ウクライナ関係のエントリのまとめと私見のまとめ
今までに投稿したウクライナ関係のエントリをまとめておく。
ウクライナ侵攻について
「プーチンは狂人でもナショナリストでもない」 佐藤優が読み解く「暴君」の“本当の狙い”
ウクライナ侵攻について2
プーチンのウクライナ侵攻、実は25年前から「予言」されていた…!
「キエフ制圧」でもロシアの泥沼は続く、アフガン、チェンチェンの二の舞いに
ウクライナ侵攻について
対露戦略と対中戦略の齟齬
ウクライナの半導体製造用ガス2社が生産停止、世界供給の約半分カバー | REUTERS
ロシア・ウクライナ戦争の和平を実現するために「最も重要なモノ」
ウクライナ戦争は世界の経済覇権をどう変えるか
ウクライナ戦争の影で中国が手に入れる「利権」
ウクライナ侵攻、膠着の原因と今後の展開
ウラジーミル・プーチン
ウクライナの英雄に? 無人機「バイラクタルTB2」大活躍 “バイラクタルの歌”が愛国歌に
停戦の条件はどのあたりか
ロシア軍、キエフ周辺から2割近くを再配置 米分析: 日本経済新聞
ウクライナ情勢2022/04/01
ウクライナ戦争「アメリカが原因作った説」の真相 | ウクライナ侵攻、危機の本質
ウクライナ戦争「数年単位」 東欧での基地拡大を提案―米軍トップ
長引く戦火が世界の人々の生活に与えうる悪影響 | ウクライナ侵攻、危機の本質
プーチンの意図する「非ナチ化」とは
「プーチンは何も諦めていない」佐藤優が明かす「ロシアが狙うウクライナの急所」
[書評]現代ロシアの軍事戦略 小泉悠
ウクライナ侵攻状況2022/05/19
エマニュエル・トッド氏「第3次世界大戦が始まった」
エマニュエル・トッド氏「日本はウクライナ戦争から抜け出せ」
以下は自分の私見のまとめである。
今回のウクライナ侵攻に際して日本はロシア叩き一辺倒である。形式的にも実質的にも侵略戦争であり、ロシアを非難するのは当然である。しかしだからといって、ウクライナが絶対正義であるとか、ウクライナが単純な被害者だとかいう見方は正しくないし、ウクライナを後方から指示するNATOが正義というわけでもない。国際外交や歴史は複雑なものだ。いい大人がそういうことをわかっていないということは残念な話である。
そもそもウクライナ侵攻の火種はNATOの拡大にはじまる。冷戦終結期、ソ連のゴルバチョフは「NATOがドイツよりも東に拡大しないのならば」という条件で東西ドイツの統一に同意した。当時のNATO事務総長も、米国務長官も、独首相も類似の発言をしている。しかしこれは正式な条約ではなく、結局NATOはドイツより東に拡大しつづけることになる。かつてソビエト連邦に属していたバルト三国、東欧4カ国、バルカン諸国が次々にNATOに加盟していくわけだが、これに対しソ連崩壊後のロシアは安全保障上の危惧を抱いた。
そもそもNATOは強大なソ連軍に対抗するための軍事同盟である。したがってソ連が崩壊したならば理論的にはNATOは不要になる。しかし、実際にはNATOは存続した。理由はいくつか考えられる。NATOには他にも目的があった。ドイツの軍事力を抑え込むこと。アメリカが欧州をコントロールする手段を確保すること。また単純に、これほど大規模な同盟を作ってしまうと、解体するのにもかえって混乱を招くからあえて解体しないという消極的な理由もあっただろう。
しかし、これほど大規模な軍事同盟は多額の予算を食う。そんな同盟を維持するには何らかの目標、平たく言えば仮想敵が必要だ。そしてソ連なきあとNATOの仮想敵国になりうるのはロシアしかいない。したがってソ連崩壊後のNATOはロシアを仮想敵とした。のみならず、NATOは旧ソ連諸国を次々に加盟させて東方拡大していった。
NATOとしては、必ずしも積極的に東方拡大するという意図はなかったかもしれない。むしろバルト三国、東欧4カ国、バルカン諸国のほうが、ソ連から離れて軍事同盟を失っていたから、安全な庇護者としてNATOへの加盟を熱望していたという要素はあっただろう。しかもこれらの国々は、NATOに入ることでEU加盟、ひいては経済支援も期待できるのだから、当然といえば当然である。一方のNATOと��ては単にオープンドアポリシーに則って彼らを受け入れただけなのかもしれない。90年代~ゼロ年代初頭には、NATOを構成する欧米諸国もロシアのことをさほど脅威とは認識していなかったようなフシもある。実際のところはNATOも一枚岩ではないはずで、その思惑は様々であっただろう。
ロシアは広大な国土を持つが、多くの国と陸続きである。したがって防衛するのがけっこう難しい。歴史的にもナポレオンやヒトラーに攻め込まれた経験を持つ。このため、ロシアは伝統的に戦略縦深を確保することを基本姿勢としてきた。具体的には、モスクワと他国との距離を確保し、一度攻め込まれても追い返せるだけの緩衝地域を設けることが必須条件であった。ソ連時代にはバルト三国、東欧、バルカン諸国が緩衝地域としての役割を担っていた。ところがこれらの国々がNATOに鞍替えしてしまうと、緩衝地域が敵の攻撃拠点となってしまう。モスクワを守る装甲が、モスクワを攻める銃に変わってしまったわけである。
したがってNATOの東方拡大は、ロシア側から見ればロシアへの敵対行動にしか見えなかった。だからロシアはNATO拡大に対して苦情を言い続けてきた。グルジア(のちジョージア)がNATO加盟を希望した際には、ロシアがグルジアを徹底的に叩き、同国のNATO加盟は棚上げとなっている。これはNATOへの警告でもあった。しかし、欧米はロシアの警告を無視し続けた。
最後に残ったロシアの緩衝地域が、ベラルーシとウクライナである。ロシアはベラルーシとの関係を強化することに成功したが、ウクライナはうまくいかなかった。ウクライナはもともと権威主義的な親露派政権だったが、欧米がウクライナにコナをかけ(ゼロ年代末以降、米独の政治家が何度もウクライナを訪れていた)、2014年のウクライナ危機が発生する。
ウクライナ危機では、ウクライナの親露派政権に対して、親欧米派が反政府デモを組織し、大統領が亡命するという事態になった。新たに大統領を選出したウクライナは、EUやNATOへの加盟を志向する。ウクライナがNATOに加盟するとなれば、ロシアに喧嘩を売るようなものだ。そのことはウクライナ側もわかっていただろう。
しかし、ウクライナは親欧米派一色に染まったわけではない。このときクリミア編入とドンバス戦争が発生する。
クリミア半島は帝政ロシア時代からロシア黒海艦隊があり、ソ連時代もソ連の軍港があったし、ソ連崩壊後もロシア海軍の軍港として機能していた。ロシアとしてはクリミア半島を失えば貴重な不凍港を失うことになるため、秘密裏に特殊部隊を送り込んで軍事拠点を制圧、クリミア半島の海軍司令官がすぐ投降してしまい、のちにロシア海軍にスライドする。さらにロシアはクリミア議会を掌握して独立宣言させたのち、ロシアへの編入を問う住民投票を実施させた。その結果、クリミアはほぼ無血でロシアに編入されてしまった。この編入は西側諸国からの非難を浴びたのだが、もともとクリミア半島はロシアの軍港として長らく機能してきたことから、ロシアへの編入に反対する住民は少なかったようである。要するにロシアの情報操作や工作がなくとも、当の住民が編入を歓迎していたわけだ。西側としては国際法の建前上、承認できないと言い続けるしかないのだが、住民の大半が歓迎している以上、現実問題としてはどうしようもないというのが実情である。
かたやドンバス戦争は複雑な経過を辿った。ウクライナ東部のドンバス地方はロシア語話者が多く、政治的にも親ロシア的な住民が多い。親欧米派政権に反発した東部の親露派住民は、ドネツク人民共和国、ルガンスク人民共和国を名乗り、政府軍との内戦に発展する。背後ではロシアが兵器供与を行ったり、特殊部隊による訓練を行っていたが、戦争の主体はあくまでウクライナ東部の親露派が主体であった。つまりドンバス戦争は、ウクライナ国内の内戦であったということになる。
ドンバス地方がクリミア半島と違ったのは、ロシア語話者の割合がクリミアほど圧倒的ではなかったこと、ロシアがドンバス地方の編入を望まなかったことである。最終的にはロシアとフランスが停戦を仲介し、ドネツクとルガンスクを自治共和国とするミンスク合意が締結された。ロシアとしては、両共和国が「ウクライナ国内の自治共和国」という扱いになれば、ウクライナのNATO加盟に反対してくれるので、ロシアの安全保障上のメリットが大きい。ドンバス地方の親露派としては、自分たちの政治的立場が認められる。一方で親欧米派政権は、停戦のため一度はミンスク合意を受け入れたものの、外交上の自由度を制約されることになることを嫌って履行を先送りしていた。親露派とロシアはこれに不満を蓄積させ、結局ミンスク合意は履行されないまま大統領選を迎える。
新たに大統領に選出されたゼレンスキーは、ウクライナの大学で法学を専攻しながらコメディアンになり、テレビで政治ドラマを作って人気を博したという異色の政治家である。それが前の親欧米派政権を徹底的にこき下ろして大統領になったわけで、わりと典型的なポピュリズム的な政治家と言えるだろう。ゼレンスキーは当初はロシアとの対話を意図したようだが、ロシアは再交渉ではなくミンスク合意の履行を迫ったため、ゼレンスキーも強硬路線に切り替えることになった。
そして2022年、ロシア軍のウクライナ侵攻を迎えることになる。
ロシア軍は当初、速攻でドンバス地方とキエフの制圧を狙ったが、ウクライナの防空網を潰しそこねたことで制空権を取れなかった。さらにウクライナの穀倉地帯が雪解けで泥濘化し、さらにウクライナの橋落とし等で移動ルートを制限されたロシア陸軍は、ウクライナの無人攻撃機による爆撃、さらにラジコン式マルチコプターを活用した誘導兵器、欧米から供与された携行対戦車ミサイルにより足止めされ、キエフ攻略を断念する。逆にロシア語話者の多いドンバス地方はほぼロシアが制圧し、ロシア軍はドンバス地方・クリミア半島を拠点として黒海沿岸を奪取する方針に切り替えている。ロシアが黒海沿岸の占領に成功すれば、ウクライナは海軍の拠点と貿易拠点を失うこととなり、穀物の輸出が難しくなる。ウクライナは世界の胃袋を支える穀倉地帯であり、そもそも今年の作付けが怪しくなっているところだから、世界の食糧事情も大きな影響を受けるだろう。
日本を含めた西側諸国は、経済制裁を発動しているものの、欧州がロシア産天然ガスに依存しているために部分的な制裁にとどまっており、ロシア経済はさほど影響を受けていない。かといって軍事介入ができるかというと、ロシアは核保有国であり、核抑止論の観点で言えば「核保有国同士は戦争ができない」ので、NATOは軍事介入することができないし、今からウクライナをNATOに加盟させることは不可能である。ことここに至って、NATOは身動きできない。
以上を振り返ってみれば、問題は以下の2点に集約できるであろう。
①NATOが東方拡大し、ロシアが脅威を感じたこと
②ウクライナが国内問題を解決できなかったこと
①についてはすでに述べたとおりであるが、②については捕捉しておこう。ウクライナはエマニュエル・トッドが「問題は英国ではない、EUなのだ」(文春新書)で指摘したように、「ウクライナは、国民国家として半ば崩壊している社会」であった。要するに、親欧米派が反政府デモで政権を奪取したとはいえ、国内にロシア語話者の親ロシア派住民が生活していることは確かで、正反対の意見を持つ人々が同じ国で生活しているのだ。両者が何らかの合意をするしかなかったのは確かで、ミンスク合意は妥当な落とし所であったのだが、そこで妥協できなかった。
とはいえ、今回の戦争は形式的にも実質的にもロシアによる侵略である。したがってNATOもウクライナも、ロシアの行動を認めることはできない。しかしウクライナは戦争が長引くほど自国の農業、工業、経済が疲弊していく。一方、ロシア軍はグダグダっぷりをさんざん晒されているが、それなりの戦果を上げているし、経済制裁もろくに効かないから、ロシアが兵を引くとは思えない。時間はロシアに味方するから、停戦協議に応じる可能性は低い。そうなると今後の予想としては、この戦争は停戦もない恒久戦争になり、ウクライナはじわじわと締め上げられていくだろう。予想できないのは、ウクライナの重要拠点であるオデーサ(オデッサ)がどうなるかだ。オデーサが維持できればウクライナは戦えるが、陥落すれば戦争の継続が困難になるだろう。いずれにせよウクライナ有利で終わるということは考えにくい。ウクライナが有利になるためには、たとえばプーチンが急死するようなイレギュラーな事態が起きるくらいのことが必要である。
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1、"人"が語る、もっとも強い"馬"
武 豊(たけ ゆたか)という騎手が居る。
別業界である羽生善治やイチローと並べられるほどの"天才"と称され、
日本競走馬界で数少ない有名な"人間"であり、数々の歴代最多記録を残している。
そんな偉人がウマ娘プロモーターになって、あんなCMに出るなんて2000m芝不可避なわけだが、話がそれるのでここまでにしよう。
武豊は2018年現在も現役であり、数々の名馬と共にレースを制している。
親子三代で天皇賞制覇し「絶対の強さで人を退屈させた」と言わしめた"メジロマックイーン"
怪物達と共に第二次競馬ブーム期を盛り上げた平成三強の一頭、"スーパークリーク"
武豊としては二度しか乗らなかったものの、騎手としては伝説的ラストランを走り切らせ、
「神は居る」と思わせた、アイドルホースである芦毛の怪物"オグリキャップ"
そんな武豊が騎乗した馬達の中でも、一際異様な強さを見せた馬が居る。
"ディープインパクト"
無敗のまま「皐月賞」「東京優駿(日本ダービー)」「菊花賞」を制して三冠馬となり、
「一着至上主義」「奇跡に最も近い馬」と形容されるほど勝ち続け、恐ろしい戦績を残した名馬である。
以下の画像はそのディープインパクトが残した成績である。
世間はこの馬に注目し、社会現象だと言われるまで取材は相次いだ。
馬は喋れないので当然メディアは武豊にマイクを向ける。
様々なインタビューをされていく中、こんな質問が武豊に飛び込んだ。
「もし武豊���んが『武豊&ディープインパクト』と対戦できるとしたら、これまで数多く乗ってきた優駿の中で、打倒ディープとしてどの騎乗馬を選びますか?」
その質問に武豊は一頭の馬の名をあげた。
その馬の名はサイレンススズカ。
日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せた馬である。
2、上村洋行とサイレンススズカ
サイレンススズカは最初、武豊ではなく上村洋行という騎手が乗っていた。
上村騎手を乗せたサイレンススズカのデビュー戦は堂々の1着でゴール。
だが次の弥生賞ではレース開始前、柔軟な馬体でゲートをくぐってしまう。
※ゲートをくぐっちゃうサイレンススズカ
サイレンススズカは係員に押さえつけられ、なんとか再びゲートに入る。すると今度はスタートで酷い出遅れをしてしまう。
それでも驚異的な脚力で8着にはなったが、当時の関係者達はこれらの気性面をなんとかしたかった。
「走りたいという気持ちが先走り過ぎる」
「スイッチが入ると暴走するぐらい走りたがる」
サイレンススズカは確かに速い。
だがその身に任せたままだとレース終盤スタミナが尽きて、勝つことが難しい。
次のレースで上村はサイレンススズカを必死に抑えつけて走らせようとしたが、我慢しきれないサイレンススズカは先頭を走り続け逃げ切り1着。
東京優駿(日本ダービー)を勝たせたかった関係者たちは不安だった。
2000mならいいだろう。だが勝ちたいレースの距離は2400mなのだ。
※Sがスタート地点。Gがゴール地点。
ペース配分ができなければ、速さをコントロールしなければ、絶対に勝てない。
もはや上村は「マイル路線(1600m)で行ったほうがいいのでは」とも考えていたという。
しかし次の2200mでなんとサイレンススズカは1着。しかも騎手の上村が上手くサイレンススズカを抑えて、理想的な作戦勝ちだった。
「ダービーもいくらか抑えれば、勝てるだろう」
だが日本ダービーで、サイレンススズカは勝てなかった。なんと9着。
「もう小細工はやめて、逃げて競馬させよう」
関係者達は方針を転換する。
続く神戸新聞杯でサイレンススズカはレースを先行で走った。
走り続け、断然トップ。これは勝ったと見る者は思った。
サイレンススズカはペースを変えず先頭を走る。あとは、ただ走るだけ。
しかし後方からマチカネフクキタルがグングンとスピードをあげ追い抜こうとしていた。
上村騎手が気づいたころには、サイレンススズカは2着になっていた。
振り返れば、八百長さえ疑われてもおかしくないほどの、酷い抜かれ方であった。
この結果を受け、上村騎手は降板させられてしまう。
上村氏は後悔した。自らの失態を泣き、悔しがった。
そしてサイレンススズカの行く末を心配した。
「恋人以上のものが離れて行ってしまった感覚でした」と本人のインタビューも残っている。
「将来を見据えて、なるべく楽に勝たせてあげたかった」「苦しまずに走らせたかった」「勝ちをちゃんと見据えられてなかった」
当時を振り返ったブログ記事では
「出来ればここを何とか楽に勝たせてあげて、
天皇賞に向けて少しでも身体や精神面にダメージを残さない様にしてあげたい。
そしてより万全の状態で天皇賞に向かわせてあげたい」とも残している。
サイレンススズカに鞍上した上村氏は、誰よりもサイレンススズカを愛し、守りたがったがゆえに、本番レースで勝ち切る「勝負師」になりきれなかった。
競馬は勝負の世界。馬は勝たなければいけない。負けて許される馬など、皆認めなかった。
生涯成績113戦0勝のハルウララがメディアに持ち上げられ、大衆から愛された時も、競馬関係者達の声はあまり暖かくなかった。
武豊もその一人だ。
「強い馬が、強い勝ち方をすることに、競馬の真の面白さがある」
そんな勝つことに拘る騎手、武豊がサイレンススズカと出会うことになる。
3、大逃げの始まり
「サイレンススズカに乗りたい」
そう申し出たのは、なんと武豊からだった。
乗る馬の依頼が来るのを待つのが本来騎手側の立場なのだが、
その慣習を崩した直談判である。
そして香港国際カップでサイレンススズカと武豊騎手は初めてコンビを組む。
ちぐはぐな日程や、馬房内で左回りに旋回する癖を矯正しようとした結果ストレスをため込んでしまうなど悪条件が重なり、レース終盤に他馬に捲られて結果は5着。
「最初から全力で走り過ぎちゃうというか、サラブレッドの本質の塊のような馬だった」
そんな評価をサイレンススズカに下した武豊は大胆な騎乗を思いつく。
「抑えようと思ってもきかない。だったら、前半から好きなように走らせた方がいいと思った。この馬は走っているときがいちばん楽しそうでしたからね。それでも持つんじゃないかな、と」
いかに逃げて力を配分するか。
大逃げという戦法は古くからあるにはあるものの、「勝つための戦術」としては博打感が拭えないシロモノである。
大逃げでの名馬と言えば、どれも個性的で、数は多くない。
破滅的大逃げを幾度となく繰り返し、最後の直線でスタミナを尽かし大失速して馬群へと沈んでいき最下位。そんな滑稽な姿を何度も魅せ、競馬ファン達を楽しませた"ツインターボ"
あまりのハイペースでトウカイテイオーらのレース展開を乱し下位に追いやった、大逃げコンビとして有名な"メジロパーマー"と"ダイタクヘリオス"
世界レコードを叩き出したこともある"セイウンスカイ"なども居るに居るが、現在でも常用される戦術とは言い難い。
次走のバレンタインステークスでサイレンススズカはその「大逃げ」をする。
レース序盤の第三コーナー前でサイレンススズカはここまで逃げ離した。
※左の赤丸にサイレンススズカ。右の赤丸が他の馬達である。
大逃げは最初からハイペースで走るので、最後の直線ではスタミナがあまり残らない。
なので後方馬との差は縮まっていく……はずなのだが、
サイレンススズカは加速する。加速し続け、後方の馬をさらに逃げ離す。
「逃げて差す」
次のレースも大逃げで勝ち、そしてその次のレースも大逃げで勝ち……
1998年金鯱賞。またもやサイレンススズカ1着。2着との差なんと11馬身。
平地の重賞競走では6例目の大差勝ちであり、これ以降10馬身以上離れての重賞大差勝ちレースは現れていない。
レース後、アメリカから「サイレンススズカを売ってくれ!」とオファーが本当に来てしまうぐらいの圧勝だった。
「あんな体験、普通はできない。(後ろからくる)足音をまったく聞かないままゴールしちゃったんですから!」と武豊は当時の金鯱賞を振り返る。
この金鯱賞のレースは印象に残るどころか、サイレンススズカが伝説と呼ばれるゆえんのレースとなり、そしてその始まりだった。
次の出るのはG1宝塚記念。しかしここで問題が発生した。
サイレンススズカが宝塚記念に出走するのは急遽決まったことであり、
武豊は同レースに出走するエアグルーヴに乗ることを先に決めていたため、鞍上がいなかったのだ。
そこでなんとか南井克巳氏が乗ることが決定し、武豊とサイレンススズカが敵として戦うことになる。
宝塚記念は芝2200m。
南井騎手は少し抑え気味で慎重に前へと走らせる。最後の直線でもギリギリまで引き付けてから鞭を入れ、そのまま加速しサイレンススズカ1着。
武豊鞍上のエアグルーヴは3着だった。
大差ではないものの、サイレンススズカにとって念願のG1レース初制覇でもあった。
4、最速の証明
毎日王冠はG2レースであり、G1より格が下である。
このレースを勝てば、サイレンススズカがもっとも得意なG1レース条件である「芝2000mの左回り」天皇賞(秋)の出場権を得られる。
しかし当初は調教不足などを理由に、サイレンススズカは毎日王冠への出走を見合わせる検討がされていた。
だがこのレースに二頭の馬が、出走を高々に宣言する。
その馬の名は"グラスワンダー"
「怪物」と騒がれ「JRA史上最強の2歳馬」と評された馬が、故障後の復帰戦にこのレースに出走を表明。
そして"エルコンドルパサー"
年度代表馬を得るために、ジャパンカップで勝つために前哨戦としてこのレースを選択。
両馬共に未だに無敗の外国産馬である。
サイレンススズカ陣営も「これで出走を回避したら『あの二頭に負けるのがわかって尻尾を巻いて逃げた』と言われてしまう」と懸念し始め、この対決を受けることを決めた。
競馬ファン達はこの三強馬による夢の決戦を見逃すわけにはいかなかった。
そして当時のルールでは天皇賞(秋)で外国産馬は出走できない。毎日王冠はこの三強馬が勝負できる数少ない機会なのだ。
こうしてG2という格が下のレースにもかかわらず会場には13万人の大観衆が詰めかけた。
レースが始まり、サイレンススズカは逃げ始める。
グラスワンダーはサイレンススズカの隙を付こうと策を弄し、エルコンドルパサーはそのまま真っ向勝負で立ち向かった。
しかし、サイレンススズカは最後の直線で、いつもの通りに再び加速。
差は縮まらない。二馬身差叶わず、サイレンススズカは1着。
不敗神話を一度のレースで二頭��とめて切ったのである。
「影さえも踏めなかった」
エルコンドルパサーに鞍上した蛯名騎手はそうコメントを残している。
サイレンススズカは6連勝。名実ともに当時の最強馬となった。
サイレンススズカ陣営は「天皇賞(秋)を制したらジャパンカップに挑戦し、そのあとはアメリカへ遠征しよう」とウキウキを隠せなかった。
5、天皇賞(秋)の前評判
サイレンススズカが狙うG1レース、天皇賞(秋)
対抗できるのは前年この天皇賞を制したエアグルーヴぐらいだろうと考えられていたが、
鞍上の関係も考えられ、エアグルーヴは別レースを狙い天皇賞を回避することになる。
(※サイコミ掲載の漫画「STARTING GATE! -ウマ娘プリティーダービー 【第15レース-②】特別な1日 ♯01」において、エアグルーヴが「サイレンススズカとは宝塚記念や天皇賞で戦いたい」と言っていたのは、これに由来��る)
そしてサイレンススズカがもっとも有利なレースにもはや挑む気力がある馬も無く、多くの陣営が競走を回避。
するともはやサイレンススズカに対抗できる馬はいなかった。
宝塚記念でサイレンススズカに11着で負けたもののそれ以外は戦績の良いメジロブライトが二番人気。
同じく宝塚記念で6着で去年の有馬記念を制覇したシルクジャスティスが三番人気。
またまた宝塚記念の出走馬であり、もっともサイレンススズカに近かった2着ではあったが、最後の1着レースがG3でもない「阿寒湖特別」というステイゴールドが四番人気という有様であった。サイレンススズカはもちろん一番人気。オッズは1.2である。
その馬体や体調面は武豊騎手、担当厩務員ともに口をそろえて「一番具合が良い」と言い、
もはやサイレンススズカが負ける要素を探すのは不可能だった。
誰もがサイレンススズカが勝つことを疑わなかった。
だがひとつ、たったひとつだけ不安要素があった。
天皇賞(秋)には都市伝説が、ジンクスが存在したのだ。
1987年にニッポーテイオーが1番人気で勝った後、
天皇賞(秋)にて1番人気の馬は、一度として勝てなかったのである。
3度も1番人気に支持されながら一度も勝てなかった"オグリキャップ"
1着でゴールしたと思いきや進路妨害により18着へと降着し、天国から地獄へ突き落された"メジロマックイーン"
大逃げコンビのメジロパーマーとダイタクヘリオスにレースペースを乱された"トウカイテイオー"
春にメジロマックイーンの三連覇を阻止したものの、スランプに陥りそのまま敗れた"ライスシャワー"
パドックで違和感を感じながらもレースに入りし、5着。レース後ケガが発覚し、競走馬を引退した"ビワハヤヒデ"
故障の復帰から立ち直れずにレースに挑み、覇気なく敗れた三冠馬の"ナリタブライアン"
スタートを出遅れ、その後の展開もミスしてしまい、鞍上も「最高に下手に乗った」と後悔した"サクラローレル"
そのサクラロールを倒して連覇を狙おうとしたが、大逃げ馬(サイレンススズカ)を早めに捕まえようとしてしまい、最後はエアグルーヴにクビ差で競り負けた"バブルガムフェロー"
府中には、魔物が住んでいる。そう言われても仕方がなかった。
1998年。
第118回天皇賞
11月1日1枠1番で、1番人気はサイレンススズカだった。
6、"沈黙の日曜日"~Sunday Silence~
レース開始。サイレンススズカは抜群のスタートで快調に飛ばし、いつもの大逃げ。
サイレントハンターも大逃げ戦法を取るが、サイレンススズカとの差は10馬身差。
最後方ローゼンカバリーとは6秒のタイム差が離れ、
全ての馬を映さなければならない中継カメラはめいっぱいズームアウトし、馬が小さすぎて見えないほどになった。
※左の赤丸がサイレンススズカ。右の赤丸が最後方の馬。
「息が入り始めて、いいぞ、いいぞ、と。本当にいい感じだった」
と武豊はレースを振り返る。
大欅を通り過ぎ、サイレンススズカは一度ペースダウンする。
ここで一息入れて、再加速しぶっちぎる気だろう。いつものサイレンススズカだ。
しかし、そのまま失速する。
サイレンススズカは左前足を宙に浮かせ、三本脚で立ち止まっていた。
どよめく会場、そして叫ぶ実況。
「サイレンススズカ!! サイレンススズカに故障発生です!!!」
歩く馬足で、コースの大外によれるサイレンススズカ。
それを抜くサイレントハンター、オフサイドトラップ、ステイゴールド、残りの馬たち……
「なんということだ!4コーナーを迎えることなく、レースを終えた武豊!!
沈黙の日曜日!!」
そのまま泣き叫ぶ会場の歓声を聞きながら、レースを続ける馬達。
サイレンススズカは故障しながらも、鞍上武豊を落馬させず、馬群を避け安全な場所に運んでいった。
この事を武豊は「サイレンススズカが僕を助けてくれた」と語った。
ケガの内容は結果は左前脚の手根骨粉砕骨折。
直ちに予後不良の診断が出され、安楽死処分が下された。
1998年 11月1日 サイレンススズカ 永眠
結局この天皇賞(秋)はステイゴールドとオフサイドトラップが競り合いながら、決着がつく。
1着はオフサイドトラップ。史上初の7歳での天皇賞優勝。
「不治の病」と言われている屈腱炎を3度克服した高齢馬が念願であるG1レースを制覇し、ひとつのドラマを作った。
だがその偉業は、残念ながら無下に扱われてしまう。
1998年の天皇賞(秋)は、サイレンススズカが、最速の馬が止まってしまった悲劇のレースとして刻まれた。
粉砕骨折の詳しい原因は不明である。
武豊は「原因は分からないのではなく、無いんだ」とレース後マスコミに答えた。
レース後の武豊の落ち込みは相当なものだった。
同レースに出ていたテイエムオオアラシの鞍上である福永騎手は
「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言している。
その夜、武豊は知り合いとワインを飲み明かした。
「泥酔したの、あんときが生まれて初めてだったんじゃないかな。
夢であって欲しいな、って」
サイレンススズカの死、それは夢を見た競馬ファン達にとって、最大のトラウマになった。
サイレンススズカはまさに夢のように走る馬だった。
1600mのスピードで2000mを制せる、最速の中距離馬だった。
競馬に絶対はない。だからファンは"たられば"を夢想する。
もし、サイレンススズカがケガをしていなかったら、どうなっていただろうか。
ジャパンカップの2400mも軽々と走っただろうか。海外に遠征しても、並み居る強敵達を圧倒しただろうか。
種牡馬になったら、どんな子供が生まれただろうか。
そんな夢想をしてしまうのは競馬ファンだけではなかった。
武豊である。
自ら鞍上を名乗り出て、サイレンススズカの未来に期待し、夢を叶えようとした武豊は、
あろうことかその夢が崩れ落ちる瞬間の馬に、跨っていた。
ジョッキーにとって、一番嫌な、最悪の瞬間。
その瞬間のサイレンススズカに武豊は乗っていたのだ。
2007年になるまで武豊はサイレンススズカに深く言及することはなく、
2013年のインタビューでも、事故の話になると途端に拒絶し、笑顔を引っ込めた。
サイレンススズカの事故、その絶望の感触は、武豊の心の中へと確かに刻まれている。
ウマ娘 プリティーダービー第1Rにて終盤、トレーナーは問いかける。
「日本一のウマ娘とは何か?」
それはG1で勝つことだろうか。
日本競馬界の象徴であり最大級の目標である東京優駿、日本ダービーで勝つことだろうか。
ファン投票で出場馬が決まり、1年を締めくくる大レース。数々の名勝負が繰り広げられた有馬記念で勝つことだろうか。
この問いに擬人化されたサイレンススズカはこう答えた。
「夢……見ている人に夢を与えられるような、そんなウマ娘」
このセリフを聞いてしまった競馬ファン達の心境は如何ほどのものだったろうか。
サイレンススズカ。
日本競馬史上、もっとも人々に夢を見せてしまった馬である。
7、それでも馬達は走り続ける。
サイレンススズカと戦い敗れたエルコンドルパサーは1998年のジャパンカップを制し、海外への遠征を決めた。
「国内に敵はいない」とのコメントは事実その通りであった。
そしてその海外遠征でエルコンドルパサーは大活躍する。
ヨーロッパ最大の競走の一つ、凱旋門賞では惜しくも2着だったが、現地メディアからは「チャンピオンは二頭居た」とその健闘を称えられるほどだった。
2018年現在、国際的に競走馬のレーティング指数を決める「インターナショナル・クラシフィケーション(旧称)」や競走馬の能力を数値化する「タイムフォーム・レーティング」など、どちらもエルコンドルパサーは日本調教馬として史上最高の数値を保持している。
引退後に現れたディープインパクト等の名馬達、それらを差し置いての高評価を未だにエルコンドルパサーは維持したままなのだ。
そのエルコンドルパサーを相手に、国内レースにて唯一勝ち星をあげていたサイレンススズカの評価も未だに止まることがない。
翌年、1999年の天皇賞(秋)レース。これを武豊は再び走り見事1着でゴールインを果たす。
しかもレース記録を塗り替えるレコード勝ちだった。
去年のリベンジを果たした武豊はレース後、
「ゴールの瞬間、まるでサイレンススズカが後押しをしてくれたようでした」と語っている。
サイレンススズカが後押し、天皇賞(秋)をレコード記録で1着を取った馬、
その馬の名はスペシャルウィーク
アニメ「ウマ娘 プリティーダービー」の主人公である。
さらなる余談ではあるが、天皇賞(秋)にかかった一番人気のジンクス、呪いは
2000年にテイエムオペラオーが払拭する。
その後に登場する名馬達も、天皇賞(秋)において1番人気で1着を取れるようになっていった。
名馬達を襲った忌まわしき呪いは完全に掻き消え、今は日本競馬史の一つとして、ただ記されているのみである。
https://ch.nicovideo.jp/yumemura/blomaga/ar996682
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懐かしの飯能アルプス:西側
前回の東側から1ヶ月空きましたが、9年半前に登山道具を揃えて2度目の靴慣らしで歩いた、懐かしの縦走ルートを歩いて来ました。
その時は伊豆ヶ岳→子ノ権現でしたが、今回は少し大回りして旧正丸峠→伊豆ヶ岳→子ノ権現→栃屋ノ頭→前坂。
前回の東側と合わせて、これで一応、飯能アルプス全制覇。
7:08着の電車ということもあってか、降りたのは私を含めて4名のみ。
夜から雨予報だし、晴れ予報の明日登る人が多いのかな?
正丸駅から伊豆ヶ岳へは4パターンほどのルートがありますが、今回は唯一未踏の旧正丸峠ルート。
他の3ルートは駅の改札を出て右手の急階段から馬頭観音の分岐へ向かいますが、今日は駅前の駐車場から左手へ出て、国道299沿いを暫し進み、分岐で集落の方へと下ります。
集落のどん詰まりの登山口から沢沿いを暫く歩いて、一旦車道へ。
車道を左手へ50mほど歩いたら、カーブミラーの脇にある狭い登山道へ。
九十九折りの杉林を登った先に、旧正丸峠がありました。
正丸峠へは、この長い木段を上らねばなりません…。フゥ〜
階段と尾根を歩いた先に、川越山がありました。
関係ないけど、「虚空蔵峠」って文字を見て、朝ドラ「カムカムエブリバディ」の虚無蔵さんを思い出してしまうのは私だけでしょうか。
この辺りの尾根からは、10月に歩いた武甲山や
9月に歩いた横瀬二子山などが見えました。
正丸山に到着。
次は正丸峠ってことで、峠は鞍部だから下るよね…。
峠の手前には、休憩広場がありました。
一段下がったところにも、同じ造りのテーブルセットが2基。
この辺りにトイレがあると、奥村茶の営業日に関係なく逆周りでも安心なのにな〜
更にこの急階段を下って車道に出れば…
正丸峠に到着!
正丸峠には奥村茶屋があります。本日は営業中。
この茶屋の裏は何度も通っていますが、立ち寄ったことはありません。
で、登山道へはこの建物の右脇(車の右脇)から。
正丸峠からは知った道なので、写真もそこそこにさっさか進みます。
小高山、720m。ちなみにこの先には大高山もありますが、巻き道でスルー。
正丸峠までは貸し切りの登山道でしたが、この辺りからソロの方が何人か。
またもや長〜い木段。
前方にはヘルメット持参のグループが。男坂に行くんでしょうね。
赤土の滑る坂などを上って、お馴染みの五輪山に到着。
木曜に歩いた人の活動記録��は火曜の雪がしっかり残っていたので、一応チェスパを持参しましたが、どうやら不要みたいですね。
昨日一日でこんなに綺麗に溶けたとは…ちょっとビックリ。
男坂と女坂の分岐。前方にいた皆さんは、やはり男坂へ。
鎖場大好きな私としては「女は黙って男坂!」と行きたい所だけど、ソロだし、今日はヘルメット無いし、先も長いし…とゴニョゴニョ言いながら回避。
女坂は半年前同様に一部崩落中なので「男坂と女坂の中間にある道」という、そのまんまの名前の道へ。
こちらもお馴染みの伊豆ヶ岳。851m。
山頂にはアセビ(馬酔木)が咲いていました。
ここで、南紅梅のオニギリをパクリ。
前回、武川岳(山伏峠方面)に向かう筈が、うっかり年配ご夫婦の奥様とのお喋りに夢中で見落とした分岐。
今回は、天目指峠(あまめざすとうげ)方面で間違いなし!
急坂を下り、尾根道を暫く歩くと古御岳(こみたけ)のシルエットが…。
なかなかの急坂を登り切り、古御岳に到着!830m。
昔来た時は、あまりの暑さと疲労で連れのMちゃんとここで険悪ムードになって、子ノ権現までの長い道のりを殆ど無言で歩いたなぁ(その先は楽しくお喋りしながら歩きましたよ)。
今となっては懐かしい思い出だけど、ここは初心者が9月に歩く道じゃなかった模様。
今日は遠回して来てるけど、気温が低いからか現時点でも割と元気。
ホント、無知って恐ろしい…。
山頂には、その当時には無かった東屋とベンチがありました。
古御岳からは急坂と平坦な道の繰り返しでしたが、何となく勢いが止まらなくなってかっ飛ばしてしまいました。
高畑山、695m。だいぶ標高が下がりました。
本日も前回の陣馬山→高尾山同様、下り基調のルートです。
高畑山にもベンチが4基ほどあり、伊豆ヶ岳と古御岳がよく見えます。
高畑山を入れ違いで出発された年配グループに追いつきました。
こんな開けた道、あったかしら?変わった形の鉄塔も。
中ノ沢頭にも寄り道。
何も無い狭い山頂なので、巻き道でスルーするのもアリ。
天目指峠の手前にあったベンチで、ランチタイム。
とは言え、さっきのオニギリから2時間しか経っていないのでリゾットだけに。
エビのビスクポタージュにミックスベジタブルと芝エビを足してきました。
今日みたいな寒い日は、スープジャーが大活躍!
ベンチから2分ほどで天目指峠。
峠攻めのスポーツカー、ロードバイク、トレイルランナー、ハイカーと、皆さん思い思いに峠を満喫していました。
ここからも激しいアップダウンの連続。
特にこの辺の小岩と根っこの絡み合った溝状の道が歩きにくかった〜。
途中をだいぶ省略して、愛宕山に到着。岩の上には小さな祠も。
子ノ権現天龍寺の鐘の音が聞こえます。
子ノ権現の手前の梅園。
3月も終わりですが、まだまだ綺麗に咲いていました。
更に寄り道して、話題の白い手のオブジェへ。来迎印の形なんですね。
みんなが掌に座って写真を撮るからか、結構汚れてますね…。
昔来た時は、疲れ過ぎていて素通りしてしまった本堂にもお詣りしました。
この大草鞋も大下駄も見なかったなぁ…。
この仁王像の前で同じポーズで写真を撮ったのは覚えてる!
でも、こんなカラーリングじゃなかった気がするけど…。
売店裏の公衆トイレは相変わらず和式の汲み取り式ですが、以前より各段に綺麗になっていて入りやすかったです。
今回は紙も手洗水もありました。山の中のトイレ、ありがたや〜。
時間に余裕があったので、阿字山にも寄り道。
阿字山の中腹には大きめの東屋もあります。
子ノ権現の駐車場で、年配の男性から声を掛けられました。
「私と同年輩の男女混合グループに会わなかった?」
あ、高畑山から追い抜いた人達のことですかね?
この方、車でお迎えに来られたそうです。
そう言えば前回、天目指峠でバスに乗り込むツアー客に羨望の眼差しを向けた事を思い出しました。
今回はここからが後半戦のメインイベントなので、そんなことは思わなかったけど。
成長したな〜、自分。
ちなみに、後半の栃屋ノ頭へのバリエーションルートへの入口は、この駐車場の先にある看板の右脇。
坂道のカーブの途中から右下へヘアピンカーブで入るので、見逃しがちです。
(私も1回見落として舗装道路を少しだけ茶屋方面へ下り掛けました)
バリエーションルートとは言え、このように小さいながらも要所要所に標識は出てくるので、それらを見落とさないように歩きます。
ただ、全体的に道の下の方にあるので背の高い人だと見落とすかも…。
ちょっとルートを外れて、小山の上の「山の神」に本日の無事を祈願しに。
六ツ石ノ頭。570m。
小さめの岩が複数、狭い山頂に嵌まっていました。
きちんと数えたら6つあったのかしら?
さてさて、本日最大の寄り道選択肢、堂平山への分岐。
どうする?2度と来ないかも知れないし、どうせなら寄っとく?
貧乏性な私は寄り道を選択。
しかし、鞍部までの急坂を降りて早くも後悔。
結構ガッツリ登り返す感じですよね、コレ…。
しかも堂平山の山頂には何も無し。
標高も520mなのか530mなのか今ひとつハッキリしないし。
そして杉だらけの丸い山頂なので、うっかりすると来た方向を見失いそう…。
(ちなみに、この看板に背を向けて直進すれば、登山道に戻れました)
そう言えば山梨の丸ツヅク山もこんな感じでロストしかけたな〜。
遭難しないよう、下山口付近の倒木に腰掛けて残りの鮭オニギリと焼き芋をパクリ。
風が強く、木々がざわめく音と枝が擦れるが少しだけ不気味でした。
先ほどの分岐へ戻り、さらに進むと大高沢山。510m。
左側のスズメバチの巣みたいなのは、大隆瘤というコブだそうです。
この先は、椿が多く自生していました。
流石にそろそろ終わりですね…。
尾根沿いをズンズン進むと、マユ玉の頭。
貝殻茸の一種でしょうか?木の幹にキノコがビッシリ!
そして後半の目的地、栃屋の頭に到着!522m。
このルート、「〜の頭」だらけ。
虎ロープに囲まれた狭くて危険な山頂ですが、見下ろすと採石場と池が見えます。
少し下った先にはダンコウバイ(壇香梅)も。
その先は、ロープ無しでは下れないであろう急坂(下ってから撮影)。
本日1番の難所と言っても過言ではありません。
採石場��近いので「発破実施注意」の看板が。
それにしても、奥武蔵は採石場が多いなぁ。
一旦車道に降りると、雨がポツポツ。
あれ?まだ14:00なのに…。予報では夜からで、この辺は降らないはずでは?
とりあえず木の下なら濡れにくいだろうと、急いで山道へ逃げ込みました。
おっと、こんな高い所に吊された案内標識が。
1ヶ月ぶりに、前坂に到着!
この先は先月と同じなので省略。吾野駅を目指して小走りで駆け下りました。
登山口のある墓地と駅の間にある吾野湧水。
その左下に、前回は見逃した駅への近道、線路を潜る長い地下道。
「暗いよ狭いよ怖いよ〜!」という面堂終太郎の声が聞こえてきそう。
しかし入口右脇に蛍光灯のスイッチがありますのでご安心を。
(前をゆく3人組は真っ暗な中を歩いて行かれました)
1ヶ月ぶりに、吾野駅にとうちゃこ〜!
16.1km、標高差は上り1,537m下り1,651mでそこそこハードでしたが、
今回は標準コースタイムの2.5時間巻きで膝の痛みも無し。
トレッキングポール無しでも、だいぶ歩けるようになりました。
(膝の御守りとして、今後も背負って歩きますけどね)
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