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#備前焼の土塀
bizenwakakusa · 1 year
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ネット個展の打ち合わせに、備前へ行ってまいりました
備前へ行ってきました
  快晴の岡山です。
これだけ晴れていたらお出かけしたくなりますね。
  さて、昨日は備前へ。
備前焼の追加とネット個展の打ち合わせに。
  画像はいつもお世話になっている伊勢崎創さんの工房、
陽山居の土塀です。
  土塀に満先生の作品が埋め込まれていて、
陶印が入っているので焼成時に割れてしまった作品だとわかります。
  焼け上がりも窯変や火襷などバリエーションに富んでおり
非常に見ごたえがありますね。
  陽山居の土塀
  ランダムに配置された備前焼が茅葺の工房とマッチして
何時間でも見ていられます。
  個人的には雨が降っている時がしっとりとして雰囲気が出るのでおすすめです。
    そして、ネット個展の打ち合わせは高力さんの工房へ。
  6月下旬の開催が決定しましたので、これから準備に移ります。
  詳細はこのブログで情報発信してまいりますので、
どうぞお楽しみに。
  今回のネット個展はメルマガ登録者様に先行公開がありますので、
この機会にぜひご登録くださいませ。
  【備前焼わかくさ】わかくさについて
わかくさについて。備前焼わかくさは岡山県の南西部、瀬戸内海沿いに実店舗がございます。取扱作家一覧、メールマガジンの登録など。
www.bizen.biz
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violence-ruin · 2 years
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丑の刻の平安京に羅城門が顕現し、下人が侍を鞭打ちしこと
 今は昔、さる山中を根城とする盗賊の砦に、のちに都で下人をすることになる子供がいた。砦に囲われた女たちの一人が産んだ男の子だった。子供は口減らしのために棄てる決まりだったが、時々首領が気まぐれを起こして育てさせることもあった。それで、下人にとって女たちは母たちでもあった。
 母たちは下人をかわいがった。乳をやり、口々にことばを与えた。
 お前の本当の母さんは死んじゃってね。産んですぐ後にね。かわいそうにね。
 下人には「本当の母さん」という言葉の意味するところがわからなかった。母はつねに複数いた。赤ん坊は横で頭を潰されて死んでいった。生かされた兄弟たちは、自分と同様に母たちに可愛がられていた。
 盗賊たちは街道を通る商人や役人の一行を襲い、身ぐるみを剥いだ。男は報復を防ぐため皆殺しにした。女は裸のまま逃したり、時には何人かさらってきて元からいた女を代わりに捨てたりした。母たちの顔ぶれは入れ替わった。
 成長すると、下人も盗みに駆り出された。
 初めての仕事は、寺の鐘を盗み出す手伝いだった。まず老法師に扮した爺さんが寺に行き、うまく鐘堂に泊めさせてもらい、そのまま死んだふりをする。下人は、兄弟の一人と共に寺に赴き、激しく泣いて見せ、夕方に引き取りに来ると行って立ち去る。寺の僧たちは貰い泣きをしていた。あとは年上たちの仕事だった。死体を運ぶふりをして鐘を盗み出す者。鉦を叩き経を上げさせる俗法師の仲間たち。鐘堂の穢が明けて小僧が鐘堂を開ける頃には、鐘を鋳融かして加工し市で売りさばいた後だった。
 母たちは下人がどんどん一人前の盗人になっていく様を見て嘆き悲しんだ。
 ある日連れてこられた母は元は都で女房をしていたといい、男たちの目を盗んで地面に木の枝で読み書きを教えてくれた。下人はすぐに女手と男手のどちらも覚えた。女は夜みなを集めて「光る君」の話を諳んじてみせ、皆で貴人の生活や恋愛に思いを馳せた。あまり娯楽のない砦の生活で、「光る君」の朗読は女たちにとってお楽しみの時間となった。
 やがて下人は成長したが、母たちは相変わらず母たちだった。寝ていると母たちの上に覆いかぶさって揺さぶる男たちを嫌悪していた。
 自分も「光る君」のような男と「契り」を結んでみたいと思っていた。
 そう女房の女に言うと笑われたが、下人が笑わないのを見て口をつぐみ、都に行くんだね、でもなきゃ寺にでも入りな、と言い捨てて母たちの集まりに戻った。
 ほどなくして、役人と貴族たちの軍団が砦に攻め入ってきた。
 女房は知らせを聞くなり下人を殴って昏倒させ、盗品から密かに隠しておいた女房装束を着せた。下人が目覚めた時には、男は子供に至るまで皆殺しにされ、女たちは砦の前に立たされた。貴族の一人が、何人かを奴婢として持ち帰りたい、と言うと、女房が下人の手を引き前に進み出て、これはかつては宮仕えをしていた女房だ、どうかこの女はそういうものとして扱ってくださらんか、と言った。本当かと訝しむ役人たちだったが、下人が漢籍をすらすらと諳んじて見せるとすっかりそれを信じ、貴族が都に持つ邸宅に仕える家女房として引き取られることになった。
 母たちは何も言わず、ひとり都へ向かう牛車に乗り込もうとする下人を涙ながらに送り出した。
 掠奪品と共に運ばれた男たちの首は日に日に腐っていき、都で晒される頃には誰が誰のものなのか区別が付かなくなっていた。
 都は「光る君」の話から受けた印象とはとうてい異なる場所だった。
 正門であったという羅城門はずっと前に倒壊して、柱の残骸のようなものが残��だけになっていた。路上に死体と糞便が溢れているのに文字通りに閉口した。牛車の暖簾の間から、山では見たこともないほど肥え太った蝿が、何びきも入ってくるのだ。少し人通りの少ない所に入ると餓えた犬たちに襲われ、御者と兵が棒や刃物で殴り殺そうと大騒ぎになった。
 受領の邸宅は七条と東洞院の交差する所から二町ほど下った所にあった。確かに内裏の近くではないが周りの家と比べては大きいように見えた。塀の中に複数の建物が集まっていて、池や金目のものを集めた倉庫すらあった。感心していると、非常にしばしば集団強盗や放火に遭うから少し離れた所にある別宅に住まうことになる、ここへは物を取りに来ただけだ、と言われた。
 別宅はもっと内裏に近い所にある小さな屋敷だった。受領の娘はここで下人を数人従えて住んでいた。もともと居た家庭教師は、さる歌合で才を見出され、女房として出仕することになったそうだ。そういう者にものを教えられたせいもあってか、娘はまだ幼いのにとても利発で、歌や漢籍に関してはもう教えることがないほどだった。その代わり笛や箏は苦手なようで、自分にも教えられることがあることに下人は安堵した。毎日管弦の稽古をして、飽きると歌を作ったり、「光る君」の巻物を読んで感想を語ったりして過ごした。
 数年経って娘の女房仕えの話がまとまりかけた頃、都に疫病が流行りはじめた。まず赤い発疹が腕や顔に現れ、数日で高熱を伴って全身に広がる。かすかに肉が焼けるような臭いがし始めると今度は代わりに血を吐き、青白くなって息絶える。下人の数人が倒れ、次は娘だった。
 娘が苦しみ悶えながら死ぬ様を呆然と見送った。使いを送ってしばらくのち、受領が悲嘆に暮れつつ下人の前へと現れた。
 ひどい有様だ。本当にひどい。鬼が……千切れた腕や、頭を持って、走り回っているんだ。
 受領は、あなたを養子として迎える準備がある、と微かに涙の残る声で下人に告げた。思ってもいない話だった。下人は少し考えたのち、微笑みながら首を横に振り、立ち上がって服を脱ぎはじめた。単衣を床に落とすたび少し赤らんだ受領の顔が、肌を曝すと再び血の気を失い、袴を脱ぐ頃には昏倒した。
 下人は死んだ下人の服に着替えた。
 *
 下人となった下人は、女房装束や日用品を一揃い背負い籠へ入れて家を出て、その辺をぶらぶらした。
 疫病は大量の死を生み出していた。庶民の死は単なる悲劇だが、貴人のそれは大量の失業者の発生を意味し、路上には常ではありえないほどの路上生活者がいた。みな妊婦のような腹をしていて、何も身に付けておらず、土や垢で汚れきっており、老若男女の区別も付かぬような状態だった。力なくへたり込んでいるように見えて、屋内で出た死体が外に投げ出されると驚くほどの俊敏さで群がった。なるほど、鬼かもしれない、と納得した。しばしば彼らは疫病で死んだり、犬に襲われて死んだり、暴漢に殴られて死んだりしていた。
 内裏の近くまで行くと、なぜかバラバラになった死体を集めているものたちに出くわした。ひとりの男に話を聞いてみると、怪訝そうな顔をしながらも、烏や鳶が途中で落としてしまうのだ、自分たちは刑吏や死体の廃棄を生業としている者たちで、内裏や貴族の家の近くで発生した死体を片付けると、検非違使が彼らに金を与えてくれるのだと言った。そういう利権で食っている集団が複数存在し、穢れの度合いで報酬も変わってくるのでどの集団がどこのどんな死体を拾うというのが大変微妙な機微をはらむ問題らしかった。話をしている間にも遠くの方で小競り合いが起き、加勢しなきゃ、と言いながら男は去っていった。
 夜な夜な下人は死体が発生したという独居人の家に忍び込み、死体を運び出して空き地に捨てた。それから家に戻り、女房装束を着て笛を吹いた。しばらくすると、簾の向こうに人影が見え、細紙が簾の隙間から差し入れられた。「夢のような笛の音色に引き寄せられてたどり着いたこの破れ庵に美しいあなたが垣間見えたことだよ」という歌が書きつけられてあった。下人は少し考えて、「夢に見たあなたのことを思って笛を奏でておりました、夢であなたが教えてくださった曲を」という歌を書いて返した。
 男は簾をくぐって入ってきた。下人は扇で顔を隠し、窺い見た。特に光り輝いてはいなかったのでがっかりした。
 この家に住んでいたものは、亡くなったはずではなかったか。
 こうして生きておりますわ。
 女ではなかったはずだ。
 そういうこともございますわ。
 男は出口を塞ぐように立ち塞がって抜刀した。
 そなたはあやかしか? それとも強盗か?
 歌を解し文を書いて贈るあやかしや強盗など、聞いたことがございませんわ。
 そう返すと男は納得した様子で刀を鞘に戻し、なるほど、貴人とは虫のように単純な頭をしているのだな、と思った。契りを結ぼうと鼻息荒く覆い被さってくるのを「このような夜を寝るだけで過ごすのは風情がないことだよ」とか何とか言って押しとどめ、娘の家からくすねてきた酒を飲ませた。
 あなたは人を殺めたことがございますの。
 なぜそのようなことを訊く。
 武の道に秀でた殿方は素晴らしいと思いますわ。
 そう煽てると男は敵対する貴族を刀で斬り殺しただの手際の悪い牛飼童を殴り殺しただの自慢しはじめた。こいつは「光る君」とは似ても似つかぬ下郎だなと思った。「光る君」は人を殺さない。男を手刀の一撃で昏倒させると、身ぐるみ剥いで背負いかごに突っ込んで家を後にした。
 それからも何度も同じことを繰り返したが、その度に失望を味わうこととなった。誰に聞いても快楽殺人を一度は行なっているとは一体どういうことなのだろうか。都人たちを見ても、けだものが職と服を身につけて歩いているとしか思えなくなってきた。
 それでもいつかは「光る君」のような有徳の者が垣間見てくれるのではないかと期待していた。
 ある日、簾の前にすらりと高い影が差すのが見えた。笛を吹くのをやめて見上げたが、じっとそこに立って動く様子がない。じれったくなって「なぜそのようにじっと立っているのでしょう、私の心まで見透かしているなら中に入っていいとわかっているでしょうに」という内容の歌を書きつけた細紙を出し出すと、男は黙って簾をくぐってきて、下人の前に立ち塞がった。
 何の御用でしょうか、と訊ねると、男は急にもじもじし始め、消え入りそうな声で話しはじめた。
 頼みたいことがあるのです。
 侍は俯きながら乗馬用の鞭を手渡してきた。
 これは何でしょうか。
 鞭です。
 それは分かります。何故こんなものを渡してきたのかをお訊きしているのです。
 男は答えず、着物をはだけて上半身を顕にし、後ろを向いた。毛深い背中には幾百幾千の傷跡が斜めに走り、醜く盛り上がっているのが見えた。
 お帰りください。
 男は下人の膝元に蹲り、涙ながらにこれまでの事の顛末を語った。元は侍として内裏に仕えていたが、ある女と共寝をしてこれを妻とした。しかしある日突然妻から鞭で何百回も叩かれ、なぜか強盗団の幹部として働くことになった。数年経ったある日のこと、愛する妻は家や家財もろとも蒸発してしまい、男は検非違使にひっ捕らえられて獄に入れられた。刑期を終えて宮中を彷徨っても結局妻を見つけることはできず、悲しみに暮れていたところ、笛の音が聞こえてきたのだという。
 前の妻と出会ったときも、その曲を吹いておりました。きっとこれは宿世の縁です。さあ、私を打ってください。
 理解はいたしました。お帰り願えますでしょうか?
 侍はその格好のまま惨めに泣き始めた。身体の震えで着衣はますます乱れ、尻や腿までもが同じような傷に覆われているのが目に入ってしまった。
 下人は肚を決め、衣をはだけて上半身を顕にした。
 騙す形になってしまい申し訳ございません。私は女性ではございません。あなたの妻になることはできませんから、お引き取り下さい。
 構いません。妻も私を鞭で打つ際は男装をしておりましたから。
 そういう問題ではないのではないか? と下人は思った。侍は泣きながら遺品だという水干袴と烏帽子を見せてきた。
 仕方ないので打ってやることにした。
 試しにどんなものか一度叩いてみると、腐っても鞭、軽く打つだけで厚く堅くなったはずの侍の背中には鋭い傷が残り、血が滲み出した。侍がぐっと何かに耐えるような声を漏らしたのが真に迫っている感じで嫌になった。あんっ♡とかそういう、ちょっと楽しげな感じだと思っていたのに。
 気を取り直して、何回打てばよろしいでしょうか、と訊ねると、妙にはっきりとした声で八十回よろしくお願いします、と返ってきた。
 八十回打ち終わる頃には背中が一面血塗れになったが、男は、平気だ、と言うばかりだった。流石にこれを放置するわけにはいかぬという気持ちになり看病をしていると、下人は言い知れぬ理不尽さを感じ、涙が流れた。
 ここを離れようと思い服を着直していると、侍がお待ちください、と手を握ってきた。
 礼を言わせてくださいませんか。ご迷惑をおかけいたしました。
 その真摯な眼差しから何故か目が離せなくなり、下人は無意識にいつもの質問をした。 
 あなたは意味もなく人を殺めたことはございますか。
 侍は少し考えてから、ないと断言した。下人は、なぜ自分がそんなことを訊いたのかもわからぬまま、その家を立ち去った。
 下人はその日を境に垣間見待ちをやめた。再びあの侍が来そうで恐ろしかったのだ。それから、食い扶持を稼ぐために盗賊団に入ることになった。
 あんたも都にさえ生まれればね。こんなけだもの共とは無縁の現世だったろうにね。何にだってなれたのにね。
 母たちはよくそう言ったものだった。実際、何にでもなった。女房のようなことをしたあとは、貴族から強奪した所持品を売り飛ばすために行商の変装をした。それで何とか生計を立てていた。今は強盗団だ。強盗団は強盗だけをして生きている人間ばかりではない。商人や聖職者、役人や女房のような者たちすらいた。貴族の家で働く使用人や侍はしばしば情報を売り渡し、自分で屋敷に火を放ちすらした。彼らもけだものだ。下人も仲間の手引きで貴族の家に下人として働きに行き、強盗を行うときは偵察や暗殺を行った。
 朱雀大路にやってきた旅芸人の一座を見て、自分の生まれを思い出さずにはいられなかった。偵察し、場所を開けるよう頼む者がいる。声を出して人の気をひく者がいる。演じる者がいる。道具を運び、組み立てる者がいる。金を集める者がいる。彼らもきっと盗むのが上手いだろうと思った。
「光る君」のことを諦めた訳ではなかった。本物の下人として内裏へと出入りするようになった。しかし幾度宴を覗き見たところで、どの男も光り輝いていなかったので、いよいよ失望を覚えた。宇治にでも行った方がよいのだろうか、と思い始めた矢先に、腕の内側に赤い発疹ができた。信じられないような早さで熱が上がり、内裏の中で動けなくなった身体を下人たちが引きずり出して、路地に捨てた。
 目を開けていることもままならなかったが、それでも飢えた犬と飢えた人間たちが近づいてくるのを感じた。襲い掛かられることを覚悟した瞬間、何かが自分を背負い上げた。まだ死んでいないのに河原に捨てられてしまうのだろうか。いったい私の穢れはどの程度、どのくらいの価値があると判断されたのか。
 下人の意識はそこで暗転した。
 *
 下人は小さな部屋で目覚めた。見知らぬ部屋のようでもあったし、これまで一夜を過ごして貴族を殺した部屋のどれかであるようにも思えた。簾が風にはためく音が耳に入り、目を向けると人影が見えた。すらりとした長身で、かすかに光り輝いていた。
 簾の外に出ると、男の姿はなく、かすかな光が尾を引くのみだった。その光を辿っていくと朱雀大路に出た。南の果てが金色に光っているのが見えた。ふらふらと歩み出した。死人もなく、野犬もいないことに下人は気付いていなかった。
 七条を過ぎる頃に、見慣れない建物が見えてきた。京の南端にたどり着���と、羅城門の跡地に巨大な建物が建っていることが分かった。朱雀門に似ていた。
 門扉を開けると、上階から光が漏れ出ていた。階段を登ると老婆が死体の髪の毛を毟っているのに出くわしたが横を素通りした。廊の突き当たりに、薄金色に発光するものが見えた。近寄ってみると、あの侍が正座しながら発光していた。下人が追ってきたことを後悔して帰ろうとすると、またも鞭を手渡された。
 さあ、私を打ってください。
 お断りします。
 打ちなさい。あなたは私を打たなければなりません。
 なぜ。
 なぜでも。 
 無視して帰ろうとすると、後ろから「わしが今、髪を抜いた女などはな、蛇を四寸ばかりずつに切って干したのを、干魚だと云うて、太刀帯の陣へ売りに往んだわ…」とぶつぶつ喋る声が聞こえてきて、横を通り過ぎて帰るのが嫌になってしまった。あの老婆が毟り終わって帰るまでここを動きたくない。
 仕方ないので打ってやることにした。
 今回は何回ほど打ったらよろしいでしょうか、と訊いたらまたも一時の逡巡もなく、八十回、と返ってきた。どうもその回数に拘りがあるらしい。
 気乗りがしないままに叩きはじめると、また男が濁声で耐え忍ぶような声を上げはじめたのでうんざりした。どうせ叩かせるのなら、もっと気持ち良さそうにしてくれた方がまだ叩き甲斐があるのに、と思っていると、突然男が振り向いた。
 手を抜いているでしょう。
 はあ。
 あなたはよっぽど度胸のないかたですね。
 下人はその言葉を聞かなかったことにし、無心で八十回打ち据えた。侍の背中は樫の幹のように硬く頑丈で、手が痺れてしまった。こんなことをしてもらって悦ぶようになる前はきっとさぞかし立派な侍だったに違いないのに、どうして……。下人は、虚しくなってしまった。
 終わりましたよ。
 ありがとうございます、と言いながら侍は立ち上がり、下人の方に向き直った。
 では、今度は腹を八十回お願いいたします。
 ご冗談でしょう、と下人は叫んだ。背中はすでに裂傷でズタズタになり、どんな悪人でももうこれ以上は打たないのではないかと思うような状態になっていた。死んでしまいますよ。
 これしき何でもありません。この傷跡が目に入りませんか?
 侍は胸を張って見せた。確かに胸から背中ほどに掛けてびっしりと傷跡が隆起しているのが見えた。
 下人は言葉を失ってしまった。老婆の声が再び響く。「…せねば、饑死をするのじゃて、仕方がなくした事であろ。されば、今また、わしのしていた事も悪い事とは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、饑死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事を、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ。」
 下人は共感した。一緒に髪をむしりに行ってもいいかな、と思った。下人には地上の法が理解できない。下人は強盗だった。人を殺し、物を盗んで暮らしてきた。
 下人が振り向こうとした瞬間、肩を強い力で掴まれ制止された。
 そちらへ行ってはなりません。
 なぜですか。
 ならぬからです。
 罪のある者たちの物や命を奪うよりも、あなたを鞭で打つほうがよほどならぬことだと思われるのですが。
 侍はこれを聞いて、それはどうしてですか、と不思議そうに聞き返した。下人は答えに窮した。
 あなたが死んでしまいそうで恐ろしいからです。
 こんな程度で死にはいたしません。それに、私が死んだところであなたに何の問題がおありですか。
 いけないことです。
 なぜいけないと思うのでしょうか。
 必要のない死、必要のない暴力だからです。強盗とは違います。強盗は生きるために行うことです。
 私は必要としています。生きるために必要なことです。
 私には必要がありません。
 だからよいのです。人に施しを与えることは功徳を高める行いです。さあ、私をお打ちください。
 全く納得のできない論理であった。躊躇していると、お打ち願おう! という大音声と共に間合いを詰められた。もう逃げ場がない。
 仕方ないので打ってやることにした。
 八十回でよろしいですか、と訊ねると、そうだが、とでも言わんばかりの慇懃さで頷かれて腹が立ち、思わず加減をせず一発目を叩いてしまった。
 ぐっ……いい打ち加減だ。その調子です。
 心底気持ちが悪いと思った。下人は何も聞かなかったことにして無心に叩こうとした。しかし背中を叩くのとは違って表情で反応がわかってしまう。普段通りの力で叩いたら物足りなさそうな顔をするのが見えてなんとも不愉快な気持ちになり、顔を背けてしまった。
 なぜ……。なぜ私は、このような様子のおかしい者を殴らなければいけないのでしょうか……。御仏様、これが、私が今まで犯してきた罪に対する報いなのでしょうか……。生まれてきたことが、間違いだったのでしょうか……。
 侍の腹は樫の幹のように硬く頑丈で、八十回打ち終える頃には手が痺れてしまった。
 いいですか。これで最後ですよ。もう二度と絶対に叩きませんからね。
 下人が顔を上げた。侍は全身からぼたぼた血を垂らしながらこちらを観察していた。鬼のようだった。
 私を打って、楽しかったですか。
 いいえ。
 二百四十回も打ったのに、ただの一度も。
 苦痛でした。
 ならばあなたは暴力がお嫌いなんですね。本当は、人を殺すのも、人から物を盗むのも嫌いなはずだ。あなたは女手を理解し、管弦の扱いにも長けたお方。好きなはずがない。
 強盗だって読み書きや管弦の扱いくらいわきまえていることくらいありましょう。
 それにあの服。なぜ女房装束を着ていたのですか。
 あなたの奥様が男装をしたように、私も女装をしていただけでございます。
 では、どうしてあんなことを訊いたのです。あなたは意味もなく人を殺めたことがありますか、と。
 下人には答えられなかった。黙っていると、侍は下人を抱擁した。自分が震えているのがわかった。なぜ震えているのか分からなかった。血の匂いが濃く香り、自分の着物を熱く濡らすのが感じられ、一層大きく身震いした。
 強盗のあなたと女房のあなた、どちらが本当のあなたなのですか。どちらが本当の望みなのですか。
 *
 答えようとしたところで目が覚めた。
 見知らぬ部屋に寝かされていた。頰が涙で濡れているのは意味のわからない夢を見たせいだろう。羅城門が再建されるなどという話は、聞いた覚えもない。いや、そんなことよりも。
 生きている……。
 弱った腕を持ち上げて、発疹がないことを確認した。信じられない。あの病に罹って生き延びたものなど、聞いたことがなかった。御仏の加護だろうか。この私に。
 外から、貴人と思われる男が入ってきた。
 目が覚めましたか。
 ここは……。
 私の家ですよ。部下の一人があなたをここまで運んできたのです。
 家の中で死んだら大変なこと(内裏に出仕できなくなるなど)になるはずだった。よく匿ってくれたものだ。奇異の目で見ていると男は、私は自由の効く身なのです、と言って微笑んだ。
 運んできて下さった方は……もしかして、身体中が傷だらけで赤い髭の方でしょうか。
 そうです。
 お礼を言いたいのですが。
 死にました。
 死んだ?
 あなたはここに運ばれてすぐ血を吐きはじめ、もういつ息絶えてもおかしくない状態でした。あの男は熱心に看病をしていましたが、あなたの身体が青白くなる頃には黙って泣いていました。それが丑の時にもなろうというころに突然「行かねばならぬところがある」と屋敷を出ていったのです。そして今朝、羅城門の跡で、死体になって見つかりました。身ぐるみ剥がれた上に髪の毛まで抜かれており、体中に謎の鞭傷が残っていたそうです。……どうかしましたか?
 いえ。悲しいことですね。
 下人の頭には先ほどまで見ていた夢の光景が急速に蘇りつつあった。
 貴人は、好きなだけここで身体を休めてくれて構わないと鷹揚に言い残してどこかに去り、それきり顔を見せなかった。頼りない、なよやかな首の感じが妙に印象に残る、美しい男だった。
 下人は横になりながら、答えられなかった最後の問いについて考えていた。
 ──私は「光る君」に会いたかった訳ではなかったのかもしれない。「光る君」の話に出てくる者たちの生活に憧れていただけかもしれない。暴力もなく強盗もない美しい世界のように思われたのだ。そして、それは「垣間見」でしか得られないものであるような気がした。きっと、あの砦で一緒に話を聞いていた母たちにもとってもそうだったに違いない。
 ──私は色々なものになった。男にもなったし、女にもなった。どんな職業にも成りすまして、盗み、殺してきた。でも、私は母親にだけはなれなかった。母親になれなければ契ることはできない。母たちはきっと、そこに目を瞑っていた。それでも私に女房装束を着せて、生き延びさせてくれた。
 ──自分にはどうしようもできないことだ。どうにもやりきれない。そして、私たちの早急で不実な考えは、あの男に死をもたらした……。
 下人は、枕の上ではらはらと涙を零した。大きな声を出して往来を走り回りたいような気分だったが、身体は相変わらずうまく動かなかった。
 *
 ある晩、夜半に目を覚ました。簾が風にはためく音が耳に入り、目を向けると人影が見えた。すらりとした長身で、かすかに光り輝いていた。
 簾の外に出ると、男の姿はなく、かすかな光が尾を引くのみだった。下人は、光の後を辿って、歩みはじめた。身体の重みは感じなかった。
 下人の行方は、誰も知らない。
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myonbl · 4 years
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2020年9月20日(日)
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三重県紀北町・奥川ファームから隔週に届く定期便、平飼い有精卵+畑無農薬野菜+特別栽培玄米。今回は野菜が少ないので、鶏肉・猪肉がたっぷり、それに手打ち蕎麦も入っている。高齢の母との2人暮らし、耕作放棄と太陽光パネルで農地は荒廃し、獣害との戦いは農業の継続意志を脅かす。それでも安全・安心な食料を作り続ける生産者の存在、それを支えるのは相互理解を前提とした消費者である。今日も命に感謝して、美味しくいただこう。
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奥川ファームの新米、ナスのぬか漬けが美味しい。
三男は日勤、他は休み。
洗濯1回。
奥川ファームから定期便、今月分を振り込む。
まずは、猪肉をカットして(ツレアイの担当)、軽く焼き目を付けてから生姜と一緒に煮込む。
鶏肉は腿と手羽をオーブンで焼く。
猪肉を使って、カレーを仕込む、これは明日の夕飯用。
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ランチは届いたばかりの手打ち蕎麦、前回いただいた無農薬レモンをスライスしてトッピング、これが美味しいのだ。
録画番組視聴。
名探偵ポワロ(25)「マースドン荘の惨劇」
ロンドンから遠く離れた村のホテルにやって来たポワロとヘイスティングス。ホテルの主人から殺人事件の調査を依頼されたのだ。しかし、事件はミステリー好きの主人が書いた小説の話だった。怒って帰ろうとしたポワロだったが、村一番の古い館で、幽霊が出るとうわさのあるマースドン荘の主人が急死する事件に巻き込まれる。
YouTube版と平行してみているが、どちらも何度も楽しめる。
軽く午睡。
ツレアイは衣替え、半袖と長袖の入替作業、私の分もお願いする。もちろん今日だけでは終わらないが。
明日の授業内容の確認、「社会貢献論(1年次必修科目)」2クラス、紙の配布物は廃することにしたので準備は楽である。
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夕飯は、金曜日の特売で買った鶏もも肉、このところ、「にんにくしょうゆ煮」に凝っている。
録画番組視聴。
日本の話芸 桂米團治 落語「本能寺」
第407回NHK上方落語の会から桂米團治さんの口演で落語「本能寺」をお送りします(2020年9月3日(木)NHK大阪ホールで収録)。【あらすじ】:芝居噺のなかでも数少ない、お芝居の一幕を見せようという趣向の噺(はなし)。中身は、明智光秀が本能寺で織田信長を殺した事件をお芝居にした「三日太平記」。幕が開くと本能寺の塀外。土塀が左右へ引かれると小田春永が出てくる。そこへ花道から武智光秀が登場して…。
無観客での芝居話、さぞやりにくかったことだろう。
散髪+入浴。
私の長い夏休みもやっと終わり、明日から後期授業開始。
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明日からは、毎日3つのリング完成を目ざすのだ。
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oniwastagram · 4 years
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📸松江武家屋敷 [ 島根県松江市 ] Former Samurai Residence, Matsue, Shimane の写真・記事を更新しました。 ーー松江藩の中級武士や漢学者・瀧川資言も暮らした江戸時代中期の武家屋敷の #出雲流庭園 。松江市指定文化財。 ...... 「松江武家屋敷」は国宝・現存十二天守『松江城』🏯のすぐ北側にある武家屋敷通り“塩見縄手”沿いに残る、江戸時代中期の武家屋敷。現在は博物館(ハウスミュージアム)として公開されており、屋敷のお座敷からは出雲流庭園が眺められます。 #松江市指定文化財 。 . 秋に9年ぶりに訪れた松江市の庭園巡りで初鑑賞。この武家屋敷の他にも長屋門や土塀が立ち並ぶ“塩見縄手”は松江藩初代藩主 #堀尾吉晴 によって松江城の築城とあわせて整備されもの。 現在では松江市伝統美観保存地区および建設省(現・国土交通省)の選定した #日本の道100選 にも選ばれています。同じ道沿いには国指定史跡『小泉八雲旧居』のほか、武家屋敷の面影を残すそば処🍽や旅館も🛏 . その通り沿いで唯一、江戸時代の姿のまま保存されているのがこの施設。元々は通りの名前の由来ともなった藩士・塩見小兵衛が住んでいた屋敷で、1733年(享保18年)の大火🔥による焼失後に再建。2016年から明治時代の図面をもとに3年かけて復原整備されたのが現在の姿。 . 中級武士の屋敷だったとされますが、式台玄関や広いお庭が眺められる座敷、当主居間の様子を見ていると格式の高さが感じられる。そして“茶の湯”🍵が盛んな松江藩らしくお茶室も備えている。 続く。 ・・・・・・・・ 🔗おにわさん紹介記事: https://oniwa.garden/matsue-samurai-residence-%e6%9d%be%e6%b1%9f%e6%ad%a6%e5%ae%b6%e5%b1%8b%e6%95%b7/ ーーーーーーーー ‪#japanesegarden #japanesegardens #jardinjaponais #japanischergarten #jardinjapones #jardimjapones #японскийсад #japanesearchitecture #japanarchitecture #日本庭園 #庭園 #庭院 #庭园 #枯山水庭園 #枯山水 #karesansui #雲州流庭園 #shimanegarden #samuraihouse #武家屋敷 #samurairesidence #housemuseum #文化財 #おにわさん #oniwasan (松江武家屋敷) https://www.instagram.com/p/CKkqzYqgQAS/?igshid=eggdasqto4nq
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tomoya-jinguuji · 6 years
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一 はじめに  平成最後の施政方針演説を、ここに申し述べます。  本年四月三十日、天皇陛下が御退位され、皇太子殿下が翌五月一日に御即位されます。国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、万全の準備を進めてまいります。  「内平らかに外成る、地平らかに天成る」  大きな自然災害が相次いだ平成の時代。被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありました。  阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお、地域の人々の記憶に刻まれています。  商店街の皆さんは、復興への強い決意と共に、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。  東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、一人の女性が花束を手渡しました。津波によって大きな被害を受けた自宅の庭で、たくましく咲いていた水仙を手に、その女性はこう語ったそうです。  「この水仙のように、私たちも頑張ります。」  東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆(きずな)がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。  「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」  明治、大正、昭和、平成。日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに、大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。  急速に進む少子高齢化、激動する国際情勢。今を生きる私たちもまた、立ち向かわなければならない。私たちの子や孫の世代に、輝かしい日本を引き渡すため、共に力を合わせなければなりません。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。 二 全世代型社会保障への転換 (成長と分配の好循環)  この六年間、三本の矢を放ち、経済は十%以上成長しました。国・地方合わせた税収は二十八兆円増加し、来年度予算における国の税収は過去最高、六十二兆円を超えています。  そして、この成長の果実を、新三本の矢によって、子育て支援をはじめ現役世代へと大胆に振り向けてきました。  児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は二十四%から四十二%に上昇し、悪化を続けてきた子どもの相対的貧困率も、初めて減少に転じ、大幅に改善しました。平成五年以来、一貫して増加していた現役世代の生活保護世帯も、政権交代後、八万世帯、減少いたしました。  五年間で五十三万人分の保育の受け皿を整備した結果、昨年、待機児童は六千人減少し、十年ぶりに二万人を下回りました。子育て世代の女性就業率は七ポイント上昇し、新たに二百万人の女性が就業しました。  成長の果実をしっかりと分配に回すことで、次なる成長につながっていく。「成長と分配の好循環」によって、アベノミクスは今なお、進化を続けています。 (教育無償化)  我が国の持続的な成長にとって最大の課題は、少子高齢化です。平成の三十年間で、出生率は一・五七から一・二六まで落ち込み、逆に、高齢化率は十%から三十%へと上昇しました。  世界で最も速いスピードで少子高齢化が進む我が国にあって、もはや、これまでの政策の延長線上では対応できない。次元の異なる政策が必要です。  子どもを産みたい、育てたい。そう願う皆さんの希望を叶(かな)えることができれば、出生率は一・八まで押し上がります。しかし、子どもたちの教育にかかる負担が、その大きな制約となってきました。  これを社会全体で分かち合うことで、子どもたちを産み、育てやすい日本へと、大きく転換していく。そのことによって、「希望出生率一・八」の実現を目指します。  十月から三歳から五歳まで全ての子どもたちの幼児教育を無償化いたします。小学校・中学校九年間の普通教育無償化以来、実に���十年ぶりの大改革であります。  待機児童ゼロの目標は、必ず実現いたします。今年度も十七万人分の保育の受け皿を整備します。保育士の皆さんの更なる処遇改善を行います。自治体の裁量を拡大するなどにより、学童保育の充実を進めます。  来年四月から、公立高校だけでなく、私立高校も実質無償化を実現します。真に必要な子どもたちの高等教育も無償化し、生活費をカバーするために十分な給付型奨学金を支給します。  家庭の経済事情にかかわらず、子どもたちの誰もが、自らの意欲と努力によって明るい未来をつかみ取ることができる。そうした社会を創り上げてこそ、アベノミクスは完成いたします。  子どもたちこそ、この国の未来そのものであります。  多くの幼い命が、今も、虐待によって奪われている現実があります。僅か五歳の女の子が、死の間際に綴(つづ)ったノートには、日本全体が大きなショックを受けました。  子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。  あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子どもたちの命を守ることを最���先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組を警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります。 (一億総活躍)  女性比率僅か三%の建設業界に、女性たちと共に飛び込んだ中小企業があります。時短勤務の導入、託児所の設置などに積極的に取り組み、職人の三割は女性です。  彼女たちが企画した健康に優しい塗料は、家庭用の人気商品となりました。女性でも使いやすい軽量の工具は、高齢の職人たちにも好んで使われるようになりました。この企業の売上げは、三年で二倍、急成長を遂げています。  女性の視点が加わることにより、女性たちが活躍することにより、日本の景色は一変する。人口が減少する日本にあって、次なる成長の大きなエンジンです。  女性活躍推進法を改正し、このうねりを全国津々浦々の中小企業にも広げます。十分な準備期間を設け、経営者の皆さんの負担の軽減を図りながら、女性の働きやすい環境づくりに取り組む中小企業を支援してまいります。  パワハラ、セクハラの根絶に向け、社会が一丸となって取り組んでいかなければなりません。全ての事業者にパワハラ防止を義務付けます。セクハラの相談を理由とした不利益取扱いを禁止するほか、公益通報者保護に向けた取組を強化し、誰もが働きやすい職場づくりを進めてまいります。  働き方改革。いよいよ待ったなしであります。  この四月から、大企業では、三六協定でも超えてはならない、罰則付きの時間外労働規制が施行となります。企業経営者の皆さん。改革の時は来ました。準備はよろしいでしょうか。  長年続いてきた長時間労働の慣行を断ち切ることで、育児や介護など様々な事情を抱える皆さんが、その事情に応じて働くことができる。誰もがその能力を思う存分発揮できる社会に向かって、これからも、働き方改革を全力で推し進めてまいります。  障害者の皆さんにも、やりがいを感じながら、社会でその能力を発揮していただきたい。障害者雇用促進法を改正し、就労の拡大を更に進めます。  人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。  元気で意欲ある高齢者の方々に、その経験や知恵を社会で発揮していただくことができれば、日本はまだまだ成長できる。生涯現役の社会に向かって、六十五歳まで継続雇用することとしている現行制度を見直し、七十歳まで就労機会を確保できるよう、この夏までに計画を策定し、実行に移します。  この五年間、生産年齢人口が四百五十万人減少する中にあっても、多くの女性や高齢者の皆さんが活躍することで、就業者は、逆に二百五十万人増加いたしました。女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、全ての人に活躍の機会を作ることができれば、少子高齢化も必ずや克服できる。  平成の、その先の時代に向かって、「一億総活躍社会」を、皆さん、共に、創り上げていこうではありませんか。 (全世代型社会保障)  少子高齢化、そして人生百年の時代にあって、我が国が誇る社会保障の在り方もまた大きく変わらなければならない。お年寄りだけではなく、子どもたち、子育て世代、更には、現役世代まで、広く安心を支えていく。全世代型社会保障への転換を成し遂げなければなりません。  高齢化が急速に進む中で、家族の介護に、現役世代は大きな不安を抱いています。介護のために仕事を辞めなければならない、やりがいを諦めなければならないような社会はあってはなりません。  現役世代の安心を確保するため、「介護離職ゼロ」を目指し、引き続き全力を尽くします。  二〇二〇年代初頭までに五十万人分の介護の受け皿を整備します。ロボットを活用するなど現場の負担軽減を進めるとともに、十月からリーダー級職員の方々に月額最大八万円の処遇改善を行います。  認知症対策の強化に向けて、夏までに新オレンジプランを改定します。認知症カフェを全市町村で展開するなど、認知症の御家族を持つ皆さんを、地域ぐるみで支え、その負担を軽減します。  勤労統計について、長年にわたり、不適切な調査が行われてきたことは、セーフティネットへの信頼を損なうものであり、国民の皆様にお詫び申し上げます。雇用保険、労災保険などの過少給付について、できる限り速やかに、簡便な手続で、不足分をお支払いいたします。基幹統計について緊急に点検を行いましたが、引き続き、再発防止に全力を尽くすとともに、統計の信頼回復に向け、徹底した検証を行ってまいります。  全世代型社会保障への転換とは、高齢者の皆さんへの福祉サービスを削減する、との意味では、全くありません。むしろ、高齢者の皆さんに引き続き安心してもらえることが大前提であります。  六十五歳以上の皆さんにも御負担いただいている介護保険料について、年金収入が少ない方々を対象に、十月から負担額を三分の二に軽減します。年金生活者の方々に、新たに福祉給付金を年間最大六万円支給し、所得をしっかりと確保してまいります。  こうした社会保障改革と同時に、その負担を次の世代へと先送りすることのないよう、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化目標の実現に向け、財政健全化を進めます。  少子高齢化を克服し、全世代型社会保障制度を築き上げるために、消費税率の引上げによる安定的な財源がどうしても必要です。十月からの十%への引上げについて、国民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。  八%への引上げ時の反省の上に、経済運営に万全を期してまいります。  増税分の五分の四を借金返しに充てていた、消費税の使い道を見直し、二兆円規模を教育無償化などに振り向け、子育て世代に還元いたします。軽減税率を導入するほか、プレミアム商品券の発行を通じて、所得の低い皆さんなどの負担を軽減します。  同時に、来たるべき外国人観光客四千万人時代を見据え、全国各地の中小・小規模事業者の皆さんにキャッシュレス決済を普及させるため、思い切ったポイント還元を実施します。自動車や住宅への大幅減税を行い、しっかりと消費を下支えします。  来年度予算では、頂いた消費税を全て還元する規模の十二分な対策を講じ、景気の回復軌道を確かなものとすることで、「戦後最大のGDP六百兆円」に向けて着実に歩みを進めてまいります。 三 成長戦略 (デフレマインドの払拭)  平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。  出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から三割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。  失われた二十年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。  この状況に、私たちは三本の矢で立ち向かいました。  早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は十四兆円増加しました。二十年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。  日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。 (第四次産業革命)  世界は、今、第四次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。  自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。  新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。  時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。  交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、五年以内に全ての小中学校で受けられるようにします。  電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引下げに向け、公正な競争環境を整えます。  電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続の縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。  急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。  膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。  人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。  イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。  来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。  我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。  経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。 (中小・小規模事業者)  中小・小規模事業者の海外輸出は、バブル崩壊後、二倍に拡大しました。  下請から脱し、自ら販路を開拓する。オンリーワンのワザを磨く。全国三百六十万者の中小・小規模事業者の皆さんは、様々な困難にあっても、歯を食いしばって頑張ってきました。バブル崩壊後の日本経済を支え、我が国の雇用の七割を守ってきたのは、こうした中小・小規模事業者の皆さんです。  新しいチャレンジをものづくり補助金で応援します。全国的に人手不足が深刻となる中で、IT補助金、持続化補助金により、生産性向上への取組も後押しします。  四月から、即戦力となる外国人材を受け入れます。多くの優秀な方々に日本に来ていただき、経済を担う一員となっていただくことで、新たな成長につなげます。働き方改革のスタートを見据え、納期負担のしわ寄せを禁止するなど、取引慣行の更なる改善を進めます。  後継者の確保も大きな課題です。四十七都道府県の事業引継ぎ支援センターでマッチングを行うとともに、相続税を全額猶予する事業承継税制を個人事業主に拡大します。  TPPやEUとの経済連携協定は、高い技術力を持つ中小・小規模事業者の皆さんにとって、海外展開の大きなチャンスです。「総合的なTPP等関連政策大綱」に基づき、海外でのマーケティング、販路開拓を支援してまいります。 四 地方創生 (農林水産新時代)  安全でおいしい日本の農産物にも、海外展開の大きなチャンスが広がります。農林水産品の輸出目標一兆円も、もう手の届くところまで来ました。  同時に���農家の皆さんの不安にもしっかり向き合います。二次補正予算も活用し、体質改善、経営安定化に万全を尽くします。  素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統ある故郷(ふるさと)。我が国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です。美しい棚田を次の世代に引き渡していくため、中山間地域への直接支払などを活用し、更に、総合的な支援策を講じます。  農こそ、国の基です。  守るためにこそ、新たな挑戦を進めなければならない。若者が夢や希望を持って飛び込んでいける「強い農業」を創ります。この六年間、新しい農林水産業を切り拓くために充実させてきた政策を更に力強く展開してまいります。  農地バンクの手続を簡素化します。政権交代前の三倍、六千億円を上回る土地改良予算で、意欲と能力ある担い手への農地集積を加速し、生産性を高めます。  国有林野法を改正します。長期間、担い手に国有林の伐採・植林を委ねることで、安定した事業を可能とします。美しい森を守るため、水源の涵養、災害防止を目的とした森林環境税を創設します。  水産業の収益性をしっかりと向上させながら、資源の持続的な利用を確保する。三千億円を超える予算で、新しい漁船や漁具の導入など、浜の皆さんの生産性向上への取組を力強く支援します。  平成の、その先の時代に向かって、若者が自らの未来を託すことができる「農林水産新時代」を、皆さん、共に、築いていこうではありませんか。 (観光立国)  田植え、稲刈り。石川県能登町にある五十軒ほどの農家民宿には、直近で一万三千人を超える観光客が訪れました。アジアの国々に加え、米国、フランス、イタリア、イスラエルなど、二十か国以上から外国人観光客も集まります。  昨年、日本を訪れる外国人観光客は、六年連続で過去最高を更新し、三千万人の大台に乗りました。北海道、東北、北陸、九州で三倍以上、四国で四倍以上、沖縄では五倍以上に増えています。消費額にして、四兆五千億円の巨大市場。  観光立国によって、全国津々浦々、地方創生の核となる、たくましい一大産業が生まれました。  来年の四千万人目標に向かって、海外と地方をつなぐ空の玄関口、羽田、成田空港の発着枠を八万回増やします。世界一安全・安心な国を実現するため、テロ対策などの一層の強化に取り組みます。国際観光旅客税を活用し、主要な鉄道や観光地で表示の多言語化を一気に加速します。  来年三月の供用開始に向け、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。発着枠を大幅に拡大することで、アジアと日本とをつなぐハブ機能を強化してまいります。  北海道では、昨年、フィリピンからの新たな直行便など、新千歳空港の国際線が二十五便増加しました。雄大な自然を活かした体験型ツーリズムの拡大を後押しします。広くアイヌ文化を発信する拠点を白老町に整備し、アイヌの皆さんが先住民族として誇りを持って生活できるよう取り組みます。 (地方創生)  観光資源などそれぞれの特色を活かし、地方が、自らのアイデアで、自らの未来を切り拓く。これが安倍内閣の地方創生です。  地方の皆さんの熱意を、引き続き一千億円の地方創生交付金で支援します。地方の財政力を強化し、税源の偏在を是正するため、特別法人事業税を創設します。  十年前、東京から地方への移住相談は、その半分近くが六十歳代以上でした。しかし、足元では、相談自体十倍以上に増加するとともに、その九割が五十歳代以下の現役世代で占められています。特に、三十歳未満の若者の相談件数は、五十倍以上になりました。  若者たちの意識が変わってきた今こそ、大きなチャンスです。地方に魅力を感じ、地方に飛び込む若者たちの背中を力強く後押ししてまいります。  地域おこし協力隊を、順次八千人規模へと拡大します。東京から地方へ移住し、起業・就職する際には、最大三百万円を支給し、地方への人の流れを加速します。  若者たちの力で、地方の輝ける未来を切り拓いてまいります。 (国土強靱(じん)化)  集中豪雨、地震、激しい暴風、異常な猛暑。昨年、異次元の災害が相次ぎました。もはや、これまでの経験や備えだけでは通用しない。命に関わる事態を「想定外」と片付けるわけにはいきません。  七兆円を投じ、異次元の対策を講じます。  全国で二千を超える河川、一千か所のため池の改修、整備、一千キロメートルに及ぶブロック塀の安全対策を行い、命を守る防災・減災に取り組みます。  四千キロメートルを超える水道管の耐震化、八千か所のガソリンスタンドへの自家発電の設置を進め、災害時にも維持できる、強靱(じん)なライフラインを整備します。  風水害専門の広域応援部隊を全ての都道府県に立ち上げ、人命救助体制を強化します。  ハードからソフトまであらゆる手を尽くし、三年間集中で、災害に強い国創り、国土強靱(じん)化を進めてまいります。 (東日本大震災からの復興)  九月二十日からいよいよラグビーワールドカップが始まります。五日後には、強豪フィジーが岩手県釜石のスタジアムに登場します。  津波で大きな被害を受けた場所に、地元の皆さんの復興への熱意と共に建設されました。世界の一流プレーヤーたちの熱戦に目を輝かせる子どもたちは、必ずや、次の時代の東北を担う大きな力となるに違いありません。  東北の被災地では、この春までに、四万七千戸を超える住まいの復興が概ね完了し、津波で浸水した農地の九割以上が復旧する見込みです。  原発事故で大きな被害を受けた大熊町では、この春、町役場が八���ぶりに、町に戻ります。  家々の見回り、草刈り、ため池の管理。将来の避難指示解除を願う地元の皆さんの地道な活動が実を結びました。政府も、インフラ整備など住民の皆さんの帰還に向けた環境づくりを進めます。  福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。復興が成し遂げられるその日まで、国が前面に立って、全力を尽くして取り組んでまいります。  来年、日本にやってくる復興五輪。その聖火リレーは福島からスタートします。最初の競技も福島で行われます。東日本大震災から見事に復興した東北の姿を、皆さん、共に、世界に発信しようではありませんか。 五 戦後日本外交の総決算 (公正な経済ルールづくり)  昨年末、TPPが発効しました。来月には、欧州との経済連携協定も発効します。  いずれも単に関税の引下げにとどまらない。知的財産、国有企業など幅広い分野で、透明性の高い、公正なルールを整備しています。次なる時代の、自由で、公正な経済圏のモデルです。  自由貿易が、今、大きな岐路に立っています。  WTOが誕生して四半世紀、世界経済は、ますます国境がなくなり、相互依存を高めています。新興国は目覚ましい経済発展を遂げ、経済のデジタル化が一気に進展しました。  そして、こうした急速な変化に対する不安や不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国の間に鋭い対立をも生み出しています。  今こそ、私たちは、自由貿易の旗を高く掲げなければならない。こうした時代だからこそ、自由で、公正な経済圏を世界へと広げていくことが、我が国の使命であります。  昨年九月の共同声明に則って、米国との交渉を進めます。広大な経済圏を生み出すRCEPが、野心的な協定となるよう、大詰めの交渉をリードしてまいります。  国際貿易システムの信頼を取り戻すためには、WTOの改革も必要です。米国や欧州と共に、補助金やデータ流通、電子商取引といった分野で、新しい時代の公正なルールづくりを我が国がリードする。その決意であります。 (安全保障政策の再構築)  平成の、その先の時代に向かって、日本外交の新たな地平を切り拓く。今こそ、戦後日本外交の総決算を行ってまいります。  我が国の外交・安全保障の基軸は、日米同盟です。  平和安全法制の成立によって、互いに助け合える同盟は、その絆(きずな)を強くした。日米同盟は今、かつてなく強固なものとなっています。  そうした深い信頼関係の下に、抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。これまでの二十年以上に及ぶ沖縄県や市町村との対話の積み重ねの上に、辺野古移設を進め、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現してまいります。  自らの手で自らを守る気概なき国を、誰も守ってくれるはずがない。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。  冷戦の終結と共に始まった平成の三十年間で、我が国を取り巻く安全保障環境は激変しました。そして今、この瞬間も、これまでとは桁違いのスピードで、厳しさと不確実性を増している現実があります。  テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています。サイバー空間、宇宙空間における活動に、各国がしのぎを削る時代となりました。  もはや、これまでの延長線上の安全保障政策では対応できない。陸、海、空といった従来の枠組みだけでは、新たな脅威に立ち向かうことは不可能であります。  国民の命と平和な暮らしを、我が国自身の主体的・自主的な努力によって、守り抜いていく。新しい防衛大綱の下、そのための体制を抜本的に強化し、自らが果たし得る役割を拡大します。サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう、新たな防衛力の構築に向け、従来とは抜本的に異なる速度で変革を推し進めてまいります。 (地球儀俯瞰(ふかん)外交の総仕上げ)  我が国の平和と繁栄を確固たるものとしていく。そのためには、安全保障の基盤を強化すると同時に、平和外交を一層力強く展開することが必要です。  この六年間、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えて、世界の平和と繁栄にこれまで以上の貢献を行ってきた。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、積極的な外交を展開してまいりました。  平成の、その先の時代に向かって、いよいよ総仕上げの時です。  昨年秋の訪中によって、日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました。「国際スタンダードの下で競争から協調へ」、「互いに脅威とはならない」、そして「自由で公正な貿易体制を共に発展させていく」。習近平主席と確認した、今後の両国の道しるべとなる三つの原則の上に、首脳間の往来を重ね、政治、経済、文化、スポーツ、青少年交流をはじめ、あらゆる分野、国民レベルでの交流を深めながら、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。  ロシアとは、国民同士、互いの信頼と友情を深め、領土問題を解決して、平和条約を締結する。戦後七十年以上残されてきた、この課題について、次の世代に先送りすることなく、必ずや終止符を打つ、との強い意志を、プーチン大統領と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に、一九五六年宣言を基礎として、交渉を加速してまいります。  北朝鮮の核、ミサイル、そして最も重要な拉致問題の解決に向けて、相互不信の殻を破り、次は私自身が金正恩委員長と直接向き合い、あらゆるチャンスを逃すことなく、果断に行動いたします。北朝鮮との不幸な過去を清算し、国交正常化を目指します。そのために、米国や韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。  北東アジアを真に安定した平和と繁栄の地にするため、これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交を力強く展開いたします。  そして、インド洋から太平洋へと至る広大な海と空を、これからも、国の大小にかかわらず、全ての国に恩恵をもたらす平和と繁栄の基盤とする。このビジョンを共有する全ての国々と力を合わせ、日本は、「自由で開かれたインド太平洋」を築き上げてまいります。 (世界の中の日本外交)  中東地域の国々とは、長年、良好な関係を築いてきました。その歴史の上に、中東の平和と安定のため、日本独自の視点で積極的な外交を展開してまいります。  TICADがスタートして三十年近くが経ち、躍動するアフリカはもはや援助の対象ではありません。共に成長するパートナーです。八月にTICADを開催し、アフリカが描く夢を力強く支援していきます。  世界の平和と繁栄のために、日本外交が果たすべき役割は大きなものがある。地球規模課題の解決についても、日本のリーダーシップに強い期待が寄せられています。  我が国は四年連続で温室効果ガスの排出量を削減しました。他方で、長期目標である二〇五〇年八十%削減のためには非連続的な大幅削減が必要です。環境投資に積極的な企業の情報開示を進め、更なる民間投資を呼び込むという、環境と成長の好循環を回すことで、水素社会の実現など革新的なイノベーションを、我が国がリードしてまいります。  プラスチックによる海洋汚染が、生態系への大きな脅威となっています。美しい海を次の世代に引き渡していくため、新たな汚染を生み出さない世界の実現を目指し、ごみの適切な回収・処分、海で分解される新素材の開発など、世界の国々と共に、海洋プラスチックごみ対策に取り組んでまいります。  本年六月、主要国のリーダーたちが一堂に会するG20サミットを、我が国が議長国となり、大阪で開催します。  世界経済の持続的成長、自由で公正な貿易システムの発展、持続可能な開発目標、地球規模課題への新たな挑���など、世界が直面する様々な課題について、率直な議論を行い、これから世界が向かうべき未来像をしっかりと見定めていく。そうしたサミットにしたいと考えています。  これまでの地球儀俯瞰(ふかん)外交の積み重ねの上に、各国首脳と築き上げた信頼関係の下、世界の中で日本が果たすべき責任を、しっかりと果たしていく決意です。  平成の、その先の時代に向かって、新しい日本外交の地平を拓き、世界から信頼される日本を、皆さん、勇気と誇りを持って、共に、創り上げていこうではありませんか。 六 おわりに  二〇二五年、日本で国際博覧会が開催されます。  一九七〇年の大阪万博。リニアモーターカー、電気自動車、携帯電話。夢のような未来社会に、子どもたちは胸を躍らせました。  「驚異の世界への扉を、いつか開いてくれる鍵。それは、科学に違いない。」  会場で心震わせた八歳の少年は、その後、科学の道に進み、努力を重ね、世界で初めてiPS細胞の作製に成功しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞し、今、難病で苦しむ世界の人々に希望の光をもたらしています。  二〇二〇年、二〇二五年を大きなきっかけとしながら、次の世代の子どもたちが輝かしい未来に向かって大きな「力」を感じることができる、躍動感あふれる時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。  憲法は、国の理想を語るもの、次の時代への道しるべであります。私たちの子や孫の世代のために、日本をどのような国にしていくのか。大きな歴史の転換点にあって、この国の未来をしっかりと示していく。国会の憲法審査会の場において、各党の議論が深められることを期待いたします。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く。皆さん、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。  御清聴ありがとうございました。
第百九十八回国会における安倍内閣総理大臣施政方針演説
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一 はじめに
 平成最後の施政方針演説を、ここに申し述べます。  本年四月三十日、天皇陛下が御退位され、皇太子殿下が翌五月一日に御即位されます。国民こぞって寿(ことほ)ぐことができるよう、万全の準備を進めてまいります。  「内平らかに外成る、地平らかに天成る」  大きな自然災害が相次いだ平成の時代。被災地の現場には必ず、天皇、皇后両陛下のお姿がありました。  阪神・淡路大震災で全焼した神戸市長田の商店街では、皇后陛下が焼け跡に献花された水仙が、復興のシンボルとして、今なお、地域の人々の記憶に刻まれています。  商店街の皆さんは、復興への強い決意と共に、震災後すぐに仮設店舗で営業を再開。全国から集まった延べ二百万人を超えるボランティアも復興の大きな力となりました。かつて水仙が置かれた場所は今、公園に生まれ変わり、子どもたちの笑顔であふれています。  東日本大震災の直後、仙台市の避難所を訪れた皇后陛下に、一人の女性が花束を手渡しました。津波によって大きな被害を受けた自宅の庭で、たくましく咲いていた水仙を手に、その女性はこう語ったそうです。  「この水仙のように、私たちも頑張ります。」  東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆(きずな)がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。  「しきしまの 大和心のをゝしさは ことある時ぞ あらはれにける」  明治、大正、昭和、平成。日本人は幾度となく大きな困難に直面した。しかし、そのたびに、大きな底力を発揮し、人々が助け合い、力を合わせることで乗り越えてきました。  急速に進む少子高齢化、激動する国際情勢。今を生きる私たちもまた、立ち向かわなければならない。私たちの子や孫の世代に、輝かしい日本を引き渡すため、共に力を合わせなければなりません。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。
二 全世代型社会保障への転換
(成長と分配の好循環)  この六年間、三本の矢を放ち、経済は十%以上成長しました。国・地方合わせた税収は二十八兆円増加し、来年度予算における国の税収は過去最高、六十二兆円を超えています。  そして、この成長の果実を、新三本の矢によって、子育て支援をはじめ現役世代へと大胆に振り向けてきました。  児童扶養手当の増額、給付型奨学金の創設を進める中で、ひとり親家庭の大学進学率は二十四%から四十二%に上昇し、悪化を続けてきた子どもの相対的貧困率も、初めて減少に転じ、大幅に改善しました。平成五年以来、一貫して増加していた現役世代の生活保護世帯も、政権交代後、八万世帯、減少いたしました。  五年間で五十三万人分の保育の受け皿を整備した結果、昨年、待機児童は六千人減少し、十年ぶりに二万人を下回りました。子育て世代の女性就業率は七ポイント上昇し、新たに二百万人の女性が就業しました。  成長の果実をしっかりと分配に回すことで、次なる成長につながっていく。「成長と分配の好循環」によって、アベノミクスは今なお、進化を続けています。
(教育無償化)  我が国の持続的な成長にとって最大の課題は、少子高齢化です。平成の三十年間で、出生率は一・五七から一・二六まで落ち込み、逆に、高齢化率は十%から三十%へと上昇しました。  世界で最も速いスピードで少子高齢化が進む我が国にあって、もはや、これまでの政策の延長線上では対応できない。次元の異なる政策が必要です。  子どもを産みたい、育てたい。そう願う皆さんの希望を叶(かな)えることができれば、出生率は一・八まで押し上がります。しかし、子どもたちの教育にかかる負担が、その大きな制約となってきました。  これを社会全体で分かち合うことで、子どもたちを産み、育てやすい日本へと、大きく転換していく。そのことによって、「希望出生率一・八」の実現を目指します。  十月から三歳から五歳まで全ての子どもたちの幼児教育を無償化いたします。小学校・中学校九年間の普通教育無償化以来、実に七十年ぶりの大改革であります。  待機児童ゼロの目標は、必ず実現いたします。今年度も十七万人分の保育の受け皿を整備します。保育士の皆さんの更なる処遇改善を行います。自治体の裁量を拡大するなどにより、学童保育の充実を進めます。  来年四月から、公立高校だけでなく、私立高校も実質無償化を実現します。真に必要な子どもたちの高等教育も無償化し、生活費をカバーするために十分な給付型奨学金を支給します。  家庭の経済事情にかかわらず、子どもたちの誰もが、自らの意欲と努力によって明るい未来をつかみ取ることができる。そうした社会を創り上げてこそ、アベノミクスは完成いたします。  子どもたちこそ、この国の未来そのものであります。  多くの幼い命が、今も、虐待によって奪われている現実があります。僅か五歳の女の子が、死の間際に綴(つづ)ったノートには、日本全体が大きなショックを受けました。  子どもたちの命を守るのは、私たち大人全員の責任です。  あのような悲劇を二度と繰り返してはなりません。何よりも子どもたちの命を守ることを最優先に、児童相談所の体制を抜本的に拡充し、自治体の取組を警察が全面的にバックアップすることで、児童虐待の根絶に向けて総力を挙げてまいります。
(一億総活躍)  女性比率僅か三%の建設業界に、女性たちと共に飛び込んだ中小企業があります。時短勤務の導入、託児所の設置などに積極的に取り組み、職人の三割は女性です。  彼女たちが企画した健康に優しい塗料は、家庭用の人気商品となりました。女性でも使いやすい軽量の工具は、高齢の職人たちにも好んで使われるようになりました。この企業の売上げは、三年で二倍、急成長を遂げています。  女性の視点が加わることにより、女性たちが活躍することにより、日本の景色は一変する。人口が減少する日本にあって、次なる成長の大きなエンジンです。  女性活躍推進法を改正し、このうねりを全国津々浦々の中小企業にも広げます。十分な準備期間を設け、経営者の皆さんの負担の軽減を図りながら、女性の働きやすい環境づくりに取り組む中小企業を支援してまいります。  パワハラ、セクハラの根絶に向け、社会が一丸となって取り組んでいかなければなりません。全ての事業者にパワハラ防止を義務付けます。セクハラの相談を理由とした不利益取扱いを禁止するほか、公益通報者保護に向けた取組を強化し、誰もが働きやすい職場づくりを進めてまいります。  働き方改革。いよいよ待ったなしであります。  この四月から、大企業では、三六協定でも超えてはならない、罰則付きの時間外労働規制が施行となります。企業経営者の皆さん。改革の時は来ました。準備はよろしいでしょうか。  長年続いてきた長時間労働の慣行を断ち切ることで、育児や介護など様々な事情を抱える皆さんが、その事情に応じて働くことができる。誰もがその能力を思う存分発揮できる社会に向かって、これからも、働き方改革を全力で推し進めてまいります。  障害者の皆さんにも、やりがいを感じながら、社会でその能力を発揮していただきたい。障害者雇用促進法を改正し、就労の拡大を更に進めます。  人生百年時代の到来は、大きなチャンスです。  元気で意欲ある高齢者の方々に、その経験や知恵を社会で発揮していただくことができれば、日本はまだまだ成長できる。生涯現役の社会に向かって、六十五歳まで継続雇用することとしている現行制度を見直し、七十歳まで就労機会を確保できるよう、この夏までに計画を策定し、実行に移します。  この五年間、生産年齢人口が四百五十万人減少する中にあっても、多くの女性や高齢者の皆さんが活躍することで、就業者は、逆に二百五十万人増加いたしました。女性も男性も、お年寄りも若者も、障害や難病のある方も、全ての人に活躍の機会を作ることができれば、少���高齢化も必ずや克服できる。  平成の、その先の時代に向かって、「一億総活躍社会」を、皆さん、共に、創り上げていこうではありませんか。
(全世代型社会保障)  少子高齢化、そして人生百年の時代にあって、我が国が誇る社会保障の在り方もまた大きく変わらなければならない。お年寄りだけではなく、子どもたち、子育て世代、更には、現役世代まで、広く安心を支えていく。全世代型社会保障への転換を成し遂げなければなりません。  高齢化が急速に進む中で、家族の介護に、現役世代は大きな不安を抱いています。介護のために仕事を辞めなければならない、やりがいを諦めなければならないような社会はあってはなりません。  現役世代の安心を確保するため、「介護離職ゼロ」を目指し、引き続き全力を尽くします。  二〇二〇年代初頭までに五十万人分の介護の受け皿を整備します。ロボットを活用するなど現場の負担軽減を進めるとともに、十月からリーダー級職員の方々に月額最大八万円の処遇改善を行います。  認知症対策の強化に向けて、夏までに新オレンジプランを改定します。認知症カフェを全市町村で展開するなど、認知症の御家族を持つ皆さんを、地域ぐるみで支え、その負担を軽減します。  勤労統計について、長年にわたり、不適切な調査が行われてきたことは、セーフティネットへの信頼を損なうものであり、国民の皆様にお詫び申し上げます。雇用保険、労災保険などの過少給付について、できる限り速やかに、簡便な手続で、不足分をお支払いいたします。基幹統計について緊急に点検を行いましたが、引き続き、再発防止に全力を尽くすとともに、統計の信頼回復に向け、徹底した検証を行ってまいります。  全世代型社会保障への転換とは、高齢者の皆さんへの福祉サービスを削減する、との意味では、全くありません。むしろ、高齢者の皆さんに引き続き安心してもらえることが大前提であります。  六十五歳以上の皆さんにも御負担いただいている介護保険料について、年金収入が少ない方々を対象に、十月から負担額を三分の二に軽減します。年金生活者の方々に、新たに福祉給付金を年間最大六万円支給し、所得をしっかりと確保してまいります。  こうした社会保障改革と同時に、その負担を次の世代へと先送りすることのないよう、二〇二五年度のプライマリーバランス黒字化目標の実現に向け、財政健全化を進めます。  少子高齢化を克服し、全世代型社会保障制度を築き上げるために、消費税率の引上げによる安定的な財源がどうしても必要です。十月からの十%への引上げについて、国民の皆様の御理解と御協力をお願い申し上げます。  八%への引上げ時の反省の上に、経済運営に万全を期してまいります。  増税分の五分の四を借金返しに充てていた、消費税の使い道を見直し、二兆円規模を教育無償化などに振り向け、子育て世代に還元いたします。軽減税率を導入するほか、プレミアム商品券の発行を通じて、所得の低い皆さんなどの負担を軽減します。  同時に、来たるべき外国人観光客四千万人時代を見据え、全国各地の中小・小規模事業者の皆さんにキャッシュレス決済を普及させるため、思い切ったポイント還元を実施します。自動車や住宅への大幅減税を行い、しっかりと消費を下支えします。  来年度予算では、頂いた消費税を全て還元する規模の十二分な対策を講じ、景気の回復軌道を確かなものとすることで、「戦後最大のGDP六百兆円」に向けて着実に歩みを進めてまいります。
三 成長戦略
(デフレマインドの払拭)  平成の日本経済はバブル崩壊から始まりました。  出口の見えないデフレに苦しむ中で、企業は人材への投資に消極的になり、若者の就職難が社会問題となりました。設備投資もピーク時から三割落ち込み、未来に向けた投資は先細っていきました。  失われた二十年。その最大の敵は、日本中に蔓延したデフレマインドでありました。  この状況に、私たちは三本の矢で立ち向かいました。  早期にデフレではないという状況を作り、企業の設備投資は十四兆円増加しました。二十年間で最高となっています。人手不足が深刻となって、人材への投資も息を吹き返し、五年連続で今世紀最高水準の賃上げが行われました。経団連の調査では、この冬のボーナスは過去最高です。  日本企業に、再び、未来へ投資する機運が生まれてきた。デフレマインドが払拭されようとしている今、未来へのイノベーションを、大胆に後押ししていきます。
(第四次産業革命)  世界は、今、第四次産業革命の真っただ中にあります。人工知能、ビッグデータ、IoT、ロボットといったイノベーションが、経済社会の有り様を一変させようとしています。  自動運転は、高齢者の皆さんに安全・安心な移動手段をもたらします。体温や血圧といった日々の情報を医療ビッグデータで分析すれば、病気の早期発見も可能となります。  新しいイノベーションは、様々な社会課題を解決し、私たちの暮らしを、より安心で、より豊かなものとする、大きな可能性に満ちている。こうしたSociety 5.0を、世界に先駆けて実現することこそ、我が国の未来を拓く成長戦略であります。  時代遅れの規制や制度を大胆に改革いたします。  交通に関わる規制を全面的に見直し、安全性の向上に応じ、段階的に自動運転を解禁します。寝たきりの高齢者などが、自宅にいながら、オンラインで診療から服薬指導まで一貫して受けられるよう、関係制度を見直します。外国語やプログラミングの専門家による遠隔教育を、五年以内に全ての小中学校で受けられるようにします。  電波は国民共有の財産です。経済的価値を踏まえた割当制度への移行、周波数返上の仕組みの導入など、有効活用に向けた改革を行います。携帯電話の料金引下げに向け、公正な競争環境を整えます。  電子申請の際の紙の添付書類を全廃します。行政手続の縦割りを打破し、ワンストップ化を行うことで、引っ越しなどの際に同じ書類の提出を何度も求められる現状を改革します。  急速な技術進歩により、経済社会が加速度的に変化する時代にあって最も重要な政府の役割は、人々が信頼し、全員が安心して新しいシステムに移行できる環境を整えることだと考えます。  膨大な個人データが世界を駆け巡る中では、プライバシーやセキュリティを保護するため、透明性が高く、公正かつ互恵的なルールが必要です。その上で、国境を越えたデータの自由な流通を確保する。米国、欧州と連携しながら、信頼される、自由で開かれた国際データ流通網を構築してまいります。  人工知能も、あくまで人間のために利用され、その結果には人間が責任を負わなければならない。我が国がリードして、人間中心のAI倫理原則を打ち立ててまいります。  イノベーションがもたらす社会の変化から、誰一人取り残されてはならない。この夏策定するAI戦略の柱は、教育システムの改革です。  来年から全ての小学校でプログラミングを必修とします。中学校、高校でも、順次、情報処理の授業を充実し、必修化することで、子どもたちの誰もが、人工知能などのイノベーションを使いこなすリテラシーを身に付けられるようにします。  我が国から、新たなイノベーションを次々と生み出すためには、知の拠点である大学の力が必要です。若手研究者に大いに活躍の場を与え、民間企業との連携に積極的な大学を後押しするため、運営費交付金の在り方を大きく改革してまいります。  経済活動の国境がなくなる中、日本企業の競争力、信頼性を一層グレードアップさせるために、企業ガバナンスの更なる強化が求められています。社外取締役の選任、役員報酬の開示など、グローバルスタンダードに沿って、これからもコーポレートガバナンス改革を進めてまいります。
(中小・小規模事業者)  中小・小規模事業者の海外輸出は、バブル崩壊後、二倍に拡大しました。  下請から脱し、自ら販路を開拓する。オンリーワンのワザを磨く。全国三百六十万者の中小・小規模事業者の皆さんは、様々な困難にあっても、歯を食いしばって頑張ってきました。バブル崩壊後の日本経済を支え、我が国の雇用の七割を守ってきたのは、こうした中小・小規模事業者の皆さんです。  新しいチャレンジをものづくり補助金で応援します。全国的に人手不足が深刻となる中で、IT補助金、持続化補助金により、生産性向上への取組も後押しします。  四月から、即戦力となる外国人材を受け入れます。多くの優秀な方々に日本に来ていただき、経済を担う一員となっていただくことで、新たな成長につなげます。働き方改革のスタートを見据え、納期負担のしわ寄せを禁止するなど、取引慣行の更なる改善を進めます。  後継者の確保も大きな課題です。四十七都道府県の事業引継ぎ支援センターでマッチングを行うとともに、相続税を全額猶予する事業承継税制を個人事業主に拡大します。  TPPやEUとの経済連携協定は、高い技術力を持つ中小・小規模事業者の皆さんにとって、海外展開の大きなチャンスです。「総合的なTPP等関連政策大綱」に基づき、海外でのマーケティング、販路開拓を支援してまいります。
四 地方創生
(農林水産新時代)  安全でおいしい日本の農産物にも、海外展開の大きなチャンスが広がります。農林水産品の輸出目標一兆円も、もう手の届くところまで来ました。  同時に、農家の皆さんの不安にもしっかり向き合います。二次補正予算も活用し、体質改善、経営安定化に万全を尽くします。  素晴らしい田園風景、緑あふれる山並み、豊かな海、伝統ある故郷(ふるさと)。我が国の国柄を守ってきたのは、全国各地の農林水産業です。美しい棚田を次の世代に引き渡していくため、中山間地域への直接支払などを活用し、更に、総合的な支援策を講じます。  農こそ、国の基です。  守るためにこそ、新たな挑戦を進めなければならない。若者が夢や希望を持って飛び込んでいける「強い農業」を創ります。この六年間、新しい農林水産業を切り拓くために充実させてきた政策を更に力強く展開してまいります。  農地バンクの手続を簡素化します。政権交代前の三倍、六千億円を上回る土地改良予算で、意欲と能力ある担い手への農地集積を加速し、生産性を高めます。  国有林野法を改正します。長期間、担い手に国有林の伐採・植林を委ねることで、安定した事業を可能とします。美しい森を守るため、水源の涵養、災害防止を目的とした森林環境税を創設します。  水産業の収益性をしっかりと向上させながら、資源の持続的な利用を確保する。三千億円を超える予算で、新しい漁船や漁具の導入など、浜の皆さんの生産性向上への取組を力強く支援します。  平成の、その先の時代に向かって、若者が自らの未来を託すことができる「農林水産新時代」を、皆さん、共に、築いていこうではありませんか。
(観光立国)  田植え、稲刈り。石川県能登町にある五十軒ほどの農家民宿には、直近で一万三千人を超える観光客が訪れました。アジアの国々に加え、米国、フランス、イタリア、イスラエルなど、二十か国以上から外国人観光客も集まります。  昨年、日本を訪れる外国人観光客は、六年連続で過去最高を更新し、三千万人の大台に乗りました。北海道、東北、北陸、九州で三倍以上、四国で四倍以上、沖縄では五倍以上に増えています。消費額にして、四兆五千億円の巨大市場。  観光立国によって、全国津々浦々、地方創生の核となる、たくましい一大産業が生まれました。  来年の四千万人目標に向かって、海外と地方をつなぐ空の玄関口、羽田、成田空港の発着枠を八万回増やします。世界一安全・安心な国を実現するため、テロ対策などの一層の強化に取り組みます。国際観光旅客税を活用し、主要な鉄道や観光地で表示の多言語化を一気に加速します。  来年三月の供用開始に向け、那覇空港第二滑走路の建設を進めます。発着枠を大幅に拡大することで、アジアと日本とをつなぐハブ機能を強化してまいります。  北海道では、昨年、フィリピンからの新たな直行便など、新千歳空港の国際線が二十五便増加しました。雄大な自然を活かした体験型ツーリズムの拡大を後押しします。広くアイヌ文化を発信する拠点を白老町に整備し、アイヌの皆さんが先住民族として誇りを持って生活できるよう取り組みます。
(地方創生)  観光資源などそれぞれの特色を活かし、地方が、自らのアイデアで、自らの未来を切り拓く。これが安倍内閣の地方創生です。  地方の皆さんの熱意を、引き続き一千億円の地方創生交付金で支援します。地方の財政力を強化し、税源の偏在を是正するため、特別法人事業税を創設します。  十年前、東京から地方への移住相談は、その半分近くが六十歳代以上でした。しかし、足元では、相談自体十倍以上に増加するとともに、その九割が五十歳代以下の現役世代で占められています。特に、三十歳未満の若者の相談件数は、五十倍以上になりました。  若者たちの意識が変わってきた今こそ、大きなチャンスです。地方に魅力を感じ、地方に飛び込む若者たちの背中を力強く後押ししてまいります。  地域おこし協力隊を、順次八千人規模へと拡大します。東京から地方へ移住し、起業・就職する際には、最大三百万円を支給し、地方への人の流れを加速します。  若者たちの力で、地方の輝ける未来を切り拓いてまいります。
(国土強靱(じん)化)  集中豪雨、地震、激しい暴風、異常な猛暑。昨年、異次元の災害が相次ぎました。もはや、これまでの経験や備えだけでは通用しない。命に関わる事態を「想定外」と片付けるわけにはいきません。  七兆円を投じ、異次元の対策を講じます。  全国で二千を超える河川、一千か所のため池の改修、整備、一千キロメートルに及ぶブロック塀の安全対策を行い、命を守る防災・減災に取り組みます。  四千キロメートルを超える水道管の耐震化、八千か所のガソリンスタンドへの自家発電の設置を進め、災害時にも維持できる、強靱(じん)なライフラインを整備します。  風水害専門の広域応援部隊を全ての都道府県に立ち上げ、人命救助体制を強化します。  ハードからソフトまであらゆる手を尽くし、三年間集中で、災害に強い国創り、国土強靱(じん)化を進めてまいります。
(東日本大震災からの復興)  九月二十日からいよいよラグビーワールドカップが始まります。五日後には、強豪フィジーが岩手県釜石のスタジアムに登場します。  津波で大きな被害を受けた場所に、地元の皆さんの復興への熱意と共に建設されました。世界の一流プレーヤーたちの熱戦に目を輝かせる子どもたちは、必ずや、次の時代の東北を担う大きな力となるに違いありません。  東北の被災地では、この春までに、四万七千戸を超える住まいの復興が概ね完了し、津波で浸水した農地の九割以上が復旧する見込みです。  原発事故で大きな被害を受けた大熊町では、この春、町役場が八年ぶりに、町に戻ります。  家々の見回り、草刈り、ため池の管理。将来の避難指示解除を願う地元の皆さんの地道な活動が実を結びました。政府も、インフラ整備など住民の皆さんの帰還に向けた環境づくりを進めます。  福島の復興なくして東北の復興なし。東北の復興なくして日本の再生なし。復興が成し遂げられるその日まで、国が前面に立って、全力を尽くして取り組んでまいります。  来年、日本にやってくる復興五輪。その聖火リレーは福島からスタートします。最初の競技も福島で行われます。東日本大震災から見事に復興した東北の姿を、皆さん、共に、世界に発信しようではありませんか。
五 戦後日本外交の総決算
(公正な経済ルールづくり)  昨年末、TPPが発効しました。来月には、欧州との経済連携協定も発効します。  いずれも単に関税の引下げにとどまらない。知的財産、国有企業など幅広い分野で、透明性の高い、公正なルールを整備しています。次なる時代の、自由で、公正な経済圏のモデルです。  自由貿易が、今、大きな岐路に立っています。  WTOが誕生して四半世紀、世界経済は、ますます国境がなくなり、相互依存を高めています。新興国は目覚ましい経済発展を遂げ、経済のデジタル化が一気に進展しました。  そして、こうした急速な変化に対する不安や不満が、時に保護主義への誘惑を生み出し、国と国の間に鋭い対立をも生み出しています。  今こそ、私たちは、自由貿易の旗を高く掲げなければならない。こうした時代だからこそ、自由で、公正な経済圏を世界へと広げていくことが、我が国の使命であります。  昨年九月の共同声明に則って、米国との交渉を進めます。広大な経済圏を生み出すRCEPが、野心的な協定となるよう、大詰めの交渉をリードしてまいります。  国際貿易システムの信頼を取り戻すためには、WTOの改革も必要です。米国や欧州と共に、補助金やデータ流通、���子商取引といった分野で、新しい時代の公正なルールづくりを我が国がリードする。その決意であります。
(安全保障政策の再構築)  平成の、その先の時代に向かって、日本外交の新たな地平を切り拓く。今こそ、戦後日本外交の総決算を行ってまいります。  我が国の外交・安全保障の基軸は、日米同盟です。  平和安全法制の成立によって、互いに助け合える同盟は、その絆(きずな)を強くした。日米同盟は今、かつてなく強固なものとなっています。  そうした深い信頼関係の下に、抑止力を維持しながら、沖縄の基地負担の軽減に取り組んでまいります。これまでの二十年以上に及ぶ沖縄県や市町村との対話の積み重ねの上に、辺野古移設を進め、世界で最も危険と言われる普天間飛行場の一日も早い全面返還を実現してまいります。  自らの手で自らを守る気概なき国を、誰も守ってくれるはずがない。安全保障政策の根幹は、我が国自身の努力に他なりません。  冷戦の終結と共に始まった平成の三十年間で、我が国を取り巻く安全保障環境は激変しました。そして今、この瞬間も、これまでとは桁違いのスピードで、厳しさと不確実性を増している現実があります。  テクノロジーの進化は、安全保障の在り方を根本的に変えようとしています。サイバー空間、宇宙空間における活動に、各国がしのぎを削る時代となりました。  もはや、これまでの延長線上の安全保障政策では対応できない。陸、海、空といった従来の枠組みだけでは、新たな脅威に立ち向かうことは不可能であります。  国民の命と平和な暮らしを、我が国自身の主体的・自主的な努力によって、守り抜いていく。新しい防衛大綱の下、そのための体制を抜本的に強化し、自らが果たし得る役割を拡大します。サイバーや宇宙といった領域で我が国が優位性を保つことができるよう、新たな防衛力の構築に向け、従来とは抜本的に異なる速度で変革を推し進めてまいります。
(地球儀俯瞰(ふかん)外交の総仕上げ)  我が国の平和と繁栄を確固たるものとしていく。そのためには、安全保障の基盤を強化すると同時に、平和外交を一層力強く展開することが必要です。  この六年間、積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えて、世界の平和と繁栄にこれまで以上の貢献を行ってきた。地球儀を俯瞰(ふかん)する視点で、積極的な外交を展開してまいりました。  平成の、その先の時代に向かって、いよいよ総仕上げの時です。  昨年秋の訪中によって、日中関係は完全に正常な軌道へと戻りました。「国際スタンダードの下で競争から協調へ」、「互いに脅威とはならない」、そして「自由で公正な貿易体制を共に発展させていく」。習近平主席と確認した、今後の両国の道しるべとなる三つの原則の上に、首脳間の往来を重ね、政治、経済、文化、スポーツ、青少年交流をはじめ、あらゆる分野、国民レベルでの交流を深めながら、日中関係を新たな段階へと押し上げてまいります。  ロシアとは、国民同士、互いの信頼と友情を深め、領土問題を解決して、平和条約を締結する。戦後七十年以上残されてきた、この課題について、次の世代に先送りすることなく、必ずや終止符を打つ、との強い意志を、プーチン大統領と共有しました。首脳間の深い信頼関係の上に、一九五六年宣言を基礎として、交渉を加速してまいります。  北朝鮮の核、ミサイル、そして最も重要な拉致問題の解決に向けて、相互不信の殻を破り、次は私自身が金正恩委員長と直接向き合い、あらゆるチャンスを逃すことなく、果断に行動いたします。北朝鮮との不幸な過去を清算し、国交正常化を目指します。そのために、米国や韓国をはじめ国際社会と緊密に連携してまいります。  北東アジアを真に安定した平和と繁栄の地にするため、これまでの発想にとらわれない、新しい時代の近隣外交を力強く展開いたします。  そして、インド洋から太平洋へと至る広大な海と空を、これからも、国の大小にかかわらず、全ての国に恩恵をもたらす平和と繁栄の基盤とする。このビジョンを共有する全ての国々と力を合わせ、日本は、「自由で開かれたインド太平洋」を築き上げてまいります。
(世界の中の日本外交)  中東地域の国々とは、長年、良好な関係を築いてきました。その歴史の上に、中東の平和と安定のため、日本独自の視点で積極的な外交を展開してまいります。  TICADがスタートして三十年近くが経ち、躍動するアフリカはもはや援助の対象ではありません。共に成長するパートナーです。八月にTICADを開催し、アフリカが描く夢を力強く支援していきます。  世界の平和と繁栄のために、日本外交が果たすべき役割は大きなものがある。地球規模課題の解決についても、日本のリーダーシップに強い期待が寄せられています。  我が国は四年連続で温室効果ガスの排出量を削減しました。他方で、長期目標である二〇五〇年八十%削減のためには非連続的な大幅削減が必要です。環境投資に積極的な企業の情報開示を進め、更なる民間投資を呼び込むという、環境と成長の好循環を回すことで、水素社会の実現など革新的なイノベーションを、我が国がリードしてまいります。  プラスチックによる海洋汚染が、生態系への大きな脅威となっています。美しい海を次の世代に引き渡していくため、新たな汚染を生み出さない世界の実現を目指し、ごみの適切な回収・処分、海で分解される新素材の開発など、世界の国々と共に、海洋プラスチックごみ対策に取り組んでまいります。  本年六月、主要国のリーダーたちが一堂に会するG20サミットを、我が国が議長国となり、大阪で開催します。  世界経済の持続的成長、自由で公正な貿易システムの発展、持続可能な開発目標、地球規模課題への新たな挑戦など、世界が直面する様々な課題について、率直な議論を行い、これから世界が向かうべき未来像をしっかりと見定めていく。そうしたサミットにしたいと考えています。  これまでの地球儀俯瞰(ふかん)外交の積み重ねの上に、各国首脳と築き上げた信頼関係の下、世界の中で日本が果たすべき責任を、しっかりと果たしていく決意です。  平成の、その先の時代に向かって、新しい日本外交の地平を拓き、世界から信頼される日本を、皆さん、勇気と誇りを持って、共に、創り上げていこうではありませんか。
六 おわりに  二〇二五年、日本で国際博覧会が開催されます。  一九七〇年の大阪万博。リニアモーターカー、電気自動車、携帯電話。夢のような未来社会に、子どもたちは胸を躍らせました。  「驚異の世界への扉を、いつか開いてくれる鍵。それは、科学に違いない。」  会場で心震わせた八歳の少年は、その後、科学の道に進み、努力を重ね、世界で初めてiPS細胞の作製に成功しました。ノーベル生理学・医学賞を受賞し、今、難病で苦しむ世界の人々に希望の光をもたらしています。  二〇二〇年、二〇二五年を大きなきっかけとしながら、次の世代の子どもたちが輝かしい未来に向かって大きな「力」を感じることができる、躍動感あふれる時代を、皆さん、共に、切り拓いていこうではありませんか。  憲法は、国の理想を語るもの、次の時代への道しるべであります。私たちの子や孫の世代のために、日本をどのような国にしていくのか。大きな歴史の転換点にあって、この国の未来をしっかりと示していく。国会の憲法審査会の場において、各党の議論が深められることを期待いたします。  平成の、その先の時代に向かって、日本の明日を切り拓く。皆さん、共に、その責任を果たしていこうではありませんか。  御清聴ありがとうございました。
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itokawa-noe · 2 years
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ねこはいるだけでいい
「お母さん」をめぐるSF。
Kaguya Planet公募(ジェンダーSF特集)参加作品でした。(1,1802文字/2021年12月12日)
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【マーサ】
 信じるもんかと彼女は思った。  白い肌に金の髪に青い瞳などという不気味な色をした人間が、まともであろうはずがない。向こうは向こうで緑の肌に銀の髪に紫の瞳という彼女の外見にぎょっとしたようだが、表情に出したのはほんの一瞬、のぞきかけた腹のうちを笑顔の下にしまいこんだそのすばやさが、かえって彼女を警戒させた。相手の女の口から出てくる妙ちきりんな音の連なりは自動翻訳機によると友好的な文句ばかりで、それがまた胡散臭さに輪をかけた。  女はしつこかった。おなじ色をした子どもとふたりで朝な夕な彼女を訪ねてきた。  彼女は船に立てこもり、まともにとりあおうとしなかった。  扉の前に置いてゆかれた物資は、慎重に検めたうえで使えるものだけ船の中にひっぱりこんだ。燃料や毛布は害なしと判じた彼女だけれど、食べものには手を出さずに我慢した。冷凍睡眠明けの飢えは、草や実や根を食べてしのいだ。同じ未知なら人間よりも植物のほうがまし。それが彼女の見解だった。  連中が大きなバスケットを抱えて現れたときは、心が揺らいだ。  子どものほうが「ほら」と目の前であけてみせたバスケットの中身は彩り豊かで匂いもよく、ちらとのぞくなり口の中が唾でいっぱいになった。思わず手をのばしかけたとき、女のほうが言った。 「私はマーサ。この子はチリル。あなたの名前を訊いてもいい?」  彼女はふたりに背を向けた。それから数日というもの、一歩も船から出なかった。  堅牢な要塞は、だけど突然やぶられた。敵が飛び道具を持ち出したのだ。  マーサと名乗った女が使ったのは火。燃やしたのは彼女の船、ではなく、拾い集めた枯れ枝や落ち葉だった。焚き火の上に吊るされた小鍋から立ちのぼる匂いに鼻先をくすぐられるや、投げ縄に捕まったみたいにぐいと体が引き寄せられた。そこから記憶が曖昧になり――気がつくと、からっぽの鍋が目の前に転がっていた。 「うちにくればもっとあるよ」 「でっかい鍋にたっぷりとね」  最後はあっさり陥落された。
 浮遊車で連れてゆかれた先は、赤い三角屋根の家。  マーサは彼女を風呂に入れ、温かい服を着せ、鍋いっぱいの煮こみ料理を食べさせてくれた。 「しちう」というらしいそれは、緊張にこわばっていた顔が一瞬でとろけてしまうほどおいしかった。味のしみた野菜や舌のうえでほろりとほどける肉をとろみのついた汁と一緒におなかの中へと送りこむにつれ、体がぽかぽかぬくもってくる。夢中で掻きこみ「おかわり!」と視線をあげ、やわらかく細められた瞳に見守られていたことに彼女は気づいた。〈お母さん〉みたいな人だ。耳が火照るのを感じながら、そう思う。自分の〈お母さん〉のことは、なにひとつ知らないけれど。 「どうして親切にしてくれるの」彼女には、それが不思議でたまらない。 「困ったときは助けあうものでしょ」横っちょにしちうをくっつけた口で、こともなげにチリルが返した。 「でも私は異星人だ。もっと疑ったり怖がったりするものじゃないの」 「でもおなじ人間だ。生まれた星が違うだけで」 「しかも、あなたはまだ子どもじゃない。たったひとりで遠くからきて、心細い思いをしているでしょう」 「子どもじゃないし」むっとして、彼女は頬をふくらませた。「年齢的には〈お母さん〉にだってなれるぐらいだ」 「おかあさん?」 「そうだよ」と尖らせたくちびるが、ぽろりと続きを取り落とす。マーサの肩越しに見えたものに、彼女の瞳は釘づけになる。  まるい顔、三角の耳、長いしっぽに光るまなこ。  へんてこな姿をした毛むくじゃらが、窓の外から彼女を睨んでいる。 「あれはなに」 「なにって、猫だよ。知らないの」  知らない。四つ足の獣なんて、彼女の星ではもう図鑑の中にしか存在しない。〈役割〉を自覚する以前、幼かった頃の彼女は図鑑を愛読していた。けれど、こんな意地の悪そうな目つきをした生き物はどこにも載っていなかった。 「どうしたのサミィ。入っておいでよ」  全身の毛を逆立てて、ねこは呼びかけを拒絶する。チリルは困惑しているようだが、彼女にはわかる。射殺さんばかりの眼光、剥き出しの牙と憎悪の唸り。これは糾弾、彼女がここにいることを責める顔。彼女にはわかる。彼女はこの顔を知っている。  彼女は立ちあがった。 「帰る」 「帰るってどこに」 「船」 「船って、まさかあの地面にめりこんでるやつのことじゃないよね」チリルが目を剥き、 「このままうちにいればいいよ」マーサが肩に手を置くも、 「私には〈役割〉がある。馴れあいは不要だ」  ぴしゃりと言ってはらいのけ、彼女は家を飛びだした。    マーサもチリルも追いかけてはこなかった。  ほっとしたような肩透かしを食らったような気分で、彼女は足をとめる。  森の中だった。  彼女の船が不時着した、落葉広葉樹の小さな森だ。  この土地の人々にとってはありふれた風景らしいが、彼女は一向に慣れる気がしない。両腕をまわしても抱えきれない幹に、雨宿りができるだけ茂った枝葉に、ふりそそぐ鳥のさえずりに――自分の背より高い木を見たことのなかった彼女は、何度だって圧倒される。  ひらきっぱなしになっていた口が、ゆっくりと笑みの形になる。  完璧だ。申し分のない環境だ。  約束された未来を思い、彼女は胸を昂ぶらせる。――この星には私たちが失ったものが残っている。きっと誰もが私を見直す。新しい家を見つけた私を、みんなの〈お母さん〉と称えさえするかもしれない。  問題は、この大発見を同胞に報せる術がないことだ。  自動操縦で彼女をここまでつれてきた船は、墜落の衝撃ですっかり壊れてしまった。通信機だけでも早急に修理したいところだが、彼女には機械を扱う心得がない。学ぼうにも学ぶ機会がなかった。彼女に求められる〈役割〉には必要のないことだったから。 「こんにちは」  急に声がして飛びあがった。  いつの間にか、背後に老女が立っている。 「はじめまして。わたしはトキエ。あなた、お名前は?」  不意打ちの問いに彼女は凍る。心臓が乱れ打ち、冷たい汗が噴き出してくる。 「……忘れた。記憶がない。宙から落ちて頭を打って、ぜんぶ忘れた」  言うだけ言って船に逃げこみ扉を閉める。  その場にへなへなしゃがみこみ、膝を抱えて小さくなった。
【ハオラン】
 彼女の星にだって様々な色の人間がいた。  いたにはいたが、ともに暮らす者どうしは同じ色をしているのが普通だったから、ちぐはぐな色に並ばれると居心地が悪くなる。 「はじめまして」ふわふわ喋るのは髪も瞳も黒い女。 「マーサからあなたのことを聞きました」ほわほわ笑うのは赤っぽい髪に緑の瞳の男。 「マーサ、あなたを気にかけていたよ。でも急に出かけなくちゃならなくなって」 「かわりに様子を見てきてほしいと頼まれたんです」 「どうかな、一緒に朝ごはんでも」 「きっとおなかが空いているでしょう」  まんじりともできなかったせいで充血した目で、彼女はふたりを睨めつけた。 「べつにおなかなんて」  空いてない。そう続けようとしたのを遮るように、ぐぎゅうぐるると腹が叫んだ。  頬を赤らめ、彼女は俯く。  ふわふわとほわほわが、顔を見あわせにっこりした。
 ふわふわ女の名はハオラン。ほわほわ男の名はエドゥアル。  ふたりはマーサとチリルの「お隣さん」で、マーサたちの家の屋根だけを青くしたような一戸建てに住んでいた。  改めて見まわしてみれば、周囲の家々はどれも似たり寄ったりの外観だ。こぢんまりとした三角屋根で、塀がない。住宅どうしが共同の庭でゆるやかに繋がったさまが、彼女の目には奇妙に映る。国も街も住居も人も、彼女の星では区切られ隔てられていた。  ハオランの用意してくれた「さんどいち」はおいしかった。だけどマーサのしちうのほうが、彼女はずっとすきだった。
 朝食が済むと、エドゥアルはハオランに口づけをして出ていった。  エドゥアルだけじゃない。窓の外の広い庭は、いつのまにか近隣住民と思しき人たちでいっぱいになっている。「おはよう」「おまたせ」などと挨拶をかわしながら、続々とどこかへ出かけてゆく。 「みんなどこに行くの」  窓辺の花に水をやっていたハオランに、彼女は訊ねた。 「人によって違うけれど、子どもは学校、大人は職場に行く人が多いんじゃないかな」 「ハオランはいかないの」 「いかないよ」  なるほど家で働いているのか。そう考えた彼女は、自分も仕事を手伝いたいと申し出た。 「仕事? そんなのないない。さ、お茶しよう」  冗談を言っているのだと思った。他の人達が〈役割〉を果たしているあいだに自分だけお茶なんて。ところが、ハオランは本当にお茶を淹れはじめた。小皿に焼き菓子まで添え、いそいそとソファへ運び、準備ができたよと彼女を呼んだ。  得体の知れないものを前にしたような気味の悪さに襲われ、彼女はハオランを凝視した。 「どうしたの? こっちにおいでよ」  不思議そうに見返してくる黒い瞳と目があって、そこではっと気がついた。ゆったりした服が体の線を隠しているせいでわからなかったが――そうか! 〈お母さん〉になるのだ! であれば彼女も納得だ。新しい命を胎に宿した〈お母さん〉は、盗まれたり傷つけられたりすることのないよう家に仕舞いこまれるものだから。  彼女はハオランを言祝いだ。  ハオランはきょとんとし、そのあとで吹き出した。 「このおなかに詰まってるのは、ほどよい量の脂肪と内臓だけだよ」  早とちりを彼女は詫びて、 「でも」気まずさを紛らわせようと急いで言った。「いずれ〈お母さん〉になるんでしょう」 「おかあさんってなあに?」  今度こそ冗談だと思った。だけどハオランの表情に悪ふざけの色はない。 「〈お母さん〉は、女の親だよ」面食らいつつ説明するも不十分な気がして「ええと、それから」頭の中にある〈お母さん〉を言葉にしようと試みた。「おいしくて栄養のある手作りごはん、よく手入れされた服、掃除のゆきとどいた住まい、そういうものを整えて、子どもを健やかに育む人。いつも家族が優先で、自分のことは後まわし。愛情深くて忍耐強く、対価は決して求めない。自己犠牲と献身と無償の愛、それが母性、すなわち〈お母さん〉の条件だから」  彼女の演説のなかばから詰めていたらしい息を、ハオランは「……へええ」と吐きだした。「すごいんだねえ。人間というよりも、神様かなにかみたい」 「本当にこの星には〈お母さん〉がいないの?」 「いないよ、そんなすごい人」 「だったら、子どもは誰が育てるの」 「親と周囲の大人たち。みんなで一緒に育てるよ」ハオランはにこやかに答え「そういう意味なら」と話をもどした。「わたし、親にもならないよ」 「それってつまり」口にしかけた問いが、音になる直前で喉につまる。鼓動が速くなるのを自覚しながら、彼女は訊いた。「あなたも産めない女なの?」 「うーん、どうだろう。そもそも産もうと思ったことがないんだよね。わたしとエドゥアルは、ふたりの暮らしが気に入ってるから」  彼女は絶句した。顔色を失くし、瞬きを忘れ、唇を震わせてハオランを見つめた。 「おかしいよ」やっとのことで出た声は悲鳴みたいに引き攣っていた。「産めるかもしれないのに産まない? そんなのおかしい。ありえない。子を産み育てることが女の〈役割〉でしょう。〈役割〉を果たさない者は罰をうけるよ。生きてる価値がないって責められるよ」  ハオランの瞳がゆれた。  おだやかな笑みに彩られていた顔が、痛みを堪らえるように歪んだ。 「そんなことないよ」ハオランは彼女の手をとった。そっと握って、静かに言った。「他人から押しつけられる役割なんてない。そんなことをしようとする人がいたら、うるせー知るか! って蹴散らしていいんだよ。もちろん罰なんてものもない。この星では、誰もあなたを責めたりしないよ」  ハオランの言っていることが、彼女にはわからない。わかるのは、自分を抱きしめんとするようにさしのべられたまなざしのせいで胸がざわざわすることだけだ。  逃げるように目を逸らす。  窓の外にねこがいた。  陽だまりのベンチで丸くなり、気持ちよさそうに眠っていた。 「そうだよ、ほら」彼女からねこへ、また彼女へ。視線を移し、ハオランが口もとをほころばせた。「猫は、ただそこにいるだけでいいでしょう。人間だって同じだよ」 「違うよ。ぜんぜん違う」彼女は激しく首をふる。「それに私、ねこは嫌いだ」  ハオランが悲しげに目を伏せる。  短い沈黙のあとで、 「訊いてもいいかな」彼女を見据えた双眸は、夜の湖面を思わせた。「あなたは『おかあさん』になりたいの?」 「当たり前でしょ。女に生まれた者は誰だって――」 「そうじゃないよ。あなたの心は『おかあさん』になることを望んでいるの?」  彼女は答えなかった。  心のどこにも、答えがなかった。
【ユースフ】
――あなたの心は『おかあさん』になることを望んでいるの?  それならいいの。でも、もしもね、自分の心の声を聞くより先に外側からそう思いこまされているのだとしたら、それは苦しいことなんじゃないかって。  考えないほうがいい考えるべきじゃない早く追い出してしまえ、でないと頭がぐちゃぐちゃになる、と彼女は思う。だけど何度寝返りを繰り返しても、ハオランの声をふりはらえない。 ――「おかあさん」のことは、わたしにはよくわからない。でもね、産まなくても、同じ家で暮らさなくても、誰かと一緒に子どもを育てる方法はたくさんあるよ。  扉を叩く音に物思いが破れる。  彼女は息を潜め、招かれざる客が去るのを待った。  だが敵は粘り強い。  痺れを切らして起きあがる。追い返してやろうと扉をあけて、驚いた。  ひとつには、いつの間にかすっかり夜がふけていたから。もうひとつには、そこにいたのが予期したのとは違う人だったから。 「夜分遅くにごめんなさい。格好いいおうちを見つけたから、どんな方が住んでいるのか気になって」 「おうちじゃなくて、これは船」 「あら、お船なの。色も形もイルカみたいでお洒落ねえ」くしゃっと丸めてゆるく広げた紙を連想させるしわしわの顔のうえで、きらきらっと瞳が光る。「はじめまして。わたしはトキエ」  昨日も会ったよ。憶えてないの。突っぱねかけて、はっとした。異星人に遭遇したことを憶えてない? そんなの普通じゃありえない。 「あなた、お名前は?」昨日とおなじ質問に、 「ない」昨日とちがう答えを彼女は返した。どうせ明日には忘れられる。そう思ったとたん、嘘をつくのがばかばかしくなったのだ。「昔はあったけど、今はない」  名前を所有できるのは、社会にとって価値のある人間だけだ。  社会にとって価値があるというのは、求められる〈役割〉を果たせるということだ。  だから彼女は、ハオランのような人がのうのうと暮らしていられることが理解できない。どうして名前を取りあげられないのか。どうして役立たずと糾弾されないのか。どうして「不要な」髪を剃られたり「無駄な」腹を蹴られたりしないのか、生きている価値がないと罵倒されないのか。 「おなかが痛いの?」  トキエの声で、無意識に腹をおさえていたことに気がついた。  額に湧き出した脂汗を、ひんやりした指がぬぐってゆく。トキエの体温でぬくもったストールが、すっぽりと彼女をつつみこむ。 「行きましょう」言うなりトキエは彼女を抱きかかえるようにして歩きだした。  細腕に見あわぬ力の強さに彼女はたじろぐ。「行くってどこに」本気で抵抗すれば勝てるのだろうが「ねえったら」年寄り相手にそうもゆかず「離してよ!」そのままどこへやら運ばれてゆく。
 星あかりの下を引かれてゆくうち、男に出会った。  がっしりとした肩のうえの人懐こい笑顔を見あげ、この星の木みたいな人だと彼女は思う。大柄で体格もよいけれど、雰囲気がゆったりしているせいか怖くはない。広々とした胸に抱かれた赤ん坊が、青みがかった澄んだ瞳を彼女に向けた。 「こんばんは、ユースフ。こんばんは、ココちゃん」 「こんばんは、トキエさん。そちらは宇宙から来たお嬢さんだね」  名前を訊かれなかったことに、彼女は内心で安堵する。ほっと息を吐いたその口から、次の瞬間、心臓が飛びだしそうになった。ココが大声で泣き出したのだ。 「ああ、ごめん、ごめんね」ユースフが太い腕を揺らしてココをあやす。「立ちどまっちゃうとだめなんだ」  そう言って歩きだした大きな背中を、彼女は追いかけこっそり告げた。 「このおばあさん、昨日も今日もひとりで徘徊してたんだけど」 「徘徊じゃなくて散歩だよ」 「どっちだっていい。ひとりでふらふら出歩いて、事故にあったらどうすんの」 「平気だよ。トキエさんも僕たちも、トキエさんにできることとできないことを知っている。困ったときは誰かしらが手助けする。ね、トキエさん」ユースフがトキエに向かって首を傾け、 「ね」とトキエも同じ角度に首を倒す。  待ちあわせでもしていたような自然さで一緒に歩きはじめた。  トキエの体が離れ、彼女は自由をとりもどす。ひとりで船に帰ることもできたけれど、なんとんなくそうはしなかった。 「ねえ」ゆきずりの道連れに、歩調をあわせてついてゆく。「〈お母さん〉はどうしてるの。お留守番?」 「おかあさん?」 「その子のもう一人の親のこと」 「ココの親は僕だけだよ」  では、いつもこうなのか。眠らない赤子を抱え、夜な夜なひとりで歩いているのか。ぎゅうと胸が苦しくなって、彼女は思わず呟いた。 「片親なのか。大変だな」 「かたおやって?」ユースフが訊き返す。 「親が一人しかいないってこと」 「うーん、大変なのかな」 「大変じゃないの」 「そりゃ、子育ては大仕事だよ。でも親の数はあんまり関係ないんじゃないかな。一人だろうと二人だろうと三人だろうと、結局はまわりのみんなに助けてもらうわけだし」 「かたおや。おかしな言いまわしね。まるで、親は二人いるのがふつうみたい」 「だってそうでしょ」 「そんなことないよ」「そんなことないでしょう」 「え、そんなことないの?」 「ないね」「ないない」 「私の星では、親は二人そろっているべきだとされてるよ」 「じゃあ、僕みたいにパートナーを必要としない人間は親として失格なの」  失格どころか資格がない。養子をむかえるのも第三者の協力を得て人工的に子をもうけるのも、両親がそろっていることが大前提。彼女の星の彼女の国では、そういうきまりになっていた。  だけど彼女にはそれが言えない。隣りを歩くユースフに言いたくない。  気づまりな間を埋めたのは、おっとりとしたトキエの声だった。 「ところ変われば、考えかたも変わるのね」 「そうか。そうだね。人それぞれ、星それぞれ」  ユースフの顔に笑みがもどり、彼女は胸をなでおろす。  人それぞれ、星それぞれ。心の中で復唱し、なるほどな、と小さく頷く。  その一方で、こんなふうにも思うのだ。  もしもユースフが彼女の国に生まれていたら。ひとりで親になりたいと望み、ひとりでも子を育てられる環境にあったとしたら。  残念、この国ではとおりません。  そんな一言で握りつぶしてしまって、よいのだろうか。    やがて、行く手にぼんやりと白っぽい影が浮かびあがった。  「到着だ」「到着ね」  ユースフとトキエが、同時に言った。
「夜の図書館には、ねむれない人たちが集まってくるんだ」  ユースフがひそひそ声で説明するのを聞きながら、ランプの灯りに照らされた通路を行く。ふかふかの布団が敷きつめられた館内でくつろぐ利用者は大半がユースフのような子連れだが、そうではない人たちもちらほら見えた。耳打ちや筆談でおしゃべりを楽しむ者、ぶあつい本を膝に置いて船を漕ぐ者、天井に投影された星を寝転んで数える者……ぬるめに入れたお風呂みたいな空気に身をひたし、めいめいが思い思いの時間を過ごしている。 「あら、ここは」貸し出しカウンターの前でトキエが足をとめた。「そうそう、そうだった。ちょっと寄ってゆきましょう」  どこに? と訊ねた彼女にユースフが教えてくれる。 「トキエさんは、時々ここでお手伝いをしているんだ」 「楽しいのよ。赤ちゃんにミルクをあげて、おむつを替えて、大人には温かい飲みものや小さなチョコレートをお出しして。あなたもどう?」  彼女は首をふった。赤ん坊はすきじゃない。  トキエにありがとうを言ってストールを返し、ユースフについてゆく。  前方からふわふわした声が流れてきた。絵本かなにかの読み聞かせをしているらしい。声を手繰るようにして奥へとすすみ、驚いた。毛布をかぶって、ぬいぐるみを抱いて、天幕から顔だけのぞかせて――おのおの好きな格好で寝そべる人たちに向かって本を読んでいたのは、彼女の知っている人だった。 「ハオランは、毎晩ここでお話を読んでくれるんだ」  ユースフが床のうえの揺りかごにココをおろす。彼女はとっさに身構えたけれど、ココは泣かなかった。ふわふわした声に聴き入るように、じいっとハオランを見つめている。  ぱっちりひらいていた瞳は、だけどたちまちとろんとし、数分とたたないうちにぴたりとふたをされていた。  ハオランの声は、彼女の耳にも心地よい。 「これがハオランの〈役目〉なの?」子が、親が、一人またひとりと眠りに落ちてゆくのを眺めながら、あくび混じりに彼女は訊ねる。 「役目とか、そういうのはよくわからないけれど」彼女からひきとったあくびをふああと宙に放り、ユースフが答える。「ハオランは、すきでやっているんだと思うよ」    彼女は毛布にくるまって、ハオランの朗読にココとユースフの寝息が合いの手を入れるのを聞いている。とろとろと微睡みはじめた矢先、なにやらもぞもぞうごく小さいやつが懐にもぐりこんできた。大声をあげて図書館じゅうの人たちを叩き起こしてしまわずに済んだのは、毛布の端からはみ出したしなやかなしっぽで、そいつの正体がわかったからだ。  悲鳴を呑みこみ、静かに胸を高鳴らせながら天井を眺めることしばし。 ……ぷう、ぷすうう、ぷすすう、ぷう……  耳に届いたかすかな音が寝息だと気づくや、しちうを食べたときみたいなぬくもりが全身にひろがった。  堪えきれずに笑みがこぼれる。その顔のまま瞼を閉じる。    仄白いひかりの中で、彼女は自然に目をさました。  懐がもぬけの殻になっているのを残念に思いつつ身を起こし――そこでぴたっと動きが止まった。  言伝のように。ささやかな贈り物のように。  マーサから借りた服のおなかのところに、柔い毛がぽそぽそとくっついていた。
【マーサとラウラとアヌシュカ】
 彼女はユースフの家で朝ごはんをご馳走になり、いったん船へと引きあげるところ。  おなかにくっつけたままの毛を落っことしてしまわないよう、そっとそうっと歩いている。一歩いっぽに集中しているせいで「おーい」という声が近づいてくるのに気づかない。特大の「おーい!」にようやく足をとめたのと傍らに停まった浮遊車のドアがひらいたのとは同時だった。 「マーサ! チリル!」  毛のことをすっかり忘れ、彼女はマーサに飛びついた。 「よかった。どうしてるか気になっていたの」マーサが彼女を抱きとめて、 「元気そうだね」チリルもぴとりとほっぺたを寄せてくる。 「元気だよ。みんなに助けてもらってた」でも私は。マーサの腕の中でもじもじと身をよじり、彼女は早口に打ち明けた。「マーサのしちうが食べたかった」 「シチュー?」マーサが首を傾げかけ、ああ、と笑って手を打った。「あれを作ったのは私じゃないよ」 「え?」 「私、料理はからっきしなの。わが家のごはん担当は、このアヌシュカ」  車からおりてきた小柄な人を、マーサが彼女に紹介する。 「あたしのシチューを気に入ってくれたの? 光栄!」  握られた手をぶんぶん上下にふられながら、彼女はぽかんとする。  アヌシュカの後ろから背の高い人がおりてきたことで、困惑はさらに深まった。ラウラと名乗ったその人は、腕に赤ん坊を抱いていた。ココより小さくふにゃふにゃで、まだ目もあいていない、正真正銘の生まれたてだ。 「ぼくのきょうだい」  チリルは胸を張るけれど、それはおかしい、と彼女は眉を寄せる。マーサのおなかは数日前までぺたんこで、出産を控えているようには見えなかった。チリル、マーサ、アヌシュカ、ラウラ、赤ん坊……せわしなく視線を走らせ、口をひらく。  だれが〈お母さん〉なの。  転げ落ちかけた問いが、舌先で止まる。  彼女はもう一度、目の前の人たちを見た。三人の大人は色も顔だちもてんでばらばら、マーサとチリルにしたって面ざしはあまり似ていない。けれど彼女に向けられた八つの瞳は、あったかさがそっくりだ。  そうか、と彼女は理解した。なるほど、と心から思った。こういう形もあるのか、と。  誰が産んだとか誰がごはんを作るとか親は何人とか、そういうことはもう、どうでもよかった。 「……かわいい」  彼女は赤ん坊がすきじゃない。何を考えているのかわからないところやひとつ扱いを間違えたら壊してし��いそうなところが怖くて遠くて落ちつかず、無理やり抱かされたり褒めそやすよう強いられたりするたび、どろりとした苦いものに喉を塞がれて息がつまった。いつからか、そういうふうになっていた。  だけど今。ラウラの胸で眠る小さな命が、彼女は愛おしくてたまらない。 「ほんとうに、かわいい」  ��しさに細めた瞳から、はらはら��涙が落ちる。彼女は気づいていない。気づかないまま、まだ名前のない、性別もさだまらない、まっさらなひかりを見つめつづける。
 この星には、新しい命が生まれると〈お墓参り〉をする習慣がある。  それで彼女たち――マーサとアヌシュカとラウラとチリルに、少し大きくなってミンナという名前をもらった赤ちゃん、そして彼女は、お弁当をもって〈お墓〉を訪ねた。   〈お墓〉は、かつて彼女の星にあったという動物園に似ていた。   動物園は生きた動物に会うための施設。動物たちは檻か柵の向こうにいる。   〈お墓〉はもういない動物に会うための場所。動物たちはすべてよくできた映像で、ゆえに檻も柵も必要ない。  まっしろなクマが、思慮深げな顔つきをした大きなサルが、岩と見紛うような甲羅を背負いヒレ状の脚で這うカメが……図鑑でしか知らない生き物たちが暮らす森の中を、彼女は顔を輝かせ、チリルとふたりで駆けまわった。  大人たちが静かなのに気づいたのは、ひとしきりはしゃいだあとだった。 「〈お墓〉に来るとね、考えずにいられなくなるの。ひとつ違えば私たちもあちら側だったんだって」マーサの口調は常に似ずしんみりしていた。 「あたしらがここにいるのは、先人が踏みとどまってくれたおかげだ」日頃は陽気なアヌシュカも神妙な面持ちになっている。  その横顔の向こう、茂みの陰に、緑色の人が視えた。  彼女は息をとめる。まばたきの隙間に緑は消える。だけど呼吸はもどらない。 「私たちは」喘ぐようにひらいた口から、声が落ちた。「踏みとどまることができなかった」  大人たちが彼女を見る。頷き、屈み、寄り添って、言葉の先をじっと待つ。 「競いあい蹴落としあい奪いあい、星をめちゃくちゃにしてしまった」ぽつりぽつりと彼女は続けた。「勝てないものや戦えないものから死んでいった。人も、それ以外のみんなも」 「この星でもそうだったよ」ミンナを抱いたラウラが言った。「このままでは星そのものが駄目になる。わかっていても、当たり前のようにやってきたことにブレーキをかけたり、既に持っているものを手放したりすることは、難しかった」 「そこからどうやって踏みとどまったの」 「いくつかきっかけがあったんだ。たとえば」 「たとえば?」 「猫」 「ねこ?」 「猫がいなくなったの。ある日突然、この星から」 「なにそれ。絶滅したってこと?」 「そうじゃない」「消えたんだって」「溶けるみたいに」 「溶けた? 猫が?」 「溶けた、じゃなくて、溶けるみたいに」 「……どいうこと?」 「猫は臆病で繊細だから」「平穏とやすらぎを好むから」「殺伐とした星に嫌気がさして、出ていったんだろうって言われてる」 「……それで、どうなったの」 「ずっと傍らにいてくれた友を失い、先人たちは悲しみに暮れた」「打ちひしがれたそのあとで、手をとりあって立ちあがった」「この星を、猫がもどってきてくれる場所に作り変えよう」「不均衡をならし、壁を取りはらい、競って蹴落としあう世界から、寄りかかりあい分かちあう世界に」「長い時間が必要だった」「気が遠くなるような時間がね」「何世代もかけてようやく、猫は帰ってきてくれた」「だけど彼らは」  大人たちの語りに聴き入っていた彼女の前に、子どものゾウが立った。耳をぱたぱたさせて彼女を見あげ、握手をもとめるみたいに鼻をさしだしてくる。つられてのばした指の先が、幻影をすりぬけ空を掻く。 「もう二度と、戻らない」
 帰り道、やわらかな夕陽のさしこむ後部座席で、彼女は淡い夢をみた。緑のねこにぐるりと囲まれ、よってたかって詰られる夢だ。  剥きだしの牙にも憎悪の唸りにも、彼女はもう怯まない。首をふって受け流し「さようなら」を風にのせる。別れの言葉がねこに届く。彼女の肌とおなじ色の輪郭がふるふると震えてゆらぐ。ゆるんでとけて土に還るのを見送っていると、背後から声がかかった。 「はじめまして」  ふり返った彼女にトキエが訊ねる。 「あなた、お名前は?」  マーサがかけてくれた上着の下で、彼女は微かに身じろぎをする。 「名前はね」にっこり笑って、こう返す。「これから探しに行くところ」
ーーー
【参考文献】
伊藤亜紗他『「利他」とは何か』集英社 小川 公代『ケアの倫理とエンパワメント』講談社 ケア・コレクティヴ 他『ケア宣言』大月書店 渡邊淳司 他『わたしたちのウェルビーイングをつくりあうために』ビー・エヌ・エヌ新社
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monqu1y · 4 years
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部下を管理する七つの技術   情報源 ( じょうほうげん ) の 複数化 ( ふくすうか ) と 符節照合 ( ふせつしょうごう ) で家来の 言行不一致 ( げんこうふいっち ) を見ぬいたり、 意外 ( いがい ) なテストで本心を確認したりして、 騙 ( だま ) されないように注意し、 信賞必罰 ( しんしょうひつばつ ) で家来たちをコントロールする方法
⦅洞察六兆[韓非]から続く⦆
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 「術」は、[法]の運用のしかた。王様が胸の中に仕舞い込んで臣下をコントロールするもの。  王様は、無数の部下、巨大な組織を制する権力者だが、生まれついての超能力者ではない。ひとりの人間が絶対的な権力者となるには、法(機構)の確率と運営のための術(徹底した人事管理)が必要なのだ。 〖王様が使うべき七つの[術]〗 01_臣下の行動と言葉を検証して、言行の不一致がないかを判断する  [法・術]に 長 ( た ) けた王様は、証拠のないことは取り上げず、普段食べない食事は口にしない。遠くのことはよく聴き、近くのことはよく見て、家来がどこにいようと、その落ち度は見落とさない。家来たちの言葉の食い違いを調べて、彼らの派閥をさぐり出す。さまざまな角度から家来の申告を成果とつき合わせて、食い違いを許さない。最初の言葉と後の成果を一致させる。法を基準として、言行を数多く見くらべて、家来を統率する。まぐれ当たりの成果には賞を与えず、職分を外れた行為は許さない。処刑すべき者は必ず処刑し、罪ある者は赦さない。  相手がどんな悪者でも私欲をとげさせない決意を 揺 ( ゆ ) らがせてはならない。   衛 ( えい ) の 嗣 ( し ) 公は、家来の一人を旅人にしたてて、関所を通過させた。  関所の役人は、彼をきびしく調べたが、金をやるとすぐ見逃してくれた。  その後、嗣公はその関所を通るとき、くだんの役人にこう言った。  「これこれのとき、お前の関所を旅人が通り、お前は金をもらって見逃してやったろう」。  役人は嗣公が何もかも見通していると思い、ふるえあがった。 02_罪には必ず罰を与えて、威厳を示す  何か事件が起こったとき、それによって利益を得る者があるならば、きっと、その者が仕掛けた。損害を受ける者があるならば、その人間と利害反する者が怪しいと見なければならない。  したがって、[法・術]に 長 ( た ) けた王様は、国が損害をこうむる事件が起こったら、それによって利益を得る者を調べる。家来が損害をこうむる事件が起こったら、その家来と利害の反する者をさがす。   晋 ( しん ) の 文 ( ぶん ) 公のときだった。  料理番が焼肉を文公にさし出した。  その肉に髪の毛が一筋ついていたので、文公は料理番を呼んで追及した。  「お前はこの髪の毛でわしがむせるのを望んだのか。でなければ、なぜ髪の毛をつけたのか」。  料理番は何度も地面に額をこすりつけてあやまった。  「わたしは死に価する罪三つを犯しました。包丁は砥石でよく砥いでありますので、名剣 干将 ( かんしょう ) のようによく切れます。肉はよく切れたのに、髪の毛が切れていません。これが第一の罪です。串に肉をさしたとき、髪の毛が見えませんでした。これが第二の罪です。炉の炭を真っ赤にして 炙 ( あぶ ) ったので肉は焼けたのに、髪の毛が焼けませんでした。これが第三の罪です。もしや、わたしを憎む者が、お側にいるのではないでしょうか」。  「なるほど、わかった」。  文公が側に仕える者たちを呼び出して取り調べると、はたして真犯人が見つかったので、それを処刑した。 03_功績を挙げた臣下には、然るべき 褒美 ( ほうび ) を与える  名御者の 王良 ( おうりょう ) が馬を愛するのは、走るから。  越王 勾践 ( こうせん ) が人を愛するのは、戦うから。  医者が患者の傷を吸い血を口に含むのは、金が儲かるから。  車職人が金持ちの増加を望むのは、車が売れるから。  棺桶職人が人の死を願うのは、人が死ねば棺桶が売れるから。   呉起 ( ごき ) が 魏 ( ぎ ) の将軍となって 中山 ( ちゅうざん ) (国名)を攻めたとき、できものをつくった兵士がいた。  呉起は自ら 跪 ( ひざまず ) いて、その兵士の 膿 ( うみ ) を吸った。  それを聞くと兵士の母は泣きだした。  「将軍が子供に親切にしてくださったのに、どうして泣くのですか」。  と尋ねた者に、母はこう答えた。  「呉起さまはあの子の父親のときにも、膿を吸ってくれた。父親は、その恩に死で報いた。あの子もきっと死ぬでしょう。それでわたしは泣くのです」。 04_情報は自分の目と耳で確認し、臣下の伝聞に頼らない〔符節を合わせる〕 《参伍の道》  三人を一単位としてそれぞれの意見を聴取し、五人を一組として過失に対し連帯責任を取らせる方法。王様が臣下の意見を聞き行動を見るのは、馴れ合っている者を罰し、しっかりした見解を持っている者を賞するため。邪な者や罪を犯している者を知っていながら告発しない者も、馴れ合っているとみなして罰する。  三人を単位として一つのことを相談させたときに意見が割れないのは、馴れ合っている証拠。  五人を一組として連帯責任性にすれば、一人が罪を犯した場合、他の四人は怒って必ずこれを責めるはず。四人全員が責めないようなら、他にも罪を犯した者が居るということ。  相談が始まってすぐに意見が割れれば、各人の能力の違いが分かる。ほんの過失程度の罪でも怒るようなら、他に悪事を犯している者はいない。 《四つの評価基準》  [地の利][天の時][物事の道理][人情]の四つの評価基準で各意見の符節を合わせれば、是非善悪を判別できる。  そもそも王様は、���下の注視するところであるから、ふだんの態度を変え、親近の者を疎遠にしたり、疎遠の者を親近にするなど恩沢を改めてみても忠誠の度合いが分かる。  注意すれば臣下の持ち物、行動など、目にみえるものからも、推察しにくい点(かくれた悪事など)を見ることができる。  馴れ馴れしくなりあれこれ他人の仕事まで手を出しがちな近習たちには、謹んで本務を遂行するようにさせる。  遠くに使いするものとの関連のあるものを特に用がないのに再三呼び出して使者に何となく恐怖の念を持たせ、出先での悪事を 牽制 ( けんせい ) する。  臣下の過去を調べ上げて、その前歴を知り尽くす。  臣下を近習の地位につけて心の内側を知り、地方官などに任命してその外に対する態度を知る。  全てを承知しながら、とぼけて尋ねてみると隠れた面が分かる   謀 ( はかりごと ) を以って人を送り込み、相手の悪事や秘密を握って 侮 ( あなど ) りを退ける。  何か疑いがあるときは、使者に誉めるところをけなし、けなすところを誉めるなど、反対のことを言わせて、疑問を確かめる。  事が起こった場合、背後にあって利益を得た者を探し出して調査すると隠れた悪事が出てくることがある。   諌 ( いさ ) め 糺 ( ただ ) す官を設けて、独断権を持っている役人の専横を取り締まる。  忠誠とは言えない人間を登用して、 周 ( まわ ) りの 邪 ( よこしま ) な動きを観察する。  法が公平無私なものである 旨 ( むね ) 事細 ( ことこま ) かに説明して、仕事を 怠 ( おこたり ) りがちな者やでしゃばりがちな者を指導し、ときにはへりくだったり迎合したりして、正直か、おべっか使いか、人間を見極める。  小耳にしたことやちょっとした噂話を利用して、それとなく探りを入れると思いがけないことが分かる。  偽の情報を流して臣下を対立させれば、馴れ合いになっている仲間を解散させることができる。  ある事に精通することによって、臣下を恐れ入らせる。  極秘事項がもれそうな場合は、わざと別のことをもらして相手のねらいをそらす。  欲望、私怨、出世、保身などのために他人を陥れるような複雑で紛らわしい問題が起こったときは、同じようなでき事を参考にして詳しく調べ、罪を告白したらその理由を明らかにし、罪を確認した上で処罰する。  時々隠密の使者を派遣して地方を巡視させ、民がまじめに働いているかどうか調べる。働いていないようなら(仲間を使って横着を決め込んでいるのであるから)、だんだん制度を改革していって、横着の元(仲間)をばらばらにする。  下部から上部へと徐々に管理体制を整えていけば、宰相は高官を取り締まり、高官は部下を取り締まり、将校は兵士を取り締まる。使節はその福祉を取り締まり、県令は配下を取り締まり、近習は左右の者を取り締まり、そして皇后は侍従の女官を取り締まるようになる。  話が間違って広がったり、大事がもれるようでは[法・術]による統治は難しい。   叔孫 ( しゅくそん ) は 魯 ( ろ ) の宰相で、実権を握り国政を思うがままに動かしていた。  その叔孫の 寵愛 ( ちょうあい ) を受けていたのが 豎牛 ( じゅぎゅう ) であり、彼も叔孫の名を使ってやりたい放題にふるまっていた。  叔孫には 壬 ( じん ) という子供がいた。  豎牛はその壬を 妬 ( ねた ) んで殺してしまおうと考えた。  そこで策をめぐらせ、あるとき、壬を連れて魯王の御殿へ遊びに行った。  そのとき、魯王は壬に 玉環 ( ぎょくかん ) を与えた。  壬はそれをうやうやしく受け取り、すぐに身につけようとせず、豎牛を通じて叔孫の許しを求めた。  ところが豎牛はその依頼を伝えもせずに、「わたしがこのことをお願いしたところ、つけてよろしいとのことです」。  と言って、壬をだた。  壬が玉環を身につけるのを見ると、豎牛は叔孫のところへ行って、こう切り出した。  「そろそろ壬さまを殿様にお目見えにお連れしてはいかがです」。  「子供だからな。まだ早すぎるだろう」。  「いえ、壬さまはもう何回かお目見えになっています。  この前も殿様から玉環を賜り、さっそく身につけていらっしゃいます」。  叔孫は壬を呼び出した。  見れば、はたして玉環を身につけているではないか。  叔孫は怒って壬を殺した。  壬には 丙 ( へい ) という兄がいた。  豎牛はその丙も妬んで、殺してしまいたいと思った。  折よく、叔孫が、丙に 鐘 ( しょう ) (楽器)をつくってやった。  鐘はできたが丙はすぐに打ち鳴らすことをつつしみ、豎牛を通じて叔孫の許しを求めた。  ところが豎牛は壬のときと同じように丙をだた。  「わたしがお願いしたところ、よろしいとのことです」。  丙は鐘を打ち鳴らした。  それを聞いた叔孫は怒った。  「わたしの許しも得ずに勝手に鐘を打ったな」。  そして丙を国外に追放した。丙は 斉 ( せい ) の国へ逃れた。  それから一年ほどたって、豎牛は丙のために叔孫にわびを入れた。  そこで叔孫は豎牛に、丙を呼び戻すように伝えた。  ところが、豎牛はそれを伝えもせずに、叔孫にこう報告した。  「お呼びしたのですが、丙さまはまだご立腹なさっているようで、帰ってこようとはなさいません」。  叔孫はかんかんに怒って、人を使って丙を殺してしまった。  こうして二人の子供が死んだのち、叔孫は病気になった。  すると豎牛は、自分だけで看病し、「叔孫さまは、人の声を聞きたくないとのことだ」と称して、誰も病室に入れなかった。  そして、叔孫に食べ物を与えず、とうとう餓死させてしまった。  こうして叔孫も死ぬと、豎牛は葬式もせずに、倉から重宝をありったけ盗み出すや、斉に逃滅してしまった。  信用する者の言葉を鵜呑みにしていて、親子もろとも殺される結果になったが、それというのも、家来の言葉を事実と照合することをしなかったからだ。   龐恭 ( ほうきょう ) は 魏 ( ぎ ) の太子に従って、 趙 ( ちょう ) の都の 邯鄲 ( かんたん ) に 人質としてやられることになった。  出発するとき、彼は魏王にこういう質問をした。  「もしも、誰かが『街に虎が出た』と言ったら、お信じになるか」。  「信じないな」。  「では、二人が『街に虎が出た』と言ったら、どうでしょう」。  「いや、信じない」。  それでは、三人が『街に虎が出た』と言ったら、どうなさいます」。  「そうなると、信じるだろうな」。  「街に虎が出ないことはわかりきったことです。それなのに、三人が同じことを言ったらお信じになる。邯鄲ははるかに遠い外国です。それだけ邯鄲のことはわかりにくいのです。その邯鄲に行く私のことを、留守中とやかく言う連中は、三人どころではありません。どうか、このことをお忘れになりませぬように」。  しかし、龐恭が邯鄲から帰国したとき、大勢の言うことを信じこんだ王様に、彼は二度とお目見えを許されなかった。   斉 ( せい ) の 宣 ( せん ) 王は 竽 ( う ) (笛の一種)を吹かせるときは、必ず三百人に合奏させた。  あるとき、 南郭 ( なんかく ) (地名または姓)の 処士 ( しょし ) (学問を修めたが、現在任官していない士のこと。処は家(民間)に 処 ( お ) るの意)が、宣王のために竽を吹きたいと言ってきた。  宣王は喜んで禄を与えた。この例にならった処士は数百人に達した。  やがて宣王が死に、 湣 ( びん ) 王が即位した。  湣王は独奏曲を聴くのが好きだった。  独奏すれば下手なのがばれるため、それらの処士はみな逃げ出してしまった。   宋 ( そう ) (殷(=商)の滅滅後、その 祭祀 ( さいし ) を継がせるためにつくられた国)の宰相は、 少庶子 ( しょうしょし ) (官名)に市場の見回りをさせ、彼が帰ってくると、尋ねた。  「市場で何を見つけた」。  「いいえ、何も」。  「しかし、何かは見つけたろう」。  「そういえば市場の南門の外側は牛車がいっぱいになっていて、やっと通れるくらいでした」。  「よし、わしがお前にきいたことは誰にも言ってはいかんぞ」。  宰相はさっそく市場の役人を呼び出して叱りつけた。  「市場の門の外側は、牛糞でいっぱいではないか」。  役人はいつの間に、宰相がこんなことまで知っているのに驚いてしまい、以後は職務を怠らくなった。   斉 ( せい ) の 桓 ( かん ) 公が 孤竹 ( こちく ) を攻めたとき、 管仲 ( かんちゅう ) と 隰朋 ( しゅうほう ) が従軍した。  出発が春、帰りは冬になったため、景色がまったく変わってしまい、道が分からなくなった。  このとき、管仲が言った。  「ひとつ老馬に知恵を借りましょう」。  老馬の 鞍 ( くら ) をはずして先にやり、その後について行ったところ、道を見つけることができた。  山岳地帯で水がなくなったことがあった。  このとき、 隰朋 ( しゅうほう ) が言った。  「蟻塚の下に水があります。蟻は冬は山の南側に、夏は山の北側に巣をつくります。高さが3糎の蟻塚なら2㍍下に、水があります」。  蟻塚を掘ったところ、果たして水を得ることができた。   宋 ( そう ) の国のある金持ちの家で、ある日、雨のため土塀がくずれた。  子供が「このままにしておくと、泥棒が入るよ」と言い、隣家の主人も同じことを言った。  その夜泥棒が入って大金を盗まれた金持ちは、息子の 聡明 ( そうめい ) さに感心する一方、隣家の主人を疑った。 05_不可解な命令をあえて出し臣下を動揺させて試す   楚 ( そ ) の 荘王 《 しょうおう 》 は即位して三年のあいだ、命令を出さず、昼も夜も楽しみにふけり、「諫める者は死罪とする」と国中にふれを出した。   伍挙 ( ごきょ ) が諫めるために参内した。荘王は左に鄭の姫を抱き、右に越の女を抱いて、鐘と太鼓に囲まれて座っていた。  伍挙が言った、「謎かけをいたしましょう。丘の上に一羽の鳥がおります。三年の間飛びもしなければ鳴きもしません。何の鳥でございましょうか」  王が答えた、「三年も飛ばないのだ。飛べば天まで届こう。三年も鳴かぬのだ、鳴けば人々を驚かそう。伍挙よ、下がれ、わしにはわかっておる」と。  それから数ヶ月、王の 放埒 ( ほうらつ ) はますますひどくなった。そこで大夫の 蘇従 ( そしょう ) が諫めに参内した。  王が言った、「そちは命令を聞かなかったのか」  「この身が殺されることで、王様にお分かりいただければ、本望でございます」  王は放埒をやめると、政務を取り始めた。  三年間観察し続けた結果に基づいて、数百人を誅殺し、数百人を昇進させた。伍挙と蘇従に国政を任せ、楚の人々は大いに喜んだ。 06_知らないふりして質問し相手の知識や考えを観察する   韓 ( かん ) の 昭侯 ( しょうこう ) は 爪 ( つめ ) を切り、その一つを手の中に隠しておいて、「爪が一つなくなった。早く探せ」。と、そばの役人たちをせきたてた。  すると、ひとりが自分の爪を切って、「見つかりた」と、差し出した。  昭侯は、こうして役人の中からウソつきを見つけた。   子之 ( しし ) は 燕 ( えん ) の宰相であった。  あるとき、家の中に 坐 ( すわ ) ったまま、まわりの者たちをたぶらかしてこう訊いた。  「いま門から外に走っていったのは、白馬ではなかったか」。  「見えませんでした」。  と、みな答えたが、一人だけ、走って追いかけた。  帰ってくると、「白馬でした」と、報告した。  子之は、こうして役人の中から不誠実な者を見つけ出した。 07_思っているのと逆のことを言って相手の反応を見る  昔、 鄭 ( てい ) の 武 ( ぶ ) 公が 胡 ( こ ) を征伐しようとしたときの。  武公はまず自分の娘を胡の王に嫁入りさせ、機嫌をとっておいて、家来に尋ねた。  「これから、どこか国を攻めようと思うが、どの国がいいだろう?」   大夫 ( たいふ ) の 関其思 ( かんきし ) が答えた。  「胡を攻めるのがよろしいかと存じます」。  武公は怒り、「胡は親類の国ではないか、それを攻めろとは何事だ」と言い、関其思を死刑にした。  それを伝え聞いた胡の王が安心して鄭への備えを解いたので、鄭は胡を攻め取ることができた。 ⦅余談[韓非]に続く⦆
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geniusbeach · 6 years
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香川旅行記
 ゴールデンウィーク後半を使って香川を旅行した。計画したのは出発前日の夜中で、今回のテーマはうどん巡りと温泉だ。私は昨年末に二泊三日で高松、琴平、直島、豊島を巡り、うどん7杯を食べて大満足で帰ったのだが、以来香川のことが忘れられず、また行きたいと思っていたところだった。
 1日目(5月2日)
 午前4時という、朝がひどく苦手な私にとっては信じがたい時刻に友人の車で出発。9時ごろ善通寺に到着し、食べログ一位のうどん屋、長田 in 香の香へ。巨大な駐車場と50mにも及ぶ行列を目の前にして一軒目ながら若干ひるむ。待ち時間を使って宿探しをするも、さすがGWだけあってどこも満室。無計画な私たちも悪いが、10軒ほど電話して空いていたのは一室のみだった。しかし結局宿泊料があまりにも高かったため断念し、並んでいた他のお客さんに健康ランドに泊まれることを教えてもらったので、最悪の場合そこにすることに。一時間弱待った後入店し、釜揚げ大と冷やし大を一杯ずつ注文。各1.5玉で350円だ。つゆはいりことかつおのダシがよく利いており、もちもちの麺からは小麦の香りが強く感じられたいそう美味かった。皆うどんだけ食べてさっさと出るおかげで回転率がかなり良く、11時ごろには食べ終えることができた。
 続いて二軒目のはなや食堂へ。地元に愛されるおばあちゃんのお店といった印象。冷やしとタコ天を注文。うどんは200円、天ぷらは300円と安い。小ぶりなタコを丸々一匹揚げた天ぷらは衣が黄色くふわふわの食感。うどんも無論美味い。食後に宿探しを再開し、栗林公園近くのところに電話するとあっさりOKが出た。電話口の主人の対応が少し気になったが、一人一泊2600円、ガッツポーズだ。せんべい布団でも座布団でも部屋でゆっくり寝られるだけありがたいので、即座に予約した。
 腹ごなしがてら金蔵寺(こんぞうじ)を覗く。お遍路さんが多くおり、皆お堂の前で一心に真言を唱えていた。友人曰く「水曜どうでしょう」に出ていた寺とのことで、ファンである彼の記念写真を撮った。ここに至るまでの道端の電柱には、八十八か所巡りの巡礼者を図案化した標識があった。小さなところにご当地感があってほんわかした。
 次はこんぴらさんにお参りすることに。 暖かくなったのと休暇も重なったことで人がごった返している。登り口にあるアカボシコーヒーで一服してからほぼ休みなしで駆け上がる。中腹では神馬2頭を見た。その隣には大型船のスクリュー(直径6m)とアフリカ象の像があった。前者は94年に今治造船が奉納したそう(今治造船HPより)で、当社が海の神を祀っていることやお座敷遊びのこんぴらふねふねでお馴染みの金比羅船に因むことが予想できたが、後者の意図はわからず、奉納品であれば何でも良いのかと思った。関連するとすれば、この山の名が象頭山であることぐらいか。
 程なくして本宮へ到着し、参拝の列に並ぶ。普段神社で手を合わせる時は何も祈らないようにしているが、今年に入ってからずっと精神が低調なままので、久しぶりに願をかけてみた。神様はこういう時の心のよりどころなのでありがたい。どうか届きますように。今回は、前回その存在を知らなかった奥社まで行こうとしていたが、道が閉鎖されていたためあえなく断念、またまた次回への持ち越しとなった。さて、全785段の石段往復は少々足に応え、途中で石段籠を見かけた時には思わず乗せてくれと言いそうになるくらいだったが、良い運動になったと思えば悪くはない。籠は参拝客の会話によれば片道3000円程だそうだ。乗っていたのはお婆さん、担いでいたのはお爺さんだった。
 麓に下りてから、こんぴらうどん参道店でとり天ぶっかけを食べる。一杯690円だ。二人とも腹が限界で、なぜここまでしてうどんを食べているのかわからなくなっていた。最早それはこの旅のテーマとして設定したうどん巡りの義務感からでしかなかったと言える。満腹中枢が刺激される前に片付けねばならないと、タケル・コバヤシ(※フードファイター)並みの速度でかき込んだ。とり天はジューシーで、麺にはコシがあって美味かったが、胃の圧迫で心臓が止まりそうになり、「うどん死(デス)」という言葉が頭をよぎった。
 疲労が甚だしかったため、喫茶店でまたも一服。琴平駅周辺には、「カキ三(さん)コーヒー使用」を看板に掲げた店が多くあり、前回の旅行でもそのオタフクソースのパッケージのようなオレンジと黒の色合いに親近感を覚えつつずっと気になっていた。おそらくそのカキ三を使ったであろうアイスコーヒーで意識を保ちながら、風呂にでも入ってリフレッシュしようということに話がまとまり、近くにあったこんぴら温泉湯元八千代へ。屋上に市街が一望できる露天風呂があるのだ。塀が低く、少しでも浴場のへりに近づけば周囲からは丸見えとなる(といっても建物より標高が高い所からだけだが)ため、内心ヒヤヒヤしていたが、やはり最高に気持ち良かった。受付で混浴と聞いて下品な期待もしていたが、二人組の女の子が少し覗いて引き返していったくらいで、終始客は私たちだけであった。なお、内風呂はごく普通の湯船がひとつあるだけだった。
 体力をわずかばかり回復し、瀬戸内の眺望を求めて五色台を目指す。16時半頃、大崎山の展望台に到着し、青空から海へと沈む夕日を眺めた。なんとも雄大なパノラマだ。遠くを見やると、薄水色の瀬戸大橋があやとりの糸のような慎ましさで陸地を繋いでいる。カメラで何枚も写真を撮った。ふと、ここ数日間で覚えた個人的な悲しみに対して、目の前に開けた海は、その豊満な胸で以て私を迎え、倒れ掛かる身体を圧倒的な光景によって生に押し戻してくれているような気がした。そうして下を見れば、山と山に挟まれた湾内の湿地に、草の生い茂る田んぼのようなものが広がっていた。これは木沢塩田跡地といい、秋頃にはアッケシソウという好塩性植物が紅葉することで一帯が赤く染まるそうだ(大崎山園地の説明看板より)。一度そんな不思議な絵を見てみたいと思った。この日は風が非常に強かったため、目だけでなく全身で自然を感じられて嬉しかったが、そのせいで体が冷えたのと日没直前に雲がかかったため、18時半頃に引き上げた。
 高松市内中心部に車で乗り入れ、今宵の宿へ。見るからに怪しげな建物に三友荘という傾いた看板がかかっている。隣の広東料理屋の前に中華系とみられる男が3、4人たむろしており雰囲気が悪い。中に入ると、フロントというよりは雑然と物が置かれた生活スペースが大きく広がっており、その山の中から主人が顔を覗かせて、一言いらっしゃいと言った。それから、かなり雑な態度で駐車場を案内され、やべーところに来てしまった、と思う間もなく会計を済ませて鍵を受け取り3階へ。廊下は廊下で床がはがれていたり、アメニティが散乱していたりとさながらお化け屋敷に入ったような気分になる。部屋に入ると、これまた昭和から時間が止まっていると思われるほど古くカビ臭い和室で、その異様さに一瞬たじろいだ。とにかく寝られれば良いのだと割り切ることにして、外へ風呂に入りに行った。
 車を20分ほど走らせて向かったのは、市内中部にある仏生山温泉だ。前回も訪れて、その泉質と洗練された建築様式が気に入っていた。町の歴史が古いため、ここも昔からあるのかと思いきや、2005年開業と比較的新しい温泉らしい(仏生山温泉FBより)。入浴施設とは思えない白い箱のような建物入り口の外観が特徴だ。中に入ると、ドーンと奥行きのあるシンプルな休憩スペースがお出迎え。端には小洒落た物産品が並んでおり、また壁伝いには文庫本の古本が並べられている。客がひっきりなしに出入りし、脱衣場と浴場はまさに芋の子を洗うような状態であった。なんとか湯船の空いたスペースに身体を沈め、一日で溜まったとは思えないほどの疲れを癒す。とろりとした湯で肌がツルツルになり気持ちが良い。露天風呂のある広い空間は現代的な中庭といった印象で、入浴体験を一段上のものへ引き上げてくれる。インスタレーション的な、「空間そのものに浸かる」といった感じだろうか。内部はそのように隅まで配慮が行き届いており、とても面白く楽しめた。
 さっぱりした後、宿に車を停め、土地の名物である骨付鳥を食べるために歩いて片原町近くの居酒屋蘭丸へ。本当は一鶴という店に行きたかったのだが、長蛇の列を目の前にして断念、ここに並ぶこととした。小一時間ほど待って入店し、とりあえずビールと親鳥・若鳥、それから鰆のタタキ、造り4種盛り、サラダを注文、香川の味覚に舌鼓を打った。特に親鳥は肉がぶりんぶりんの食感で旨味が凝縮されている。スパイシーな和風ローストチキンといった感じで、下戸なのに否が応でもビールが進む。皿にはたっぷりと鶏油が溜まっているが、それにキャベツをつけて食べるとまた美味いのだ。この骨付鳥の他にうどんと言い今日の行程と言い、なかなか歯応えのある旅だと思った。最後に親鳥をもう一皿と焼酎水割り、注いだ先から凍る日本酒を追加し、11時半頃ほろ酔いで宿に戻った。部屋では撮った写真を整理した後、もう一杯酒を飲んでから眠りについた。夜通し風がごうごうと窓を揺らしていた。
2日目(5月3日)
 7時半、なぜか小学校の廊下でスーフィーの集団と象に追われるという夢を見て飛び起きた。昨日神馬の横で象の像を見たせいか。しかしスーフィーは全くわからない。2か月ほど前に蠱惑的なズィクル(※スーフィズムの修行)の動画を見たからなのか。とにかく旅にはふさわしくない目覚め方だ。最近何かに追われる夢をよく見るのだが、おそらく疲れているのだろう。今日もよく眠れなかったようだ。他の理由としては強風もそうだが、宿が高架下にあるため電車が通るたび振動で部屋が揺れるのだ。夜中と朝方に何度か覚醒した気がする。昨日20時間近く活動した身体は、子供騙しのような睡眠では回復しきれなかったようだ。
 さて、今日は9時出発の船に乗り、犬島へ渡る予定だ。重い身体を叩き起こし、さっさと準備を済ませて高松築港へ。船の時間が近づ��ている。車を停めてから本気ダッシュで駅のそばにあるうどん屋味庄へと向かうも定休日だったため、近くにあったさぬきうどんめりけんやに入る。待ち時間にやきもきしながら冷肉ぶっかけ小を注文。430円だ。しっかり美味い。ここでも前日のごとくモリモリ腹に押し込み約3分で退店。ひょろい男の異常な食いっぷりに他の客は少なからず引いていたことだろうが、そんなことには構っていられない。再度、悪心を催すほどの全力疾走でフェリーの切符売り場へ。出航3分前、なんとか間に合うことができた。やる時はやる男なのだ、私たちは。などという安堵感も束の間、ここで無情にも定員オーバーが告げられる。肩で息をしながら愕然とする私たち。あーやってもうた、としか言えず、無意識に抑え込んでいたであろう胃の中で暴れるうどんに気付き普通に吐きそうになる。ただ次の便でも行けることが判明したことで難を逃れた。そうでなければ危うく待合所の床にBUKKAKEするところであった(読者よごめん)。そんなこんなで泣く泣く次便のチケットを買い、待つ間しばしの休憩タイムとなった。負け惜しみを言わせてもらえば、朝の海を見ながら飲んだコーヒーと吸ったタバコは格別に美味かった。これも良い思い出だ。
 10時過ぎの便に乗り込み、豊島の唐櫃港に到着。レンタルサイクルを借り、次便の出航する家浦港まで急ぐ。豊島美術館に寄ろうとしたが、1時間待ちと聞きパスした。せっかくの機会にもかかわらず無念だ。前回は誰も客がいなかったというのに、やはりGWは恐ろしい。立ち漕ぎで先を急ぐ。山のてっぺんまではギアなしの自転車と寝不足のエンジンにはかなりきつい坂が続いたが、なんとか越えることができた。途中、唐櫃聖水という空海伝説もある井戸に沸く、不思議なほど青々とした水を拝んでから家浦へ。初便に乗ることができていればこのように複雑な乗り継ぎも必要なかったが、私の性格上致し方ない。人生はエクササイズだと考えれば万事ハッピーだ。そうして無事チケットを買い、物産品店を冷かす。豊島の民謡集に熱を感じ、買おうか迷って結局やめた。そしてしばらくして船に乗った。
 13時前に犬島着。昼飯に港すぐの在本商店にて犬島丼なるものを食べた。白飯に甘辛く煮た大根や人参とともに舌平目のミンチを乗せ、甘めの汁をかけた瀬戸内の家庭料理だ。これに舌平目のフライと犬島産テングサを使用したコーヒーゼリーが付いたセットで1000円。どれも田舎風の優しい味わいで満たされた。出てから他の店も覗いてみたが、どこもコーヒーゼリーを出していた。単にさっきの店のデザートというわけではなく、これもご当地グルメのひとつのようだ。
 そしてようやく楽しみにしていた犬島精練所美術館へ。ここはかつて銅の精錬を行っていた跡地で、美術館内部は入り口から出口まで一定方向に自然の風が流れるように設計されているという。詳細は省くが、三島由紀夫の作品がモチーフになっており、意表を突くような仕掛けが多く、かなり強烈な印象を受けた。しかしその中でも悔しかったのが、便器の枯山水と銅製の文字が文章となってぶら下がる部屋があったことだ。この二つは自分の内に展示のアイデアとして全くと言っていいほど同じものを密かに温めていたのに、こんなにも堂々かつ易々と先を越されていた。やはり所詮は人が考えること、どんなにオリジナリティを確信していたとしても結局は似てしまうのだ。しかしちゃんと形にした人はすごいし、その点素直にあっぱれと言いたい。やや興奮した状態のまま外に出て周辺を散策する。レンガ造りの廃墟にノスタルジーを感じ、その歴史を想像した。少し歩いて砂浜へ行き、海を眺める。風が強いので瀬戸内の海といえど波が高く荒れていた。夏に来て本来の穏やかさを取り戻した海を一度泳いでみたい。その後、定紋石や家プロジェクトという名のギャラリー数軒を見て回る。F邸にあった名和晃平「Biota (Fauna/Flora)」が個人的にグッと来た。発生は常に見えない、と私は詩に書いたことがあるが、言いたいことがそのまま形になっていた。2つの小部屋にはそれぞれ植物相と動物相のバイオモーフィックなモニュメントが数点あった。シンプルな発想ながらそこから湧き出す観念とイメージ喚起力の豊かさに驚かされた。創作において見習いたい点だ。
 船の時間が迫っていたため、港まで早歩きで向かった。全体的に時間の流れがゆるやかで静かな島であった。ここからは直島を経由して高松まで戻る。船内では景色も見ずに二人で眠りこけていた。直島に着くぞ、との声で飛び起き、本村港のチケット売り場へ猛然と走る。乗り継ぎ便が10分後に出るためだ。しかしここでも昨日と同じく定員オーバー、30分後に出る次便を待つこととなった。大型フェリーの前にはゆうに200mを超える列ができており、この島の人気の高さが伺える。そうして、ふと並んでいる時に自分のカバンが思ったより軽いことに気が付いた。はてなと思い中を探るとカメラがない。目の前が真っ白になった。置いてきたのは犬島か、船の中か、それとも盗られたか。考える間もなく、カメラ忘れた! と友人に叫びながら乗ってきた高速船乗り場へとダッシュした。出航していたらどうしようかと思ったが、一条の光が見えた。まだ停泊したままだったのだ。息も絶え絶えに駆け寄る私を見た人民服風の上下を着た船員が、カメラの忘れ物ですかあと声を上げる。良かった。あったのだ。すみませんでしたあ! と謝って相棒を受け取る。ほっと胸をなでおろした。どうやら寝ぼけて置き去りにしていたようだ。私は普段あまりものをなくさないので、こういう時必死に探して見つからなければひどく狼狽してしまう。特にカメラのような高価なものだとその後の旅に影響が出るほどだったのではないかと思う。今回は本当にラッキーだった。友人に詫びてから並び直し、島を後に。航行中は展望デッキからモノクロで日を撮った。夜のような昼の写真が撮れた。
 16時頃高松に着いた。後は帰るのみだ。最後にご飯を食べようということで、屋島を過ぎたところにあるうどん本陣山田屋本店へ。大きな屋敷を改築した店構えは壮観だ。本陣と名付くのは屋島の合戦ゆえか。前回の旅で、仏生山で終電を亡くした時に乗ったタクシーの運転手が、うどんならここらが本場だと言っていたため期待度が高まる。ざるぶっかけと上天丼を注文。うどんは570円、丼は720円だ。麺はもちもちとしており、良い塩梅にダシの利いたつゆと絡んですこぶる美味い。天丼にはサクサクの天ぷらがこれでもかと乗っており、ご飯が足りないほどだ。今流行りのロカボの逆を行く、ハイカーボダイエットにより思考が停止するほどの満腹感が得られた。これでコシの強いうどんともお別れかと思うと寂しい。京都の柔いうどんも薄味のダシがしみて美味いのだが、やはり一度讃岐のものを食べると物足りなく感じる。またすぐにでも来よう。次はざっくりと計画を立てて。それでは、さようなら香川。
 高速道路は予想通りところどころで渋滞が起こっていた。運転は最初から最後まで友人に任せっぱなしだったため大変な苦労を掛けた。ここに感謝したい。約5時間かけて京都に到着。0時半頃に岡崎で蛸安のたこ焼きを食べた。京都の味だ。ようやくカーボ地獄から抜け出すことができたと二人して喜んでいたが、よく考えなくともたこ焼きは炭水化物であった。うどんのオーバードーズのせいで腹だけでなく思考能力さえもやられてしまったようだ。喫茶店はなふさでマンデリンを飲み、旅費の精算をして解散となった。
 今回の旅も、弾丸(もはや散弾)にしてはうまくいった方ではないだろうか。休みに行ったのか疲れに行ったのかわからないが、気を紛らわすには最適な強行軍であった。うどんは5杯も食べられたし、その他のグルメも満喫できた。全ては偶然尽くしだったが、無計画だからこそ楽しめたものもある。私の場合は、ある程度見たいところを決めるだけで、そこに行っても行かなくても良いのだ。というよりはその方が楽だから、皆そうすればいいのにと思う。そこには予想もしない出会いがきっと多くあるはずだ。ただ、GWの人出を完全に舐めていたため、宿に関してだけは事前予約の必要性を痛感した。あと、食べ過ぎは単純に苦しいのであ���りおすすめない。今回の旅でもうしばらくうどんは結構だ。などと思いつつ、翌日の昼には冷凍うどんを食べていた。どうやら脳までうどんになっていたようだ。しかし季節はそろそろ梅雨(つゆ)に入るので、ある意味おあつらえ向きなのかもしれない。
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nyantria · 7 years
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* 秋元寿恵 東京帝大出身の血清学者     1984年12月の証言 部隊に着任して人体実験のことを知った時は非常にショックを受けました。 あそこにいた科学者たちで良心の呵責を感じている者はほとんどいませんでした。 彼らは囚人たちを動物のように扱っていました。 ・・・・死にゆく過程で医学の発展に貢献できるなら名誉の死となると考えていたわけです。 私の仕事には人体実験は関係していませんでしたが、私は恐れおののいてしまいました。 私は所属部の部長である菊地少将に3回も4回も辞表を出しました。 しかしあそこから抜け出すことは出来ませんでした。 もし出て行こうとするならば秘かに処刑されると脅されました。 * 鎌田信雄 731部隊少年隊 1923年生      1995年10月 証言 私は石井部隊長の発案で集められた「まぼろしの少年隊1期生」でした。 注: 正式な1期から4期まではこの後に組織された 総勢22~23人だったと思います。 平房の本部では朝8時から午後2時までぶっ通しで一般教養、外国語、衛生学などを勉強させられ、 3時間しか寝られないほどでした。 午後は隊員の助手をやりました。 2年半の教育が終ったときは、昭和14年7月でした。 その後、ある細菌増殖を研究する班に所属しました。 平房からハルビンに中国語を習いに行きましたが、その時白華寮(731部隊の秘密連絡所)に立ち寄りました ・・・・200部隊(731部隊の支隊・馬疫研究所)では、実験用のネズミを30万匹買い付けました。 ハルビン市北方の郊外に毒ガス実験場が何ケ所かあって、 安達実験場の隣に山を背景にした実験場があり、そこでの生体実験に立ち合ったことがあります。 安達には2回行ったことがありますが、1~2日おきに何らかの実験をしていました。 20~30人のマルタが木柱に後手に縛られていて、毒ガスボンベの栓が開きました。 その日は関東軍のお偉方がたくさん視察に来ていました。 竹田宮(天皇の従兄弟)も来ていました。 気象班が1週間以上も前から風向きや天候を調べていて大丈夫だということでしたが、 風向きが変わり、ガスがこちら側に流れてきて、あわてて逃げたこともあります ・・・・ホルマリン漬けの人体標本もたくさんつくりました。 全身のものもあれば頭や手足だけ、内臓などおびただしい数の標本が並べてありました。 初めてその部屋に入ったときには気持ちが悪くなって、何日か食事もできないほどでした。 しかし、すぐに慣れてしまいましたが、赤ん坊や子供の標本もありました ・・・・全身標本にはマルタの国籍、性別、年齢、死亡日時が書いてありましたが、 名前は書いてありませんでした。 中国人、ロシア人、朝鮮族の他にイギリス人、アメリカ人、フランス人と書いてあるのもありました。 これはここで解剖されたのか、他の支部から送られてきたものなのかはわかりません。 ヨーロッパでガラス細工の勉強をして来た人がピペットやシャ-レを造っていて、 ホルマリン漬けをいれるコルペもつくっていました。 731部隊には、子どももいました。 私は屋上から何度も、中庭で足かせをはめられたままで運動している“マルタ”を見たことがあります。 1939年の春頃のことだったと思いますが、3組の母子の“マルタ”を見ました。 1組は中国人の女が女の赤ちゃんを抱いていました。 もう1組は白系ロシア人の女と、4~5歳の女の子、 そしてもう1組は、これも白系ロシアの女で,6~7歳の男の子がそばにいました ・・・・見学という形で解剖に立ち合ったことがあります。 解剖後に取り出した内臓を入れた血だらけのバケツを運ぶなどの仕事を手伝いました。 それを経験してから1度だけでしたが、メスを持たされたことがありました。 “マルタ”の首の喉ぼとけの下からまっすぐに下にメスを入れて胸を開くのです。 これは簡単なのでだれにでもできるためやらされたのですが、 それからは解剖専門の人が細かくメスを入れていきました。 正確なデータを得るためには、できるだけ“マルタ”を普通の状態で解剖するのが望ましいわけです。 通常はクロロホルムなどの麻酔で眠らせておいてから解剖するのですが、 このときは麻酔をかけないで意識がはっきりしているマルタの手足を解剖台に縛りつけて、 意識がはっきりしているままの“マルタ”を解剖しました。 はじめは凄まじい悲鳴をあげたのですが、すぐに声はしなくなりました。 臓器を取り出して、色や重さなど、健康状態のものと比較し検定した後に、それも標本にしたのです。 他の班では、コレラ菌やチフス菌をスイカや麦の種子に植えつけて栽培し、 どのくらい毒性が残るかを研究していたところもあります。 菌に侵された種を敵地に撒くための研究だと聞きました。 片道分の燃料しか積まずに敵に体当りして死んだ特攻隊員は、天皇から頂く恩賜の酒を飲んで出撃しました。 731部隊のある人から、「あの酒には覚醒剤が入っており、部隊で開発したものだ」と聞きました ・・・・部隊には,入れかわり立ちかわり日本全国から医者の先生方がやってきて、 自分たちが研究したり、部隊の研究の指導をしたりしていました。 今の岩手医大の学長を勤めたこともある医者も、細菌学の研究のために部隊にきていました。 チフス、コレラ、赤痢などの研究では日本でも屈指の人物です。 私が解剖学を教わった石川太刀雄丸先生は、戦後金沢大学医学部の主任教授になった人物です。 チフス菌とかコレラ菌とかを低空を飛ぶ飛行機からばらまくのが「雨下」という実験でした。 航空班の人と、その細菌を扱うことができる者が飛行機に乗り込んで、村など人のいるところへ細菌をまきます。 その後どのような効果があったか調査に入りました。 ペスト菌は、ノミを介しているので陶器爆弾を使いました。 当初は陶器爆弾ではなく、ガラス爆弾が使われましたが、ガラスはだめでした。 ・・・・ペストに感染したネズミ1匹にノミを600グラム、だいたい3000~6000匹たからせて落とすと、 ノミが地上に散らばるというやり方です ・・・・ベトナム戦争で使った枯葉剤の主剤は、ダイオキシンです。 もちろん731部隊でもダイオキシンの基礎研究をやっていました。 アメリカは、この研究成果をもって行って使いました。 朝鮮戦争のときは石井部隊の医師達が朝鮮に行って、 この効果などを調べているのですが、このことは絶対に誰も話さないと思います。 アメリカが朝鮮で細菌兵器を使って自分の軍隊を防衛できなくなると困るので連れて行ったのです。 1940年に新京でペストが大流行したことがありました。(注:731部隊がやったと言われている) ・・・・そのとき隊長の命令で、ペストで死んで埋められていた死体を掘り出して、 肺や肝臓などを取り出して標本にし、本部に持って帰ったこともありました。 各車両部隊から使役に来ていた人たちに掘らせ、メスで死体の胸を割って 肺、肝臓、腎臓をとってシャ-レの培地に塗る、 明らかにペストにかかっているとわかる死体の臓器をまるまる持っていったこともあります。 私にとっては、これが1番いやなことでした。人の墓をあばくのですから・・・・ * 匿名 731部隊少佐 薬学専門家 1981年11月27日 毎日新聞に掲載されたインタビュ-から 昭和17年4月、731と516両部隊がソ満国境近くの都市ハイラル郊外の草原で3日間、合同実験をした。 「丸太」と呼ばれた囚人約100人が使われ、4つのトーチカに1回2,3人ずつが入れられた。 防毒マスクの将校が、液体青酸をびんに詰めた「茶びん」と呼ぶ毒ガス弾をトーチカ内に投げ、 窒息性ガスのホスゲンをボンベから放射した。 「丸太」にはあらかじめ心臓の動きや脈拍を見るため体にコードをつけ、 約50メ-トル離れた机の上に置いた心電図の計器などで、「死に至る体の変化」を記録した。 死が確認されると将校たちは、毒ガス残留を調べる試験紙を手にトーチカに近づき、死体を引きずり出した。 1回の実験で死ななかった者にはもう1回実験を繰り返し、全員を殺した。 死体はすべて近くに張ったテントの中で解剖した。 「丸太」の中に68歳の中国人の男性がいた。 この人は731部隊内でペスト菌を注射されたが、死ななかったので毒ガス実験に連れて来られた。 ホスゲンを浴びせても死なず、ある軍医が血管に空気を注射した。 すぐに死ぬと思われたが、死なないのでかなり太い注射器でさらに空気を入れた。 それでも生き続け、最後は木に首を吊って殺した。 この人の死体を解剖すると、内臓が若者のようだったので、軍医たちが驚きの声を上げたのを覚えている。 昭和17年当時、部隊の監獄に白系ロシア人の婦人5人がいた。 佐官級の陸軍技師(吉村寿人?)は箱状の冷凍装置の中に彼女等の手を突っ込ませ、 マイナス10度から同70度まで順々に温度を下げ、凍傷になっていく状況を調べた。 婦人たちの手は肉が落ち、骨が見えた。 婦人の1人は監獄内で子供を産んだが、その子もこの実験に使われた。 その後しばらくして監獄をのぞいたが、5人の婦人と子供の姿は見えなくなっていた。 死んだのだと思う。 * 山内豊紀  証言  1951年11月4日   中国档案館他編「人体実験」 われわれ研究室の小窓から、寒い冬の日に実験を受けている人がみえた。 吉村博士は6名の中国人に一定の負荷を背負わせ、一定の時間内に一定の距離を往復させ、 どんなに寒くても夏服しか着用させなかった。 みていると彼らは日ましに痩せ衰え、徐々に凍傷に冒されて、一人ひとり減っていった。 * 秦正  自筆供述書   1954年9月7日  中国档案館他編「人体実験」 私はこの文献にもとづいて第一部吉村技師をそそのかし、残酷な実験を行わせた。 1944年冬、彼は出産まもないソ連人女性愛国者に対して凍傷実験を行った。 まず手の指を水槽に浸してから、外に連れだして寒気の中にさらし、激痛から組織凍傷にまでいたらしめた。 これは凍傷病態生理学の実験で、その上で様々な温度の温水を使って「治療」を施した。 日を改めてこれをくり返し実施した結果、その指はとうとう壊死して脱落してしまった。 (このことは、冬期凍傷における手指の具体的な変化の様子を描くよう命じられた画家から聞いた) その他、ソ連人青年1名も同様の実験に使われた。 *上田弥太郎 供述書  731部隊の研究者   1953年11月11日  中国档案館他編「人体実験」 1943年4月上旬、7・8号棟で体温を測っていたとき中国人の叫び声が聞こえたので、すぐに見に行った。 すると、警備班員2名、凍傷班員3名が、氷水を入れた桶に1人の中国人の手を浸し、 一定の時間が経過してから取り出した手を、こんどは小型扇風機の風にあてていて、 被実験者は痛みで床に倒れて叫び声をあげていた。 残酷な凍傷実験を行っていたのである。 * 上田弥太郎   731部隊の研究者 中国人民抗日戦争記念館所蔵の証言 ・・・・すでに立ち上がることさえできない彼の足には、依然として重い足かせがくいこんで、 足を動かすたびにチャラチャラと鈍い鉄の触れ合う音をたてる ・・・・外では拳銃をぶら下げたものものしい警備員が監視の目をひからせており、警備司令も覗いている。 しかし誰一人としてこの断末魔の叫びを気にとめようともしない。 こうしたことは毎日の出来事であり、別に珍しいものではない。 警備員は、ただこの中にいる200名くらいの中国人が素直に殺されること、 殺されるのに反抗しないこと、よりよきモルモット代用となることを監視すればよいのだ ・・・・ここに押し込められている人々は、すでに人間として何一つ権利がない。 彼らはこの中に入れば、その名前はアラビア数字の番号とマルタという名前に変わるのだ。 私たちはマルタ何本と呼んでいる。 そのマルタOOO号、彼がいつどこからどのようにしてここに来たかはわからない。 * 篠塚良雄     731部隊少年隊   1923年生    1994年10月証言から ・・・・1939年4月1日、「陸軍軍医学校防疫研究室に集まれ」という指示を受けました ・・・・5月12日中国の平房に転属になりました ・・・・731部隊本部に着いて、まず目に入ったのは 「関東軍司令官の許可なき者は何人といえども立入りを禁ず」と書かれた立て看板でした。 建物の回りには壕が掘られ鉄条網が張り巡らされていました。 「夜になると高圧電流が流されるから気をつけろ」という注意が与えられました ・・・・当時私は16歳でした。 私たちに教育が開始されました・・・・ 「ここは特別軍事地域に指定されており、日本軍の飛行機であってもこの上空を飛ぶことはできない。 見るな、聞くな、言うな、これが部隊の鉄則だ」というようなことも言われました。・・・・ 「防疫給水部は第1線部隊に跟随し、主として浄水を補給し直接戦力の保持増進を量り、 併せて防疫防毒を実施するを任務とする」と強調されました ・・・・石井式衛生濾水機は甲乙丙丁と車載用、駄載用、携帯用と分類されていました ・・・・濾過管は硅藻土と澱粉を混ぜて焼いたもので“ミクロコックス”と言われていました ・・・・細菌の中で1番小さいものも通さないほど性能がいいと聞きました ・・・・私は最初は動物を殺すことさえ直視できませんでした。 ウサギなどの動物に硝酸ストリキニ-ネとか青酸カリなどの毒物を注射して痙攣するのを直視させられました。 「目をつぶるな!」と言われ、もし目をつぶれば鞭が飛んでくるのです ・・・・私に命じられたのは、細菌を培養するときに使う菌株、 通称“スタム”を研究室に取りに行き運搬する仕事でした。 江島班では赤痢菌、田部井班ではチフス菌、瀬戸川班ではコレラ菌と言うように それぞれ専門の細菌研究が進められていました ・・・・生産する場所はロ号棟の1階にありました。 大型の高圧滅菌機器が20基ありました ・・・・1回に1トンの培地を溶解する溶解釜が4基ありました ・・・・細菌の大量生産で使われていたのが石井式培養缶です。 この培養缶1つで何10グラムという細菌を作ることができました。 ノモンハンのときには1日300缶を培養したことは間違いありません ・・・・ここの設備をフル稼働させますと、1日1000缶の石井式培養缶を操作する事が出来ました。 1缶何10グラムですから膨大な細菌を作ることができたわけです ・・・・1940年にはノミの増殖に動員されました ・・・・ペストの感受性の一番強い動物はネズミと人間のようです。 ペストが流行するときにはその前に必ず多くのネズミが死ぬと言うことでした。 まずネズミにペスト菌を注射して感染させる。 これにノミをたからせて低空飛行の飛行機から落とす。 そうするとネズミは死にますが、 ノミは体温の冷えた動物からはすぐに離れる習性を持っているので、今度は人間につく。 おそらくこういう形で流行させたのであろうと思います ・・・・柄沢班でも、生体実験、生体解剖を毒力試験の名のもとに行ないました ・・・・私は5名の方を殺害いたしました。 5名の方々に対してそれぞれの方法でペストのワクチンを注射し、 あるいはワクチンを注射しないで、それぞれの反応を見ました。 ワクチンを注射しない方が1番早く発病しました。 その方はインテリ風��頭脳明晰といった感じの方でした。 睨みつけられると目を伏せる以外に方法がありませんでした。 ペストの進行にしたがって、真黒な顔、体になっていきました。 まだ息はありましたが、特別班の班員によって裸のまま解剖室に運ばれました ・・・・2ケ月足らずの間に5名の方を殺害しました。 特別班の班員はこの殺害したひとたちを、灰も残らないように焼却炉で焼いたわけであります。     注:ノモンハン事件 1939年5月11日、満州国とモンゴルの国境付近のノモンハンで、日本側はソ連軍に攻撃を仕掛けた。 ハルハ河事件とも言う。 4ケ月続いたこの戦いは圧倒的な戦力のソ連軍に日本軍は歯が立たず、 約17,000人の死者を出した。 ヒットラ-のポーランド侵攻で停戦となった。 あまりにみっともない負け方に日本軍部は長い間ノモンハン事件を秘密にしていた。 731部隊は秘密で参加し、ハルハ河、ホルステイン河に赤痢菌、腸チフス菌、パラチフス菌を流した。 参加者は、隊長碇常重軍医少佐、草味正夫薬剤少佐、作山元治軍医大尉、 瀬戸尚二軍医大尉、清水富士夫軍医大尉、その他合計22名だった。 (注:ハバロフスクの裁判記録に証言があります) * 鶴田兼敏  731部隊少年隊  1921年生 1994年731部隊展の報告書から 入隊は1938年11月13日でしたが、まだそのときは平房の部隊建物は建設中でした ・・・・下を見ますと“マルタ”が収容されている監獄の7、8棟の中庭に、 麻袋をかぶった3~4人の人が輪になって歩いているのです。 不思議に思い、班長に「あれは何だ?」と聞いたら、「“マルタ”だ」と言います。 しかし私には“マルタ”という意味がわかりません。 するとマルタとは死刑囚だと言うんです。 軍の部隊になぜ死刑囚がいるのかと疑問に思いましたが、 「今見たことはみんな忘れてしまえ!」と言われました・・・・ 基礎教育の後私が入ったのは昆虫班でした。 そこでは蚊、ノミ、ハエなどあらゆる昆虫、害虫を飼育していました。 ノミを飼うためには、18リットル入りのブリキの缶の中に、半分ぐらいまでおが屑を入れ、 その中にノミの餌にするおとなしい白ネズミを籠の中に入れて固定するんです。 そうするとたいてい3日目の朝には、ノミに血を吸い尽くされてネズミは死んでいます。 死んだらまた新しいネズミに取りかえるのです。 一定の期間が過ぎると、缶の中のノミを集めます。 ノミの採取は月に1,2度行なっていました ・・・・ノモンハン事件の時、夜中に突然集合がかかったのです ・・・・ホルステイン川のほとりへ連れていかれたのです。 「今からある容器を下ろすから、蓋を開けて河の中に流せ」と命令されました。 私たちは言われたままに作業をしました ・・・・基地に帰ってくると、石炭酸水という消毒液を頭から足の先までかけられました。 「何かやばいことをやったのかなあ。いったい、何を流したのだろうか」という疑問を持ちました ・・・・後で一緒に作業した内務班長だった衛生軍曹はチフスで死んだことを聞き、 あの時河に流したのはチフス菌だったとわかったわけです ・・・・いまだに頭に残っているものがあります。 部隊本部の2階に標本室があったのですが、 その部屋でペストで殺された“マルタ”の生首がホルマリンの瓶の中に浮いているのを見たことです。 中国人の男性でした。 また1,2歳の幼児が天然痘で殺されて、丸ごとホルマリンの中に浮いているのも見ました。 それもやはり中国人でした。 今もそれが目に焼きついて離れません。 * 小笠原 明  731部隊少年隊 1928年生れ  1993~94年の証言から ・・・・部隊本部棟2階の部隊長室近くの標本室の掃除を命じられました ・・・・ドアを開けたところに、生首の標本がありました。 それを見た瞬間、胸がつまって吐き気を催すような気持になって目をつぶりました。 標本室の中の生首は「ロスケ(ロシア人)」の首だと思いました。 すぐ横の方に破傷風の細菌によって死んだ人の標本がありました。 全身が標本となっていました。 またその横にはガス壊疽の標本があり、太ももから下を切り落としてありました。 これはもう生首以上にむごたらしい、表現できないほどすごい標本でした。 拭き掃除をして奥の方に行けば、こんどは消化器系統の病気の赤痢、腸チフス、コレラといったもので 死んだ人を病理解剖した標本がたくさん並べてありました ・・・・田中大尉の部屋には病歴表というカードがおいてあって、人体図が描いてあって、 どこにペストノミがついてどのようになったか詳しく記録されていました。 人名も書いてありました。 このカードはだいたい5日から10日以内で名前が変ります。 田中班ではペストの人体実験をして数日で死んだからです ・・・・田中班と本部の研究室の間には人体焼却炉があって毎日黒い煙が出ておりました ・・・・私は人の血、つまり“マルタ”の血を毎日2000から3000CC受取ってノミを育てる研究をしました ・・・・陶器製の爆弾に細菌やノミやネズミを詰込んで投下実験を何回も行ないました ・・・・8月9日のソ連の参戦で証拠隠滅のためにマルタは全員毒ガスで殺しました。 10日位には殺したマルタを中庭に掘った穴にどんどん積み重ねて焼きました。 * 千田英男 1917年生れ  731部隊教育隊  1974年証言 ・・・・「今日のマルタは何番・・・・何番・・・・何番・・・・以上10本頼む」 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付けられていた ・・・・中庭の中央に2階建ての丸太の収容棟がある。 4周は3層の鉄筋コンクリ-ト造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。 つまり逃亡を防ぐ構造である。通称7,8棟と称していた・・・・ *石橋直方      研究助手 私は栄養失調の実験を見ました。 これは吉村技師の研究班がやっていたんだと思います。 この実験の目的は、人間が水と乾パンだけでどれだけ生きられるかを調べることだったろうと思われます。 これには2人のマルタが使われていました。 彼らは部隊の決められたコ-スを、20キログラム程度の砂袋を背負わされて絶えず歩き回っていました。 1人は先に倒れて、2人とも結局死にました。 食べるものは軍隊で支給される乾パンだけ、飲むのは水だけでしたからね、 そんなに長いこと生きられるはずがありません。 *越定男    第731部隊第3部本部付運搬班 1993年10月10日、山口俊明氏のインタビュ- -東条首相も視察に来た 本部に隣接していた専用飛行場には、友軍機と言えども着陸を許されず、 東京からの客は新京(長春)の飛行場から平房までは列車でした。 しかし東条らの飛行機は専用飛行場に降りましたのでよく覚えています。 -マルタの輸送について ・・・・最初は第3部長の送り迎え、、郵便物の輸送、通学バスの運転などでしたが、 間もなく隊長車の運転、マルタを運ぶ特別車の運転をするようになりました。 マルタは、ハルピンの憲兵隊本部、特務機関、ハルピン駅ホ-ムの端にあった憲兵隊詰所、 それに領事館の4ケ所で受領し4.5トンのアメリカ製ダッジ・ブラザ-スに積んで運びました。 日本領事館の地下室に手錠をかけたマルタを何人もブチ込んでいたんですからね。 最初は驚きましたよ。マルタは特別班が管理し、本部のロ号棟に収容していました。 ここで彼らは鉄製の足かせをはめられ、手錠は外せるようになっていたものの、 足かせはリベットを潰されてしまい、死ぬまで外せなかった。 いや死んでからも外されることはなかったんです。 足かせのリベットを潰された時のマルタの心境を思うと、やりきれません。 -ブリキ製の詰襟 私はそんなマルタを度々、平房から約260キロ離れた安達の牢獄や人体実験場へ運びました。 安達人体実験場ではマルタを十字の木にしばりつけ、 彼らの頭上に、超低空の飛行機からペスト菌やコレラ菌を何度も何度も散布したのです。 マルタに効率よく細菌を吸い込ませるため、マルタの首にブリキで作った詰襟を巻き、 頭を下げるとブリキが首に食い込む仕掛けになっていましたから、 マルタは頭を上に向けて呼吸せざるを得なかったのです。 むごい実験でした。 -頻繁に行われた毒ガス実験 731部隊で最も多く行われた実験は毒ガス実験だったと思います。 実験場は専用飛行場のはずれにあり、四方を高い塀で囲まれていました。 その中に外から視察できるようにしたガラス壁のチャンバ-があり、 観察器材が台車に乗せられてチャンバ-の中に送り込まれました。 使用された毒ガスはイペリットや青酸ガス、一酸化炭素ガスなど様々でした。 マルタが送り込まれ、毒ガスが噴射されると、 10人ぐらいの観察員がドイツ製の映写機を回したり、ライカで撮影したり、 時間を計ったり、記録をとったりしていました。 マルタの表情は刻々と変わり、泡を噴き出したり、喀血する者もいましたが、 観察員は冷静にそれぞれの仕事をこなしていました。 私はこの実験室へマルタを運び、私が実験に立ち会った回数だけでも年間百回ぐらいありましたから、 毒ガス実験は頻繁に行われていたとみて間違いないでしょう。 -逃げまどうマルタを あれは昭和19年のはじめ、凍土に雪が薄く積もっていた頃、ペスト弾をマルタに撃ち込む実験の日でした。 この実験は囚人40人を円状に並べ、円の中央からペスト菌の詰まった細菌弾を撃ち込み、 感染具合をみるものですが、私たちはそこから約3キロ離れた所から双眼鏡をのぞいて、 爆発の瞬間を待っていました。その時でした。 1人のマルタが繩をほどき、マルタ全員を助け、彼らは一斉に逃げ出したのです。 驚いた憲兵が私のところへ素っ飛んで来て、「車で潰せ」と叫びました。 私は無我夢中で車を飛ばし、マルタを追いかけ、 足かせを引きずりながら逃げまどうマルタを1人ひとり潰しました。 豚は車でひいてもなかなか死にませんが、人間は案外もろく、直ぐに死にました。 残忍な行為でしたが、その時の私は1人でも逃がすと中国やソ連に731部隊のことがバレてしまって、 我々が殺される、という思いだけしかありませんでした。 -囚人は全員殺された 731部隊の上層部は日本軍の敗戦をいち早く察知していたようで、敗戦数ヶ月前に脱走した憲兵もいました。 戦局はいよいよ破局を迎え、ソ連軍が押し寄せてきているとの情報が伝わる中、 石井隊長は8月11日、隊員に最後の演説を行い、 「731の秘密は墓場まで持っていけ。 機密を漏らした者がいれば、この石井が最後まで追いかける」と脅迫し、部隊は撤収作業に入りました。 撤収作業で緊急を要したのはマルタの処理でした。 大半は毒ガスで殺されたようですが、1人残らず殺されました。 私たちは死体の処理を命じられ、死体に薪と重油かけて燃やし、骨はカマスに入れました。 私はそのカマスをスンガリ(松花江)に運んで捨てました。 被害者は全員死んで証言はありませんが、部隊で働いていた中国人の証言があります。 *傳景奇  ハルピン市香坊区     1952年11月15日 証言 私は今年33歳です。 19歳から労工として「第731部隊」で働きました。 班長が石井三郎という石井班で、ネズミ籠の世話とか他の雑用を8・15までやっていました。 私が見た日本人の罪悪事実は以下の数件あります。 1 19歳で工場に着いたばかりの時は秋で「ロ号棟」の中で   いくつかの器械が血をかき混ぜているのを見ました。   当時私は若く中に入って仕事をやらされました。日本人が目の前にいなかったのでこっそり見ました。 2 19歳の春、第一倉庫で薬箱を並べていたとき不注意から箱がひっくりかえって壊れました。   煙が一筋立ち上がり、我々年少者は煙に巻かれ気が遠くなり、   涙も流れ、くしゃみで息も出来ませんでした。 3 21歳の年、日本人がロバ4頭を程子溝の棒杭に繋ぐと、 しばらくして飛行機からビ-ル壜のような物が4本落ちてきた。 壜は黒煙をはき、4頭のロバのうち3頭を殺してしまったのを見ました。 4 22歳の時のある日、日本人が昼飯を食べに帰ったとき、 私は第一倉庫に入り西側の部屋に死体がならべてあるのを見ました。 5 康徳11年(1944年)陰暦9月錦州から来た1200人以上の労工が 工藤の命令で日本人の兵隊に冷水をかけられ、半分以上が凍死しました。 6 工場内で仕事をしているとき動物の血を採っているのを見たし、私も何回か採られました *関成貴  ハルピン市香坊区  1952年11月4日 証言 私は三家子に住んで40年以上になります。 満州国康徳3年(1936年)から第731部隊で御者をして賃金をもらい生活を支えていました。 康徳5年から私は「ロ号棟」後ろの「16棟」房舎で 日本人が馬、ラクダ、ロバ、兎、ネズミ(畑栗鼠とシロネズミ)、モルモット、 それにサル等の動物の血を注射器で採って、 何に使��のかわかりませんでしたが、 その血を「ロ号棟」の中に運んでいくのを毎日見るようになりました。 その後康徳5年6月のある日私が煉瓦を馬車に載せて「ロ号棟」入り口でおろし、 ちょうど数を勘定していると銃剣を持った日本兵が何名か現れ、 馬車で煉瓦を運んでいた中国人を土壁の外に押し出した。 しかし私は間に合わなかったので煉瓦の山の隙間に隠れていると しばらくして幌をつけた大型の自動車が10台やってきて建物の入り口に停まりました。 この時私はこっそり見たのですが、日本人は「ロ号棟」の中から毛布で体をくるみ、 足だけが見えている人間を担架に乗せて車に運びました。 1台10人くらい積み込める車に10台とも全部積み終わり、 自動車が走り去ってから私たちはやっと外に出られました。 ほかに「ロ号棟」の大煙突から煙が吹き出る前には中国人をいつも外に出しました。 *羅壽山  証言日不明 ある日私は日本兵が通りから3人の商人をひっぱってきて 半死半生の目にあわせたのをどうすることもできず見ていました。 彼等は2人を「ロ号棟」の中に連れて行き、残った1人を軍用犬の小屋に放り込みました。 猛犬が生きた人間を食い殺すのを見ているしかなかったのです。
生体実験の証言 | おしえて!ゲンさん! ~分かると楽しい、分かると恐い~ http://www.oshietegensan.com/war-history/war-history_h/5899/
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bizenwakakusa · 2 years
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かやぶき屋根の工房へ、陽山居へ伺ってきました
かやぶき屋根の工房へ
    昨日は伊部へ。
伊勢崎創さんの工房へ伺ってきました。
  創さんの工房は昔ながらの茅葺屋根で
満先生が集められていた古備前も庭に置かれていて
とても雰囲気があります。
  少しですが備前焼のある風景を撮影してきましたのでお楽しみください。
  土塀には備前焼が
  古備前の甕
  火襷の土肌
  桃太郎と仲間たち
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“コレは私の友人『独楽』氏に送られて来た彼の友人の手記です 以下独楽氏の文面途中からそのまま転載します 届いたメールを公開しようと思う。 このポスト内で一気に公開します。(文字数制限にひっかかるかな?) 悩んだけど、、彼の意向でもある公開です。 相当な長文ですが、良かったら読んでください。 因みに彼はスポーツインストラクターでありながら、文筆活動もしています。(していました。かな?) 一句一文の表現が大袈裟(K!ゴメンな!)に感じられるかもしれませんが、彼が目の当たりにしている事実を、彼が文体表現として“伝えよう”としているものなのでご理解ください。 別に何かを煽るつもりは毛頭ありません。 余震、計画停電、原発に振りまわされつつも、何とか震災以前の生活リズムを取り戻しつつある関東以西ですが、これを読んだ方が何かを感じてもらえたら嬉しい。 以下、友人Kからのメールです。 俺の名前が“独楽”にしてあるのと、念のため個人名は伏せてありますが、それ以外はそのまま記します。 今からメールを6連発で送る。 あの日、 俺がどこで何をしていたか 独楽にも知って欲しいと思ったんだ。 また記録として様々な人へ転送してもらえると嬉しい 東京の小中学校では俺の手記を全校集会で使ってくれたそうだ。 事実から目を背けず、 現実にあったことを忘れないためにも。 それが亡くなった人たちの供養になるかもしれないと思った。 でも被災者には厳しすぎる現実かもしれない… 【生還】 3/11(金)午前9時。 亘理町・荒浜海水浴場。 今夏の死亡事故0を目指し、役場からの依頼で今年初のライフセービング訓練を実施。 金土日3連チャンの予定で救助要員の大学生たちと朝からブッ通しで砂浜ダッシュなどをこなし、 ヘロヘロになった15時を目前に初日の訓練を終えようとしていた。 ストレッチしながら海を見ると、海面が煮えたぎったお湯のように泡立っている。 その直後、 立ってはいられないほどの激震にみな尻餅をついた。 揺れに揺れる。 さらに揺れる。 異常な揺れが際限なく続き背骨の底から戦慄が走る。 砂浜がひび割れて段差がで始める。 ただの地震ではないと悟り防波堤まで戻るよう指示。 しかし往復18�もある浜の中腹にいたため、 かなりの距離を走らなければならない。 遠い遠い、 めまいがするほど遠い道のりを、 何度も足を取られながら、胃液が逆流するほど走りに走った。 それぞれの車で高台へ逃げるよう声を張り上げる。 続いて自分の車へ向かおうとした矢先、 海に落ちた釣り人&サーファーを発見。 消防団のにいちゃんたちは泳げないという。 仕方なく外気温が3℃の中、パンツ一丁で海へ飛び込み、重装備の釣り人から救助。 だがオッサンは完全にパニクッて鬼のような形相でつかみかかってくる。 顔面をぶん殴って大人しくさせ、 水中で立ち泳ぎをしながら肩に足を乗せて防波堤へと押し上げた。 続けて1人また1人と救助し4人目を助けようとした時、 今の今まで横にいた若者が一瞬で沖へ運ばれた。 空は墨をぶちまけたような暗黒に渦巻き、 砂浜を境に青と黒まっぷたつに割れている。 辺りは雷鳴のような轟音が鳴り響き、 信じられないほどの早さで一気に波が引いた。 見たこともないほど沖まで砂地が露出し、 ���がピョンピョンと飛び跳ねている。 アカン… 要救助者はまだ多数いたが俺だって死にたくない。 水から上がり、慌てて服を着た。 「助けてくれ!!」と泣き叫ぶ怒号と悲鳴。 悲しそうな目で俺を見つめ沖へ運ばれてゆく人々。 見なかったことにして先を急いだが…足が止まる。 くるりと振り返り、 ふたたび飛び込もうとして上着に手をかけた時、 見上げるようにそそり立つ巨大な白い壁。 俺は走った。 死に物狂いで走った。 轟音が背後に迫り来る。 波に飲みこまれる間一髪でブロック塀へ飛びつき、 すぐさま真横の電柱へ飛び移った。 上へ上へ死に物狂いで這い上がる。 足のすぐ下を怒濤の勢いで濁流がなだれ込む。 家屋を飲み込み、 松林をなぎ倒し、 電柱を引き抜き、 すべてを木端微塵に破壊しながら流れてゆく。 そこで俺が見たものは、 地球の滅亡を想わせる光景だった。 あちこちで爆発が起こり、火柱が上がる。 高圧電線が音を発てて弾け火災が多発。 ワイヤーで固定された電信柱と鉄筋の建物以外はすべてが飲み込まれた。 それから約3時間、 俺は救助が来るのを信じ、必死で電柱にしがみついていた。 横殴りに雪が吹き付ける。 歯がガチガチに鳴って噛み合わない。 上空をヘリが飛び交う。 どんなに叫ぼうとけし粒のような俺に気付いてはくれない。 握力がみるみる削り取られていく。 刻一刻と陽が沈み、 吐く息は白くなる一方。 耳はちぎれそうな激痛。 指先の感覚はとうにない。 このままここにいたら死ぬ… 俺はついに覚悟を決めた。 電柱の一番上まで上ると、高圧電線に恐る恐る触れてみた。 電流がないのを確かめて、決死の覚悟でぶら下がる。 レスキュー隊のように3本の高圧電線を伝い、 一歩、一歩、這うように次の電柱まで進む。 落ちたら引き潮の渦に飲み込まれて死ぬ。 地上20メートルの上空に猛烈な吹雪が吹きつける。 突風にあおられ何度も落ちかけながら、 果てしなく遠い次の電柱へイモ虫のようにノロノロと進む。 どんどん陽が沈んでゆく。 焦っても焦ってもなかなか先へ進まない。 何度もとまり、 何度もあきらめかけ、 叫び声を上げてまた進む。 クンダリーニ・ヨーガの火の呼吸で体の中心に炎を宿し、 完全に凍えるのを防いだがそれにも限界がある。 すっかり陽が沈んで辺りが夕闇に包まれた頃、 やっとの思いで最後の電柱へとたどり着いた。 しかし… 電線は根元からずたずたに切り裂かれていた… この時の落胆と絶望をどう表現すればいいのか。 俺はがっくりとうなだれ、両手に顔をうずめた。 思考も体も外気温の低下とともにみるみる凍結する。 もはや万事休す。 切れるカードはみな使い切りもう打つ手はない。 眼下には目を背けたくなるような地獄絵図。 人形のような屍の山が藻屑とともに流れくる。 耳の穴に少しずつみぞれが降り積もり、 冷たいや痛いを通り越し、吹き付ける雪になぜか熱を感じる。 辺りは既に漆黒の闇。 尋常ではない暴風雪。 このままでは凍死する。 救助を期待することはもう完全にあきらめた。 頼れるのは自分だけ。 子供の頃から絶えずあった概念が今、 究極の形で試される。 喉が焼けただれんばかりに絶叫し、 すべての迷いを断ち切る。 犬や猫など置き去さられたペットの死骸、 牛、馬、豚など家畜の死骸。 そしてるいるいたる人間の遺体が浮かぶ中、 俺はうねり逆巻くどす黒い激流へ飛び込んだ。 全身に電流が走る。 さっきの冷たさなど問題にならない。 冷水をたっぷりとふくんだ衣服が水の鎧と化す。 複数の人間がしがみついているように動きを阻害し、 すさまじい水圧が俺の体を沖へ運び去ろうとする。 「ちきしょうッ!!」 「死んでたまるかコラッ!!!」 叫ぶことで自らを鼓舞し、木から木へ瓦礫から瓦礫と泳いだ。 手をかき足をかき、 墨汁のようなうねりの中を持てる技術と能力と精神力を残らず出しきり、 全身全霊をかけて泳いだ。 泳ぎ続けた。 海へ引きずり込まれる寸前防波堤の残骸にぶつかって止まる。 震える手でコンクリートをつかみ凍りつく体を引き上げた。 もう体が動かない。 朝から飲まず食わずで一体どれほどエネルギーを消費したのか… あきらめたら死ぬ。 死んでたまるか!! よろめきながら立ち上がり震える歩を進める。 本当に1�ずつ足を進めた。 低体温症になるのを防ぐためにまた火の呼吸をする。 しかし極度の疲労と空腹、そしてあまりに膨大な消費エネルギーに崩れ落ちる。 ずぶ濡れの体に吹き付ける氷点下の風。 足元も見えぬ漆黒の闇。 雄叫びを発して膝を立て、 渾身の力で立ち上がる。 そしてまたひきずるように震える歩を進める。 釘が飛び出した瓦礫の山にうず高く積み上がる流木が行く手をさえぎる。 海面と地面の区別がつかず何度も深みにはまり、 首まで海水につかる。 また這い上がる。 またはまる。 そんなことを嫌になるほど繰り返しているさなか、 またも地獄の底から轟音が響く。 「うそだろぅ…」 驚愕の眼差しを向けた時、 暗黒の大海から押し寄せる強大な白い壁。 逃げる間もなくやすやすと瓦礫の山を乗り越え、 津波の第二波が来襲。 今度は完全に頭から飲み込まれた。 どっちが空でどっちが大地かも分からないほどぐらんぐらんに引き回され、 巨大洗濯機へ放り込まれたようにぐるぐる回る。 あぁ…… 俺はこんなことで死ぬのか… そうか… 死ぬのか…… 塩辛い暗黒の無重力世界で俺は他人事のようにそんなことを考えていた。 あきらめかけた矢先、 背中が鉄柱に激突。 何がなんだか分からぬまま上半身だけで這い上がり、 一度は完全に消えたはずの握力で鉄柱にしがみつく。 すさまじい水圧が俺の体を根こそぎ引き離しにかかる 死んでたまるか!! 死んでたまるか!! 体が真横になっても絶対に手は離さなかった。 その時、 俺は確かに声を聞いた。 誰かの声が、 「お前はまだ生きろ」 「お前にはまだやるべきことがある」 そう言っていた。 10分後、 クツもズボンもパンツも靴下もすべて流され、 下半身丸出し。 素足のまま寒風が吹き荒ぶ闇夜をとぼとぼと歩いた。 漏れた油が月光に反射し、夜行虫のようにうごめいている。 足を踏み出すたびに水面がキラキラと光る。 時間も方角も分からない。 もう自分がどこで何をしているのかも分からない。 見慣れているはずの亘理の風景はどこにもない。 気が遠くなるほど長い闇を機械仕掛けの人形のように黙々と歩いた。 そしてついに力尽きる… 完全なる電池切れだ。 がっくりと膝が折れ、 汚泥の上に崩れ落ちた。 あおむけに横たわる。 見上げれば満天の星。 ひっきりなしに流星が飛び交う。 助けてください。 助けてください。 くちびるが声にはならない声をつぶやく。 タイタニックのジャックのように、髪の毛やまつ毛がバリバリに凍りついている。 精も根も尽き果て、 静かに瞳を閉じかけた時、 瓦礫の中にゆれ動く灯りが見えた。 俺はガチガチに固まった体を無意識に引き起こし、 また1�ずつ歩いた。 もう一滴の声も出ない。 誰かが俺の体を勝手に操作しているようだ。 水産加工会社◎◎ビルの3階から薄灯りがもれている。 俺は30分以上かけて階段を這い上がった。 屋上へ逃げて助かった◎◎の社長夫妻と漁労長の3人。 時は深夜1時半。 下半身丸出しで急に現れた俺に仰天した彼らだが、 すぐリンゴをむいてくれた。 むさぼるようにかきこむ。 出された水も喉を鳴らして一気に飲み干した。 震えが止まらずぼたぼたとこぼす。 着替えと毛布をくれた。 裸の大将のようなへそより高いでかパンツ。 ラクダのももひき。 おばぁちゃんの赤い毛糸のとっくりセーター。 凍えきった体で眠ることもできなかったが、 止まらない手足の震えは、いま生きていることをありありと実感した。 朝9時からトレーニングを始めて約16時間。 それから俺は飲まず食わずぶっ通しで動き続け、 誰ひとり助けのない孤独な闘いに打ち勝った。 俺は生きて帰った。 生きて帰ったのだ。 これが3/11(金)深夜1時半、生還劇の全貌である。 【帰還後】 翌日は社長夫妻や漁労長を自衛隊のヘリに乗せ、 俺は心身共にズタボロのまま消防団の救援活動に参加。 瓦礫の中からまず息がある人を優先して捜索。 ヘリから降り立った赤十字の医療団は、 職務上しかたないとはいえ助かる者とそうでない者をわずか数秒で判断し、 容赦なく切り捨てていく。 初めて見るトリアージに戦慄とむなしさを覚えながらも、 俺は俺のできることだけを精一杯やった。 そして数日ぶりに町中へ。 赤十字の医師によれば俺は全身89ケ所の擦過傷と刺傷。合計28針を縫った。 少し休めと1人用テントをあてがわれたが、 なぜか眠る気がしない。 風呂も入れず、歯も磨けず、限界を通り越してにおいもかゆみも麻痺している。 旅での風呂なしは最長5日。 今回はその倍以上でいくら旅なれた俺でも正直キツイ。 まして普通の人なら拷問に近いだろう。 特に避難所にいる赤ちゃんを連れたママたちは辛い。 ミルクもオムツもなく悲惨の一語に尽きる。 亘理は報道も少なく、 すべてにおいて後回しだ。 被災した夜はのどの渇きに絶えきれず、 俺は自分の尿を飲んだ。 何ら恥じることはない。 生きるのが先決だ。 自分で言うのもなんだが、 俺には一生物としての尋常ならぬ生命力があった。 それに日本一周や北中南米の旅で得た死ぬ一歩手前、限界ギリギリの過酷な体験。 日頃からの異常な運動量のトレーニング。 スポーツ・インストラクター20年選手としての経験と知識。 フツーの人がフツーに生活していたら、 まず出くわさないであろう数々の修羅場、 命のやり取り。 そうした場数を踏んできた経験が冷静さを保ち、 どう転んでも助かる見込みのない、 希望を見出だせる要素など1ミリもない状況でもパニックに陥らず済んだのだろう。 そして何より、 「死んでたまるか!!」という怨念にも似た執念。 そんなこんなをひっくるめたすべてが一つに集約し、俺の命を紡いだのだろう。 フツーの人は電柱に3時間つかまるのもムリかも知れない。 だが子どもの頃から遊んだ荒浜の海は、 原爆を投下したような焼け野原へと変わり果てた。 もはや見る影もない。 ニュースステーションや朝日新聞などマスコミ各社の取材は断った。 助けられなかった人の方が圧倒的に多いからだ。 中学の同級生たちもかなり死んだ。 津波がくる直前までともに救助活動をしていた警官や消防団の青年たちもみんな死んだ。 いとこや親戚のほとんどは一週間が過ぎた今も安否が分からない。 ヘドロをかき分けながら町へ向かう時、 木の枝からぶら下がる中年女性の遺体を見た。 深みに背中を見せて浮かぶ子ども。 瓦礫の隙間から飛び出している無数の白い手足。 あぶくま大橋では若いママがチャイルドシートに幼児を乗せたまま車ごと波に飲まれた。 戦争でもないのに数え切れないほどの遺体を見た。 俺だけがこうしてのうのうと生き残ってしまった… 他の地域がより酷いせいか亘理の遺体回収は後回しにされている。 帰還後、 奈良県から派遣されてきた自衛隊テントで初めてテレビを見た。 上手いこと遺体だけ外して映している。 車のドアをバールでこじ開け、金品を強奪する人々。 給水車を前にわずか一列の違いを巡り、 唾を飛ばして激昂する醜い大人たち。 そんな親の姿を見て途方に暮れる子ども。 俺とは仲が良かったが、 役場ではいつもは役立たずと陰口を叩かれていた××××課の★★班長は、 自分の家族を投げ打って、部下や住民のため汗をふりちぎって奔走していた。 女子職員から絶大な人気の☆☆次長は、 さっさと自分だけ山梨県へ避難してしまった。 自分のことは後回しにし、一心不乱に救助活動をする一般人の青年を見た。 両親の安否も分からぬまま不眠不休で介護する女性がいた。 生まれて初めて間近に見る地獄絵図に原発の恐怖心が拍車をかけ、 みな集団心理特有のパニック状態に陥っている。 異常に雄弁となるか一言も語らず一点を見つめている極端な違い。 報道はされてないが相馬、山元、亘理は未曾有のパニック状態だ。 他人のことなどかえりみず人を蹴落として生き抜こうとする人々。 そのおぞましき姿はもはや人間ではない。 まさか自分の町がこんなになるとは… こうした生きるか死ぬかの修羅場にこそ、 それぞれが内包する真実の【人間】が露わとなる。 おてんとさまは見ている。 俺には御大層な宗教心などないが、 善も悪もおのれの胸にあることを知った。 自衛隊から出た豚汁と握り飯は死ぬほど美味かったが心の底から喜ぶことはできなかった。 しかし俺は天の声をハッキリと聞いたのだ。 「お前はまだ生きろ」 「おまえにはまだやるべきことがある」 と… 不思議なことに、 その声は間違いないくこの俺自身の声だった。 俺のやるべきことは何か… 今の俺には分からない。 ただ一つだけ分かっていることは、 それを探しながら生きていこうということだ。 おめおめと生き残ってしまった俺は、 彼らの分まで生きなければならない。 明日はくる。 必ずくる。 そう信じて歩いていこう。 【お願い】 今春から職場になる予定だった海辺の町は過疎地域。 銀行が一軒もない。 そのため被災当日は郵貯へ一点集中しようと、 3ケ所の銀行から現金を全ておろし、車に積んでいた。 キャッシュカードもVISAもETCも、 免許証も保険証も通帳も、 その日に限ってなぜかありとあらゆる貴重品を車内に入れていた。 そして積年の想い出が詰まった我が愛車は遥か外洋へ消え去った。 つまりほぼ全財産を失ってしまったことになる。 もうその町もない。 亘理よりはるかにひどい、壊滅状態だ。 そこでお願い。 いつか宅急便などの物流が一般人にも再開したら、 日持ちのする食品や衣類を送ってくれると嬉しい。 (カロリーメイト、水、ジャージetc~) そして少し言いにくいが、 ほんの気持ち程度でいい。 一円でも送金してくれると生きのびる希望が持てる。 決して無理はしないで。 あくまでも出来る範囲でのお願い。 今回の被災で唯一の光は、 長らく疎遠だった人からの連絡だった。 何もかも失ってしまったが俺にはまだ命がある。 そして俺の安否を気遣ってくれた友人知人がいる。 それだけで俺は生きている価値がある。 素直にそう思えた。 この一連のメールは9日ぶりに復活した携帯で打ってる。 ガラスが散乱した自宅の部屋から発見した、 02年当時に使ってた激古の携帯を0円で再契約。 文字が、 言葉が、 津波のように沸き上がってとまらない。 洪水のように次から次へと文章が押し寄せる。 連絡が遅れてすみません。 俺は今、生きています。 2011.3.21(月) ○○○○(Kの本名) 追伸. 今は電気、ガス、水道、ライフラインすべて遮断されてる。 亘理町は復旧の目処が立ちそうもない。 車もなければ電車もない。 臨時のバスすら通れない。 だから送金されてもしばらく引き落としはできない。 今回のお願いはいつの日か復旧する日まで、 事前に送金してもらえるとありがたいという話。 頭の隅にでもとどめてもらえると助かります。 よろしくお願いいたしますm(__)m 何か今日の朝日新聞夕刊の全国版に俺の記事がチョロッと載るみたい。 手記はいずれ朝刊に載るそうだ。 友人.知人へ送ったメールが思った以上に反響が大きく、 友人の先生経由で板橋区の小学校では全校集会で読まれたそうだ。 自分だけが助かった負い目から、 最初は記事になるのもどうかと思ってたけど、 あの日、 俺がどこで何をしていたか 様々な人に知ってもらうのは亡くなった方々の供養になるかもしれないと思い直した。 でも被災者には厳しすぎる現実かも… 以下は相馬在住の先生からきたメール。 ↓ △△です。 家も家族も大丈夫です。 学校が避難所になり毎日夜8時過ぎまで働いています。 なんと夜勤もあります。 それが今日です。 多数の死者がでたことを知りました。 しかし映像には人がまったくうつってません。 (写っても困るでしょうが) 相馬の小学6年生。 40%が避難して相馬にいません。 原発のせいです。 教職員は職務上逃げ出すわけにもいきません。 しかし原発の職員も私たち教師も生身の人間です。 職務を全うし学校や児童を守るか、 自分の家族を守るか。 難しいところです。 津波直後の原発はさらに絶望的だったと思います。 津波で非常発電システムが壊れ冷却装置が全く動かなくなったからです。 つまり温度が上昇し続ける原子炉をみてるしかなかったのですから。 これをいち早く知った原発関係者、医療従事者はすぐ50�圏外へ逃げました。 これこそ亘理・山元・相馬が報道されない理由の最たる要因です。 避難所、病院を捨てて、 南相馬・浪江・富岡辺りは行方不明者の捜索は一切やってません。 1200人以上いるそうです。 すべて野ざらしです。 避難・屋内退避だからです。 ヒドイもんです。 南相馬や新地の火発はオイル漏れの修理途中で退避しました。 とにかく今回の津波は巨大すぎました。 今日初めて相馬の浜を見てきました。 避難所でのお世話で行けなかったのです。 とにかくむちゃくちゃでした。 酷かったです。 息子も連れて行きました。 K先生よく生きて戻れましたね。 K先生でなければ生きていなかったですね。 本当に凄まじい経験をされましたね。 驚きです。 ほんとは死んでんじゃないの? 生きてるつもりでいるけど・・・。 100回ぐらい死んでてもおかしくない。 うん。 こうしよう。 実際に顔をみるまで死んでることにします! △△△△ 追伸. 本日、 ともに救助活動をした若い警官の遺体が上がった。 去年の夏も一緒に盗撮犯を捕まえた□□くん。 まだ28才。 新婚で赤ちゃんが一人。 俺はのうのうとメールを打っている… 本音を言えば原発の恐怖もあるし、 友人宅へ一時避難させてもらって、 風呂に入ったり歯を磨いたり温かい料理とかを食べたいけど、 同級生や親戚の安否がワカランままでは亘理を離れるわけにいかない。 いつもソフトクリームを大盛りにしてもらってた鳥の海荘のおばちゃん。 遺体が上がった。 先週も冗談を言い合ってたばかりなのに。 これは現実なんだろうか… 荒浜に行けばおばちゃんがいて、 またソフトクリームを売っている気がしてならない。 明日を信じて歩いていこう” - 宮城県亘理郡在住『K』の手記 - PADDY - ONE (via gotouyuuki-text)
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myonbl · 4 years
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2020年10月28日(水)
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出勤時に通る東寺では、塀越しの常緑樹しか見られない。職場の窓からは、中庭の欅の紅葉が確認出来る。例年なら大学祭の準備で賑やかなはずが、今年は中止を余儀なくされ、10/30(金)夕方の「打ち上げ花火」のみ実施、それも関係者のみに限定とのこと。学生たちには気の毒だが、ま、長く記憶に残る年になることだけは間違いない。
今日は全員出勤の日。
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マルタイラ��メン+ヨーグルト+豆乳。
洗濯1回。
空き瓶・缶、30L*1。
いつものMK石油で給油、130*34.9=4,537円なり。
10時にラジオ体操第一。
水曜日は、2限・3限「情報機器の操作Ⅱ(食物栄養学科)」、今日のテーマは「Wordの編集機能」。個別対応の案件が多く、予定の半分しか進まなかった。
夕方の内科受診のため、ランチは抜き。
インターネット回線工事のため、昼休みはネット不通。
3限終了後、すぐに退勤。
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京都南病院の予約は16時、15分前に受付、体温は36.3℃。少し待たされて診察室へ、いつも通りのチェック・血圧・体重。それぞれの数字は良くも悪くもない。次回は12/9(水)16時、血液検査とのこと。
薬局で薬をもらうが、閉店間際で慌てていたのか、領収書しかなくてお薬手帳への登録が出来ない。
そのまま西大路七条・ライフまで買物、牛肉・ネギ・焼き豆腐。シルバー割引制度がなくなるので、優待パスを返却して5%引きで会計する。
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境港の土産の純米吟醸ワンカップ・鬼太郎シリーズ、3本目は子泣きじじい、Instagram での反応が面白い。
三男が帰宅、すぐに夕飯開始。
早めに切り上げて、ゆっくり入浴。
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今日はちょこまかと動き回ったので、難なく3つのリング完成。
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oniwastagram · 5 years
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\おにわさん更新情報📸/ ‪[ 京都市左京区 ] くろ谷 金戒光明寺庭園 Kurodani Konkai-Komyoji Temple Garden, Kyoto の写真・記事を更新しました。 ーー平家物語にも登場する #熊谷直実 ゆかりの池泉を中心とした回遊式庭園“紫雲の庭”と、#中根金作 作庭の露地庭。 ・・・・・・・・ 今週末までの期間限定庭園を慌てて紹介! 金戒光明寺は浄土宗の大本山寺院の一つで、地元では“くろ谷さん”の通称で知られます。 回遊式庭園『紫雲の庭』は例年秋に特別公開されており、2019年は11月初旬〜12月8日(日)まで公開中。同期間内には庭園ライトアップも。2019年の秋に初めて訪れました! 地元ではくろ谷さんで知られる――と書いたものの自分は京都民ではないので知らなかった。なんで #くろ谷 なんだろう?って話から。 #法然上人 は10代前半で比叡山延暦寺に入り、18歳の時には比叡山🌋の深くにある黒谷という場所で叡空に師事し修行生活を送りました。 その後時を経て1175年。浄土宗を開くことを決めた法然は比叡山を降り、比叡山黒谷の所領だったこの京都・岡崎〜白川の地に草庵を結びました。これが現在の金戒光明寺。800年以上に渡る土地名でもあり、法然を黒谷上人と呼称していたこともあったとか。 なおその後 #法然 は東山に移り新たに草庵を結び。それを起源として後に浄土宗の総本山『知恩院』が建立されています…この辺はかなりデフォルメして言っているので正確に言うとその草庵=知恩院ではないのですが。ざっくり言うとそんな感じというぐらいで、正確な情報は調べていただけると幸い。 そんな京都の東部にある浄土宗の総本山『知恩院』と大本山『金戒光明寺』のもう一つの共通点。#徳川家康 は京都の支配も盤石にするために、二条城を建立した以外に『知恩院』とこの『金戒光明寺』を“城構え”という作りに整備したそう🏯 知恩院もくろ谷も境内がとても広く兵が数多く滞留できるうえ、高台にあることから軍勢の動きも監視できると言った点から選ばれたのだとか。現在も山門を抜け本堂の前まで来ると京都市街が一望できます。 更に幕末には会津藩主 #松平容保 が京都守護としてこの金戒光明寺に本陣を構え、#新選組 もこの地で誕生しました。 そんな大寺院でしたが、昭和初期に火災🔥で本堂の御影堂、そして方丈を焼失。現在の建築は昭和前期に再建されたもので、御影堂、大方丈、唐門、そして築地塀が #国登録有形文化財 となっています。また大きな山門はそれより古く江戸時代後期、1860年の建立で #京都府指定文化財 、また三重塔🗼は国指定重要文化財。運慶の作と伝わる中山文殊という仏像も。 大方丈の裏にある回遊式庭園“紫雲の庭”の作庭を手掛けたのは『南禅寺』、『無鄰菴』といった南禅寺界隈の庭園をはじめ、『智積院』などの国名勝庭園の管理も手掛けている #植彌加藤造園 さん。 比較的近年、2006年と2012年に完成した庭園ですが、庭園の中心にある池泉“鎧之池”は、源平合戦の一ノ谷の戦いで少年だった平敦盛を討った熊谷直実が鎧を洗った――といったエピソードから名がついたとされる歴史ある池泉。 ちなみに熊谷直実は後に高野山で平敦盛を供養、出家して法然に仕えています。 鎧之池を奥に進み、四阿の前に作られた園路・延段は“御縁の道”という名がついており、お笑い芸人の麒麟 #川島明 さんもTV番組の企画で作庭に参加されています。 ちなみにこのご縁の道も“紫雲の庭”も法然上人の人生や教えが表現されているそう。また庭園を一周した最後にある茶室🍵『紫雲亭』の周囲の露地庭の作庭を手掛けたのは『足立美術館』庭園で知られる中根金作。そうだったのか…!パンフレットに書いてなかったら知らなかった… 広い庭園は景色が開けた #枯山水庭園 から始まり、四阿の周辺では自然に囲まれた環境も味わえて。様々な植物の姿を見られたので秋以外の新緑の季節とかにも訪れてみたい…!(もしその時期に特別公開があったりしたら、ですが…。) そして来年はより紅葉が進んだ時期に足を運びたい。 〜〜〜〜〜〜〜〜 ‪🔗おにわさん記事URL:‬ https://oniwa.garden/konkai-komyoji-temple-%e3%81%8f%e3%82%8d%e8%b0%b7-%e9%87%91%e6%88%92%e5%85%89%e6%98%8e%e5%af%ba/ ーーーーーーーー ‪#庭園 #日本庭園 #京都庭園‬ ‪#garden #japanesegarden #japanesegardens #kyotogarden #京都 #京都府 #京都市 #kyoto #左京区 #寺社仏閣 #kyototemple #枯山水 #karesansui #おにわさん (金戒光明寺) https://www.instagram.com/p/B5sVtisAKyS/?igshid=vsuefmmonp9v
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natsucrow820 · 6 years
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仇夢に生きる9話 無明の懐古
 ――眼前には地獄が在った。
 あたしは刀を振るって髪を掻き上げる。何時もならきっちり結んでいる筈の髪が解けていた。鬱陶しい、けれど、どうしようもない。そんなことに構ってはいられない。随分とあちこちの感覚が死んでいた。寒いのか、熱いのか。痛いのか、そうでないのか。自分の身体の損傷は。そんなことも、判らない。判らない振りをする。そうでないと、あたしはあたしの任を果たせなくなるような気がする。刀を握る手だって、本当はちゃんと握れているのか判らない。布で括り付けて、振るえていれば、まあ良いか。瞬きをする。目に入った血が滲みる。この血だって、何の血か。余計なことは考えるな。何時も、あたし自身が言っていたことだ。戦場ならば、戦場に適した思考がある。今考えるべきは何だ。
 あいつらは上手く逃げられたかねえ。
 金色の髪が脳裏に閃く。
 そうだ、時間は、どれくらい経った?
 新型の人擬きの禍者(まがもの)、旧型の、禍者の獣ども。紛い物の矢と刃、偽物の牙と爪が引き裂いて行った新入りたちは、何処まで逃げられただろうか。失う訳にはいかない、愛しい同胞たちは。
 大丈夫だろう。きっと、それなりの時間は稼げただろう。幾つの禍者を屠った? どれだけの刃を叩き折った? 如何程の矢を往なした? 傷は負ったさ。だが、それ以上に、戦果は上げた筈だ。これだけ暴れたなら、彼女は十二分に上手くやる。なんたって、あたしの右腕だからねえ。何だって上手くやっちまうのさ、あたしの隊長補様は。
 ひゅうと、喉が鳴った。
 流石に、疲れたねえ。
 迎えの一つでも、寄越してくれるかねえ、あの子は。
 何だか異様な眠気に襲われて、変に入っていた力が抜けて、はは、と間抜けな声が溢れ。
 ずきり、と。
 冷や汗を伴う違和が、眠気を吹き飛ばした。
 何だ。
 かくん。さっきまで問題がなかった筈の足に力が入らなくなって、無様に座り込むことしか出来なかった。熱く、焼け付くような感覚がする足に目を向ければ、夥しい血がだくだくと地面に流れて行く所だった。
 こんな傷、何処で。いいや、自分の身体なんてどうでも良いと刀を振るったのはあたしだ。全部全部麻痺させて暴れ回って、無傷だなんて土台無理な話じゃあないか。
 だけれども。
 それでも、賭けてたんだ。
 目の前の糞みたいな連中を皆々殺しちまうまでは、戦ってやろうじゃないか、ってさ。
「運がなかった、ねえ」
 後、一体だったんだけれどねえ。
 目の前で、人型の禍者が、にたりと笑った気がした。
 これ見よがしにぎらつく刀を振り上げて、振り下ろし――。
「隊長!」
 ――た筈の禍者の腕が斬れ飛んだ。
 血が飛沫く。
 白銀の刃が弾かれたように弧を描き、禍者の首に吸い込まれる。
 駄目だねえ、弾かれちまう。
 冷静な頭の片隅が呟いた。同時に、鋭い金属音。新型の連中、ご立派なことに鎧なんて着込んでやがるのさ。だから、そんな、感情任せの太刀筋じゃあいけないよ。らしくないねえ、あんた。何時もはもっと冷静で、綺麗に斬ってみせているじゃあないか。
 思っている間に、凄まじい勢いで飛び掛かり刀の柄で彼女は強かに禍者の頭を殴り付けていた。ぐらついた禍者の腹を蹴って押し倒したかとかと思えば、今度こそ鎧の隙間、首筋に切っ先を突き立てた。何度も、何度も。白銀が血に塗れていく。
「もう良いよ、梓(あずさ)」
 どうしたんだい、もう良いんだよ。終いだよ。やけに出難い声を絞り出して何度も話し掛けると、ようやっと彼女は、梓は禍者を破壊することを止めた。禍者の首から上はもうずたずたで、赤と黒の塊に成り果てていた。だというのに、それを作った修羅は、梓は困り果てたようにあたしを見る。
「隊長」
「あんた、戻って来たんだねえ」
 きっと、隊長補様が、穂香(ほのか)が命じたのだろう。梓は若いが、一等強い。この戦場に遣わせるには一番の適任だろうねえ。そんだけ、あたしも鍛えてやったしねえ。
「怪我は、ないかい」
「貴女が」
 唇を噛み締めると、首を振って梓はあたしの前に跪いた。
「貴女、こそ」
 震える手が伸ばされて、揺れて、震えて、落ちる。
「何故」
「まあ、あんだけ動ければ大丈夫かね」
 良かったよ、あんたが無事で。
 呟いた途端、梓の顔がくしゃりと歪んだ。
「間に合わなかった」
 顔を俯け、弱々しくあたしの肩に縋りつくのは、修羅ではなく、幼子のようだった。
 あたしは、そんなこどもの背を撫でながら、助けを待つしかなった。
 
 
   ・・・・・
 
 
「緊張しているのかい?」
「ええ、そりゃあね」
 くすり、と苦笑し���早川(はやかわ)は肩を竦めた。
「その割には、涼しい顔じゃあないかい」
 長い髪を払って、土生(はぶ)は目を眇める。早川は肩を竦めて苦笑。金の髪がさらりと肩を落ちていった。
 七の月。初夏の香りの満ちる頃。しかし祓衆(はらいしゅう)の屯所内を満たすのは重苦しい緊張だった。
 北方より来る禍者の軍団。新型を擁するその数、およそ百。それを、祓衆は待ち続けた。民草に危害を加えることなく、しかしこちらの補給路の危うくならない、迎え撃つべき距離を見定め続けた。交易の路を規制し、万全を期し、押し返すに足る戦場を作り続けた。
 そして、時は来た。
「今回は、失敗する訳にはいかないわ」
 青い瞳が真摯な光を帯びる。
「連中の好きにはさせない」
「そうさね、あたしのようなのは、増えないのが良い」
「……それは」
 弾かれたように早川は顔を伏せる。
「酷い顔をするねえ」
 自嘲。それから微笑。
「何、今回は大丈夫さ。前とは違う。戦場もこっちが設えたし、端から新型がいるのも分かってる。地獄になりはしないさ」
「そうね、そうなら、とっても良いわ」
「その為に、あたしも頑張ったしねえ」
 ぎしり。土生の車椅子が小さく軋む。姿勢を軽く変え、不敵な笑みを作りながら土生は肘を机に着いた。机の上には、長大な包み。
「親父にも無茶を言った。外洋国(がいようこく)の連中は武器を寄越すのは渋るんだとさ」
「でしょうね」
「海向こうの国は、国同士で争いをするらしい。当然と言えば当然さね。それがくれるってんだから、親父も大したもんさ。まあ、この国がそういうのとは無縁なのもあるんだろうがねえ」
 ともかく、と土生は顎をしゃくる。挑むような眼差しが早川を射抜く。
「これをうちで扱えるのはあんたぐらいだろう。上手く使うんだよ」
「ありがとう。無駄にはしないわ」
 恭しく早川は包みを抱え上げ、布を捲る。その下から覗いたのは、鉄の筒。早川の身長の半分はあるかと言う細長い筒は途中で折れ曲がり、幾つもの部品が備え付けられていた。葦宮(あしみや)では見ることな��ない、長大な鉄の凶器。
「随分重いのね」
「そりゃあ、そうさ。使う鉛玉も大きくなるからねえ、丈夫でなくちゃあ、撃ち出せないのさ」
「道理ね」
 腰に差した、二つの長銃と見比べながら早川は薄く笑む。
「これなら遠くからでも連中にぶち込めるわね」
「ああそうさ。良いねえ、胸のすくようだ。あたしもこの目で見たかったが、今回は留守番だ」
「良い土産話を持って帰ってあげるわ」
「楽しみだ。……無茶はするんじゃあないよ。梓にも伝えといておくれ」
 目を細めて土生は言う。
「無茶して皆々失っちまったら意味なんてないのさ。怖ければ、どうしようもないと思えば、逃げるのは悪じゃあない。絶対に帰ってくるんだよ」
「勿論よ。彼女だって、もう、あんなのは嫌に決まってる。血塗れの貴女を抱えて来た梓の顔、今だって忘れられない」
 己の身体を抱くようにして、早川は目を瞑る。
「あんなこと、もう絶対に御免よ」
 
 
   ・・・・・
 
 
「兎に角、無茶だけはするな」
 努めて冷静に、帯鉄(おびがね)は言葉を選ぶ。
「時間は限られている。しかし、須臾でも刹那でもない。我々であれば、連中を殲滅するに十分な時間はある」
 睥睨する。誰もが緊張した面持ちで帯鉄を見ている。しかし、無理に気負う者はいないらしい。好戦的に笑む者さえいる。好ましいことだ。寧ろ、自身の方が気負っている自覚はある。自覚はあるだけマシだろう。傍らの常葉(ときわ)は相も変わらず唇を三日月型にぴたりと閉じて微笑を湛えている。やはり、こういう時に言葉で先陣を切るのは嫌らしい。らしいと言えばらしい。帯鉄は思う。口より、刃で物を言う方が得意なのだ、この男は。見目と裏腹に、狂猛な戦意を肚の中に滾らせて、笑む。
「ここまで待った。随分と待った。故に、我々は放たれる。止める為に、否、絶やす為に。此処で、食い止めるぞ」
 振り返る。広大な大地と生い茂る木々、細く、時に太く伸びる道。視線を戻す。居並ぶ青龍隊、朱雀隊の者たち、その後ろには桜鈴(おうりん)を囲う塀がある。そして、彼らとそれの間には、太い川。
 桜鈴北部、葦宮の動脈とも言うべき街道を擁する下狭平原(しもさひらはら)。常ならば多く行き交う人が、今はいない。当然だ。此処はこれより戦場となるのだから。その為に、手を回して来たのだから。
 祓衆の想定する、適切なる戦場。太く流れる狭間川(さまがわ)こそは、憎き連中と民草を隔てる境界線。
「此処だ」
 目を見開く。
「此処を、決して超えさせるな」
 一際に強く言葉を吐き出せば、野太い咆哮が木霊した。遠くに澱む気配が強くさざめいたのが判った。
「殲滅だ」
 帯鉄は刀を抜き放つ。
「一匹たりとも逃すな」
 頃合いだ。ゆらりと切っ先を北の森へと向ける。
「皆散れ。適切にな。そして確実に屠れ。さりとて命は無駄にするなよ。我々は死ぬ為に此処にいる訳ではないのだから」
 誰もが目をぎらつかせながら、息を呑む。桜鈴北部。開けた大地を少し行けば、すぐに視界は鬱蒼と茂る木々に塞がれる。
 禍者は、連中は其処にいる。息を潜め、こちらを待ち構えている。
 刀を構えているだろうか。
 弓を引き絞っているだろうか。
 獣共は牙を剥いているだろうか。
 そんなこと、知ったことではない。
「禍者を一掃するぞ」
 もう、五年前のようにはさせない。
 唸るような鬨の声が大地を揺らした。
  
 
   ・・・・・
 
 
「始まったのう」
「そうだねえ」
 江草(えぐさ)さんの呟きに、倉科(くらしな)隊長は機嫌の良さそうな笑みで応えた。ぴりぴりと張り詰めた屯所の中、倉科隊長だけが常の空気を変わらず纏っていた。
 桜鈴北部での迎撃作戦。青龍隊、朱雀隊を中心として祓衆本部の人間の殆どがそちらに割かれているから、屯所はいつもよりもずっと閑散としている。だと言うのに、張り詰める空気は重く、人々は忙しなく動いている。当たり前だろう。祓衆の主戦力が桜鈴の外にあるのだから。その間、幸慧(ゆきえ)たちは桜鈴内部の不測を自分たちで処理しなくてはならない。そんな中、倉科隊長はゆるりと口の端を吊り上げる。執務室に設えられた窓の外、彼らのいるであろう方角に向いていた目がこちらに向けられる。
「まあ、今回の僕たちは桜鈴内の警護。彼らの無事を祈るしか出来ないけれどね」
「万一があっちゃならんじゃろう。連中が戦っとって背後から、なんぞ笑えん」
「全くだ」
 穏やかな顔。その眼にだけ、常ならぬ真剣さを帯びさせて倉科は言う。
「僕たちは、彼らの脅威を極限まで減らさなくてはならない。禍者だけでなく、ねえ」
「……人も動くと思うんか」
「思うよ」
 ふと、倉科の面から笑みが消え失せた。
「改史会(かいしかい)、ですよね」  頷き。
「仕方がないとは言え、我々は大きく動いた。向こうだって、改史会の連中だって嫌でも気付くだろう」
 嫌になるねえ。重い溜め息が吐き出される。
「私たちは、ただ禍者の侵攻を食い止めようとしているだけです。なのに」
「そう。僕たちは人に害なすモノを退けようとしている。正しいことをしてる筈なんだ。だけれどもねぇ、可笑しな話だけれども、それを悪と断ずるんだよ、連中は」
 倉科隊長の首が傾げられる。黒く長い髪がざらりと流れる。
「僕たちは、正しいのかな?」
「え?」
 余りにあっけらかんと落とされた言葉。幸慧は緩やかに息を詰める。この人は、今。
 遮るように、江草さんが唸った。文人の多い玄武隊において図抜けて腕の立つこの人は、今回は隊長格の護衛だった。倉科隊長とは付き合いが長い分、遠慮もないらしい。
「またとんでもないことを言いよるのう、頭は。こんな時にそんなこと考える余裕があるんは大したもんじゃが」
「癖なんだよお、色々考えるのが。でも、本当に改史会には気をつけなくちゃ。僕たちは禍者にだけ刃を向けられる。人には向けられない。向こうがこちらを害さないかぎりはね」
 やれやれ、と倉科隊長は溜息を吐く。
 確かに、そうだ。祓衆は、化け物退治の組織。護るべきものに刃を向けるなど、言語道断。禍者と対峙する為に、祓衆は多くの武力を保有することを許されている。人と対立することが禁止されるのは、至極当たり前のことだった。
「嫌になるよ。後手にまわらざるを得ない相手に来るか来るかと身構えるのは思った以上に神経を遣っていけないねえ」
「御上も面倒なこと言いよるわ」
「仕方のないこと、なのだけれどねえ」
 しかし、と倉科隊長の手が腰の刀に添えられる。
「やはり、脅威だよ。改史会の規模も大概だからねえ。警察や、下手すれば朝廷内にもその息が掛かった者が紛れている。むしろそこから生まれた可能性だってある。ともかく内通者の存在は、最早想定して然るべきだろう」
 そんなことを言ったかと思えば、更に声を潜めた。
「うちも例外じゃない」
「倉科隊長、それは」
「幸慧君も薄々解っているんしゃないかい? 何処も、例外はないよ」
「道理じゃな」
 それは、とんでもないことではないか。脅威。紛うことなく敵意を持つ者が、この祓衆の中に紛れているだなんて。そうだとしたら、祓衆は何時何が起きたっておかしくはない。
「聞けば改史会は農民から広まっていたという。農民から商人へ。商人から町人へ。そうして育っていったんだ。何処にだって潜んでいる。そうした連中が一斉に動いたりすれば、厄介なんてものじゃあないよ」
「大丈夫、なんでしょうか。この状況。もしも、本当に万一、改史会の人がうちにいたら、危ないんじゃあ」
「そうだねえ。向こうより、うちが拙いねえ。手練れと非戦闘員、狙うのは明白だ」
 でも、これしかなかったんだ。倉科隊長は笑んだ。
「だから、僕たちは成すべきことを成さねばならない。向こうのことは信じよう。無論、何かあれば支援する。でも、同時に守りを固めないとねえ。桜鈴も、此処も。何、確かに主力は向こうだけれども、こっちだって全くの無力ではない。僕もこう見えて結構鍛えてるからさ」
 ふふ、と笑う倉科隊長に、少し肩の力が抜けた気がした。
「幸慧君、だから頼まれておくれ。一先ずは……そうだね、今の状況をしっかり見ておくんだ。報告は上がっていないから大丈夫だとは思うけれど、少し皆の様子を見て来ておくれ。何かあればすぐ知らせてよ」
「分かりました」
 消えない不安を振り切るように幸慧は踵を返して執務室を出る。現在屯所にいるのは玄武隊が殆ど。そして桜鈴内に数人の朱雀隊と白虎隊。例外のない限り祓衆は軍学校出身の者で構成されているが、実戦となれば心許ない。幸慧だってそうだ。だからこそ、常に感覚を研ぎ澄まさねばならない。異常を異常と悟れるように。
 ——今日は、きっと長い一日になる。
 
 
   ・・・・・
 
 
 こんなことになるなんて。
 感慨深く、彼は天を仰いだ。
 軍学校で散々に扱かれて放り込まれた祓衆。志は勿論持ってやって来たが、それにしたって、まさかこんなに早くこんな風になるとは思わなかった。
 普段賑やかな桜鈴の中は驚く程静かだ。祓衆や警察からの指示で誰もが家の中で祓衆の作戦が成功することを待っている。主戦力が街の外にある今、万一にでも禍者が現れて、襲われるなんてことがあれば目も当てられない。無論それに備えて彼やその同僚たちはこうして桜鈴内に配備されているのだが。
 今の所、街の中は静かで穏やかだ。歩き回る内、定期的に同じく警邏の任に就いている仲間と顔を合わせて安堵したような、少しだけ残念なような気持ちになって、また周囲の警戒に戻る。こうしている間にも、外は苛烈な戦闘が繰り広げられている筈なのに、内側は安穏とさえしている。
 また一人、同僚と出くわし彼は苦笑した。警邏を任されているのは朱雀隊の人間ばかり。同じ屋根の下で寝食を共にする連中とこうして畏まって出会っても変な気分になる。
「出てこねえな」
「口を慎めよ。隊長いたらどやされるぞ」
「分かってるよ」
 緩みかける気を引き締める。万一なんてあったら仲間に顔向け出来ない。
 りん、と街中に吊るされた鈴が時折鳴る。
 人の全くいない桜鈴はこうも違和を感じるものだろうか。
 彼には都合の良いことでもあった。
 軍学校を経て入った祓衆において初めて課せられた重大な任務。それを果たすには。
 彼だけではなく、他の同志たちだって、きっと待ち侘びているのだろう。
 あの人には相当な恩義がある。だから、求められたのならば応えねばならない。
 だから彼は、彼らは、平静を装いながら、待ち侘びている。  
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