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#宮城県民としては複雑ですが
ari0921 · 1 year
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我が国の未来を見通す(70)
『強靭な国家』を造る(7)
歴史から学ぶ「知恵」の適用(その2)
宗像久男(元陸将)
───────────────────────
□はじめに
 ロシア・ウクライナ両国で軍事作戦に関わってい
る人は、このような事態の発生について常に頭にあ
ったことと推測していますが、“悪夢”が現実のも
のになりました。6日、南部へルソン州の巨大ダム
が何者かによって破壊され、河川の下流地域のイン
フラに甚大な被害が発生しているようです。このダ
ムは、上流のザポロジェ原発の冷却水取水の役割も
担っていることもあって、ダムの決壊の影響は計り
知れないものがあります。
犯人はどちら側か、故意か過失か、折からの増水の
影響による自然決壊なのか、様々な見方があって8
日時点では不明のようですが、ダムがあるドニエプ
ル川の西岸はウクライナ軍、東岸はロシア軍が占領
しているという微妙な場所に位置しているおり、被
害地域は両岸に及んでいることもあって、真相を見
極めることを難しくしているようです。もし人間の
故意の“しわざ”だったとすれば、地上から宇宙ま
で何重もの監視態勢の中での“犯行”であったこと
から、周到な計画や準備のもとで、隠密で巧妙な手
段で実施したことでしょう。
一般的な見方をすれば、ウクライナにはダムを攻撃
する大義名分もメリットもなきに等しく、ダムの下
流地域の混乱に加え、万が一の場合、自国内の原発
の冷却ができなくなる可能性をあるような軍事作戦
は、“軍事的合理性からはあり得ない”と考えるべ
きでしょう。
一方、ウクライナの反転攻勢を間近にした現在、ウ
クライナ国内の長期的な混乱に加え、反攻を阻止す
るため、巨大な河川障害の設置という意味でのメリ
ットは計り知れないものがあります。ダムはロシア
の管理下にあったので、ロシア側であれば、隠密な
手段による破壊作戦を遂行できたと推測できます。
これまでもダムに対する砲爆撃などはあったという
ことなので、それらによるダムの損傷が折からの増
水に耐えられなくなって“決壊”したという見方も
あるようですが、いずれにしても、本事案は、今後
の台湾問題や我が国の防衛などを考える上でとても
参考になることは間違いないと考えます。重大な影
響があるインフラへの攻撃の効用に加え、巧妙な手
段で攻撃に成功すれば、「相手がやった」と非難す
ることによって責任逃れすることができる“手口”
としても戦例になることでしょう。
各国の間には「ここまでやるか」とロシアを非難す
る声が多いようですが、ウクライナ戦争はまたひと
つ「ラダーが上がった」と認識する必要があると考
えます。今後、実際にウクライナ軍の反攻が成功し、
その過程でロシア側が再び“許容限度を過ぎた”と
認識した時には、さらにラダーが上がることが懸念
されます。その段階でロシアが強硬手段の行使には
至らなくとも、事態がここまで来ると、双方の歩み
寄りによる停戦合意は考えられず、本戦争の解決は
さらに遠のくことでしょう。
国際社会は、ウクライナ戦争は“よほどのことがな
い限り、数年単位で続く”ことを覚悟しつつ、食料、
エネルギー、そして安全保障体制など、あらゆる既
存の体制や慣行を見直す必要があるでしょう。その
中には当然、日本も含まれることは間違いありませ
ん。歴史は、1つの事件や事案が引き金となって、
その前後に大きく“様相”が変わることを教えてい
ます。その意味でも、“最悪の事態”を冷静に見積
もり、諸準備を怠らないことが肝要です。
▼「相応の力を持つこと」──少子化対策
さて前回に続き、歴史から学ぶ知恵の第2は、「相
応の力を持つこと」を挙げました。国防上は、自衛
隊の能力増強に加え、核抑止体制の強化、政治家や
官僚たちの“能力アップ”などまで提言しましたが、
私自身は、書籍やメルマガの中では、AIとかドロ
ーンなど、昨今の軍事技術の進歩に絡むものにはあ
えて触れませんでした。
ウクライナ戦争や昨今の周辺情勢の厳しさもあって、
昨年末に「戦略3文書」がまとめられ、依然として
不十分な点はあるとしても、画期的な防衛力増強に
向って舵を切ることが明確になりました。OBを含
めて有識者たちが様々な角度から、我が国の防衛態
勢のあるべき姿について言及していますので、詳し
くは省略します。
一方、二言目には「外交努力で」と発言する向きも
ありますが、「外交の根幹に国防(軍事)力がある」
という、人類の歴史の中でも、現在も、これから先
も変わらない、“まぎれもない事実”があることに
ついて、このような考えを持つ人たちはもっと学習
し、ぜひ理解してもらいたいと願っています。
戦後の我が国にあって、国防とか安全保障の問題と
は全くかかわりのない生活をしておられる一般の国
民の皆様はしかたないとしても、大学までの高等教
育を受け、現実の国際社会などに精通しているイン
テリとか有識者とかいわれ、国や社会のリーダーと
して活動している人たちがなぜこの分野のリテラシ
ーが低いのか、言葉を代えれば、なぜ“誤認識”し
ているのか、なぜ“軽率”なのか、なぜ“甘い”の
か、いつも理解に苦しんでいます。
「国民の精神」については、後日、詳しく述べるつ
もりですが、このような大方の国民の風潮とか認識
は、国防などに限った問題ではなさそうです。我が
国の未来に横たわる「暗雲」に照らして考えると、
「相応の力を持つこと」をいう観点から“あらゆる
分野に手を打つ”時期に来ていると私は考えます。
まず「少子化対策」です。政局でもすでに話題にな
っていますが、早急な対策の必要性を訴えるショッ
キングなデータが6月2日、厚生労働省から発表さ
れました。令和4年の人口動態統計(概数)によれ
は、出生率(正確には、1人の女性が生涯に産む子
供の数を示す合計特殊出生率)が、前年比0.05
ポイント減の1.26となり、平成17年と並び過
去最低になったということです。1年間に生まれた
子供の数も77万747人(前年比4万875人減)
だったようです。
コロナ禍も影響もたぶんにあったとはいえ、1年間
の出生者数が80万人を割ったのは、“明治32年
(1899)年に統計を開始して以来、初めて”だ
ったようです。
改めて、我が国は人口動態を振り返ってみますと、
江戸時代はさほど人口増はなかったのですが、明治
維新の頃は3330万人でした。その後、急激な人
口増となって、大東亜戦争においては約300万人
の犠牲者が発生したとはいえ、終戦時には約720
0万人を維持していました。戦後は、ベビーブーム
などもあって急激な人口増が続き、2010年には
1億2800万人を数えましたが、その後は、減少
の一途をたどっています。
戦後の出生率も昭和40年代後半の「第2次ベビー
ブーム」がピークとなって、それ以降は“人口を維
持できない”2.0以下に減少し、平成に入ると1.
5を切るようになりました。そして平成17年には
過去最低の1.26まで落ち込み、その後15年あ
まりは1.3台をキープしていましたが、昨年は、
ワーストタイの1.26になったということのよう
です。
出生率にからむ最近の傾向としては、婚姻数は前年
比3740組増の50万4878組で、第1子を出
産した時点の女性の平均年齢は30.9歳とこれも
過去最高水準だったようですので、女性の社会進出
の増加などから晩婚化あるいは晩産化が進んでいる
のでしょう。
出生率を県別にみると、最も高い沖縄県は1.70
もあり、宮崎県(1.60)、鳥取県(1.60)
と続きます。逆にワーストは、東京都の1.04、
次いで宮城県(1.09)、北海道(1.12)の
順と、一般には“西高東低”となっているようです。
出生率に関しては「沖縄に続け!」と叫びたいと思
いますが、この地域差がどこから生まれるかについ
ても真剣に考えるべきでしょう。
長くなりました。コロナ禍から開け、様々な少子化
対策が功を奏して令和5年は回復傾向に転ずること
を切に祈りたいと思いますが、少子化が進展する背
景は複雑で、根が深く、各方面に及び、そこから脱
するのは容易なことではないと考えます。
しかし、今こそ私たちは、“少子化の先に待ってい
る「未来」がいかにすさまじいものか”について、
改めてよくよく認識する必要があるのです。結論か
ら言えば、「人口減こそが国家の衰退に繋がる最大
の要因」との認識を強く持ち、政府主導のもと、国
を挙げてキャンペーンを展開し、かつての「産め
よ!増やせよ!」のような「文化」を作り、ここ数
年間に新たな“団塊の世代”の出現を目指す必要が
あると考えます。
そして、そのような大方針の下で、考えられる、あ
らゆる障害を排除することを政策の最優先とすべき
なのです。これまで「少子化対策」で、政府は3度
チャンスを逃し、「敗北した」と分析されています
(産経新聞:シリーズ「少子化対策の行方 未来を
選ぶ」より)。
1回目は、出生率の減少が始まった1970(昭和
45)~80年代、2回目は、平成元年の丙午(ひ
のえうま)に出生率1.57を記録してその後も回
復しなかった1990年代前半、そして、3回目は
第2次ベビーブーム世代が出産適齢期を迎えた好機
を活かせず、出生率の低下傾向に歯止めがかからな
かった1900年後半~201年代前半です。
その要因の1つとして、「少子化対策は目の前の票
にならない」が挙げられています。いかにも我が国
の政治(家)らしいと納得してしまいますが、この
ような問題についても、“国の舵取りの根幹の部分
が先送りされる”との根本的な“欠陥”が我が国の
政治体制や国民の意識に中にあるということではな
いでしょうか。
ただ、このような特集が新聞紙上に掲載されるのは
とても良いことであると思います。私は、4回目の
敗北を繰り返さないために最も大事なことは、「い
かに若い世代のモチベーションを上げるか」にある
と考えます。誤解を恐れずに極端な提言をすれば、
某国のように、「子供を3人産めば家が建つ」「2
人産めば車が買える」くらいの“超異次元”の国家
投資をすべきでしょう。
若者の結婚観についても再考すべきでしょう。すで
に紹介しましたように、我が国の非嫡出子は2.3
%程度しかありません。近年、非嫡出子の増加が世
界的傾向となっており、フランスの約60%を筆頭
に、スウエーデンやデンマークなどが50%を超え、
英国48%、米国40%、ドイツ36%など先進国
は軒並み30%を超えています。
その背景は2つあると言われています。1つ目は、
“結婚に伴う法的保護や社会的信用が結婚しなくと
も与えられている”という側面と、もう1つは、若
者が未婚でも子供を産めば、“国や社会が子育て支
援をする”という体制が出来あがっているというこ
とです。
我が国の伝統的な結婚観のようなものが大事なこと
については言うまでもありませんが、少子化を回避
し、国力を維持するために、個人の“生き方”に寄
り添いつつ、他の国々はそこまで真剣に取り組んで
いるという事実を知る必要があるのです。その上で、
我が国にとっては、どの部分を、どの程度、適用
(許容)するかについては、さらなる知恵を出しな
がら、国民に問えばよいと考えます。
最近、LGBT法案が話題になっています。それぞ
れの“生き方”を否定するものではないですが、我
が国の未来のために、という観点に立てば、シング
ルマザーや非嫡出子の保護もまた重要なのではない
でしょうか(事柄の性格上、ここまででとどめてお
きます)。
外国人の移民政策も様々な理由で遅々として進まず、
我が国の国柄からその拡大���あまり期待できない中
にあって、“日本人を減らさない努力”を最優先し
て取り組む方が現実的であるし、少子化対策上の近
道であると考えます。
少子化に伴う人口減は労働力減少に直結し、そのま
まGDPの減少に繋がります。労働力の減少を補う
ものは、外国人や高齢者の雇用に加え、女性の雇用
拡大、つまり女性の活躍推進しか手立てがありませ
ん。残念ながら、このことが女性の未婚化・晩婚化
・晩産化に繋がっているという事実もあります。
この悪循環を断ち切るための施策も必要と考えます。
このためには、国や地方自治体の力では限界があり、
各企業の力も借りなければなりません。現在、「S
DGs」のような国連の呼びかけに賛同する様々な
活動が展開されていますが、優先順位が違うと考え
ます。「世界で最初に飢えるのは日本」が取りざた
されているような昨今、まず、「自国の生存のため
に国を挙げて何をすべきか」をしっかり議論し、そ
こに最優先して立ち向かうことが大事なのではない
でしょうか。
▼「相応の力を持つこと」--農業・食料問題
 
そのような意味で言えば、食料安全保障もまた「相
応の力を持つ」ために“待ったなし”です。
「農は国の本なり」との言葉のように、国内の食料
や農業を守り、国民の命を守ることは、不測の事態
に国民の生命・財産を守る国防と同様、国家の最優
先事項であることは論を俟たないと考えます。
農業を守り、食料の自給率を上げる必要性とその方
策についてはすでに述べましたが、それらを実現す
るためにこの分野も“発想の転換”が必要なことは
間違いないでしょう。
『世界で最初に飢えるのは日本』から外国の例を紹
介ますと、スイスでは国産卵が1個あたり60~8
0円と輸入品の何倍もするとのことですが、国産卵
を買っていた小学生に質問すると「これを買うこと
で生産者の皆さんの生活も支えられ、そのお陰で私
達の生活も成り立つのだから、高くても当たり前で
しょう」と、いとも簡単に答えたとのことです。翻
って、日本の小学生はおろか大人であっても、この
ような答えを返すでしょうか。この違いはどこから
来るのでしょうか。
水田には、オタマジャクシなど様々な生き物が棲み、
最近、農薬で減ったとはいえ、生物の多様性が保た
れています。また、ダムの代わりに貯水する洪水防
止機能、水をろ過してくれる機能、さらには、水田
の蒸散によって気温上昇抑制効果もあり、水田地帯
は市街地と比べて日中の最高気温が2℃ほど低くな
ることも分かっています。つまり気候変動対策にも
役立っているのです。
これらの恩恵が米の値段に反映されているのでしょ
うか。繰り返しますが、我が国は「補助金が高い」
と批判されてきた歴史を有しますが、世界の常識は
「農業にただ乗りしていけない。農業にもっと払お
うではないか」という感覚が常識になっています。
だから、農家もそれぞれの果たす役割を認識し、誇
りをもって生産に励んでいますし、我が国のような
「農業離れ」のような現象も起きないのだそうです。
私たち日本には、昔から食事の前に「いただきます」、
食事後に「ごちそうさまでした」と唱え、食べる物
とそれらを生産する人たちへの感謝の気持ちを表す
習慣があります。アメリカなどでも食事前に祈りを
ささげる習慣がありますが、先日、チャットGPT
に「『いただきます』に相当する英語は何か?」と
尋ねたところ、「簡単に言えば、Thanks for the f
ood(meal).だ」という答えが即返ってきました。
言葉の文化の違いからか、「いただきます」とはか
なりニュアンスが違うとの印象を持ちましたが、家
庭や学校で形だけは唱えても、“そこからなぜスイ
スの小学生のような認識を持つ人が増えないのだろ
うか”と考え込んでしまいました。
前書の著者・鈴木氏は、「すぐにでもできる農業の
抜本的救済策は学校給食費の無償化だ」と提言しま
す。現在、すでに無償化している自治体もあるよう
ですが、給食費は平均で小学校が月額4343年、
中学校が4941円ほどです。まず、地域の農家に
遺伝子組み換え農産物や慣行農業である農薬を使用
する生産から有機栽培を移行してもらい、生産した
有機栽培食料を学校給食に納入することで需要の
「出口」を確保します。遺伝子組み換え食物や農薬
被害のから解放され、地元のおいしい有機作物を使
った給食を提供することによって、子供たちへまた
とない「食育」になるのです。
児童や生徒の1人当たりの給食費の年間単価は小学
校が4万7750円、中学校が5万4312円ほど
で、現在の総児童・生徒数から総額は4800億円
の税金ですむと算定されています。学校給食を公共
調達にすることは、親の負担が減ることで少子化対
策にも繋がります。現に給食費を無償化している自
治体にはそのまま続けてもらい、無理な自治体には
国が支援すればよいのです。
我が国は、“一つの問題解決のために、一つの切り
口からしか攻めない”という「縦割り行政」に慣れ
てしまい、疑問すら感じなくなっている“現状”を
一度、原点に戻って見直すことによって、「様々な
切り口や解決策がある」ことに気づくことでしょう。
国会の議論や政策の反対側にまわるマスコミも、口
を開けば「財源」とか「税金」の話題ばかりに終始
して、思考が停止しているところに最大の問題があ
るのではないでしょうか。
同様なことは気候変動・エネルギー問題についても
いえることです、次回取り上げましょう。
(つづく)
(むなかた・ひさお)
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yotchan-blog · 6 months
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2024/4/2 12:59:37現在のニュース
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shintani24 · 9 months
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2024年1月10日
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新スタジアム元年に加入 5本の矢 即戦力FW・大橋祐紀 親子2代でサンフレッチェ広島・中島洋太朗(RCCニュース 1月11日)2024年1月10日に追記
サンフレッチェ広島に新たに5人の選手が加わります。10日、入団会見が行われました。
石田充アナウンサー 「スキッベ監督3年目、そして新スタジアム元年に5人の個性的な選手が加わります」
FW・MF・GKと各ポジションで活躍が期待される5人が入団会見に臨みました。
決定力不足に泣いたサンフレッチェに電撃加入となったのが、FW・大橋祐紀(27)です。
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大橋祐紀 選手 「新しい挑戦ということで自分、非常にわくわくしていますし、なおかつ、クオリティーの高い選手が広島にはたくさんいるので、選手たちからいろんなものを吸収して、もっともっと成長していきたい」
去年、23試合で13ゴールと “湘南のエース” ともいえる男が77番を背負い、新スタジアムでの躍動を誓います。
大橋祐紀 選手 「去年、2けた(ゴール)をとれたこともあるので、ことしも最低限、2けたとれるように。まず、そこに向かってやっていきたいなと思っています」
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去年、加入も、J2水戸へレンタルされていたMFの 小原基樹(23)。J2屈指のチャンスメイカーに成長し、満を持してJ1の舞台に挑みます。
小原基樹 選手 「細かいところのテクニックであったり、相手との駆け引き、逆を取るプレーなどを見てほしいかなと思います」
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J3松本山雅から期限付き移籍で加入したGK・薄井覇斗 。大迫敬介 と同じ24歳で、大学時代には 満田誠 とチームメイトでした。
薄井覇斗 選手 「ぼくはコーチングの面であったりとか、セービングやキックであったり、アグレッシブなプレーというところを自分の武器としてやっているので、そういったところを注目して見ていただけたらなというふうに思います」
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サンフレユースから法政大学を経て加入したのが、細谷航平(22)。ユースの先輩・川村拓夢 が目標の左利きのMFです。
細谷航平 選手 「自分のプレーの特長は、運ぶドリブルだったり、パス。展開などでチームの攻撃を組み立てるところだと思っています」
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そして、もう1人のMFが、中島洋太朗(17)。父は2013年まで広島でプレーしていた浩司さん。サンフレッチェ初、親子2代で入団となりました。
中島洋太朗 選手 「ボールを持ったときのアイディアやクオリティーは自分の武器なので。(親子での入団は)うれしく思いますし、誇りに思いますけど、特に意識しているところはないですし、プレッシャーも感じていないので」
まだ17歳。去年9月にクラブ史上、最も早くプロ契約を結んだ高校2年生のデビューが今から楽しみです。
中島洋太朗 選手 「プレーヤーとしてはチームを勝たせられる選手になりたいというのと、あとは見ている人を楽しませられるような選手、自分のプレーが見たいと思ってスタジア��にたくさんの人が来てくれるような選手になりたいなと思います」
新たな戦力とともに新スタジアム元年を迎えるサンフレッチェ。来週15日(月)に宮崎でキャンプインします。
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名護市辺野古沖 大浦湾側での代執行に伴う工事 着手(NHKニュース)
沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設先となっている名護市辺野古沖の代執行に伴う大浦湾側での工事について、防衛省は必要な準備が整ったとして、10日、着手しました。
普天間基地の名護市辺野古への移設をめぐっては、沖縄県が軟弱地盤がある大浦湾側での改良工事を承認しないことから、先月28日、国土交通省が代わって承認する代執行を行い、防衛省沖縄防衛局は着手に向けて準備を進めてきました。
そして、10日午前10時半ごろから、船の上で複数の作業員が重機の点検や海面の状況を確認するなどし、正午すぎ、ショベルカーから海中への石材の投入が始まり、工事に着手しました。
防衛省によりますと、10日行われたのは護岸の造成工事に向けた作業の一環で、今後、地盤を改良するため、およそ7万1000本のくいを海底に打ち込む工事も進めることにしています。
防衛省はすべての工事や手続きが終わり、普天間基地の移設が可能になるまでには12年ほどかかるとしています。
岸田首相「1日も早い全面返還に向けて努力」
岸田総理大臣は記者団に対し、「準備が整ったため、防衛省で工事に着手したと承知している。世界で最も危険と言われる普天間飛行場の固定化は絶対に避けなければならず、1日も早い全面返還に向けて努力を続けていく。これからも丁寧な説明を続けていきたい」と述べました。
その上で、記者から、「政府が示した9年3か月の工期の間に工事を終えると約束できるか」と質問が出たのに対し、「工程は防衛省で必要な検討を行った上で作成したものであり、これに従って工事を進めるべく全力で取り組んでいきたい」と述べました。
林官房長官「工期9年3か月の起点」
林官房長官は記者会見で、「所要の準備が整ったことから、きょう、大浦湾側の工事に着手するという報告を防衛省から受けている。工事完了までの工期を9年3か月と示してきているが、きょうの着手がこの起点にあたる」と明らかにしました。
その上で、工事に関する沖縄県側との協議をめぐり、「工事の実施設計については沖縄防衛局が沖縄県と協議を行っていて、引き続き、適切に対応していくと承知しているが、今般、着手する整備はこの協議の対象外だと認識している」と述べました。
また、沖縄県側から反発も予想される中での工事の必要性を問われ、「辺野古移設が唯一の解決策であるとの方針に基づき、着実に工事を進めていくことが、普天間飛行場の1日も早い全面返還を実現し、危険性を除去することにつながる。今後とも地元への丁寧な説明を行いながら、基地負担の軽減を図るために全力で取り組んでいく」と述べました。
沖縄 玉城知事「誠に遺憾だ」
沖縄県の玉城知事は10日夕方、報道各社の取材に応じ、工事が始まったことについて、「平成25年に工事の施工や環境保全対策などについて協議するよう定められている。去年12月に国土交通大臣によって大浦湾側の工事が承認されたことから、県は協議を開始することとしたが、協議が整っていない中で工事が着手されたことは誠に遺憾だ」と述べ、不快感を示しました。
また、林官房長官や木原防衛大臣が地元に丁寧な説明を行うと発言していることについて、「私はこれまで辺野古新基地建設問題を含む基地問題について、1度たりとも林官房長官とも木原防衛大臣とも面会する機会をいただいていない。一方的な文書の送付が重ねられ、工事の着手が強行されたことは『丁寧な説明』とは到底真逆の、極めて乱暴で粗雑な対応がなされたものと言わざるをえない。たたみかけるように工事を進めることで、『あきらめ感』をかもし出そうとしているのであれば大きな間違いだ。県民の民意を軽んじていては、日米安保体制にも大きな影響が及び続ける」と述べ、政府の対応を批判しました。
そして、「政府においては、埋め立て工事の強行がもたらしている甚大な問題を直視したうえで、沖縄の苦難の歴史に一層の苦難を加える辺野古新基地建設を直ちに中止するよう求める」と述べ、対話による解決を求める考えを重ねて示しました。
名護市長「国と協議していく手段について検討していく」
軍普天間基地の移設先になっている名護市の渡具知武豊市長は「工事が進んでいくという状況の中で、近隣住民の不安を払拭し、環境を守ることが私の責務だと思っている。これまでも基地や工事に伴って派生する諸問題について地元の声を国に伝えてきた。今後のことも含めて、国と協議していく手段について検討していく」と述べました。
宜野湾市長「返還のめどがたったと考えている」
普天間基地を抱える宜野湾市の松川正則市長は「すでに代執行によって承認されていたので、普通の流れとして受け止めている。これまでの裁判の経緯もしっかり踏まえてきょうに至り、普天間飛行場返還のめどがたったと考えている」と述べました。
移設が完了するまで12年かかるとされていることについては、「固定化に近いのではないかと言う人もいるが、返還合意からは28年に至っている。跡地の開発に向けての取り組みもあるし、騒音などの負担軽減はしっかり要請していきたい。1日も早い返還に向けて何ができるかが一番だ」と述べました。
木原防衛相「基地負担の軽減を図るため全力で取り組んでいく」
木原防衛大臣は防衛省で記者団に対し、「辺野古移設が唯一の解決策であるという方針に基づいて、着実に工事を進めていくことが、普天間基地の1日も早い全面返還を実現し、その危険性を除去することにつながると考えており、準備が整った本日、大浦湾側での工事に着手したことは適切だったと考えている。今後も地元の皆さまに丁寧な説明を行いながら、基地負担の軽減を図るため全力で取り組んでいく」と述べました。
その上で、「防衛省としては移設までの間に普天間基地の危険性除去というのが極めて重要な課題だと認識しており、引き続き、オスプレイの訓練移転などを通じて、全力で取り組んでいかなければならないと思っている」と述べました。
また、記者団から、防衛省が能登半島地震に対応しているさなかでの着手は適切だったか問われたのに対し、「あらゆることを同時に並行してやっていくということであり、必要なことは着実にやっていく。普天間基地の移設は必要なことだ」と述べました。
自民 森山総務会長「普天間基地の危険排除が大事」
自民党の森山総務会長は記者会見で、「世界の中でも非常に厳しいアメリカ軍普天間基地の危険をどう排除していくかということが大事だ。そのために工事を始めさせていただいたということに尽きる」と述べました。
自民沖縄県連 座波政調会長「これ以上協議するものないのでは」
自民党沖縄県連の座波一政務調査会長は「代執行が決まった中で予想できることだったので特段驚くことはなかった」と述べました。
そのうえで、「この代執行は本当は望ましいものではないが、残念ながらそのような形になったことは、沖縄県としても受け入れざるをえない状況だということを認識するべきだ。もう、これ以上、協議するものはないのではないかと考えている」と述べました。
県議会 照屋議員「非常に怒りを持って受け止めている」
玉城知事を支える県議会の与党会派「てぃーだ平和ネット」の照屋大河議員はNHKの取材に対し、「暴力的に事業を開始し、土砂を投入するということについて、非常に怒りを持って受け止めている」と述べました。
そのうえで、代執行訴訟の判決で、国と県とが相互理解に向け対話を重ねることで、抜本的解決が図られることが強く望まれていると指摘があったことに触れ、「裁判として普天間問題、辺野古の問題が解決したわけではないと受け止めている。そういう中で、強硬に進めることは全く県民の理解を得ることはできない」と述べました。
宜野湾市の住民「住んでいて危険性を感じます」
普天間基地を抱える宜野湾市の住民からは、速やかな返還を求める声や県内への移設に反対する声が聞かれました。
80代の男性は「住んでいて危険性を感じます。普天間基地は返還してほしいですが、工事には時間も予算もかかります。返還に時間がかかって工事にも時間がかかるとなるとあまりにも中途半端だ」と話していました。
普天間基地の近くに住む70代の女性は「普天間基地はなくしてほしいのですが、県内への移設は反対です。きょうの着工は国の横暴で、地方自治体の権利が無視されていると思います。国は一方的で、話し合いの場が全然ないと感じるので、もっと話し合いをして、そこから道を見つけてほしい」と話していました。
辺野古ゲート前で抗議
名護市辺野古にあるアメリカ軍キャンプシュワブの工事車両が出入りするゲートの前では、10日午後3時ごろから移設に反対する人たちが、「県民は諦めない」などと書かれたプラカードを持って、抗議の声をあげていました。
およそ10分後、警察官が座り込む人たちを抱えるなどしてゲートの脇に移動させると、石材や土砂を積んだダンプカーなどが次々と中に入っていきました。
抗議活動に参加していた読谷村の73歳の男性は「県民が反対している中で工事をやることは絶対に許せないし、玉城知事も『話し合いを』と言っていたので、国には県民の意思を尊重してほしかったです」と話していました。
那覇市の78歳の女性は「民主主義や地方自治も関係なく、工事を強引に進める政府の姿勢はよくないと思う」と話していました。
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大浦湾埋め立て「コメント控える」 自見・沖縄担当相「振興に全力」(琉球新報 1月12日)
【石垣】自見英子沖縄担当相は11日午後、名護市辺野古の新基地建設で大浦湾側海域の埋め立て工事が10日に始まったことについて、視察先の石垣市で報道陣に見解を問われ「所管外なのでコメントは差し控える。沖縄の振興に全力を尽くす」と述べるにとどめた。
玉城デニー知事との面会の場を設けないのかとの問いには「私の強い希望で離島現場を訪れ、今回は知事との面会は行わなかった」とした。
自見氏は10~11日にかけて先島を視察。下地島空港や平良港、石垣港離島ターミナルや竹富町の複合型福祉施設などを訪問した。
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「沖縄県民無視の着工は絶対に許されない」首相官邸前で200人抗議 辺野古新基地めぐる代執行・埋め立て開始に(東京新聞 1月12日)
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設に向け、政府が代執行で大浦湾側の埋め立て関連工事を始めたことに抗議するデモが12日、首相官邸前で開かれ、約200人が集まった。
市民団体などが「海を汚すな」「埋め立てNo」などと書かれた旗を掲げ、工事中止を求めた。主催した「辺野古の海を土砂で埋めるな!首都圏連絡会」の尾沢孝司さん(75)は「政府の代執行は沖縄県知事の自治権を奪う暴挙。米軍基地は要らないという沖縄県民の思いが無視された着工は、絶対に許されない」とあいさつした。
沖縄県出身の会社員米須清真(きよさね)さん(35)=東京都小金井市=は「沖縄はこれまでもないがしろにされ続けてきた。耐えがたい怒りを感じている。全国の人たちが当事者意識を持って基地問題を考えてほしい」と訴えた。
政府は、地盤改良工事の設計変更承認を代執行してから13日後の10日、沖縄県の反対を押し切る形で、大浦湾側の工事に着手した。(小野沢健太)
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15日正午過ぎ、沖縄県名護市の米軍キャンプ・シュワブのゲート前では、新基地建設に反対する市民約30人が、正午の資材搬入に合わせて座り込みをしています。ダンプが出入りする搬入口には30人以上の警備員がすき間なく整列しています。
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1月16日午前10時20分、名護市大浦湾では辺野古新基地埋め立てに使う作業ヤード建設が進められています。ショベルカーが海底に石材を投入しているのが見えます。
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辺野古周辺住民ら、新たな訴訟提起へ 国の代執行は「不当」 県民投票5年を前に「不条理止めたい」(琉球新報 1月16日)
沖縄県名護市辺野古の新基地建設の設計変更申請承認を巡る代執行訴訟で県敗訴の判決が出て、国土交通相が承認を代執行したことを受け、辺野古周辺の住民らが16日、那覇市の県庁記者クラブで会見し、判決と代執行は不当だとして、代執行の取り消しを求める抗告訴訟を提起することを表明した。弁護団によると、代執行を巡る提訴は全国初。
辺野古新基地建設に反対する民意が示された県民投票(2019年2月24日)から、5年目となる直前の今年2月22日に提訴する方針。被告は国交相を想定しつつ、訴訟の入り口論で訴えが退けられる「門前払い」を避けるため、県を被告に入れることも想定するという。
新基地建設を巡り現在、住民らが提起している訴訟は2件あり、それらの訴訟の原告らが新たな訴訟の原告にもなる予定。新たな訴訟で改めて国の工事の違法性を問いただし、新基地建設に反対する玉城デニー県知事を支援する狙い。
原告団長の東恩納琢磨さん(62)=市瀬嵩=は「承認の代執行には納得していない。まだまだあらゆる闘いができる。不条理を止めたい」と訴えた。
住民の訴訟は現在、県による設計変更申請不承認を取り消した国交相裁決の取り消しを求めた抗告訴訟が那覇地裁で係争中。また、県による埋め立て承認撤回を取り消した国交相裁決の取り消しを求めた抗告訴訟は一審で、住民の一部の原告適格が認められて審理されたが、22年4月の那覇地裁判決はその4人の原告適格を認めず訴えを却下した。住民らが控訴し、福岡高裁那覇支部で取り扱われている。
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能登半島地震 広島県が県営住宅を被災者に無償で提供 10日から受付 広島市も市営住宅を提供(RCCニュース)2024年1月10日
広島県や広島市などは能登半島地震の被災者を対象に、県営や市営住宅を無償で提供することにしました。
県によりますと、県営住宅が無償で提供されるのは、新潟、石川など4つの県で被災し、住むことが困難になった人たちです。
広島市内の38戸、呉市内の5戸など、県内であわせて63戸の住宅が提供されます。受け付けは10日からで期間は半年間です。
家賃と駐車場は無償で、光熱費や水道代、共益費などは自己負担となります。布団や冷蔵庫、洗濯機といった生活必需品も提供されるということです。
広島県土木建築局住宅課 井上博臣主査「今回、広島県でも避難者に住宅を準備したので、遠方だが親戚の人とかで避難するという話があれば問い合わせしてほしい」
問い合わせ先は、広島県土木建築局住宅課です。また、広島市も市営住宅12戸を半年間、無償提供すると発表しました。
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hatsunomio · 2 years
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23年コンサート#23
2月23日 日立システムズホール仙台
高関健指揮仙台フィルハーモニー管弦楽団 「日本のオーケストラ音楽」展
武満徹 鳥は星形の庭に降りる(1977)
間宮芳生 児童合唱とオーケストラのためのコンポジション「子供の領分」(1963)
三善晃 交響三章(1960)
二月連続で仙台フィルのコンサートへ。遠征したくなるプログラムだ。
間宮芳生の合唱とオーケストラのためのコンポジション「子供の領分」の実演を聴くのは初めて。想像以上、いや衝撃的な面白さ。とくに急速楽章では、わらべうたのかけ合い、重なり、ときには複雑な絡み合いがあって、高関健氏の的確かつ愛のある導きに子供たちがついて来る(ちょっとヒヤッとする場面はあったが、それも良し)。素晴らしい。たまたまコンサートの前に宮城県美術館で佐藤忠良「おおきなかぶ」や山本忠敬「ピー、うみへいく」などの絵本の原画を見て、その生き生きした表現に心動かされた後だったから、間宮芳生の「子供の領分」を体験しての感激もひとしおだった。
(高関氏が��しているように、間宮芳生氏の作品にはコダーイとの繋がりを感じる。日本のオーケストラの定期演奏会でコダーイと間宮芳生の作品でプログラムを構成すれば、多くの人が、民族音楽、民衆の音楽が普遍的に楽しめる音楽として昇華するさまを実感できるのでは、と思うのだが)
三善晃の交響三章、やっぱり第3楽章がカッコいい。後半にテンポが上がってからの圧倒的な高揚感、その後、終結部で静まるが、粘らずすっきり曲が終わるのがモダンでスマートに感じられ、私的にとても好きだ。ケレンを排しつつ曲の熱量を充分に聴くものへ伝えてくれる高関健氏は流石、そして仙台フィルの健闘に拍手。
Sendai Philharmonic Orchestra
conductor Ken Takaseki
Toru Takemitsu A Flock Descends into the Pentagonal Garden
Michio Mamiya Composition for Chorus No.4
Akira Miyoshi Trois Mouvements Symphoniques
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hirasen · 2 years
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#ひらせん食堂 の #超豪華ディナー ( #笑 )は、 #この前買った (https://twitter.com/hirasen1965/status/1596077822023733248?s=46&t=cRiEiU3oenRSoA7nCw4rng) #青天の霹靂 が #早くも登場 、 #ちょ〜 #モッチモチ & #チョー #粘り気 & #CHO #顎が痛くなるほどのカタさ ! #今日は何も乗っけずぶっかけず #白米のまま頂きました ♪ #そのほかにも 、 #ヘルシーでオイシー料理の数々 !! #さらにさらに 、 #マルジュウ (https://www.marujyu.com)さんの #芋煮のたれ を #使った #山形芋煮 、 #宮城県民としては複雑ですが 、 #コレ も #ウンメーにゃ〜 ☆ #家族の皆様 、 #誠に本当にありがとうございます ♡ #芋煮戦争 #芋煮 https://www.instagram.com/p/ClgRVPELJOE/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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2ttf · 12 years
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mark311text · 6 years
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mark=311
私は宮城県名取市閖上(ゆりあげ)出身です。
今日は2011年から7年。2018年3月11日、午後2時46分から1分間の黙祷を終えたところです。
2011年3月11日
私は中学2年生で、卒業式の予行練習で午前授業だった。お昼過ぎには家に帰って、両親の部屋でテレビを見ていた。高校生だった兄も帰宅していて、家には私と兄と猫の太郎がいた。
こたつに入って横になっていると、突然、「ゴーーーー」というものすごい音がした。長かった。びっくりして固まっていると、次は激しい地震がおこった。体がゆさぶられるような揺れだった。太郎は驚いてこたつの中にとびこんだ。見ていたテレビが倒れ、画面が割れ、ここにいては危ないと思った私は、ベッドの上にあがり、上になにもない部屋のすみに避難した。クローゼットの扉は全開になり、中の荷物が全て床に落ちた。お母さんが使っていた、普段はうごかせないほど重いドレッサーも、揺れに合わせて生き物のようにズ、ズ、と前に動いていた。ガタガタと揺れる音や、ガシャーンと1階の台所からか食器の割れるような音が聞こえ、すごく怖かった。揺れはなかなか収まらず、もしかしてこのままずっと揺れているんじゃないかと怖くなり、耳をふさぎながら「あーあー!」と大きな声で叫んでやりすごした。
しばらくして揺れがおさまったので、自分の部屋に戻ろうとすると、ふた間続きになっている手前の兄の部屋は、タンスの引き出しや勉強机の上にあったものが全て落ち、足の踏み場がなくなっていた。地層みたいだった。物を踏みながら奥の自分の部屋に行くと、そこも同じように物の海になっていた。
兄に「とりあえずお父さんのところに行こう( お父さんは家の近くの公民館職員)。」と言われ、部活で使っていたエナメルバッグに持ち出せそうなものを入れ、ラックの上にひっかかっていた薄手の黒いジャンパーを着た。
もしかしたら役に立つかもしれないとお母さんドレッサーの引き出しに入っていた、カード会社や保険会社からの郵便物もカバンに入れた。無意識だったけど、もう家に戻ってこられないかもしれないと思ったのかもしれない。
兄が「避難所では猫の食べるようなものはもらえないと思う」と言うので太郎のご飯が入ったタッパーも鞄に入れた。太郎が怖がってこたつの中から出てこなかったので、兄に頼んで無理やり引っ張り出してもらった。このとき、兄は膝を悪くしていて、無理をすると膝の皿がずれてしまう状態だった。太郎を無理にだしたので膝が痛んだようで、少し休憩してから家をでた。その間も何回か揺れがきていて、家の壁には亀裂が入っていた。
外にでると、道路はでこぼこになっていて、マンホールからは水が溢れていた。家や電柱は傾いて、いつもの景色がゆがんでいるようだった。私たちと同じように、みんな近くの避難所へ移動しようとしている様子で、公民館に向かった。公民館のグラウンドでは小さい子たちが楽しそうに遊んでいた。状況がよくわかっておらず、興奮しているようだった。
公民館の中で誘導をしていたお父さんに会いに行くと、「津波がくるそうだ。公民館は津波の指定避難所ではないから( 公民館は二階建てで低い建物) 小学校か中学校に誘導するよう連絡がきたから、お前たちもそっちに早く避難しろ。」と言われた。
お父さんに話しかけるまで舞台の上で座っているときに、自分の膝から血が出ていたことに初めて気づいた。どこかにこすったようだったけど、不思議と痛くなかったことを覚えている。
お父さんから、津波がくると言われたけど、いつも津波がきても何センチかで結局大したことなかったので、今回もそんなもんだろうと思っていた。いつ���ったかのチリ地震の際もそうだったからだ。同じようなことを話している人もたくさんいた。私たちは2キロ先の小学校に向かった。
小学校に向かう途中、生協の前でNちゃんに会った。お兄ちゃんとはぐれたらしく、家に一回戻ると言っていた。私は津波が来るらしいから戻らないほうがいいと言ったが、大丈夫だからとNちゃんは戻ってしまった。
Nちゃんは津波にのまれて死んでしまった。
もっと強く引き止めていればよかった。
消防車が走って避難を呼びかけていた。
いつも何かあると鳴る、町のサイレンはこの日、鳴らなかった。
中学校の前で兄の膝が痛み出したので、予定を変更して中学校に避難することにした。中に入ると誰かが「3階か屋上へ!」と叫んでいた。兄と私は上へと向かった。外階段から中へ入られるドアをガンガン叩く音が聞こえ、見ると女の人が必死にドアを叩いていた。ドアの前に机が置いてあり、開かないようだった。でも、みんな自分の避難に必死で誰もどかそうとはしなかった。兄と机をどかし、ドアを開けた。「津波だ!」と、窓の外を見た。黒い水がじわじわと学校の駐車場に流れてくるのが見え、おじいちゃんが一人、まだ外にいるのを見つけた。「逃げて!」と叫んだけど、そのおじいちゃんが助かったかはわからない。
少し遠くを見ると。ず……、と、景色がそのままゆっくりゆっくりと動いた。町の中に船が見えた。船が家にぶつかり、家はぼろぼろになって崩れていった。あちこちに水の上なのに火が見えた。町全体が濃い灰色だった。兄と三階の教室から、水没したグラウンドを見た。水でいっぱいで、まるで映画を見ているようだった。夜になるにつれてどんどん暗くなり、懐中電灯を教室の真ん中あたりに置き、壁や周りにアルミホイルを貼って反射させて明かりを作った。持ってきたラジオからは、「絶対に水辺には近寄らないでください。被害の状況は­———」というような声が繰り返し聞こえていた。私は湿った教室の床に横になり、太郎を抱いていた。何も食べていないはずなのにお腹は空いていなかったし、眠気も全く来なかった。気づいたら朝になっていた。
朝になると水は引いていた。町を見たくて屋上にいった。それと、太郎がトイレをするかなと思って。屋上から見た景色に、町はもうなかった。グラウンドには車や船や瓦礫のようなものがぐちゃぐちゃになっていた。目の前にあった生協もなかった。今度は町が茶色だった。
あのときのトイレは今でも思い出すと吐きそうになる。人の用を足したものが積み重なり、ひどい臭いだった。吐きそうになりながら用をたした。学校には知ってる人がたくさんいて、Sちゃんに会った。Sちゃんは学校のジャージで、お腹から下は泥まみれだった。津波に少し飲まれたらしい。Sちゃんはお母さんとまだ合流できてない、小学校の方にいるかなあと言っていた。あとから知ったが、Sちゃんのお母さんは津波で死んでしまっていた。
お昼前ぐらいに兄が自宅の様子を見に行くと言って、少しして戻って来た。うちがあった場所には、うちの二階の屋根があっただけだったようだ。まだ実感がなく、そうなんだうちはもうないのか、と冷静に思った。
そのうちに大人の人たちが崩れてしまったお店から、食べ物や飲み物を持ち出してきた。避難した時に食料を持ち出すことのできた人たちから少しだけお裾分けをもらった。でも全員分はもちろんないので、たしか私はベビーチーズのようなものを一口分食べた。太郎にはお水を少しだけもらえたのでそれをあげた。
安全な内陸の避難所に全員移動することになったが、中学校の出入り口やバスが迎えに来てくれるおおきな道路にでるまでの道には、船や車や瓦礫などがたくさんあって、大勢の人が移動できるような状況ではなかった。なので自衛隊が道を作ってくれるまで待機するように言われた。
暗くなる前に作業は終わり、みんなでバスのところまで歩いた。海水のようなにおいと、ものが燃えたこげたにおいとガソリンのようなにおいがした。いたるところに車や船があって、きっと中には人がいたかもしれない。水は引いていたけど泥がすごくて、靴はすぐにぐしゃぐしゃになった。靴にビニールをかぶせていた人もいたけど、結局みんなどろどろになって歩いていた。
私と兄と太郎は、内陸の小学校の体育館に避難することになった。着くとすでに近隣の地域の人も避難していて、人がいっぱいいた。入り口でおにぎり一つと使い捨ておしぼりを一つずつ配られた。どこか寝る場所を確保しようとしたけど全然場所がなくて、体育館の中のゴミ回収のスペースの前が少し空いていたのでそこに落ち着いた。おにぎりを食べて、おしぼりで足を拭いた。毛布やシートも物資で配られたりしたようだったけどわたしたちがついた頃にはもうなかったので、余っている段ボールをもらって、段ボールを床に敷いて横になった。近くから避難してきた人たちは、自分の家から持ってきた毛布や服などであたたかそうで、わたしたちみたいな海から逃げてきた人たちとはギャップを感じた。目も怖かった。太郎も不安なのか、私のジャンパーの中から出てこようとしなかった。でもそのおかげで、すごく寒かったけど、お腹はあったかかった。中学の先生が状況把握のため点呼をとっていて、太郎をお腹に抱えた様子をちょっと笑われた。
夜、暗い中で何回か余震があって、そのたびに体育館の照明が大きく揺れて、ざわざわした夜だった。
朝になると支援物資が届いた。飲み物はコップがないともらえないと言われて、考えて、ひとり一個もらえるパンの中からサンドイッチ用のパンを選んで、その空き容器で飲み物をもらうことにした。兄はマヨネーズ入りのカロリーの高いロールパンを選んで、とにかく栄養を確保するように2人で食べた。トイレは、プールの水をバケツでくんで流せたので困らなかった。古着も物資で届いたので、パーカーなどの着られそうなものをもらった。わたしたちの隣にいた老夫婦が小さな犬を連れて避難していて、太郎は犬に懐かれていて面白かった。
兄と座っていると、名前を呼ばれた。お母さんとお姉ちゃんが走ってこちらに向かって来ていた。
生きててよかったと抱きしめられた。みんなで号泣した。
お母さんは仕事で内陸にいて、お姉ちゃんもバイトで海からは少し離れたコンビニにいて、津波が来る前に東部道路に避難して助かっていた。2 人は違う小学校で合流できていたようで、わたしたちの地域の人たちが避難している場所を探していてくれたようだった。お母さんが働いていた保育所の休憩室を間借りしていいといわれたらしく、そこに移動することにした。車できたからそれでいこうと外にでると、血の繋がっている方の父がいた( 私の両親は離婚していて、お母さんは再婚して、新しいお父さんがいます)。私は父のことを嫌っていたし、何年も会ってなかったけど、そのときはなぜだかとっても安心して、頭を撫でられて肩を抱かれると泣いてしまった。非常事態だったので、お母さんも連絡をとって食料や布団などをわけてもらったらしい。
車に乗り、保育所に向かう途中、太郎が安心しておしっこをもらした。避難所では粗相をしなかったので、太郎もがんばっていたのだなと思った。
保育所の休憩室は、5畳ないくらいのスペースで小上がりの畳になっていた。畳の上に段ボールを敷いて、布団を敷いて、家族で川の字になって眠った。やっぱり寒くてなかなか寝付けなかったけど、お母さんが抱きしめてくれたおかげで、よく眠れた。
次はお父さんと合流しようと、情報を求めて市役所に向かった。市役所の中に入ると、壁いっぱいに「◯◯に避難しています◯◯みたらここに連絡をください」といったような内容の紙がびっしりと貼られていた。その中には知っている名前も幾つかあって、ああ無事だったのだなと安心したこともあった。お父さんの名前を見つけたけど、けがをしている、というようなことが書いてあったので焦った。とりあえずお父さんがいるという避難所へ向かうと、お父さんは元気そうに出入り口近くの椅子に座っていた。安心したお母さんはへなへなになって笑った。あのときは情報が錯綜していたので、間違ってそう書かれてしまったらしい。すぐに同じ場所にお父さんも移動したかったけど、お父さんは公務員なので被災者の誘導等の仕事があったのですぐには保育所に一緒に戻れなかった。
保育所での生活は体育館にいるときよりずっと過ごしやすかった。狭かったけど、家族がみんないて、人の目を気にしなくていいのはすごく救われた。電気はまだ復旧していなかったけど、水道が使えて嬉しかった。ごはんも、お母さんの仕事仲間の人が炊き出してくれたりして、あたたかいものを食べられた。ずっとお風呂に入れてなかったので気持ち悪くなって一度、水で頭だけ洗ったけど、寒すぎて凍えた。被災してから一週間たたないくらいに、電気が復旧し始めて、近くの家に住んでいたお母さんの職場の人の好意でお風呂に入らせてもらった。久しぶりのお湯はあったかくてきもちよかった。
お店もすこしずつものを売られるようになって、学校もない私と兄と姉はそれぞれ生活に必要なものを行ける範囲で探し回った。持ち出せたお小遣いをもって、とにかくいろんなお店でなにか買えないか歩き回った。個数制限で、ひとり3個までしかものが買えなかったり、なにも残ってなかったり、3時間以上並んだりした。
あるとき、ひとりでお店の列に並んでいると、知らないおじいちゃんに話しかけられた。どこからきたのかなんでひとりなのか聞かれ、答えると「大変だったね」と自分が買ったバナナを分けてくれた。少し泣いてしまった。いろいろなところで食べ物などを買えてうれしかったけど、そのころは物資不足で窃盗や空き巣が多発していたので、ビクビクしながら保育所に帰る道を早歩きでいつも帰っていた。
銀行でお金をおろせるようになり、保育所も再開するので長くはいられないと、アパートを借りることになった。お父さんががんばって見つけてくれた。引越して、いろんな人の好意で家電や家具をもらって、なんとか避難所生活はひとまず終わった。
アパートで炊飯器をつかって炊いた、炊きたてごはんをたべたときはすごくすごくおいしくて、おかずは缶詰の鯖だったけど、何杯もおかわりをした。あのとき食べたごはん以上に美味しいと感じたものは今もない。
アパートで暮らし始めて少しして、携帯の電話番号を覚えていた友達に電話をかけてみた。その子は飼っていたペットたちは犠牲になってしまったけど無事だった。ただ、その子との電話で「Aちゃん残念だったね。」と言われた。Aちゃんは私のすごく仲良しの女の子で、どういうことなのか理解できなかった。
Aちゃんの妹の名前と避難先の書かれたメモを市役所でみていたので、Aちゃんもきっと無事だろうと思っていた。「新聞の犠牲者の欄に名前が載っていた」そう言われて、後の会話は覚えていない。電話の後に新聞を読み返して犠牲者の欄を探したら、Aちゃんの名前を見つけてしまった。新聞に名前が載っている,という証拠のようなものをつきつけられて、一気に怖くなり、悔しくて信じられなくてまた泣いてしまった。
兄もその欄に仲の良かった友達の名前を見つけてしまったようで、リビングのテーブルに突っ伏して、「なんでだよ」とつぶやきながらテーブルを叩いていた。
4月のある日の夜、また大きな地震が起こった。また津波が来るのではないかと家族全員で車に乗り、指定避難所に急いだ。幸い、なにもなかったが、その日の夜は怖くて車から降りられず、朝まで起きていた。
通っていた中学校から一度学生も職員も集まるよう連絡が来た。当日は市の文化会館に集合し、そこからバスで市内の小学校に移動した。久しぶりに同級生と再会して、今どこに住んでいるのか家族は無事だったのかたくさん喋った。そしてみんなが集まった前で先生が、犠牲になった同級生の名前を読み上げた。Aちゃんの名前も呼ばれた。先生の声は震えていて、最後は泣きながら私たちに向かって話していた。7人の友達が死んでしまった。学校全体では、14人の生徒が犠牲になった。
私はすごく後悔していることがある。遺体安置所に行かなかったことだ。市内のボーリング場が安置所になっていて、そこにAちゃんがいることもわかっていたが、怖気づいていけなかった。私とAちゃんともう一人とで三人で仲良くしていて、そのもうひとりの子は会いに行っていた。顔中があざだらけでむくんでいた、と言っていた。お化粧をしてあげたよと聞いた。私も会いに行けば良かった。
学校は市内の小学校の旧校舎を間借りして再開した。歩いて行ける距離ではなく、駅から毎日臨時のスクールバスが出ていたので、私はそこから毎日学校に通った。文房具や教材は支援物資が届いて、しばらくは制服もなかったので私服登校だった。何週間も字を書いてなかったので、文字が下手くそになっていた。遠くに避難して、転校してしまった子もいたけど毎日家族以外の人とも会えるのは嬉しかった。でも、間借りしていることは肩身が狭かった。間借り先の小学校の子とは話した記憶がない。支援物資や有名人がきた時は「ずるい」、「 そっちばっかり」と言われるようなこともあった。自分は生徒会役員だったため、お礼状や物資管理を手伝っていたけど、千羽鶴や「頑張って!」、「絆」などのメッセージを見るたびに複雑な気持ちになった。無理やり前向きになれと言われているようだった。
学校も落ち着いた頃、同級生の一人のお葬式に参加した。小学校の頃から係活動で仲良くなった子だった。その子はお母さんも亡くなって、その子のお父さんから良かったらきてほしいと連絡があった。とても天気のいい暑い日で、田舎の方の緑がたくさんあるところでお葬式が行われた。久しぶりに会ったKちゃんは小さな箱になっていた。焼かれて骨になって骨壷に入ったKちゃんは、軽くて白かった。お墓にお箸で骨を一つ入れさせてもらった。「ああ、Kちゃんはもういないんだ」と、「こんなに小さくなってるなんて」と、脱力した。
私は夢を見るようになっていた。夢の中で津波から逃げたり、友達と会ったりしていた。その中でも強烈だったのが二つ
ある。一つは、どこかのホテルに友達と泊まりに来ていて、ホテルのベッドで飛び跳ねて遊んでいた。途中までは私も遊んでいたけど、何か変だと感じて、だんだん飛び跳ねている音がうるさくなってきて、「ねえもうやめようよ」と声をかけた。するとその音は「ゴーーーー」という地鳴りの音に変わって、私は耳を塞いでしゃがみこみ、叫んだところで目が覚めた。自分の叫び声で起きた。
もう一つは、なぜか私は小学生で、小学校の帰り道をAちゃんと何人かの友達と歩いていた。夢の中では納得していたけど、不思議なことにみんなでAちゃんのお葬式に行こうとしていた。道の途中で、2本に分かれているけど少し行くとまた繋がる道があり、そこで私はAちゃんをびっくりさせようと「また後でね!」と違う方の道を走って待ち伏せしていた。でも、だんだん不安になって、泣きながらAちゃんを探した。立ち止まっているAちゃんを見つけて、「 行かないで!」と抱きついた、Aちゃんは静かに「なんで私のお葬式があるの?」と、聞いてきた。
そこで目が覚めた。しばらく体は動かず、寝ながら泣いていたようで、頬が涙でカピカピになっていた。
冬になって、12月11日の早朝、お母さんとお姉ちゃんの声で起きた。どうしたのかとリビングに行くと、2人が「お父さん!」と声をかけて、体を揺すっていた。後から聞いた話によると、朝、お姉ちゃんがバイトの支度をしているときに、お父さんから寝息が聞こえず、お母さんに「変じゃない?」と言って、2 人で起こそうとしたようだった。私も声をかけたが起きず、お母さんは「かなこ!( お姉ちゃんの名前) 救急車!」と叫んで、心臓マッサージを始めた。バキバキと骨の折れる音が聞こえた。お父さんの胸はベコベコにされていたが、起きない。私も交代でマッサージをして、救急車を待った。救急車が到着して運ばれる直前、そっとお父さんの足を触った、氷のように冷たくて硬かった。救急車を後ろからお母さんの車で追いかけ、病院についた。ドラマで見たような部屋に運ばれ、看護師に心臓マッサージをされていた。心電図はまっすぐで、「ピー」という音がなっていた。何分間かどれくらい経ったか、マッサージが止まり、瞳孔を見られていた。「すいません」と看護師の方が言い、「ご臨終です」と、初めて聞く言葉を耳にした。病室には「ピー」という音とが響いていた。
みんな無言で家に戻り、お母さんがリビングに座ったところで、「どうして!」と泣き叫んだ。お母さんがそんなに泣いているところを初めて見た。お父さんのことはまだショックでよくわかっていなかったけど、その姿がどうしようもなく悲しくて、お姉ちゃんと抱き合って泣いた。
中学校には、お母さんが色々な手続きで忙しそうだったので、自分で電話をした。担任の先生に繋がり、ほぼ文章になっていなかったけど泣きながら事情を説明した。先生はゆっくり聞いてくれて、学校のことは心配しなくていいよと言ってくれた。
お葬式までの間、斎場でお父さんと過ごした、ドライアイスで冷やされて、冷たかったけど、箱の中にはずっといて、怖くもなかったし、もしかしたら起きるんじゃないかなんて思ったりもした。まあ、当たり前にそんなことはなく、火葬の日がきた。
お父さんが焼かれる場所へ、親族一同で向かった。炉の中へ入れられるとき、もう体さえもなくなってしまうんだと、お父さんに会えなくなるんだと理解した私は一気に悲しくなり、「お父さん」とつぶやいた。涙が止まらなくなり、「行かないでよ」とつぶやいた。お母さんが私の背中をさすった。兄が私の頭に手を添えた。
お父さんは焼かれた。ちゃんとお骨を拾い、壺の中にお父さんは収まった。
お父さんは公民館職員で、そして糖尿病を患っていた。震災の日、公民館は建物が低いので、違う避難場所に誘導している途中で津波が来た。目の前で他の職員が流されるのを見たそうだ。公民館にいた人はギリギリ二階に登り助かったものの、船が建物にぶつかって半壊し、もう少しでみんな死んでしまうところだった。でも、避難途中で犠牲になった人の遺族からすれば、いたら助かったじゃないか! とひどく責められていたらしい。
避難場所でも、公務員はずるい優遇されていると同じ被災者なのに責められ、ストレスで体がおかしくなっていた。持病の糖尿病が悪化し、20キロ体重が増えていた。お母さんから後から聞いた話によると、毎晩のように公民館のグラウンドいっぱいに遺体が並び、こっちに来いと呼ばれる夢を見ていたそうだ。死因は無呼吸からの心肺停止だった。
お父さんは震災に殺された。
お父さんの死と、自分の受験のシーズンが重なり、私は少しおかしくなっていた。受験している場合なのかと悩んで、身が入らなくなっていた。トイレで隠れて手首を切るようなこともあった。今思えば、なにも考えたくなかったからそういうことをしてしまったのかもしれない。様子がおかしいと思われたのか、スクールカウンセラーの先生に、週1回、カウンセリングを受けることになった。行きたくなくてサボった日もあるけど、先生は怒らなかった。優しくいろんな話をしてくれた。友達にも支えられて、なんとかいつも通りに過ごせるようになった。
高校受験もおわり、合格発表の日、私は1人で受験した高校に結果を見に来ていた。無事番号を見つけてお母さんに連絡すると、すぐにメールで返事が帰ってきた。メールが2通届いて、確認してみると、もう1通はお父さんの携帯からだった。「合格おめでとう!」と、本当にお父さんからきたかと思って嬉しかった。すぐにお母さんがお父さんの携帯で送ってくれたのだろうと気づいたけどとっても嬉しかった。
高校では美術科に在籍していたため、常にコンペに向けて制作をしていた。一度だけ、Aちゃんを描いたことがあったけど、周りには誰ということはなにも言わずにただ描いた。それっきり震災関連で制作をすることはなかった。
高校生活の中で辛かった授業がある。保健体育の授業だ。心肺蘇生の心臓マッサージを学ぶ授業の時は、お父さんの感触を思い出して辛かった。避難について学ぶ授業では、ふざけた男子生徒が、避難のシミュレーションを発表するときに「津波だー!」とヘラヘラしながら津波のモノマネをしていて腹がたった。そういう授業があった日は、その日1日は震災のことなどで頭がいっぱいになり、帰ってからいつもお母さんやお姉ちゃんに慰めてもらった。
そして何度か震災復興のためのアートプロジェクトに参加した。被災者として何かしなければと義務感に駆られて、割と積極的に参加した。でも、いつも心の隅には、こんなことをしてなにになるのだと皮肉な自分もいた。震災の時のことを公演してくれ、文章にしてくれ、という依頼は全て断った。語ったりはしたくなかった。
高校の卒業制作展で、ゲストを迎えたパネルディスカッションを行った。ゲストは有名な大学の先生で、私は卒展の実行委員長としてトークをした。その中で、「地域復興」の話題を担当し、いろいろなことを話したけど、「私もゆくゆくは自分の地域をなにかしら盛り上げたい」と口にした後は「本当にそう思っているのか?」と、苦しい気持ちになった。立派なことを言わなければ、というプレッシャーがあった。
いつも3月11日は家で家族と過ごすようにしていたけど、2015年のその日は、震災以来初めて閖上にいた。
京都に引っ越す前にみんなに挨拶がしたいと思ったからだ。お花を持って友達と待ち合わせをして、久しぶりに来た日和山は、前はみんなで鬼ごっこをして遊んだ場所だったけど、今は慰霊の場所になっていて、上から街を見渡すと、何にもなかった。まっさらでたまに草が伸びている、そんな景色だった。
中学校に移動して、2時46分を待った。鳩の形の風船が配られて、メッセージを書いた。「行って来ます。」と。そして2時46分、みんなで風船を飛ばした。
でもその瞬間はひどいものだった。多くの人がスマホを構えて、風船を飛ばす瞬間を撮っていた。カメラの音がたくさん聞こえて悲しくなった。なんのためにやっていることなのか、気持ち悪かった。一緒に来ていた友達も怒っていた。イベントじゃないんだ、と叫びたかった。
京造に進学してからは、震災の話題に触れることは少なくなった。し、自分でも避けるようになった。
宮城出身です、というと大体「震災大変だったでしょ?」と言われた。「そうですね」と正直に言うと、気まずそうな申し訳なさそうな対応をされた。それが嫌で、出身は言いづらくなって、「震災大変だったでしょ?」と言われても、「大丈夫でしたよ」と言うようにした。一回生の授業である先生が、どんな内容で言ったのかは忘れてしまったけど、「津波はあっけなく人を殺すからね〜。」と、さらっと言ったことがあった。私はショックで涙がとまらなくなった。俯いて、寝てるふりをした。周りの子にはバレていたかもしれない。その日はずっと気分が上がらず、帰ってからお母さんに電話をした。当時一緒に住んでいたルームメイトに抱きしめてもらった。
二回生の時は、授業中に阪神淡路大震災の映像が流されて、震災の時の記憶がフラッシュバックしたこともあった。イヤホンをつけて目をつぶってやり過ごして、大階段を��ってすぐ横の芝生のベンチで家族に片っ端から電話をかけた。午前中でなかなか繋がらず、体育すわりをしながらずっと待っていた。お姉ちゃんとつながって、落ち着かせてもらって、その日は授業があったけど、一度家に帰った。夜は眠れなかった。
7年経った今でも、津波の映像や写真は見ることができない。彷彿とさせるようなものも苦手だ。3月はいつものように睡眠を取ることもできなくなる。11 日は家族と実家で過ごすようにしている。閖上の方向を向いて必ず黙祷をして、黙祷している時は、悲しい、悔しい、いろんな感情が混ざったように涙が出る。
私はずっと震災に潰されている。それが、とても嫌だ。
——
でも、このままでいるのはもっと嫌だ!
だから私は向き合うことにした。
制作をはじめると同時にひまわりの種を植えた。ひまわりは、お父さんの1番好きな花だったから。
だけど、ひまわりは咲かずに途中で枯れてしまった。
私にはもう少し、時間が必要なようだ。
もうすぐ、8年目の3月11日がくる。
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本当に解決したかったのか?
5年前の今週、2014年2月18日、安倍晋三政権は当時の沖縄県知事の仲井眞弘多氏に、普天間飛行場の5年以内の運用停止について検討することを約束した。
その発表は多くの人々にショックを与えたが、沖縄関係の動きを長年、研究者や在日米海兵隊幹部として真剣にフォローする筆者にとっては驚きではなかった。なぜなら、日本政府は、沖縄に対して守ることもできなければ守る予定もない約束をいつもしているからである。
その約束は、数多くの理由で間違ったものだった。
1つには、勝つはずがなかった知事選を意識したものだったこと。
2つ目は、政府はそもそも閉鎖できる計画もないし、実行可能なコンセプトをつくる知識もなければ想像力もない。
3つ目、そもそも、海抜90メートルの高台に座り、世界最大級の飛行機が対応できる、戦略的な普天間飛行場を必要以上に早く閉鎖してはいけないからだ。
4つ目、どの実施でも沖縄県の協力が必要だが、基地をめぐる政策に対する支持を得るのは難しい。これは一応保守系の県政ですらそう言えるので、私は沖縄を「NOKINAWA」と呼んでいる。「Noとしか言わない沖縄」。基地に反対して、協力や妥協をしない革新系の昨今の知事たちとは、支持を得るのはほぼ不可能。
5つ目、互いにや総合的に日米沖の対話がない中で、日米沖にとって納得するものが生れるはずがないからだ。
以上の問題はあるものの、自殺行為をするくせのある政府は、5年以内に普天間を閉鎖しようと思えば、実現できたのである。基地削減を行い、辺野古も埋め立てず、日米同盟も傷つけずにである。
しかし、そのためには哲学をはじめ、戦略、想像力、そして勇気が必要だった。さらに、普天間が実は日本政府のものであり、あくまで、米軍に貸している施設だという認識が必要だった。
ところが、日本政府はこのどれも持っていないのである。
普天間問題の背景と争点の不条理
実は、普天間の運用停止、つまり閉鎖を短期間で実現しようと思えば、3つプラスアルファの現実的で可能な選択肢はあった。それぞれは違っていたのが、異なる方法論を反映したからだ。
だが、3つとも、「何を解決しようとしているか」という同じ前提を共有している。
一方、長年の間、政府の関係者は、何を解決しようとしているのかを分かっていなかった(今もそうだが)。
この問いこそが、「沖縄問題」の複雑さや真相をめぐる誤解を象徴している。
「沖縄問題」とは何かをきちんと定義できる人もおらず、そもそも「沖縄問題」が存在しているかさえ答えられない。
多くの人は「沖縄問題」は、「基地問題」の別の言い方で、そして米軍や自衛隊の基地は沖縄での諸悪の根元だと批判している。しかし、そのような議論は事実に反するだけではなく、基地が果たす安全保障上の機能や経済的、社会的、そして文化的な役割の客観的な(もちろん肯定的も)評価を反映していない。
この「沖縄問題」を、私は以前から「結び目」だと説明している。複雑に絡んでいる紐を辛抱強く丁寧に対応したら結び目を割合簡単に解くことができるが、無理やりに引っ張ったら、その結び目はより固くなる。
15年前頃の2004年から06年に行った在日米軍再編協議の際、米政府の関係者は、沖縄問題を「基地問題」として偏狭かつ一方的に定義したが、実際には沖縄問題は数多くの課題からできている。基地問題は確かに大きくて目立つ。だが「沖縄問題」の全てではない。
基地問題に関する誤解は、私がかつての論文や複数の本で、沖縄問題の「神話」と呼んでいるものだ。神話ではあるが、メディア、学者、活動家や政治家は、嘘(例えば、既存のキャンプシュワブの拡張だけなのに、辺野古は「新基地」という)を繰り返すことによって、新しい「真実」が生れ、政府は決して勝利できない対応に追われる。
その結果が、間違って「世界一危険な基地」と言われることで始まった普天間返還問題だ。
でも、73年以上前の建設から今日に至るまで、亡くなった県民、ケガされた県民は1人もいない。そもそも普天間飛行場は本当に世界一危険なのだろうか。
過去23年間、日米両政府の関係者は、この間違った認識に基づいて、宜野湾市の約4分の1を占める普天間の重要な機能を(県内で)移設しようとしてきた。
23年という歳月は、いうまでもないが、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日から沖縄返還が実現した1972年5月15日までの20年間より長い。しかもまだ実現していない。
1施設の移転だけで、こんなに長くかかっているのは、やはり問題を孕んでいる案だからだ。
普天間を返還するという決定は、1996年初期に、当時の橋本龍太郎総理とクリントン大統領との間の首脳会談で議論され、そして同年末、前年の1995年11月に設置し、訓練や基地の整理縮小や普天間の条件付き県内移設に伴う返還などによって沖縄の負担軽減について提言を纏める、1年間の任期のあった「沖縄に関する特別行動委員会」の勧告書を受けて日米の外交・防衛関係の閣僚会議である、いわゆる2+2で承認された。
橋本総理の要請は、長年、沖縄の関係者が要求したものに基づいて行ったのだが、特に95年9月に、キャンプハンセンを抱えている金武町で発生した海兵隊2人を含む3人の米兵による12歳の少女の誘拐、暴行の事件に対する政府の対応に怒りを覚えた当時の大田昌秀沖縄県知事は、強く要請したその1人であった。
それ以降、数多くの勧告が実施され、沖縄県内の「負担」は名実共に軽減されてきた。
普天間飛行場に関して言えば、合計14機の輸送機(KC-130)を2014年夏に、新しい滑走路や格納庫が完成したばかりの山口県にある海兵隊岩国飛行場に移転した。時々、1機、2機が訓練や隊員やその装備を移動するために普天間に一時的に戻ってきている。
それは地元のメディアなどが批判しているが、これが運用上必要な措置であることは最初から皆分かっており、それを批判すること自体は論外だ。
これは、軍が分散することがあまり良くないと典型的な事例だと言える。特に、半世紀以上活用している海兵空陸任務部隊(MAGTF)という作戦概念に基づいて行動している米海兵隊にとっては。真の統合組織である海兵隊として、歩兵、兵站、輸送手段、そして司令部機能が隣か、近くにないと、有効かつタイムリーに機能できない。
例えば、火事やその他の緊急状態への対応を考える場合、消防士を1ヵ所に、彼らの車(消防車)を別のところに、装備品はまた違う場所に、そして、消防署がさらに別の場所にあったら大変なことになる。
同じように、日米同盟、安全保障条約を維持すると言うことが大前提である限り、アメリカや日米同盟にとっての即応対応部隊であり、強力で統合的な組織である海兵隊を、必要以上に、複数の都道府県を跨って、展開するために再結集せざるを得なく貴重な時間を失ってしまうような状態をつくってはダメだ。
沖縄の海兵隊が朝鮮半島から南シナ海までカバーしている以上、この条件を満たす日本国内の別な場所に集約出来る場合以外、やはり沖縄県の地政上の優位性を捨てるわけに行かない。これは日米の安全保障協力を放棄することになる。
これは有事の際だけではなく、自然災害の対応でも言える。そのため、米海兵隊は2011年3月に東日本大震災の直後から、沖縄に配備していたMV-22Bオスプレイを2013年11月発生したスパー台風の直ぐ後、初めて投入し、フィリピンに対して迅速に救援活動を展開できた。
2011年の前に、��スプレイが日本に配備されていたら、我々の対応はさらに早かった。前に使用していたCH-46は、飛行速度が遅くて、空港に定期的に降りて給油する必要があるため仙台まで3日間かかったが、空中給油できるオスプレイなら3時間で東北まで行くことができる。
以前から予定し、米側が一生懸命に情報公開をしていた、2012年夏から秋にかけてのオスプレイの最初の中隊の配備に対する、極めて煽動的でネガティブな報道にも拘わらず、搭載できる量の多く、飛行機のように静かに飛べる、速度が速い、航続距離が遠い、高度が高い、空中給油できる、室内のシミュレーターで多くの訓練を済ませるMV-22は、普天間の「負担」を具体的かつ大幅に軽減している。
しか���、悲しいことに、こうした事実は日本や日本にいる外国のメディアで紹介されていない。
本当に5年以内に運用停止したかったのなら
逆説的だが、普天間は、最もうるさく、最も危険な飛行場ではない。最も混雑している基地でもない。しかし、普天間は、戦略的に極めて重要な施設であるので、中国など、日米同盟の敵しか勝たない政治的なゲームにおける「歩」とか「兵」として扱ってはならない。
これを行ってきた、日本政府の関係者も、米政府の関係者も罪がある。
残念だが、現在や過去の政権でのワシントンの官僚たちは、全ての政党の日本の政治家とは、これだけの共通点を持つわけではない。何十年間も、真実を言う勇気も欠如し、戦略的なビジョンと知的誠実性も持っていなかった。
日米安全保障条約の体制を維持するためにと先に述べたが、この前提を崩さず、辺野古も埋め立てず、普天間も返還する方法はいくつもあるのだ。
そもそも、普天間の閉鎖に合意すること自体がおかしな話である。その前提、政治的な要求、誤解はいくらでも反論できるものだ。
少なくとも、1996年の段階の普天間と、現在の普天間を巡る状況は全然違っている。これは、先ほど見てきたように、普天間飛行場の運用に関してはもちろんそうだが、国内、日米間、そして地域での政治、外交、安全保障関係も大きく変わっている。
しかし、1996年の辺野古の合意以来、三十数名の外務大臣、35人ぐらいの防衛大臣、40人前後の沖縄担当大臣を経ても、全く同じ政策を追求しようとしている。
この致命的な問題だらけの辺野古案は古いものだ。20世紀の同盟のための90年代の考えであり、そのボディーとなるキャンプシャワブは、1950年後半の建設だ。しかし、今、必要なのは、21世紀や22世紀までも通用する近代的な体に前向きな案だ。
しかし、最も重要なのは、日米両国民に広く支持され、地元で政治的に堅持され、財政的維持可能、環境に大きな被害を及ぼさない、そして国際的に信用されている、つまり脅威国へ抑止力になり、同盟国などに対して友人としてちゃんと機能する、この日米の同盟を、真に持続可能なものにすること。辺野古案は、このどの条件を満たしていない。
次に示すのは、日本政府が普天間を5年以内に閉鎖しようとしたら使えたはずだった、そしてほんとうにその気になれば、辺野古移転を行わず、普天間から海兵隊を移設させることの出来る、現実的な3つの解決策だ。
良かろうが、悪かろうが、日本政府には考える力がなく、それを実施する先見性を持っていなかった。
今後、意味のない辺野古案を完成まで10年から14年の間、凧、風船、レーザー、高いタワーの建設などのテロ的な行為を含む事故や、新世代の政治家たちによる基地への集中的な攻撃がない限り、普天間は使用し続くことができる。これはもちろんいいことだが、一方で数多くの機会が失われた。
解決策その1 勝連構想
日米同盟における相互運用性を高め、合同や共同使用の基地の可能性を最大限にする最も効果的な案は、勝連構想だ。
この案は、那覇基地、那覇軍港、キャンプキンザ―、そして普天間飛行場を、うるま市の勝連半島(与勝半島)に新たに埋め立ててつくる集約基地に纏め、自衛隊の管理下に置くもの。
それによって膨大な土地返還ができ、なおかつ基地が人工島にあり完全に海側にあるため、危険性や騒音の問題は全くない。
一番近い住民は、2.5km離れた場所に住んでいる。実は以前に相談され、条件付きで計画を了承済みであった。
この構想は、普天間問題の一番大きいな教訓を盛り組んでいる。すなわち、人が住んでいる、あるいは住めるところで飛行場をつくることは出来ないと言うことだ。
このことは、辺野古案が根本的に間違っている理由の1つでもある。つまり、辺野古の飛行場、将来の「海兵隊名護飛行場」で飛行運航が始まれば、翌日、「ウルサイ!」「キケン!」という抗議の電話が、私が以前勤めていた海兵隊のオフィスで必ず鳴るだろう。
このような抗議を受けないためという理由で、日米両政府は普天間の移設を決めた。これでは基地の移転をしても、何も変わらないし、何の解決にもならない。
しかも、辺野古と違って、勝連は軍民共用の施設になるため、民間機も利用できる。それによって、爆発的に増えている観光者の対応がしやすくなり、そして特に中部、北部への貨物の対応もできる。
那覇空港の混雑や那覇の渋滞は著しく緩和できる。辺野古案に100の問題点があるように、勝連案は100のメリットがある。詳細を知りたい読者に、拙著「緊急政策提言 沖縄の基地問題への実行性のある、包括的かつ長期的な解決 および日米同盟の真の強化へ」をご覧いただきたい。
もともと勝連構想は、日米両政府が普天間の代替施設の再検討をしていた2005年に私が提案した。
しかし、両政府とも、一旦死んだ辺野古案を、救急救命士のように一生懸命生き返す事を目指しており、国防総省の長官室の関係者が勝連構想は「ベスト・ワン」と認めていたにも関わらず新しい提案を受け入れようとしなかった。
国防総省の日本上席部長の文書の返答は、「日本政府が提案しないといけない。だが、日本政府が提案するのに、沖縄県が提案しないとだめ」というものだった。
勝連構想の利点の1つは、建設のスピードだ。少なくとも40年もかかる辺野古案と違って、勝連はおよそ3年しかかからず、しかも、僅かのコストで済む。
これは、沖縄市泡瀬案や那覇空港の第2滑走路のような埋め立て事業であるが、埋め立てには周辺の砂と死んだ珊瑚などを吸い上げて利用する。
沖縄の他の地域、日本本土あるいは、検討されていた中国から輸入しなくていい。その近くにある宮城島と平安座島(両方とも、うるま市)の間にある広大な人工島と同じ工法を使ってつくる予定だ。
何もかも一から建設するもので、全ての電気、下水道、その他のパイプラインなどは、最新の製品、最新の方法でつくりながら埋めていける。
辺野古案のキャンプシュワブでは、50年代以降から作ったものが多いため、全てのものが取り壊してから再建しないといけない。それによって、コストと時間は倍どころか、3倍、4倍かかる。
さらに、地形が斜めであるため、基地の地盤が完全に作り直す必要がある。地盤沈下や地面が固める時間がかかるなどの問題が以前から出ている。また、大浦湾は、35~38メートルぐらい深いところがあるため、埋め立てた部分が固まらないとその上の工事が始められない。
それに対して、勝連構想の予定地(浮原島と南浮原島の間とその周辺)の海は浅く、砂や死んだ珊瑚は直ぐセメントのように固まる。埋め立て工事は1年で終わり、基地の工事は2か年。
本島と埋め立て地をつなぐ2つか3つの橋(その1つは弾薬専用のため)は、同時並行で建設できる。橋の問題があった場合、基地に軍港もついているのは、船で人、車、荷物の移動ができる。先述した既設の人工島にあるCTS(石油中継・備蓄基地)からパイプラインを引く約束が獲得されているので、燃料の補給の心配もない。
解決策その2 那覇基地活用案 
第2の解決策は、中国やロシアの領空侵犯などのためにスクランブル(緊急発進)する航空自衛隊のジェット機を宮古列島にある下地島空港に移転させてから、海兵隊は那覇基地に移動するとの案だ。
伊良部島が隣接し、そこから宮古島に近年、橋でつながるようになったため、宮古列島で生活し、観光するのはかなり便利になった。
下地島の3000㍍の滑走路は、長年、日本の民間航空会社が操縦者の訓練地として使っていたが、フライト・シミュレーターが利用されるようになって、滑走路は十分に利用されていない。
1960年代から地元住民は自衛隊を誘致しようとしており、結果として空港ができたが、運営者である沖縄県庁と運輸省(当時)との間で、軍事転用をしない合意を1971年に締結した。
その後、災害対応などのために使用できることが認め、合意が改正されており、海兵隊は、ヘリの燃料補給のために使用したことがある。
宮古島には、既に航空自衛隊のレーダー基地は既にあるが、中国軍による海や空の行動に鑑みてより大きな自衛隊のプレゼンスが必要だ。
この関連で、2016年1月に那覇基地にある南西航空方面隊所属の戦闘機中隊を倍にしたが、スクランブルの必要性は大きく減ったと残念ながら言えない。
同じ年では、那覇基地から発進するスクランブル数は過去最高の803回に達した。つまり、那覇は遠すぎ、かつ不便だ。中国軍こそ、それを分かっている。
さらに、那覇空港には、現在、1つの滑走路しかなく、民間飛行機が優先されている。もし中国との有事が発生したとして、中国の民間機が「故障」して、滑走路の真上に居座ったら、航空自衛隊の戦闘機は離陸でき無くなってしまう。要するに軍事基地として不十分なのである。
尖閣諸島が焦点として、遠い那覇基地からの発進は、飛行機及び操縦者に疲労をもたらしている。ところが、より近い下地島空港よりの発進だったら、日本にとって極めて有利な状態をつくる。
最終的に、日本が今まであった南西諸島の上空の穴を見事に閉じることができ、中国は領空侵犯を控えるようになる。仮に中国がその行動を取りやめない場合、毎回、日本からは速いかつ強い対応で対抗し、もし必要があれば、下地島空港(基地)からさらにブルーサムライたちが来ることを覚悟しないといけない。
那覇基地が少し空くことになるため、海兵隊の航空機(オスプレイなど)は空いている格納庫やエプロンを使用することができる。
これらの航空機は、まだ沖縄本島内に、他の海兵隊の部隊と一緒にいるので、先述したMAGTFの完結性は維持したまま、テナントとして日本の基地の一部を利用することになる。
これによって、米軍の活動に対して多少不満のある日本政府にとって米軍の透明度が上がり、財政上の節約や合理化、(海兵隊は1つ少ない基地の運用をするので)地元との政治摩擦の削減、(海兵隊の姉妹組織である陸上自衛隊の第15旅団もいるので)軍事的の相互運用性が高まり、そして、世界や地域の両国の敵に対して、「日米同盟は強い」という極めて重要な戦略的なメッセージを発信できる。
また、那覇空港で建設している第2滑走路の目的の1つは普天間で失ったその機能の代替であるので、今から海兵隊が那覇基地にいることは意義深い。予算化されたら、移転は1年でできるほど簡単だ。
日本、アメリカそして沖縄にとってwin-win-winだが、勝連構想ほどよくない。また、海抜4㍍にある那覇基地には津波リスクがある。
解決策その3 沖縄県管理下の普天間防災拠点化
最後に提示する解決策は、私が内々で提言してきたもので、普天間を沖縄県の管轄下に置く共同使用の防災拠点として位置付ける。
この解決策には、運用上、現状維持に近いものと、かなり大胆のものの、2つのオプションがある。
何れのオプションにしても、同解決策は、普天間飛行場の重要性を強調し、責任感のある日本や沖縄のリーダーたちが、そうした認識から普天間を維持し丁寧に運用するとの希望を抱いているものだ。
現状維持に近いオプション1によれば、沖縄県(もしくは日本政府)と共同使用にし、沖縄県の管轄に置く。
海兵隊の飛行場としての今の機能をそのまま維持するか、嘉手納基地に一部あるいは全ての機能を移動するかは今後の議論の対象となる。
後者の場合であれば、事実というより政治問題である騒音と危険の懸念が減らされ、沖縄県が管轄しているため、摩擦も少なくなる。
ポイントは、いずれの場合、普天間の滑走路や一部の格納庫などは、海兵隊が有事などの時に支障なく使える状態を維持するということだ。
共同使用は即時にできる。実現するのは簡単。だが、1950年から53年の間の朝鮮戦争で活躍した普天間飛行場は、休戦後、日本で設立された国連軍後方司令部の使用施設に指定されているので、新しい管轄を、国連軍地位協定第5条に基づき報告する義務が発生する。
広大な面積のため、県庁は、飛行場の運用を協力するために普天間内に事務所を新たに設置必要がある。
普天間飛行場はいずれ閉鎖される予定だったため、長年、整備予算がついておらず、設備がボロボロになっている。県庁の管轄下に置けば、建物の再建もでき、中止になる辺野古の工事で仕事を失った建設会社などは、普天間の工事のために契約を再締結できるはずだ。
より大胆なオプション2は、1と同じく、滑走路や格納庫を使える状態を維持しながら普天間にある海兵隊の機能の一部か全てを嘉手納基地に移転する上、普天間の中心的な役割は沖縄県の管轄下の防災拠点にすることだ。
この場合、新しくできた海軍病院は直ぐ近くにあり、普天間飛行場とその病院の両方の施設は高台にあるので、津波などの被害は全く心配がない。その2つの機能を連携させることで、沖縄県や宜野湾市は、日米沖の協力のもとで、頻繁に襲うインド太平洋地域における自然災害に対して大変大きな人道上の役割を果たせる。
問題は、上記で説明しているより簡単かつ重要だ。要するに、有事の際、複数の選択肢をもつ必要があるので、日米同盟は2740㍍の戦略的な滑走路を持つ普天間を失ってはダメだ。何らかの形の普天間を維持すべきなのだ。
キャンプシャワブで1800㍍しかない滑走路(両側に305㍍ずつの安全地帯があるため、実際に使えるのは、1190㍍だ)をわざわざ建設して普天間飛行場を閉鎖するのは、自殺行為そのものだ。
同様に、那覇空港の第2滑走路は、有事の際、自衛隊も使用しており、場合によって、避難のために、民間飛行機やチャーター機が利用しているため、普天間ほどよくない。那覇空港は混雑な状態になり、敵にとって最高の的になる。普天間は既に返還され、使用できず、那覇空港が被害を受けたら、1つの使用できる飛行場しか残らない(嘉手納空軍基地)。
最終的に2つ目の解決策である那覇基地は、上記で説明したように、大変リスキーであるため、あまりいい選択ではないが、辺野古より遥かにベターだ。
結論から言えば、普天間をそのまま維持(か解決策3という防災拠点化)するか、あるいは解決策1の勝連構想を建設するかしかない。
現状維持の場合、「普天間が世界一危険な基地」であり、その「固定化」をさけるべきという感情的な議論に対して積極的に反論しなけらえばならない。何れにしても正常に判断できる人は辺野古案を採択するはずがない。
日本政府が逃げ続けた後で
しかしながら、多くの日米の政治家や官僚たちは辺野古に固執している。それとも、事なかれ主義的に黙従してきた。時間や資源の無駄はすごい。彼らは辺野古が「ベスト」だとか、「唯一の解決策」というとんでもないウソを言い続けてきた。ベストでもなければベターでもない。ワーストだ。冒頭で質問した「何を解決しようとしているのか」がわからないから。
彼らは一貫して透明性や説明責任のある形で、真の再検討作業するのを避けてきた。
小泉純一郎首相に様々な誤報を伝えながら、当時の防衛庁が私の勝連構想を拒否した理由は「(ブッシュ大統領の来日を控えて)再検討する時間がない」ということだった。それは2005年9月だった。今から14年前(!)。時間はあった、十分にあった。
今だと反論はきっと、「もう砂の投入が始まったから、時間がない」となるだろう。しかし、今のところ工事は簡単なほうだ。まだ水深が浅いだから。大変な部分はこれからだ。先日、地盤軟弱の問題が出てきているが、それは大昔から分かっていた。にもかかわらず、実行しようとしたのだから無責任極まりない。
この官僚たちは、沖縄で他の案に対して「反対があるから」できないという。それは多少、事実だ。しかし、沖縄では必ず「反対」がある。
重要なのは、反対の最も少ないところを探すこと。日本政府はその努力をしていなかった。その結果、歴代の政権は、ますます深刻になる混雑を引き継ぎ、そして安倍政権は、この週末で行う、普天間移設をめぐる県民投票に直面している。
この問題は、10年前の勝連構想、2015年の下地島・那覇基地構想、あるいは、2014年の普天間防災拠点構想の何れの私案でも解決できた。
日本政府は哲学、想像力が欠けているだけでなく、時間や歳月を管理する時計やカレンダー、支出を管理する元帳もない。
アメリカをはじめ、日本、沖縄そしてインド太平洋地域のために、普天間を閉鎖してはいけない。
だけど、どうしてもやるというなら、何を解決しているかをしっかり理解して日米沖の総合的な観点に立って勇気を覚悟があれば実現はできる。
しかしもっと悪いのは、守るつもりがない約束をすること。約束を破るのは、信頼関係の崩壊につながる。こうした不信関係は、沖縄問題の本質そのものだ。普天間飛行場などの基地問題だけではない。
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22centuryworks · 2 years
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guzensei
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 今から振り返れば、四十年近い歳月が過ぎ去ろうとしている中で、僕はあの頃の自分と同じくらいの年齢の子供を持つ親にもなり、自分自身にかけられた人生の謎のような何かを解きたいと感じ始めたのかもしれない。
「ぼくらは大天幕を見ていた」稲泉 連
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 昨日は小林武史氏が実行委員長を務めるリボーンアート・フェスティバルをみた。宮城県石巻市という、2011年東日本大震災により多くの命が奪われた地で、新しい命を再びこの地にもたらそうという意志を持った祭典だ。私は石巻へ向かう電車の中で、戸井武史氏が編集長を務める「群像」を読んでいた。アートにも携行した。図らずも、武史のコラボレーションだった。
「群像」2022年9月号掲載のノンフィクション、稲泉連氏の「ぼくらは大天幕を見ていた」を読んだ。著者が少年期にキグレサーカスの中で80年代の一年ほどを生活した、そのモノクロの光と影がまざまざと、体感的文章によってよみがえった。私が直近でみた映画、林海象監督の「二十世紀少年読本」とテーマ、制作年代が被っており、ここにもコラボレーションが発生していた。稲泉氏がこの「二十世紀少年読本」のラストをみてどのような感想をもつか聴いてみたい気もする。
 この「ぼくらは大天幕を見ていた」の文章の中でとりわけ印象に残ったのは、美一さんというキグレサーカスでかつて共同生活をした女性が、数十年ぶりに再会した著者にこう証言する場面である。
〝サーカス団は家族みたいなものだった、でもじっさいは気の合う仲間で即席につくったコミューンに近かった。つまり、この祭りの先に何があったかは誰も知らない〟のだと。(意訳)
これは淋しい証言であり、じっさいキグレは2010年に経営不振に陥り畳まれ、もぬけの殻となったサーカステントを描写することでこの文章は閉じられる。
 リボーンアート・フェスティバルについて、職場などで出会う石巻出身の人に聞くと、大抵全く知らない。例年どおりだが石巻の街中も、昨日が初日ではあっても、どこか他人事のような静けさである。しかし、そもそもアートの展示場所が震災以後、使用されなくなった店や施設、倉庫や学校であるため、市民の心情として複雑であるにちがいない。つまり、このフェスティバルは、もぬけの殻になった後のサーカステントに発生した、モノクロの「霊」ですらない未来なのである。私はここに第三次世界大戦後の世界が現出しても何ら不思議ではないと思う。リボーンは2016年夏にプレイベントがあり、2017年夏に第一回の本祭が開かれたが、その時すでに青と黄のウクライナカラーをまとっていた。この偶然性。
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〝Surf Angel〟Motohiro Odani, 〝Towering Vacancy〟SIDE CORE from Reborn-Art Festival 2021-2022
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toshihikokuroda · 2 years
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基地建設進む石垣島 沖縄
米軍に土地も家も奪われ ここに次は自衛隊か…
2022年6月17日【1面】
現地ルポ
 米中が軍事衝突し、日本が参戦したら、真っ先に戦場になるのが沖縄です。77年前の沖縄戦と同様、住民は“捨て石”にされかねません。自衛隊のミサイル基地建設が強行されている石垣島を訪れました。(斎藤和紀)
 石垣島中央部の平得大俣(ひらえおおまた)地区。於茂登(おもと)岳の麓の森が切り開かれ、15台以上のクレーンが並んでいます。岩を削る音が鳥の鳴き声をかき消し、ダンプカーなどの工事車両が頻繁に出入りしています。防衛省は、中国艦船を想定した地対艦・地対空ミサイル部隊や警備部隊など約570人の配備を計画。2019年から工事に着手し、22年度中の完成を狙っています。
 「米軍に土地も家も全て奪われてここに来た。次は自衛隊か」。於茂登地区の元公民館館長の嶺井善(まさる)さん(56)は声を震わせます。同地区は、沖縄本島にある米軍嘉手納基地などを造るために土地家屋を強制接収された人たちが開拓した地域です。「集落に住む人の3分の2は嘉手納基地に土地を全部とられた」(嶺井さん)といいます。
 (1面のつづき)
「台湾有事」起きたら 石垣住民5万 避難不可能
戦場にしない外交を
 集落の入り口にたつ「開拓之碑」には、最初の開拓民の一人である嶺井善さんの父親の名が刻まれています。20代前半で南城市から単身で移住。手作業で木を切り倒し、大きな石は水牛に引かせて取り除き、家を建てました。生活は苦しく野菜やお茶、パイナップルなど何でも作りました。
 父親が入植してから約7年後に嶺井さんが誕生。朝5時から野菜の収穫を手伝い、学校から帰宅した後は、畑の石拾いやヤギの世話などをしました。おなかをすかせることが多く「あの時は生活が苦しいのが当たり前だった」と振り返ります。
 自衛隊配備は、住民にとって青天のへきれきでした。米軍に追われ、苦労を重ねて開拓した住民は軍への抵抗感は強く、近隣の於茂登、開南、川原、嵩田(たけだ)の4地区は反対決議をあげました。しかし、防衛省は住民の声を無視し、建設を強行しています。
日米共同基地に
 日本政府は「島しょ防衛」と称して、鹿児島沖から奄美、沖縄本島、宮古、石垣、与那国にいたる南西諸島に、自衛隊のミサイル部隊配備を進めています(図)。その背景には「第1列島線」に日米のミサイル網を配備して中国を抑止するという米国の戦略があります。
 米海兵隊は、中国の沿岸地域に臨時の戦闘拠点を設け、地対艦ミサイルで中国を抑止する「遠征前進基地作戦」(EABO)の具体化を加速。念頭に置くのは台湾有事です。
 米軍と自衛隊が台湾有事を想定した日米共同作戦計画の原案を策定したと共同通信が報じました。それによると、中台間で戦闘が起き、日本政府が安保法制に基づき、「重要影響事態」と認定した場合に、南西諸島が米海兵隊の臨時拠点となり、日米で中国艦艇を排除するとしています。
 22年1月の日米安全保障協議委員会(2プラス2)の共同声明には、台湾有事を念頭に、「南西諸島での自衛隊の体制を強化し、日米の施設の共同使用を増加させる」と明記。日米共同基地化が鮮明となりました。
 そうなれば南西諸島は軍事攻撃の標的となります。石垣市の人口は約5万人で、全員避難させることは不可能です。石垣や宮古島など先島全体では人口11万人にのぼります。加えて、台湾からの避難民も想定され、大混乱は必至です。
避難計画示さず
 政府は、国民保護法に基づき、自治体に「国民保護計画」の策定を義務づけ、「有事」において住民避難などを行うとしています。
 石垣市の国民保護計画によると、観光シーズンや混雑の発生状況などに応じて「複数の避難実施要領のパターン」を事前に作成すると明記。しかし内容は「非公開」(担当者)です。弾道ミサイルを想定した住民参加の避難訓練も石垣市で実施されたことはなく、住民からも「どれだけ上等な計画が作成されても、計画を事前に知らせずに5万人を避難させるのは無理だ」との声が上がります。
 弾道ミサイルや航空機による攻撃があった場合にはコンクリート造りの頑丈な施設や地下施設に避難すると明記。しかし、市の担当者はそうした施設について、「対象施設の指定はしてないが、そんなにないと思う」と述べました。
 また、基本指針には本土から遠い沖縄県の離島での避難には「国が特段の配慮をする」としており、内閣官房や国土交通省は航空機や船舶などの運送手段の「確保に努める」としています。しかし、石垣島で全住民を避難させるための運送手段の確保について、内閣官房は「有事の対処に支障をきたしかねないので答えられない」と回答を避けました。
 マグロ漁師の座波(ざは)幸次さん(61)は、「有事の際に船で逃げるのは現実的じゃない。島に大人数を運べる船はないし、漁船は遅いから真っ先に狙われる。戦争が始まればどこにも出られない」と危惧します。
 また、自衛隊に住民を保護する考えはないことが分かっています。日本共産党の赤嶺政賢衆院議員が18年に暴露した防衛省の内部文書「機動展開構想概案」(12年3月29日付)では、石垣島に敵が侵攻した場合、「(敵・味方の)どちらかの残存率が30%になるまで戦闘」という凄惨(せいさん)なシナリオを想定。しかし、「国民保護」は「自衛隊が主担任ではない」としています。「軍隊は住民を守らない」―。沖縄戦で住民が体験した冷厳な事実です。
逃げ場のない島
 住民からも懸念の声が相次いでいます。
 嶺井さんは、「ウクライナでも軍事基地や人が集まる場所が真っ先に攻撃された。有事になれば島に逃げ場はない。沖縄戦のように、空を見上げて『自分に当たりませんように』って祈るしかない。そうならないための外交ではないのか」と訴えます。「私たちは6年前から『有事になったらどこに逃げるのか』と問い続けたが、市や国は避難計画の内容は秘密だと言う。それでは避難なんてできない。石垣には地下もないし、そんな非常識な話があるか」
 ミサイルの弾薬庫から約400メートルしか離れていない開南地区の小林丙次・元公民館長(60)は、火薬庫が攻撃されれば住民が巻き添えになると懸念。「基地がなければここは戦場にならない。政府は『国を守るため』と言うが、私たちも国民の一人だ」と憤ります。
 住民の約9割が農家である川原地区の具志堅正・元公民館長(60)は、急ピッチに工事が進む現状に不安を抱きます。「戦争が起きてからでは遅い。日中交流を進めてほしい」と言います。「ここは農業や畜産をするなら一等地だ。基地の近くは島の飲料水や農業用水の水源地で、農作物にも影響が出る」と危機感をにじませます。
 基地建設は住民の民意を踏みにじって進められました。賛否で住民が分断させられる中、若者を中心に「石垣市住民投票を求める会」を結成し、18年に基地建設の賛否を問う住民投票の実施を求める署名を、有権者の約4割から集めました。市自治基本条例に基づき実施を求めましたが、推進派の中山義隆市政は拒否。現在、那覇地裁で係争中です。同会の宮良麻奈美さん(29)は、「市や国は、住民は『いないもの』として配備を決めた。それなら有事も住民を『いないもの』として扱うでしょう」と懸念します。
 岸田文雄政権は、ロシアのウクライナ侵略に便乗して、敵基地攻撃能力の保有や軍事費倍増など「力には力」で対抗する軍拡路線に突き進んでいます。軍事で対抗すれば軍拡の悪循環に陥り、偶発的な紛争を招く危険性が高まります。
 「石垣島に軍事基地をつくらせない市民連絡会」共同代表で医師の上原秀政さんは、「ウクライナ侵略で明らかなように、基地が標的にされ、住民は避難する暇もなく巻き込まれる。絶対に戦争は起こさせてはいけない」と指摘しました。
 沖縄戦の最中、石垣島は海と空が閉鎖されたことで食料などの物資が届かず、住民は飢餓に襲われたと紹介。旧日本軍が住民を山奥に強制避難させたためマラリアが蔓延(まんえん)し、石垣島で約2500人が亡くなったとして、「直接攻撃されなくても、島に閉じ込められるだけで恐ろしい事態になる」とも危惧します。上原さんは、琉球王国は日本や中国をつなぐ「平和の島」だったとし、「琉球では寝床に刀を飾らず三線を置いていたという。武力ではなく文化や音楽を通じた国際交流が大事だ」と訴えました。
 (4面) (しんぶん赤旗)
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0gachanne1 · 3 years
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6/7月~13日
【6月7日・月】 ノルウェーの連邦解体記念日です。 今から116年前の1905年6月7日に、 ノルウェーが、スウェーデンノルウェーという連合王国から 独立を宣言したことにちなんで制定された記念日です。 ということで、今日は昨日に続き、北欧の国の一つ、 ノルウェーについて確認します。  ノルウェーの正式名称は、ノルウェー王国。 ノルウェーの首都は、国内最大都市のオスロ。 ノルウェーの人口は、約530万人、 これは神奈川県横浜市と川崎市の人口の合計と同じくらいです。 ノルウェーの面積は約32万km2、 日本は約37万km2なので、日本より少し小さいくらいです。 ノルウェーの通貨単位はクローネ。 1クローネ=約12円なので、 単純計算で160円のコーラが、13クローネで買えます。 ノルウェーの公用語はノルウェー語です。 他にも、ノルウェーといえば、フィヨルド、サーモンが有名です。 氷河に浸食されてできた複雑な地形であるフィヨルドが大西洋沿岸を覆っています。 北海に油田があり、欧州を中心に石油天然ガスを輸出。 現代スキー発祥の地ということで、1994年にノルウェーの都市リレハンメル冬期オリンピックが行われました。 ちなみにリレハンメルの人口は2万5000人ほど。 キングオブスキーの異名を持つ荻原健司選手などを要した ノルディック複合で金メダルを獲得しました。 北ヨーロッパの国ですがEUには加盟しておりません。 国連の関連団体が発表した2020年の幸福度ランキング5位。 1位は同じ北欧のフィンランド。 日本は62位です。 ノルウェーについてでした。
【6月8日・火】 大鳴門橋(おおなるときょう)の開通記念日です。 1985年の6月8日、兵庫県の南あわじ市と徳島県の鳴門市の間にある、 鳴門海峡を結ぶつり橋である 全長1630mの大鳴門橋が開通しました。 鳴門海峡といえば、渦潮です。 ラーメンに入れる鳴門、 ただしくは蒲鉾の一種である鳴門巻きですが、 なるとの断面の渦巻き模様は、 鳴門海峡の渦潮にちかんで名づけられたと言われています。 この渦潮は潮の満ち引きによって、 せまい鳴門海峡を、潮の流れが通過するときに起こる現象です。 大潮のときの流れは時速20km、 うずの大きさは直径20mにもなります。 この潮の流れにもまれて育った魚やタコは 身がひきしまっていて美味しいです。 鳴門鯛がその代表です。 なお、6月は 「瀬戸内海宇和海(せとないかい、うわかい)クリーン作戦月間」 となっております。 瀬戸内海は、700以上の島がある多島海で、 海岸線の総延長は約7230km、 平均水深は40m弱の日本最大の内海です。 ということで、 明日からは瀬戸内海に面している10個の府県について、 少しずつ紹介していきたいと思います。 鳴門海峡についてでした。 【6月9日・水】  今月は瀬戸内海宇和海クリーン月間ということで、 瀬戸内海に面した県の紹介シリーズをお届けします。 今日は第1弾、兵庫県について確認します。 陸海空の交通を生かし、 さまざまな産業が発展している兵庫県は 面積8400km2で全国12位、 人口約555万人で全国7位。 県庁所在地は神戸市、 ほかに人口の多い市は、姫路市、 甲子園で有名な西宮市、 宝塚歌劇団で有名な宝塚市などがあります。 旧国名は摂津(せっつ)、丹波(たんば)、播磨(はりま)、但馬(たじま)、淡路(あわじ)、 世界遺産に姫路城があります。 火に強い白壁の美しさからシラサギ城とも呼ばれています。 特産品としては、丹波の黒豆、灘の清酒、但馬牛、タコ焼きの元祖明石焼きなどが有名です。 南部の瀬戸内海沿岸は 温暖で雨が少なく、晴れの日が多い。 それに対し、北部の日本海側の山間部は、 冬に降水量が最も多く、多雪地帯です。 兵庫県についてでした。 【6月10日・木】大安・新月(旧暦5月1日) 今月は瀬戸内海宇和海クリーン月間ということで、 瀬戸内海に面した県の紹介シリーズをお届けしております。 今日は第2弾徳島県について確認します。 8月上旬の4日間、阿波踊りで県民が一つになる徳島県は 面積4150km2で全国36位、 人口約74万人で全国44位。 県庁所在地は徳島市、 徳島市には弁天山という標高6.1mの日本一低い自然の山があります。 ほかに人口の多い市は、阿南市、鳴門市などがあります。 旧国名は阿波(あわ)、 特産品としては、徳島で飼育されていたニワトリを改良した地鶏で有名な阿波おどり、 源義経も食べたとされる竹ちくわ、スダチが有��です。 温暖多雨で県南部では梅雨と台風による豪雨が多い土地です。 徳島県についてでした。 【6月11日・金】 今日は「入梅(にゅうばい)」です。 入梅とは、梅雨入りする最初の日のことです。 現在は気象庁などが大雨に注意してほしいということで 「梅雨入り宣言」を出しており、 年によって宣言の出る日が違いますが、 旧暦では二十四節気の立春(りっしゅん・旧暦で一年の初めの日・今年は2月3日)から 127日目と定められていました。 梅雨の時期は、 実際には年や地域によって1カ月程度の差が生じます。 北海道と小笠原諸島には梅雨がありません。 青かった梅がこの時期に熟し、 カビが発生しやすくなることから 「黴雨(ばいう)」(黴=カビ)となり、 同音の「梅雨」になったとされています。 また、入梅は旧暦5月にあたったため、 この時期の雨のことを「五月雨(さみだれ)」、 梅雨の合間の晴れを「五月(さつき)晴れ」といいます。 梅雨入りに対して、梅雨明けは、 立秋(りっしゅう)までとされています。 二十四節気の一つである立秋は8月7日ごろで、 夏至と秋分のちょうど中間になります。 立秋になっても梅雨が明けない場合、梅雨明け宣言はありません。 ですから、比較的梅雨明けが遅い東北地方は、 梅雨明けなしとなることがあります。 今日は入梅についてでした。 【6月13日・日】 今月は瀬戸内海宇和海クリーン月間ということで、 瀬戸内海に面した県の紹介シリーズ第3弾、 今日は岡山県について確認します。 知事はいばらぎさん。 太陽の恵み豊かな瀬戸内の県である岡山県は 面積7100km2で全国17位、 人口約190万人で全国20位。 県庁所在地は岡山市、日本三名園の一つ後楽園があります。 ほかに人口の多い市は、 美しい街並みを残す倉敷市、津山市などがあります。 旧国名は備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・美作(みまさか)、 特産品としては、マスカット、白桃、 2011年B1グランプリ優勝の蒜山(ひるぜん)焼そばなどが有名です。 やや内陸性で温暖、 降水量は中国山地と四国山地にさえぎられて多くない、 降水量1mm未満の日が多く、 「晴れの国」として知られています。 岡山県についてでした。
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tak4hir0 · 3 years
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皆さんは国道1号線をなんと呼んでいるだろうか。私は生まれも育ちも神奈川県中央部の綾瀬市なのだが、昔から「イチコク」と呼んできた。 しかしながら、最近になってそれは極めてローカルな呼称であることを知った。国道1号線のことを「イチコク」と略すのは、神奈川県のいわゆる湘南地域だけなのだ。 生まれてこの方、ずっとイチコクと呼んできた 日本に数ある国道の中でもトップを飾る国道1号線(正式には線をつけず国道1号)は、かつて江戸と京都・大坂を結ぶ大動脈であった東海道を踏襲する道路である。 その道筋は日本橋から京浜地域を南下し、保土ヶ谷・戸塚を経て湘南・西湘地域を西へと進み、箱根峠を越えて静岡県へと続いていく。 江戸時代に整備されたかつての主要街道、東海道を踏襲する国道1号線 私が住む綾瀬市は片瀬江ノ島で有名な藤沢市の北側に隣接しており、湘南エリアからはギリギリ外れた位置にある。とはいえ藤沢市との行き来は多く、国道1号線に接する機会もそれなりにある土地柄だ。  そのような環境において、私はずっと国道1号線を「イチコク」と略してきた。いつからかは定かではないが、おそらく周囲の人々の影響を受けて自然とそう呼ぶようになったのだろう。 大磯町には旧東海道の杉並木が残っており、なかなかに風情がある ところがだ、近年になって某キャンプツーリング漫画を読んでいたところ、国道1号線を「国1」と略しているのを見て驚愕した。 おいおい、国道1号線は「イチコク」であって「コクイチ」ではないだろう。――と思いつつも気になったのでネットを検索してみると……なんということだろう、国道1号線を「イチコク」と呼ぶのは湘南とその周辺地域だけだったのだ。 生まれてこのかた40年間、なんの疑いもなく「イチコク」と呼び続けていた身にとって、これは天地を揺るがす衝撃的な大事件であった。 京浜地域では国道1号線をニコクと呼ぶ さらに調べを進めたことろ、同じ神奈川県であっても横浜市や川崎市の京浜地域では国道1号線の呼び方が異なることが判明した。 東京都の城南地域(品川区・大田区)から川崎市、横浜市鶴見区・神奈川区にかけての京浜地域では、国道1号線と国道15号線が並走して通っている。その沿線では海側の国道15号線を「第一京浜国道」、内陸の国道1号線を「第二京浜国道」と呼んでおり、それぞれ「イチコク」「ニコク」と略しているのだ。 京浜地域において、「イチコク」は「第一京浜国道」こと国道15号線を指す 国道1号線は「第二京浜国道」であり「ニコク」なのだ イチコク圏の身からすると実にややこしいものであるが、国道1号線の歴史を紐解いてみると、この区間においては「ニコク」と呼ぶ方が正しいように思えてくる。 というのも、最初に国道の番号が定められた明治18年(1885年)の当初は現在の国道15号線が1号国道であり(旧東海道を踏襲しているのもこのルートだ)、現在の国道1号線は昭和27年(1952年)の道路法による路線指定において新たに定められた区間なのだ。 京浜地域の国道1号線はこのような変遷があったのだ 故にこの区間においては、元祖国道1号線である国道15号線を「イチコク」、新道である現在の国道1号線を「ニコク」を呼ぶのは、道路ができた順番からしても自然であるといえる。 国道1号線の略称についてアンケートを取ってみた 神奈川県内でも地域によって国道1号線の略称が異なることが分かったが、その範囲はどのように分布しているのだろうか。また神奈川県以外では国道1号線をどのように呼んでいるのだろうか。 それらの疑問を解消すべく、より広くの方々からアンケートで意見を募ってみることにした。 設問は以下の通りである。 Q1:出身地域を教えてください (できれば市町村区名も) 神奈川県湘南地域 神奈川県横浜市・川崎市 神奈川県その他の地域 東京都23区内 東京都23区外 神奈川県・東京都以外の関東地方 東海地方 関西地方 その他 Q2:現住所の地域を教えてください(できれば市町村区名も)  Q1と同じ選択肢 Q3:国道1号線をなんと略しますか?(略すとしたらなんと略しますか?) イチコク コクイチ ニコク R1 その他(自由記述) Q4:国道1号線の略称として「イチコク」という言葉を使ったり聞いたことがありますか? 自分で使う 家族や友達が使う 聞いたことがある 聞いたことがない Q5:国道1号線の略称について、思うことがあれば自由にご記入ください このアンケートをはげましひろばとTwitterで募集したところ、約500件にも及ぶ回答を頂くことができた。ご協力いただいた皆様にはこの場を借りてお礼を申し上げたい。本当にありがとうございました。 改めて設問を見直してみると、アンケートとしてはやや不十分であったと反省している。まず年齢によって呼称が異なる可能性を考慮して年代を教えてもらうべきであった。地域についても東京都の城南地域は分けるべきだったし、川崎市・横浜市も京浜地域とそれ以外で分けるべきであったように思う。 またQ3の選択肢に「R1」とあるが、これは私の父親に国道1号線をなんと略すかと聞いたら即座に「アール・ワン」と答えたからだ。国道1号線→ルート1→R1ということで、「まぁそう呼ぶ人もいるんだろうな」と思い選択肢に入れたのだが、結果的にR1を選ぶ人はごくわずかであり選択肢に入れる意味はあまりなかった。 私の父親は妙に小洒落た呼び方を使いたがる(過去記事「津軽弁が分からない」より) 「イチコク」と呼ぶ範囲は意外と広い さて、アンケートの結果を見ていこう。 まず国道1号線を「イチコク」と略す地域についてであるが、これは神奈川県藤沢市・茅ヶ崎市・寒川町・平塚市・大磯町・二宮町・小田原市にかけての、湘南・西湘が中心であることは間違いなさそうだ。 湘南・西湘はほぼすべての人が「イチコク」と呼んでいるという結果であった 任意記述のご意見を見ても、この地域では昔から自然と「イチコク」と呼んでいたことが伺える。なぜ「イチコク」なのかは分からないが、周りの人々が皆そう言っていたので、自分も「イチコク」と呼ぶようになった、というものである。 都内ではいちこくは15号のことで驚いた。 湘南ではいちこくは国道1号のことだったから。 海側からいちこく にこくだと聞き あぜんとした。騙されてたのかと思った。 by さなまささん(神奈川県藤沢市出身・東京都墨田区在住)  身の回りでも国道1号線を「イチコク」としか呼んでいなかったのですが、よく考えると省略するのであれば「コクイチ」と呼んでいても良いはずで、なぜ「コク」と「イチ」を入れ替えているのか不思議です。(寿司をシースー呼びしたりするのと同じ理由だったらどうしよう) by でこさん(神奈川県藤沢市出身・在住) 茅ヶ崎育ちです。子供の頃は「国道」って呼んでいました。国道1号線が絶対エースだったからです。高校生になって東海道線と国道134号の間に住む友人ができたり、免許を取って他の国道がある地域に車で行くようになると「イチコク」呼びもするようになりました。 by すた・けいさん(神奈川県茅ヶ崎市出身・川崎市中原区在住) 国道1号線沿いの店舗を「イチコク沿いの店」と呼んでいた。 by ぶんちゃんさん(神奈川県茅ヶ崎市出身・東京都在住) 家族、親類、友人・知人が皆「イチコク」と呼んでいたので、大人になってだいぶ経ってからメディアか何かで「コクイチ」を聞いて一瞬何を指しているのか理解できなかった by 牛蒡さん(神奈川県中郡大磯町出身・東京都在住) 「コクイチ」と言う方が周りに多く、しかし自分は「イチコク」育ち。今さら変える気は無いので強い気持ちで「イチコク」と言っております。 by むすすさん(神奈川県小田原市出身・在住) また私が住む綾瀬市や大和市など、湘南に隣接する内陸の地域でも「イチコク」と呼んでいる人は多い。 一方で、湘南に隣接する内陸部といっても相模川より西側の厚木市・伊勢原市・秦野市では「イチコク」はあまり使われていないようだ。この地域では国道246号線(ニーヨンロク)の方が圧倒的に存在感があり、国道1号線はさほど身近ではないためだろう。 丹沢山麓においては、国道といえばイチコクではなくニーヨンロクなのだ イチコク圏は湘南地域に留まらず、横浜市においても国道15号線が並走しない地域では「イチコク」が使われている。さらには三浦半島の横須賀市でも「イチコク」と呼ぶという証言が複数あり、その範囲は私が想像していた以上に広いようである。 イチコク���が一番しっくりくる by あとむさん(横浜市戸塚区出身・東京都江東区在住) ちょっとヤンチャ系の先輩はおしなべてイチコクでした。金沢区からイチコクは少し遠いので(そしてより都会にあるので)、よりヤンチャ度が増すとして格好つけて使われてたのかもしれません。 by さなさん(横浜市金沢区出身・東京都葛飾区在住) イチコク一択かと思っていたので他の呼び方があったことに驚きました by ののさん(神奈川県横須賀市出身・川崎市在住)  家族もイチコク呼称ですし、コクイチと呼ばれているなんて全く知りませんでした。地域カルチャーの違いで何かを言われることへの憧れがついに叶うのかも知れません。 by のじょむさん(神奈川県横須賀市出身・在住) ヤンチャな人が「イチコク」を好んで使っていたということは、「イチコク」という言葉はヤンキー文化が関係しており、その辺のクラスタによって国道1号線からかなり距離がある横須賀市まで伝播したとも考えられそうである。 横須賀でも「イチコク」という呼称が使われているとは思ってもみなかった 確かにわざわざ「コク」と「イチ」をひっくり返すところとかちょっとヤンキーっぽい気もするな……と思ったが、次の投稿を見てその考えは改められた。 生まれてこの方横浜に住んでいます。国道一号線の略称は「イチコク」しか聞いた事がありません。 両親(60代、共に神奈川県出身)にも聞いてみましたが、やはり「イチコク」だと言い、「なんでそんなこと聞くの」という顔をされました。 by コアラ町さん(神奈川県横浜市出身・在住) ここで注目すべきは60代の方も当然のように「イチコク」という呼称を使っているという点である。ヤンキー文化の隆盛より前から地元に根付いていた言葉である可能性がありそうだ。 戦前の文献などでは「国道〇号」を「〇号国道」と表記するものがある。戦後に現在の国道1号線が定められてからも「1号国道」という言葉が使い続けられ、それを略して「イチコク」と呼ぶようになったのではないだろうか。個人的な憶測であるが。 ちなみに牛丼チェーンの「すき家」では、国道1号線沿いにある店舗はすべて「1国〇〇店」という店名で統一されている。すき家は横浜市の生麦駅に存在した1号店がルーツらしいので、ひょっとしたらイチコク圏の影響を受けているのかもしれない。 国道1号線沿いのすき家は、すべての地域で「1国〇〇店」という店名だ おおむね予想通りな「ニコク」の範囲 続いて国道1号線を「ニコク」と呼ぶ地域であるが、これはおおむね予想通りの範囲に収まっていた。東京都の城南地区から横浜市の神奈川区にかけて、国道15号線沿いの京浜地域である。 家の近くは、第二京浜と呼ばれていて、ニコクが一般的でした。国道1号だと、知ったのは高校生くらいかも。 by まっちょさん(東京都品川区出身・練馬区在住) 国道1号線なのに「ニコク」って変だな?とはどこかのタイミングでよぎったのですが、深くは考えないままずっとニコクニコク言い続けてきました。家族はもちろん、学校の友達もニコクで通じていましたし、むしろそれ以外の略称を聞いたことがありません。 by ケヒヒさん(神奈川県川崎市鶴見区出身・静岡県浜松市在住)    川崎に住みはじめて最初イチコクと聞いたとき国道1号線のとこかと思ってたけど、よくよく聞いてみるとイチコクは国道15号線のことで国道1号線のことはニコクと言うのを知ったときはすごい紛らわしいと感じた けどすぐ慣れた by まじんさん(関東地方出身・神奈川県川崎市在住)  一時期、横浜市鶴見区に住んでいましたが、周りの人間はニコク(二国?)と呼んでいました。このアンケートを見て、住んでた人にラインで聞いてみましたが、みんな「二国って言う」と返信がきました。 by 照り焼き地銀さん(鹿児島県薩摩川内市出身・在住) ニコク圏は地元出身者のみならず、他地域から引っ越してきた人々も「ニコク」という呼称を使っている印象だ。しかし最近では「ニコク」と呼ぶ人は減少しているらしく、略さず「第2京浜」と呼ぶ人も少なくないようである。 区内の国道1号沿いに住んで40年余りです。 うちの親も、嫁の親もニコク沿いなので、みんな使います。 一昔前よりは、ニコクを使う人が減った気がします。他地域からの流入増のため? by H+A/Sさん(東京都大田区出身・品川区在住) 略ではないですが、周りの人はみな「第二京浜」と呼んでいます。 by 匿名さん(東京都品川区出身・在住) 引っ越してきて、ニコクと呼ばれているのに驚きましたが、ニコクよりは第2京浜と呼んでる人の方が多い気がします。 by しんいちさん(大阪府大阪市出身・東京都品川区在住) 「ニコク」のランドーマークである、昭和16年(1941年)に架けられた響橋 また第二京浜国道の略とはいえ、国道1号線を「ニコク」と呼ぶのはやはり少々特殊である。地域外の人には通じないことが多く、会話ではより分かりやすい呼び名を使用する人もいる。 ニコク、が正しい略称だと思いますが、その由来や成り立ちを知らない他人に伝えるときに伝わりにくいので、イチゴウ、イチゴウセン、などと呼んでいます。 高輪付近では桜田通と呼んだりもしますが、イチコクは15号のことなので、イチコクとは絶対に呼びません。 by きあれこさん(東京都港区出身・大田区在住) 関西出身者に「ニコク」が通じない。東京人でも国道1号(第二京浜)を日常的に使う人にしか通じない気がする。気がするだけで本当は通じるのかも知れないけど。不安なので「第二京浜」と言うようになってしまってとても悔しい。 by くさちびさん(東京都品川区出身・大田区在住) このように「ニコク」に関して寄せられたご意見には熱いものが多く、ニコク圏の方々のこだわりと葛藤が伺える。 イチコク圏の私としては国道1号線の略称は「イチコク」しかないと思っていたのだが、国道1号線の歴史を知った今では旧国道1号である15号線を「イチコク」と呼ぶのは適切だと思うし、現在の国道1号線を「ニコク」と呼ぶのもやぶさかではない次第である。 ただし、国道1号と15号の合流点である「青木通交差点」からその先は、「イチコク」であることは譲れない。 「ニコク」は国道15号線の終点にあたる「青木通交差点」までだ 東海地方は「コクイチ」が断トツ お次は箱根峠を越えて西へと進もう。東海地方では「コクイチ」と呼ぶ人が圧倒的多数であり、現在は他地域に住んでいる人も、東海地方出身者はもれなく「コクイチ」と呼んでいる。特に静岡県民のコクイチ率は、なんとなんとの100%であった。 静岡県ではすべての人が国道1号線を「コクイチ」と呼ぶのだ 今回のアンケートにおいて東海地方の方々が口をそろえて言っていたのが、「コクイチ」以外の略称があるなんて知らなかった、というものである。 コクイチ以外に略称があるなんて、考えもしなかったです… by にゃん太さん(静岡県沼津市出身・在住) コクイチ以外の略称をこのアンケートで初めて知りました by まなさん(静岡県富士市出身・在住) 「コクイチ」以外の選択肢があることに驚いた。 by わいさん(静岡県静岡市出身・海外在住) 国1の略称が「コクイチ」以外にあること自体、びっくりです。少なくとも私の周りでは他に聞いたことがありませんでした。 by けろけろさん(静岡県静岡市出身・浜松市在住) 「コクイチ」以外の呼び方(略し方)があるなんて考えたことすらありませんでした by しおんさん(静岡県袋井市出身・在住) 他の略称があるとは思わなかった by 麻生さくやさん(静岡県浜松市出身・在住) コクイチ以外きいたことなかった by 匿名さん(愛知県豊橋市出身・在住) コクイチ以外の略し方があること自体まったく知らなかったし考えたこともなかった。 by おやいずさん(愛知県岡崎市出身・在住) これはもう、東海地方ではコクイチ以外の呼び方なんてありえないというレベルである。 どうやら親の世代から「コクイチ」という呼称が付け継がれ、完全に地域に根付いているようだ。 親が「コクイチ」と行っていたのでそのまま覚えました by みまりさん(静岡県静岡市出身・在住) 静岡県民にとっては国道一号線と書いてコクイチ。 by adiasさん(静岡県藤枝市出身・神奈川県在住) コクイチは静岡ローカルな言い方だって聞いた事があります。 by ずっきーさん(静岡県静岡市葵区出身・東京都文京区在住) ちなみに私が「コクイチ」という呼称を知った漫画の作者も静岡県の出身であり、漫画の台詞として「コクイチ」を出したのもごく自然なことだったのだろう。 静岡県の国道1号線はやたら長い上に風景の変化が少なく、走っていて結構つらい 東海地方において「コクイチ」は強いこだわりをもって使われているようで、それ以外の呼称を使おうものならよそ者扱いされること請け合いだ。 仕事ですこし東海圏にいたが、つい国道1号をイチコクと言ってしまうと、また横浜出身者が!みたいな横浜出身者あるあるの一つみたいな責め方をされた(笑) by 県庁所在地と政令指定都市出身は出身を市名で名乗っていいと思う委員会さん(横浜市出身・在住) ちなみに東海地方以外の方からは、「コクイチ」は国家公務員採用一種試験を連想するという意見が多数寄せられた。 関西地方は「イチゴウセン」が多い(ただし京都市は通りの名) 最後は国道1号線の西端にあたる関西地方である。アンケートを見てみると、関西ではあまり略さずに「1号線(イチゴウセン)」あるいは「1号(イチゴウ)」と呼ぶ方が多いようだ。 また京都と大阪を結ぶ国道であることから、ご年配の方は「京阪国道」という呼称を使う人もいるという。 略す方が違和感あります。 by わかばっ!さん(大阪府枚方市出身・在住) そもそも略す人は周りにいないですね 京阪国道という人はお年寄りなどでいます by てっちりさん(大阪府守口市出身・静岡県浜松市在住) ただし京都市に限っては国道1号線という言葉自体ほとんど使われておらず、「五条通」など通りの名前で呼んでいるという。 学生時代京都に住んでいたので、イチコクもコクイチも全く通じず、五条通と言ってやっと通じる(京都市内の国道一号線もなかなか複雑…) みつるさん(神奈川県厚木市出身・在住) 京都市内の道にはほとんど名称が付いているため、国道と兼用されている場合でも国道とは呼称しないことがほとんどです。国道1号線も堀川通や五条通、九条通と兼用されており、「国道1号線」という呼称では位置が曖昧であるため使われないのかと思います。京都市内で国道1号線が何度か直角に曲がることも「国道1号線」という呼称を使いづらい(ひとつの道と認識しづらい)一因かもしれません。 ぴかーどさん(京都府京都市出身・大阪府吹田市在住) 京都市内の地図を見てみると、国道1号線は碁盤目状の通りをカクカクと折れ曲がっている。なるほど、確かにこれでは国道1号線というだけでは場所を特定しづらく、通りの名で呼ぶ方が簡潔だ。 こうも折れ曲がっていると、通りの名前で読んだ方が分かりやすい とまぁ、関西地方では国道1号線をあまり略すことはないようだが、大阪から北九州の門司を繋ぐ、かつての山陽道を踏襲する国道2号線は「ニコク」と呼ばれているという。 しかし国道2号線の別名である「第一阪神国道」から「イチコク」と略す人もおり、その場合は国道43号線が「第二阪神国道」であり「ニコク」なのだとか。 京浜地域の国道1号線と同様、阪神地域の国道2号線においても呼称の相違があり、こちらもまた一筋縄ではいかないようである。 阪神地域もまた、国道2号線の呼称問題を抱えているのだ 国道の呼び方あれこれ 今回は私の個人的な興味に基づき国道1号線の略称について調べてみたが、寄せられた回答を見ていると、それ以外の国道も各地によってさまざまな呼び方があるようだ。 基本的に1桁や2桁の国道は「〇号線」読みが多いようだが、3桁になると数字で呼ぶようになる。私の周辺でも国道246号線を「ニーヨンロク」、国道467号線を「ヨンロクナナ」というし、他にも国道36号線は「サブロク」、国道156号線は「イチコロ線」などと呼ばれているようだ。 興味深いところでは国道23号線を「メイシ」や「メイヨン」(名四国道)、国道258号線を「リャンウーパー」(麻雀用語から?)、国道122号線を「ワンツーツー」(なぜ英語?)など、各地に独自の呼称があるようである。そのような各地の国道呼称を調べてみるのも面白そうですな。 余談だが、国道15号線沿いにあるJR鶴見線の、その名も「国道駅」 この駅が実にシブく、素晴らしいたたずまいを見せていた
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tagchan · 4 years
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「ととと便り」2021年3月3日 今日は雛祭りですが、ゲストは男性のみ。 18きっぱーが動き出しましたね。 春の旅人の皆さん、お待ちしていますよ! 『今日の消しゴムはんこ』 昨日お伝えした「御宿印帳」向けに消しゴムはんこを作ってみようと思い 今日チャレンジしてみました。 まずは練習がてら「ととと」の「と」を作ってみることに。 トレーシングペーパーに暖簾の「と」を参考に文字を書いて 消しゴムはんこに写します。 トレーシングペーパー、初めて使いましたがこういう使い方をするんですね。 トレース(trace)する紙なので、そりゃそうなんですが。 文字の輪郭をV時に彫り、あとは周りをどんどん削っていく。 「と」の文字が簡単な作りなので、作業はそれほど難しくありませんでした。 試し押しをしてみても、なかなかいい感じなので、 これを3回押してもらってもいいですよね。 ひとまず採用。 まだ材料はあるので、「と」を違う書体にしたり もう少し複雑なのもチャレンジしてみようと思います。 ちなみに消しゴムはんこ用品を買ったのは ホットライン肴町にある平金商店パステル館。 1階を見て回っても見つからなかったのでネットで買わないとダメかなと思いましたが ダメもとで店員さんに「消しゴムはんこ用の消しゴムはありますか?」と聞いたら 2階にありますよ、とのこと。 今まで、数回来たことありますが、2階の存在を知らなかった。 2階ははっきり言って沼ですね。 画材など専門的な道具、文房具がいっぱい。 これは次の予定がなかったら楽し過ぎて抜け出せない。 文房具好きな皆さん、ぜひ行ってみてくださいね。 『盛岡の宿応援割開催中!』残り6泊程度 盛岡の宿応援割は2021年3月7日宿泊分まで 現在の対象:岩手県、青森県、秋田県、宮城県、山形県、新潟県の県民の方 (公式HP)http://www.city.morioka.iwate.jp/kankou/kankouinfo/1032874.html (ととと関連ページ)https://bokunohosomichi.fun/moriokaaccmodiscount/ ご予約はお早めに (ととと予約フォーム)https://bokunohosomichi.fun/bookingform2020b/ #ととと 盛岡の泊まれるたまり場 #ととと盛岡 #盛岡のととと #ととと便り #御宿印帳 #消しゴムはんこ #平金商店 #平金商店パステル館 #岩手の冬 @takuji.onodera.morioka.iwate HPも見てね! https://bokunohosomichi.fun/ 旅のひとと地元のひとがつながる場 泊まらなくても使えるシェアリビング&キッチン 飲食物持込自由 自炊可能 街歩きが楽しい町、盛岡 #盛岡 #岩手 #morioka #iwate #もりおか 町家のあるまち並み、鉈屋町 #鉈屋町 #natayacho #なたやちょう #iiiwate #盛岡ゲストハウス #岩手ゲストハウス #盛岡観光 #岩手宿泊 #盛岡宿泊 #東北 #tohoku #北東北 #岩手旅行 #iwatehostel  #moriokahostel (ととと ―盛岡の泊まれるたまり場― Tototo Morioka) https://www.instagram.com/p/CL9Hib9B8kv/?igshid=1nor7eii3br7g
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2月の合同練習会のレポートです。
2月15日・16日の2日間、福島民報ホールでの今期最後の練習会を行いました。
初日の福島は快晴。薄手のコートで十分過ごせそうな気温です。
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この日は、JA共済連全国本部の佐々木課長が練習見学に来てくださいました。
ご挨拶を頂戴しました。
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そして、JA共済連全国本部様からの差し入れとして、大船渡産の「気仙椿茶」を頂きました。
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気仙椿茶とは、気仙地方産の椿葉を緑茶にブレンド発酵させた発酵茶だそうです。
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初日の午前中は第九の練習。栁澤先生の全奏です。
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この日も取材で、複数台のカメラが入っていました。
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休憩中の団欒の様子も、撮影が入ります。
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初日のお昼には、JA共済連福島様からお弁当と紅茶(https://earlgrey-2007.com/)の差し入れを頂きました。いつもありがとうございます。
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美��しくいただきました。
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さて、今回の練習会でもたくさんの差し入��を頂きました。
こちらは、デジタルガレージ様からのお菓子の差し入れ。かわいらしいパッケージに団員のテンションがあがっていました。
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フルート石川慧花さんのお母様から、マスクと消毒液の差し入れ。新型肺炎やインフルエンザで、なかなか手に入らない中、ありがたい予防グッズです。
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トロンボーン橋本幸歩さんのご家族からは、 大粒でとても甘い気仙沼イチゴ。
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この数のイチゴが集まると、かなり壮観です...。
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昼食休憩中には、雑誌広告用の取材・撮影も行いました。
クラリネットパートの樅山瑞歩さん(姉)と、第九の合唱で参加している鈴さん(妹)の姉妹インタビューです。
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姉妹とても仲が良く、頻繁に電話やLINEで会話をしているそうです。
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お弁当を口に運ぶタイミングまでぴったりで、仲の良さが伝わってきます。
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さて、午後は坂本監督の新曲「いま時間が傾いて」の練習を行いました。
先月から練習を始めたこの曲の、変拍子のリズムに苦戦する団員が続出...。
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ヴァイオリンの中高生団員に、大学生の日比野愛さんが熱血指導。
11拍子(4・4・3)を「すきやき・すきやき・ごはん」で取るんだよ、と美味しそうなアドバイス。
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なんとこれで本当に出来るようになったそうです!
木管セクションも、変拍子に苦戦...。合奏でも丁寧に取りあげていました。
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休憩時間、パーカッションの冨澤拓己君の練習に、コントラバス山崎寛大君が手をたたいて付き合います。
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ヴァイオリンパートの田口君も練習に参入。
というよりは、遊んでいるような...(笑)
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初日の最後には、 久しぶりに「Three TOHOKU Songs」の練習をしました。
東北ユースの十八番の曲で、今回の演奏会でも演奏する曲です。
団員の皆さんの「ちょいさー」の掛け声、しっかり元気がありましたよ。
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ちなみに、東北ユースオーケストラの新備品として台車を購入しましたのでご報告いたします。
TYO事務局の竹田さん、岡田さんが嬉しそうに開封! オーケストラは楽器や譜面台、楽譜や文具など事務用品が何かと運ぶものが多いので、これで運搬が楽になります...。
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初日は夕方16:30に練習終了。バスで宿泊施設へ移動します。
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この日はJA共済グループの保養施設に宿泊させて頂きました。毎年2月の合同練習の際にはこの施設にお世話になっております。ありがとうございます。
到着してすぐに夕食を頂きました。
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「いただきます」係は、五期生のホルン三上玲央君。   夕食とお風呂を済ませた後は、20歳以上の団員と事務局スタッフで懇親飲み会も行いました。
就活の悩みや、バイトの話、先日のバレンタインのことなど...。若者らしい話題で盛り上がっていました。
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2日目。前日とは打って変わっての雨模様です。 
2/16(日)の福島民報にて前日の練習の紹介記事を掲載して頂きました。
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午前中は第九の全奏を行いました。管楽器は第九に乗らない団員もいるため、その間は個人練習。
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中学3年生のメンバーは、隙間時間を活用し勉強をしていました。
2週間後の宮城と福島の県立高校入試に向け、隙間時間を見つけて追い込みをかけます。
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休憩時間には、ロビーコンサートや有志演奏会の自主練習をする団員達も。
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こちらはバイオリン四重奏の4人。有名なヴィヴァルディの「春」を練習していました。
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午後は、東京フィルハーモニー交響楽団の先生方のご指導の下、セクション練習を行いました。
弦楽器の先生はヴァイオリン奏者の山内祐子さん。
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木管の先生はオーボエ奏者の荒川文吉さん。
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金管の先生はホルン奏者の山内研自さん。
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打楽器の先生は船迫優子さん。
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各セクションごとに丁寧に課題箇所を取り上げながら練習を見て頂きました。
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福島行われる、今期最後の練習会が無事終了致しました。
今回も練習視察や取材等でかなり人の出入りが多い練習会だったのですが、協賛社の方々、メディアの方々、東フィルの先生方、団員のご家族等...、東北ユースオーケストラは、本当に多くの方に支えられている団体だな...と改めて実感した引率係でした。
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kennak · 4 years
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宮城、福島両県で最大震度6強を観測した13日の地震で、家屋修理の負担について宮城県山元町の住民から不安の声が上がっている。町での被害は県内最多の172戸に上ったが、手厚い公的支援が期待しにくいためだ。隣接する福島県側では国の支援を受けられる可能性もあり、住民は複雑な思いを抱いている。  「車で10分走れば福島県新地町。県境のこちら側は国は支援しないというのであれば、納得できない」
震度6強 家屋の修理負担、福島と格差? 山元の住民「支援なしは納得できない」 | 河北新報オンラインニュース / ONLINE NEWS
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konohana-douraku · 5 years
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11/3(祝) 秋のこのはな・2大音楽イベント同時開催の日!
このはな文化状況観察ブログ働楽のきてみて!このはな。今回は11/3(祝)文化の日に開催された、2つの音楽系イベントについてお伝えします。
例年このはなでは、秋に見っけ!このはなが開催されてきました。しかし昨年に続いて今年もまた開催されませんでした。
昨年は代わりとなる大きなイベントは行われませんでした。しかし今年は何と2つのイベントが、11/3(祝)文化の日に同時開催される運びとなりました。
まずはこのはな”めぐる”音楽祭。イベントを立ち上げたのは、今年梅香にオープンしたおでんBARぎゃみんのマスター宮城陽一さんです。此花区内に4つの会場を設け、参加ミュージシャンが会場を移動しながらライブを行います。観客もまた、お好みでこれらの会場を自由に往来。ちなみに料金は投げ銭制です。
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そしてもう一つのイベントが山田万博。街なかでポスターを見かけた時、あまりにも謎すぎて、思わず写メを撮りました。白地に黒の簡素なタイポグラフィながら、訴求力はバツグンで、とくに三角形を組合せてきちんと「祭」と読み解けるのが素晴らしい!
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この一連のデザインはこのはな在住の美術家三家総一郎さんのお仕事です。2年前の「見っけ!」の際、三家さんのワークショップに参加して三角形の木片を組合せてランプシェードを作ったのをふと思い出しました。さすがです、その、三角形を熟知したそのデザインワーク!
☆☆
かくして期待に胸ふくらませ、11/3(祝)文化の日、このはなの街へと繰り出しました。まずは四貫島の此花一休区民ホールを訪ねます。
☆☆☆
13:00頃 山田万博 @此花一休区民ホール(四貫島)
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この日真っ先におじゃましてみると、詩人・写真家で The Blend Osakaのディレクターも務める辺口芳典さんをはじめとするメンバーが、会場内の設営に追われていました。
スタッフの皆さんがお忙しい中、隅っこから会場をざっと見渡すと、体育館の中央に畳マットが敷かれ、その上に太鼓が並べられていました。その周囲には三家総一郎さんデザインの、三角が組み合わさったランプシェードが吊り下げられ、次第に会場らしい雰囲気が整えられていってる最中でした。
なるほど今日は四貫島住吉神社の夏祭りで地車囃子に携わっているメンバーが集まるのだな―ということが、この時点でようやく把握できました。
《つまり山田万博の「山田」とは、山田畳店店主・山田繁さんのこと!》
山田さんは長年、四貫島住吉神社の地車囃子を指導してきました。また辺口芳典さんの写真のモデルにもなっています。さらには家族で楽しめる児童文学の読み聞かせイベントこえのえほんでも会場に畳マットを敷いていただくなど、このはなのイベントではすっかりおなじみです。この山田さんのもとに集まる様々なジャンルの人たちが集まって、これからどんなイベントが始まるのか?―この時点では何も予想がつきません。しかしそろそろ時間なので移動せねばと区民ホールを後にして、われわれの拠点である働楽へと移動します。
☆☆☆
14:00頃 このはな”めぐる”音楽祭 @働楽会場(梅香)
梅香のわが働楽に駆け込むと、エントランスすぐ横にステージがすでに設営されていました。働楽会場は、奈良県橿原市出身のシンガーソングライター若林美樹さんからスタートです。
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働楽は、普段は福祉作業所という仕事の場。しかしこの日はライブ会場らしさあふれる空間に様変わり。一時期このはなにもよく遊びに来られてたイラストレーター小田島等さんの絵(かつては梅香伝説のスペースOTONARIに展示)も、久しぶりに表舞台に現れました。さて、若林さんの魅力といったらその歌声。澄んだ優しい声ですが、まっすぐな強さも併せ持ち、ストレートに心まで届きます。普段聴いてる音楽のジャンルとかこだわりといったものに縛られたものが、スルスルとほどけてくるような歌声です。歌に合わせて一緒にポーズを合わせるうちに、狭い場所でパイプ椅子に座ってる人たちの気分も徐々にほぐされ、そのうち一体感に包み込まれました。
☆☆☆
15:00頃 このはな”めぐる”音楽祭 @おでんBAR ぎゃみん会場(梅香)
主催者でもある宮城陽一さんのお店おでんBARぎゃみんへ急いで移動すると、粋な赤の着物姿で格好良くギターをかき鳴らす加藤愛(めぐみ)さんが、背面のガラスに映るこのはなの街並みをバックに、ハイテンションな歌声を響かせていました。
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オリジナル曲以外にも洋楽カバー、昭和の歌謡曲までを、時にオトコマエに、時にしっとりと歌います。ライブの合間に、加藤さんのファンの方とのおしゃべりからフリートークが始まりました。加藤さんの出生地・北海道の話で盛り上がり、その流れで生まれた長万部と今住む神戸がともに「海に近い」ことへの感慨を歌ったオリジナル曲を披露しました。そしてトリを飾った曲は『シンガーソングかあちゃん』。二児の母として育児に奮闘する日々をコミカルかつソウルフルに、歌い上げました。
☆☆☆
16:00頃 このはな”めぐる”音楽祭 @椿庵会場(朝日)
今度も足早に、レンタル着物の椿庵へと移動します。いつもは区内のイベント限定で振る舞われている椿庵名物のぜんざいやお餅を注文するお客さんも多く、スタッフの皆さん方がお膳を抱えて忙しく動き回っています。お客の半数以上は女性。そして土間に設けられた客席は満員御礼―ということで、舞台の隅に座って真横から演奏を拝見することに。
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普段、着物の着付け等に使われている畳部屋に設けられたステージに、佐水己山(尺八)さんと宮嶋幸枝(ピアノ)さんが登壇。まずは昭和30年代あたりにブームを呼んで現在も愛される尺八奏者福田蘭童(※クレージーキャッチの元メンバーで料理研究家・石橋エータローの実父でもあるんです)による和洋折衷のメロディが趣深い曲(※曲名失念、でもまた聴きたい)からスタート。そしてジャズのスタンダード『枯葉』も披露しました。尺八ならではの風を感じる枯れた音色にじっくり耳を傾けていると、秋ならではの寂寥感が不思議に伝わってくるものですね。
☆☆☆
17:00頃 このはな”めぐる”音楽祭 @Mercy Orgamon会場(西九条)
このはな”めぐる”音楽祭を開催する4会場の中では最も南に位置する、西九条のバーMercy Orgamon。こちらではジャズのライブはもちろん、楽器ごとのワークショップも頻繁に行われています。
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既に満員で身動きしづらい店内に、ごく普通の出で立ちのおじさん達が、わらわらと集まってきて、肩に担いだケースから楽器を取り出します。そのうち演奏が始まると、プレイヤーとの距離が半端なく近いせいか、いきなりグルーヴの渦中に巻き込まれてしまいました。
サックス、ギター、エレキベース、ドラム、フルート……ところでトランペットは?と思ってたら自分のすぐ横に座ってた車椅子のおじさんが、トランペットを取り出し、吹きはじめました。曲目はマイルス・デイビスの演奏で有名な『Bye Bye Blackbird』。全身の力を振り絞りながらも、飄々として軽やかなプレイを聴かせてくれるのでした。そしてその後はヴォーカル曲も披露(※曲目失念;;)。ふと思い出したんですがこの方、確か梅香在住のジャズメンHさんでは?―実はだいぶ前にお会いしたことがあるんですけど……ふと数年前の邂逅を思い出しつつ車椅子に目を向けるとJAZZY1120と書かれたステッカーが。ジャズメンは細部まで粋なものですね。
☆☆☆
18:00頃 ふたたび山田万博 @此花一休区民ホール(四貫島)
改めて四貫島の区民ホールに戻ってきました。講堂の板張りの上に敷かれた畳の上には和太鼓、鉦が置かれ、こちらに辺口芳典さん達を中心に立ち上げられた”ネオ地車囃子”チームHachiのメンバーが並んで演奏の真っ最中でした。
畳の外には竹筒が置かれ、その前に撥と座布団が置かれています。ざっくりと状況を把握した後で、見よう見まねで自分もその竹の前に座って、演奏に「参加」してみました。
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とはいえテンポが速くてリズムも複雑なので、最初のうちは、なかなか素人には追いつけません。なのでまずはじっくりリズムに耳を傾けることから。耳が慣れてきて、一定のパターンが見えてきたら、どこかの瞬間でポン、と竹を叩いてみます。すると一瞬だけですが「このグルーヴとつながれた!」という感触が。その後みんなと同じ瞬間にポン、ポン、ポン―と竹筒を叩く回数を増やしていって、最後には自分もこのグルーヴに取り込まれ、みんなとの一体感を味わうことができました。
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演奏メンバーは入れ替わり立ち替わり、様々に変化します。西九条神社のお祭りに参加してる皆さんがやって来て叩いたり、女性だけで叩いてみたり、あるいは四貫島住吉神社の地車囃子のメンバーがキツネ踊りを披露するなど、流れは自由自在に変化していきます。
《MCもおれへんのに何だこの一体感は!》
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一度会場に入れば、もう傍観者ではいられないのです。かといって参加者の行動を縛るものは一つもありません。演奏に参加したり、眺めたり、海外のビールを飲んでくつろいだり、山田さんのお面を被って遊んだり、型抜きに熱中したり、2025年の大阪・関西万博に向けたパネル展示を楽しんだり―ユルいんだけど熱くもなれるし、のんびりできる。そう、この自由さと前例のなさこそが、このはななんです。そしてトリを務めたのは、やっぱりわれらが山田さん!
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かくしてこの、近寄る老若男女を際限なく吸い寄せてしまう(山田)かつてないイベントは、20:00ちょうどに大団円を迎えました。
☆☆☆☆☆☆
まとめ
このはな”めぐる”音楽祭&山田万博―開催スタイルから何から全く違ったイベントでしたが、共通するのは自分が普段聴いている音楽の趣味とかこだわりから離脱して、その場で湧き起こる体験に身を委ねることに尽きるでしょう。
音楽の趣味というのは、ジャンルが細分化されすぎた影響なのか、ともすれば自分のセンスを競うような雰囲気に陥りがちな面があります。どことは言いませんが「これはロックだ!」「これはロックじゃない!」―みたいな論法が幅をきかせる雑誌が世の中には多く流通し、その影響下にある人たちも多くて、私自身、音楽の話題になるといつも窮屈な思いをします。何でも細分化しすぎると、やがて敵対関係になっていくのは仕方ないのかも知れません。
☆☆
さてこのブログでも度々紹介してますが、このはなにはジェリー・ゴードン(音楽家・詩人)さん運営のMIIT Houseというスペースがあり、2011年より即興音楽とコンテンポラリーダンスのイベントminiaturesが定期的に開催され、今年で通算83回(!)を迎えました。出演するミュージシャンはクラシックや現代音楽、ジャズ、エレクトロニカなど由来は様々なのですが、異なる方法論を持った人たちが一緒に音を出すことで、不思議な統一感に至る瞬間が度々訪れます。またFIGYAやPORTでも、それぞれ音楽を他の表現(美術や映像など)と接続する試みが、継続して行われています。これらのスペースが共通して放つ魅力は、実はこの2つのイベントにも共通して言えることではなかったかと思います。
つまりこのはなの音楽シーンは、シニカルさとは無縁な「包括的な感性」によって支えられてるのではないか―そんな大きな気づきに至れた、とっても文化的な文化の日でした。
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細かく区切ったものを包括する意思とかアイデアを、今後もこのはなのカルチャーシーンの中に見つけて行けたらと思います。それにしても今年の更新頻度は非常に低かったな……という反省も踏まえつつ、また来年2020年もこの出来のわるいブログをよろしくお願いいたします。
*このブログは『地域活動支援センター 働楽』が運営しています。
http://www.konohana-douraku.com/
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