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#元禄時代
lierrelearns · 8 months
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二の丸隅櫓
江戸時代、小田原城には5棟の二重櫓と1棟の平櫓がありました。この櫓は、関東大震災(大正12年:1923)後に再建された櫓で、二の丸隅櫓とも呼ばれています。延宝元年(1673)もしくはその翌年に2間 x 6間(約3.6m x 11m)土蔵としてはじめて建設されました。しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊し、奥行2間、折廻し7間(約13m)の鍵の手状の平櫓として再建されました。
小田原藩主居館がある二の丸の南東の隅に位置し、三の丸の大手門を入ると正面にこの平櫓が立ちはだかることになります。また、二の丸への入り口である馬出門を見下ろす位置でもあります。当時の櫓内部では武具等が保管され、小田原城防御の要とも言える櫓でした。
この平櫓だけが小田原城内唯一の建物として残されましたが、関東大震災により失われてしまいました。
現在の櫓は、江戸時代のものとは異なり、大きさは一回り小さいものとなっています。
During the Edo period, the Odawara Castle had five Niju Yagura (two-story turrets) and one Hira Yagura (single turret). This one is a single turret also known as a Sumi Yagura (Corner turret) of Ninomaru.
Storing arms and weapons inside, the turret, keeping an eye on both Ote-mon as well as Umadashi-mon Gates, had the most important role in a defense of the Odawara Castle.
In Meiji period, after many structures within the complex of Odawara Castle were demolished, only this Hira-yagura turret remained.
However, it was destroyed by the Great Kanto Earthquake of 1923, and the present one was reconstructed later. Unlike the one in the Edo period, the present turret here is a size smaller.
[Chinese]
Top picture: The Imperial Villa, Odawara 邸用御趾城原田小 明治42年(1909)〜大正12年(1923) 頃の姿
Bottom picture: Goyote Odawara, Sagami 邸用御原田小州相 明治42年(1909)〜大正12年(1923) 頃の姿 *Note, the Japanese on the first lines of these pictures appear to be backwards on the original.
Vocab 櫓 (やぐら)turret, watchtower 延宝(えんぽう)Enpō era (9.21.1673-9.29.1681) 元年 (がんねん)first year (of an imperial era) もしくは or, otherwise 間(けん)ken (6 shaku, approx. 1.818 m) 土蔵(どぞう)storehouse with thick (earthen) walls 元禄(げんろく)(Genroku era (9.30.1688-3.13.1704) 倒壊(とうかい)destruction, collapse 奥行(おくゆき)length 折廻(おりまわり)to provide the bend for the kagi no te 鍵の手(かぎのて)section of road that is curved on purpose as a defensive measure (see here) 藩主(はんしゅ)feudal lord, daimyo 居館(きょかん)residence, estate 大手門(おおてもん)front castle gate 立ちはだかる(たちはだかる)to stand in the way, block the way 馬出(うまだし)Umadashi 見下ろす(みおろす)to overlook, command a view of 武具(ぶぐ)weapons, armor 保管(ほかん)custody, storage 防御(ぼうぎょ)defense, safeguard 要(かなめ)cornerstone, vital point 唯一(ゆいいち)only, sole, unique 異なり(けなり)unlike 一回り(ひとまわり)one size (larger or smaller) 城趾(じょうし)castle site 御用邸(ごようてい)imperial villa
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ari0921 · 5 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)4月19日(金曜日)
   通巻第8221号
 後継皇室問題で自民党が有識者会議の二案を『妥当』
  やはり自民党に「現代の新井白石」はいなかった
*************************
 皇統後継問題の皇室典範改正をめぐって有識者会議が開かれ、これを踏まえて岸田首相は令和六年(二〇二四年)一月三十日の所信表明演説後の質門に答え、かく述べている。
 「有識者会議において悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならないとの結論に至った」。
つまり「女系天皇論」という俗論をたしなめたのだ。だがメディアは意図的に、この一歩踏み込んだ発言を殆ど伝えなかった。岸田首相は「悠仁親王殿下までの皇位継承の流れをゆるがせにしてはならない」と明言しているのである。
 皇統は神武以来の万世一系で男子が継承し、跡継ぎが幼少などの場合、未亡人皇后か独身の内親王が天皇代理として「称制」と務めた。この歴史の特質が意図的に議論されず学校でも教えない。
だから軽佻浮薄にも「愛子天皇待望論」が出てくる。女性天皇と女系天皇の区別も曖昧とされたままである。
 小泉政権のおり皇室典範改正をめぐって有識者会議が開催された。明治二二年���一八八九年)制定された典範により、男系長子が皇位を継承するという神武天皇以来の万世一系の伝統が守られてきた。状況が変化し、皇統が絶えかねないという危機を認識し、急遽、有識者会議が招集された。
だが、座長はロボット工学専門の学者で歴史には無知だった。秋篠宮に悠仁親)王がお生まれになって、皇統問題は棚上げとなった。
 もしこの流れを変えるとなると歴史を否定する革命である。フランクフルト学派が狙うのは二段階革命による国家破壊であり、グローバリズムが国境をなくせと唱えている国家否定の隠れた目標に通底する。
  
 4月15日、自民党は皇位継承の安定のための皇族数確保に関する有識者会議の二案を『妥当』とする立場を示し、「安定的な皇位継承の確保に関する懇親会(麻生副総裁が会長)で党見解のとりまとめを急ぐとした。
 「二案」とは(1)皇族女子の結婚後の皇族身分保持。(2)養子縁組に拠る旧皇族団系男子の皇籍復帰、である。
 自民党はいずれも妥当としたわけだが、いささか勉強不足だろう。やはり与党に現代版の新井白石はいなかったのだ。
 各党の意見のなかで、唯一まともなのが「維新の会」である。すなわち(1)に対して、現実的ではあるが「女系への皇位継承資格拡大につながる懸念がある」としている。
 (2)に関しては『歴史と現実を踏まえれば、高く評価できる』とした。
そもそも皇室典範の改正云々を内閣ごときがおこなうべきではない。立太子と親王殿下がおられるのに、なぜこんな議論をするのか、裏に何か別の動機が潜んでいるのか。
(参考文献 宮崎正弘『二度天皇になった女性 ─孝謙・称徳女帝の光と影』(ワック)
  ▼
(再録)「新井白石 皇統断絶の危機を予知」
 皇統が断絶の危機に瀕したことは神武天皇の御代から幾度かある。また後継皇位を争った政争、謀殺も何回かあった。 
 古代史最大の謎は応神天皇と継体天皇の正当性である。ほかにも雄略天皇が謀殺したイチノヘオシハ(履中天皇の皇子、雄略天皇の叔父)の遺児が播磨と吉備の境に二十年隠れ住んでいて、雄略の皇子・清寧天皇が亡くなると名乗り出た。この間、イチノヘオシハの妹の称制だった。
 新井白石は自伝ともとれる『折たく柴の記』のなかで、皇室の後継が不在となる危機の到来を認識し、東山天皇の祖孫をして閑院宮家を立てられるよう将軍に建言した。その皇統を維持させた経緯を次のように回想した。
 「議し申すべき一事の候は天亨・建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば、武家の代の栄えも衰えをも、ともにせさせ給ふべき御事なるに、応仁の後、世の乱れ打ち続て、武家すでに衰給ひにし上は、朝家のことは申すに及ばず当家(徳川)神祖天下の事をしろしめされしに及びてこそ、朝家(皇室)にも絶たるをも?ぎ、廃れしをも興させ給ふ御事共はあるなれ。しかはあれど儲君(皇太子)の外は、皇子、皇女皆々御出家の事においては、いまもなほおとろへし代のさまに、かは
り給はず。凡そ匹夫匹婦の賤しさも子を産みては其室家あらむ事を思ふ。これ天下古今の情也。(中略)これより後、代々の皇子、皇女、其数多くおはしまさむに至りては天下の富も、つがせ給はぬ所ありぬべしなど申す事も候はんか。古より皇子、皇女、数十人おはしませし代々もすくなかれねど、それらの御後、今に至り給ふは、いくばくもおはしまさず。『天地の間には大算数といふもののある也』と古人は申したりき。これらの事は人の智力の推し測るべき所にあらず。ただ理の当否をこそ論じもうすべけれ」(松村明校注、岩波文庫。138~140p)
 新井白石は後継皇統の候補者がたくさんおられた時代ではなく、いずれ後継候補が不在となる危機にそなえ、別に宮家を建てて費用をまかなうべきと建言したのだ。
 将軍家宣は白石の建言を受けいれ直仁親王を閑院宮と称し、禄千石を進上した。はたして白石が危惧した通り第113代東山天皇の系統は第118代後桃園天皇で絶えた。
 そこで東山の皇子、直人親王の孫にあたる光格天皇が第119代天皇として即位された。光格天皇は閑院宮典仁親王の第六王子。誕生の翌年に聖護院に入寺し将来は出家して聖護院門跡を継ぐ予定だった。
 ところが後桃園天皇が崩御し、直系は内親王だけだったため、安永八年(1789)十一月二十五日、践祚された。今上陛下はこの光格天皇の系統である。
 ゆえに令和の時代の皇室論議に臣籍降下された旧宮家の復活が急がれる所以である。
 白石が冒頭にのべた「建武の間、皇統すでに南北にわかれ、南朝はいくほどなくて絶させ給ひぬ。北朝はもとこれ武家のためにたてられ給ひぬれば」という意味は、建武の中興の後醍醐天皇の南朝が99代の後亀山天皇で世継ぎなく北朝五代の後円融天皇の皇子が、第百代の後小松天皇、101代称光天皇のあと、五代遡って北朝一代の光嚴天皇の祖々孫にあたる後花園天皇となられたことを指している。
 皇位が空位となったケースは幾つかあるが、未亡人か独身の内親王が称制(臨時天皇)として正式な後継皇子が成人するのを待った。たとえば持統天皇、皇極・齊明、元正、元明がそうだ。孝謙・称徳天皇の場合は後継淳仁天皇を廃帝とし、次の光仁天皇を指名したとする遺書は藤原百川がでっち上げた。
 第二十一代雄略天皇の子、清寧には皇子がおらず三代遡って履中天皇の皇子イチノヘオシハの遺児(顕宗、仁賢)が継いだことはみたが、その間の飯豊天皇は明治三年に皇統譜から削除された。ところが葛城の麓へいくと宮内庁管轄の飯豊天皇陵がある。
 その後、第二十五代武烈天皇にも後継皇子は不在で、こんどは五代遡り、応神天皇の五代孫と言われた継体天皇が践祚された。継体天皇は越前からやってきたが二十年間も奈良へ入らず、この謎は解明されていない。
                 (『月刊日本』から再録です)
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hachikenyakaiwai · 7 months
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【かいわいの時】延暦十二年(793)三月九日:難波大宮を廃止し、摂津職を摂津国に改める(『日本後紀』)。
1)摂津国の国務は当初、難波宮および難波津を管理するとともに、摂津国の行政を兼帯する、摂津職とよばれる特別行政機関によって行なわれた。摂津職の官衙は難波京内に置かれたと考えられ、その所在地は現在の大阪市天王寺区国分町のあたりとする説が有力である(Web版尼崎地域史事典「apedia」)。
2)摂津国府の所在地は明らかでないが、大阪市天王寺区にある四天王寺の東方に国分町(もと国分村)の地名があり、摂津国分寺の所在地と考えられるところから、当初国府もその近くにあったとする説(『東区史』第一巻)が有力である(『大阪府史 第2巻 古代編』1990)
3)国司の庁は天王寺区生野町即ち旧生野村国分地方であろう(『東区史 第1巻 総説篇』1942)
4)国分町(近世):江戸期~明治5年の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち。明治初年からは玉造を冠称。江戸初期、当地に山城国伏見の町人が移住。はじめは東伊勢町と称したという(初発言上候帳面写/大阪市史5)。町名はかつて当地に摂津国の国府があったためと伝えるが不詳。「玉造いなりうら門前筋より三すじ東の丁大和ばし通り北へ入」の町で(宝暦町鑑)、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数29軒、役数30、うち無役数1(年寄)、年寄は塩屋半十郎。古代に朝鮮や中国からの使節の迎賓館として鴻臚館が設けられたが、「摂津名所図会大成」は当地をその古址としている(浪速叢書7)。しかし「五畿内志」は現在の天王寺区玉造元町としている。明治2年大阪東大組に所属。同6年東成郡西玉造村となる(『角川日本地名大辞典』)
5)摂津国の国府「大阪市天王寺区国分町・生野区生野西? 1」「同[図書館注:大阪市]東区*法円坂町または森ノ宮中央? 2」(『国史大辞典 5 け-こほ』1985。大阪府立中之島図書館による。*ママ。現在は中央区。
(結論)まったくの謎ですが、古地名との類推から「天王寺区国分町」または「中央区森ノ宮中央」の2地点に絞られています。しかし、摂津職は、国司としての職務に加えて難波津・難波京(難波宮)の管理も行っていたところから、その官衙が難波津や難波宮から離れたところにあったとは考えにくいところから、 当会ではかいわいの内である「中央区森ノ宮中央」を有力候補地としています(下記参照)。
6)古代の摂津国に摂津職が置かれたのは、難波宮と難波津の重要性に着目したものであり、その職掌の中心は、難波宮の維持・管理とともに「津済(難波津の維持・管理)、上下公使(諸外国の使人の応接)、検校舟具(官船・私船の管理・調査)であった。当然こうした職務を担当する官衙は難波津の近傍に設けられていた(中尾芳治「古代の難波と難波津について」2010)。
(写真)「古代摂津職の所在地」(「古代はじめの古地理図」趙ほか(2014)の巻頭図版5に加筆。①天王寺区国分町 ②中央区森ノ宮中央
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vegehana-food · 1 year
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✿ 栗きんとん | Kuri Kinton ・栗を用いた和菓子。京都では似た形式の菓子を栗茶巾(くりちゃきん)とも呼ぶ。炊いた栗に砂糖を加え、茶巾で絞って形を整える。近年では平仮名表記の「栗きんとん」が多く用いられるが、漢字では一般的に「栗金飩」と表記する。 ・地域ブランド「中津川栗きんとん」が認定されており、岐阜県・中津川市の名物として認知されている。江戸時代中期ごろに中津川宿で旅人に提供されていたという説があり、現在では中津川駅前には「発祥の地」の石碑があり中津川市が発祥の地として知られている。中津川市・恵那市などでは約30店舗が栗きんとんを販売しているが、元祖とされる元禄年間創業のすや、1864年(元治元年)創業の川上屋の2つの老舗が特に知られている。
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yamada50 · 2 years
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越中国一宮氣多神社 国重要文化財指定の御本殿 戦国時代永禄年間(1558~1570)の再建と云われる三間社流造柿葺一間向拝付きです 全体的にシンプルな造ですが木組みが大きく荘厳な風体を醸し出しています 元は越中国総社とされ越中が能登に合併し天平宝字元年(757年)再び越中が分離独立の際、氣多大社より勘定したのが創祀とされています #気多神社 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ 気多神社(けたじんじゃ) 鎮座地:富山県高岡市伏木一宮1-10-1 主祭神:大己貴命、奴奈加波比売命 社格:式内名神大社 県社 巡拝:諸国一宮 #国指定重要文化財 ⛩┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈⛩ #神社 #神社巡り #神社好き #神社好きな人と繋がりたい #recotrip #御朱印 #御朱印巡り #神社建築#神社仏閣 #パワースポット #高岡市 #一宮巡り #延喜式内社 #式内社 #富山県 #神社巡拝家 (気多神社) https://www.instagram.com/p/CmcBq8vPuFp/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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elle-p · 9 months
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Scan and transcription of the Persona 3 part of Newtype Magazine March 2016
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PERSONA3 THE MOVIE
#4 Winter of Rebirth
●新宿バルト9ほか全国にて公開中
●第3章Blu-ray&DVD好評発売中
WEB▶http://www.p3m.jp/
Twitter▶@P3movie
illustrated by YUKO YAMADA, painted by MARIKO SHINOHARA(TROYCA)
finished by JUNPEI TAKATSU, background by BIHOU, text by HITOMI WADA
©ATLUS ©SEGA/劇場版「ペルソナ3」製作委員会
アイギス
自分は感情のない機械だと言うが、使命から離れても「理のそばにいたい」という想いがその身にあふれていることに気づく
結城理
「春になったらいっしょに桜を見よう」――そうアイギスと約束し、世界の終わりに対峙する戦いのなかで、「命の答え」にたどり着く
まるで当たり前に訪れるあすのように静かに近づく死の運命のなかでかわした約束はともに生きるという喜びに満ちていた。 すべての想いは空に上がり、いつか花びらようにゆらめき舞う。全4章からなる劇場版「ペルソナ3」を「主人公・結城理として、また、世界の滅びを告げる宣告者として2つの側面から表現した石田彰に聞く――。
Birth to Rebirth
人間らしくなったね
人間らしくなれたね
結城理/望月綾時役 石田彰
理の成長と仲間とのきずなを感じて
春、夏、秋、冬と季節を重ねて彼らが迎えたのは、一年の終わりではなく――世界の終わり。仲間たちのなかで心の扉を少しずつ開いていった理は、その先の春を想って、真っすぐに約束をした。
ついに封切られた 「PERSONA3 THE MOVIE」最終章。このフィナーレを主演声優・石田彰はどのように見つめたのか。
「台本を読んで、まず思ったのは、そうか、この結末が確定してしまうのか⋯⋯ということでした。いや、厳密に言うと台本の時点では、でも、映像ではもしかしたら何とかなるのかも、なんて淡い想いも抱いたんですけど(笑)、その後リハーサル用ビデオと合わせて確認して、ああ、やっぱり逃げようはないのか、と覚悟を決めました」
そう言って石田はほほ笑んだ。彼が今作で演じた役柄は、主人公の結城理と、理が仲を深めてきた友人であり、世界の滅びの宣告者《デス》という正体も明かされていく望月綾時。まず、今作の理の印象を尋ねると、「しっかりしたというか、人間らしくなったね、人間らしくなれたね、という感慨がいちばん大きいですね」という答えが返ってきた。
「第1章のときには、周りに言われたことを『わかった』と何でも受け入れていた理ですが、今では自分の意志をもち、さらに、その意志を周りに伝えて、ともにあるひとつの決断に至ることもできた。そんな理の成長、仲間たちとのかかわり方の強化は、ぜひ感じていただきたいポイントです」
演じる立場から見ても、理は季節を経るごとに、より刺激的なキャラクターになっていったのだという。
「もともとの理のような淡々としたキャラクターは、考えがブレないので演じやすいんですけど、でも、そういう芝居っておもしろいかおもしろくないかで言ったら・・・・・・あまりおもしろくはない(笑)。なので、彼のなかに心の揺れが生まれて、どんどん人間味が出てきたことがうれしかったですね。そのぶん、彼がどう感じているのか、どう考えているのかを解析していくハードルもどんどん上がっていくんですが、それがおもしろいんです」
クライマックスに向かう物語のうねりと、理が人間としておもしろくなっていく輝きとがシンクロして、それが石田本人にとってのエネルギーにもなっていく。
「何て言ったらいいんだろうな、演じていくごとに作品が『もっと来いよ!』って言ってくれる気がしたんです」
一方、綾時の印象を問うと「理と違って、社交的で行動力があって⋯⋯とタイプの違うキャラクターなんですよね」とつぶやいた。
「理みたいに周りから一歩引いたところにいつもいるようなタイプの人間にとって綾時は、ある種、こういうふうに生きられたら俺にも違った人生があったのかもしれない、と感じさせるような存在で。こういう人間が自分にかかわってきたら、どう接したらいいんだろう? とか、いろいろ考えさせられたりするんじゃないかな。演じるうえでは、理でやらないことを綾時としてやればいい、というふうに考えていました。理の裏面をやる、みたいな気持ちで向かっていましたね」
背中合わせの存在をそれぞれに表現していった石田。第4章のアフレコは、先に綾時にまつわるパートを録り、後日、理として、ほかのキャストといっしょにそこに向き合っていく、という順で進められた。
「自分が言ったセリフに対して、自分で返していく作業ですよね。もし綾時を別の役者さんが担当されていたら、相手はどんな想いを込めて、こういう言い方をしているんだろう? と、その都度受け取りながら返していくわけですけど、今作の場合は、スタジオに入って、その声を聞いた瞬間にその声の主の気持ちもわかっている、という状況なわけです。あらかじめでき上がっているパズルのようなものなので、理と綾時のやりとりに関しては、通常の作品にはないハマリ方になっているのではないでしょうか」
避けられない滅びが迫り、急速にせつなさを帯びていく物語。そのなかで最も印象深かったと石田が語るのは、理と仲間たちがひとつの決断に至るまでを描いたそれぞれの時間だ。
「かなわぬ相手だとしても正面からニュクスに立ち向かって、ガチで殴り合おうぜ、とみんなが決断する前です。この世はもうすぐ終わるよって、理不尽に自分の人生を止められてしまう事態に直面したときの、特別課外活動部のみんなの立ち居振る舞いが、それぞれ本当に生々しくって、ね。たとえば、順平が『何でこんなことになっちゃうんだよ』みたいな叫びを理にぶつけちゃったり。僕らの世界に影時間はないですから、あったとしても気づいてないですから、こんな事態が迫ってくることはないと思い込んでいますけど、でも、もしも彼らと同じ局面に立たされたら、誰と近い反応をするんだろう? なんて考えてしまいます」
第4章の監督は、第2章でも監督を務めた田口智久。監督について聞くと、石田は楽しそうに語る。
「田口監督は第2章の舞台あいさつで盛り上がった、ラブホにロケハンに行った話の印象が強くて(笑)。俺のアイデンティティはそこじゃない! と監督は叫びたいと思うのですが、でも、そんなこともあったおかげで、監督と役者の間にある垣根がすごく低くなったような気がかってにしていたので、第4章でもごいっしょできてうれしかったです」
そして、石田は、劇場版全4章を走り切った今の想いを語った。
「起承転結の起に当たる第1章で映画としての『ペルソナ3』の土台をつくって、その上に章を積み重ねてきたのですが、章を追うごとにファンの皆さんの賛同の声も大きくなっていった印象で⋯⋯。毎回熱気で劇場をいっぱいにしていただけたことが、演じる側、制作側にとっての自信につながっていました。そのパワーをいただけたからこそ最後まで走り切れたのだ、という感覚が強くあります。ありがとうございます」
●いしだ・あきら/ 11月2日生まれ、愛知県出身。主な出演作品は、「昭和元禄落語心中」八代目 有楽亭八雲/菊比古役、 「Dimension W」アルベルト・シューマン役、「銀魂」桂小太郎役ほか
10年前、理はアイギスに出会っていた。アイギスはデスと死闘を繰り広げ、最後の力で理のなかにデスを封じ込めたのだ。忘れていた10年前の記憶を取り戻したアイギスは理とみんなが苦しみながら滅びを迎えることを望まなかったが、理のことばに、アイギスも滅びから目をそらさず、立ち向かう決意をする
滅びの時が迫ることを知り、特別課外活動部のメンバーは “滅び” の運命にうろたえ、それぞれに考え、向き合っていく。順平は理に辛く当たってしまったこともあったが「俺、サイテーにかっこ悪かった」と謝り、理がどんな選択をしても自分もみんなも恨まないと伝えた
綾時の正体は10年間理のなかに封じられ、大型シャドウを倒すごとに理のなかで育った宣告者・デスだった。来たる滅びの時を前に、綾時は自分を殺してすべてを忘れて迎えるか、このまま恐怖におびえながら迎えるかの選択を理にゆだねた。綾時を殺せるのは理だけ――綾時と理のつながりが生んだ最後の選択を前に、理は決意を固める
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tokidokitokyo · 2 years
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Tokugawa Tsunayoshi's Birthday
1646年2月23日 (正保3年1月8日) is the fifth generation Edo shogun Tokugawa Tsunayoshi's birthday! He was born in the year of the dog and as a result of this viewed them as animals deserving of particular protection. He passed laws punishing those who abused dogs and other animals. He protected trees with birds' nests from being cut down and even prevented people from fishing with his new laws.
生類 しょうるい living things
憐み あわれみ compassion
令 れ�� command
犬公方 いぬくぼう "Dog Shogun" (nickname of Tokugawa Tsunayoshi)
熱心 ねっしん zealous, enthusiastic
名将軍 めいしょうぐん famous shogun
元禄時代 げんろくじだい Genroku era (September 30, 1688-March 13, 1704)
景気 けいき economic activity
花開く はなひらく to blossom
評判 ひょうばん reputation
巣 す nest (e.g. birds, bees, etc.)
密告する みっこくする to inform (against)
賞金 しょうきん monetary reward
いぬ年 いぬどし the year of the dog (12 zodiac signs)
説 せつ theory, rumor
犬小屋 いぬごや kennel
役人 やくにん government official
御犬様 おいぬさま very formal and reverential way to refer to a dog
保護 ほご protection
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tokyowalking · 7 months
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Nippon Daemon in Asakusa.
Nippon Daemon is a fictional character who appears in the popular Kabuki play ``Shiranami Gonin Otoko.'' He was a real-life thief during the Genroku period of the Edo period, and gained popularity for his gentle appearance and warm personality. You can see Tokyo Skytree in the background.
浅草の日本駄右衛門。
日本駄右衛門は、歌舞伎の人気演目「白浪五人男」に登場する架空の人物です。彼は江戸時代の元禄時代に実在した盗賊で、そのいなせな姿と人情味あふれる性格で人気を集めました。後ろには東京スカイツリーがみえます。
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furoshikiblog · 7 months
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【 雛祭り 】
川で身を清める風習が古代中国より伝わったとされ、 人形を流して穢れを祓うという元々日本にあった風習と融合、 そして王朝貴族のひいな遊びなども加わって、 時代が経つにつれ現在の形になったという雛祭り。
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源氏物語の中にも「雛」の文言が出てくるようですが、 年中行事としては元禄の頃に定着、 安定した江戸の時代に精巧で豪華な雛人形がつくられるようになりました。
飾った雛飾りは終わったらすぐに片付けないといけない、というのは、 災厄を受け止めた雛人形を片付けないと厄を流していない、ということになるから。
有名な「お内裏様とお雛様」というのは厳密には間違いだそうで、 男雛(おびな)と女雛(めびな)一対で「内裏雛」と言い、 「うれしいひなまつり」という童謡から広まったということです。
代表的で一般的な内裏雛の雛飾り以外にも、 「吊るし雛」「雛流し」「けし雛」「糸雛」「お雛がゆ」など、 地方色豊かな雛祭りも現代に引き継がれているようです。
   手渡しに 子の手こぼるる 雛あられ  中村汀女
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eurasia · 1 year
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忠義の観念とは、 「君、君たらずとも、臣、臣たるべし」 という精神的な掟である。 つまり江戸時代の前は忠義という観念はあまりなかった。元禄年間にはいってさえ赤穂浪士の仇討ちが、堀部安兵衛によってはじめて君主の位置を父と同様に置き、仇討ちの対象にできるという理論構成をしたことでもわかる。 戦国の気風を多く残す江戸時代初期はまだ下剋上の論理が横行していて、 「部下の生活を保障できない主人は主人ではない」 という現実重視の考え方が支配的だった。 が、これでは困る。というのはもう日本の国を自由に切り取りできるような状況は去った。大名にしろ農民にしろ所有する土地は全部固定されてしまったのである。勝手に自由にはできない。そうなってくると、かつてあれほど一所懸命の思想で武士が目の色を変えていた土地を自由に与えたり取ったりすることもできない。全般が“固定社会”に移行しつつあった。
出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈 江戸時代が260余年も続いた本当の理由 (2ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
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kuribayashisachi · 1 year
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勉強メモ 野口良平『幕末的思考』 第2部「内戦」 第四章「未成の第二極」1~3 細かいメモ
野口良平『幕末的思考』みすず書房 第2部「内戦」第4章「未成の第二極」1~3 
きのう大まかに書いたことの、さらに書き留めておきたい細かいことどもをメモします。
【目次】
■中江兆民とルソー
■西郷に希望を託した若者たち
■会津藩士たち
■増田栄太郎と福沢諭吉
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■中江兆民とルソー
 中江兆民は、大久保に直談判して(司馬遼太郎『翔ぶが如く』で、中江青年が大久保の馬車を追いかけて、乗せてもらいながら売り込みをするシーン、印象的ですね。なんか、長い小説の中に、二回くらい、この同じシーンが出てきたような)岩倉使節団に随行する留学生としてフランスに学ぶ。
 ルソーの『社会契約論』に目を拓かれ、これを訳して日本に紹介するが……
まず、ルソーの思想とは。
ルソーの最初の著書『人間不平等起源論』では、「すべての人間が本来平等である」という。
我々をつないでいる身分制度の鎖を解き放て! と。
(高校生の時、これを聞いてときめいた。平等だったのか! しらんかった! 生まれつき高級な人と、わたしのようなどうしようもないのがいて、そういうことは運命的に決められているのだと思っていた! 民主主義の時代に生きてる私でさえそう思うのに、身分制度の時代に生まれてそんなことを考えたルソーって天才だ! と。うれしかった。平等なんだ!! わーいと思った)
だけど、どうだろう。どこまでも自由だとしたら、力が強かったり悪知恵が働いて良心のかけらもない人が、気の弱い人や体の弱い人を押しのけて、奴隷にしたり餌食にしたりするのも自由、ってことになる。そしたら弱い者には勝ち目のない地獄になる(今の日本のようですね)。
 この状態を、ホッブスは「自然状態」と���って指摘した。
『人間不平等起源論』の七年後、ルソーはこれに答えるべく?『社会契約論』を書く。
強くて悪い者が好き放題する自由は、やっぱ困る。
で、こうまとめたそうだ。p176
《人間は、ルール(鎖)なしには自分を自由にする力を持たない。ルールには、正当化しうるもの(鎖)と、そうでないものとがある。》
その正当化しうる鎖とは、力ではなく約束。(じーん)
《正当化しうるルールの源泉とは、各人が自己保存と自己への顧慮を手放すことなしに、すべての人と利益を共有しうる結社の創設への合意(convention)すなわち「社会契約」である。》
しかし、難問が!
「えー。おれ強くて頭いいいから、好き放題してても困らない。ルールなんか従いたくないんだけど。自由がいい」という横暴な人たち(往々にして世の中の主流になる)を、どうやって約束の席につかせうるか。
��
ルソーは「立法者」というスーパーマンの存在���考え出して、この人になんとかさせようとしている。
中江も自分で考えた。
やっぱり答えは出ないけど、
徳が高くて強い立法者と、その補佐役がいたらいい!
とこのとき考えたそうだ。
そして、この立法者が西郷さんで、補佐役がオレ!
でも、中江の「フランスすばらしい!」は、航海中のベトナムでかげる。人権に目覚めたはずのフランス人が、ベトナム人に酷いあしらいをしている!
「人権を考え出したのはヨーロッパ人だが、実行するのはアジア人だ!」
しかしさあ、どうやって実現する? (むずい)
■西郷に希望を托した若者たち。
大久保たちの裏技を使ったやり方に敗れ、野に降った西郷。 (私としては、やめんでほしかった)
大久保たちのごり押し近代化(武士の禄を奪い、藩をなくし、誇りだった刀を強制的にやめさせ……)に異議申し立てせんという旧士族たちが、方々で叛乱を起こす。
(江藤新平のことももう少し知りたいなあ)
西郷は、慕ってきた子分たちと共に鹿児島で私学校を開いていた。
西郷自身は、ことを起こすことに対して慎重だったようだけど、 結局、大軍を率いて、東京へ押しかけ政府のやり方をあらためさせようと「挙兵」。
鹿児島を出発。
でも熊本で負けてしまい……。 明治10年9月、よくドラマに出てくる最期をとげる。
この節で、私が胸を衝かれたのは、
中江兆民世代の、ほんとに有望な人(小倉処平、宮崎八郎)、 迷える青年(増田栄太郎)らの戦死だ。
小倉処平は、 日向飫肥藩の仲間たちをひきいて西郷軍に参じた人望ある人。 かつては藩主に留学制度を進言し、選抜した青年たちを率いて長崎に学ぶ。のちロンドンにも留学。《英国仕込みの自由主義者であり、中央政府による急進的な近代化とは異なる、もう一つの近代化の可能性を探っていた人物だった。》p183 (滂沱)
宮崎八郎は、熊本荒尾村の庄屋の次男(実質長男)。 《人民の擁護者を任じる家風の中で育てられた》p179 (中岡慎太郎みたいね)
八郎は、はじめは、列強の理不尽への怒りや、政府の強引さへの不満から、征韓論に熱中し、征台義勇軍を組織するなど、物騒な感じだったが、中江訳『社会契約論』に目を拓かれる。
それがどうして、西郷の武装蜂起に参加?
→「キミの考えは西郷とは違うじゃないか、どうして西郷軍へ?」と聞かれて、 「西郷を助けて政府を倒してから、西郷を倒すんじゃ」 (西郷軍に身を投じた若者には、こういう人が多かったようだ)
けれどもどちらもならぬまま、戦死。
その克明な日記は、預かった人が川の徒渉に失敗して永遠に喪失してしまったと。 ……このシーン、小説のよう。 川の畔に立ち尽くしたような気持ちに。
■会津藩士たち
また、西郷軍を熊本で果敢に防いだ政府軍には、多くの有能な旧会津藩士が加わっていたことも記される。
極寒不毛の斗南藩へ送られたのち、一族を率いて新政府の警視庁に出仕した、元会津藩家老の佐川官兵衛は、阿蘇山麓で戦死。(呆然)
同じく元家老の山川浩は、西郷軍に囲まれた熊本城を後巻きして救出する。
いっぽうで、同じく会津藩士だった長岡久茂は、政府打倒を試みて、獄死していた。
両極に別れたように見える彼らの行動を 著者は、「同じ動機」によるものと記す。
《彼らが目指していたのは(略)──戊辰戦争が勝者のためだけに戦われたものではなかったことを自力で証明してみせることだった。》p179
■増田栄太郎と福沢諭吉
増田栄太郎は、福沢の又従兄弟にあたるという。
増田は遅れてきた攘夷青年。それだけに、「攘夷に落とし前をつけなくていいのか」という答えを求めていた。 殺してやろうと思っていた福沢から「敵である列強の良いところを学べ」といわれて、一時は慶応大学にはいるが、すぐに退学。郷里で結社を作ったり、新聞を発行したりする。 これらの手当たり次第のような闇雲なガッツは、《内心の葛藤の受け皿を手探りで構想する作業だった。》p186
(個人的には激しく共感;; むしろ出来ブツの小倉処平さんより。ああ、この人、もっと長く生きていればなあ、生き方は見つかったに違いないのに)
そんな「迷走」のさなか、増田栄太郎は、西郷軍が田原坂で敗退してから、わざわざ敗軍の鹿児島勢に加わる。
何を思って?
その死には諸説あるが、曙新聞は「不敵な笑いを浮かべて処刑された」と報じた。 最期に披瀝したといわれる増田の言葉は、「西郷先生バンザーイ」というかんじのもの。 探していた思想はどこへ……。(余計に悲しい)
西郷の死と、救えなかった増田の刑死報道に衝撃を受けた福沢諭吉は、『丁丑公論』を窃かに書く。 西郷の敗北ののち、世論がいっきに「西郷=賊」視したことへの激しい疑問から。
福沢は言う。
政府が専横になることは仕方ないことだが、あまり野放しにするととんでもないことに。これを防ぐためにも抵抗は必要だ。と。
かつて『文明論之概略』で、“難題を抱えていながらそれで乱れない(戦争したりしない)のが文明というものだ”と喝破した福沢だが、この文明論は、何の役にも立たなかった。
西郷の死は、福沢の思想に深みを与えたと、著者は言う。
これまでの『学問のすすめ』『文明論之概略』では、 眠りから覚めている自分が、眠りこけているみんな(愚民)へ呼びかけていた。
『丁丑公論』では、 眠りから覚めるのが「速かった人」と「遅い人」の差があるだけだと、福沢は気付く。
このことに福沢は
《おそらくサイゴンの中江篤介よりも、城山の増田栄太郎よりも、遅れて気づいたのである。》p189
心がどよめいた。
どうしてだろう。
すっきりしたような、著者の福沢評にようやく合点がいった、ような。
いやちがう。 利口者の福沢の真摯な“愕然"が胸を打ってくる。
利口で視野が広いがために、低い苦しみの地平からものがみえなかった。 凡百の利口者なら死ぬまでそれに気づかないだろう。
だがやっぱり福沢は本物だったのだ。
私はまことに直感的に、福沢は信用できなかった。 なんだってこう上から目線なのか。何を持って自分は上から見てるつもりになっているのか。と。
でも、福沢も、その不思議な「特権階級」にあぐらをかくような人ではなかったのだ。
西郷の死と、フラフラしているかに見えた若い増田の問い掛けを、心と頭脳を駆動して受けとめたのだ。
そこを(これまで福沢をすごくひいき?にしてるように見えた)著者にとかれて、
こういう利口者が、真摯にがっくり「膝を折った」音に、心を叩かれたのかもしれない。
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lierrelearns · 8 months
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天守閣 小田原城天守閣 「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。 元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。 現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復興され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。 そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。 標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、��く利島、房総半島までを望むことができます。
“Tenshukaku” means “Castle tower”, the symbolic structure of a Japanese castle. This castle tower served as storehouse, watch tower, or others in Edo period. Having a role to protect the west of Edo, the capital of Japan, the Odawara Castle was a special castle that even the Tokugawa shogunate family stayed at. Although having been demolished during the Meiji period, it was restored in 1960. Since a large-scale renewal completed in 2015, various historical materials such as armors, swords, etc. have been exhibited inside the structure. From the topmost floor of the Castle tower, the superb view of the entire Sagami-wan Bay can be enjoyed.
[Chinese]
文久図(小田原城天守閣蔵) 文久年間(1861~1864)に作られたとされる絵図で、幕末期の天守の姿が描かれています。
天守閣入場料 Admission fee 個人 - person | 団体 - Group (more than 30 people) 大人 - (over 15 years old) 500円 (500 en) | 400円 (400 en) 小中学生 - Elementary/Junior high school student 200円 (200 en) | 160円 (160 en)
開館時間:AM9:00~PM5:00 (入館はPM4:30まで) 9:00A.M. - 5:00P.M. (Last admission 30 minutes before closing time)
Vocab 天守閣(てんしゅかく)castle tower, keep, donjon 天守(てんしゅ)castle tower 象徴(しょうちょう)symbol, emblem, representation 内外(ないがい)interior and exterior 見張る(みはる)to stand watch, guard 物見櫓(ものみやぐら)watch tower 用いる(もちいる)to use, make use of 殿主(でんす)(Buddhist) priest in charge of a temple’s clerical duties 殿守(とのもり)palace guard [same for 主殿(とのも)] 記する(きする)to remember, to note とされる )…is considered to… 将軍家(しょうぐんけ)family positioned to accede the shogunate 宿所(しゅくしょ)address, lodgings, accomodations 途中(とちゅう)en route 徳川家光(とくがわいえみつ)Tokugawa Iemitsu 武具(ぶぐ)arms, weapons 展望(てんぼう)view, outlook 元禄(げんろく)Genroku era (9.30.1688-3.13.1704) ほとんど almost all (of) 倒壊(とうかい)destruction, collapse 焼失(しょうしつ)destruction by fire, being burnt down 宝永(ほうえい)Hoei era (3.13.1704-4.25.1711) 外観(がいかん)outward appearance 付櫓(つけやぐら)attached turret/watchtower 両者(りょうしゃ)pair, two people, two things 続櫓(ぞくやぐら)a row house watchtower that continues from the gate watchtower)(櫓門) 棟(とう)counter for buildings 群(ぐん))group 廃城(はいじょう)abandoned castle 解体(かいたい)demolition, taking down 保つ(たもつ)to keep, preserve 市制(しせい)municipality 鉄筋コンクリート(てっきんコンクリート)reinforced concrete 復興(ふっこう)reconstruction, restoration に際して(にさいして)at the time of, during 設計図(せっけいず)plan, blueprint 模型(もけい)model 最上階(さいじょうかい)top floor 高欄(こうらん)railing 設ける(もうける)to prepare, provide 耐震(たいしん)resistant to earthquakes 改修工事(かいしゅうこうじ)repair work 展示(てんじ)exhibition, display 全面的(ぜんめんてき)total, complete, extensive 古文書(こぶんしょ)historical document, archives 甲冑(かっちゅう)armor and helmet 刀剣(とうけん)sword 発掘(はっくつ)excavation 出土品(しゅつどひん)artefact, archaeological find 標高(ひょうこう)elevation 相模湾(さがみわん)Sagami Bay 一望(いちぼう)sweeping/unbroken view 三浦半島(みうらはんとう)Miura Peninsula 伊豆大島(いずおおしま)Izu Oshima 利島(としま)Toshima Island 房総半島(ぼうそうはんとう)Boso Peninsula 望む(のぞむ)to expect, hope for, look forward to 入場料��にゅうじょうりょう)admission fee 入館(にゅうかん)entrance (into a library, museum, etc.)
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ari0921 · 1 year
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和五年(2023)5月8日(月曜日)弐
    通巻第7741号
 岸田訪韓を評価すべきだが、韓国の外交転換こそ注目だろう
  日本は安禄山の蜂起を三年知らなかった。これが歴史の教訓である 
************************
孝謙、淳仁、称徳、光仁天皇の時代において、日本の最大級の外交的変化は、渤海国からの度重なる使者の来駕である。
 渤海は高麗に替わって建国された。いまの北朝鮮である。渤海使は敵対した新羅の沖合をさけるため船は日本海を縦断し、出羽から越後、能登から若狭へ漂着することが多く、太宰府へ逐一回航して丁寧にもてなし、膨大な土産を持たせた。
 競うように新羅からも使節が太宰府へ入り、最初、大和朝廷は朝貢と受け取って歓待した。文書や使節の態度から判断しても、明らかに朝貢だった。日本の宿敵の国がころりと態度を変えて来日するのだから裏にナニカアルに違いない。
 実態は朝貢を装い日本の防衛体制を観察し、また大和王朝の政治空気を把握することにあった。情報収集である。
 新羅は次第に図に乗って官位の低い大使を派遣するようになった。態度も横柄、傍若無人の無礼を極めるようになったため新羅使は太宰府で留め置かれ追い返された。
新羅の態度が横柄尊大になった背景には唐が乱れ、安禄山が叛乱をおこし、国土は荒廃し、新羅に対しての軍事的な脅威にはならなかったからだ。大和朝廷はこの情報を三年ほど知らなかった。ということは新羅使は安禄山の乱を知っていながら大和朝廷には意図的につたえず日本の反応を確かめに来た可能性がある。日本のこうした情報戦の失態はいまと変わらない。つまり韓国の対日外交激変は裏にナニカアルのだ。
 天智天皇の御代、白村江の闘いで唐の海軍に敗れ、2100名の百済高官が日本に亡命した。天智天皇は水城と防塁、城を構築し、防人を強化したばかりか、各地22ヶ所に築城 防衛力を拡充し、新羅の侵攻に備えた。
 ところが、新羅は逆に日本が攻めてくると防衛態勢を急ぎ、「ご機嫌取り」のため「朝貢」を装い屡々来日した。
 天平宝字二年九月十八日に渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、渤海大使の輔国大将軍・行木ら二十三名を随行した。日本海側に帰着したので越前に滞在し、疫病感染の有無を調べるためニケ月を過ごす。
 帰国十日後に小野田守に従五位上を授け、ほかの随行員六十六人にも位階を授けた。 同年十二月十日、すなわち帰国から七十日後に小野朝臣田守は安禄山の謀反を伝えた。安禄山の挙兵は755年のことだから、なんと三年間、大和朝廷は唐の政変を知らなかったのである。
 ▲安禄山の乱が日本政治にいかなる変化をもたらしたか
 小野田守は次のように上奏した。
 天平勝宝七年の十一月九日に御史太夫兼氾陽節度使の安禄山が蹶起し、自らを大燕聖武皇帝と名乗り、邸宅を潜龍宮と名付けた上、年号を聖武と改元した。安禄山は二十万の兵力を率いて忽ち洛陽を落とした。翌六月に玄宗皇帝は難を避けるために蜀の成都(現在の四川省)へ避難した。
渤海に援軍要請があり、騎兵四万をもって賊徒を平定されたしと懇請された。渤海からだと安禄山の後方を攪乱できる。しかし渤海王は派兵要請を疑い、派兵を見送った。途中から安禄山の反乱に加わったのが史思明だ。だから「安史の乱」とも言う。
 玄宗側の反撃準備が整い、ようやく官軍が乱を平定し、玄宗は長安に戻った。逃亡途中では随行した兵隊たちに不穏の空気が流れたため玄宗は愛妃楊貴妃の自裁を認めざるを得ず、長安に復帰しても嘗ての政治力は失われていた。側近は朝衡(阿部仲麻呂の中国名)だった。
 
 かく上奏した小野田守とて、まだ安禄山が部下に殺害されたという情報を知らなかった。渤海もその後の情報を隠匿したわけではなく長安に派遣した情報員が戻らず実情をつかんでいなかった。
 唐土の異変を知った大和朝廷は太宰府に勅して「安禄山は凶暴なる胡人(ソグド人だが、当時は「胡」と称した)、狡猾である。天命に背いた反乱は必ず失敗するが、寧ろ海東へ兵を進める華もしれず、この緊迫状況を太宰府はよく理解し、たとえ安禄山が来航せずとも防衛を怠るな」とした。
 怡土城築城を任された吉備真備は工事に力を入れ、また京では渤海使の歓待宴が続いた。淳仁天皇はかれらに位階をあたえ、藤原仲麻呂は自邸で宴を催し、賑やかにもてなしたうえ夥しい土産を持たせた。
 この時に大和朝廷を支配した空��は唐が衰弱し、渤海が北から協力して新羅を挟み撃ち出来ないか、今こそチャンスではないかということだった。これは当時権力の頂点にいた藤原仲麻呂の情勢認識に欠陥があったということである。 
 
 ▲むしろ韓国がなぜ外交舵取りを変えたかの背景に謎がある。
 北朝鮮内部で何かが起きている。あるいは静かに秘密裏に中国が北への態度をかえたことを韓国が気づいた。米国からも精度高い情報を得て、日本とは修好する時期だとの判断があった。また従来の反日路線は、北朝鮮が情報操作していた。
 さて岸田首相の訪韓である。
 5月7日、アフリカ四カ国歴訪を終えて帰国したばかりの岸田首相はソウルへ飛んだ。
 ソウルの大統領府で 尹錫悦(ユンソンニョル)大統領と会談し、「元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)」の訴訟問題など日韓両国の課題に向き合い、関係改善を加速させる方針で一致した。
首相は会談で元徴用工問題に関し、「厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。
 日本がこれまでの態度を軟化させたのは財産請求権である。
 1965年の日韓請求権協定で「完全に解決済み」とされたが、つねに韓国が蒸し返してきた。
ところが尹政権となって提示してきた徴用工訴訟問題の解決策で突然活路が開けた。岸田首相は「おわび」「反省」は口にせず、尹大統領も謝罪を求めることはしなかった。
 外務省幹部は「大きな前進。文在寅(ムン・ジェイン)政権では実現しなかっただろう」とする。
韓国大統領は「共通の利益」のために歴史問題と切り離して協力を進めるべきだと言い切った。
(資料編に続く。10分後に配信します)
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hachikenyakaiwai · 1 year
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺��男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八月十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台地フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図書館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑好尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
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retepom · 1 year
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【こんな時代だぜ】No.161【俺達は止められない】
答え合わせ推しの副流煙で無事過呼吸になったところへ激オモロ本誌展開を浴び こうしちゃいられねぇッッ!!となった次第です。ギュッと圧縮していますが本当に今週面白すぎたので。まだ本誌を読んでいない方は一刻も早く読もうな。
「お前ら帰ってきたばっかでよく食えんな」
ニコ、ジナショの食いっぷりに若さかと言うけれど結局何歳なんですかね。イチコよりちょっと歳上?答え合わせ会話の雰囲気だとクリードの方が更に歳上っぽいけれどそこまで離れてなさそう。20代後半〜30代前半…?しかしそんなクリード=デッカードの前の皿はちゃっかり空です いっぱい食べる推しが好き 食事の痕跡があるだけで満面の笑みになってしまうな……
ファン警戒態勢でも飯は食う出雲風子めちゃくちゃ行儀悪くて笑っちゃった。訝しげなクリード隊長しか得られない栄養素も補給。ありがとうございます。そして今回はしっかりネクタイ締めてる…また好きになっちゃうじゃん……もうダメ(手遅れ)
フィルママやっぱり美人だしフィル君ご飯食べられるの本当に良"か"っ"た"ね"ぇ"ッ"!!となるんだけれどショーン=ダッツの笑顔がUNSEENなのほんともうお前 いいヤツだなお前ほんと…“身を隠したい”ってのが切ないな……ようこそUNIONへは喜ばしい限りなんですけれども。
UMAみたいなもんことファン=クーロンが“20年以上も自分を待っているかもしれない”と思える出雲風子も結構ポジティブ(?)ですよね。普通は20年も姿を現さない相手を想い続けられないよ。
「誰?」
横顔とか身体のシルエットは女子だな…え?チャイナガール??シェンより先にムイちゃん来ちゃうの??
「お手並み 拝見」
ラーヌンッッッ バトルの中で使われちゃったから最後に受け止めて食うみたいなアレは見られなかったですがこういう展開大好きです。もっとやって。風子の新技良いな…となりつつ食うのをやめないジナショの肝が座りすぎ問題。宇宙を経験した10代はちげーな…
「お見逸れしました!!」
「あなたのお力でどうかお助けください!!」
「ファンに土をつけたあなたにしか頼めない!!」
「私ではもう止められないんです!!」
ファンが“出雲風子に負けた”という話を周囲にしているかもしれないという驚愕の事実
「ある武道大会に出て頂きたい…!」
「そこでファンを倒し止めて下さい!!」
「そして兄を…」
アッッッッッ
「シェンお兄ちゃんを 助けてあげて!!」
メイちゃん!!!!!!!!!!
生"き"て"る"ッッ"!!!!!!!!!!!
メイちゃんが生きて…大きくなっている……ループ後のこう…切なさと嬉しさの狭間……メイちゃんの死がシェンを修羅に変え、UNIONに導き、ムイちゃんと出会う、そういうシナリオでは少なくとも無い、ということ……ってことは何?シェンはもう純粋に“天下無双”を目指して師匠とタイマンしようとしているの?ハッ…兄弟子……ロウは!!?ロウは生きていますか!!?!?ロウメイはワンチャンありますか!!?!?!(ドサクサオブ・ザ・イヤー)
[天擂祭][予選当日]
テンポが鬼!!!!!!!
『全世界の“真”武闘ファンの皆様!!お待たせ致しました!!これより…』
『この世界で最強の武闘家を決める』
『天擂祭を開始致します!!』
ウ"オオオオオォーーーッッッッッッッッ!!!!!!!!!!殺せーッッッッ!!!!!!!!(治安の悪い客)
この頁、初見テンション上がり過ぎて見逃していたんですがちゃんとマント羽織ったUNIONメンバーがいるんだよな最高かよ
『武の頂点!!』
『東西南北…いや 天上天下不敗の男!!』
『ファン=クーロンに挑むのか!!』
「くだらん」
「いまここで」
「全員のしてもいいのだぞ」
も〜!!!!?!?何!!!!?一挙一動が今一番面白い男ォ!!!!!!!!
[つまらん]
[オレが求めるのはただ一人]
それもう恋じゃない???????????
『始めッ』風破連勁!!
太ってる&だらしない煽りでブチ切れマッハの春麗風子最高かよ〜〜〜!!?!!!?ファンの表情 初恋の相手が突然目の前に現れたんか?わかるよ 座ってる場合じゃねえわコレ
『いや…ここだけじゃありません!』
『各ブロックで無双している猛者がいる!!』
ビリー
流派:近 接 戦 闘 ( C Q C )
まままままっっっ ビリー様まっ CQC ハァッア…CQC……確かにブロージャでもしれっと対人やってたけどやっぱりできるんか スネークみたいな動きできるんか すき うっかり高所恐怖症盲目おじさん すき 頑なに上着に袖は通さない!!もうここまでくると大したもんだよ 雲雀恭弥かビリー様ぐらいのもんだよ トンファー使う???
ボイド
流派:ボ ク シ ン グ
上脱いでるけどチャイナ=ボルクスありがとうございます 本当に 笑顔でファンサを忘れないボイド=ボルクス元選手 一生好き 貴方のリングは地球だよ!!!!!!!
友才
流派:月 光 流 抜 刀 術
ヒイィーッ!!!!!余裕の飲酒!!!!!!!抱いて……………………全世界抱いてる貫禄 どんな衣装もよく似合う見目麗しき友才様 刀の錆にして ヌンチャクとか使ってるやついるから抜かなきゃ刀もオッケーということ?この人風圧で木を圧し折るけど大丈夫??
風子
流派:真 八 極
「来たか…出雲風子!!」
「やりすぎちゃった」
可愛い顔して何言ってんの!!?許す
ファン=クーロン大歓喜ってレベルじゃねーぞこれ嬉しくて気絶するんじゃない??しかも別の猛者も来てくれたじゃんこれはもう選り取り見取りでヨダレが止まらない案件だろ 武闘派4名揃い踏みの天擂祭編楽しくない訳がない 俺がスポンサーになる!!!!!!!!!!!
他UNIONメンバーも観戦でチャイナファッション宜しくお願いしまあああああぁすッ!!!!!!!!ジーナちゃんは白チャイナが絶対に絶対に合うからね 賭けても良い イチコさんはスリット深めのドレスをくださ…テラーは隊長応援法被着なきゃいけないからソレどころじゃない??クリード=デッカードは袖が破れました
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kennak · 2 years
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元禄の頃出版した「江戸鹿子」を見ると、亀戸に石神社(いまの石井神社)と云うのがあって、同書は高台にある石棒を祭ってある同神社と共に記して居ります。(中略)亀戸の石棒に対して面白いのは、吾妻の森から北の方、中川に接した立石村に熊野神社があって、此処に石棒を祭っていることです。私は此の立石の石棒も亀戸の石棒と共に、すでに其の時代から其処にあったものと思われます。(鳥居竜蔵書「武蔵野及其周囲」)。
亀戸石井神社再訪 - mmpoloの日記
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