同捜査チームが集合。10班に分かれ、トラック10台に分乗し、多奈川町9ヶ所、深日町1ヶ所、計10ヶ所の密造場所に向かう。納屋や豚小屋に偽装された密造工場の各所で、朝鮮人による抵抗に遭うも、検察庁職員によって容疑者の逮捕、国税局員によってドブロク・コウジ・蒸留機などの酒造器具を証拠品として差押さえるなどし、各班は逐次南海電気鉄道多奈川線多奈川駅前に集合。この時、婦女子を先頭にした朝鮮人約200人がトラックの前に座り込んだり、大きな石をいくつも道路上に置いて交通を妨害。これを排除しようとした警察官が激しい抵抗に遭っている間、手薄な警備に勢を得た朝鮮人の数はさらに増え、ついには「生活権」を訴える怒号に扇動された朝鮮人が「殺してしまえ」とわめきながらトラックに殺到し、タイヤの空気を抜く、窓ガラスを叩き割る、トラックの運転手を袋叩きにする、差押えた証拠品を叩き落して破壊・強奪する、被疑者を逃がすなどの暴挙に出た。 この危機を脱したトラック3台は集合場所の大阪拘置所に向かったものの、残る7台は駅前の国道で立ち往生となる。1個班につき警察官が5人と言う手薄な警備体制が招いた失敗であった。不測の事態を受けた合同捜査チーム総指揮官大坪検事及び泉南地区警察署長は、深日町警部派出所から国家地��警察大阪府本部に応援を要請。検挙は後日に譲ることとし、後日の検挙に備え多数の現場写真を撮影、道路上の妨害を排除しつつタイヤの空気を入れなおし、午前7時半ごろ、捜査チームは泉南地区署に引き揚げた。午前8時過ぎごろ、朝鮮人約30名が多奈川派出所に押しかけ「俺たちの生活をどうしてくれる」と抗議。間もなく代表者3名を残し引き揚げる。午前9時ごろ、取材に来ていた毎日新聞社大阪本社の記者がドブロク密造地区捜査取材のため多奈川派出所に向かう途中、朝鮮人の暴徒に囲まれて殴打され、石を投げつけられ、全治2週間の怪我を負う事件が発生。また、この騒ぎで城東税務署員も右手に怪我を負っている。事態を重く見た国家地方警察大阪府本部は27日・28日の2日間にわたり、現場証拠写真、現場に出動した警察官、第三者の証言から被疑者の割り出し、証拠収集にあたる。結果、被疑者17名を特定し、29日、暴力行為等処罰に関する法律違反、公務執行妨害および傷害ならびに酒税法違反容疑で逮捕状・捜査令状を大阪地検より受けた。同年3月30日午前2時、検事らをはじめ、大阪府下8地区署から制私服警官警察官・警察学校生徒など、約450名が大阪市城東区関目の大阪府警察学校に集結。午前5時すぎ、自動車・トラック約30台に分乗して多奈川町小田平、朝日、東、湊、深日町兵庫の5地区21ヶ所に急行し、逮捕、押収捜索にあたった。捜査員が被疑者を逮捕しようとした際、人糞を降りかけられる、手を噛まれる、水桶・たらい・マキなどを手当たり次第投げつけられる、クワ・こん棒などを振り回して暴れる、トウガラシの粉を投げて目潰し戦術に出るというようなことがあり、捜査員3名が打撲傷などを負ったが、前回ほどの組織的集団抵抗はみられなかった。この検挙の際、26日の暴行首謀者とされる3名が逃走。緊急逮捕を含む27名の逮捕者は取り調べののち、5名を釈放。残り25名を酒税法、公務執行妨害、傷害、業務妨害などの容疑で大阪地検に送庁、19名が起訴された。3月30日の検挙活動の際、朝鮮人1名が職務質問を受け逃走、追いついた警官ともみ合いになり拳銃の引き金が引かれ、弾が右腹部を貫通、重傷となり、数日後に死亡した  1952年5月1日、血のメーデー事件が起こった。GHQによる占領が解除されて3日後の、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「皇居前広場の開放」を決議していた。大会は午前10時20分ごろ開会され、途中、全学連を中心として人民広場への乱入を扇動しようとする乱入者が相次いだものの、午後0時10分に閉会し、同25分より、北部・東部・南部・中部・西部の各コースに分かれて、予定のデモ行進に移った。デモ行進の途上でも、人民広場への乱入を扇動しようとする試みが相次ぎ、一部のデモ隊は当初のコースから外れて投石などを行ったほか、西部コース指導者は人民広場への乱入を拒否したために暴行を受けるなどの混乱が生じたものの、最終的には午後2時から4時にかけて順次に予定の解散地点に到着し、解散した。しかし特に混乱が著しかった南部コースを中心として、日比谷公園で解散したデモ隊の一部は、その中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出はじめた。警視庁は、会場や行進中には主催者の自主的統制に待つこととしていたが、5,600名の部隊を編成して雑踏警備にあたっていたほか、各署員1万名以上を待機させて即応体制を整えていた。日比谷交差点を通過して無届デモを開始した群衆に対して、まず丸の内警察署長以下60名が制止したが、投石や竹槍・棍棒による攻撃を受け、13名の負傷者を出した。デモ隊は外国人の自動車19台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら北上した。馬場先門においては、第一方面予備隊と三田・東京水上・高輪の3警察署による470名の部隊が警備にあたっていたが、方面予備隊の一部が拳銃および若干の催涙弾を装備していたほかは警棒を携帯しているのみであった。またデモ隊は極めて先鋭的であったことから、周囲の一般通行人への被害も憂慮した方面予備隊長は車道の警戒線を解き、デモ隊は皇居前広場になだれ込んだ。乱入したデモ隊は、二重橋正面で警備にあたる丸の内警察署員および増援の第一方面予備隊2個中隊に対して投石を開始した。祝田町警備巡査派出所ではボックスが押し倒され、警察官は袋叩きにされて拳銃を奪われた。警察部隊は催涙弾を使用して鎮圧にあたり、午後3時頃には暴徒を中央自動車道まで後退させ、にらみ合いの状態となった。しかしこの頃、桜門および祝田橋でも警戒線が突破されたことで暴徒は8,000名に増加した。警察側も逐次に予備隊を配置転換して体制を強化したが、暴徒との攻防は激しく、一部ではやむなく拳銃を使用した。この結果、暴徒が混乱に陥ったことから、警察側は体制を整えて一気に鎮圧を図り、午後3時40分までには暴徒の大部分を広場外に排除した。しかし広場外に排除された暴徒はその後もしつこく攻撃を繰り返し、祝田橋では第一方面予備隊の隊員4名が包囲され、角棒で乱打のうえで凱旋濠に投げ込まれ、更に投石を加えられた。また他の隊員4名も包囲されて同様の暴行を受けそうになり、拳銃の威嚇射撃でやっと難を逃れる状況であった。またこのほかにも、警察官への暴行が相次ぎ、拳銃を奪われる例もあった。午後3時50分頃には、桜門前濠端側に駐車されていた外国人自動車14台を転覆させて火を放ち、炎上させたほか、付近をサイドカーで通行していた交通第一課員を取り囲んで暴行を加え、サイドカーにも放火した。その消火のため出動した消防隊も投石や殴打を受けて13名が負傷、ホースも切り破られた。これらの暴徒も午後4時頃には離散しはじめたが、その後も有楽町巡査派出所が襲撃されたり、また一部は日比谷公園に逃げ込んで投石を続けていた。皇居前広場・日比谷公園が平静を取り戻したのは午後6時過ぎのことであった。これらの騒動の結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は負傷者832名を出す流血の惨事となった。当日は警察予備隊の出動も検討されていたが、一般警察力によって収拾されたため、出動を命じられるには至らなかった。 なお、この事件に出動した「予備隊」とは「警視庁予備隊」のことであり、後の機動隊である。警察予備隊のことではない
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 1952年5月12日~25日、大村収容所事件が起こった。法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年5月13日、広島地裁被疑者奪回事件が起こった。午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった  1952年5月26日、高田事件が起こった。民団愛知県本部の顧問は、北朝鮮系の在日朝鮮人の脅迫を受け続けてきた。同年3月には自宅を襲撃されたり、殺害予告のビラが貼られたりしていた。午前5時40分頃、北朝鮮系朝鮮人数十人が顧問宅に侵入、ドアやガラスを破壊したりするなどの狼藉を働いた。顧問は何とか逃げ出し、名古屋市警察瑞穂警察署高田派出所に助けを求めてきた。まもなく顧問を追跡してきた一団が高田派出所に押しかけ、備品を破壊したり火炎瓶を投入したりして焼き討ちした。顧問は警察官の誘導で裏口から退避し、道を隔てた高田小学校正門より用務員室に向かったが、追いつかれ暴行により全治10日の傷を負った  1952年5月31日、奈良警察官宅襲撃事件が起こった。25日、桜井町で民団磯城支部書記長が、旧朝連系の在日朝鮮人に襲われる桜井町事件が発生した。国家地方警察奈良県本部は犯人を検挙し、奈良地検に送致した。5月30日、奈良市警察に国警磯城地区警察署から「在日朝鮮人の一団が奈良市に向かっている」との連絡が入った。在日朝鮮人の一団が奈良地検に突入したため、奈良市警は実力で排除した。このことから、旧朝連系は奈良市警に反感を持つようになった。襲撃を受けた奈良市警の警察官宅は、桜井町事件が発生した桜井町に所在していた。5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走した  1952年5月31日~6月5日、万来町事件が起こった。当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。朝鮮人側はこれに激昂し、以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を��るし上げた。6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃した。6月5日、宇部市万来町において、朝鮮人解放救援会山口県本部が「民主愛国青年同盟」を結成し、当日は県内各地から朝鮮人が多数集結した。うち約70人が午前11時に宇部興産の工場に乱入、守衛を殴打し、電話線を切断するなどの行為をおこなった。続いて民団の団員宅を襲撃した後、引き揚げた。警察は襲撃犯を逮捕するため、午後2時に解放救援会事務所を包囲した。警察は解散を呼びかけたが、朝鮮人側は投石などの手段で抵抗した。午後3時半より警察は実力行使を開始し、午後4時からは催涙ガス弾も導入してようやく鎮圧した  1952年6月10日、島津三条工場事件が起こった。午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。すると、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出した。パトカーがサイレンを鳴らして発進し、春日通三条にさしかかったとき、多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功した  1952年6月13日、醒井事件が起こった。滋賀県坂田郡醒井村では、民団系と在日朝鮮統一民主戦線系の在日韓国・朝鮮人間で対立が起きており、10日と6月11日の2日連続で乱闘事件が起きていた。午前5時頃、国家地方警察滋賀県本部坂田地区警察署の警察官は、被疑者逮捕のために現地に向かったが、朝鮮人は事前に察知し、ピケを張るなどして自宅に立て篭った。朝鮮人側が、投石や棍棒を投げつけるなど被疑者の逮捕を妨害したため大乱闘となったが、警察はこれを鎮圧し公務執行妨害罪で48人を逮捕した  1952年7月7日、大須事件が起こった。日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が、ソ連及び中共を訪問して日本国政府の方針に反する「日中民間貿易協定」を結んだ後に帰国し、6日に名古屋駅に到着した。両代議士の歓迎のために約千人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。7日、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させた。午後2時頃から、会場の中区大須球場に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行された。午後9時50分に集会が終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約千人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めた。警察の放送車が解散するよう何度も警告したが、デモ隊は放送車に向かって火炎瓶を投げ込み炎上させた。警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行したが、デモ隊は四方に分散して波状的に警察部隊に対して火炎瓶・投石・竹槍・プラカードで攻撃を行い、路上の一般の乗用車に放火するなど、大須地区は大混乱に陥った。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する事件も発生している。この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷した。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人を検挙した。その内、半数以上が在日朝鮮人だった。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが分かった  1952年11月9日~12日、大村収容所事件が起こった。5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求した。これに在日朝鮮統一民主戦線が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。11月11日午前10時30分、収容者の代表が所長との面談を申し入れたが、当局がこれを拒否したため、午後3時20分になって暴動が発生した。収容所の警備官や大村市警察の警察官は、催涙弾と消防車でこれを阻止し、ようやく鎮圧した  1952年11月19日~26日、五所川原税務署襲撃事件が起こった。仙台国税局は警察の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点などを押収、酒税法違反として45名を検挙した。また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署を占拠した
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innocent-3 · 5 years ago
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「獅子身中の虫鈴木貞一」より
…皇道派の連中は概して陰性な者が多かった。真崎(甚三郎)、柳川(平助)、小畑(敏四郎)、鈴木(率道)、秦(真次)などは蛇の肌に触るようなつめたい感じがした。荒木(貞夫)は秘書官と酒のみ競争するような茶目気があり、比較的陽気なところがあった。青年将校の信望を集めたのも、一つはそのせいであったと思われる。…
 皇道派の変わり種として、いま一人の珍しい人物を紹介しておこう。鈴木貞一である。第二十二期だから鈴木率道と同期だ。支那駐在から任満ちて参謀本部に戻ったが、肝心の支那班で「彼は支那班に置くような者ではない。もっとしかるべきところに」といって収容しない。他の部課でも「ああ、こちらにはいらないよ」とみな敬して遠ざける。頭脳もよし手腕力量ともに凡庸ではないが、どういうものか同期生から好まれない。同期生といえば同胞よりも親しい。血をすすりあった盟友だ。それから排斥されるんだから、よほどの大器に違いない。それを聞いた軍事課長の永田鉄山が「それじゃ、俺のところにもらおう」という。軍事課の者が「ゲテモノ食いもたいがいにしなさい。彼を抱えこんでは課長が食われますよ」と散々忠告したが「まさか」といって採った。
 駑馬も騎手が良ければ駛る。いわんや鈴木は千里の馬だ。騎手は古今の名手と来ているから、正に天馬天をいくごとく見えた。「鈴木はいいだろう」と永田は鼻をうごめかしていた。鈴木も永田の知遇に感じたか、御奉公第一と勤めているうち世の中が変わって来た。荒木が陸相としてその一党を率いて乗り込んで来た。永田と意気投合していた小磯(国昭)は軍務局長から次官に棚上げされた。荒木の髭の塵を払わねば立身出世かなわぬ雲行になった。永田は新軍務局長山岡重厚が素人だから、従来より一倍骨を折ってこれを補佐しているが、山岡は事務などはどうでもよい。永田の言動を厳重監視するのが役目である。
 永田は人からはゲテモノ食いなど冷やかされるが、どんな者でも一芸一能に秀でている者ならばりっぱに使いこなす。鈴木など好例であるが、その他の軍事課員も一癖も二癖もある。腕に覚えのある侍どもだ。大臣がかわろうが局長が動こうが、俺は俺の道をいくという構えでジタバタする者はない。それぐらいの面魂は持っているのである。ところで、某日、筆者が山岡を訪れた。その頃はすっかり仲よしになっていた。
「おい、珍しい物を見せようか」
 山岡は応接室から自室に引き返して持って来たのは汚い鞘に納められた短刀である。
「拝見します」
 と抜いてみるとさびついている。銘はない。むろん筆者にはわからない。「何ですか」ときくと「俺にもよくわからないが、関もので兼房あたりではないかと思う。物は大したものではないが、まあ窓をあけるぐらいの価値はあろう」と卓子の上に載せ、「問題はこれを持って来た者だ。誰と思う」わかりませんと答えると「貞一だよ、鈴木貞一だよ」と言って笑う。「彼が北京とか天津とかの古物屋のガラクタの中にあったのを発見して、掘出物ではなかろうかといって持って来たんだ。彼は平素刀などひねくりまわしているのかい」と愉快そうに笑う。山岡は皮肉屋である。彼には鈴木がどういう意味でこんなものを持参したかを知っているのだ。それを筆者に言わせて拍手しようという魂胆だ。山岡が刀剣以外には何の趣味も道楽もない木強漢であることは部内周知の事実だ。酒を持ちこんでも菓子折を持参しても何の効顕もない。もし、刀剣を持ちこめば相好をくずして喜ぶ。この点はまことに弱い。持ちこむといっても贈物ではない。鑑定だ。贈物となれば少なくとも山岡の所持している以上のものでないと喜ばないだろう。現に長光とか国安とか稀代の国宝級のものを持っている。それに匹敵する物は、まず手に入るものではない。そこで鈴木はこの山岡最大の弱点をついたのである。
 山岡が積極的に悪口を言わなくなれば、皇道派の連中は大抵信用する。面と向かっても罵倒するし、陰での批判など痛烈無比だ。皇道派とは因縁のない板垣征四郎を呼ぶに、まともに言ったことはない。「板(パン)」である。「板」がまた支那人にだまされてウンと金をとられた。「彼は板じゃなくて白(パイ)だよ。白痴だよ」という。金をとられたという事件の内容は忘れたが、おおむねこの類だ。彼の口に上らなかったのは武藤、荒木、真崎の三守護神くらいだが、それでも荒木については善意の悪口はのべていた。鈴木はその後も、長いもの短いもの幾口かを持ち込んでいた。山岡は役所でもろくな仕事はしていないんだから、役所に抱えて行って局長室に投げこんでおけばよいのを、わざわざ自宅に持参するところに彼の狙いがあった。かくて、皇道派のメンバーの一人の如く振舞うようになってから、永田に対する態度は次第に冷ややかになった。つめたくなるばかりではすまない。皇道派に永田の悪口を注進する。
 鈴木はしばらく新聞班長をしたことがある。上着の内ポケットがいやに硬直している。「機密費でもしこたま入れてるのかい」というと、「ばかを言え、これだ」と取り出したのは短刀だ。見ると月山貞一の作である。「僕と同名だし、なかなかいいできだろう」と得意である。 月山は帝室技芸員か何かになって、晩年は知られたが、日清戦争頃までは鍛刀の依頼者も少なく、やむなく古刀の擬物を打っていたと伝えられる。擬物でもすぐ発見されるようなものでなかったから、その技術は高い水準にあったらしい。それにしても贋物作りをするような人物は感心できない。それはそれとしても、何のために新聞班長が懐ろに短刀を呑んでいなければならないか。それほど彼の身辺は危険だったのか。真に護身用なら赤の他人に誇示するようなことはないはずである。また、手をのばせば届くところに、日本刀を仕込んだ軍刀を置いている。どこから見ても不必要だ。それを見せるキザな態度に筆者は、しばらく胸の悪くなるのを覚えた。
 斎藤内閣のとき、何かの要件で鈴木は高橋(是清)蔵相を訪れた。大いに気おって蘊蓄を傾けて老蔵相を説き、ことに陸軍予算のみならず、国家予算全体についても話したらしい。高橋は鈴木の階級も何も知らず、おそらくポストも知らなかったろうが、ともかく数字をならべて説くところがなかなか堂に入っている。感心して鈴木が出て行ったあとで、次官か秘書官かに「今来てしゃべって行った兵隊はあれは主計か」と尋ねたそうだ。この話が陸軍に伝わり鈴木の耳にも入った。「君は主計に間違えられたそうだね」というと怒るかと思いのほか、満悦である。大蔵大臣に主計と間違えられるほど、俺は数字にも明るいんだと誇りたいんだ。渋谷美竹町の彼の自邸は、佐官級としては過ぎたりっぱなものであった。応接室も広く、周囲に飾られている物はみな中国のものだ。新聞記者が行くと、なかなかの御馳走を出す。ウィスキーなんか本場物を幾種類か出し、時には上等の中国の酒を振舞う。酒好きの記者はしばしば鈴木邸を夜襲したらしい。そういうことをするのが弘報宣伝だと心得ていたのだ。
 さて、世の中はまた変わった。荒木が引っこみ林(銑十郎)が出て来た。その直後のことである。筆者は毎朝犬の運動のため、渋谷、駒場方面から方角違いの中野、杉並、八王子近くまで自転車で走りまわっていた。その途中に知りあいの家があれば、遠慮なく叩き起こす。仲には「どんなことでもきくから朝起こすのだけは勘弁してくれ」と泣きつく者もいた。家を出るのは薄暗い頃だから、運のわるい者はほんとうに夜半のつもりでいる。渋谷方面では永田も被害者の一人だ。しかし、その頃は旅団長をしていて、夜ふかしは少ないはずだから、帰途に垣根の外から「永田さん」と呼ぶ。美しい夫人が縁側に三つ指つくときは、まだ起きていない証拠だから素通りする。ところで、その朝は筆者の行ったのが少し遅くなってはいたが、珍しく庭に出て楊子をくわえている。そして先方から声をかけた。
「オイ、ニュースがあるぞ、こっちに入れ」
 永田がそんなことをいうのは稀有だ。「何ですか」と犬をつれて庭に入って縁に腰かけるとこういうのだ。
「鈴木貞一が来たんだよ。御近所まで参りましたからといってね」
「鈴木は美竹町ですぐ近所じゃありませんか。今まで訪ねなかったんですか」
「来るものか、そして省内の事情や何かをききもしないのにいろいろしゃべって行ったよ」
「閣下が軍務局長にでもなると見たんですね。ほんとうにそんな気配が感ぜられますか」
「いろいろの情報や脈引きに来る者はあるよ、だが御免だよ、毎朝馬に乗って軍隊のことばかり考えていればよい旅団長は、めったにやめるわけにはいかないよ、ことにこんな御時世ではね」
 林が就任すると間もなく、永田軍務局長説が出た。筆者は渡辺(錠太郎)から、林はつっかえ棒なしでは乗りきれない。永田は迷惑だろうが軍務局長になってもらわねばなるまい。林もその気でいる。しかし、実現するまでは新聞に書いてくれるなよ、書けば彼らが騒ぎ出すからと堅く差し止めされていた。しかし、部内でも永田出馬説がでるし、他の新聞にも書き立てている。そういう際だったので永田の真意を打診したのだが、やはり永田は出ないと言っている。けれども渡辺が強引に林を説得しているから、所詮出なければならなくなるだろう。渡辺のことは伏せておいたが、結局引っぱり出されるだろうことを話した。永田は「困る、困る」を連発して、憂鬱そうだった。
 昭和九年三月の異動で、永田は軍務局長となった。鈴木貞一は永田の下で羽ぶりをきかせたかったらしかったが、こんどは永田もそうはしない。陸大主事に追った。小畑幹事の下だからうまく行くはずだが、林陸相出現以来の鈴木の豹変振りが皇道派を痛く刺戟した。彼は何をするかわからぬという疑惑がある。俊敏な小畑がそれを見損ずることはない。新聞班長時代には千客万来だった鈴木邸にも、雀が門前に巣をかけるようになった。だが、それぐらいのことで尻尾をまくような鈴木ではない。小畑にはつとめて媚態を呈するとともに、新聞班長時代に開拓した政界という新分野に鎌首を突っこんで行った。侯爵井上三郎は砲兵大佐で現役を退き貴族院にいる。現役時代から接近している。西園寺公の秘書原田熊雄は以前から食い込んでいる。原田から近衛、木戸の方につながる。
 五・一五事件のあとではあり、政治家はみな陸軍のことを知りたがっている。��れには鈴木は最もよい情報屋である。原田日記にも鈴木の名はところどころに出ているが、林が陸相辞任騒ぎをおこしたときでも、鈴木は原田に荒木、真崎らの動向を伝え、こういう風に西園寺公に報告してくれなど注文している。政友会の方では、五・一五事件が政治家のだらしなさに対する警告だったことなど忘れ、また軍部をのさばらせることが、いかなる結果を招来するかも慮らず、いたずらに政権をとりたい野心から、しきりに軍部の機嫌をとる。森恪などその第一人者だった。鈴木は森恪の存在を重視しないはずはなく、ここを窓口として政友会に近づく。かくて政界で流行児になった。現役軍人としているのもよし、退いて政界にいづるも不可なしと、彼の地盤は漸次強固になる。ここらの手腕は実に鮮やかなものであった。
 永田軍務局長時代であるが、小磯は第五師団長として広島にいた。筆者は満州からの帰途にはいつも小磯を訪問することにしていた。広島は急行列車が不便で、夜半でなければ通過しない。小磯は起きて待っている。大きな玄関を入ると上り口にりっぱな果物籠が置いてある。小磯は出迎えに出た夫人を顧みて「籠はまだ捨ててないじゃないか」となじっている。夫人は困ったという顔つきで笑っている。どうしたのかときいてみると
「その籠にはふれるな、けがらわしいんだ。名刺かなにかはさんであるだろう、それを見ればわかる」
という。電灯の光でのぞいてみると鈴木貞一の名刺だ。
「鈴木が広島を通過したが、次官の関係でお伺いできないから、閣下に宜しく伝えてくれといって、多分駅にいた憲兵にでも頼んだんだろう、俺の留守中に届けられているんだ。胸糞が悪いから捨ててしまえと言って置いたのに、まだそこに置いている」
 なるほどそれでわかった。その頃は小磯が中央部に出て、航空本部長になるかという噂がたっていた。その先物を買ったのだろうが、小磯としては次官、関東軍参謀長時代の鈴木の仕打ちには我慢ならぬものを感じていたのだ。
「捨てるのはもったいない。名刺さえ捨てておけば中身は上等な果物ばかりです。一つ食いましょう」
 と名刺を土間に捨てて、籠を持って応接室に入った。小磯は機嫌がわるい。
「そんなものを食うより、今夜は虎の肉を食おう。山下亀三郎が朝鮮か満州かで仕留めたと言って、虎の肉を送って来ているんだ。この方がさっぱりしとっていいよ」
 とさっそくすき焼きにして食ったが、肉が堅くてだめだった。それよりこの方がいいと、メロンや何かを食った。先物を買ってまた一儲けしようと考えたのだろうが、小磯は中央にもどらず、朝鮮軍司令官になった。果物は贈り損をしたわけだが、彼にもたまには目算違いがあった。…
(高宮太平『昭和の将帥』、1973年、190-197頁)
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cuttercourier · 5 years ago
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日 アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役に��立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮��、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事の時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃した��破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜���系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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kokoro-m · 6 years ago
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F 7/23
誰よりもわかっていました、書く手が止まることに。
だって画像をここに読み込もうとしたらすぐダウンして何回もそれ繰り返してんやにゃぬむ、、、シンプルに反省。良いのです、ここはマイペースの世界。
パリ2日目、実質初日。
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鏡を見ると反射的に撮ってしまいがち。おろしたてのごついナイキと、ご贔屓にしすぎているZARAで全身を包み、いざスケジュールを攻略しに街へ出ます。髪型は、フィフティシェイズオブグレイのアナですこんにちは。
パリにいる間、ほぼ気温が40度の世界だったので、足か腕か腹かどこか肌を出してないと服を引きちぎりそうな暑さでした...
朝一番に向かったのは、大目玉の「City Pharma」
パリで一番安くスキンケア等商品が手に入ることで有名な薬局です。日本でも良く見るものが、大容量で安くなってたり、お土産用のバラマキリップなどの種類も超豊富。お世話になっているメイクさんから聞いて買おうと決めていたCAUDALIEのリップ、美容ミスト(これがすっごい良かった!)、定番Aveneのまたも化粧水ミスト、ハンドクリーム、敏感肌用クリーム、日焼け止め大量、などを購入。
そのあとは、朝食専門店の「Claus -SAINT GERMAIN DES PRES-」へ。もともと行きたくてピンを地図に立てていたら、City pharmaからとっても近くてラッキー。プラン立てがしやすいコース、大好き。どうせCity Pharmaで大量買いして荷物を一旦置きたくなるから、朝食でもとってからホテルに帰れたらな、と思っていたところにこれ。大好き。
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白を基調にした店内は、インスタグラム映えだな〜とついつい現代的な感想を抱くほどに洗練されてお洒落でした。焼き菓子が飾ってあるのは罪です。
ひとりだしカウンターかな、と思っていたら、割と早い時間だったので店内も空いていて、自由に選べたので窓に近い二人がけの席へ。大好きなアボカドトーストや、シンプルにブレッドだけ、他にもメニューが多くて迷いましたが、せっかく来たのなら!と思い切って、オススメのモーニングセットの中から選びました。
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クロワッサン、スコーン、シナモンデニッシュのブレッド3種類、エシレバター丸々一個、フルーツのジャムに、フランボワーズソース付きの瓶詰めヨーグルト、オレンジジュースにコーヒー。あまりに贅沢。
静かな空間���、スプーンなりが置かれる音と店員さんの話し声だけ、朝の始まりを感じるには十分すぎる時間。
優雅になれるのも朝だけ、食べ終われば即電車でホテルに戻り、一息してからまた電車に乗って、モンマントルに向かいます。
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地下鉄の切符。一枚1.90ユーロで、大体の場所は一枚でいけた。でもホテルからモンマントルまでは40分弱かかって、乗り換えの時に一旦出口を出てすぐ向かいの違う駅を経由して、とやると、改札に二回入ることになるので、二枚分の3.80ユーロがかかります。それでもやすい!10枚セットを買って、疲れたらすぐ電車に乗れるようにしていました。セットだと8ユーロ弱の謎の破格。
移動は全て「Citymapper」かGoogle マップを使っていました。Citymapperの便利さは異常。何駅行きの電車で、途中停車駅の表示は勿論、車両はどこに乗ったら乗り換えに最適か、など全て教えてくれる強者です。何分後に来る!とか。電車やバス以外にも、「Lime」(ヨーロッパで今流行りの移動用スクーター)で行った方が早い、とか、全ての可能性を提示してくれた。お陰で時間ロスもミスも0。
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そうして安心の上で辿り着いたモンマントル。こ、ここは映画の中か〜!と思うほどの壮観。観光客で溢れかえっているものの静けさは基本的にあって、風も抜けて心地良くて最高の気分。バーの野外カウンターでお馴染みサンペレグリノを購入し、ごくごくを力を蓄え直して向かったのは念願のモンマントル美術館。
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思わず通り過ぎてしまいそうな入り口。ででーーんここが美術館です、なんてポールや看板もなく、ひっそりと存在しています。一度中に入れば分かる、この慎ましさの雰囲気。ここは個人経営の美術館なので、ミュージアムパスは使えず、料金を払って館内をまわります。まず最初に、青々した緑豊かな庭園が迎えてくれます。どれだけ暑くてもずっとここに居たいと思わせるほどに静寂が似合う場所で、チラッと見えた出口の方にはカフェが。順序通りに回るためそこに出たのは最後でしたが、寄りたかったけど他の目的地へ行くために断念。次きたら私も優雅に庭園を見ながらエスプレッソ飲む。
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入り口からは連想できないほど内容が充実していました。所有されているコレクションの中には、日本を彷彿とさせるペインティングやポスターもずらり。
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空腹を感じて美術館を出たので、いざ興奮に満ちたランチ探し。この日は少し移動して、ラザニア専門店「LALA La lasagnenia -Pigalle」で大好きなラザニアを、と意気込んで居たのですが、想像以上の暑さに完全にバテていて、がっつりメイン料理を食べれる気がしない、これは由々しき事態すぎる、、と Rue Norvinsを歩きながら悩む。それでも美味い飯が食べたい!とGoogleマップで調べたレストランは満席、どうしようと途方に暮れた時思いつきました。俺らのライトミール、MARCELがあるじゃないか!!ほぼ音速で向かい、無事外の席で一息。クランベリージュースでバテた身体にビタミンを漲らせ、頼んだのはシーザーサラダ。フライドチキンに大量のスライスチーズとレタス。サラダなのに超ボリューミー!シンプルな味付けにチーズの濃厚さがこれでもかと絡まって、胃袋にドンピシャ。この後に立てた予定をチェックしながら食べ進める。とりあえずまた道を戻り、サクレ・クール寺院へ行かねば。
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