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#上越妙高駅
stationpic01 · 2 years
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2018.10.27 Jyoetsu-Myoko Station JR東日本/えちごトキめき鉄道 上越妙高駅
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halkeith · 1 year
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2023年5月上越旅行 ~文化編~ #HDR #iPhoneSE3 #旧師団長官舎 #春日山神社 #上杉謙信 #春日山城跡 #上越妙高駅 #駅弁 #にしんめし
 D51レールパークで見たガイドブックに見つけた旧師団長官舎、立ち寄れそうだったので急遽行くことに。1階は洋室、2階は和室。素敵な空間を堪能した。   グリンがくたくたになった春日山城跡散策。 上杉謙信の居城として知られる。スケールの大きさにびっくり。 過去我が町を、攻め落としただけのことはある。   夕飯にご当地駅弁「にしんめし」を購入。やっぱり駅弁うまい。宿は妙高のログハウスに。自分の寝床は屋根裏風ロフト。なかなかの非日常感だった。グリンも登ったり降りたりでたくさん遊んだ。
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shunya-wisteria · 1 year
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初夏に旅する上越・北信濃 - 長野・松代
初夏の長野 善光寺と松代を散策してみた。
上越妙高で一泊した翌日は、えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン、しなの鉄道 北しなの線を乗り継ぎ長野へ。
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長野に来たら善光寺、と言いつつ今回 初めての参拝。観光客でにぎわう参道を抜けて本堂へ。東日本最大級の国宝木造建築の壮大さに感服。本堂脇には昨年の御開帳の際にも話題となった回向柱と年月を重ね朽ち始めた歴代の回向柱を見学。巨大な本堂前に設置されている映像のイメージしかなかったもので、実際にそのものを見ると想像以上に大きいものなのだなと認識しました。
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長野駅に戻り、バスを乗り換え目指すは松代。真田氏の治めた松代の城下には、松代城址をはじめ藩校 文武学校、真田邸等が雰囲気のよく集まるエリア。 まずは松代城址。真田昌幸の長男であり、信繁(幸村)の兄として知られる初代 藩主 真田信之が大坂の陣ののちに移封、明治維新まで居城とした城の跡。 二の丸から本丸にかかる太鼓門前橋が有名なのですが。。。現在 橋の架け替え工事中でした。相変わらずタイミングのよくない私でした。お天気だけには恵まれ、快��のもと北信濃の山々に囲まれた城郭を写真に収めてみる。
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お城の脇を抜け、松代藩の藩校 文武学校へ。比較的 江戸時代末期に建築された藩校、明治維新後も学校として利用されていたということで、当時の建築物がそのまま残っている貴重な遺構。広い敷地内、歴史を刻んだ木の床を踏みしめながら歩を進める。隣接する真田邸と合わせて趣のある建物と庭園に心和ます。既に夏日でしたが、昔ながらの風通りの良い作りの室内は心地の良い温度感。
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長野駅と松代の間は大体30分に1本程度のバスが運行。ちょっと時間が空くので、竹風堂の店舗に併設されたお茶屋さんでクリーム栗あんみつをいただきながら小休止。火照ったからだに冷たいあんみつで冷まし、温かいお茶とあわせてほっと一息、美味でした。
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shirasuphoto · 7 months
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2023年 八景シリーズBest5
 あっ、年越しちゃった。年末に片付けようと総集編に手を付けたが、期日迫るものの片付け、コミケが想像以上の盛況、さらに同人誌の通信販売の整備。印刷所が止まって増刷待ちのタイミングで、ようやく着手した。
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 今年は42作品だが、ここ最近は忙しかったり創作活動の模索を始めて月に1作品がやっとといったところ。正直続けるか悩んでいるが、SNSでの発信や写真選択の自由度を考えると潰すのも惜しかったりします。
 さて存続の葛藤はこの辺にして、昨年のランキングを発表します。個人的にインパクトがあったり、反響があり多くのリアクションがあった作品を紹介します。
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第5位 No.439
湘南八景 細道通り抜け-京急バス 鎌40 小坪線
(3/11投稿)
 電車に飽きた? いえいえそんなことはないです。ただより身近なテーマを追い求めて、バスにも手を付けてみました。
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 まず最初に選んだ鎌40小坪線は、乗ったことあるバスの中で、インパクトがあった路線だったからです。鎌倉付近は大通りを抜けたらすぐ行き違いが大変そうな道路。さらに一方通行の道路のため、上下線で走行ルートが異なる。一方通行が戻ったと思ったら、また行き違いが大変そうな道路。そんな狭いに狭いを重ねる運転手泣かせの路線に魅力を感じていた。
 電車では味わえない魅力、そのおもしろさを記録したいとはじめてみた。
第4位 No.433
浪漫八景 乗った思い出-小田急ロマンスカー LSE
(2/12投稿)
 今年から現像��フトのサブスクをはじめてみた。はじめは方向性が変わるとゴニョゴニョ言っていたが、次第に発色の良さや現像のしやすさに気が付き、今ではなくてはならないほど。
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 最近も乗って思い出つくりをしているが、どうもここまでインパクトのあるものがつくれないと思ったり。もう少し時期をずらさないと味が出ないのですかね。
 そんな現像ソフトで昔の画像をブラッシュアップしてみようと始めたのが、小田急ロマンスカーLSEの写真だった。当時はこの車両の写真で競い合っていたこともあり、オリジナルを求めた画作りを行っていた。伝えたいことはっきりしてなかったが、組み直して、よりわかりやすくしたい。そんな現像だけでなく伝える目的にもブラッシュアップしてみた。
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第3位 No.449
葛飾八景 昭和-京成3600形(ファイヤーオレンジ塗装)
(7/29投稿)
 2022年後半から京成にお世話になっていた。旧成田空港駅の東成田や京成千葉線と気になるところを訪れたが、未だに撮れていない車両がいた。それが題材となったリバイバルカラーの3600形。この勢いで行こうかと、訪れたのがきっかけだった。
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 あちこちがいい雰囲気で、どこから撮ろうかと悩んでいた。その中でお気に入りだったのが、高砂から一つ隣のお花茶屋駅だ。今回都区にエリアを限定したが、ほどよく古く、どこか身近な駅に思えた。誰も撮らないけど、そんな発見を伝えられたのではないだろうか。
第2位 No.428
多摩八景 最後-東急8500系8637F
(2/4投稿)
 あれだけいた車両が、もう地元を走っていない。電車を待っているときは実感がないけど、こうして写真を見返すとふいに喪失感が漂ってくる。
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写真集「東急8500系」メロンブックスなどで好評発売中
 そんな8500系の日々を写真集にして発売した。コミケでも評判で見本誌を読んだら大半が即購入、写真撮っている知り合いからは写真チョイスが絶妙と褒めていただいた。
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 ただ最後の一年を写真集に詰め込むことが難しく、このシリーズのほうがより細かくかつ様々な視点から捉えているかと。中でも「No.428 多摩八景 最後-東急8500系8637F」が印象深い。オタクたちの盛り上がりは写真を撮っている以上避けられず見てきたが、普段使いの人に視点を当ててみるといつもと変わらない光景。そんな非日常が見える裏に眠る日常を題材としたが、あれから1年経つんですね。
第1位 No.450
箱根八景 裏道街道-箱根登山バス K系統旧街道経由
(8/26投稿)
 仕事の疲れを癒そうか。そう思ってふと湯治目的に乗ったバスだったが、これが意外とおもしろかった。家に帰ってすぐ調べたら、奥に行けば行くほどおもしろいことがわかり、この箱根を走るバスを題材にした。
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 箱根登山バスK系統旧街道経由は、箱根駅伝で選手達が走るメインの東海道とは違う。箱根湯本から東海道を分岐する旧道を通るルートで、芦ノ湖辺りで再び東海道と合流する。ただメインルートではないため、車線は途中からバス同士のすれ違いが出来なかったりと運転手泣かせなところだったり。旧街道と言われるだけあって、箱根寄木細工を売りとした宿場町畑宿、今も茶屋として営んでいる甘酒茶屋といった、かつてここを多くの人が行き交って痕跡を通っていく。
 変わらない道がここ箱根にある、そんなことを伝えたく作品にした。その日本の文化が伝わったのか、2023年一番のリアクション数を記録した。
 いかがでしょうか。忙しいと言い訳したいですが、暇な時間にここに投稿する作品をつくらず遊んでいるので何ともいえませんが。
 ただ今後も作品を投稿して、他の人が記録しないような当たり前だけど見たことがない景色。そんなのを提供出来たらなと思っている。
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masahamanoi-works · 2 months
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Photo Exhibition「 山のことを話そう 」
2024.8.23 fri - 8.25 sun 会場 : 町屋交流館 高田小町 新潟県上越市本町6-3-4 営業時間 : 9:00 - 22:00 (駐車場:3箇所有り。初日23日は13時から、最終日25日は19時まで)
小さな展示を同時開催します 2024.7.26 fri - 9.6 fri 会場:Myoko Coffee 高原駅前店 新潟県妙高市田口307-6 営業時間:10:00 ~ 17:00 (駐車場:共有有り。23日の夕方頃から)
Event
2024.8.23(金) " ヒマラヤの暮らしを��する " Talk & Slide by Dai Iizaka ( GHT project ) 時間 : 18:30 - 20:30 料金 : 1500円
2024.8.25(日) " 山のことを話そう " Gallery talk & Slideshow 4人の写真家によるクロストーク 時間 : 16:30 - 18:30 料金 : 1500円 (1drink付 by Myoko Coffee) 詳細は、下記インスタグラムにてご確認ください。
instagram : @noi_meets
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foucault · 10 months
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今日は店は休みです。久しぶりに奈良に来ています。本籍を奈良に置く身としては、故郷へ戻る嬉しさです。仕事があるとはいえ、合間に興福寺で八部衆の御顔でも拝めるとなおなお嬉しいところですが。
そういえば、本日2023年12月12日はちょうど小津生誕120年、没後60年。小津で奈良、といえば『麦秋』の最後、ふっと差し込まれる麦畑の中をゆく嫁入り風景のシーンですが、あれ、どこなんでしょうか。後ろに耳成山のような山が見えるので、橿原のどこかかな。
ついでの話。このごろ書きものの仕事が多くて、頼まれもの以外の文章なぞつらつら書いている場合ではないのですが、小津についてふと気になってしまったことがあり、書いておかないと本来の仕事ができなさそうなので、合間合間に記していた雑文をここに置いておきます。長いですし、結論はないし、ほとんどの方が興味のない内容かと思いますが…。
ちょっとした調べものがあって雑誌『みすず』2001年12月号を読んでいたら、木村伊兵衛が小津安二郎を撮影した写真と文章「上海で小津安二郎氏をうつす」が掲載されていた。時期は1938年1月なので第二次上海事変の翌年。小津は1937年9月に出征して中国に渡り、事変の直後12月から上海にいたようで、その時に偶然木村と出会っている(その後小津は南京・漢口と転戦する)。写っている小津が携えているカメラは、木村の稿に続いて掲載されている田中眞澄氏の文章「ライカという”近代”」によればライカA型。小津関係の文章を読むと、小津は「ご愛用のライカ」をいつも手にしていたと多くの人が書いているので(同文によると山中貞雄はコンタックスだったらしい)さもありなんと思うのだけれど、田中氏の文章を読んでいくなかで、ちょっとしたことが気になるようになった。
小津は1942年から軍の依頼で記録映画撮影のためにシンガポールに滞在し、ただまあ映画製作などできる状況でもないため、自国内では上映が禁止されていたアメリカ映画をひたすら見続け、敗戦を当地で迎えている。そしてそのまま捕虜となり、抑留生活を終え1946年1月に帰国する際に小津はライカを手放しており、「彼が再びライカを所有するのは一九五四年のことである」とある。買った件の典拠はどこにあるんだっけ、と思いつつ近所の図書館に置いてある『全日記 小津安二郎』を紐解くと、なるほど1954年3月22日の項に、
> 「出京 サンにてライカを買ふ 135.000 アメリカン フアマシー 明治屋(燻製)によつて帰る」
とある。と、ここで急に話は脇道に逸れるのだが、ちなみに隣のページ、同年4月8日の項には、
> 「駒場の東大教養学部 民芸館 青山の花屋 それから 車にて銀座に出て なごやかに夕餐を喫す 野田夫妻と江原氏同道」
と日本民藝館に行った旨の記載がある。他にも、1951年11月10日に
> 「宿酔 森昌子さん達と 陶哉 たくみに寄って大船に帰る」
や、1955年5月17日には
> 「駅にて野田氏と待合せ 上野松坂屋の民芸展にゆく」
とも。ほか、パッと目を通しただけでも1952年4月8日、同年6月15日、1953年2月9日、1961年2月2日に銀座たくみに行った記載があるし、志賀直哉や里見弴についての言及は多すぎるので略す。こういうものを読むとつくづく民藝誌において特集「小津と工藝」を組みたいなと思う。白樺派との関係や小津の映画における「巧藝品考撰」について取り上げる特集。『秋日和』で原節子の後ろにかかっている暖簾は芹沢銈介だろうか、『秋刀魚の味』で中村伸郎の後ろに置かれたやちむん?はたくみで求めたものなのだろうか、やちむんであれば誰の仕事だろうか。佐田啓二と吉田輝雄がとんかつ屋で食事をするシーンには確かに芹沢カレンダーが掛かってるな、などといつも気になるので。松竹から写真借りるといくらぐらいかかるかな…。
それはさておき。この時購入したライカが、前掲日記の1961年3月23日の項に「夕方会社帰りの秀行くる ライカ借(貸)してやる」とある通り、のちに小津の甥が譲り受け、現在は茅野駅前「小津安二郎・野田高梧コーナー」に寄贈展示されているライカIIIfとズマリット5cmF1.5なのだろう。と、ここまで長々と記して、まだ前提です。
そこでふと思い出したのが厚田雄春・蓮實重彦著『小津安二郎物語』(筑摩書房・リュミエール叢書)の冒頭。ここには小津が『東京物語』と『早春』のロケハンをしている写真が2葉掲載されているのだけれど、どちらにおいても小津はバルナック型のカメラを携え、光学ファインダーをのぞいたりしている。沈胴レンズにフードをつけている様子から、あれはライカなんだろう、レンズは厚田雄春が『父ありき』において75mmを一場面で使った以外はすべて50mmだったと言っているぐらいだから同径のエルマーやズマール、ズミタールとかかな、などとうっかり思い過ごしていた。むろん『早春』については、製作年やロケハンの写真に記載されている「1955.7.20」という日付からするとまったく問題はない。しかし『東京物語』は1953年製作公開だから「再びライカを所有した」1954年では間に合わない。そう気がついて見直すと、小津が構えているカメラは、ライカIII型に似ているがファインダーの位置が違うし、そもそも1954年にあわせて手に入れたと思しきズマリットは沈胴レンズではない。
妙なことに気がついてしまったと思いつつも、ひ��まずは日記記載の「サン」を手始めに調べてみようとしたが、何の会社かわからない。名取洋之助が企画編集した「週刊サンニュース」と関係はあるのだろうか。対外宣伝誌の専門家であり、銀座に店を構える森岡さんに聞いたらわかるだろうか。いずれにせよ1949年以降の小津の日記に「サン」が登場するのは、「1951年1月17日・3月21日・4月24日・11月10日、1952年4月17日、1953年6月16日、1954年3月22日(前述のライカを買った日)・10月14日、1955年4月6日、1960年7月14日、1961年2月2日(”たくみ サンに寄って三越”)」。1953年6月16日は、ちょうど『東京物語』ロケの最中だったことが気に掛かる。ほか、関係しそうな記載としては1953年3月30日に「アサヒカメラ座談会」、1954年11月5日の「シュミットに寄ってから」(当時ライカの総代理店だったシュミット商会か)、1955年2月15日「昼寝をしてゐると小尾がくる ニッコールの85m(ママ)のレンズを頼む 四万五千円を預ける」、同年3月11日「小尾に会ひ105mmのレンズを見る」、同年6月27日「小尾から電話ライカピッド(ママ。入手したライカがIIIfであれば、ライカビット SYOOMか)を頼む」ぐらいか。この「小尾」という人は何者なんだろう。
次に小津が構えているカメラの形状から何かわからないかと思い、あらためて細部を見れば、写っているカメラは戦後キヤノンが作っていたコピーライカであることがわかる。決め手はファインダーの位置。同時期の国産コピーライカであるニッカやレオタックスはライカそっくりに作っているのだが、キヤノンは誠実と言っていいのか「打倒ライカとコンタックス」の心意気の現れか、多少スタイルが違う。なお、小津が用いている機種については、この時期のレンジファインダー機は輸出用に作っていたせいか勢いがあり、すぐ新型が出るうえに、外観がどれも似すぎていて小さな写真では区別がつかない。時期を考えれば、1946年発売のSIIから1952年のIVSbの間のいずれかで、III型以降のように見受けられる。レンズもやはり形状から判断するとズマールに似ているので、1949年発売開始のキヤノン Serenar 50mmF1.9か。そう気づいて改めて調べると、「カメラ毎日」1954年6月号に掲載されている座談会「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味」ではカメラの話がもっぱらで、その時に手にしているのはキヤノンである。このキヤノンのカメラとレンズ、そして外付けのファインダー、この時期どういう経緯で小津は使っていたのだろう。いずれにせよ、1953年の『早春』はともかく、なぜ1955年に「ご愛用のライカ」ではなく、キヤノンを用いているのか。
ついでに言うと、小津が鏡の前でカメラを向けて撮っているセルフポートレートに用いているカメラはコンタックス。日記をざっと読んだ限りではわからないけれど、これもいつ手に入れたのだろう。レンズはゾナーの5cmF1.5。明るいレンズがお好みと見える。こちらは姪が譲り受けたとのことで、今は先のライカと同じく茅野駅前にある。
長々と書いてきましたが、つまりはこれらが今回生じた疑問です。小津に詳しい人、どうか教えてください。
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ari0921 · 4 months
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 【変見自在】川勝の罪
          高山正之
『週刊新潮』 令和6年5月16日夏端月増大号
川勝平太は早大を出てオクスフォード大に学んだ。
静岡では大変なエリートなのに、なんだかずっと生臭かった。
県庁の新入職員に君らは野菜を売り、牛の世話をする連中とは違う。頭脳を求められていると言った。オレ様はその頭脳集団のトップにいる超エリートだと言いたかったのか。
 もしかして東大コンプレックスかという声がある。日本ではオクスフォードなど外国の駅弁大学扱いだし、ただの早大出としか見てくれない。そんな悩みがあるから二言目にはエリートだ、他の連中とは違うんだと気張りたがる。
 知事選に出るときも自民の誘いを蹴ってあの悪夢の民主党から出た。
自民党は良くも悪くも日本人党だ。均質日本人でも左右にブレはある。それは派閥という形で吸収してきた。そのブレが埒を超えたところに共産党や民主党がある。だから帰化した人や二重国籍の人が馴染む。
 川勝はその埒外の党を選んだ。普通でないのがエリートの証だと思ったか就任すると川勝は即座にリニア新幹線を拒んだ。大井川は越させないと
新幹線「のぞみ」は静岡に停まらない。リニア新幹線も停まらない。半端なエリートは無視されるのが大嫌いなのだ。
「偉い。それがエリートだ」とわざわざ静岡まできた支那の外相、王毅が褒めそやしたという話がある。明の学者、方孝孺(ホウコウジュ)は頑として永楽帝を正当な皇帝と認めなかった。怒った帝は方孝孺の父方の眷属(ケンゾク)800人を殺し、妻の眷属も殺していったが応じなかった。
 かくて方孝孺を知る友人知人まで皆殺しにされてしまった。明は盗っ人上がりの坊主朱元璋が建てた。そんな国の皇帝の血統などどうでもいいのに、方孝孺は妙なところで我を通した。そういう傍迷惑を支那人はなぜか称揚する。支那好きの川勝も倣って抵抗し、とうとうJRはリニア新幹線の2027年開業を諦めた。
 そしたら川勝は「志成った」と辞任した。朝日新聞の投書欄にその川勝を褒める一文があった。 75歳の投稿者は本気で大井川の自然環境を心配し、その上で「人口減少・経済縮小時代の日本のトンネルだらけの超高速新幹線に意味があるのか」と方孝孺みたいに��を説く。
 投稿者は朝日の記事を心から信じていることが分かる。出来れば他の産経新聞とかも読んでいればと思う。なぜなら朝日は若宮啓文のころから肝心なことを一切書かなくなった。加計問題では安倍疑惑を否定する加戸元愛媛県知事の国会証言を不都合につきボツにしている。
 リニア新幹線も同じ。国鉄の京谷好泰が世界に先駆け、次世代高速輸送機関として世に送り出した。そこに支那が出てきた。彼らにモラルはない。新幹線ですら日本から盗んで支那ブランドで世界に売って恬として恥じない。リニアもすでに日本から技術を盗み、技術者を買い込んで試験線ではもう時速600キロを出している。
 それを上海─杭州─寧波で35年開業を目指している。リニアも支那印で売り出す気だ。しかしそのためには先行する日本に待ったをかけねばならない。それで駐日支那大使が足繁く知事室に通い、王毅も何事かかを囁きにきた。
 川勝も支那に行って習近平に特別に会っている。川勝は引退会見で「(JRリニアの開業は)13年遅れの37年になる大きな区切りができた」と語った。リニアは優れて日本の国益と知財の問題だった。それを川勝が潰した。しかし朝日は川勝の行状に支那が絡んでいることは一行も書かなかった。書かないから読者の視野は狭まり、トンネルの多さしか見えていない。
 支那を外して「そんなに急いでどこ���いく」と読者を嗾(けしか)ける。投稿して恥を晒す読者を朝日は嗤っている。
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chibiutsubo · 11 months
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#おでかけ #たべもの #諏訪 #おぎのや
駒ヶ根SAを出た後は中央道をさらに東に進み、お昼ごはんは峠の釜めしで有名なおぎのやさんの諏訪店にていただきました。
峠の釜めしといえば信越本線の横川駅の駅弁ですが、横川だけじゃなくて諏訪にも店舗があったんですね。まさかここで釜めしを食べられるとは思っていませんでした。
群馬と長野の位置関係がよく分かっていないので、あれ?横川と諏訪ってそんなに近かったっけな??結構遠いような気がするけど私の距離感覚バグってる??と地図で見てみたところ、そんなに近くもなかったですね。距離感バグってなかった。
ちなみにじゃあ何故諏訪だったのかというと、ここに峠の釜めしの製造工場があって、そこに店舗を隣接させたとのこと。なるほど。
というわけで、どうやら諏訪店では隣の工場でのできたてあったか釜めしをいただけるようです。
そして諏訪店では、数量限定で「湖畔の釜めし」なるものが食べられます。峠の釜めしとは中身が違っていて、峠の釜めしだと鶏肉が入っているところ、湖畔の釜めしの方は信州産の牛のローストビーフが入っています。ローストビーフの上には山椒と信州みそ。これはこれでご当地感が味わえて良いものです。
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るろ剣とコラボしていたようです。るろ剣、懐かしい……といっても私は中学生ぐらいの時に友達に借りてどこまで読んだか…ぐらいの朧気な記憶ですが。
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そして横川〜軽井沢間の信越本線廃線跡、碓氷峠に残る数々の鉄道遺産を紹介するパネルも。
何年か前に一度横川駅を訪れて、この廃線跡にあるアプトの道を途中まで歩いたことがあるんですが、途中で日暮れを迎えてしまい、めがね橋とかちゃんとした構造物は見れていないのです。いつかまた行きたいとは思いつつ、群馬、微妙に遠い……。
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途中立ち寄った諏訪湖SAからの眺め。うーん、曇ってますな……。
上りのSAが諏訪湖側にあるので、より湖を近くで見るならば上りSAです。下りのSAは上りより湖から離れた高台にあって、木曽駒とか山を含めた辺り一帯の景色を見渡すならば下り側かな?でも湖からは少し離れた感じになってしまいます。
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kennak · 8 months
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JR東日本は、平日限定の1日乗車券「旅せよ平日!JR東日本たびキュン♥早割パス」をえきねっとで発売する。価格は1万円で、枚数制限や年齢制限などは設定しない。  2024年2月14日~3月14日の平日限定で、フリーエリア内の普通・快速列車、新幹線、特急列車などの普通車自由席およびBRT(バス高速輸送システム)が1日乗り放題になる。また、事前に座席指定を行なうことで、新幹線・特急列車などの普通車指定席も2回まで乗車できる。  販売期間は1月14日~2月29日(利用開始日の1か月~14日前)で、利用前に駅の指定席券売機などで発券が必要。  対象路線は、JR東日本全線(東北・山形・秋田・上越・北陸新幹線の一部とBRTを含む)、青い森鉄道線、いわて銀河鉄道線、三陸鉄道線、北越急行線、えちごトキめき鉄道線(直江津~新井間)。なお、北陸新幹線の上越妙高〜金沢間、北海道・東海道新幹線は対象外。  ほかにもNewDays、エキュート、エスパル、駅レンタカーなどのエキナカ施設や、JR東日本ホテルズ直営レストランなどの飲食店で「キュン♥パス」購入者特典が利用できる。
JR東日本、平日1万円で新幹線も乗り放題「キュン♥パス」1月発売。えきねっと限定で枚数・年齢制限なし - トラベル Watch
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myonbl · 4 months
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2024年5月18日(土)
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上方落語協会が主催する<彦八まつり>、4年ぶりのリアル開催ということで初めてやって来た。お目当ては<奉納落語会>の第4部、露の新治師匠の出番があるからだ。とは言え真夏のような暑さ、夕方までの時間つぶしに<高津神社><四天王寺>へお詣りしてきた。私にとっての大阪は点は理解できても、面としての把握は難しい。おかげで大分地理的理解を身体に染み込ませることができた。しかし暑かったなぁ、会場でビールを我慢した自分を褒めてやりたい!
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4時45分起床。
日誌書く。
洗濯機回す。
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朝食。
珈琲。
酢タマネギ仕込む。
麺つゆ仕込む。
今日は<彦八まつり>、17時開演の<奉納落語会>のチケットをとっているので昼頃に出発する。
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会場は<生國魂神社>、以前にも来たことはあるが谷町九丁目駅から来るのははじめてのこと、少し迷って到着。<米澤彦八の碑>にお詣りする。
軽口噺[かるくちばなし]や役者の物まねを演じていた米澤彦八は、京の人気者、露の五郎兵衛とともに元禄年間(1688~1703年)にここ生玉さんの境内で活躍した。五郎兵衛が「聴衆を前にして口演する」というスタイルを打ち出し、現在の落語の形態をつくる。このため「上方落語の祖」と仰がれ、彦八は「大坂落語の始祖」と位置づけられている。二���の芸風はどう違ったか。「五郎兵衛が先行の噺から材料を多く得ていたのに反し、彦八のは創作が多く、この点などに彦八の意気ごみがうかがえる。彦八はただ軽口噺を口演するだけでなく、むしろ身振りをまじえた『しかた物真似』を本領とした」と、大阪の郷土研究家・肥田晧三氏は『上方学藝史叢攷』で考証する。 (https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/05_vol_99/feature03.html)
まずは腹拵え、<笑福亭仁鶴一門>でたこ焼きを購入、8個で400円、二人で半分こ。<桂米二一門>でふぐの唐揚げ、800円といい値段。
この熱気の中で夕方まで過ごすのは辛い、落語に縁のある場所ということで<高津神社>と<四天王寺>へと向かう。
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お詣り済ませてから再び生玉さんへ、なぜか鳥取県八頭町のブースがあって、ツレアイは<エリンギつかみ取り>に挑戦している。
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会場の日射しを避けて<参集殿>前で待機していると、イベント会場からNさんが出てこられてご挨拶、近くのビジネスホテルが取れたとのことで明日も楽しまれるそう。
奉納落語会、前から2列目で楽しんだが、畳敷きの和室では1時間が限界だ。
月亭秀都「秘伝書」、桂八十八「釜猫」、露の新治「中村仲蔵」。
新治さん、十八番を途中で絶句するハプニング、<柳島の妙見>が出てこない。流れでMRIの結果で脳梗塞が起こっているとの説明で会場びっくり、何とかサゲまでたどり着いたが汗の掻き方も酷くて一寸心配。
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自宅に戻ったのは19時50分、あり合わせで晩酌開始。
録画番組視聴。
桂三幸「天井高い」
初回放送日:2024年5月18日 土曜の早朝は関西の笑いをたっぷりと!▽今回は桂三幸の創作落語「天井高い」▽第1回「あさわら“まくら”大賞」視聴者投票で優勝が決まる…投票は番組ホームページから!
秋田 真夜中のそば屋で
初回放送日:2024年5月17日 秋田市にあるちょっと変わった、おそば屋さんが舞台。開店は夜の10時で、夜通し営業して閉店は翌日お昼ごろと、まさに昼夜逆転。そばだけでなく、お酒とつまみもいっぱいある。ここにはさまざまな人たちが集う。お酒を飲んだあと、そばをシメにという人たちや、歓楽街で接客の仕事を終えた人たち、また3月は就職や転勤での別れを惜しんで飲みあかす人たちの姿も。なごり雪の舞う季節、真夜中のそば屋に密着する。
片付け、入浴、体重は二日前から350g減、順調だ。
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連日の12,000歩越えは嬉しい。
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ashrhal · 6 months
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2024年4月8日
みなさん元気ですか?僕は今、東京の公園で小雨に打たれながらスーツ姿でハイボールを煽り指で鼻くそをこねているおじさんです。
ピーマンの汁が飛んだ。ブシャーっという効果音がこんなに似合う光景があるのかってくらい、俺が齧ったピーマンの汁が飛んだ。
月曜日。土曜日に今のクソの中のクソ、汚泥みたいな家から引っ越すべく奥さんと今の街の周辺を練り歩き、不動産屋を梯子して、条件に合いそうないい物件を見つけたり、生理特有のズンとした気持ちをほぐすために日曜日に高円寺にビリヤニを食べにいくなどして僕たちは楽しく休みを過ごすことができたが、朝6時に目を覚まして迎えた二週目の月曜日の朝は暗澹という言葉がここまで似合うのかというくらい濁っていて、瘴気の漂う電車に揺られ出社した。隣に座ったケバいOLが韓流ポップをこれでもかと音漏れしていてつらかった。
仕事は相変わらず、右も左も分からない。当たり前だ、まだこの職場に来て1週間なのだから。それでも仕事は止まらないからあれこれと降りかかってくる。わけもわからないままこうしたらいいかな、こういう考え方でいいかな、ここは上司に聞いた方がいいかな、と俺なりに考えて自分のできることを探して行動する。俺は本当によく頑張ってると思うが俺以外きっとそんなこと誰も思わない。作成した資料を上司に確認してもらうよう依頼する、ミスが見つかる。指摘される。そんなことわかるわけねえだろクソが手順書のどこにも書いてねえから自分で考えてやったんだろうがと思うが口にせずにっこり笑って「ありがとうございます」と伝える。これがサラリーマンだと理解はしていたが、サラリーマンはクソだということをこれまでもより強く理解する。そんなことじゃ俺はへこたれないぞ、と思いながらも心のどこかでストレスを蓄積してしまう俺は煙草が吸いたくなる。これまでの職場は、午前中には一回、午後には一回どんなに忙しくても必ず煙草を吸えた。しかし、他のチームのメンバーが血走った目でキーボードを叩く姿を見て新参者のペーペーの俺はタバコを吸いに行くことすらままならない。そのまま午前が終わり、痺れを切らして「昼休憩行ってきます」と憮然とした表情で伝え、喫煙所に向かう。喫煙所はビルに一つしかなく、毎日昼の時間は行列ができている。煙草を吸いたい煙草を吸いたいというはやる気持ちを押さえつけて20分並ぶ。ようやく据えた煙草は泥みたいな味がして喫煙室にいる人間全員殺すぞという気持ちと、この喫煙室にいる人間は全員こんな俺が抱いているような感情を乗り越えて毎日働いているんだという尊敬が生まれる。
昼飯はマズい食堂のラーメンを食い、午後の業務にあたる。「ここにこういう風に連絡すればいいから」と聞いていた通り連絡をすると「昨年度もお伝えしましたが、担当部署が変わっているのでここじゃないです」と言われる。クソがと思いながら、今後も関係がある部署かもしれないからごめんなさいの電話をしようと思うと何度かけても一向に繋がらず、俺の心は折れる。そんなこんなで「殺すぞ」と「ありがとうございます」の間を行き来しながら今日も朝の8:30から22:30まで元気に健やかに働いた。
昼休み俺に「仕事で失敗した」「死にたい」とLINEを送ってきた「帰るよ」と妻に連絡をすると、最寄駅のルノアールにいると伝えてくれた。今日の俺のつらさが浄化されるのではないかという淡い期待を抱き妻を居酒屋に誘い夜メシを食べに行った。そこは料理もおいしく酒もそこそこ安い価格で飲める、短い東京生活で憩いの場の候補の一つであったが、その店のメニューのひとつに出汁に浸したピーマンがあり、俺はそれを頼んだ。駅で会ってから、昼間の「死にたい」を引きずってる妻と、社会から受けた傷を舐め合って明日からまた元気に働きたかった。俺が一杯目のビールを飲み終えるか飲み終えないかでピーマンが卓に届く。「出汁が飛び出すんで注意してください」店員のそんな声を聞き流しながら、俺はピーマンに齧り付いた。
ピーマンの汁が飛んだ。ブシャーっという効果音がこんなに似合う光景があるのかってくらい、俺が齧ったピーマンの汁が飛んだ。
その汁は、テーブルの対面に座っている妻まで届き、妻が最近購入した水色のストライプが入ったワイシャツを盛大に濡らした。そこからは最悪だった。妻は落ち込みとブチギレの狭間で宙空を見つめ、俺は浄化できないつらさを抱えてそれを妻が拒絶することに傷つき宙空を見つめ、ほぼ会話もすることなく、俺が何かを投げかけても妻は一切歩み寄ってくれる気配もなく、ビール一杯とハイボール2杯を飲んで店をあとにした。
妻がつらい時、俺は優しくしてきたはずだ。他人に平等を求めること自体平等ではないとはわかっているが、今日の俺は妻に優しくして欲しかった。そんな俺の感情よりも自分の気持ちとスタンスを尊重して誰よりも損してしまう妻は終始俺に寄り添うことはなく、帰り道で俺を置いていく妻につらい気持ちをアピールするために壁を蹴ったり半泣きになりながら「なんでそんなにいつも攻撃的なの」と嘯いたり道路にしゃがみこんだりしていたら、妻が俺置いて家(ゴミ)に向かって歩いてどこかへ消えてしまった。
その結果、僕は今東京の名もない公園のベンチでコンビニで買ったハイボールを飲みながら、急に馬鹿らしくなって鼻くそをほじってこねてみたり、リリィシュシュを聴いて神妙な気持ちになってみたり、実は全然つらいことなんかないんじゃないかと思いながらもしっかりとつらさを感じて、小雨に打たれながら日記を書いています。誰か助けてくれ。できれば妻がいいけど。
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alaephoenicis · 2 years
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死後に何が起こるのか?🕯️
前世の記憶があるロビン・カイザーさんの話
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オリジナル動画:https://youtu.be/dQARYL3BdCc
【和訳:ALAE PHOENICIS】
最新情報は Telegram へ:https://t.me/alaephoenicis
死が訪れた後、何が起こるのでしょうか。
誕生と死は、あなたの魂の旅において最も本質的な2つの転機であり、この境界を越えるときに起こる変容のプロセスは、通常、あなたが生涯で経験したどんなことよりも深淵で変容的なものです。
地上での身体的実体から離れたとき、転生した意識が何を経験することになるのか、その全体像を知るための旅に皆さんをお連れしたいと思います。
以下のシナリオはすべて違った形で表現され、体験されることもあるでしょう。なぜなら、死後に体験しうることの範囲は、根本的に地上世界での体験の範囲をはるかに超えているからです。
かつて地上には、死ねばどうなるのか問うことなど全くしない時代がありました。それは、自分の人生がそれらの世界からの延長線上で続いていることを当然のように洞察していたからです。
この問いが、多くの思想や思索、宗教的概念の出発点となったのは、人間が徐々に自己を忘れ去っていったからに他なりません。
多くの宗教は、人が魂の旅を続ける世界について洞察を欠き、それに応じて地上での生涯を枠にはめてしまうことに基づいています。
現代人が落ち着きや人生の方向性を完全に失ったのは、自らの転生の仕組みがわからなくなってしまったからです。
こうして、方向性が失われた状況の中で、少数の者たちには利益がありました。
地球上の人生なんて80年経てば終わるし、今まで生きてきたこと、経験してきたことはすべて無に帰する、と思っている人は、当然、自分の存在に不安を抱くでしょう。
また、自分がしてきた本質的な経験の層から、その意識というものを切り離すことが出来ていないと、輪廻転生についての疑問を投げかけたりは出来ません。
転生に関する知識には科学的な証拠がありますが、これらの議論は、自ら創り出した経験世界の眠りから意識を目覚めさせるには、ほとんど役に立ちません。
というのも、地球上であなたを導く転生ゲームの魅力の一つは、まさにゲームのボード上の限界を見極めることができないことにあるからです。
あなたは、ボード上で転生へと導いてくれる道を心得ているし、また、あなたが亡くなった後に開かれる道も、すでに何千何万回と歩んできた道なので、熟知しています。
同じスーパーにもう1000回も行っていれば、次に買い物に行くとき、いったいどうやって行くんだろう、買い物から帰ってきたらどうなっているんだろう、と思うことはないでしょう。
たとえ道中の経験が変わりやすく、他の存在に出会うなどして、毎回異なる自分を経験したとしても、道は常に同じです。
大袈裟な言い方をすれば、すべての魂は、人間として生まれるために、同じ宇宙の針の穴をくぐらなければならないのです。
そして、その入り口と地上の経験によって、出口となる門がどこなのか、その門からどのような道が展開されるのか、が決まります。
一生の間に経験したことはすべて、その人の退場の仕方に反映されます。このようにして、閾値の移行期に多くの人が表現する「人生の映画」現象が発生するのです。
意識は早送りで人生の主要な出来事に導かれ、個々の場面を健全な距離で再び観察するチャンスを与えられます。
人生映画は線状に構成されているわけではなく、人生の場面をその感情のエネルギーの連鎖の中で見せてくれるので、観察している意識にとっては、なぜある事柄がその人生の中で別の事柄につながったのかが明確になるのです。
ほとんどの場合、この段階にはすでにソウルグループからのガイドがいて、一緒に人生の連鎖を振り返ることができます。
この世の世界とあの世の間には、いわゆるバルド*と呼ばれる中間世界があり、意識は、それに応じて転生の用意をしたり、振り返って反省するために、そこを通過しなければなりません。
*Bardo :和訳は『中陰(ちゅういん)あるいは中有(ちゅうう)』:チベット仏教の教えで、現世と来世の間で起こりうる意識の状態を指す言葉。
生前に精神的、感情的な硬直状態に陥った人は、この中間領域に長い間留まり、魂が旅を続けられなくなることがあります。
例えば、肉体生活におけるある側面への強い執着が死後も意識の中にある場合、意識はそのレベルの経験に縛られたままになります。奇妙な話です��、このように意識を肉体世界に閉じ込めている、非常に地上色の強い人の中には、肉体の死を全く意識せず、自分の死を否定することで生前のように暮らし続けている人もいます。
幽界からは物理的なものを動かせなくなったこと、そして他人に見られたり聞かれたりすることがなくなったことは、自らの死を受け入れることがあまりにも耐え難いため、単に無視されることになります。
もし、肉体がなくなるとすべてが終わると強く信じている上で、自分の死を否定してはいないなら、その考え方が原因となって、何も存在せず何も起こらないバルドに移動し、その魂は旅の途中でこのバルドから非常に長い間、抜け出せないままでいることがあります。
人為的に無にされているバルドに魂が逃げ込んでいる時、それは一種の遊休駅のようなもので、高次元の存在と混同してはならないものです。そこでは特別なものは存在しないし、特別な何かが起こることもありません。
経験を積もうと転生した魂の向上願望は、遊休駅に長く滞在することによって低迷し、自己否定の度合いを高めてしまうこともあります。
基本として、地上でその存在が具現化されている最中なのか、それとも他の状態にあるときなのかにかかわらず、存在自身に起こることは常に本人の信念によるものなのです。
そして、地獄行きを硬く信じてい生きている人ならば、そこで煉獄観を修正するのに大抵はそれほど長くはかからないとしても、自分が抱いた観念がすぐに結果として現れることを経験するので、死後に何が起こるかは明白なはずです。
つまり、永遠の煉獄というものは存在しないのです。
また、人間が生前に意識的・無意識的に魂を売ったり、ある契約を結んだとしても、その契約が有効であると信じなければ、その契約は超次元的な効力を持つことはありません。
物理的な次元を離れた存在が再び入ることのできる経験世界は無数にありますが、それでも大抵の場合、自分の内なる意識の状態に最も近い世界へと自動的に導かれます。
むしろ、前の地上界と同じような構造をしている近くの幽界に入る可能性の方が高いのです。
それは、地上での記憶がこの経験世界を作り出しているからであり、宇宙的カルチャーショックを引き起こすような経験世界に直面しないように、世界はとても慈悲深いものになっているからです。
ほとんどの世界では、突然その中に身を置いてしまうと、人間は深く揺さぶられ、怯えることになり、高次の天界にさえ恐怖心を抱いて反応し、自らのエネルギーシステムを閉じてしまうのです。
地上での活動を終えたばかりの存在のエネルギーシステムがある程度オープンであるためには、慣れ親しんだ環境が必要であり、ソウルガイドは、超自然的な美しさと慣れ親しんだ環境を兼ね備えた世界に新しく亡くなった人を招き入れ、そこでさらなる旅路の可能性を伝えることに熟練しています。
死後、海辺のビーチで美しい夕日を眺めるという体験的な空間に移動する人もいます。
また、山の高いところなど、生きている間に同じ��うな体験をした自然の中にいる人もいます。
また、多くの愛する人々が登場する場合も多く、最初はただ地上の状況について語るだけだったのが、徐々に全く異なるレベルの経験が広がっていることが分かってくるようになります。
幽体を通して得られる官能体験は、少なくとも肉体を通して得られる体験と同じ鮮明さ、鋭さのあるリアリティを持っています。
初期の順応段階を経ると、終わったばかりの人生のフラッシュバックが何度も起こるもう一つの現実があり、すべての経験を魂レベルで統合するために、精神と情緒のレベルで人生を徹底的に解明することが目的となります。
死後、地上での経験は、意識作業によって、魂が吸収できる情報形式に変換されます。
経験豊かな魂であればあるほど、この統合と転換のプロセスはスムーズに行われ、人は高い意識からもう一度、地上での経験を歩むことができるのです。
人生の場面はどこでも何度でも再生できますし、そのとき、自分の目からではなく、その場面にいる他人の目から眺めるという体験ができる特別な機能もあるのです。
地上での経験を統合することの一端は、自分が自分の振る舞いについて帰結を導き出すために、相手の経験的な観点から自分が経験したすべてを追体験することです。
ある程度の自覚と洞察力があるならば、どの強姦魔も自分の行いを被強姦者の皮膚から体験することを自由意志で選択するでしょう。
そして、この視点の転換によって、それに伴う学習プロセスが始まり、カルマの均衡がもたらされるのです。
生きている間に、自分の言動をすべて相手の目から認識する者は、二元的な経験における片寄りから脱却することができるでしょう。
これ以上カルマを積み重ねることことなく、統合意識へより深く到達することができます。
自分本位で多面的に捉えることができない者は、転生後、人生のすべての場面をまさにその同時多面的に経験する意識に導かれます。
その意味で、死後、審判や評価の権威が存在することはなく、あなた自身が、拡張された知覚、すべてを包括する視点に基づいて自分の行動を評価し、あなたの価値観に従って、新たな人生設計を記すことになります。
もしかすると、転生後に自分が社会的、感情的な面で悲惨な失敗をしたことに気づき、特にその経験を克服することを含む来世の人生設計をすることになるかもしれないのです。
人生と人生が直列に擦り合わされるのではなく、自分自身でいくつもの人生をデザインし、いくつもの体験レベルに同時に浸り、それに応じて死んだ後で自分自身に出会うということもあり得るのです。
死後、他の世界で体験した自分自身と、何とも言えない深いつながりを感じる分身に出会う可能性が非常に高いのです。
魂の旅には、転生後に定期的に集まり、それぞれの世界での体験を伝え合う俯瞰的な場があるのです。
だから、あなたには死後、地上での経験を変換する任務があるだけでなく、それを共有し、あなたの多次元的存在の別の側面に地上での経験を伝える、という名誉も与えられているのです。
そして、これだけはすでに言えることです。地球学校を卒業した存在は、その完成度の高さから、宇宙の他の場所でも尊敬され、評価されます。
なぜなら、地上での体験は他のレベルの創造物にとって超然たる高い価値を持っているからです。
ある意味で、そしてある種の世界では、あなたが戻ってきたとき、祝福されることでしょう。
死の後、あなたの魂はずっと前からあなたの帰還の祝宴の用意をしているかもしれません。
この饗宴で、あなたは転生の旅の苦しみから完全に立ち直ることができますが、野心的で成長を望む魂の存在の中には、非常に早く別の具現化を決心する者もいます。
あの世の暦はまるっきり違うので、この世の暦で死んだ人が何日か後にまた転生してくるということもあり得ます。
しかし、魂が転生するのは平均して一世紀に一度程度です。
地球での生活が過酷なものであればあるほど、あの世での回復と再生の期間も長くなり、2世紀、3世紀を平気で飛び越えてしまう人もいるかも知れません。
ここで、もう一度強調しておきたいのは、異世界の多くは時間をも超越しており、昇天した者はどの時代に新しい人生を送るかを自由に選択できることです。
つまり、「いつ」「どこで」というのは、常にその人生設計に対応したものになるわけです。
人生設計とは、人がその可能性を現実するために、そして自らの潜在能力を実現するために、自己を滑り込ませることができる経験としての可能な枠組みのようなものです。
しかし、人生設計で重要なポイントが満たされなければ、次の人生設計に持ち越されます。 転生に高度なカルマを持ち込んだ人の多くは、長い人生設計に過去の転生でおろそかにしたポイントを抱えています。
人生設計のあるポイントを達成するために、魂からある種の圧力がかかることがありますが、その尺度は常に対処可能な範囲にとどまり、該当者が壊れてしまうほど高度なものになることはありません。
もし、人生における重圧が過度に耐えがたいものに思えるなら、その重圧はあなたの魂から来るものではなく、あなた自身が作り出したものであると断定してよいでしょう。
魂は、地上での経験をまったく別の目で見ています。なぜなら魂にとって、すべての経験は経験に過ぎず、あなたがどう評価しようとも、すべての経験はそれ自体で価値があるものだからです。
そして、肉体がなくなった後に再び利用できるようになるのは、まさにこの魂の景色なのです。
もしあなたが生きている間に、魂のレベルで観察することになるなら、とりわけあの世であなたに寄り添ってくれるような体験シーンが見えてくるはずです。
魂レベルとの結合は、この世とあの世の間の分離のベールを剥がし、特に肉体の逝去によって、私があなたに明かすすべてのことが、身体的存在としてのあなたに開示されるようにしてくれます。
もし生前のあなたが、魂的なレベルで物事を眺めていれば、あなたには、特にあの世に行ってから身近にもたらされるような経験の側面が見せられることでしょう。
魂レベルでの結合は、この世とあの世を隔てるベールを取り払い、特に身体的存在の逝去に伴って明らかになるすべてのことを、あなたに開示するようにしてくれます。
このため、魂との神秘的な結合は、常に死のプロセスのように描写されます。
死後はどうなるのかという問いに対する答えは、魂との結合という「錬金術の結婚*」にあるのです。
*『クリスティアン・ローゼンクロイツの化学の結婚』:参考🔗
また、肉体の中で魂の生活を営む者は、肉体から離れても死ぬことはありません。
身体的な死のプロセスが始まると、人間という存在は自分をクラウン・チャクラを通して身体からリズミカルに押し出そうとします。
肉体に入ろうとするときも、肉体から最終的に離れようとするときも、人は針の穴のようなところを通らねばなりません。
そして、そこを通り抜けるには、それなりに労力が要るものなのです。
あなたをこの世の具現的姿へと生み出したエネルギー的ポータルである産道を、あなたは逆方向へ通って去っていきます。
そして、死は終わりに小さな光がある長い暗いトンネルである、と表現する人はすべて、このエネルギー的な誕生経路のことを指しているのです。
さて、皆さんの中には、死ぬ間際にこの光に焦点を合わせ、その中に入っていくべきだという説があります。
また、そこには輪廻転生の罠のようなものが隠されているから、光の中には一切入ってはいけないという説もあります。
幽界には、死者を地球の近くに留めておくために作られた、一種の捕獲網、あるいはエネルギーグリッドが確かに存在しています。
そして、特に地上のしがらみや 執着が残っていると、亡くなった人はそのグリッドにはまり込んでしまい、高次の領域が閉ざされたままになってしまうのです。
肉体が亡くなれば、魂レベルとのつながりが即座に完璧な形で実現されるわけではなく、人間は死後、やはり自分が生前に築き上げていた魂レベルに、ほぼ相当するつながりの深さを許容するしかないのです。
つまり、エネルギー的なアストラルグリッドや低い波動の存在圏から抜け出せるのかという基盤は、生きている間にすでに築かれています。なぜなら、具現化された状態からしか変えられないものが、確実にあるからなのです。
サッカーの得点も、休憩時間ではなく、試合中にしか変えられません。
あの世での休止期間中に、自分の人生のインサイダープレーを根本的に反省し、新しい戦略や計画を考案することはできても、人生をマスターするためには、具現化された土俵の上でしかそれらを実践できないのです。
ワンハーフが終わって光の方へ行くか行かないか、あるいは休憩中に何をするのか、それは次のハーフに間接的な影響を与えるだけです。
トンネルの先にある光は、幽界のグリッドが仕掛ける誘惑の罠ではありません。
そして、自分自身が純粋で、心がもつれていない人は、これらの層を問題なく突き進むことができるのです。
しかし、それは暗いトンネルでもありません。なぜなら、この世とあの世のあらゆる内的な感覚的現象は、意識から生み出されるからです。
あなたの生と死に寄り添う最も確かな道しるべは、あなたの心の声なのです。
そして、その心の声と深く結びついている者は、来世においても、あらゆる心のもつれや罠を乗り越えて、それに導かれていきます。
しかし、もしあなたが生きている間に、何度も何度も盲目的な自己忘却の罠に陥り、自分自身から自分を切り離していたのなら、自分自身と再結合することを学ぶ道に、あなたは死後、捕えられるのかもしれません。
あの世ではある程度の内なる分離が許されますが、その量が多すぎると、あなたは引っ捕まって地上の土俵に直に投げ出されてしまうことになるかもしれません。
人によっては、回想と再統合のための時間を比較的短く済ませることができる者もいます。
一方、輪廻転生を繰り返しながら、自己統合の道をミリメートル単位で進んでいる人もいます。
魂の旅は、8000メートル級の山々を上った道と同じ程度の距離であり、一度転生するたびに、その一歩を踏み進めたことになります。
したがって、海辺の砂粒の数は、あなたが具現化した魂の数よりも少ないのです。
それでもなお、自分の内なる魂と神秘的に結ばれることで、この旅を完成させる義務が。あなたにはあるのです。
そして、あなたが自らを忘れて生きる、ということは、もともと想定されていたことではありません。
元々、すべての経験は、一つの身体から次の身体へと引き継がれていくものでした。
そして、あなた方は自分の具現化したものが相互に関連し、どのように成り立っているのかを意識できていたのです。
それなのに、輪廻転生を介した学習と記憶の糸が極めて規則的に遮断されることで、あなたの具現化体験は全く異なったものとなってしまうのです。
具現化状態に入るとき、あなたの意識を覆ってしまう忘却のベールは、前述したエネルギーグリッドと関係があり、これはあなたの地球の周りに人工的な磁場を張り巡らせています。
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この磁場を中を魂がさまようことは、ある種の削除ボタンのようなもので、そのボタンがあるレベルで過去のすべての経験を記憶から抹消し、より高い波動のレベルへと移行させるのです。
冒頭でお話したバルドは、地球を取り巻く磁界層に存在する意識を抹消する空間です。
こうした消去空間において、存在は真に自分に属さないものはすべて失うことになります。
そして、自分自身の内なる意識の深いところに生き、自分自身と一体になった存在だけが、消去空間で自分を見失うことなく通過することができるのです。
異空間では、生前に自分と繋がれていたのかどうかが試され、繋がっていない場合は、再び具現化へと戻されることになります。
あなた方の大半は、自分の輪廻転生の記憶の糸についてほとんど認識していないにもかかわらず、あなた方の今生は、この糸とドッキングしている、あるいはそれを引き継いでいるのです。
そして、記憶の糸全体があなたの意識の中に再び現れる時は来るでしょう。
人生は常に途切れている形態では限られた意味しかなしません。あなたの記憶の糸が放つ光を、すべての人生の原点まで遡れば、あなたの存在の意味は疑いなく開かれていくことでしょう。
あなたの地球上での遊び場の境界が、磁気消去領域とともにどんどん溶けてくることで、あの世の記憶があなたの元へやってくるようになります。
閾値を越える際の遷移が、よりスムーズになりつつあり、かつては大きな一歩だったものが、現時点ではほとんど負荷がなくなっています。
この世とあの世、地上のものと霊的なものが今、あなたの中で統合されようとしています。
そして皆さんは、具現化した後に自分を待ち受けているものが何なのかも、無言のうちに深く洞察することができるようになるでしょう。
皆さんの中に生じる「死後はどうなるのだろう」という疑問が静かな内なる確信へと変わり、その疑問がまったく生じなくなるような感覚になれるよう、私たちの言葉をもって寄り添うことができたことを、心から願っています。
あなたという存在が、この確信に深く満たされますように
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gyohkou · 2 years
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01/01/23
年が明けた。
今回の年越しは、蟹もお蕎麦も紅白もなく、ただ昨日と同じくまた次の日が来ただけで、正月を迎えても晴れやかな気持ちは訪れず、不思議だった。
年が変わる節目に、前の年に荷物を置いてくるという感覚を覚える年があり、2021年から2022年へ年が変わった時はずいぶん重い荷物を下ろした覚えがあるのだが、それもなかった。ロンドンへ来る時に、日本へ色々なものを置いてきたからかもしれない。
直面している悩み自体が直接解決される場合ってあまりないと思う。悩みを含んだ外側の要素、あるいは悩みとは全く別の要素に変化をもたらすことで、バタフライエフェクト的に悩みの構成要素や位置関係も変化し、忘れることができたり、重心が別の物事へ移ったりする。
別の言い方をすれば、頭の中で描いているシナリオ通りに、悩みが解決されることはあまりない。悩みがあり、その悩みに対してどのようにアプローチをすれば解決される、あるいはそのアプローチを行わない場合は一生解決されない、みたいなことは可能性が低い。
自分の努力によって自分の人生が良くなっている、自分が怠けているせいで自分の人生が悪くなっている、みたいな感覚は、わたしはあまり持っていない。いつも人生の方が勝手にやってくる。
自分が雇ってもらえそうな仕事なんて何一つなくて、とりあえず地道に英語の勉強をしようと思っていた矢先、突然とある企業と面接をすることになり、待っていただけで機会が勝手にやってきたなと思った、という話。
英語喋れん喋れんと言い続けているけど、喋ってるじゃん、と言われる場面がよくあって、確かに、完璧な文法ではないし拙いかもしれないけど、確実に喋っているよな...と思う。口から英語が出て、相手とコミュニケーションが成立するなら立派な英語話者だ。わたしは英語が喋れます。
12月の某日に出向いたとある音楽イベントの会場と同じ建物内で詩のイベントも開催されており、そこで偶然友達になった人に誘われて、自分で作った詩をステージ上で読むという詩のイベントへ遊びに行ったら、なぜかわたしもステージへ上がる機会をもらい、聴衆の誰一人として日本語を理解しないのに、茨木のり子のモーツァルトを朗読することとなった。奇妙な夜だった。作者の名前、この詩を選んだ理由さえ言い忘れてしまった。ロンドンにいると、自分の個性がどんなものでもいいと思えてよい。ロンドンも東京も都会特有の距離感はあるけど、ロンドンの方が圧倒的に他者との交わりが多く、疎外される恐怖はほとんどない。
スペインから帰ってきたらフラットメイトは誰一人おらず、みなクリスマスと正月休暇で国や故郷へ帰っているようだった。久しぶりの一人暮らしで、優雅な日々を過ごした。お昼前に起きる。ゆっくり朝食を作って食べ、スーパーや本屋などへ軽く出かける。明るいうちに帰ってきて、机に向かって勉強し、お腹が空いてきたら夕食を作って食べ、Netflixをだらりと観て、眠る。退屈が隣にいるような過ごし方を、優雅だと感じることができるなんて、ずいぶん心が健康だなと思う。
誰もおらん年越し、と思っていたら、ガチャリとドアが開いてフラットメイト3が帰ってきた。カウントダウン花火を見に行くために出かけようとしたら、フラットメイト3の友人たちがわらわらとやってきて、キッチンで歓談が始まった。とても楽しそうにお酒を飲む彼らと出掛けに挨拶を交わし、セントラルロンドンへ向かう。日本のような慎ましやかな年末の雰囲気はなく、パーティーのようだった。見晴らしの良い丘の上から見た遠くのカウントダウン花火より、丘に集まった中の誰かが群衆のど真ん中で打ち上げた花火の方が綺麗だった。
改札を通るために長い列に並ばねばならないほど駅が混雑していたので、少し遠くの駅から帰る。ひどく喉が渇いていて、マックでファンタオレンジを買って飲んだ。人生でいちばん美味しいファンタオレンジだった。
Keep Camden Cleanとだけ書かれた、一見すると手洗い場のような、円柱状の建造物が駅前にぽつんと立っており、(Camdenは街の名前)、一緒にいた友人と正体を確かめるべく色々点検していたら、男性がやってきておもむろに立ち小便をし始めたため、男性用トイレであることが判明し、新年初笑いだった。
元旦はセントラルロンドンで行われるニューイヤーパレードを見に行った。マーチングバンドや生楽器の演奏など、(おそらく)有志のパフォーマンス団体が列を成して、歩行者天国となった道路を行進する。観衆がすごくて、みなパレードをしかと目に焼き付けるため、少しでも高い所にと、道路脇の植え込み、ゴミ箱、標識、バリケードなど何にでも人が乗っている状態だった。かくいうわたしも植え込みの上からパレードを眺めていたのだが...
夕方に家へ帰ったらフラットメイト3の友人たちはまだ家にいて、夕飯の材料のレッドオニオンと鶏肉を抱えて帰宅したわたしを見ると、すぐにキッチンを片付けてくれた。ちょうど帰ろうとしていたところなのか、帰り支度を始める彼らと同じ空間で、夕飯の前のビールを開けてポテチをつまんでみる。彼らの仕事について聞いたり、ロ���ドンへ来た理由を話したり、スラングを教わったり、ポートレートを��られたりする。他者の生活、他者のコミュニティと容易に交わりが生じる。やっぱり、基本的には、どんな形であれ、わたしは人がいる暮らしの方を好んでいる。
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古いデジカメでしか撮れない写真。雨のニューイヤー。
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shunya-wisteria · 1 year
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初夏に旅する上越・北信濃 - 高田
初夏の上越地域 高田の城下町を散策してみた。
そろそろまた旅に出たい欲求が高まり始めた今日この頃。ちょっとそこまで感覚で長野に行こうかな、と思った際、そういえばまだ一度も新潟を散策していないことに気づき。最初の目的地を高田に設定してみた。
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北陸新幹線 上越妙高から、えちごトキめき鉄道 妙高はねうまライン にて2駅、高田に到着。まずは高田城へ。徳川家康の六男 松平忠輝の居城として天下普請の下、築城された高田城とその城下町。ランドマーク 三重櫓と見頃の紫陽花の組み合わせを写真に。紫陽花はちょうど見頃、蓮はまだだいぶ早かった。。。三重櫓の内部にて高田の歴史を知ることのできる展示を眺めたのち、城下町へ歩を進めます。
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城下には、雪深い冬季の通路を確保するための庇 雁木が今も残る雁木通り、古い町家を活用した町屋交流館 高田小町等、趣のあるエリアも点在。作り物感のない色褪せた空間、観光地の俗っぽさのないところが、古い街並み好きにはポイント高め。
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ゆったりとした時の流れる休日でした。気分爽快、やっぱり遠出はいいものだね。
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real-sail · 3 days
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ロンドン・ブリッジ・ブルー
ブログ開設から10年(と2か月)経った。10年よくも続いた、というのがわたしの感想である。直近5年は年に3,4回しか投稿していないものの、本数が減るにつれ長文化して作文に時間もかけているので、これはこれであり、と思っている。
10年の間に、“初めての挫折”、学部卒業を経て、渡英し修士課程・博士課程と進んで20代丸々たっぷりと学生をさせてもらったが、わたしはこの前の7月、ついに学生生活を終えた。
博士課程の終わりはちょこっとややこしい。論文を提出し、口頭試問を受ける。人によってはそのままの合格が認められるが、大抵は論文の修正というものが言い渡される。わたしも例に漏れず修正期間を与えられて、試問中に議題に上がった箇所の精度を上げることに勤しんだ。
わたしが修正の合格、すなわち卒業見込みのキューを出してもらえたのが実は3月のこと。その後印刷・製本そして納本を経て学位確定したのが卒業式の10日前、6月末だった。ただこのタイミングは人による。
なぜわたしが3月にキューを得たかと言うとビザの兼ね合いだ。学生ビザの期限が3月の28日であったため、なんならここに間に合うように調整した。本来であれ��わたしの修正の期限は5月であったが、ビザありきで修正を急いだし、関係各所をせっついた。試験官を急かして審査の結果を左右したらいけないと、試験官との間に入る世話人を学校からあてがわれたりもした。
卒��生ビザを得て留まるか、ここで本帰国をするか、本当は腹が決まりきっていなかった。卒業生ビザを申請できる要件を自分は偶然にも満たせる立場にいて、あのときの気持ちを正確に言い表すなら「その選択肢を捨てる勇気を持てない」というのが近い。この2年くらい悩んできた「卒業生ビザか完全帰国か」の天秤はこの期に及んで揺らぐばかりであったが、最終的な決め手は「今こちらで慎ましく暮らす程度の収入源は見込める」ことと「一度学生でない立場でロンドンに身を置いてみたい」という理由だった。これまでは学生ビザが足枷になって、大手を奮って演奏活動をできたわけではなかった。
5月締め切りのほうを生かして学生ビザを延長するという方法もないわけではなかったが、それには申請料がかさむ。イギリスのビザは申請するビザの年数に限らず申し込み1件につき一定の申請料がかかる。3年間有効の卒業生ビザを見越して用意していた高額な申請料を、たった2か月の学生ビザ(延長)に充てることは考えたくなかった。そうしたら、その先で卒業生ビザを申請する資金はない。
とはいえ、延長しか選択肢がないならそれもそれで運命か、と思った。そちらで申請料を使う羽目になったら、これを完全帰国の機会と受け止めよう。そう思って、3月初めに修正した論文を提出した。結果を待つ間あまり生きた心地はしなかったが、3月末に人生初の学会参加を控えていたので、そちらの準備で気を紛らわせた。そしてもし審査に合格した場合 ー 卒業生ビザを申請できる状態になった場合に備えて、できる限りの準備をしていた。
3月18日夕方に、修正が認められたと知らせが届いた。そこからは事前のシュミレーションに則って卒業生ビザの申請を進める。まずは学校から移民局に申請作業があり、移民局からの返事を待って、本人の申請作業に入る。
移民局からの返事は21日に来た。本人による申請プロセスのほとんどは前年に行った学生ビザの延長手続きに酷似していたので難なくこなしたが、ひとつ大きな想定外があった。
イギリスは2018年ごろからビザをプラスチックのカード(BRP)で発行していた。しかしBRPカードは2024年末の廃止が決定したため、2023年分のビザ申請から徐々にカードが発行されなくなりeVISAに移行していた。わたしは2023年の学生ビザ申請時にその数%のeVISAにヒット、ゆえに2024年の卒業生ビザ申請時には“手元にBRPカードがない”状態になってしまった。
これが厄介で、なんとわたしは新たにBRPカードを作る必要があり、そのために指紋と顔写真の提出に“行かなくてはならない”と申請画面に言われてしまったのだ。そして、指紋と顔写真のためには別途(ほぼ行政みたいな)民間企業の施設に赴く必要があり、そのセンターはスロットの予約が必要であった。わたしはその予約に翻弄されることとなる。
わたしの場合、まず自分が“センター予約が必要な人間”の条件に当てはまると気づいたのが電子申請画面の本当に最後の最後であった。前年に延長して“カードなし=最新の状態”になっていることに過信があった。最新すぎて、申請時に“eVISAの人間が新たなeVISAを得ること”があまり想定されてなかったのだと思う。
申請フォームの最後で、申請料を払い、国民保険料を払って、なんならクライマックスを終えたくらいの気持ちになっていた。前年にはこの支払い画面の挙動に振り回されて、というのは外国のクレジットカードが使えなかったせいで入力した前情報がクリアされてふりだしからやり直しというのを数回おこなったので、まずそのトラップを避けて通れたことにやや優越感すらあり、そして何とか工面した高額の申請料・保険料を支払えたことへの安堵と達成感でいっぱいになった。
そんなときだ、センターに行けと言われたのは。このとき3月22日金曜日。手持ちのビザの期限28日までに申請が完了すれば良いらしいし、払うものは払ったし、大丈夫でしょう、行政関係の申請が週末に動くことはないしね ー そう思って週末の学会に気持ちを切り替えた、ビザのことは週明けで良いでしょう、と。ちらっと確認した限りでは、指紋センターの無料枠は毎日朝8時に解放されるらしいと理解して、月曜8時にスタンバイすることにした。
月曜日、25日。8時をそわそわと待って指紋センターの予約表をのぞくと、信じがたい景色が広がっていた。わたしの理解が甘かった。予約枠には無料のものと有料のものがある。日付が近いところは有料ばかり、何より有料でも空いてない。無料スロットが毎日ちょこっとずつ解放されるのかと思ったら、解放されるのは毎日28日後の分で、今日明日のスロットが直前に無料になることはないのだ。
さっと目を走らせたところ、自宅から足を伸ばせる範囲での直近の空きは1週間後のようだとわかった。ビザの支払いから75日以内(だったと思うがもはや忘れた)に指紋などを提出することと書いてある。ひとまず1枠確保して、画面を閉じる。ー もうこれで今できることは全部やったはず、いいんだよね?
しかし翌朝になって不意にひらめいたのだ。もう一度申請画面を確認する。申請は指紋と顔写真の提出を持って完了とする。待てよ、支払いと指紋の間には最大75日くらい空いても良いとして、それとは別に、わたしの置かれた状況《学生ビザが切れる日までに申請を完了させる必要がある》ではやはり3月28日までに指紋も出さなくてはいけないのではないか…?
先述の通りカレンダーに今日明日の空きはない。しかしわたしも伊達にビザ申請を重ねてきたわけではなく、過去3回の経験がものを言った。この国のビザ申請は、何かと課金コースがある ー そしてそれは指紋センターにも通じるルールだった。VIPサービスのカレンダーが別にある。先に予約したスロットの5倍くらいの値段で、今日3月26日午後のスロットがあった。むしろほかにはいくら積もうとも空きがない。
この瞬間、走馬灯の如く一瞬でいろいろなことがよぎった。この数万円の申請料をケチった場合に失うのは目の前の3年ビザだけではなかった。これまで在英した7年半とその3年を累計すれば届くかもしれない永住権申請の要件がチラつく。この申請に失敗すればもちろん完全帰国よりほかない。この卒業生ビザを申請できるかどうかは、その先の人生をガラッと変えてしまう。
ほんの一瞬ののち、涙を呑んで支払った。目の前のスロットを逃して、この数万円より大きな額の申請料が無駄になることも怖かった。そして急いで支度をして、ビザのカードに載るのに耐えうる身なりを整えた。あまり食欲もなかったが、食べないと途中でブっ倒れるとも思った。でもなんだか冷蔵庫にろくなものもなくて、残りものを適当に調理してかっこんだ。
指紋センターでは笑ってしまうくらい丁重に扱われた。そりゃあVIP枠だからね。ところが写真を撮る段になって、前髪は全部上げてくれと言う。前回は前髪あっても大丈夫だったんだけどな…と思いながら、家で小綺麗にセットしたはずの前髪を雑にかきあげて写る羽目になった。もはや提出できるなら何でも良かった。VIP価格を支払っただけあって、オプションには「指紋と顔写真が確かに移民局に届けられました証明書」が含まれていて、センターをあとにして程なくメールで届いた。ご丁寧な装丁だったが、もし申請が却下されたときにこれがどれだけの力を持つものだろうかと考えると茶番にも思えた。とは言えどうにかなるだろうと楽観視する気持ちもあれば、申請がだめになってしまうかもしれないという心配に押し潰されそうになる自分もいた。
3月も末だというのに春の気配が遠く、わたしはやや小雨が吹き荒ぶイーストの街に放り出されて、半端にかきあげられた前髪がもっと荒れた。その足で数時間後には生徒さん宅に向かわねばならず、街で時間を潰す必要があった。東京はこんなとき、ターミナル駅に行けば駅ビルに本屋やブティックがあるものだが、ロンドンでは夕方の時間の微妙な暇つぶしに困る。カフェや商店は17時を過ぎると���タバタと閉まるからだ。こんなふうに東京を恋しく思うならなぜビザを取ろうとしている?? あてどなく歩くうち、そこからテートモダン(美術館)なら閉館前にたどり着けるかもしれないと思い立ちロンドン・ブリッジに足をかけるが、風があまりに強く冷たくて気持ちが荒んだ。
そして思った。ビザを申請できる立場自体がそもそもとてもラッキーで幸運なことなのに、どうしてこうもどんよりとしているのか、と。その段階では機会を不意にしかねない恐怖が大きかったのが1番の理由であろうが、ではいざこの申請がうまくいったとして、橋の上だけでもこんなに人間がいるこの大都会で、わたしは一体何者として生きていくんだろうと思ったらどんどん不安が増した。
でもそれは“未来に対する恐れ“である。世界のどこにいようとも、どんな立場にあろうとも抱くものであるから、ビザ申請の途中のロンドン橋の上でそれを問うことに特別の意味はないが、テムズ川と同じくらい濁った色をした空はどうしてもわたしの心象風景をシネマティックにさせた。
結局、美術館を歩き回る元気もないと悟ったところで、自分がその日あまり食べていないことに気づく。8年近いロンドン生活で自分の“コツ”は掴んでいた。極端なメランコリーは空腹と寒さを埋めてから向き合うべし。指紋センターに課金したあとで財布は寂しかったが、今日ばかりは致し方ない。テートの真下のチェーンのレストランで、早めの夕飯にシーザーサラダを頼んだ。なかなか注文が来なくて時間が心配になったところで、ななめのきれいな焼き色が入ったチキンの乗ったサラダが届く。わたしのために誰かが丁寧にグリルしてくれたんだなと思ったら、それが無性に嬉しかった。それほどまでに近頃まともな料理をできていなかったんだなと気づいた。
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翌27日朝。移民局からビザ申請が完了した旨連絡が届いた。実に期限の1日前である。何か月も前から心配してあーだこーだとあえて大袈裟に騒ぎ立てたのに、どうして最後にこうも走る羽目になったんだろう、と一度落胆の気持ちが差してくるが、入念な計算があったからこそぎりぎり滑り込んだのだと思い直した。
前回BRPカードを作った時は受け取りに苦労したのでその心配も頭を掠めたが、申請完了から約10日後に無事ビザが下りたのち、万全の体制で呼び鈴を待ち構えたわたしとは裏腹に、郵便���けにペラっと投函されたBRPカードを受け取った。なおeVISAにシステム移管のため、このカードは年内で無効となる。
手にしてしまったカードは、誰もが羨むものかもしれない。そうであるのに、わたしがこれを手に入れてわーいでもヨッシャーでもなかったのは、畏れが大きいからだ。これまでに数えきれないほど見送ってきた、この地を去った人々の背中と、ビザ+シーザーサラダ分さみしくなった財布と、卒業後の行く先への不安を思うと、素直な感想としては「どうしてわたしがまだイギリスに残っているのだろう」というところになる。
それとて自分が獲得したもので、恐縮するものでもない。でも、ビザを獲得できるかできないかは本当に紙一重のことで、努力だけでどうにかなる話でもない。自分がただただ恵まれていたということを痛感しては、茫然とする。この気持ちは畏れというのが一番近い。
どうせならもっと夢のある言い方をして、人の希望になるような見せ方をすべきかもしれない。論文が審査を通ってすぐに国際学会で発表しました、とか。卒業後もビザを獲得してロンドンで生活しています、とか。卒業の翌月から音楽の仕事100%で家賃と生活費を払えました(これがフリーランス音楽家にとってはひとつの大きな関門)、とか。
それらも事実ではあるけれど、わたしにとってのリアリティは、ロンドン・ブリッジの上で頬に感じた冷たい風だ。あのとき強い風に吹かれて足を踏ん張ったように、これから先もぐっと耐える場面はあるだろう。わたしはあの風を忘れたくない。
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yotchan-blog · 22 days
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