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#名残りの紅葉
sadaki-ino · 2 years
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「名残りの紅葉」大森寺さん《2》 【大森寺】(だいしんじ) 尾張徳川家菩提寺 ご近所の神社仏閣参拝 2022年12月12日(月) 名古屋市守山区弁天が丘809番地 まだまだ綺麗な紅葉が楽しめました。 https://youtu.be/fjas5Sq_m-o 【大森寺とは】大森寺ホームページより 『興舊山(こうきゅうざん)歓喜院(かんぎいん)大森寺(だいしんじ)は尾張二代藩主徳川光友公の生母である歓喜院(かんぎいん)(お尉(じょう)の方(かた))様の菩提と徳川家御一門を弔うため寛文元年(1661)に創建されました。 大森村を訪れた初代藩主徳川義直公に見初められ、二代藩主、光友公を産んだお尉(じょう)の方(かた)様の菩提を弔うことから、良縁・縁結び、子の無事成長・立身出世・健康長寿のご利益寺院として、また、学業・合格の祈願寺としても親しまれています。』 2022年12月12日(月)① https://youtu.be/Qpybwhn_XiE 2022年11月15日(火) https://youtu.be/wwdO3lNEbv4 #大森寺 #尾張徳川家菩提寺 #徳川光友公 #歓喜院 #大森・金城学院前駅 #金城学院大学 #ご近所の神社仏閣参拝 #紅葉 #名残りの紅葉 (大森寺) https://www.instagram.com/p/CmDx-jpvDsK/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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papatomom · 11 months
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2023.11.04(sat)
若狭路をぶらりドライブ。
「海のある奈良」「小京都」と呼ばれている小浜市。紅葉にはまだ少し早かったけれども、初めて訪れる寺院は見ごたえがあってよかった。
昼食は「うなぎ料理 徳右ェ門」さん。
他でもちょこちょこ食べたいものがあるかもっていうことで、ほどほどの量の「うな丼」を食す。肝吸いもついてます。三方五湖で獲れる鰻は、薄皮で身はふっくら絶品です。
家のお土産は、敦賀の「天清酒万寿店(てんせさかまんじゅうてん)」さんで酒饅頭、自分用に「小浜酒造」さんの「純米吟醸わかさ」を購入。
〇高野山真言宗 石照山 多田寺(御本尊:薬師如来)
この御本尊は眼病に効き目があるらしい。
〇比叡山天台宗 霊応山 神宮寺(御本尊:薬師如来)
3月2日に神宮寺の境内にある「閼伽井戸(あかいど)」で汲まれた水を、1.8km先にある「鵜の瀬」から流し(お水送り)、3月12日に奈良東大寺二月堂で「お水取り」が行われる。1300年以上続いている。
神仏習合のお寺でもある。
〇高野山真言宗 延宝山 萬徳寺(本尊 阿弥陀如来坐像)
高齢の名誉住職 田中寛孝(かんこう)さんが説明をして下さいました。
埋石式枯山水庭園が有名。庭園横の座敷の欄間には、小浜藩藩主 酒井忠貫(ただつら)公の水墨画が残されている。また高野山関連で有名な吉祥宝来の切り絵が3点ほど掲げられていた。写真は今年の干支の「兎」
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kohanakonohana · 2 years
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随分と暖かな本日。こないだ庭師さんに剪定してもらったその後を掃いたり、小枝を拾ったり。落ち葉はキノコを生むからね(謎理論)
午後の日陰に名残りの紅葉。
It's a quite warm day today. I swept and gathered bunches cut by gardeners several days before. I have to clean up autumn leaves in my garden because they grow mushrooms!(crazy theory) Some red maple leaves still remain.
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nostalblue · 4 months
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くわのみ
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新茶の収穫が終わり、周りの状況に気を配る余裕が出てくると、桑の木に赤い実が沢山ぶる下がっているのが目に入る。それはしばらくすると熟して濃い紫色に変わり、食用として収穫可能になる。
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春ばたけと冬ばたけの境界部分に自生した桑の木。こちらの写真は4年前の様子で、葉を剪定して野草茶に加工した記事を投稿した。
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こちらはその樹の2年後の様子。主幹の太さは2倍以上となり、先端の枝は大きく伸びさらに細かく分化。そこに実がつき始めているのが確認できたので、これは雌株だということがわかった。
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そしてこちらはそのさらに2年後の今年の様子。樹体はさらに高く大きく広がって、もう全景を写真に収めることも叶わないほどに。枝には沢山の実がぶる下がり、こちらの目を盗んでは野鳥が啄みにやってくる。
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ほとんどの枝は手が届かない高さになってしまっているので、脚立を置き、それを小まめに移動しながら熟した実をちまちまと収穫していく。本格的に収穫するのは初めてだが、程なくして果汁で手が紫色に染まってくる。
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それでも手が届かないところがあるので、枝ごとノコギリで切り落として収穫をするという荒技に! じつのところは伸びすぎた枝を剪定するのが主目的で、収穫はついでなのよ。いよいよ家屋に掛かったり、冬畑の日照を大きく妨げるようになっちゃったからね。
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で、気が付けば地味な作業服もカラフルに染まる。
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赤さが残る実には多少酸味もあるが、熟した実はとても甘く酸味はほとんど感じられない。特筆すべきは少しシャキシャキした食感。これが妙に心地よく、ベリー類の中では一番好きかも(私感)。果実の粒から毛のような物が出ているが、これは雌しべの名残で、これが長く顕著なのが山桑の特徴らしい。また収穫時に緑色の細い軸がくっついてきてしまうが、無理に外そうとすると実がグチャグチャになるので早々に諦めた。いずれも食べる時には全然気にならない(私感)。翌日の朝食はトーストにめいっぱい挟み、自家製紅茶と共に頂く。日持ちしないので生で市場に出回ることは少ないらしく、ある意味贅沢な食べ方かも知れない。
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敷地内では他にもあちらこちらで桑が自生しているが、まだ樹が低く枝も細く弱々しいのに結構な数の実を付けている株がいくつもあって意外性を感じる。こういう状態の時に思い切って刈ってしまえば後々ラクなのに、食用になると思うと何となくもったいない気がしてそのまま残し、結局ほとんど収穫しないまま太くなった枝をヒイヒイ言いながら伐採するという愚かなルーチンを繰り返す私。
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nanasinonanako-hf · 10 months
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CFferdinant in SS
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"I know your determination. I know your feelings. That's why I'm here. There's nothing we can't overcome together."
I have a fanciful imagination about Ferdinand recalling memories of CF up until March 5 years later, around the branching point of the SS route. The reason 18-year-old Ferdinand has a gentle expression is because within him exists the 23-year-old CF Ferdinand.
以下、日本語(Japanese) くだらない妄想
「君たちの覚悟を知っている 君の思いも知っている だから私はここにきた 我々に乗り越えられないことはないと」
SSルートの分岐点あたりで、5年後3月までのCFの記憶まで思い出したフェのヒュフェ妄想 18歳フェが優しい表情なのは、中に23歳の紅花のフェがいるからです
SSでただ1人、突如CFの1185年3月までの記憶を思い出してしまったフェル。フェルはは先生を帝国につくよう説得しようとしましたが、先生は全てを聞きながら神の方に味方し、他の生徒も先生についていき、ただ1人フェルだけが部下たちを連れて単身帝国に向かってしまいます。
ここで注意していただきたいのが、フェル君あくまでもCFの5年間のの記憶を思い出しただけということです(SSを思い出したわけではない)フェルが全ルート記憶を思い出した場合、先生に逆らってまで帝国につくかは分かりません。
主従は本来の若い18歳のフェからの、あまりの精神面の変化とあまりの冷静さに、エデ様はフェルがすでに自分の力量を正確に測っていることで怪しみますが(CFにてエデ様の支援Bのだる絡みを経験してるため、ここでは発生しない)落ち着いた人柄と的確さでフェルは逆に信頼を勝ち得ます
エデ様には主君として絶対の信頼を、ヒュには信頼と慈愛の目を向けます。精神的には23歳という年上のフェは、まだ年若い2人を全力で支えるわけです。ヒュはそれに不可思議な感覚になり、フェをさらに怪しむ(2回目)
ヒュはフェを当然怪しみ危険人物とみなし一度殺そうとしますが、フェはヒュを絶対的に信頼してる為何をしても動じず、逆にヒュは動揺し殺せなくなるわけです。ヒュは少しずつ、フェを信じてみることにし、原作より早いスピードで仲良くなるわけです。
ヒュフェ視点では、CFのヒュフェは恋人同士でしたがフェは何も告げないわけです。フェが帝国に来たのはあくまで「帝国の方が正しく、帝国の正義のため」であって「ヒュの恋人である」という個人的な理由ではない為、秘めたままにするわけです。
さらにCFフェは5年間3月の、一兵卒から一将にのし上がった苦労の記憶がある為、部下の立場ながらも皇帝に助言もある程度でき(流石に先生とまではいかないが)、兵の使い方を知り尽くしているため、通常のSSより教会がやばいことになります。
劇的な変化には見えなくても、フェが連れている兵だけはかなり生還し、圧倒的に生存確率が底上げされる感じです。故に帝国の軍力のHP、守備、回避率が徐々に上がりなかなか削れず教会は苦労するという感じです。
5年後より早い時点で、ヒュフェは前世のように恋人同士になりますが、フェは前世の経験があります。ヒュはフェが経験者であることに驚きを隠せない様子でしたが、そこでようやく前世で恋人同士であることを告げます。
なぜ早く言わなかったんだと責めるヒュですが、国についたのは個人的な理由ではなく大義であることを証明したかったということを告げるフェ......そこでヒュもまた.....前世でのフェとの記憶を思い出すわけです.....
5年後の先生が目覚めた日から、帝国の戦局は一気に悪化します。ヒュはフェを個人的な感情の上でも理性的に考えても戦力として失いたくないですが、フェは君の遺言など聞きたくないのと、軍師としてヒュは失うわけにはいかないと、当たり前のようにヒュよりも先に死ぬ覚悟をしています
そして3月、フェと他キャラ、ミル大橋で戦うわけです。先生がいた為教会が勝ちますが、フェも前世で戦いを知り尽くしていた為、黒鷹学級の全員orそれ以外の名のついたキャラ全員(教会他スカウト組)という、大量の犠牲者が出ました。
最終的にはやはり先生がいるため教会が勝ち、帝国はかなわず滅びるわけでしたが、先生にもフェを失った主従にも、どちらにも大きな傷を残したのでした。
フェがヒュに遺した言葉、「君たちについて本当に良かった」END
くだらない妄想に付き合っていただき、ありがとうございました!
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longgoodbye1992 · 5 months
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畔の蕎麦屋
家から約四十分くらい車を走らせた所に、山の中に小さな池がいくつも点在する観光スポットがある。有名なのはその中の一つ、鮮やかな青緑のインクで出来ているような青い池。先日たまたま見たクイズ番組でも出題されていた。
そこから少し離れた所にある、著名な訳でもない池の畔に蕎麦屋が出来たと知ったのは、去年の晩秋だっただろうか。その場所は冬になると立ち入れない所だから、行ってみようと思った頃にはもう時期を外れていた。
なんてことの無い初夏の晴れた土曜日の午後にそこへ行ってみる事にした。
蕎麦屋と言ってもメニューには珈琲やら甘味があるとの事で、敢えて昼を避けて十五時を目安にそこへ向かった。
海沿いの道を走り水面の乱反射する日差しに目を細めながら車を走らせる。海から少し離れて山中のくねくねとしたカーブを七つ越えた所にその店がある。
建物の前にメニューや案内が書かれてある。古い旅館か店をリノベーションしたのだろう。新しい店という雰囲気ではなく、元々の店を少し改装したのかというくらいの、懐かしさを感じる外観だった。
中へ入ると右手側に池が見える。その窓辺に机と椅子が置かれて客席になっている。
奥へ進むと下駄箱がある。そこまで進むと小上がりの向こうから店主と見られる女性が現れた。
「お食事ですか、お飲み物ですか」
「飲み物です」
「そちらの席か大広間にどうぞ」
窓際の椅子席も日向でよかったが、せっかくなので大広間を選ぶことにした。
靴を脱いでスリッパに履き替える。旅館の名前が印字されていた。やはりここは元々旅館だったらしい。何度も来ている所だったが、ここが旅館だったということを初めて知った。
女性の後を付いて大広間へ行く。
スリッパを脱ぎ大広間へ入ると、目の前には広い広い畳の部屋と大きな窓があり、その向こうには池と緑豊かな森が広がっていた。
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ピークを過ぎた頃なのだろう。他に客はいなく、好きな場所を選ぶことが出来た。
入って正面と右側に池が見えたので、一番奥の角に座った。
珈琲と蕎麦茶のプリンをオーダーする。テーブルの上にガラスの器があって、ここにお金を置いて会計をするそうだ。
蕎麦茶を啜りながら窓の外をぼんやり眺める。
揺れる湖面に青々とした木々。それをフレームのように切り取る、大きな窓のサッシが実に芸術的だ。
網戸越しの風が涼しい。ぽちゃりぽちゃりと魚が跳ねる音が聞こえる。スマートフォンを開くと電波は微かに入る程度で、じっくりのこの時を堪能出来る環境だった。
本棚を見つけたので覗いて見た。川上未映子やよしもとばなな、江國香織など女性作家の本が多く、きっと店主の好みなのだろう。その中にあった寺山修司が集めた名言集を借りた。
席に戻ってパラパラとめくっていると一つ気になる言葉があった。
「死んだ女より、もっとかわいそうなのは、忘れられた女」マリー・ローランサン 鎮静剤
別にこれは女性に限った事ではない。
さて自分は出会った人たちの何人の記憶に残っているだろう。
そんな事を考えていると珈琲と蕎麦茶プリンが運ばれてきた。
夏でも個人経営の喫茶店では温かい珈琲を飲むことにしている。冷たい珈琲は業務用の注ぐだけのものがあるが、温かい珈琲は確実に店の人が淹れてくれるからだ。
プリンのカラメルソースが別の入れ物で来たのが嬉しかった。
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まずは一口珈琲を飲む。苦みは少なく仄かな酸味がある。万人受けする味でプリンにも合いそうだ。
プリンをカラメルソースをかけずに一口食べる。そば茶の素材の味が生かされていて甘みはそれほど強くない。優しい味だった。
少しずつカラメルソースをかけて食べ進める。美味しくてすぐに食べ終わってしまった。
閉店時間まで四十分余り。ぼんやり外を眺めたり、この文をまとめたりしていると、あっという間に時が流れてしまった。
次は蕎麦を食べよう。そう決めて帰宅の途に着く。
そして秋の紅葉が今から楽しみになった。
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hachikenyakaiwai · 1 year
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【かいわいの時】元禄六年(1693)八月十日:井原西鶴没 (大阪市史編纂所「今日は何の日」)
西鶴は元禄6年(1693)に亡くなったが、その墓は長い間不明であった。明治20年を前後するころ誓願寺境内で発見され再興されたという。発見者についてはいくつか説があり、幸田露伴であるとも、朝日新聞記者の木崎好尚であるともいう。
(1693年)下山鶴平・北條団水、西鶴の墓を建立 墓石は位牌型の砂岩製のもので、「仙皓西鶴 元禄六癸酉年 八月十日 下山鶴平 北條団水 建」と刻まれている。この墓碑を建立した下山鶴平については、西鶴の版元ではないかといわれている。北條団水は京都生まれの文人で、橘堂、滑稽堂と号した。西鶴を慕って来阪し、西鶴の死後7年の間、鑓屋町の庵を守ったことで知られている(大阪市指定文化財)。
(1801年)太田南畝(蜀山人)、書肆山口屋の案内で西鶴の墓に参る 寺町をすぎ 誓願寺に入る、甃庵中井先生の墓あり《略》 此寺に西鶴か墓ありと書肆山口屋かいへるによりて墓はらふ下部にとふに志らず、つらつら墟墓の間を見るに一ツの石あり、仙皓西鶴とゑれり。右のかたに元禄六癸酉年八月十日としるし左の方に下山鶴平北条団水建と有り。也有翁の鶉衣にも、作文に名を得し難波の西鶴は、五十二にして世を去給ひ「秋風を見過ごしにけり末二年」といふ句を残せりとかけり。げに八月に終りぬるには折からの句成へし(太田南畝)。『葦の若葉』四月廿一日条より。句読点後付け。ママ。
(1802年)滝沢馬琴、太田南畝に紹介された田宮盧橘の案内で西鶴の墓に参る 西鶴が墓は、大坂八町目寺町誓願寺本堂西のうら手南向にあり。〈三側目中程〉七月晦日蘆橘と同道にて古墓をたづぬ。はからず西鶴が墓に謁す。寺僧もこれをしらざりし様子なり。花筒に花あり。寺の男に何ものが手向たると問ふに、無縁の墓へは寺より折/\花をたつるといふ。
棹石高サ二尺余ヨコ一尺 台石高七八寸 大字 総高サ二尺八九寸
元禄六 癸酉年八��十日 仙皓西鶴 右ノワキ 下山鶴平 北条団水 建
團水は西鶴が信友なり。西鶴没して後、團水京より來り、七年その舊廬を守れり。そのこと西鶴名殘の友といふ草紙の序に見へたり。追考 難波鶴に云。西鶴は井原氏、庵は鑓屋町にあり(滝沢馬琴)。『羇旅漫録』より。句読点後付け。(写真参照)
(1889年1月)幸田露伴、誓願寺無縁墓にある西鶴の墓を探し当て、卒塔婆を立てる 露伴は住職に供物を出して、 お墓をちゃんとしてほしいと言い、香を焚き、水を手向け、卒塔婆を立てて去るわけです。それが、明治22(1889)年の1月のこと。その卒塔婆には、「元禄の奇才子を弔ふて 九天の霞を洩れてつるの聲」と書いた(肥田晧三)。「上町台地から本をめぐる時空の旅へ」『上町台地フォーラムvol.9』2018より。
(1889年8月)尾崎紅葉、西鶴の墓を訪れ、卒塔婆を残す 紅葉も、同じ明治22年の8月に西鶴の墓を訪れ、「為松寿軒井原西鶴先生追善」と書いた卒塔婆を残した(肥田晧三)。
それではなぜ、この二人は西鶴を知ることになったのか。露伴は帝国図書館、今の国会図書館にあった西鶴の本を随分と勉強したんです。また当時、東京に淡島寒月という人がいましたが、彼は時代に先駆けて西鶴を評価し、自身でも作品を手元に持っておりました。その寒月と仲が良かったのが露伴で、彼の西鶴作品を借りて徹底して読んだわけです。紅葉も、露伴に遅れてですが、やはり淡島寒月から西鶴の作品を教えられたんです(肥田晧三)。
(1889年11月)木﨑好尚、読売新聞に「西鶴の墓」を寄稿 大阪朝日新聞の青年記者だった木﨑好尚は、後に頼山陽や田能村竹田の研究で知られるようになる人です。この人が、明治 22 年にやはり誓願寺に行くわけです。すると新しい卒塔婆が二つ西鶴の墓に立てかけてある。一つは幸田露伴、一つは尾崎紅葉。それで、大阪の青年がびっくりするんです。東京の輝かしい新進の作家二人がここに来ている!大阪の自分たちはちっともお参りせんのに、あの二人が西鶴の墓にお参りしていると。そして 明治22年11月に、東京の読売新聞に「西鶴の墓」という題で書く んです(肥田晧三)。ママ。木崎が朝日新聞に入社したのは明治26年(1893)。
(1889年11月)幸田露伴、「井原西鶴を弔ふ文」を雑誌『小文学』に発表 露伴もまた、「井原西鶴を弔ふ文」という題で、明治22年11月に雑誌『小文学』に発表します。「今や露伴幸に因あり縁ありて、茲に斯に來つて翁を吊へば、墓前の水乾き樒枯れて、鳥雀いたづらに噪ぎ塚後に苔黑み、霜凍りて屐履の跡なく、北風恨を吹て日光寒く、胸噫悲に閉ぢて言語迷ふ。噫世に功ありて世既に顧みず、翁も亦世に求むるなかるべし。翁は安きや、 翁は笑ふや、唯我一炷の香を焚き一盞の水を手向け、我志をいたし、併せて句を誦す、翁若し知るあらば魂尚饗。九天の霞を洩れてつるの聲 露伴」(肥田晧三)。
(1890年5月)尾崎紅葉、「元禄狂」を「国民新聞」に寄稿 西鶴に心酔しているということを書き、その中で、「明治二十二年八月、大阪八丁目寺町誓願寺に、 西鶴翁の墓に詣でゝ」と記し、「ででむしの石に縋りて涙かな」という句も詠んだ(肥田晧三)。
木﨑好尚を除き、全員、江戸っ子です。
(写真)「仙皓西鶴」『壬戌羇旅漫録 2巻 [3]』1802-1812(東京大学学術資産等アーカイブズポータル)より。 注記:写本 注記:目首の書名: 著作堂羇旅漫録 注記:題簽の書名: 羇旅漫録 注記:本文末に「享和二壬戌年八月廾四日筆同十一月朔日挍合畢 曲亭瀧澤觧戯記」とあり 注記:[跋]末に「享和二壬戌年冬十一月二日 著作堂馬琴再識」, 「壬申春日 曲亭主人書」とあり
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chibiutsubo · 10 months
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#日常
先週の金、土、日と仕事がとにかく忙しくて、気付けば3日間で4日分ぐらいの労働時間になってしまいました。最近はあまり無茶な予定を組んでいなかったこともあり、家に帰って本当に寝るだけの日々とか、久々にやったなぁと。
そして公休日の月曜、前の職場の同僚と一緒に付知峡に紅葉を見に行く約束をしていたので、41号からの東白川経由で付知までドライブしてきました。で、ランチして紅葉見て帰途に着き、同僚を犬山駅まで送り届け、少し時間があったので、直帰せず犬山のスタバで少しだけ本を読んで帰ることにしたのですが。
窓際の一人席に座って、ジンジャーブレッドラテを飲みながら本を開き、段々と眠気が忍び寄ってきて内容が頭に入らなくなってきたなーーーー…………と思っているうちに一瞬寝落ちていたらしく、テラス席に座っていた女子高生たちの甲高い笑い声ではっと目が覚めました。そこで、あぁ疲れてるな、何かはっきりと疲れてるな、と思って本を閉じてそそくさと帰宅。
考えてみたら木曜も三重まで出掛けていて、慣れない名古屋高速をオロオロしながら運転する羽目になっていたので、三重からの残業まみれ×3日間、付知と来たらそりゃあまあ、疲れるよな。いや、付知はランチして喋り倒してなので、精神的にはリフレッシュできてるんですが。体力が追いついてないんじゃ〜!と、猫を膝の上に抱えながらゴロゴロする夜です。
猫は毛替わりがようやく終わったのか、抱っこしても毛まみれにならず(それなりには付くけど)、ふわふわ冬毛で大層気持ちの良い��体になりました。湯たんぽに最適!但し噛み付く。
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myonbl · 2 months
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2024年7月28日(日)
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SOU・SOUから足袋下2足と手ぬぐいが毎月届く頒布会、葉月号が届いた。今月のテーマは<彩々>
山のような 雲のような 花のような 何かが ぐんぐん 登っていく 鮮やかな光の輝きのようでもあり 見る人に いろんな想像をさせる
もちろん色や柄もそうなのだが、デザイナーによる解説も楽しみの一つ、言葉遣いの勉強にもなる。しかしこのシリーズも、ずいぶん長い付き合いになったなぁ。
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3時45分起床。
日誌書く。
二度寝。
5時30分起床。
洗濯一回目、布団カバー・シーツ・タオルケット。
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朝食。
珈琲。
洗濯2回目、レギュラーもの。
8時30分、奥川ファームから臨時便、餅を送っていただいた。
洗濯3回目、タオル類を入れ忘れたので。
ツレアイは知人の展覧会へ。
私は大丸へ、さんだかん燻製工房出店中、ハム・ベーコンを仕入れる。
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息子たちのランチは素麺、その後帰宅したツレアイと残りもので🍺。
録画番組視聴、名探偵ポワロ。
第3話「プリマス行き急行列車」/ The Plymouth Express オーストラリアの鉱山王ハリデイが、娘がつきあっているフランス人伯爵の調査を依頼。かつてハリデイは金目当ての伯爵と娘の仲を裂き、娘を名門イギリス人へ嫁がせたが、この男も浪費癖があった。強制的に離婚させるつもりのところへ伯爵が再接近したのだ。
第4話「スズメバチの巣」/ Wasp's Nest 彼は自分の婚約者モリーをポワロに紹介、ポワロは戯れに紅茶占いをするが、彼女のカップには彼女自身の口紅と一緒に別の口紅がついていた。会場にはモリーの元婚約者で今は良き友人というクロードも参加していたが、三人の関係にポワロは暗雲を予測する。
ツレアイは買物へ、私は午睡。
大量の洗濯物を取り込む。
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夕飯、ベーコンと茄子の醤油風味・骨付きハムと玉ねぎのマリネ・酢卵・キュウリのしょうゆ漬け・レタスとトマト。
録画番組視聴、名探偵ポワロ。
第5話「マースドン荘の惨劇」/ The Tragedy at Marsdon Manor ポワロとヘイスティングスはロンドンから遠く離れた村、マースドン・リーに来た。ホテルの主人から、複雑な殺人事件を解決してほしいと依頼を受けたのだが、実はそれは主人が書いた小説の話。怒ったポワロは帰ろうとするが、マースドン荘の主人が急死する。
第6話「二重の手がかり」/ The Double Clue ジャップ警部が浮かない顔でポワロのもとを訪れる。イギリス各地の貴族の邸で発生した3件の宝石強盗事件の解決の糸口が掴めず、クビさえ危ないというのだ。待つしかないというポワロの言葉通り、第4の事件が発生。エメラルドのネックレスが盗まれる。
最後のものは録画状態が悪く、再放送時に録画し直そう。
風呂の順番を待つ間にダウン。
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歩数は足りないが、辛うじて3つのリング完成。
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respectjaco · 9 months
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寒い日の過ごし方
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今年はいつまでも暑い日が 続いてきたが、 11月を過ぎた頃からは さすがに冷え込んできた。 ようやく外をジョギングできる。 週末の午後、いつもの公園に行き、 腹の脂肪を燃焼すべく走り始める。 銀杏の大木は今だに 艶やかな黄々しさを魅せていたが、 紅葉はもう落葉に変わりつつあり 冬の気配を感じさせていた。 冷たい筈の北風も熱く火照った身体を 程よく冷やしてくれるので 寒さよりも心地良さを感じる。 だから今の時期は外の方が ジムで走るよりも長く走れる。 夕方の4時から5時にかけては 陽の落ち方が尋常でなく早い。 僅か1時間の間で昼から夜へと 空の色が藍色に変わっていく。 夕闇の中で頬を撫でる風だけが ずっと変わらず気持ちいい。 そうは言っても 足元も見えないくらい暗くなったので さすがに家路についた。
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私の家は慢性的に散らかっている。
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とにかく買ってから 読んでない文庫本が沢山有って 幾つもの山を形成しているのだ。 腹が出てくるまでは読書と音楽鑑賞が 私にとっての至上の趣味だったが、 しばらく興味が遠ざかっていた。 それを少しずつでも片付けたいので 最近は家に居る時、 意識して本を読むようにしている。 今は片岡義男のエッセイ集 『すでに遙か彼方』を読んでいる。 だいぶ前に古本屋で見つけた 昭和60年の初版本だ。 雪印のアイス『リーベンデール』の 広告のしおりが時代を感じさせる。 すっかり陽に焼けて薄っすらと 茶色くなった頁をめくると私は 不甲斐無い今の時間を抜け出して、 まだ将来を見据えて 上を向いて生きていた 若かりし頃の時代に 逃避行をしている。
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【蛇足】 2023年は13篇の乱筆を 描くことができた。 期せずして乱筆活動復活の年になった。 その理由はTwitterがバカCEOのせいで 実名登録制になるかもしれない という報道を観て、 昨年末にMastodonの垢を作って そのまま放置していたのだが、 使わないのは勿体無いと思って 乱筆の元ネタになりそうな さらに短い乱筆を そこに書き残すようにしていたのだ。 そしたら執筆活動が 久々に楽しくなってしまった。 報われない人生だがこんな感じで まあまあ楽しく生きていられるのを 先ずは良しとしよう。 それでは皆さんも良い年を!w
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sadaki-ino · 2 years
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「名残りの紅葉」が大森寺さんで楽しめました。 【大森寺】(だいしんじ)《1》尾張徳川家菩提寺 ご近所の神社仏閣参拝 2022年12月12日(月) 名古屋市守山区弁天が丘809番地 https://youtu.be/Qpybwhn_XiE 山門から中門への参道の紅葉がなかなか綺麗で最後の紅葉を堪能できました。 山号:興旧山 宗派:浄土宗 本尊:阿弥陀如来 創建年:1637年 開山:信誉上人 開基:徳川光友 正式名:興旧山歓喜院大森寺 【由緒】 寛永14年(1637年)、尾張二代藩主徳川光友が、生母乾の方(歓喜院)の菩提を弔うため、江戸小石川の伝通院内に創建した。 寛文元年(1661年)、乾の方の出身地である大森 に移転した。裏山の墓地に歓喜院の墓がある。 中門に掲げられた山号の額は光友の筆である。 明照殿は、二十世住職で東海中学校初代校長でもあった武田芳淳が建中寺塔頭正信院の本堂を移築して旧校舎としていたものを、再び移築したものである。 明治8年(1875年)の火災で、創建以来の建物は消失したが、平成26年(2014年)に本堂を再建した。 2022年11月15日(火) https://youtu.be/wwdO3lNEbv4 #大森寺 #尾張徳川家菩提寺 #徳川光友公 #歓喜院 #大森・金城学院前駅 #金城学院大学 #ご近所の神社仏閣参拝 #紅葉 #名残りの紅葉 (大森寺) https://www.instagram.com/p/CmDsXhZP6Br/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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bearbench-3bun4 · 2 months
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「虚無への供物」中井英夫 0041
序章
4蛇神伝説
バア「アラビク」で、 久生と亜利夫、そして藍ちゃんの会話のつづきです。
この東京で、アイヌを見かけたという藍ちゃんに 久生と亜利夫は、それぞれ、サンドイッチマンや花やしきでの出し物を疑います。
日本堤を藍紋様の晴着をきたアイヌが闊歩しているのは、想像できないのでしょう。 たしかに滑稽な感じはしますね。
ところで、戦前あった日本堤が、戦後、台東区に含まれたそうで、 まさに、バア「アラビク」は、日本堤にあるということのようです。
藍紋様の晴着とは、あの独特のアイヌ紋様を指しているのでしょうが、 晴着という表現がピンときません。 一般的に、ふだんとは違うハレの日に切る服を言うのだと思いますが、 それを着ているということは、例のアイヌ人にとって、 まさにハレの日だと言うことを言いたいのでしょうか?
単にそう表現したとも考えられますが、 やはり、何か、ハレの日にふさわしい出来事でもやったという意味にも取れますね。
しかし、藍ちゃんは、見かけたのは2度めだというし、ホヤウカムイの使いだといいます。 久生は多少興味があるようにホヤウカムイについて訪ねます。 ホヤウカムイは、洞爺湖の蛇神で、それは現実の恐怖から生まれたものでアイヌの伝説の一つだそうです。
アイヌ語でシャック・ショモ・アエップ(“夏、口にだしてはいけない”)が“怖い蛇の神様”と同じ意味に使われるくらい、 蛇を恐れているそうです。
ちょっと調べたところアイヌ語では、 シャックは“夏” ショモは“~しない” アエップは“食べ物や餌(エ)”なんかだそうです。 間違っているかもしれませんが、 大雑把に訳せば、「夏、食べない」「夏、口にしない」というところでしょうか? “夏、口にだしてはいけない”とは、少しニュアンスが違う気がしますが、そういう言い回しもあるのだと言われればそうかもしれません。
蛇の出てくるユーカラは、夏場に頼んでも、決して歌ってくれない。 ユーカラは、アイヌ語では叙事詩を指すそうですが、単に歌を指す言葉でも使われるみたいです。 蛇の出てくる歌(そんな歌があるんですね)は、決して歌わないということでしょう。
久生も興味が湧いてきたのか、北海道旅行に言ったときの友人に聞いた話をします。
夏になると、洞爺湖の饅頭(まんじゅう)島から中島へ蛇が群れになって泳いで渡る。 調べてみると、饅頭島はヘビ島と呼ばれるほどに蛇が多い島だそうです。 実際に、中島へ蛇が渡るのかどうかは知りませんが、想像すると確かに怖い光景かもしれません。
純粋なアイヌが残っているとしても、 ホヤウカムイという蛇神は、 五弦琴(トンコリ)をならし、氓び(ほろび)の歌の中にでてくる話なのだろうといいます。
アイヌと氷沼家に 因縁があると思わせてますね。
ところで、 五弦琴(トンコリ)は、樺太アイヌ起源の楽器だそうです。 ハープ等と同じく基本的には弦の数(つまり五音)しか音が出ない。 かなりシンプルな音なんでしょうね。
氓び(ほろび)の歌はアイヌの歌にあるのでしょうが、 この氓びの意味がよくわかりません。
滅びるや亡びると同じような意味だと見て取れますが、 実際に、検索してみると民としての意味合いが強いようです。
つまり、民が亡びるというような解釈すればいいのでしょうか? それは、すなわちアイヌが消滅するということに繋がつのかもしれません。
アイヌを恐れているのは、 藍ちゃんの従兄弟同士であり、 亜利夫の学校の先輩後輩に当たる氷沼蒼司の弟、紅司(こうじ)であると。
それを引き取って、久生は、氷沼家とアイヌの因縁を探ろうとします。
アイちゃんの曽お祖父ちゃんの誠太郎(せいたろう)が、開拓使の役人で、クラーク博士の通訳をしていた。 氷沼家は曾お祖母さんの実家だとのこと。
なんと、 ここでw.s.クラーク博士の名前が出てきます。 そうです。あの“ボーイズ・ビー・アンビシャス”の人です。
明治三年(1870年)以降、アーマスト州立農業学校時代に、クラーク博士と誠太郎が知り合ったことになっています。 アーマスト州立農業学校は、厳密には、マサチューセッツ大学アマースト校のようですね。
で、同行帰朝したと『クラーク先生とその弟子たち』(大島正健著)にあるが、 これは間違いで、明治七年(1874年)に誠太郎が先に帰国し、 北海道・サハリン(樺太)の開拓のために設けられた開拓使に、出仕しています。 青山試験場勤務から、明治九年の博士の来日とともに、札幌勤務となっています。
『クラーク先生とその弟子たち』の中身までわかりませんが、同行帰朝ということは、 国命によって外国に使者として出かけたものが帰国するということなので、誠太郎は、国の仕事をしていたことになります。
そのクラーク博士が翌年明治十年(1877年)帰米したあとも、内村鑑三(うちむらかんぞう)や新渡戸稲造(にとべいなぞう)を北海道に送り込んだりと勢力的に働いていたはずなのに、 誠太郎によるアイヌ狩りともういうべき残虐な行為が、黒田清隆(くろだきよたか)の耳に届き、 長崎出張申シ付ケ候事と明治六年(1873年)に官営となった高島炭鉱へ追いやられてしまいます。
その後、誠太郎は、失踪。最後は、狂死したと言う連絡が、函館の実家に入ります。
と、 ここまで、実在の人物名を挙げて詳細に述べられると、現実の話のような気にさせられます。 うまく現実と絡めて盛り上げていますね。
その後、藍ちゃんのお祖父ちゃんの光太郎が昭和9年3月21日の函館大火でなくなったり、 長女の朱美(あけみ)が広島の原爆で、 洞爺丸の事件で長男の紫司郎と三男の薫三郎が亡くなったりと、 氷沼家では、ろくな死に方をしないと言われるようになります。
結局、目白にいるには、蒼司とその弟の紅司それに藍ちゃん それから同居人の叔父橙次郎(とうじろう)夫妻ということになります。
ここまでで、アイヌとの因縁が匂わされると、 ミスリードさせようとしてる感じがプンプンです。
あとは、主な登場人物が出てきましたね。
氷沼蒼司(ひぬまそうじ) 氷沼紅司(ひぬまこうじ) 氷沼藍司(ひぬまあいじ) 橙次郎(とうじろう)夫妻
光田亜利夫(みつだありお) 奈々村久生(ななむらひさお)
つづく。
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oniwastagram · 2 years
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📸古知谷 阿弥陀寺(京都市左京区) Kochidani Amidaji Temple Garden, Kyoto ——京都・大原の隠れた紅葉の名所🍁は別天地の様なロケーションも絶景…天然記念物指定の京都屈指の紅葉の古木“古知谷のカエデ”を借景とする現代の枯山水庭園。 ———————— 冬は終わりつつあるけど、まだ紹介できてない紅葉の京都の庭園の写真があるので今週はそちらを。 「古知谷 阿弥陀寺」は京都の奥座敷・大原の北に位置する古知谷の山間部に位置する浄土宗知恩院派の寺院。参道には樹齢800年以上とも言われる楓が残り、『古知谷のカエデ』が京都市指定天然記念物にもなっている紅葉の名所。現代に作庭された枯山水庭園もあります 京都・大原の里の中心部(大原バス停〜三千院)からは若干距離もあり(約3km)、2019年に初めて大原を訪れた時には行き逃していた寺院。2022年秋に初めて訪れました!自然の紅葉も良かったけれど、まさに別天地のようなそのロケーションが凄かった……。 ▼他の写真や解説のつづきは @oniwastagram のプロフURLかこのURLから。 For more photos and commentary, please visit @oniwastagram 's profile URL or this URL. https://oniwa.garden/konchidani-amidaji-kyoto/ 京都・古知谷 阿弥陀寺は☟ https://oniwa.garden/konchidani-amidaji-kyoto/ ———————— #japanesegarden #japanesegardens #japanesearchitecture #japanarchitecture #kyotogarden #kyotoarchitecture #zengarden #landscapedesign #beautifuljapan #beautifulkyoto #jardinjaponais #jardinjapones #japanischergarten #jardimjapones #kyototrip #kyototravel #kyototemple #庭院 #庭园 #庭園 #日本庭園 #京都庭園 #京都旅行 #京都観光 #枯山水 #枯山水庭園 #karesansui #紅葉の名所 #京都紅葉 #おにわさん (阿弥陀寺) https://www.instagram.com/p/CpgiFIGvz9k/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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ari0921 · 6 months
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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和六年(2024)3月15日(金曜日)弐
   通巻第8176号
 明日(3月16日)、北陸新幹線が金沢から敦賀へ延長
  福井県は観光と経済活性化の期待に湧いている
*************************
 北陸新幹線は日本海沿岸の糸魚川(新潟)から富山、金沢を通り、若狭と越前の境にある港町・敦賀まで延長される。『古志の国』の再現だ。
敦賀駅は新幹線駅で最高位の三階建て、駅前は商店街が整備され、あちこちに歴史的な遺物やら銅像、記念館がならんで観光客を待ち受けている。気比神宮から金ケ崎城跡は後醍醐天皇の御代の激戦地、信長潰走のおりは明智光秀が鉄砲隊を組織してみごと殿軍を務めた。
松原海岸から南へ歩くと、水戸藩の武田耕雲斎以下の天狗党を祀る松原神社、このあたりに渤海使をむかえた迎賓館があった。敦賀は観光資源に恵まれているのである。
 筆者、古代史最大のミステリーのひとつである応神天皇、そして継体天皇の取材を数年つづけているため何回も訪れてはいるが、訪れるたびごとに新しい発見がある。
記紀では応神天皇が武内宿弥に連れられて禊ぎに気比神社へ赴き、地元の神と名前を取り替えた。なぜ? 
気比神社は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀るが、猿田彦と竹内宿彌もちゃんと祀られている。敦賀の応神を祀る神社のほぼすべてで、武内宿彌を祀っている。その謎を解明するために現地の稗史を調べているのです。
 継体天皇は三国に育ち、坂井市にある『天皇宮』に大和朝廷からの使者、大伴金村と物部荒鹿火を迎えた。その近くには執務した高向宮跡がある。また謡曲「花かたみ」の舞台と想定されるのが越前市の「花かたみ公園」と味真野神社。そこから奥へぐんと這入り込むと五星(ごおう)神社がある。応神から継体までの五代をまつる神社だ。このあたりが「文室」(ふむろ)とよばれるのは継体天皇の学問所があったとされるからだ。
 脱線すると能の『花かたみ』は各地の能舞台で演じられるが、ことしは3月17日に長野で催される。残念ながら筆者、先約とかさなって鑑賞に行けない。越前郊外の味真野神社境内には、この能を再現する継体天皇と越前妻とが並ぶふたりの銅像が建立されており、王冠は金で輝いていた(それにしても駅から遠いです)。
脱線すると雇ったタクシーは日産��V。『タクシーの電気自動車は初めて』というと運転手は「寒いから暖房を入れると電池の消耗がものすごい」と愚痴をこぼした。
 新幹線のはなしに戻すと福井駅前には「ふくみち」として商店街が整備され、武生駅は従来線駅よりかなり遠い田圃の真ん中に「越前たけふ」駅が新装されていた。
 沿線にはカメラマンがズラーリ、最後の従来線の車両と新幹線の一番列車を撮影しようと全国から鉄道ファンがあつまって壮観だった。彼らには応神、継体天皇に興味はない。
 さて糸魚川、富山(射水)、伏木、倶利伽羅峠、加賀の小松、そして坂井市の称念寺、敦賀気比神宮と、それぞれに芭蕉の句碑が建立されている。『奥のほそみち』は『古志のほそ道』であったというのが筆者の持論である。(拙著『葬られた古代王朝・高志国と継体天皇』、宝島社新書を参照。古志は「高志」、または「越」とも書きます)。
  ▼
((( 演目事典より )))
越前国味真野(現在の福井県越前市味真野町周辺)に、応神天皇の子孫である大迹部(おおあとべ)皇子(男大迹皇子、男大迹邉皇子とも表記)が住んでいました。皇子は武烈天皇より皇位を譲られ、継体天皇(450~531)となり都へ旅立ちました。帝は味真野にて寵愛していた照日の前に使者を送り、手紙と愛用した花筐(はながたみ:花籠のこと)を届けます。出先で使者を迎えた照日の前は、天皇の即位を喜びながらも、突然の別れに、寂しく悲しい気持ちを抑えられず、手紙と花籠を抱いて、自分の里に帰りました。
大和国玉穂の都(現在の奈良県桜井市池之内周辺)に遷都した継体天皇は、ある秋の日、警護に当たる官人らを引き連れて、紅葉見物にお出かけになりました。そこに照日の前と花籠を持った侍女が現れます。彼女は天皇への恋情が募るあまり、狂女となって故郷を飛び出し、都を目指して旅をしてきたのでした。狂女・照日の前が、帝の行列の前の方に飛びだすと、官人が狂女を押し止め、侍女の持つ花籠をはたき落します。照日の前はこれをとがめ、帝の愛用された花籠を打ち落とす者こそ狂っていると言い、帝に逢えない我が身の辛さに泣き伏してしまいます。
 官人は帝の命令を受けて、照日の前に対し、帝の行列の前で狂い舞うように促します。照日の前は喜びの舞を舞った後、漢の武帝と李夫人との悲しい恋の顛末を物語りつつ、それとなく我が身に引き寄せて、帝への恋心を訴えます。
帝は、照日の前から花籠を受け取ってご覧になり、確かに自分が愛用した品だと確認し、狂気を離れれば、再び以前のように一緒になろうと伝えます。照日の前は、帝の深い情愛に感激し、正気に戻ります。この花筐以降、「かたみ」という言葉は、愛しい人の愛用の品という意味を持つようになったと伝えられています。かくして二人は、玉穂の都へ一緒に帰っていくのでした。
 (( 以上ご参考までに )))
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kennak · 5 months
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緑茶 不発酵茶という表現は必ずしも適切では無いので、これは外した方が良いかと思います。 「熱処理を加えて発酵を止める」というのは、やや意味合いが異なります。 茶葉に含まれている酸化酵素が働き始める前に、釜炒りや蒸しなどの加熱処理(殺青)をすることで酸化酵素を変質させ、酵素を無力化するわけです。 酸化酵素が変質して無力化していれば、その後、茶葉を揉んだりして茶汁が溢れだしても、茶葉の色は変わりませんし成分も変質しません。 このようにして作るので、青々としたフレッシュさがキープされるお茶になるということです。 代表例のうち、緑牡丹は決してメジャーではないので、黄山毛峰など他のメジャーな名茶に替えた方が良いかもしれません。 白茶 弱発酵茶という表現は適切では無いので、これも外した方が良いかと思います。 なぜなら、烏龍茶などよりも発酵程度の高い白茶は存在するからです。発酵程度を分類で語ることはナンセンスです。 「少しだけ発酵させます」というのは、あまり適切ではありません。 製法的には茶葉を薄く均等に広げて、摘み取られた茶葉の呼吸によって水分が蒸発し、茶葉全体が萎れます(萎凋)。 葉の中の水分が抜けることで、茶葉の細胞組織の一部が壊れて茶汁が染み出し、これが葉の表面や葉脈などにある酸化酵素と接触して、わずかに発酵します。 適度な水分の減少が起こり、発酵が起こってきたら、低温で乾燥していく(乾燥)というお茶です。 このような作り方をすると基本的には枯れ葉状(芽の部分が多く、萎凋の時間が短ければ緑色が優勢)になるのですが、芽や葉の裏側に産毛が豊富なものを使うと、産毛が目立って白っぽく見えます。 代表例には、近年、人気になっている雲南省産の白茶で月光白などを入れてもいいかもしれないですね。 黄茶 弱後発酵茶というのは、相応しくないので、これも外した方が良いかと思います。 その理由は、黄茶は”発酵”させていないからです。 お茶の世界でいうところの”発酵”は、お茶の生葉に元々含まれている酸化酵素が働くことにより、カテキンなどのポリフェノールが重合して、テアフラビンやテアルビジンなどの別の物質に変化することを指します。 黄茶は基本的に緑茶の変形バージョンのようなお茶です。 殺青を早い段階でやって、酸化酵素を無力化するのは、緑茶と同じです。 その後で”悶黄”という工程を行って、色を黄色く変色させます。 殺青の段階で、酸化酵素を基本的には壊しているはずなので、悶黄は酵素的な反応では無いということです。 黄茶の黄色い色は、茶葉を蒸れた状態(悶黄)にすることで、葉の中の葉緑素が壊れ、葉が黄色くなることで起こります。 その際に、渋みなどの刺激物も変化し、まろやかな口当たりになるというものです。 代表例には、日本で入手しやすいお茶が無いのですが、平陽黄湯や霍山黄大茶なども追加候補です。 青茶 青茶に関しては、中国では烏龍茶という表記に変更されています。 一方、台湾などでは青茶表記が残るので、烏龍茶(青茶)ぐらいの書き方がよいかもしれません。 「半発酵茶」という表現は50%程度の発酵程度というような印象があるからか、台湾では「部分発酵茶」という言い方をしています。 しかし、他の茶類でも「○○発酵茶」という表現を使わないので、ここも外した���が良いでしょう。 青茶の青がどこから来たかは諸説ありますが、”発酵した褐色茶葉と不発酵の緑色茶葉が混ざりあい青っぽく・・・”というのは、明らかな間違いです。 烏龍茶は、まず茶葉を薄く広げて太陽光などに当て、水分を飛ばしながら酵素の働きを高めます(萎凋)。 そのあとで葉っぱを揺する(揺青)工程としばらく放置して酸化酵素の反応を待つ(静置)工程を何度か繰り返し、徐々に発酵程度を高めて、香りと味を作っていきます。この一連の流れを「做青」と呼びます。 揺すって発酵させるという方法を採ることで、烏龍茶は茶葉の縁の部分から発酵が起こるので、縁の部分が赤く、葉の中央部は緑色のままという「緑葉紅辺」の状態になります。 狙った程度迄発酵が進んだら、タイミングを逃さず、高温の釜で釜炒りします(殺青)。 この際に、熱で酸化酵素が壊れて発酵が止まり、香りと味がある程度決まってきます。 その後、揉捻を行って、茶葉の形状を作りながら、茶汁の抽出を促して、味の出を良くします。 この際、球状に丸めることなどで、よりしっかりした味を作ることもあります。 そして、熱風や輻射熱などで乾燥して、水分を一定以下に下げることで、保存しやすくします。 茶葉の種類によっては、焙煎を行うことで、成分の調整を行うとともに炭などの香味を付加することもあります。 代表的なお茶としては、安渓鉄観音、武夷岩茶、鳳凰単叢、凍頂烏龍茶、高山烏龍茶、東方美人茶など、人気のお茶は沢山あるので、選ぶのに困りそうです。 紅茶 「緑茶を十分に発酵させてつくる中国の紅茶です」というのは、非常に大きな間違いです。 紅茶は生の葉っぱから作らなければ出来ません。 紅茶は温風などを用いた萎凋を行うことで、酸化酵素の働きを高めます。 その後で茶葉を揉み込む(揉捻)ことで、茶汁を表面に析出させ、酸化酵素と茶汁を積極的に触れ合わせます。 このような発酵方法を採ることで、紅茶の茶葉は全体的に傷がつき、茶葉全体が発酵しやすい状態となります。 酸化酵素の反応には一定の時間が必要であり、酸化酵素が働きやすい状態(高温多湿)の空間に置いて集中発酵をさせます。 発酵が進むと緑色だった茶葉全体が紅く変化し、独特の甘い香りが出て来ます。 そのまま放置しすぎてしまうと、茶葉の変色が進み、茶の色が濁るなどの問題が生じる(過発酵)ので、適切なタイミングを見計らい、乾燥を行って発酵を止めます。 代表的な紅茶としては、祁門紅茶の他に、正山小種、金駿眉、滇紅などがあります。 黒茶 ”緑茶を長期間、または麹菌を用いて紅茶よりもさらに発酵させます”とありますが、紅茶とは発酵のメカニズムが全く違いますし、変化する成分も全く異なるので、紅茶と発酵程度を比較するのは不可能です。 ”麹菌”というのも黒茶の説明でよく出てくるのですが、納豆を製造する際に納豆菌を振り掛けたりするような作業があると誤解している方も多いようです。 実際にはそのようなことは無く、「渥堆」という工程を行う場所の空間にいる常在菌が取り付いているものなので、単一の菌だけで構成されているものではありません。 また、微生物によってだけ成分が変化するものでは無く、渥堆の工程では多くの「水分」が関わりますし、また微生物の活動による発熱といった「熱」の要素も、成分変化に大きな影響を与えます。 黒茶は「微生物の働きで変化する」と簡単に語られてしまいがちですが、実際には多くの要素が複雑に絡み合うことで、緑茶の渋みなどが色素の成分に変わり、味がまろやかになっていくというものです。 代表例としては、普洱茶だけではなく、茯磚茶や千両茶、雅安蔵茶、六堡茶などがあります。
とほほさんの「お茶・紅茶入門」の内容を検証する(主に中国茶部分) | あるきちのお茶・旅行日記
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tokyomariegold · 6 months
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2023/11/19
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11月19日 去年買ったenfoldの黄色いコートを下ろして、植物園に行った。緑が買った黄色のコートの色と、紅葉が少しはじまった樹木がいい感じに同系色で「隠れられそう!」と友人に言われた。
朝少し飛び起きる感じで準備をして、夜中に鼻血が出たのを思い出して、シーツに一滴血が滲んでしまっていた。漂白したらすぐ落ちてこの2日でしたかった寝具のお洗濯も済ますことができた。
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待ち合わせ前に、昨日行きたかった三井記念美術館とCLCFに行った。大手町から日本橋へ歩いていたら警察がゲートを準備していて物騒な雰囲気。日銀や貨幣博物館の周りを歩くと大阪を思い出す。そして、良いな、と思った大阪の街の思い出は、東京でいう日本橋みたいなスポットだけで、他の地ではそれなりにがっかりするのかもしれない、とも思った。 三井記念美術館ははじめていったけれど、エレベーターが、木製で古い針が動いて移動回を示すタイプを復元したデザインで良かった。 美術館はたぶん会員さんであろう客層がたくさん熱心に作品を鑑賞されていた。サロン感がある。 金工芸の紙袋やプチプチの梱包材、木工芸のカニなどを観た。伝統工芸に技巧を凝らして作品作りをすることに、孤独との戦い、みたいに書かれたキャプションが面白かった。
CFCLで気になっていたスニーカーを試着。 アシックスとのコラボ商品は、オンラインストアverは背のロゴがはいっていない、と教えてもらう。 とても軽くてスポーティーすぎず、次のボーナスを充てる候補。 (あと今はお掃除ロボットも候補入り。)
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茗荷谷で待ち合わせをして、小石川植物園へ行った。植物園に行くといつも、風景に名前がついた、と思う。 道中の工事現場にいたちきゅうくんのキャラクターを見た友人が「ああゆうキャラクターがとてもこわい」と言ったところから、ずっとわたしたちの“こわいもの”を発表し合いながら植物園を巡っていた。もう1人の友人は熊がこわい。ちきゅうくんがこわい友人は、出張先での空腹と“まさとさんと私”という作品もこわい。私はウイルスがこわい。
ニコンのレビューに自分のぬいぐるみ(ももんが)の写真を出した友人は、うまく作品のコンセプトを伝えられず、レビュワーからぬいどりをする人、というような扱いを受けてしまったらしい。それを聞いて、とりあえず私はとても悲しくなった。彼女がうまく伝えられなかったことだけが罪ではなく、うまく受け止められなかった方にも罪があって、ディスコミュニケーションの結果に、その場では“ぬい撮り”と片付けられてしまったことに、悲しくなった。彼女の写真をみても、それを思ったのかしら。
思えば美術館から植物園まで4時間近く立ちっぱなしで疲れてしまい、お茶をする2人を見送って「まだ良いお年を、は言わないでおきましょう」と毛のガチャガチャを渡して別れた。
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明日からのたぶん超過酷な日々を思い、体力が底を尽きてしまうことを考えて旅行用のリュックを引っ張り出して準備をした。 今日会った友人の1人は、また東北へ出張すると言っていた。もう1人は金曜日に職場の冷蔵庫に残してきた葡萄の行方が気になるので月曜は出社(本当はテレワーク)しようかな、と言っていた。みんなそれぞれ人生しているのに、こうやって数時間だけ植物園に一緒に行けるのってすごいことだと思った。
気をつけないといけないことが多すぎるね、とも話をした。 明日からは確かに過酷な日々だけれど、私が絶対に!という負担は少し減る業務なので、流れに乗って、だめな時は休もうと思う。 今はつらい時、3ヶ月後を思うようにしていたので、2月末ってもう春じゃん、となった。 そしてtumblrに更新した3ヶ月前の日記は、つい最近のようで、もしかしたら、どうにかやり切ってしまうのかもしれない。
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