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#ラティモア
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#tyo_mag #トーキョーマガジン #トーキョーフィーチャー #イマココ #音楽 #music #動画 #youtube イマココ VOL.037 Latimore「Jolie」 http://tyo-m.jp/archives/40312 #音楽を聴こう #ラティモア #Latimore #ジョリー #Jolie #dj #選曲 #ソウル #soul #ソウルミュージック #soulmusic #aor #jazz #ジャズ #bgm #コラム #column #カネコヒデシ #kanekohideshi #knkhds #東京 #tokyo https://www.instagram.com/p/CBc5ELNDuKZ/?igshid=106fnxywvzki9
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petapeta · 4 years
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1952年における共和党の選挙勝利(大統領選勝利は、20年ぶり)には彼の攻撃が助けとなった。敗北した民主党候補者のうち、少なくとも一人は、マッカーシーによる非難に原因の一端がある。選挙勝利後、党の指導者は彼の人気の大きさをリベラルな民主党員を攻撃するための武器と認め、彼を上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長に任命した。しかし彼が信頼できないところ、及び言い逃れしようとするところは、決して党(特にドワイト・D・アイゼンハワー大統領)に完全には信用されていないことを意味した。 彼の委員会は、下院非米活動委員会と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせた。それは最初「アメリカの声」の官僚組織への調査を行い、そして国務省の海外情報図書館から親共産主義的文献と考えられるものを強制排除させた。そればかりか政府与党に属しているにも関わらず、政府内部における共産主義者が影響力を及ぼしていると非難を始め、アイゼンハワーの怒りを買うことになった。彼は今も続いている人気からマッカーシーに公然と反対しようとはしなかったが、しかし今やマッカーシーを危険なルーズ・キャノン(自分勝手で信頼できない人物)と考え、彼を影響力ある位置から引き離すために秘密裏に工作するなど距離を一層置く様になった。 それでもマッカーシーに対する支持は止まることを知らず、ジョンズ・ホプキンズ大学教授のオーウェン・ラティモアを「合衆国におけるソビエトのNo.1スパイだ」として告発したばかりか、彼の前任上院議員だったラフォレット・ジュニアにまで調査の手を伸ばし結果的にラフォレット・ジュニアを自殺に追い込んでいる。
ジョセフ・マッカーシー - Wikipedia
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kkv-main · 5 years
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MAGAZINE - 2019.12.27
マック・マコーン (SUPERCHUNK)、加藤修平 (NOT WONK)対談 
NOT WONKがファースト・アルバムを出した頃、加藤修平は〈Superchunkみたいにギターを弾いてMEGA CITY FOURみたいに歌えたらいいなってずっと思っています〉(https://www.hmv.co.jp/news/article/1505140033/)と公言していた。そんな彼にとって、11月18日に開催されたスーパーチャンクの来日公演でバンドが共演を果たしたことは、ひとつ夢を叶えた瞬間だっただろう。実は対バン当日のお昼、加藤とスーパーチャンクのマック・マコーンは初めて言葉を交わしていた。国は違い、歳も30近く離れていながらも、ともにオルタナティヴであり、なによりパンクである2人の誠実な対談。
インタビュー、構成:田中亮太、与田太郎 通訳:竹澤彩 写真:佐藤祐紀
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●苫小牧でスーパーチャンクを聴いていいた唯一の高校生  加藤「僕はいま25歳なんです」 
 マック「そうなんだ! 僕が25歳のとき、はじめて日本に来たんだよ。たしか92年。その頃は未来のことをそんなに考えてなかったと思う。レコードを作ってツアーして、��のレコードを作って……という感じで目の前のことに精一杯だったからね。大きなヴィジョンを意識することもなかったんだ。とにかく世界をツアーして回ることを楽しんでいたね」 
 加藤「僕がスーパーチャンクを最初に聴いたのは、高校3年生のとき――2012年頃でした。僕は北海道のめちゃくちゃ田舎の街に住んでいるんですけど……」 
 マック「北海道でライヴしたアメリカのバンドといえばフガジだよね。彼らが北海道のことを話していたことを覚えているよ」 
 加藤「そうです。聴きはじめた頃は、たぶん僕が苫小牧で唯一スーパーチャンクを好きな高校生でした(笑)。初めて買ったギターのネックにもスーパーチャンクのステッカーを貼ってましたよ。それ以前はもっとテンポの速いパンクとかを聴いていたんです。少し違う音楽への入り口がスーパーチャンクでした。自分が好きなパンクのキャッチーな部分もいっぱいあるけれど、でももっと緻密に音楽を組んでいる感じ。そういうところに惹かれました」 
 マック「僕たちが音楽を始めた時期は70年代のパンクやハードコアを聴いていたんだけど、僕の好きなディッキーズやD.O.A、ジェネレーションXなんかはパンクだけどポップでキャッチーな曲もやっていた。加えて僕はラジオを聴いて育ったんだよね。70年代後半にパンクが出てくる前には、ELOやAC/DCなんかのポップやクラシック・ロックもよく聴いていたね」 
 加藤「パンクが好きな人はパンクしか聴かない傾向が強いと思うんです。スーパーチャンクを聴いたとき、パンクだけを聴いていたら絶対にこういう音楽はできないだろうなと思いました。すごくいろいろなもの……70年代のパンクの感じもあるし、さまざまな音楽がミックスされていて」 
 マック「それは田舎街にいたのも関係しているかもしれないね、80年代のノースカロライナは、北海道に負けないぐらい田舎で、とにかくNYなんかとは違ったんだ。だから、スミスとかローカルのパンク・バンドとかオルタナティヴなサウンドをラジオでチェックしていたんだ。そして、大学生になってバンドを始めるときに、自分が聴いてきたサウンドをミックスしてみた」 
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 加藤「スーパーチャンクをやるにあたって、最初からオルタナティヴという方向性があったんですか?」 
 マック「はじめからそういうアイデアがあったというよりも、自分たちが好きなアーティスト、たとえばハスカー・ドゥやソニック・ユースなんかに影響を受けていただけなんだ。彼らのサウンドはとてもユニークだよね(笑)。だから僕らもおもしろいサウンドをめざしつつ、かつ良い曲を作ってみたいと思っていた。でも、それが何か特殊なことだと意識はなかったね」 
 加藤「それは僕と一緒です(笑)」 
 ●変わらない魅力、新しいことに挑む楽しさ 
 加藤「スーパーチャンクが去年リリースしたアルバム『What a Time to Be Alive』を聴いてビックリしました。マックも今年52歳で、いったらヴェテランなわけじゃないですか? なのに、こんなにフレッシュにギターを鳴らしている。キャリアを積み重ねてきたアーティストは音楽的に静かになっていく傾向があると思うんです。でもスーパーチャンクの新作はめちゃくちゃうるさかった(笑)。20年前のアルバムよりもうるさい。そこにすごく感激したんです」 マック「それは僕らにとってもレコードを作るうえでのチャレンジのひとつだったよ。聴いた人がほかの作品と同じサウンドだと感じてほしくなかったからね。それともうひとつ心がけたのが、ライヴで演奏して楽しめるものにしたかったということ。新しさと自分たちが納得できるサウンドのバランスをとりながら、それを自然な感じにしようとした。なかなか難しかったよ」 
 加藤「97年の『Indoor Living』とか2000年前後のスーパーチャンクの作品は少し静かになった印象だったんです。ラウドさよりもギター2本のコンビネーションなどに意識を置かれていましたよね?」 
 マック「そうだね。僕らはこれまでたくさんのレコードを作ってきたけど、あの頃はキーボードを使ってみようと思って、毎日練習しながらいろんな方法で曲を書いてみたんだ。ときにはダイナミックに、ときには静かなイメージで、ラウドなパートと静かなパートを組み合わせたりしながらね。そのアイデアがうまくいった曲もあるけど、そうでもない部分もある。だけど、とにかくそれまでとは違ったことをやってみたかったんだ。 そのあとツアーでは日本にも行った※し、ツアー自体はとても良かったんだけど、911が起きたタイミングだったんだよね。なんだかとても奇妙なムードで、人々は音楽なんか聴きたくないって雰囲気だったし、僕らはそんななかでどうやって続けようかと思いながらワールド・ツアーをした。本当にストレンジな時期だったよ。キーボードを使っていることもあって、この時期の曲はいまあんまりライヴでやってないんだけど、これからはアレンジを変えてやってみたいと思ってる」  ※ナンバーガールとの共演もはたした 
 加藤「いまはギターの入っている音楽は人気がないとよく言われていますよね。そうした時代のなかで、マックにはギターを弾くことに対するこだわり、意地みたいなものはありますか?」 
 マック「そうだね、説明するのが難しいけど、スーパーチャンクはギターで曲を書くし、ソロではシンセも使う。���ロを一緒にやっているメアリー・ラティモアはハーピストでもあるから、彼女とのレコーディングは初めてのことが多かった。自分にとっては新しい体験だし、いままでとは違ったことをやるのは楽しいよね」 
 加藤「マックは永遠のギター少年といった雰囲気があって、憧れています。」 マック「メコンズっていう70年代のイギリスのバンドがいて、2000年ぐらいに彼らのライヴを見たんだけど、とても楽しそうに演奏していた。ヨ・ラ・テンゴも大きな会場でライヴをやってるけど、昔から変わらない自分たちのスタイルで楽しそうにやってるよね。僕はそういうバンドたちにインスパイアされてきたんだ」 
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 ●激動の時代、僕らはいつもどおりやるだけ 
 加藤「僕はマックのTwittterをフォローしているんですけど、マックはいつも何かに怒っていますよね(笑)。政治や女性の権利、ジェンダーについてのことなどさまざまな問題に言及しています。スーパーチャンクの音だけを聴くと、いわゆるパンクと思わないリスナーもいるかもしれないけど、マックはまさにパンク・イズ・アティチュードを体現していると思う。僕たちが日本で感じたり考えたりしていることと、マックの発言はすごくリンクしている気がするんです。住んでいる場所は違うけれど、時代が一緒だから同じ空気のなかにいるのかなと思えます」 
 マック「そうだね、政治的な不公平さとかについては、いつもなにがしかを感じてるよ。毎日クレイジーな出来事ばかりだから、人々はどう生きるべきかという問題を意識せざるをえないよね。子供を学校に連れて行って、仕事して、食事作って、さらにクレイジーな世界に向かってデモ行進もしないといけない(笑)。この不安な世の中をどう生きていくべきかって考えちゃうんだ」 
 加藤「マックはミュージシャンとして生活の中の音楽、生活者としての音楽というのを大切にしている気がするんです。自身のレーベル、マージを運営しているのもそうした態度の表れなのかなって」 
 マック「ミュージシャンでもありレーベルの人間でもあるのは、ちょっとおかしな感じなんだ。最初は自分のプロジェクトとして楽しめたんだけど、仕事となってくるとまったく別のものだし、どちらも良い部分と悪い部分がある。たとえば僕は音楽を聴いても〈このギターの音はどう作ってるんだろう〉とか〈プロデューサーはなにを考えてこのサウンドにしてるんだろう〉なんて考えてしまって、なかなか楽しめない、つい分析してしまうんだ。だから家にいる時はロックはほとんど聴かなくて、ジャズなんかを聴いてリラックスしてるよ(笑)」 
 与田「僕は彼の所属しているレーベルを運営しているんです。そこで訊きたいんですけど、マージは2000年以降に、アーケード・ファイアとかすごく大きなヒットを出していますよね。普通レーベルは初めのほうにヒットがあって、そこからなだらかに落ち着いていくものだと思うんです。マージが大きなブレイクを出し続けられる理由は、ご自身ではどうお考えですか?」 
 マック「特に秘訣や理由はなくて、マージは89年のスタートから少しずつ成長してきたと思う。最初の10年の間にはマグネティック・フィールズのアルバムがヒットした。世の中的にはそんなに大きなことではなかったけど、僕らにとってはとても意味のあることだった。次の10年ではアーケード・ファイアがヒットしたけど、そのときも大きな成功を機にやり方を変えることはしなかった。ずっと同じやり方でやってこられたんだ。アーケード・ファイアやスプーンみたいなビッグなバンドが、まだ僕らと仕事してくれているのは嬉しいよ」 与田「いまアメリカではCDやレコードが売れなくなっていると思うんですけど、マージはパッケージのセールスとストリーミングとの割合はどれくらいですか?」 
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 マック「それはバンドによるね。デジタルに強いバンドもいれば、フィジカルに強いバンドもいるから。ファンの世代にもよる。昔からCDやレコードを買い慣れているファンが多いバンドは、まだフィジカルのセールスが良かったりする。ただ僕はロック・バンドはもっとデジタルで成功する道を探すべきだと思う。いまのストリーミング・サービスはメイン・ストリームのポップス、ヒップホップやダンス・ミュージックが中心だけど、マージでもフルーツ・バッツやヒス・ゴールデン・メッセンジャーというバンドでは大きなプレイリストにプッシュしていくプロモーションに力を入れていて、結果を出しはじめている。そういうことは僕らも試行錯誤している最中なんだ。でもフィジカルなのかデジタルなのかは、バンドによると思うね」 
 与田「数年前にNYのレコード・ショップ、アザー・ミュージックが閉店しましたよね。ショップが減っていることはレーベルに影響がありますか?」 
 マック「そこまででもないよ、NYの、特にマンハッタンは家賃も含めすべてがとても高いから入れ替わりも激しいんだ。その代わりラフ・トレードはブルックリンに巨大なショップを作ったし、まだマンハッタンで頑張っているお店もある。おもしろいのは大きなお店が閉店すると、かわりに小さな店がいくつかできることなんだ。だからレコード・ショップは減ってないと思うよ、いまアナログをリリースするレーベルも多いし、それぞれのショップが客さんに繋がろうと努力もしている。そういうお店からの情報はけっこう大事にしているね。ここしばらくは値段が高いカラー・ヴァイナルがとても人気があったんだけど、最近は普通の値段の黒いレコードが受けてきてる。そういう変化に気付くことがとても重要だよね。あとインストア・ライヴでその店のお客さんに直接会えたりするもの大事だと思う」 
 ●FEVERでの共演、その後 
 加藤「ツアーをいまでもやっていることについて教えて下さい。いちばんのモチヴェーションは?」 
 マック「もちろん楽しいからではある。でも僕らはそれほど大規模なツアーをやらないし、最近はヨーロッパにもさほど行ってない。なかなか収益があがらないし、赤字になってもしょうがないからね。家族もいるしさ。ツアーにはいろんなトラブルも付き物だしさ(笑)」 
 加藤「そこは僕らと変わらないんですね(笑)。スーパーチャンクはキャリアも長いし、ツアーもスムーズにこなせているのかと思ってました。」 
 マック「ライヴだけなら毎日楽しくできるよ(笑)。でもそれだけではないからね。物事をうまく進めるためには、その背景でいろいろな努力や工夫をしなきゃいけない。演奏するのは難しくないし、ただハッピーなんだけど(笑)」 
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   加藤「ツアーに出て、その土地土地の若いバンドとやることも多いですか?」 マック「それはツアーによるんだ。前回のアメリカ・ツアーにはサポートでトーレスという女性シンガーに一緒に回ってもらったけど、毎日違うバンドがサポートしてくれることもあるしね」 
 加藤「実は今回、このツアーが発表されたとき、僕らの出演は決まっていなかったんです。だからスーパーチャンクが来るとTwitterで知り、そして〈なぜ僕らを出してくれないんだ〉と激怒した(笑)。そこで、主催の方に直談判して今回は出させてもらったんです。なので、共演できてとにかく嬉しい。マックに僕たちのライヴを絶対に観てほしいです!」 
 マック「もちろんだよ!」 
 このインタヴューのあとに行われたFEVERでのライヴでは、NOT WONKのライヴをステージ袖で微笑みながら観ているマックが目に入った。そして、東京のあとに開催された大阪公演の合間に彼はFLAKE RECORDSを訪れ、NOT WONKの7インチを購入していったという。実は、この日彼らはもうひとつ約束を交わしていた。それは、次回の来日では、加藤のホームタウンである北海道でも共演を果たそう、ということ。その実現も遠くはないのかもしれない。
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nakareco2 · 7 years
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#なかるみの世界 #販売レコだより2018 アル・クーパーが感激したフロリダ・サウンド!!スワンプ・ソウルな名盤‥ラティモアの「はっきりさせてよ」に痺れろ! http://nakasecond.livedoor.biz/2018-02/Latimore-let's%20straighten%20it%20out.mp3 今更ながら『なかるみの世界』は洋邦なんでもかかるパーティーですので販売レコもそれなりに色々揃えたいなと!
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djemerald · 4 years
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〈ラジオアーカイヴ〉dublab.jp “In Every Second Dream” - テーマ:ハープ(HARP)ゲスト:Mary Lattimore
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▶︎▶︎アーカイヴはこちら
毎回、ひとつのテーマに沿ってお送りするDJ Emeraldのラジオプログラム『In Every Second Dream』。 2020年5月6日(水)放送のテーマは「ハープ/Harp」。 近年のエレクトロニック・ミュージックから、1970~80年代のジャズ、ニュー・エイジ、民族音楽など、さらには100年以上前の1910年代の楽曲まで、幅広くご紹介しました。 また、4月に発売されたばかりのThe Cinematic Orchestraのアルバム「To Believe」のリワーク/リミックス盤「To Believe (Remixes)」で「Wait For Now」のリワークを担当し、昨年の渋谷WWWでの初来日公演も素晴らしかったフィラデルフィア出身のハープ奏者Mary Lattimore(メアリー・ラティモア)のインタビューもお届けしました。
dublab.jp Radio Collective #225 “In Every Second Dream” 日時:2020年5月6日(水曜日)20:00~22:00 labrat DJ:DJ Emerald Guest:Mary Lattimore Design:Shinya Sato
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xf-2 · 6 years
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憲法改正を何がなんでも阻止したい護憲派メディアは、「押しつけ憲法」というネガティブなイメージの払拭に躍起になってきた。その筆頭格・NHKは、頻繁に憲法特集番組を放送してきたが、その全ては、現行憲法を礼賛し、改憲を阻止するための世論操作を目的として作っているとしか思えない。視聴者から強制徴収した受信料を湯水のように使ってNHKが作る番組は、日本国憲法を「戦争を反省した日本人が自発的に作った」かの如く歴史修正する番組ばかり。長年、違憲状態で放置されてきた自衛隊関係者の心情や緊迫する尖閣問題、国際平和維持活動の必要性などの観点から憲法問題を考える番組は皆無である。そうしたメディアが好んで繰り返し礼賛するのが、戦後まもなく発足した「憲法研究会」。そこで日本人が作った憲法草案要綱こそ、現行憲法の原型だと喧伝しているのである。  周知の通り、日本国憲法は、マッカーサーが指示した基本原則「マッカーサー・ノート」に基づき、GHQ民政局の憲法起草チームが約1週間で草案を作成し、それを日本側とも協議・修正した上で完成した。それ故に「アメリカ製」「押しつけ憲法」と言われてきたわけだが、護憲にトチ狂った人々は、GHQが憲法研究会の草案を基にしてGHQ草案を作ったから、「日本製」だと言いたいわけだ。  憲法研究会とは、戦後、新憲法を日本人の手で作るべく、進歩的な学者、ジャーナリスト、知識人らが集まって結成した民間の団体とされている。そこで中心的に憲法草案要綱を書いたのが、マルクス主義者の憲法学者、鈴木安蔵。彼らは国民主権などを定めた自由主義的な憲法草案要綱をまとめてGHQに提出した。日本人民間人が勝手に作った草案だったはずなのに、なぜかGHQはこれを直ぐに英訳し、精査した結果、「民主的で受入れ可能」とポジティブに評価している。一方、日本政府が正式に組織した憲法問題調査委員会の松本私案は、日本を君主国と規定するもので、GHQは「極めて保守的」とバッサリ。これが災いしたのか、憲法改正担当だった松本烝治大臣は、その後、公職追放されてしまう始末。日本政府に任せられないと判断したマッカーサーは、GHQで草案を作るよう民政局に指示した。僅かな時間の中で他国の憲法草案を書く羽目になった民政局は、鈴木らの憲法草案要綱だけでなく、アメリカ憲法やソ連憲法、ワイマール憲法など、世界中��憲法を参考にして、泥縄式に草案を仕上げたのだった。
なぜ、鈴木安蔵は、政府からの委託を受けたわけでもないのに憲法草案を書こうと思い立ったのか? 実は終戦直後、GHQの高官がジープに乗って鈴木の自宅を訪問しているのだ。カナダ外務省からGHQに出向していたハーバート・ノーマン(Egerton Herbert Norman)である。ノーマンは、牧師の息子で日本生まれの日本育ち。日本史研究の専門家であり、鈴木とは戦前、明治史研究会で知り合った。隠れ共産主義者だったノーマンは、鈴木に大日本帝国憲法の問題点を指摘し、民主的な新憲法を起草するよう強く勧めたとされている。新憲法制定は、GHQにとって喫緊の課題であり、マッカーサー自身も元首相の近衛文麿に別途要請していたが、日本の守旧勢力を憎悪するノーマンは、近衛の戦争犯罪を糾弾する報告書を書き、戦犯に指定させることで近衛ルートを潰すのにも一役買っている。
 NHKの憲法特集番組では、ノーマンの存在や役割を完全に省いてしまっているものが多い。上に掲示したETV特集では、ノーマンを登場させているものの、「日本近代史研究家で外交官」とだけしか説明しておらず、共産主義者であったことや、後に悲惨な運命をたどる話などは完全に省かれている。制作統括の塩田純は、ETVで左翼的な番組ばかり作っているディレクター。知らないはずがない。全てを知った上で、敢えて視聴者を騙す番組を作っているのだろう。下で紹介する映画では、鈴木とノーマンの再会シーンを更に美化して描いている。  GHQ職員がジープで突然現れるエピソードには既視感を感じる。優生保護法が成立した背景でも、全く同じような光景が繰り広げられていた。戦前の日本による対外侵略の原因が多産にあると考えていたGHQは、人口増加に歯止めをかけなければ、将来また、膨張主義が復活する、と危惧していた。そこで、戦前に産児制限の普及運動に取り組んだ加藤シヅエに目をつけ、GHQ民間情報教育局の二世職員が加藤の自宅をジープで訪問。国会議員に立候補するよう強く説得した。産児制限を認める法案を日本人女性議員に提出させ、中絶を事実上合法化する優生保護法を日本人自身の意思で法制化した、ということにするためである。(出典:『日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉』)  優生保護法と日本国憲法成立の共通点は、中絶と戦争放棄という、当時のアメリカでは絶対に制定不可能なルールを日本人に押し付ける際に、「命令」ではなく「自発的な制定」を偽装したことにある。GHQによる命令や強制は、「日本国国民が自由に表明した意志」を尊重せよ、というポツダム宣言第十二項に違反するのである。だから、発案は目をつけた左翼日本人にやらせる。それを可決する際には、天皇の戦争責任や早期独立の可否をちらつかせて政府や議会に圧力をかけるという手法を使ったのであろう。ノーマンと鈴木安蔵には、二つの共通点があった。キリスト教徒で共産主義者。鈴木もまた、クリスチャンの両親に育てられ、青年期になってマルクス主義にかぶれていった(出典:日本の憲法・人権思想にキリスト教の影響)。ノーマンのハーバード大時代の親友で、後に一橋大の学長になる都留重人もキリスト教徒で共産主義者。終戦後、来日したノーマンを早速、鈴木の自宅に連れて行ったのは、他ならぬ都留だったのである。敗戦直後の混乱した状況を利用して、左翼的な憲法を作るべく、キリスト教徒で共産主義者の人脈が機能していたわけだ。ノーマンと都留は、20万人に及ぶ公職追放の人選にも関与しており、一種の「敗戦革命」を企んでいたと思われる。彼らの「革命」は、冷戦の激化とアメリカの対日政策大転換、所謂「逆コース」によって頓挫することになる。
 マッカーシーによって始められた赤狩りがアメリカで吹き荒れ、ノーマンにも共産スパイの嫌疑がかけられると、ノーマンの後ろ盾だったカナダのピアソン外相はノーマンを庇い続け、アメリカと対立することになる。FBIはノーマンの友人だった都留を尋問し、共産主義者であったことを自白させる。それで窮地に追い込まれたノーマンは、赴任先のエジプトで自殺した。日米戦争の切っ掛けになったハル・ノートを書いた財務省次官捕・ハリー・ホワイトも、共産スパイの嫌疑をかけられて自殺しているが、後に、ソ連のスパイ活動を暴いたヴェノナ・ファイルの公開によって、スパイだったことが確定している。だが、ノーマンの場合、ファイルに名前が登場しなかったため、未だに真相は藪の中。赤狩りで最大の標的となった反日活動家・オーウェン・ラティモアもファイルに登場しない。このラティモアこそ、ノーマンをGHQに推薦した張本人である。ノーマンとラティモアは、コミンテルンが牛耳っていたNGOの反日団体「太平洋問題調査会」で繋がっていた(【参考】オーウェン・ラティモアと太平洋問題調査会の暗躍)。ノーマンは、ケンブリッジ大学留学中、ソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」に加わっていたという情報もあるが(【参考】ノーマンと『戦後レジーム』―近代日本を暗黒に染め上げた黒幕)、カナダ政府は、未だにノーマンのスパイ説を頑なに否定している。ノーマンがクロだと、ノーベル平和賞を受賞し「カナダで最も偉大な首相」と評されるピアソンの素性まで疑われるからだ。
 鈴木安蔵の憲法草案要綱は、国民主権を規定するなど、確かに自由主義的であったが、GHQがどこまでそれを参考にしたかは判然としない。GHQ民政局に鈴木案を参考にするようノーマンが根回しをしたと鈴木自身が証言しているが、GHQは合衆国憲法やソ連憲法など、他国の憲法も参考にしてゴチャマゼに取り入れているので、鈴木らの草案は参考資料の一つに過ぎなかった。そもそも、肝心なものが欠けている。憲法9条に相当する戦争放棄、戦力不保持の規定が無かったのである。キリスト教的人道主義やマルクス主義の観点から発案しても、「戦力不保持」というラディカルな発想は出てこなかった。
 では、9条はどこから来たのか? マッカーサーが明示した「マッカーサー・ノート」であり、敗戦国・日本を二度と軍事大国にさせないための懲罰的色彩が濃厚だった。だが、この点でも護憲派左翼は、もっともらしい言い訳を用意している。幣原首相がマッカーサーと会見した時、幣原の方から戦争放棄の考えを提案したから、「日本人が発案者」=「押し付け憲法ではない」という詭弁である。憲法を強制的に押し付けたことにしたくない当時のアメリカ側と、改憲を阻止するために「自主憲法」だったとアピールしたい今の護憲派左翼は方向性が同じであるため、それっぽいエピソードはいくらでも見つけてくることは可能だが、大局を左右するような話ではない。オーストラリアや中国など、他の連合国から天皇訴追の声が高まる中、天皇制を維持する唯一の方法は、とても民主的で平和的、かつ天皇制を残した憲法を、日本人の手でできる限り早く可決することだった。天皇の命運をチラつかせて圧力をかけるGHQに対し、占領下の日本政府はあまりに無力だったのである。憲法が制定された時期、20万人もの公職追放が強行され、衆議院議員の8割が軍国主義者のレッテルを貼られて追放された。当時の日本国民は、外国人が書いた草案を基に憲法が作られたという事実さえ全く知らされず、国民投票さえ行われなかった。こうした事実に鑑みれば、「自主的な憲法」などとても言えた代物ではないのは明らかである。『日本の憲法は我々が書いた』と発言したバイデン元副大統領は正しい。
日本国憲法制定後、冷戦の激化に伴い、GHQは対日占領政策を大転換する。自衛隊を設立し、日本を共産主義への防波堤にしようとした。岸信介らが主導して結成された自民党は、憲法改正を党是に掲げるものの、戦争の記憶が生々しく、左翼勢力が大暴れしていた時代に改憲するのは困難であった。日本国憲法を書いた主役が、キリスト教徒でマルクス主義者の鈴木安蔵であったのか、GHQ民政局の左翼的なニューディーラーたちだったのか、断定するのは困難であるが、どちらにせよ左翼が作った左翼的な憲法だからこそ、その後もずっと、左翼やキリスト教徒が既得権益として必死に守り通してきたのである。国会前で反安倍デモをやっていたシールズも、コアメンバーはキリスト教愛真高校の出身者。日本国憲法は彼らにとって、「神聖にして侵すべからざる聖典」なのである。
初稿:2018年6月12日 追記1:戦時中、二等兵だった都留重人は、戦後、ノーマンと再会した後、GHQ勤務を経て、1947年に35歳の若さで経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官待遇)に大出世している。翌年、一橋大学教授に就任。1972年に一橋大学長。恩人のノーマンが悲惨な最期を遂げたのと対照的に、順風満帆な人生を送った。退職後は、朝日新聞社論説顧問。叔父で牧師の都留仙次が院長をしていたキリスト教系の明治学院大学教授となり、国際学部を創設している。因みに、シールズの奥田愛基も牧師の息子で、キリスト教愛真高校→明治学院大学国際学部→一橋大院。 追記2:憲法研究会の実質的なトップは、鈴木安蔵ではなく、東大教授の高野岩三郎。高野は、天皇制廃止を主張していたが、鈴木は時期尚早と考えて憲法草案に入れなかった。それにノーマンは強い不満を示している。その後、高野は、GHQによる検閲を担う日本人グループの長として暗躍。1946年、戦後初のNHK会長に抜擢された。NHK東京放送会館は、GHQ民間情報教育局(CIE: Civil Information & Educational Section)が一部を接収し、放送の検閲を実施している。 追記3:公職追放された保守派学者の筆頭、慶應大学の憲法学者で枢密院議長だった清水澄は、新憲法施行後、明治憲法に殉じて自殺している。遺書で『新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ』と嘆いているが、天皇制廃止を強く主張する高野岩三郎が、新憲法にも飽き足らず、別途発表した日本共和国憲法私案要綱を指すと思われる。
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ari0921 · 7 years
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【入門・日米戦争どっちが悪い(5)】 日本を追い込んだルーズベルト 背景に人種偏見とソ連のスパイ 米大統領フランクリン・ルーズベルトは、1939年9月に欧州で始まった第二次世界大戦でドイツに追い詰められていた英国を助けるためにも、参戦したいと考えていました。しかし米国民の圧倒的多数は第一次大戦に懲りて戦争を望んでおらず、ルーズベルトは1940年11月に3選を果たした際に「あなた方の子供はいかなる外国の戦争にも送られることはない」と、戦争しないことを公約にしていました。  選挙公約に反して戦争たくらむ  参戦するにはよほどの口実が必要です。米軍はドイツの潜水艦を挑発して、ドイツ側から攻撃させようとしましたがドイツは引っ掛かりませんでした。そのためルーズベルトは、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだわが国を挑発するという「裏口」からの参戦をたくらんだのです。  12月、米国議会は中国国民政府への1億ドルの借款供与案を可決。ルーズベルトは「われわれは民主主義の兵器廠とならなければならない」との談話を��表しました。翌1941年3月には、��統領の権限で他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる武器貸与法を成立させました。これによって英国や中国国民政府、ソ連に軍事援助を行いました。「戦争しない」と言って選挙に勝った、わずか半年後のことです。 ルーズベルトの側近中の側近である財務長官ヘンリー・モーゲンソーは1940年、宣戦布告せずに国民政府軍を装ってわが国を先制爆撃する計画を政権内部で提案しました。「日本の家屋は木と紙でできているのだから焼夷(しょうい)弾で焼き払おう」と目を輝かせたといいます。米国は早くから関東大震災の被害を分析し、焼夷弾による空襲がわが国に対して最も効果的だと認識していました。  モーゲンソーの案はそのときは採用されませんでしたが、米国はフライングタイガースと称して戦闘機100機と空軍兵士200人を中国に派遣し、前回紹介した退役軍人クレア・シェンノートの指揮下に置きました。戦闘機は国民政府軍のマークを付けていましたが、米国は実質的に支那事変に参加していました。日米戦争は始まっていたのです。ルーズベルトは有権者への公約を破っていました。  国民政府軍を装ったわが国への先制爆撃計画は翌1941年、息を吹き返します。7月23日、ルーズベルトはJB355と呼ばれる文書に署名しました。その文書は150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲するという計画書でした。真珠湾攻撃の5カ月前にルーズベルトはわが国への攻撃を命令していたのです。  しかも、この計画を推進した大統領補佐官ロークリン・カリーはソ連のスパイだったことが明らかになっています。 JB355への署名から2日後の7月25日、米国は国内の日本資産を凍結。28日にわが国が南部仏印進駐に踏み切ると、米国は8月1日、わが国への石油輸出を全面的に禁止しました。そして英国、中国、オランダをそそのかして封じ込めを強めました(ABCD包囲網)。石油がなければ国は成り立ちませんから、「死ね」と言っているのと同じです。  第一次世界大戦の後、侵略戦争を放棄しようとパリ不戦条約がわが国や米国、英国、フランスなどの間で結ばれていました。米国務長官フランク・ケロッグとフランス外相アリスティード・ブリアンの協議から始まったことからケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれています。  ケロッグは条約批准を審議する議会で、経済封鎖は戦争行為ではないかと質問されてこう答弁していました。「断然戦争行為です」。つまり米国はわが国に戦争を仕掛けたのです。  戦争準備のため時間稼ぎ  わが国は米国との対立を平和的に解決しようと交渉していました(日米交渉)。石油全面禁輸から1週間後の8日、首相の近衛文麿はハワイでの日米首脳会談を駐米大使の野村吉三郎を通じて米国務長官コーデル・ハルに提案しました。しかしルーズベルトはそのころ、大西洋上の軍艦で英国首相ウィンストン・チャーチルと謀議を行っていました(大西洋会談)。  ここで発表されたのが有名な大西洋憲章で、「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権・自治の返還」がうたわれました。さんざん植民地を増やしてきた米国と英国に言われても説得力はありません。  実際「政体選択権の尊重」はドイツ占領下の東欧のことを言っていて、アジアの有色人��に適用するつもりはありませんでした。ウィルソンの「民族自決」、ヘイの「門戸開放」などと同様、美辞麗句と行動が一致しないのが米国です。 大西洋会談でルーズベルトは、参戦を求めるチャーチルに対して「3カ月はやつら(日本)を子供のようにあやすつもりだ」と述べました。戦争準備のため時間稼ぎをするのでしばらく待ってくれという意味です。ルーズベルトはわが国に対して「ハワイは無理だが、アラスカのジュノーでなら会談してもいい」などと回答して気を持たせましたが、初めから首脳会談を行うつもりなどありませんでした。  実は前年の1940年10月、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本を追い詰めて先制攻撃させる方法として8項目の覚書を書いています(マッカラム覚書)。そこには「在米日本資産の凍結」や「オランダとともに日本への石油輸出を禁止する」といった内容がありました。それがほぼ実行に移されたのです。  1941年11月15日、米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは非公式の記者会見で「紙でできた日本の都市を燃やす」「市民を爆撃することに何の躊躇も感じない」と言い放ちました。  26日、米国はわが国に中国大陸からの撤退などを求めるハル・ノートと呼ばれる最後通告を突き付けてきました。 ハル・ノート起草したのはソ連のスパイ  ルーズベルトは極端な人種差別主義者で、日本人を病的に蔑視していました。「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから凶悪なのだ」と大真面目に信じていたのです。駐米英公使ロバート・キャンベルはルーズベルトとの会談内容を本国に報告した手紙で、ルーズベルトがアジアで白人との人種交配を進めることが重要と考え、「インド-アジア系、あるいはユーラシア系、さらにいえばヨーロッパ-インド-アジア系人種なるものを作り出し、それによって立派な文明と極東『社会』を生み出していく」、ただし「日本人は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語ったと書いています。  「元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」という妄想を言葉に出して、わが国に通告したのがハル・ノートなのです。  もし米国が他国から「建国当初の東部13州に戻れ」と言われたらどう思うでしょうか。戦後の東京裁判でインド代表判事のラダビノード・パールは「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈(ほこ)を取って起ち上がったであろう」という歴史家の言葉を引用しています。  ハル・ノートは国務長官のハルが手渡したためそう呼ばれていますが、原案を書いたのは財務次官補ハリー・ホワイトでした。ホワイトはJB355を推進したカリーと同様、ソ連のスパイでした。米国とわが国を戦わせるため、とても受け入れられない強硬な内容にしたのです(ホワイトがソ連のスパイだったことは戦後明らかになり、下院に喚問された3日後に自殺しています)。  ハル・ノートを出す前に米国は暫定協定案を作っていました。わが国が受け入れ可能な内容でしたが、中国国民政府の蒋介石が強硬に反対しました。カリーの推薦で蒋介石の顧問になっていたオーエン・ラティモアが暗躍していたのです。米国のシンクタンク、太平洋問題調査会(IPR)にはラティモアら共産主義シンパが入り込んでいました。わが国の昭和研究会と同じような役割を果たしたといえます。  ルーズベルト政権には300人ものソ連への協力者が入り込んでいました。ソ連の浸透は、ソ連のスパイが本国とやり取りした暗号電報を米軍が解読したヴェノナ文書が1995年になって公開されて明らかになりました。  前に述べた通り、ルーズベルトは共産主義への警戒感はなく、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンについて「共産主義者ではなく、ただロシアの愛国者であるだけだ」と言っていました。妻のエレノアも共産主義に共鳴していました。ルーズベルトはわが国と米国を戦わせようというスターリンの謀略に影響されていたのです。  こうしてわが国は追い詰められていきました。
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jaguarmen99 · 3 years
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オーウェン・ラティモア(Owen Lattimore、1900年7月29日 - 1989年5月31日)は、アメリカ合衆国の中国学者。第二次世界大戦前には太平洋問題調査会(IPR)の中心的スタッフを長くつとめ、また戦時期には中華民国の蔣介石の私的顧問となるなど合衆国の対中政策の形成に関与していたため、戦後はマッカーシズム(赤狩り)の標的の一人となり迫害を受けた。 1942年、中央アジアの探険、研究に対して、イギリスの王立地理学会から金メダル(パトロンズ・メダル)を贈られた[1]。
オーウェン・ラティモア - Wikipedia
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hero-moove · 4 years
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#Repost @moove.records ・・・ オンラインショップ https://moove55.com/?pid=152433179 Artist: Laraaji(@laraaji_official ) Title: Sun Piano Label: ALL SAINTS RECORDS(@allsaintsrecords ) RELEASE: 2020.07.17 1943年生まれ、ニューヨークを拠点に現在も活動を続けるニューエイジ / アンビエントの生ける伝説、ララージ。ワシントン・スクエア・パークで演奏する彼を見たブライアン・イーノの誘いを受け、1980年にリリースされたイーノによるアンビエントシリーズ第3弾『Ambient 3: Day of Radiance』に参加し脚光を浴びることとなった。その後はジョン・ケイル(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)、ハロルド・バッド、ビル・ラズウェル、ファラオ・サンダース、細野晴臣らとのコラボレーションをするなど幅広い活動を行い、オーディオ・アクティブとのアルバム『The Way Out Is The Way In』のリリースでも注目を集めた。更に、近年におけるニューエイジ/アンビエント・ミュージックの再興に伴い〈Leaving Records〉や〈RVNG Intl.〉など新世代のレーベ���からリリース、世界で最も影響力のあるファッション誌Vogueではトレードマークであるオレンジ色の服装に対するこだわりを語るなど、生ける伝説として益々精力的な活動を続ける彼の最新作『Sun Piano』が7月17日にリリース。 最新作『Sun Piano』において、ララージは長年抱いてきた願いを実現する。それは、1950年代にニュージャージーで過ごした幼少期に学んだ、彼にとって最初の楽器であるピアノに回帰するということだ。エフェクトを効かせたチターによる広大なジャムサウンドを離れ、格調高く彩色された音楽が集められた作品にもかかわらず、そこから伝わってくるアーティストの人格と魂の内なる光に触れれば、「ララージの音楽」に相違ないと確信するには十分だ。レコーディングはブルックリン・チャーチにて行われ���カート・ヴァイル、ザ・ウォー・オン・ドラッグス、メアリー・ラティモアらを手がけるジェフ・ジーグラーがプロデュースを務めた。 今作は、三部作の第一弾としてリリースされ、本作と対になる『Moon Piano』のリリースが今後リリースを控え、ピアノとオートハープの二重奏による、派生作としてのEPがに続けてリリースされる予定となっている👌 TRACKLISTING ------------------------------- 01. Embracing This 02. Hold On To The Vision 03. Flow Joy 04. Shenandoah 05. This Too Shall Pass 06. Sunny Day Horse 07. Elevation 08. Temple Of New Light 09. Moods And Emotions 10. Lifting Me 11. Resonance 12. Embracing Timeless 13. Star Waltz (Bonus Track for Japan) #moove #mooverecords #vinylshop #アナログレコード #レコードショップ #laraaji #sunpiano #allsaintsrecords #piano #newage #ambient #chillout #vinyl #lp https://www.instagram.com/p/CMeb5oeBqFD/?igshid=xkuc1i4rxxo0
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nasu-no-hana · 4 years
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Denise LaSalle / Right Place, Right Time (1984) ディープなソウル、ブルースを。1曲目から自作の濃厚なバラード、しかもデュエット・パートナーはラティモア。アルバム一枚ディープな世界に浸れます。 #DeniseLaSalle #Latimore #vinyl #vinylcollection #coverart #albumart #33rpm #lp #nowspinning #nowplaying #アナログ盤 #レコード #records #soul #funk #blues #southernsoul #deepsoul #MalacoRecords #1984 #宮古島 #coffee #コーヒー #cat #猫 (宮古島) https://www.instagram.com/p/B_ZH3bTp4_6/?igshid=1suzn71705ime
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ysformen · 5 years
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「日本人が世界に誇るもの」
先の戦争の真実は、白人帝国主義(人種差別と植民地政策)国の勝利により歪曲されています。
祖父達は、戦争には負けましたが、欧米国の人種差別とアジア植民地化政策を粉砕するという戦争目的では勝利したのです。
アジア諸国は皆、日本の戦争により、白人帝国主義(欧米諸国)の植民地からの独立を果たしたのです。
 敗戦国なるがゆえ、戦勝国に諂った政治政策により歪曲された歴史教科書などに惑わされてはならない。
「南京大虐殺」は、戦勝国の明らかな「でっちあげ」であり、アメリカが行った大虐殺であった長崎広島への原爆投下の罪、と西洋諸国のアジア諸国を植民地としていた罪のイメージを隠すべくカモフラージュとして作られた幻の事件なのです。
 また、「従軍慰安婦」は、いわゆる売春宿を任意で従軍させたもので現代の戦争における常識的存在であり、必要不可欠のもので、強制連行により一般の婦女子を「従軍慰安婦」することはありませんでした。
これを世界で最初に用いたのが、礼節の国、日本です。
「従軍慰安婦」は、占領国の婦女子の安全を守るための制度であり、この制度も世界にほこるべきものといえます。
<< タイ国元首相「ククリックド・プラモード氏.」の言葉 >>
「日本のおかげでアジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジアの諸国民が米英と対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるのか。
 それは、身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである。
 十二月八日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが身を賭して重大決意をされた日である。我々は、この日を忘れてはならない。」
 (十二月八日、現地新聞「サイアム・ラット紙」)
  << インド元大統領「ラグ・クリシュナン氏」の言葉 >>
 「インドは当時、イギリスの浮沈戦艦を沈めるなどということは 想像もできなかった。
 それを、我々と同じ日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。
 (昭和四十四年「日本経済新聞」)
  << インドネシア元情報宣伝相「ブン・トモ氏」の言葉 >>
 「我々アジア・アフリカの有色民族は、ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが全部失敗した。
 インドネシアの場合は三百五十年間も失敗が続いた。
 それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を我々の目の前で、徹底的に打ちのめしてくれた。我々は白人の弱体と醜態ぶりを見て、アジア人全部が自信を持ち、独立は近いと知った。
 一度もった自信は決して崩壊しない。
 日本が敗北したとき、
 「これからの独立は自力で遂行しなければならない。独力でやれば五十年はかかる。」と思っていたが、独立は意外にも早く勝ち取ることができた。」
 << インド極東国際軍事裁判判事「ラダ・ピノート・パール氏」 >>
「要するに彼等(欧米諸国)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の十七年間(昭和三年~二十年、東京裁判の審理期間)の一切を、罪悪と烙印することが目的であったに違いない。私は1928年から1945年までの十七年間の歴史を二年七ヶ月かかって調べた。
 この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。
 それを、私は判決文のなかにつづった。
 その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
 それなのに、あなたがたは自分等の子弟に、
 「日本は犯罪を犯したのだ。」
 「日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ。」と教えている。
 満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
 日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流され て行くのを、私は平然として、見過ごすわけにはゆかない。あやまられた彼らの宣伝を払拭せよ。
 あやまられた歴史は、書き換えなければならない。
    (昭和二十七年十一月五日、広島高等裁判所での講演)
 << 韓国 韓日文化研究所「朴 鉄柱氏」のことば >> 
 「大東亜戦争で日本は敗れたというが、敗れたのはむしろイギリス をはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼等はこの戦争で植民地を全て失ったではないか。
戦争に勝った、敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる。 というのは、クラウゼビッツの戦争論である。
 日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり日本の戦争こそ「聖なる戦争」であった。
 二百数十万人の戦死者は確かに帰ってはこないが、しかし彼等は英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて、国民尊崇対象となるのである。
昭和四十二年十月)
  << イギリス歴史学者「ウエールズ氏」の言葉 >>
 この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石をおいた。
<< 米国ハワイ日本経済事務局長・政治学博士「ジョージ・S・カナヘレ氏」の言葉 >>
 日本占領軍がインドネシア民族主義のために行った、種々の仕事の中で、最も重要なものの一つは、正規軍及び准軍事組織を創設して、それに訓練を与えたことである。
(中略)
インドネシア人が軍事訓練を受けたことの意義は極めて重要なものであった。
 これが後のインドネシア革命軍の大部分の将校と何千の兵士となり復帰してきたオランダ勢力と独立戦争を戦う際の基盤となった。
日本によって与えられた、このような機会がなかったならば、戦後のインドネシア民族革命の経過は違ったものになっていたであろう。
<< ビルマ元首相「バ・モウ氏」の言葉 >>
 約五十年前、ビルマは三回にわたる対英戦争の結果、その独立を失いえり、英国側はアジアに対する掠奪的野望をもって、これらの戦争を遂行した。
 愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流?、拷問およびしばしば死を甘受して突進して行った、これらの英雄はビルマの生存のため、苦難を受け遂には屍たり。
 ビルマ人はアジアを結合させ、アジアを救う指導者を待望していたが遂に、これを大日本帝国に発見した。
 ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対し、日本への感謝を永久に記録せんことを希望するものである。
 (ビルマ独立宣言より)
 << インドネシア共和国元首相「モハマッド・ナチール氏」の言葉>>
 大東亜戦争というものは、本来なら私達インドネシア人が独立のために戦うべき戦争だったと思います。
もしあのとき私達に軍事力があったなら、私達が植民地主義者と戦ったでしょう。
 大東亜戦争とは、そうゆう戦いだったんです。
 << イギリス歴史学者「アーノルド・J・トインビー氏」の言葉 >>
 英国最新良の戦艦2隻が日本空軍によって撃沈されたことは特別にセンセーションをおこす出来事であった。
それはまた、永続的な重要性をもつ出来事でもあった。
なぜなら、1840年のアヘン戦争以来、東アジアにおける英国の力はこの地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。
1941年、日本は全ての非西洋国民に対し西洋は無敵でないことを決定的に示した。
この啓示がアジア人の志気の及ぼした恒久的な影響は1667年のベトナム戦争に明らかである。
(昭和四十三年三月二十二日「毎日新聞」)
 << マッカーサー元帥の米国議会での談話記録 >>
 (日本には)石油がない、錫がない、綿がない、ゴムもない。その供給を全て絶たれたなら、どんな小国であっても戦争を決断する。
 << GHQ参謀部長「C・ウイロビー」 >>
東京裁判は史上最悪の偽善だ。もし米国が同じ立場であったら日本と同じように戦っただろう。
 << イギリス歴史学者「トインビー」 >>
第二次世界大戦において、日本人は日本のためよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために偉大な歴史を残した。
 それらの国々とは、日本の掲げた大東亜共栄圏に含まれた国々である。
 日本人が歴史上のこした最大の業績は、世界を支配していた西洋人が「不敗の神」ではないことを示した点である。
<< 中華民国顧問「O・ラティモア」 >>
 日本が立派にやり遂げたことは、欧米の植民地帝国を完全に破壊したことである。 << 社会学者 H・アミーズ女史 著書「アメリカの鏡・日本」 >>  東京裁判は正義ではなく、明らかにリンチだ。私達アメリカがどうして日本を罰することができるのか?私には理解できない。 << ネイール元インド首相 >>  彼等(日本)は、謝罪を必要とすることなど我々にはしていない。 それ故にインドはサンフランシスコ講和会議には参加しない。 講和条約にも調印しない。(52年日印平和条約締結) << G・デザイ(印弁護士会会長) >>  インドの独立は日本のおかげで30年早まった。この恩を忘れてはならない。 << G・シャフエー(マレーシア外相) >>  なぜ、日本が謝るのでしょうか?あの大戦でマレーシア人と同じ小さな体の日本人が大きな体のイギリス人を追っ払ってくれたではないですか? 日本なくして東南アジアの独立はありませんでした。 この日本の尊い犠牲を否定することは、バックミラーばかり見ているようなものです。 << 仏ドゴール首相 >> シンガポール陥落は、白人植民地主義の歴史に終焉をもたらした。 << ラジャ・ダド・ノンチック(上院議員) >>  我々は日本軍を歓迎で迎えた。日本は将来の我々のために多くのものをもたらしてくれた。  我々は日本から学んだことは「国を守る術」だった。 << 歴史家 「Z・アビディーン」 >> 日本軍政はマレー人の独立の種を撒き成長させた。 << ゴー・チョクトン首相(シンガポール) >> 日本の統治は過酷なものだった。しかし、日本軍により欧米の植民地支配は粉砕された。  これはアジアに自信をもたせた。大戦後15年以内にアジアの植民地は全て開放された。 << オン・サン(ビルマ独立の父) >>  日本の軍事訓練は厳しすぎた。何度か自殺を考えるほどだった。  しかし、ラン・グーンが落ちたとき、我々は間違っていないことを確信した。  1948年8月1日 独立を宣言  しかし、日本軍の劣勢は彼等の決断をせまる。  独立維持の密約をイギリスから取り付けたオン・サンは、日本からの離反を決意。同士の説得を開始する。 << ミン・オン(ビルマ義勇軍設立メンバー) >>  その判断は正しい。ビルマは生き残る術は他にない。  しかし・・・・・。私は日本を裏切ることはできない。  ミン・オンは離反を拒否し自決の道を選んだ。・・・・  終戦後、イギリスは密約を無視。再植民地化に乗り出すが  イギリスはそれが不可能であることを悟った。  日本とオン・サンらが育てた、ビルマ義勇軍10万が英に立ちはだかった。   1948年1月4日ビルマ完全独立、式典にオン・サンの姿はなかった。
 (47年7月暗殺 32歳) << 初代ビルマ首相 バ・モウ >>  「真の独立記念日は1948年1月4日ではない。  1943年8月3日だ。独立の真の理解者は東條大将と大日本帝国だった。 << M・ハッタ(インドネシア独立の父) >>  日本の戦いは8月15日に終わった。我々の戦いは8月17日に始まった。  オランダは独立の腹いせに、多額の債務インドネシアに要求した。
 これを、戦時賠償の形でかたがわりしたのが日本であった。 << サン・パス復員軍人相 >>  戦争が終わったあと多くの日本人が帰らずに我々と戦ってくれた。  国軍墓地に葬り、勲章を贈った。  しかし、それだけではたりないものを、彼等は我々に与えてくれた。 << アラ・ムジャ陸軍大将 >>
 日本にはあと五年がんばってほしかった。そうすれば中東とアフリカはもっと早く独立できたはずだ。中東もアフリカもこんなに苦しまずにすんだはずだ。
<< ナーセル 第二代エジプト大統領 >>  アジアには日本がいた。アラブには日本がいない。 << ブン・トモ インドネシア首相 >>  あの戦争は我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。  それなのに全て日本に背負わせ、日本を壊滅寸前まで追い込んでしまった。  申し訳ない。
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ーーーオーエン・ラティモアというアメリカ人がいる。
共産主義者として名が知られているが、蒋介石の顧問であったことでも有名である。
日本との関わりを言えば、あの「ハル・ノート」の起草に関わったとされるし戦後の日本国憲法起草にも一役かっている。
当然、戦時中は日本の侵略とされるものを批判し、多くの反日プロパガンダを手がけていた彼であったが、戦後日本との関わりを深めるにつれ、次のように語るようになってきた。
┌———— 日露戦争の勝利がアジア民族解放運動の出発点であり、終着点はまさしく大東亜戦争であった。 └———— 続けて、 ┌———— 日本が立派にやりとげたことは、アジアにおける植民地帝国の19世紀的構造を破壊することであった。 └———— ┌———— 戦時中、日本人によって占領された土地のうち、ただの一つも(ヨーロッパの宗主国によって)満足に取り戻されたものはなかった。 └————
共産主義者の彼が、資本主義国家を婉曲に批判する為に日本を好意的に言っているだけだという批判もあるが、ラティモアのように日本との関わりを深めていくうちに、それまでの言動が変化した著名人は少なくない。
あのマッカーサーしかり、東京裁判の裁判長だったウェッブしかり、日本を知れば知るほどあの裁判に矛盾を感じていた人は少なくない。
アメリカの議員の中には、戦後、中国の内戦状態を目の当たりにして「アメリカは戦う相手を間違えた」と言ったそうだが、結局アメリカは中国大陸に莫大な援助と協力を行ってきたにも関わらず、それが全て無になったのだからこんな愚痴が出てきても不思議ではない。
さらに朝鮮戦争でも莫大な費用と人的犠牲を払うことになったのだから、弱り目に祟り目とはこのことであろう。
中には、自虐的な意味も含めて「日本と協力していたら後の冷戦構造はかなり異なった姿になっていたはずである」と語った学者もいたそうだが、さもありなんである。
戦後、アジアのお目付け役はアメリカが一手に担った。
そのせいでベトナム戦争をやるハメになり、挙句に泥沼に引き込まれアメリカ衰退の一因にもなった。===今更「アジアのことは、日本にやらせておけばよかった」と言ったところで後の祭りである。
さて、私が学生の頃、学校では「日本は戦争に負けて良かったんだよ」と繰り返し教わった。正直「またか」と思ったが、中には面白いことを言う先生もいた。
「な!結局、最後の最後でババを引かずに済んだだろ?」
一番損な役回りをアメリカが引いてくれたと言いたかったのだろう。「脱亜入欧」福沢諭吉に薫陶していた先生ならではの言葉だったのかもしれない。
さらに、「但し、負けて良い戦争なんてあるもんか。冷静に計算して勝てない戦争ならしない、その前に如何にして拳骨を使わないで勝てるかを考える。それが平和教育だろ」
===↑今とても有名な「北教組」の組合員だった先生である。
国旗を掲揚し君が代も斉唱する先生だったが、教員の給料をピンハネして裏金作って政治活動に使うような人ではなかったと信じている。
「平和憲法護持!」と憲法の遵守を繰り返し叫ぶ日教組のみなさん、
その前にまず、普通の法律を守ってから主張すべきじゃないですか?
” - 法律は守りましょう (via itokonnyaku) (via twinleaves)
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chikuri · 5 years
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環太平洋(アジア・太平洋)地域内の民間レベルでの相互理解・文化交流の促進を目的として設立され、当該地域の政治・経済・社会など諸問題の共同研究を通じ学術専門家たちの国際交流をはかることを主な活動とした。第二次世界大戦前にはこの地域に関するほとんど唯一の国際研究機関としての役割を果たし、同地域におけるNGOの先駆的存在とみなされていた。しかし、1930年代からビッソン、ラティモア、ノーマンなど数々のソ連のスパイである共産主義者、中国派がアメリカ国内の世論を日本人嫌悪と親中に誘導するために活動の場としていたことが分かっている。彼らは戦後に戦前からのスパイ行為が発覚して公的な場から追放処分を受けたが、冷戦中は疑惑をかけられた被害者扱いを東側諸国や西側にいる東側支持者から受けていた。しかし、ソ連崩壊による西側諸国の勝利を受けてアメリカにてベノナ文書が1995年に公開されると、戦前からアメリカに共産主義者が日本への敵対心を煽る活動をし、戦後も日本、ひいてはアメリカさえも赤化しようとしていたことが確定している[1]。 日本支部である日本太平洋問題調査会(日本IPR)は1926年に設立され、第二次世界大戦中の脱退・解散をはさみ、戦後の再建・復帰を果たすも1959年に解散された。
太平洋問題調査会 - Wikipedia
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tsun6571 · 7 years
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大東亜戦争の名言集
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トインビー(イギリス歴史学者) 第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと言わねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
ラティモア(中華民国顧問) 日本が立派にやり遂げたことは欧米の植民地帝国を完全に破壊したことである。 ブン・トモ(インドネシア元情報相) 「あの戦争は、我々の戦争であり、我々がやらなければならなかった。それなのに、全て日本に背負わせて、日本を滅亡寸前まで追い込んでしまった。申し訳ない!!」
バ・モウ(初代ビルマ首相) 「我々を白人支配から救い出してくれたのは、日本だった。我々は、大戦終盤に日本を見限ったが、その恩は忘れない。日本ほど、アジアに貢献した国は無い。日本ほど、誤解を受けている国は無い。」
プラモード(タイ首相) 「日本のおかげで、アジアは独立できました。日本というお母さんは、母体を壊してまでも、アジア諸国という子供を産んでくれました。今日、アジア諸国が欧米と対等に話ができるのは、誰のおかげか。それは、自らを殺してまで産んでくれた、日本というお母さんがあったからだ。我々は、お母さんがお産を決意した12月8日を、全ての力を出し尽くし私達の国を産み力尽きた8月15日を、忘れてはならない。」
ウ・ヌー(ビルマ外相) 「高い理想と目的の高潔さに動かされたある国が、アジアの独立と民衆の解放に、生命と財産の全てを犠牲にした。その国の名は、『日本』という極東の島国だ。」
ネール(初代インド首相) 「彼ら(日本)は、謝罪を必要とする事など、我々にはしていない。それ故インドは、サンフランシスコ講和会議には参加しない。講和条約にも調印しない。 」
ジャマル・アリ(インドネシアタイムス会長) 「我々には、日本を批判するだけの韓国や中国と違って、歴史とプライドがある。お金を出せなどとは、360年間わが国を支配したオランダにさえ要求しない。」
アラムシャ(インドネシア陸軍大将) 「日本には、あと5年頑張って欲しかった。そうすれば中東とアフリカは、もっと早く独立できたはずだ。中東もアフリカも、こんなに苦しまずにすんだはずだ。 」
ナセル(第2代エジプト大統領) (第三次中東戦争で惨敗後)「アジアには、日本がいた。アラブには、日本がいない。」
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xf-2 · 6 years
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憲法改正を何がなんでも阻止したい護憲派メディアは、「押しつけ憲法」というネガティブなイメージの払拭に躍起になってきた。その筆頭格・NHKは、頻繁に憲法特集番組を放送してきたが、その全ては、現行憲法を礼賛し、改憲を阻止するための世論操作を目的として作っているとしか思えない。視聴者から強制徴収した受信料を湯水のように使ってNHKが作る番組は、日本国憲法を「戦争を反省した日本人が自発的に作った」かの如く歴史修正する番組ばかり。長年、違憲状態で放置されてきた自衛隊関係者の心情や緊迫する尖閣問題、国際平和維持活動の必要性などの観点から憲法問題を考える番組は皆無である。そうしたメディアが好んで繰り返し礼賛するのが、戦後まもなく発足した「憲法研究会」。そこで日本人が作った憲法草案要綱こそ、現行憲法の原型だと喧伝しているのである。  周知の通り、日本国憲法は、マッカーサーが指示した基本原則「マッカーサー・ノート」に基づき、GHQ民政局の憲法起草チームが約1週間で草案を作成し、それを日本側とも協議・修正した上で完成した。それ故に「アメリカ製」「押しつけ憲法」と言われてきたわけだが、護憲にトチ狂った人々は、GHQが憲法研究会の草案を基にしてGHQ草案を作ったから、「日本製」だと言いたいわけだ。  憲法研究会とは、戦後、新憲法を日本人の手で作るべく、進歩的な学者、ジャーナリスト、知識人らが集まって結成した民間の団体とされている。そこで中心的に憲法草案要綱を書いたのが、マルクス主義者の憲法学者、鈴木安蔵。彼らは国民主権などを定めた自由主義的な憲法草案要綱をまとめてGHQに提出した。日本人民間人が勝手に作った草案だったはずなのに、なぜかGHQはこれを直ぐに英訳し、精査した結果、「民主的で受入れ可能」とポジティブに評価している。一方、日本政府が正式に組織した憲法問題調査委員会の松本私案は、日本を君主国と規定するもので、GHQは「極めて保守的」とバッサリ。これが災いしたのか、憲法改正担当だった松本烝治大臣は、その後、公職追放されてしまう始末。日本政府に任せられないと判断したマッカーサーは、GHQで草案を作るよう民政局に指示した。僅かな時間の中で他国の憲法草案を書く羽目になった民政局は、鈴木らの憲法草案要綱だけでなく、アメリカ憲法やソ連憲法、ワイマール憲法など、世界中の憲法を参考にして、泥縄式に草案を仕上げたのだった。 なぜ、鈴木安蔵は、政府からの委託を受けたわけでもないのに憲法草案を書こうと思い立ったのか? 実は終戦直後、GHQの高官がジープに乗って鈴木の自宅を訪問しているのだ。カナダ外務省からGHQに出向していたハーバート・ノーマン(Egerton Herbert Norman)である。ノーマンは、牧師の息子で日本生まれの日本育ち。日本史研究の専門家であり、鈴木とは戦前、明治史研究会で知り合った。隠れ共産主義者だったノーマンは、鈴木に大日本帝国憲法の問題点を指摘し、民主的な新憲法を起草するよう強く勧めたとされている。新憲法制定は、GHQにとって喫緊の課題であり、マッカーサー自身も元首相の近衛文麿に別途要請していたが、日本の守旧勢力を憎悪するノーマンは、近衛の戦争犯罪を糾弾する報告書を書き、戦犯に指定させることで近衛ルートを潰すのにも一役買っている。 
NHKの憲法特集番組では、ノーマンの存在や役割を完全に省いてしまっているものが多い。上に掲示したETV特集では、ノーマンを登場させているものの、「日本近代史研究家で外交官」とだけしか説明しておらず、共産主義者であったことや、後に悲惨な運命をたどる話などは完全に省かれている。制作統括の塩田純は、ETVで左翼的な番組ばかり作っているディレクター。知らないはずがない。全てを知った上で、敢えて視聴者を騙す番組を作っているのだろう。下で紹介する映画では、鈴木とノーマンの再会シーンを更に美化して描いている。
GHQ職員がジープで突然現れるエピソードには既視感を感じる。優生保護法が成立した背景でも、全く同じような光景が繰り広げられていた。戦前の日本による対外侵略の原因が多産にあると考えていたGHQは、人口増加に歯止めをかけなければ、将来また、膨張主義が復活する、と危惧していた。そこで、戦前に産児制限の普及運動に取り組んだ加藤シヅエに目をつけ、GHQ民間情報教育局の二世職員が加藤の自宅をジープで訪問。国会議員に立候補するよう強く説得した。産児制限を認める法案を日本人女性議員に提出させ、中絶を事実上合法化する優生保護法を日本人自身の意思で法制化した、ということにするためである。(出典:『日本の少子化は「人災」だった(上)戦後ベビーブーム突如終焉』)  優生保護法と日本国憲法成立の共通点は、中絶と戦争放棄という、当時のアメリカでは絶対に制定不可能なルールを日本人に押し付ける際に、「命令」ではなく「自発的な制定」を偽装したことにある。GHQによる命令や強制は、「日本国国民が自由に表明した意志」を尊重せよ、というポツダム宣言第十二項に違反するのである。だから、発案は目をつけた左翼日本人にやらせる。それを可決する際には、天皇の戦争責任や早期独立の可否をちらつかせて政府や議会に圧力をかけるという手法を使ったのであろう。ノーマンと鈴木安蔵には、二つの共通点があった。キリスト教徒で共産主義者。鈴木もまた、クリスチャンの両親に育てられ、青年期になってマルクス主義にかぶれていった(出典:日本の憲法・人権思想にキリスト教の影響)。ノーマンのハーバード大時代の親友で、後に一橋大の学長になる都留重人もキリスト教徒で共産主義者。終戦後、来日したノーマンを早速、鈴木の自宅に連れて行ったのは、他ならぬ都留だったのである。敗戦直後の混乱した状況を利用して、左翼的な憲法を作るべく、キリスト教徒で共産主義者の人脈が機能していたわけだ。ノーマンと都留は、20万人に及ぶ公職追放の人選にも関与しており、一種の「敗戦革命」を企んでいたと思われる。彼らの「革命」は、冷戦の激化とアメリカの対日政策大転換、所謂「逆コース」によって頓挫することになる。
マッカーシーによって始められた赤狩りがアメリカで吹き荒れ、ノーマンにも共産スパイの嫌疑がかけられると、ノーマンの後ろ盾だったカナダのピアソン外相はノーマンを庇い続け、アメリカと対立することになる。FBIはノーマンの友人だった都留を尋問し、共産主義者であったことを自白させる。それで窮地に追い込まれたノーマンは、赴任先のエジプトで自殺した���日米戦争の切っ掛けになったハル・ノートを書いた財務省次官捕・ハリー・ホワイトも、共産スパイの嫌疑をかけられて自殺しているが、後に、ソ連のスパイ活動を暴いたヴェノナ・ファイルの公開によって、スパイだったことが確定している。だが、ノーマンの場合、ファイルに名前が登場しなかったため、未だに真相は藪の中。赤狩りで最大の標的となった反日活動家・オーウェン・ラティモアもファイルに登場しない。このラティモアこそ、ノーマンをGHQに推薦した張本人である。ノーマンとラティモアは、コミンテルンが牛耳っていたNGOの反日団体「太平洋問題調査会」で繋がっていた(【参考】オーウェン・ラティモアと太平洋問題調査会の暗躍)。ノーマンは、ケンブリッジ大学留学中、ソ連のスパイ網「ケンブリッジ・ファイヴ」に加わっていたという情報もあるが(【参考】ノーマンと『戦後レジーム』―近代日本を暗黒に染め上げた黒幕)、カナダ政府は、未だにノーマンのスパイ説を頑なに否定している。ノーマンがクロだと、ノーベル平和賞を受賞し「カナダで最も偉大な首相」と評されるピアソンの素性まで疑われるからだ。
 鈴木安蔵の憲法草案要綱は、国民主権を規定するなど、確かに自由主義的であったが、GHQがどこまでそれを参考にしたかは判然としない。GHQ民政局に鈴木案を参考にするようノーマンが根回しをしたと鈴木自身が証言しているが、GHQは合衆国憲法やソ連憲法など、他国の憲法も参考にしてゴチャマゼに取り入れているので、鈴木らの草案は参考資料の一つに過ぎなかった。そもそも、肝心なものが欠けている。憲法9条に相当する戦争放棄、戦力不保持の規定が無かったのである。キリスト教的人道主義やマルクス主義の観点から発案しても、「戦力不保持」というラディカルな発想は出てこなかった。
では、9条はどこから来たのか? マッカーサーが明示した「マッカーサー・ノート」であり、敗戦国・日本を二度と軍事大国にさせないための懲罰的色彩が濃厚だった。だが、この点でも護憲派左翼は、もっともらしい言い訳を用意している。幣原首相がマッカーサーと会見した時、幣原の方から戦争放棄の考えを提案したから、「日本人が発案者」=「押し付け憲法ではない」という詭弁である。憲法を強制的に押し付けたことにしたくない当時のアメリカ側と、改憲を阻止するために「自主憲法」だったとアピールしたい今の護憲派左翼は方向性が同じであるため、それっぽいエピソードはいくらでも見つけてくることは可能だが、大局を左右するような話ではない。オーストラリアや中国など、他の連合国から天皇訴追の声が高まる中、天皇制を維持する唯一の方法は、とても民主的で平和的、かつ天皇制を残した憲法を、日本人の手でできる限り早く可決することだった。天皇の命運をチラつかせて圧力をかけるGHQに対し、占領下の日本政府はあまりに無力だったのである。憲法が制定された時期、20万人もの公職追放が強行され、衆議院議員の8割が軍国主義者のレッテルを貼られて追放された。当時の日本国民は、外国人が書いた草案を基に憲法が作られたという事実さえ全く知らされず、国民投票さえ行われなかった。こうした事実に鑑みれば、「自主的な憲法」などとても言えた代物ではないのは明らかである。『日本の憲法は我々が書いた』と発言したバイデン元副大統領は正しい。
 日本国憲法制定後、冷戦の激化に伴い、GHQは対日占領政策を大転換する。自衛隊を設立し、日本を共産主義への防波堤にしようとした。岸信介らが主導して結成された自民党は、憲法改正を党是に掲げるものの、戦争の記憶が生々しく、左翼勢力が大暴れしていた時代に改憲するのは困難であった。日本国憲法を書いた主役が、キリスト教徒でマルクス主義者の鈴木安蔵であったのか、GHQ民政局の左翼的なニューディーラーたちだったのか、断定するのは困難であるが、どちらにせよ左翼が作った左翼的な憲法だからこそ、その後もずっと、左翼やキリスト教徒が既得権益として必死に守り通してきたのである。国会前で反安倍デモをやっていたシールズも、コアメンバーはキリスト教愛真高校の出身者。日本国憲法は彼らにとって、「神聖にして侵すべからざる聖典」なのである。 初稿:2018年6月12日 追記1:戦時中、二等兵だった都留重人は、戦後、ノーマンと再会した後、GHQ勤務を経て、1947年に35歳の若さで経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官待遇)に大出世している。翌年、一橋大学教授に就任。1972年に一橋大学長。恩人のノーマンが悲惨な最期を遂げたのと対照的に、順風満帆な人生を送った。退職後は、朝日新聞社論説顧問。叔父で牧師の都留仙次が院長をしていたキリスト教系の明治学院大学教授となり、国際学部を創設している。因みに、シールズの奥田愛基も牧師の息子で、キリスト教愛真高校→明治学院大学国際学部→一橋大院。 追記2:憲法研究会の実質的なトップは、鈴木安蔵ではなく、東大教授の高野岩三郎。高野は、天皇制廃止を主張していたが、鈴木は時期尚早と考えて憲法草案に入れなかった。それにノーマンは強い不満を示している。その後、高野は、GHQによる検閲を担う日本人グループの長として暗躍。1946年、戦後初のNHK会長に抜擢された。NHK東京放送会館は、GHQ民間情報教育局(CIE: Civil Information & Educational Section)が一部を接収し、放送の検閲を実施している。 追記3:公職追放された保守派学者の筆頭、慶應大学の憲法学者で枢密院議長だった清水澄は、新憲法施行後、明治憲法に殉じて自殺している。遺書で『新日本憲法ノ發布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル團體及個人アリタリ其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ或ハ戰爭責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ』と嘆いているが、天皇制廃止を強く主張する高野岩三郎が、新憲法にも飽き足らず、別途発表した日本共和国憲法私案要綱を指すと思われる。
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jaguarmen99 · 3 years
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第2次世界大戦前後[編集] 第2次世界大戦が勃発すると、ソ連援助を目的とした武器貸与法の法案作成に参画し、これは1941年3月に成立している。 1941年11月17日に「日米間の緊張除去に関する提案」を財務長官ヘンリー・モーゲンソーに提出、モーゲンソーは翌18日にこれをフランクリン・ルーズヴェルト大統領とコーデル・ハル国務長官に提出した。これがハル・ノートの原案である「ホワイト試案」(または「ホワイト・モーゲンソー試案」)となり、大統領命令により、ハル国務長官の「ハル試案」と併行して国務省内で日米協定案とする作業が進む。25日に大統領の厳命により、ハル長官は「ハル試案」を断念、この「ホワイト試案」にそっていわゆる「ハル・ノート」が日本に提示される[要出典]。 この「ホワイト試案」の採択には、カリーとその盟友であるオーウェン・ラティモアの暗躍があった[3]。 ブレトン・ウッズ協定及び国際通貨基金 (IMF) の発足[4]にあたって、イギリスのケインズ案[5]とアメリカのホワイト案[6]が英米両国の間で討議されたが、IMFはホワイト案に近いものとなり、以後世界ではドルが基軸通貨となる。 1945年「対ソ100億ドル借款案」がモーゲンソー財務長官を経て、ルーズヴェルト大統領に渡っている。モーゲンソー・プランでは、ドイツからすべての産業を取り去り、戦争ができない農業国にするよう提言した。 告発[編集] 戦後、共産主義者であると告発を受けた。1948年の夏に下院非米活動委員会において、ウィテカー・チェンバース(英語版)とエリザベス・ベントリー(英語版)が、ソ連のNKGB(国家保安人民委員部、KGBの前身)の在米責任者ボリス・ブコフ(英語版)大佐指揮下の秘密工作機関について知る限りを証言、その中に彼の名前があったため、非米活動委員会に召還された。 委員会において彼は自分がスパイであることを否定した[7]。 下院非米活動委員会[8]に出席した三日後、ニューハンプシャー州の自分の農場にて心臓発作により死去。これはジギタリスの大量服用による心臓麻痺で、自殺だったと言われている。
ハリー・ホワイト - Wikipedia
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