JR指宿枕崎線 枕崎駅 ~ 本土最南端の始発・終着駅
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2024.08 不帰嶮(天狗の頭~不帰キレット~唐松岳)
不帰嶮、今回の���行の核心部。岩の陰影がカッコいい。
猿倉~白馬鑓温泉~天狗の頭より
【コースタイム】天狗ノ頭(0830)→不帰キレット(0920)→不帰一峰(0935-0940)→不帰二峰北峰(1000-1025)→不帰二峰南峰(1030)→唐松岳(1105-1110)→丸山(1150)→八方池(1230)→八方池山荘(1255)
天狗の頭からは絶景で右に剱岳、これから通過する道の先に北アルプス南部の山々、最奥には槍ヶ岳とかの峰々も。
奥から立山三山~剱岳~早月尾根
天狗ノ頭から少し進むと「天狗の大下り」という約300mの大下降となる。ガスが湧いてしまって鞍部が見えないが、目の前にこれから超えていく峰々見えている・・・アップダウンが非常に激しいが、これまた登り返すのか。ゴールの唐松岳は中央やや左にの手前から2つ目の峰か?(左端まで尾根が連なっているやつ)
天狗の大下り下降中。垂直に見えるような急な鎖場あり
またずっとザレており滑りやすい。これからキレットに突入することもあり警戒してストックはしまったのだが、天狗ノ頭のすぐ先に崩落しつつある危険箇所2-3回以外はストックもったままでの通行で問題ない、なんならキレット通過時も持っていて構わないくらい、思ったほど険しくなかった(後述)。
一瞬雲が晴れた、奥が唐松岳山頂か?本日すでに標高差800mくらい上げたのに、下ってまたあれだけ標高稼がないといけない。
天狗山荘から約1時��、不帰キレットが始まるという鞍部に到着、たしかに形は両側がスッパリキレ落ちているキレットだが、実際は稜線上を進むのではなく山腹をトラバースする。
こんな感じで、進んでみれば全く切れ落ちてない、斜面を巻いているため高度感もない、なんなら普通にストック両手にして進める。大キレットのようにキレットの真上を進むわけではなく、あくまでそういう形の尾根がある、という意味での命名か・・・?登りきった先にあるのが不帰一峰。
キレット開始から15分で不帰一峰に到着、ここから見えるのが今回一番の核心部である不帰二峰への道。キレットはたぶん終わった?
さっき下ってきた天狗の大下りと、手前まで連なるのが不帰キレット。
不帰二峰へのとっつき部までは、不帰一峰から100mほど下った先にある。天狗の大下りに引き続きまだ下るのか。
不帰二峰への登りとっつき部。見上げる先鋒がカッコいい。
核心部最初の登りは鎖なしの崖登り。というか不帰二峰南峰到着するまでずっと崖登りだった。
先程いた不帰一峰。高低差100mほど。
不帰二峰北峰まではかなり長大な崖登り、超えても超えても次の峰が現れる。難易度的には剱岳の平蔵のコルとかカニのタテバイみたいな感じ。
鎖などは必要な場所にちゃんとついており、確実な3点支持があれば問題ないのだが、下を見ると高度感はけっこうある。
二峰のとっつき部から二峰北峰まで20分、通過してみればあっという間だったがとにかく険しかった。道中少し一緒になった人に聞いてみたが、高度感があり大キレットより怖かったとのこと。けど自分はその逆で、よくわからないなあ。一方で逆ルートの場合はかなり難度高いと思う。高度感にやられそうだし、終始崖みたいなものなので足運びかなり難しいかと。
一番険しかった道を登りきり、残すは不帰二峰南峰と唐松岳を残すのみ。20分ほど休憩。目の前に唐松の山頂に人がちゃんと見えており、距離的には近く感じるが、このあとまだ意外と歩く。
南峰への道、北峰越えたらストック出しても問題なく、優しい縦走路に戻る。
北峰から南峰まで10分もせず到着、唐松岳山頂はガスに隠されていく。ラストスパート。
横に見える唐松岳の山頂下の岩場とか側面から見るとゴツくてカッコよかった。
山頂が見えているだけに意外と長く感じた。南峰からは30分。唐松岳山頂に人たくさんいるのがわかる。みんな普通とは違うルートから登ってくるヘルメットかぶった自分のこと見てる・・・まあこっちから人が上がってくるのは珍しいか。
白馬鑓温泉からちょうど5時間で唐松岳到着、すごい人の数(本日土曜日はお盆初日)。ルートを知っている人が自分に声をかけてきて、どんな道だったか訪ねてきた。山頂は真っ白、やっぱ昼間になると雲が湧いてしょうがない、とっとと下山。
唐松岳は今まで雪山で登りに来ただけで夏山は初めてだったが、樹林やガスでゴールのリフトず長く感じたし、雪山みたいに一直線とはいかない。岩や石が転がってるし、やはり雪道のほうが歩きやすい。
途中ガ��が晴れて先ほど通過してきた不帰嶮が見えた。どのピークが何なのかはわからんかったけど、二峰南峰と北峰が見えているか?
白馬鑓温泉から100分でリフトに到着。リフト・ゴンドラの片道券1900円。下界はとても晴れている。ゴンドラ山麓駅に着いて白馬駅へのバスがあるかと思いきや1時間くらい来ず、結局白馬駅まで徒歩で30分歩いた。すごく暑いな、けどカラッとしていて蒸し暑さはあまりない。気温30℃くらいあるが東京の暑さより幾分マシに感じる���帰りは白馬発新宿着の特急あずさにて帰宅。
三大キレットのひとつであった不帰キレット、キレット自体はまったく大したことなかったが、そのかわりに長大な崖登りのほうが核心部だった。岩登りが好きな人は楽しめるがアクセスしづらく、わざわざここじゃなくても剱岳などに行けばいいんじゃないかな?ベストルートは猿倉から大雪渓登って天狗山荘泊だが夜行バス(あるいは白馬前泊)前提。昼スタートなら今回のルートがベスト。とくに白馬鑓温泉(の足湯)はとても良いものだった。残りの八峰キレットは三大キレットの中で一番大した事ないとのこと、そっちもさっさと攻略して全クリしたい。
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20240816 仙台
ハイキュー!!のイベントに参加するために仙台遠征!本当は岩手の軽米町で聖地巡りもしたかったけど、①台風の被害を受けていそう②次の台風が来ている③南海トラフ地震が来るかもしれない④夜行バスが満席で新幹線で行くと到着が昼過ぎになる(お盆で休日ダイヤ)ととにかく心をへし折ってくる状況の数々で1泊減らして1泊2日に変更!
始発!では動けなかったけど6時頃最寄り駅を出て、新幹線に乗って8:50頃仙台駅に到着!新幹線乗ったら3時間くらいで仙台まで来られるの割とバグだと思ってる。文明の利器に感謝。
・ハイキュー!!アニメ10周年記念展 全感覚EXHIBITION
荷物をホテルに預けて本日の大本命10周年展へ!初めまして仙台市体育館ことカメイアリーナ!アニメと同じ画角にこだわって撮ってみた。10周年展は東京でも行ったから内容は知っていたけど、前回は狭くて撮りにくかったところが撮りやすくなってたり、待機は観客席にいられたり、白鳥沢や烏野の応援が聞こえてきて臨場感が凄かった!誰かが聖地巡礼じゃなくて現場って言ってたけど、めっちゃ気持ち分かる!って思ってた。あ、でもエアーサロンパスの匂いは東京の方が強かったかも。「センターコートだから多分白鳥沢の時だなあ。」とか、応援席を見て「あの辺に谷地ちゃんが戻ってきて、ツッキーも救護室から戻ってくるんだよなあ。」とか、「あの辺に返送した及川と岩泉いたんだよなあ。」とか妄想じゃなくて現実だった。日向と影山が外でボール打ってた場所とか、感情をぶつけ合った水道とか、及川さんがナンパされた火災報知器前とか、烏野VS白鳥沢って対戦が書いてあるホワイトボードとか、忠と嶋田さんが会話した応援席裏の階段とか、「ちょっと便所行ってくる!」って気合い入れて便所行ったと見せかけて(?)コーチに謝りに行く階段とか、強い選手とマッチングする男子トイレとか、呼ばれるのを今か今かと待つ体育館前のスペースとか、しっかり見直したから1つ1つに感動できた。最初の映像のところが多分サブコートで、写真は撮れなかったけど春高青城戦前に烏野がピリピリしたところだって思ったし、伊達工や青葉城西や常波とすれ違った廊下も遠目で見れた!あと仙台の七夕まつりの飾りがあったのも嬉しかった!それからグッズも最近ネット見たり、アニメイト行ったりでかなり追ってるから1ヶ月前に10年分のグッズアートを見た時より知ってるものがかなり増えてて嬉しかった。前ほど写真撮りたいって気持ちはなくなったなあ。いっぱい予習して行った甲斐があった。
音駒の集合写真は本当は観客席側向けなきゃいけなかったけど、どうしてもコートを入れたかった。
北さんはそこにいるみたいに撮れたから満足。クリアカードはアクスタより安くて軽くてコスパよろしい。
・萩のツッキー
フリー入場が既に始まっててポストカード売れ切れ!ショック!結局お土産用4箱とステッカーを購入。明日ポストカードリベンジするぞ。まだ日割りで在庫持ってるからいいけど、特使なんて欲しいステッカーとポストカード全滅したからネットで買うか悩む。もともとアニメ画派だからなあ。
・ウエスティンホテル仙台前
ホテルに荷物を置いて散歩。ウエスティンホテル仙台前はハイキュー!!で日向と谷地ちゃんが恋が始まりそうなダッシュをしたところ。細かいところまでこだわってるんだなあと改めて実感。
・仙台市博物館
月島・山口の絵を見に仙台市博物館へ。もう時間は遅くて中には入れなかったけど、外の看板は見られたから満足。
・仙台城
近くに仙台城跡があるらしいということで登ってみることに。近いけど多分険しい道で行ったからめちゃめちゃしんどかった。足軽みたいな下っ端はこうやって坂道を登りながら攻略しようとしたのかななんて感じた。仙台は多分これが4回目の旅なのに伊達政宗像には初めましてだった!これが噂の伊達政宗かー。
仙台城からはシャトルバスで下山。この時は17:30最終だった。暗くなっていく山道をまた下らないといけないのかと思ってたから良かった。さっき見られなかったルートで下りてくれたし。
・ハミングバード
朝一に東京駅でパニーニを食べてから食べずに歩き回ってたことに気付いて夕食。前回食べて美味しかった仙台キッチンっていうイタリアンバルに行こうとしたけど宴会中っぽかったから諦めて、別のイタリアンバルへ。
宮城ワインのミモザ(スパークリングワイン+オレンジジュース)、宮城食材の前菜5種盛り合わせ、有頭エビとたっぷり魚介のトマトリゾット。どれも美味しくて幸せだった。日本の海で獲れた魚介を使った日本人の口に合わせたイタリアンバルが好きらしい。仙台に行きつけのイタリアンバルが増えたから最早住みたい。
・ずんだシェイク+喜久福
酔った頭でデザートのずんだシェイクと喜久福ゲット。ホテルでのんびりしながら食べよーっとと思いながらこれを書いているなう。
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326 底名無し沼さん (ワッチョイ 7fff-NfV8) 2023/09/16(土) 11:05:41.28 ID:1WUVKx8F0
仙流荘5時で1000人待ちでザック間違えられた人もいて騒動に。増便に乗った人は5時半の始発から1時間20分後にようやく出発できたみたい。
https://twitter.com/.../1702778441869988008
明日の始発で北沢峠に上がって仙丈ケ岳経由で両俣小屋まで行くのはCT9時間40分だから無理だな。仙塩尾根1日目で到着16時前で午前の晴れ間を長く歩きたければ前日北沢峠前乗りで行かないと。
今日の前乗りは高速渋滞やテンバ渋滞が嫌で見送ったが果たして10月上旬までの平日に晴れる日は来るのだろうか・・・
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
327 底名無し沼さん (スッップ Sd5f-vO6j) 2023/09/16(土) 14:52:59.74 ID:/sXyvqLRd
こんなのザック盗まれてもわからないよな
すぐ横が駐車場だし積み込まれたら終わり
329 底名無し沼さん (JP 0H33-8UGD) 2023/09/16(土) 15:45:04.10 ID:IQ04ZF1wH
なんでみんな仙流荘を目指すん?
332 底名無し沼さん (ワッチョイ cfeb-lPYd) 2023/09/16(土) 16:46:21.80 ID:vGQ/W3cD0
>>326
週末にかかると伊那で前泊して早朝便でも厳しいだろうね
自分も仙塩やりたいから日を決めかねてる
茅野からの便は時間が中途半端だし、とりあえずテント張って1日目は栗沢山くらいなら体力温存も出来そうかな
9月初旬に木曜の夜に伊那まで移動して金曜の早朝便で千流荘に向かったけど既に長蛇の列で増便も満席だった
金曜日朝から入る人は多いんだね
まあ考える事はみな同じか
333 底名無し沼さん (オッペケ Sr23-kNGR) 2023/09/16(土) 16:57:02.42 ID:xW3BaznBr
仙流荘バスは9月末まで平日のバスを6:05始発にしないと週末の混乱が続くだろ
334 底名無し沼さん (ブーイモ MM5f-8UGD) 2023/09/16(土) 17:04:51.57 ID:Ea24SUpQM
夏山は今週までだぞ
335 底名無し沼さん (ワッチョイ 7fff-NfV8) 2023/09/16(土) 17:28:59.56 ID:1WUVKx8F0
>>332
明日から仙塩尾根行くなら今すぐ自宅を出なくちゃならんが、明日明後日は天気よさそうで実はいまだに迷ってるw
明日の始発の初便に乗れても6時半歩き始めで、CT通りでも16時10分両俣小屋着、早く並ばないと増便で1時間か2時間遅れで小屋17時か18時着になって行程のほとんどは雲の中で焦った行程になる。
この2日間で事情があって5時間しか寝てないし、長丁場に備えてきちんと車中泊したいから先頭に並ぶのは多分無理だろう。
今行かないなら、10月の連休前の平日の14時20分の便に前乗りして長衛小屋でテントはって、翌日は5時半くらいに歩き出すってことになる。
その間に今回みたいな3日間晴れ予報がくるかわからんが、秋が深まると今よりはガスがわかず晴れやすいからと期待してみるw
337 底名無し沼さん (ワッチョイ 7fff-NfV8) 2023/09/16(土) 17:46:24.77 ID:1WUVKx8F0
穂高駅発~中房行きバスは、7月中旬から10月上旬までの休日の始発便が4時40分、8月下旬までの平日が5時10分、それ以外が6時40分なんだよね
林道がぶっ壊れて仙流荘発が大人気になったんだから中房行き並みの時刻表で組んでほしいわ。仙流荘の平日始発が8時5分ってのも話にならんわ
比べると泣けてくる
中房行き
https://www.azumikan.../2011/04/030-01.html
北沢峠行き
http://www.inacity.j...0230426_calendar.pdf
338 底名無し沼さん (スッップ Sd5f-VcvE) 2023/09/16(土) 17:55:17.34 ID:00mzJpRnd
いうて地方のバス事情とかどこも壊滅してるから、採算とれても増発は難しそう
339 底名無し沼さん (ワッチョイ cfeb-lPYd) 2023/09/16(土) 17:56:08.10 ID:vGQ/W3cD0
>>335
CT長めだし南アの壮大さからも初回は時間みておきたいよね
加えて9月に入って日没時間が急に早まった感じだし
10月に入ると17時を日没と想定して行動しなきゃだし、初日に登山口へ移動はリスクが高いね
長衛小屋に前泊なら日の出1時間前から行動開始しても大丈夫じゃないかな?
あと順番待ちはザック置きでいんじゃないの?
ただしバスが早く来る時あるから1時間前には列に居ないと1便の席はその時に列にいる人に取られちゃう
その事に文句を言わなければザック置きは問題ないと思うよ
自分は平日を入れて考えてるから明日は仕事するわ
340 底名無し沼さん (ワッチョイ 7fff-NfV8) 2023/09/16(土) 18:09:48.90 ID:1WUVKx8F0
>>339
正にそうだし、日本アルプスで仙塩尾根が最後に残った主稜線だから晴天でじっくりのんびり歩きたいのよ
ザック置きは盗難とか除けられたりとかの不安で車中泊で寝れないかもw
341 底名無し沼さん (オッペケ Sr23-kmYm) 2023/09/16(土) 18:13:17.10 ID:hD1FioWtr
>>335
駒か仙丈で涼みながらのんびりしたら?
どうしても仙塩を突っ走りたいってなら駄目だろうけど。
342 底名無し沼さん (オッペケ Sr23-kmYm) 2023/09/16(土) 18:18:11.47 ID:hD1FioWtr
>>340
あ、見ないで書いた。そうなのか。
なら突っ走る。
でも仙丈を抜けた尾根はあまり展望はないから、ガスとかのほうがかえって風情があるかも?
343 底名無し沼さん (ワッチョイ cfeb-lPYd) 2023/09/16(土) 18:27:20.95 ID:vGQ/W3cD0
>>340
盗難は余り聞かなかったけど近年は剣沢の件もあって油断ならない所はあるね
自分は流行りじゃない一昔前のザックに使い古した手拭いや使い込んだナルゲンを外付けして移動中に履いてた靴下が汚ならしくチラ見えするようファスナーからわざとはみ出て覗かせて汚いザックアピールして置いてるw
それにしても最後が仙塩とは結構行ってる人なんだね
鋸山は崩壊で無理そうになったんで仙塩ダメだった時は鳳凰〜甲斐駒を考えてるよ
アサヨからの甲斐駒見た事ないし
344 底名無し沼さん (ワッチョイ 7fff-NfV8) 2023/09/16(土) 18:40:12.66 ID:1WUVKx8F0
>>343
アサヨは全周が自分より高い百名山に囲まれてるから絶景の展望台で、北沢峠からなら手軽に登れるので初心者を連れていくのにお勧めの山
知名度低いけどもっと評価が高くていいと思う
345 底名無し沼さん (ワッチョイ 0ff6-tbTP) 2023/09/16(土) 18:55:07.45 ID:+ny9mDBo0
>>343
さすがにもっと小綺麗にしたほうがいいんじゃない?
346 底名無し沼さん (テテンテンテン MM4f-xbk3) 2023/09/16(土) 19:05:19.10 ID:g5sA0TVlM
仙流荘から仙丈ケ岳に向かう人は地蔵尾根から登ればいいのに。
市野瀬側から行ってもいいし、仙流荘から戸台大橋手前の954まで歩いて
尾勝谷と穴沢の出会に松峰北尾根の取り付きがあって1684を経て松峰に着く。
バリエーション初級レベルで、地蔵尾根は避難小屋や水場や幕営適地だらけだぞ
347 底名無し沼さん (アウアウウー Sa53-zevZ) 2023/09/16(土) 19:21:08.50 ID:cxPHHMS3a
>>337
運転手時給2万位なら増便出せるかもわからんな
そのぶん運賃も値上げ
348 底名無し沼さん (ワッチョイ 3fad-68M3) 2023/09/16(土) 19:24:46.21 ID:QmKAt8dF0
平日始発が遅いから平日休みが取れても日帰りするには土日に集中するのは当然
349 底名無し沼さん (スッップ Sd5f-upnQ) 2023/09/16(土) 19:35:41.74 ID:BmrE7VnVd
ぐだぐだ言うなら年末年始営業してた頃みたいに北沢峠まで歩け
350 底名無し沼さん (ワッチョイ 3f30-CB1/) 2023/09/16(土) 21:08:29.94 ID:j29rzwPo0
>>346
道中がつまらなさすぎる
351 底名無し沼さん (ワッチョイ 3f83-9C00) 2023/09/16(土) 21:13:22.04 ID:EOeEC/7n0
>>350
カラマツの紅葉は見事なんだが森林限界まで退屈だよな
地蔵は一度歩けばおなかいっぱい
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2023/09/17
一日だけ京都にいた。京都国立近代美術館の展示を見たいと思ったからだった、あまり深いことは考えずに、なんとなくでも興味が湧いたら、それを単なる錯覚だとか抑えずに、とりあえず軽い気持ちで見に行ってみようというモードにあり、それを実行したかった。職場にコロナに感染した人がいて、自分のデスクに近い人だし備品を共用してた人だったので、最近の体調不良からして自分はグレーだと思われるし、今までにあまりない感じの深刻な頭痛がきていつもの薬が効かないということでいよいよこれは、と暗い気分になって仕事を早退した日の夜、22時くらいの夜行バスで向かった。どうもお腹の調子が悪い。でもバスに乗ったら平時の感覚が戻ってきた、たっぷりある移動中に山本精一の本を読もうと思って、財布とかと一緒にリュックに入れた。途中の鮎沢SAは涼しくていい匂いがした、自分の知っている少し昔の夏休みの匂いに近く、下界とは違ってさわやかだった。人の気配がなく、私にはまだ逃げ場があると思える、曇っていて星は見えないけど、この場所は多分自分の味方であり続けてくれるはずだ。途中で酔わない程度に本を読む、やっぱりこの人は頭がおかしい。お腹の調子が悪いしこんな寝不足じゃ、小学生の頃なら吐いていただろう、あんまり眠れないまま5時半に京都駅前に着き、時間的にまだ真っ暗だったら嫌だなと思っていたが思いの外明るくなっていて安心した。国道1号を北へすすみ、日がのぼる頃の鴨川を見たいということでどんどん歩いていった、くるりの「ロックンロール」を聴きながら歩くと歩くスピードと合ってて、人も全然いないし人の匂いも全然なく、空気はすずしく、なんとなく自由って感じがあり気分が良かった。高瀬川を渡り、左にカーブするコンクリートの橋を渡る、急に開けて広い川が見える、東側の山の稜線が朝靄と朝日でぼんやり霞んでいる、いいなあと思う、だんだんお腹が空いてきたけどそのままお寺とか神社に行くのがいいかもと、近くにあった豊国神社を参拝した。そのまま川の東側の小道を北へ進むと良さそうな和菓子屋さんがあったけど朝早すぎてやっていない。五条まで来て、川縁に降りてたもとを歩いていった。白鷺とかゴイサギとかカモとかカラスとかがいる、朝の方が川の水もきれいに見えて断然良い。とにかく朝が早すぎて落ち着けるところがそんなになく、疲れない程度に歩くしかなかった。8時半くらいまでぶらぶらして、期待外れだった朝ご飯のお粥をお腹に押し込み、地下鉄に乗って蹴上まで行き、今度こそ「インクライン」を見るんだと思っていたのに、結局やっぱり「インクライン」がどこにあるかわからず、以前来たのと同じルートで南禅寺に行き、水道橋と、本堂の龍の天井画を見た。もうこの辺りで気温が上がってしぶとい暑さに疲れ始めていた。やっぱり同じルートでそのまま平安神宮の方に琵琶湖疎水の脇を歩いて、美術館についたが微妙に開館まで時間があったので、その辺を一周してから入館。朝早いのに若者が結構きていて京都ヤングの文化程度の高さを感じた。眠すぎて時々急に電池が切れたように意識がブラックアウトする。工芸品が所々ケースなどに入れず直に展示されているので万が一そっち側に倒れ込んじゃったりしたら非常に危ない。何度か前や後ろに倒れそうになりながら、そのため監視員にうっすらマークされながら一個一個見たんだけど、やっぱり時代が新しくなるにつれてつまんないというか、何をこいつらはしたかったんだろう、みたいな気持ちが湧いてきて飽きてしまった。60年代までは工芸品とオブジェの境界に迷うような姿勢が見えて、それが作品に直結してる感じがして良かったけれど。最後の部屋まで来てやっと意識が安定してきたので、また最初の方の部屋に戻って展示のストーリーを確認しながら見た、まあ話は分かったがなんかやっぱりつまらないので、単純にいいと思った展示物だけを見て終了し、コレクション展の階に行くと、やっぱりいい絵があったので、安心した。山崎隆の屏風絵《神仙》、《歴史》、村山知義のリノカット、伊藤久三郎の《人々》。これらを見られただけでも収穫だということにする。広くて明るくて客もあんまりいない、すいすいと自分のペースで回って、気分がいい。正常な空腹を感じたので、ああ自分は元気になったんだと安心し、東山からまた地下鉄で二条城前まで行き、頑張って微妙に体力を消耗する暑さの中を歩いていったのに、ちょっと一人で入るのに勇気が必要なカフェでは、狭い待合スペースにイケイケの若者、いや、文化に明るそうな高踏そうな?若者たちが鮨詰め状態なのが見え、すぐに心が閉じてしまって踵を返した、東西の太い道路を横切って、写真のギャラリーに行って、展示を見て、川崎祐という人の写真集を買った、東京で今個展開催中らしい(知らんかった)。最後にまた鴨川を見たかったけれど東海道新幹線の遅延の報を知り、しょうがないのでもう駅に向かう。やたら店内の暗いコンビニで適当に買ったアイスを食べながら日陰を歩く、どこもめちゃくちゃ混んでいて全ての人を黙らせたい衝動が起こったがナチュラルな関西弁は聞いていてそこまで気分が悪くない。京都駅で家にお土産を買って、結局定刻通りに運行しているらしい「ひかり」に乗る、名古屋まで30分くらい、忙しなさすぎてあんまり感傷?に浸ることもなく、でも夕方の車窓はやっぱり美しく、斜め後ろの座席の家族連れがうるさいな~ってことすら流せるくらい順調、定刻通り名古屋について颯爽と下車したら名古屋はまた死ぬほど人がいて、面食らった。改札近くのトイレも駅ビルのトイレもどこも全然空いてなくて、夕ご飯を買いたかった売店も観光客らしい人たちで大混雑していて、たかが名古屋のくせにと軽くイラついた。やっとのことで名古屋屈指の古い地下街の、そのまた地下(地下駐車場の)のお手洗いで用を足し、普通にバスにも間に合った、隣席は発車時刻ギリギリで乗り込んだ黒人の若いお兄さんだった。一瞬、バスジャックされたりしたらやだなとほんの一瞬思ってしまった(彼は終始、携帯などには一度も触れることなく、黒いリュックを抱えて多分寝ていた)。窓がでかいバスで、サッサカ暮れていく空と、高速の防音壁と、一瞬だけ帰ってきた名古屋の街とをゆったりした気分で眺めた、高速に乗る、というのはどこか、挑むみたいな気持ちになる。これからのとてつもない長い距離と時間に、後ろに去っていく風景に、空の色に、それがすごい好きだった。とてつもなく長い距離、というのが私にとっては重要なのです。とてつもない距離とそれが抱えている時間に次第に倦んでいく感覚さえ自分にとっては。こんなにも離れていたということ。これから離れていくということ、小さくなっていくことの寂しさと安心。夕方の名古屋高速はいい。伊勢湾岸道に入り、羅針盤のアルバムを聴きながらうとうとしていると、早々に「足柄から大井松田まで渋滞25キロ通過60分」の表示を見かけた。終電には間に合うかなと思って途中のSAで悠長にソフトクリーム(静岡茶味)を食べてたら、どんどん渋滞が伸びて40キロとかになっていた。横浜から首都高の入り口までも渋滞が始まってるということで地獄が待ってるらしかった。終電に間に合わなかったら交通費をいっぱいにケチった旅行が丸潰れになる~とか焦り始めていると、いざとなったらなんと父が東京駅まで出動してくれるという連絡が。ありがて〜けどそれもまた問題だよと思う。こんな年齢になった娘などもうどこで痛い目にあっていようがのたれ死んでようが放っておけばいいのにと思う。バスの運転手さんは非常に優秀な人と見えて、比較的空いている道ではちゃんとそれなりのスピードで走っていく。特に工事で端っこの車線が慢性的に通行止めの道でも、ガンガン右車線で飛ばしていき、どんどん後ろへ車が抜かされていくのが面白かった。この快調なスピードの上にいないとわからない音楽ってあるよね、ということで、くるりやスピッツやフジファブリックや奥田民生を聴いた。絶対そうなのだ。おなじみの足柄SAにたどり着くと、またものすごい数の車が集まっていて駐車場はごった返していて交通整理をする警備員さんが怒号ともつかない叫びで駐車できずあぶれた車、というかドライバーをさばいていた。御殿場を過ぎて雨が降ってきたけど、いつの間にか雲が切れて止んでいて、夜空はすごく澄んでいて星がいくつも見えた。こういう経験も、夏休みとか冬休み特有のものだった。渋滞でノロノロ進む車内でまた例の本を開く。人や動物に簡単にすぐ殺意を抱いたりしていて忙しそうで笑える。そもそも自分はこういう文体ににハマるたちだし、かなり真理らしいことを言ってたり考え方の極端さには共感すらしてしまうが、憤りとかマイナス?の力が増大した時の思考の飛躍と行動・言動が怖すぎて(ときどき時代錯誤感もあるし)、この人が父親でなくて本当によかった。歌声がいい、歌詞もいい、ギターもすっごいカッコいい、しかし。で、そんなこんなで終電に間に合うか、間に合わないか本当に微妙な時間になってきていたが、運転手さんの的確でメリハリある優秀な運転のおかげで遅れは1時間弱だった。心身ともにきついこともめちゃ多い仕事とは思うがやっぱり運転がうまい人はかっこいい。あと夜行バスは疲れている時はもちろん基本的には交通手段の選択肢から外すべきだ。どうせ眠れないから。ふらっとどこかへ消えたいと思った時、忙しない旅程を組むと感動する余裕も大して持てず帰ってきたときに何も変わっていない自分にただ、ただただ絶望する。0時前の混んでいる中央線快速、火でもつけたい気持ちに駆られつつ、急に疲労が襲ってきてまた意識がガンガン途切れて忘れたはずの吐き気も出てきて、薄めた地獄みたいだった。
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2023年1月4日(水) The First Mission Completed! いよいよ今日から買い付けの旅が始まります。 10:30のフライトだと,空港に遅くとも8:30,余裕を持って着きたいので7時過ぎの到着を目指しました。 そうなると,最寄りの駅を6時ごろ出発の電車に乗らなければなりません。 ということは,重い荷物を持っての移動なので余裕をみて5:30には家を出たいところです。5:30に出発を予定すれば,なんだかんだで5:40に家を出て,ゆっくり歩くと電車の予定時刻よりも早く駅に着くはずです。 朝起きたらシャワーも浴びたいので,4:30起きですね。 ... 元旦早々寝坊した男です。 普段は店の片付けが終わると2時になるため,朝は7時に起きればいい方で,8時過ぎに起きることもしばしば。 これは,やばい。 昔は早寝早起きが自慢でしたが,店をやってからはすっかり自信がありません。 前の晩に空港入りすることも考えましたが,前日の荷造りが思った以上に早く終わり,向こうですることもないままぼーっとするよりは,早めに寝て早く起きることにかけました。その方が身体も楽です。 久しぶりに携帯電話のアラームをフルセット。親がモーニングコールをかけてくれると言ってくれたので、恥ずかしながら甘えました。小学生か。 でも,それくらい遅れることは許されないのです。絶対の絶対。ぜったいいいいいいいい。修学旅行前の小学生のような気持ちで朝を迎えました。 なんとかアラーム一回で目を覚まし,滞りなく家を出ることができました。 今回はeVISAを取得し,ダナンで泊まるホテルも昨晩抑えました。準備万端です。 こういう時に限って,なんか抜けているんですよね。それが,は行。(名前のどこかには行の文字を持つ,店主を含めた友達たち)その時は,そのトラブルを乗り越えることを楽しむことにします。 では,行ってまいります。 2枚目の写真は,機内持ち込み禁止物例示品。刀を模した傘もダメなんですね。教え子に刀の持ち手のついた傘を持っていた子がいたのですが,彼の傘だと,長さ的にもダメなのかな。 【お知らせ】 ベトナム,ラオスへの買い付け旅行のため,しばらくの間休業いたします。ご迷惑おかけしまして申し訳ありません。 2023年1月28日(土) 19時からの営業再開を予定しています。 ご来店,お待ちしております。 【身体のセルフケア】 2023年2月4日(土),3月11日(土)の開催を予定しております。 16:30~18:30 上福島コミュニティーにて 詳細、お申込みはメッセージにてご連絡ください。 3枚目の写真は,2006年1月,ラオス南部の町ປາກເຊ(パクセー)にて撮影。当時店主が住んでいた家の近所の空にかかる大きな虹です。うっすらと外側に二重虹がかかっています。ラオスでは雨上がり,よく虹を目にしました。 #カフェ #バー #東南アジア料理 Cafe & Bar ສະບາຍດີ(#サバイディー ) 大阪府大阪市福島区鷺洲2-10-26 📞06-6136-7474 #osaka #fukushimaku #cafe #bar #福島区グルメ #福島区ランチ #福島区バー #ラオス #ベトナム #チキンライス #ベトナムコーヒー #ラオスの風景 #虹 #ベトナム航空 #関西空港 #変わろう日本 https://www.instagram.com/p/Cm-V6KkSXEw/?igshid=NGJjMDIxMWI=
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鳴尾・武庫川女子大前駅
こんばんは。
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僕は電車で手持ち無沙汰になるといつも路線図を探す。
路線図が近くにあるとラッキーなんて思ったりしてしまう。
行ったことのない駅、読み方の分からない駅、そんな土地に思いを馳せて、どんな街なのか、あれこれ妄想に耽ってみる。
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先日、午後に空きができた。
ちょっとプチ旅でもしたい。
でもどこに行ったらいいものか。
そんな訳で、ルーレットを作り、行く場所を決めた。
服屋をしているのだがら、折角ならその日の装いに当店の取引先のアイテムを着ていこう。
結果、「阪神本線」の「鳴尾・武庫川女子大前駅」に「YUKI SHIMANE」のアイテムを着て行くことが決まった。
降りたことのない駅に期待は高まり、先月の"YUKI SHIMANE" のイベントで、デザイナーからも着用して違和感が無いと、お墨付きをもらったこのトップスをコーデに取り入れて行くことにした。
蛍光イエローのニットキャップに、青のパンツ、そして、水色と黄色がアクセントになったスニーカー。
派手な色のアイテムばかりになるのだが、"YUKI SHIMANE"のトップスが全てを受け止めてくれた。
"YUKI SHIMANE" のトップスを最大限活かしたコーデになるのではないか。
自画自賛。
そんなコーデが組めたと思う。
基本、この旅は事前に何があるかなんて調べない。
全て、行き当たりばったりの旅だ。
でも、一つだけ決めていたことがある。
阪神本線を引いたからには、必ず南側へいこう。
海を見にいこう。
それだけは決めて電車へ乗り込んだ。
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夕方ということもあったせいかなのか、大学前の駅にしては思った以上に静かだ。
改札をくぐり、まずは南側へ。
43号線沿いに歩き、武庫川女子大学前の歩道橋を渡り、路地へと入る。
ここからは、面白そうな雰囲気のある方へと、ただブラブラと向かうだけだ。
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早速、歩いて数分経つと、公園を見つけた。
シーソーやブランコなど定番の遊具から、見たことのないジャングルジムのような遊具まで。
公園の半面はグランドのようなスペースになっており、小学生がサッカーをしている。
陽射しが傾く公園の片隅でそんな様子を見つつ、赤く色づいた木々を見上げる。
夕日が照らす木々の葉は、一層赤く、美しく見えた。
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公園を後にすると、今度は銭湯が見えてきた。
青空に映える銭湯の煙突。
そんな風景が、どこか懐かしい気持ちを呼び起こす。
思わず、立ち止まり煙突を眺めてしまう。
そして、少し先には、酒屋が並ぶ。
チラッとみると、どうやら角打ちができるようだ。
まだ16時過ぎだというのに、既に店内には常連さんがいる。
なんだかそんな様子を見たら、妙に信頼がおける店のような気がして、
「今日の帰りはここで1杯引っ掛けてから帰ろう。」
なんて心に決めた。
しばらく、細い路地をフラフラと彷徨っていると大きな通りに出た。
「臨港線」と書いてある。
なんて、響きの良い路なのだろうか。
素敵な名前「臨港線」。
そう、心の中で呟きながら道路を横断すると、徐々に海の気配が漂い始める。
すると、西日の中に、一際高くそびえる建物が目に入る。
その正体が気になり、海へ行く前に寄り道がてら、その建物を目指して歩き始める。
徐々に近づくにつれ、その建物が周囲の他の建物に比べ、異様に高いことを実感する。
そして、ついにその麓まで来ると校門が見えた。
遠くから見えた建物は、武庫川女子大学付属中学・高等学校の時計塔だった。
校門前でそれを見上げていると、中から生徒が出てきた。
皆、校門で振り返って、校舎に礼をして帰路へ着く。
それは学生だけでなく、中で働く職員の方も行っていた。
西日がさす校舎に向かって礼をする姿が、どこか儀式的で、思わず目を奪われてしまった。
・
さて、進路を再び南へ。
おそらく海はもう目と鼻の先だ。
あちらこちらにコスモスが咲く、小さな川沿いを歩いていると、支柱が連なる建物を発見した。
西日を浴びて、不気味な雰囲気を醸し出すその建物。
どうやら公園の一部らしい。
その支柱は、少しだけ階段を登った場所にあり、下には広場が見える。
僕は、その建物を「鳴尾のパルテノン神殿」と名づけた。
不思議なもので、名前をつけた途端、先ほどまで放っていた不気味な雰囲気は一瞬で取り払われた。
僕は「鳴尾のパルテノン神殿」に立ち、周囲を見渡す。
下の広場では、バレーボールをやっていたり、ランニングをしていたり、親子で野球をしていたり。
どこか懐かしい風景が目の前にあり、小学生の頃、友達と日が暮れるまでボールを追いかけていた頃を思い出した。
・
少し離れた場所から夕陽の差す「鳴尾のパルテノン神殿」を振り返ってみると、さっきより、ちょっと威厳に満ちているような気がした。
もしかすると、鳴尾の謎の公園の建物も、僕が「パルテノン神殿」と名づけたことで、その自負が芽生えたのかもしれない。
そんなことを思いながら公園を後にした。
そしてようやく、今日の一つの目的でもある海へ辿りついた。
夕日が沈む直前の海。
あまりの美しさに、頭を空っぽにして見入ってしまった。
・
水面にも空にもオレンジのグラデーションが広がる。
空を見ると、飛行機雲が見えた。
あの飛行機はどこへ向かうのだろうか。
青からオレンジのグラデーションに彩られた空を走る飛行機雲を眺めながらそんなことを考えていた。
そしたら、いつの間にか飛行機雲は消えていた。
・
日も沈み、あたりが暗くなり始めた頃、僕は海を後にした。
帰りは来る時と違った道を選んで、フラフラとしながら帰路に着いた。
・
勘を頼りにして、来る途中に見つけた酒屋を目指す。
この旅に地図など不要だ。
全ては、その日の出会い次第。
もし、見つからなければ、それはそういった運命なんだろう。
・
すっかり日も沈み、あたりは暗くなる。
各家ではご飯の準備をしているのだろう。
街を歩いていると様々な匂いが漂ってくる。
・
フラフラと鳴尾の住宅街を彷徨していると、暗闇の中に例の煙突のシルエットが見えた。
「見つけた。」
前まで行くと、常連の方々が中で盛り上がっている。
一瞬怯み、思わず通り過ぎてしまった。
でも、ちゃんと戻って来れて、ここで入らなかったら僕はきっと後悔する。
それに、この街で僕はまだ誰とも話せていない。
・
思い切って中に入ってみた。
すると、一瞬皆が止まった。
・
「1杯飲んでもいいですか?」
なんかいつもと比べて、声が変な感じに出た。
すると、常連さんが荷物を寄せて、席を作ってくれた。
「何飲む?」
「瓶ビールを」
「大中どっち?」
「中で」
「アサヒとキリンがあるけど」
「キリンで」
全国共通。
居酒屋で行われる儀式的なやりとりを一通り終わらせると、クラシックラガーの瓶が目の前に出された。
クラッシクラガーの瓶を見ると、なぜか安心してしまう。
ビールの中で、最も安心を与えてくれるのがクラッシクラガーだと僕は思っている。
この店に入って良かった。
この時点で確信に変わった。
・
ただ、さすがに急に入ったため気まずい。
酒だけが進む。
常連さんの会話の後ろから、冬眠を前に、猪が街に出てきたという被害を伝えるニュースが聞こえてくる。
「そういえば、昔、営業で向かった芦屋の山手で猪を見たなぁ。
あれも今頃だったかなぁ」
ビールを片手に猪との思い出を振り返る。
・
「なんでここに来たんだ」
それはあまりにも唐突な出来事だった。
急に、常連さんに話しかけられた。
「あっ。なんとなく、駅をふらっと降りて、気づいたらここに。」
油断していたこともあり、気の利いた一言も出なかった。
「なんだそりゃ。笑」
確かに、僕も「なんだそりゃ」だわと思った。
「ですよねぇ。本当に。でも、夕方に見た時に、この店には来たいと思ったんですよ。」と素直に伝えた。
「お兄さん。つまみここから好きなの選びな。」
ソーセージを1本とった。
「大将。このソーセージ。私につけといて。」
「えっ。それはさすがに、申し訳ないので。」
「いいのいいの。これくらい。」
断ろうと思ったけど、僕もきっと中津でこんな出会いがあったら、それくらいしちゃうなぁと思い、ここは気持ちよく奢ってもらうことにした。
「ご馳走様です。ありがとうございます。」
そこから常連さんと共に世間話をした。
ゴミ袋の話、大阪の話、いつもここに来ている話、世間は思った以上に狭い話。
なんだか、よくある話だ。
この駅だけが特別な訳もない。
どこでもできるたわいも無い会話。
ただ、今日の僕には全てが新鮮だった。
・
19時頃、お礼とお別れを告げ店を後にした。
暦では冬を迎えたというのに、夜になっても心地が良い。
それはほろ酔いのせいなのか。
それとも楽しい時間を過ごせたからなのだろうか。
・
駅に戻ってきた。
頭上には「阪神電車 鳴尾・武庫川女子大前駅」という文字が見える。
最初に見上げた時より、なんだか馴染みのある駅に感じられた。
この街に来れて良かった。
心から思えた。
僕は心の中で街に頭を下げた。
そして、改札をくぐり帰路に着いた。
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[翻訳] コロナ禍と印中対立のなかのインド華人
中国系インド人の愛と憧憬
2020年7月25日
アスミター・バクシー
ガルワーン渓谷事件後の印中関係緊迫化、コロナウイルス・パンデミックによる反中感情の高まりとともに、インド系中国人コミュニティは集中砲火を受けている
3月17日、41歳のミュージシャン、フランシス・イー・レプチャは、急遽切り上げたプリー〔※オリッサ州の都市〕旅行からコルカタに戻る列車の中にいた。新型コロナウイルスは全国でその存在感を示しつつあり、ナレーンドラ・モーディー首相が厳重な全国ロックダウンを発表する日も近かった。レプチャが家族と一緒にまだプリーにいた間も、彼がチェックインしようとするとホテルの宿泊客は反対の声を上げ、路上では「コロナウイルス」と呼ばれ揶揄された。
フランシスは中国系インド人で、母方と父方の祖父は1930年代に他の多くの人と同様に日本の侵略から逃れてインドに来た。彼らはダージリンで大工として働き、地元のレプチャ族の女性と結婚した。のちに彼の両親はコルカタに移り住み、そこで彼は生まれ育った。
このミュージシャンは1980年代に幼少期を過ごし、ドゥールダルシャン〔※インド国営TV局〕で『ミッキー・マウス』や『チトラハール』を見たり、マドンナに憧れたり、クリフ・リチャードの「ダンシング・シューズ」に合わせて頭を振ったりと、これらを6歳で楽しんでいたわけだが、童歌「ジャック・アンド・ジル」に関係があるという理由が大半だった。彼は流暢なベンガル語と「荒削りなヒンディー語」を話し、そして、彼によれば「ほとんどお向かいのチャタルジー一家に育てられた」という。
列車がガタンゴトンと進むなか、冷房寝台車の他の乗客たちは、彼には自分たちが何を言っているのかわからないと思い込んで、「中国人」について疑いの声を上げはじめた。フランシスはすぐさま口を挟んだ。「私は流暢なベンガル語で、自分がコルカタ出身で、中国に行ったことはなく、彼らに感染させることはないと説明した」のだという。「彼らの顔を見せてあげたかった」。
コルカタに戻ると、フランシスはプリントTシャツを注文した。彼はコルカタ・メトロのセントラル駅の真上に住んでいるのだが、それが明るい否定のメッセージとなり、かつ人種差別に対して有効なツールとなるだろうと考えた。フランシスのさっぱりとした白いTシャツの上の端正なベンガル語のレタリングには「私はコロナウイルスじゃない。コルカタ生まれで中国には行ったこともない」とある。
6月15日、国土の反対側では、俳優兼歌手のメイヤン・チャンが、過去13年にわたって本拠地と思ってきた都市ムンバイで、夕食をともにするために友人宅を訪れていた。彼らはテレビのニュースを見ていたが、その放送は特に憂慮すべきものだった。2つの核保有国が数十年間争ってきた境界である実効支配線に沿ったラダックのガルワーン渓谷でインド兵20人が中国軍に殺害されたのだ。
「衝突の後、ダウン・トゥ・アース誌のインタビューに答えた時、私の最初の反応は怒りでした。『どうして私が自分の愛国心を証明しないといけないのか。どうして私がインドを愛し、中国を憎んでいると言わなければならないのか』。私はその国のことを知りもしません。中国というレンズを通して自分が引き継いでいるものは理解していますが、それだけです。私にはインド以外の故郷はありません」と彼は言う。しかし、彼の経験上、怒りは何の役にも立たない。「その代わりに、私は異文化交流の美しさについて話しました。それはインド全土に存在するものです。私たちの外見だけを理由に自分たちの仲間ではないと考える人々には驚かされます」。
チャンもまた中国系である。彼はジャールカンド州ダンバードに生まれ、ウッタラーカンド州で学校教育を受けた。彼の父親は歯科医で、チャンもベンガルールで歯学の学位を取得している。彼は自分の家系を詳細に遡ることはできていないが、先祖が湖北省の出身であることはわかっており、そこは1月以来、ニュースを席捲している。新型コロナウイルスが最初に報告された武漢とは、同省の首都である。
37歳の彼は、主流エンタテインメント産業で名声を得たおそらく唯一の中国系インド人コミュニティ出身者である。2007年にTV番組『インディアン・アイドル』の第3シーズンで5位になり、2011年にはダンス・リアリティ番組『ジャラク・ディクラー・ジャー』で優勝し、さまざまなTV番組やクリケットのインディアン・プレミアリーグなどのスポーツイベントの司会を務め、『バドマーシュ・カンパニー』『探偵ビョームケーシュ・バクシー!』『スルターン』『バーラト』という4本の大作ヒンディー語映画に出演してきた。
しかし、この数ヶ月の間、彼もまたCOVID-19についての世間の興奮と、そして目下の印中対決についてのそれを感じている。パンデミックのせいで人々が人種差別的発言を黙認しているため、彼はオンラインや路上で野次られてきた。実効支配線での印中対峙後は、これに無言の圧力、あるいは彼が言うところの飽くなき 「愛国欲」が続いた。「医療、経済、そしてある程度の人道的危機の最中に国境での小競り合いや恐ろしい話が出てきて、どう考えていいのかわからなかった」と彼は言う。
中国系インド人3世として、チャンとフランシスは共通点が多いように見える。二人ともインドで生まれ、家系は中国に遡り、家業を継ぐという中国的伝統から逸脱し、ディーワーリー、イード、クリスマス、旧正月をまぜこぜに祝って育ち、フランシスが的確にもこの国の「微小マイノリティ」と呼ぶものに属している。
この二人はまた、パンデミックが世界中で反中国の波を引き起こし、米国のドナルド・トランプ大統領が新型コロナウイルスを繰り返し「中国ウイルス」と表現している時にあって、中国系インド人が味わっている苦難を象徴している。インドでは中国との国境問題が状況をさらに悪化させている。怒りの高まりにより、政府は59の中国製アプリを禁止し、大臣たちは中華食品やレストラン(大半はインド人によって経営されている)のボイコットを求め、中国の習近平国家主席の肖像が燃やされ、COVID-19と紛争は危険なまでに一体視された。
この敵意の副作用はチャンやフランシスのような市民や北東部インド人が被ることになり、路上で暴言を吐かれたり、家から追い出されたりした。デリー在住の中国系ジャーナリスト、リウ・チュエン・チェン(27歳)は、地元のスーパーで人種差別的な悪罵を浴びせられた。「私の母はいつもならウイルスから身を守るためにマスクをするように電話で言ってきたはずですが、国境紛争の後は顔を隠すためにマスクをするよう言われました」と彼女は言う。
印中関係が緊迫するなか、世代を越えて広がりつづけているトラウマである1962年の中印戦争の記憶が前面に出てきた。では、こんな時代にあって中国系インド人であることは何を意味するのだろうか。
中国人の到来
インドにおける中国系インド人コミュニティの起源は、1778年に海路でインドに上陸した商人、トン・アチュー〔塘園伯公〕、またの名を楊大釗に遡る。伝承によれば、アチューは当時のイギリス総督ウォーレン・ヘイスティングスより、日の出から日没まで馬に乗るよう、そしてその間に彼が通過した土地は彼のものになると言われたと、あるいは(より公式なヴァージョンでは)彼のホストとなったイギリス人に茶を一箱プレゼントしたおかげで土地を与えられたとされている。
フーグリー川沿いにあったアチューの土地は、現在はアチプルとして知られている。彼を讃えて記念碑が建てられ、中国系インド人の巡礼地となっている。アチューの後を追って何千人もの中国系移民が続いた。彼らの上陸港はコルカタであり、長年にわたっていろいろな職業の多様な集団が植民地インドの当時の首都にやってきた。
「1901年の国勢調査はカルカッタに1640 人の中国人がいたと記録している。中国人移民の数は20世紀最初の40年間、特に内戦と日本の中国侵略のために増加しつづけた」と、デバルチャナ・ビスワスは2017年8月に『国際科学研究機構人文社会科学雑誌』に掲載された論文「コルカタの中国人コミュニティ:社会地理学によるケーススタディ」1の中で書いている。
ダナ・ロイの祖父母も、日本による侵略の時期にインドにやってきた。コルカタの学校で演劇を教えている36歳の彼女は、『亡命』と題した作劇のプロジェクトに取り組んでいるときに、母方の中国人家系を辿った。「中国の家庭は一夫多妻制だったので、私の祖父は三度結婚しました。そのうち一人は中国で亡くなり、二人目は第二次世界大戦中に日本の侵略から4人の子供を連れて逃れました」と彼女は説明する。彼らの家は、広東省の小さな村唯一の二階建ての建物で、日本軍はそれを司令部としたのだという。
ロイの祖父は、その頃には既にインドで輸出入業を営んでおり、インドにはヒンディー語と広東語の両方を話す中国系の妻がいた。彼の職業柄、家族を船で渡らせるのは容易だった。「叔父の一人には眩暈症があり、大きな音を怖がっていたのですが、(道々)聞いたところでは、村から逃げる際に日本の戦闘機に追われたからだとのことでした」と彼女は言う。
長い間、彼らは均質的集団として見られてきたが、インドに来た中国人は実際には相異なるコミュニティの出身だった。その中でも最大のものは客家人で、まず皮なめしに、最終的には靴作りに従事した。彼らはコルカタのタングラ地区に住み着いた(市内に2つあるチャイナタウンのうちの1つであり、もう1つはティレッタ・バザール)。このコミュニティは他のいくつかのグループのように一つの技術に特化してはいなかったが、ヒンドゥー教のカースト制度が皮革を扱う仕事をダリトのコミュニティに委ねていて、客家人にはそのような階層的制約がなかったため、彼らはコルカタで皮なめし工場の経営に成功することができた。
チャンが属する湖北人コミュニティは歯医者と紙花の製造に従事していた。「ラージ・カプールやスニール・ダット主演の古いヒンディー語映画に出てくる花は全部私たちが作りました。俳優がピアノを弾き、メフフィル〔舞台〕の上に花々が吊り下がっていたなら、それは全部我が家の女たちが作った物です」とコルカタ湖北同郷会会長、65歳のマオ・チー・ウェイは言う。
広東人は大半が大工で、造船所や鉄道に雇われたり、茶を入れる木製コンテナづくりに雇われたりしていた。1838年、イギリス当局はアッサムの茶園で働かせるため、多くが広東人の職工や茶栽培農夫からなる中国人熟練・非熟練労働者を導入している。
1949年に毛沢東率いる共産党が政権を握ると、中国への帰国は問題外であることが明らかになった。そのため、女性たちはインド在住の家族と合流しはじめ、すぐに東部諸州の中国人居住区にはヘアサロンやレストラン、ドライクリーニング店などが点在するようになった。
寺院が建てられ、コルカタのタングラとティレッタ・バザール、アッサム州のティンスキアには中国人学校ができた。賭博場や中国語新聞、同郷会館などもでき、春節や中秋節を祝うほか、中国の儀礼に従って結婚式や葬儀を行うようになった。
「彼らがコルカタに定住し始めた18世紀後半から、1960年代初めまで、中国人移民は、とりわけ同じ方言グループでの内婚や、文化実践、独特の教育システム、住居の排他的なあり方を通じて『中国人アイデンティティ』を維持することに成功した」と、張幸は彼の論文「中国系インド人とは誰か?:コルカタ、四会、トロント在住中国系インド人の文化的アイデンティティ調査」の中で述べている2。
このコミュニティと祝い事��時代は、1962年の印中紛争で突然終わった。戦前には5万人と推定されていた中国系インド人の人口は約5,000人にまで減少した。彼らの多くはその後、海外に移住した。
融合する文化
「アイデンティティとは、単に『私は中国人か、それともベンガル人か』というよりも複雑なものです」とロイは言う。「アイデンティティを主張したり断言したりする必要性を本当に感じるのは、それが奪われつつあると感じたときだけです。アイデンティティについて聞かれたとき、特にこのような時世には、『他のインドのパスポート保持者はこんなことを聞かれるだろうか』と疑問に思うのです」。
ロイは中国系移民と地元民との不可避的な混ざり合いの象徴である。彼の母親は中国系で、ベンガル人と結婚しており、一家はタングラやティレッタ・バザールから離れたコルカタ南部に住んでいる。ロイがこれらの地区を訪れるのは、たいてい中国式ソーセージを買うためか、たまに友人と中華の朝食を食べたりするためだ。
今日の中国系インド人は、中国的伝統が失われていく一方、国籍と文化遺産の間の摩擦が増えていくという二重の現実に直面している。例えば、かつてコルカタのチャイナタウンで行われていた旧正月の祝賀会は、ほとんどがプライベートなものになっている。チャンはただ友人を家に招待することが多い。ロイは親戚とご馳走で盛大に祝ったり、「みんなが忙しければ」ただオレンジを食べて祝ったりしている。
若い世代が広東語や北京語ではなくヒンディー語や英語を学びながら成長し、儒教のような中国の伝統的な宗教的習慣から遠ざかるにつれ、彼らのアイデンティティの中国的側面はますます衰えつつある。以前はそのアイデンティティの別称として機能していたタングラも、今や混合文化に道を譲った。また、環境問題により1996年には皮なめし工場が閉鎖された。
それでもフランシスのように、自分たちの文化を守るためにできることをしている人もいる。彼は友人と毎年の旧正月にはコルカタで龍の踊りを披露する。「私たちは衣装と太鼓を身につけ、旧チャイナタウン、新チャイナタウンその他、コミュニティが散在しているコルカタの各地で4日間にわたって上演するのです」とのことだ。彼らは彼が子供の頃に喜んで受け取っていた赤い封筒入りのお金を配る。
しかし、帰属と受容という、より大きな問題は残ったままである。チャンによれば、自身がエンタテインメント産業に加わっていることと「ヒンディー語とウルドゥー語に堪能」であること(彼はボリウッド作品を観て育ち、父親はマフディー・ハサンのガザル歌謡が大好きだった)は、人々が常に彼を「インド人」として受け入れてきたことを意味する。彼のファンは年齢層やエスニック・グループを跨いで存在する――『インディアン・アイドル』に参加していたときには中国人コミュニティが彼を支持し、より若いファンは彼が「K-POPスターやアニメ・キャラクターを彷彿とさせる」ゆえに彼を愛している。しかし、ソーシャルメディアで意見を表明することは、特に最近では危険であり、時に大騒ぎになる。
「CAA(修正市民権法)のような問題については、間接的に言及して自分の意見を伝えるようにしています。これは大事なことだからです」、彼は言う。ガルワーン渓谷での衝突の後、陸軍大尉を名乗る匿名アカウントが、彼のYouTube動画の一つにコメントして、国家に忠誠を誓い、インド人兵士への支持を公に表明するよう彼に求めた。「私はそれを大したことではないと思い、〔陸軍大尉という〕彼の名乗りに引っかけて『敵との戦いに集中してください、あなたの仲間の国民とではなく』と言いました」。
ジャーナリストのリウ・チュエン・チェンは、アイデンティティとインド政治の両方についての自身の率直な物言いは、コミュニティ内では異例であり、しばしばオンラインやオフラインで嫌がらせの標的になることにつながっていると述べる。「一度、エアインディアの飛行機に乗るとき、係員たちが私に有権者証ではなくパスポートを見せろと言い張ったことがありました。彼らは私がインド出身でないと信じていたからです」、彼女は言う。「私はパスポートを取ってすらいなかったのに」。
年長世代の政治との関わり方はやや異なっている。彼らは今でも中国政治を追いかけてはいるが、距離を置いている。「調査中、国民党シンパと共産党シンパの間にあるコミュニティ内の分断を感じました」とジャーナリストのディリープ・ディースーザは言う。彼は1962年の印中戦争の歴史を、当時強制収容されていたジョイ・マーの口頭の語りとともに記録した『ザ・デオリワーラーズ』3の共著者である。
「しかし、それだけです。彼らは台湾とPRC(中華人民共和国)の対立を私と同じように見ています。そこに親戚はいるかもしれませんが、台湾市民になりたいとか、PRCに忠誠を誓いたいというようなものではありません」。
このような関わりの多くは目に見えない。このコミュニティに共通する話として、彼らは頭を低くして注目されずにいることを好む。これは1962年に中国系コミュニティと関係者が強制収容された結果という部分が大きい。
消えない恐怖
1962年の戦争後、中国軍が国境東部のNEFA〔北東辺境管区〕、国境西部のアクサイチンに進出したとき、インド世論は怒りと疑念に満ちていた。インド人は当時のジャワーハルラール・ネルー首相の保証に憤慨し、中国に裏切られたと感じていた。今回もまた、この敵意の矛先はインドの中国系コミュニティに向けられていた。
作家クワイユン・リー氏が学位論文『デーウリー収容所:1962~1966年の中国系インド人オーラル・ヒストリー』4で書いているように、「国民的な熱狂に駆り立てられ、主流派インド人は中国人住民を追放し、時に暴力を振るい、また、彼らの家や事業を攻撃したり破壊したりした」。
リーは付け加える。インド当局は「毛沢東支持に傾いた中国語学校や新聞、中国系団体を閉鎖した。蒋介石(台湾)を支持する学校、クラブ、新聞は活動を許された。これらの学校やクラブは、マハートマー・ガーンディーの肖像とインド国旗を孫逸仙〔の肖像〕と十二芒星の〔ママ〕国民党旗の横に加えた」。
これらの状況は、当局に「敵国出身者」を逮捕する権限を与えるインド国防法が1962年に成立し、1946年外国人法と外国人(制限区域)令の改正が行われたことと相まって、ラージャスターン州のデーウリー収容所で中国系インド人を抑留するための「法的なイチジクの葉〔方便〕」になった、とディースーザは言う。
3000人近くの中国国民または中国系の親族をもつインド国民がスパイ容疑で逮捕され、最長で5年間拘束された。
「ガルワーン渓谷の小競り合いが起こったとき、私はそれについて思いもしませんでした。祖母が最初にそれを口にしました。『もし雲行きが悪くなったら、私たちは逮捕されるかもしれない』」、チャンは言う。「たとえ私達も同じことを考えていようがいまいが、そんなことは起こらないと彼女を説得するのが私のおじと私の役目でした」。
フランシスは1962年に当時10代前半だった母親がダージリンの祖母を訪ねており、二人とも収容されたという思い出話を語る。イン・マーシュも同様であり、1962年11月に13歳でダージリンのチャウラスタ地区から父、祖母、8歳の弟と一緒に収容所に連行された5。
マーシュのように、このコミュニティの多数の人がインドを離れカナダ、米国、オーストラリアに向かった。しかし、歴代の政府がこの歴史の一章を認めたり、謝罪したりしていないことを考えると、圧倒的なトラウマと裏切られたという感情は今日に至るまで残っている。
中国系インド人はなおも傷を癒やす途上にある。アッサム州の同コミュニティ出身の48歳の女性(匿名希望)は、ガルワーン渓谷事件の後、89歳の父方のおばから電話を受けた。彼女はまたも強制収容されるのではないかと心配していた。「私はそれを笑い飛ばし、心配させまいとしました。私はね、もしまたそんなことになったら、皆一緒に行ってダルバートを食べましょうって言ったんです」と彼女は言う。
大昔の法改正はまた、1950年以前にインドに来た、あるいはインドで生まれた中国人移民のほとんどは決してインド市民権を与えられないということを確実にした。例えば、彼女のおばは今や87年間インドに住んでいる。「彼女は今でも毎年外国人登録事務所に行って滞在許可証の更新をしなければいけません。ここは彼女が知っている唯一の故郷ですが、法的には決して帰属することはなく、常に部外者のままです」と彼女は言う。
以上のような要因が、生まれた国への忠誠心を公にするようインドのこのコミュニティをせっついている。例えば、ガルワーン渓谷の衝突の後、コルカタでは中国系インド人が「我々はインド軍を支持する」と書かれた横断幕を掲げてデモ行進をした。
「人々には中国共産党(CCP)が中国系インド人のことを大して気にかけていないことに気づいてほしい。彼らはおそらく我々が存在していることすら知らない。もし私が完全ボリウッド風でやりたいと思ったら、『マェーンネー・イス・デーシュ・カー・ナマク・カーヤー・ハェー〔※私はこの国の塩を食べてきた、の意〕』と言う〔=愛国心を歌い上げる〕ところまでやります」とフランシスは言う。「私の優先順位は単純です。私はインド市民であり、インド憲法に従って暮らしており、私の支持は常にこの国にあります」。
印中間の緊張がすぐには緩和されそうにないなか、アイデンティティと帰属意識の問題が頻繁に前景化されるかもしれない。チャンの不安もまた、このような思慮をめぐるものだ。「エンタテインメント産業の誰もが仕事はいつ再開できるのかと心配していたとき、敵のような見た目の顔をしているから自分には誰も仕事をやりたくないのではないかなどと、余計な不安を私が感じていたのはどうしてでしょうか」と彼は問いかける。
http://www.iosrjournals.org/iosr-jhss/papers/Vol.%2022%20Issue8/Version-15/J2208154854.pdf ↩︎
張幸(北京大学外国語学院南亜学系副教授)は女性。引用論文は2015年刊行の論集に掲載されたもの。これを補訂したと思われる2017年の雑誌論文あり。 ↩︎
http://panmacmillan.co.in/bookdetail/9789389109382/The-Deoliwallahs/3305/37 デオリワーラー(デーウリーワーラー)はデーウリー収容所帰りの意。 ↩︎
1950年カルカッタに生まれ、強制収容は免れたが1970年代にカナダに移民した著者が、トロント在住の客家人元収容者4人の聞き取りをもとに2011年にトロント大学オンタリオ教育研究所に提出した修士論文。 ↩︎
元デーウリー収容者で、収容経験を述べた『ネルーと同じ獄中で』(初版2012年、シカゴ大学出版会より2016年再刊)の著者。 ↩︎
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003年4月15日夜、福岡市中央区の日本語学校に魏と王、楊らが職員室に忍び込み、現金約五万円を盗んだ。そこは王が在籍していた学校だった。王、楊はその1月にも、同区のファストフード店に侵入し、現金230万円を盗んでいた。ここは楊のアルバイト先。4月9日には魏が別の中国人留学生2人と共謀し、中国人留学生から現金約26万円を奪うという事件も起こしている。
「3人で何かやろう」
5月上旬には、楊のアルバイト先だった同市博多区のラーメン店経営者襲撃を計画する。「面識があると発覚の危険性が高い」として断念したが、この時すでに「殺害して金を奪う」ことを念頭に置いていた。
http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
中国人留学生
王亮(ワンリャン 当時21歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は土木会社を経営し、裕福な家庭に育った。02年春、日本の大学進学を目指して福岡市内の日本語学校に入学し、同級生とともに寮で暮らし始めた。当初授業の出席率は96%と高かった。(出席率が95%以下になれば入国管理局に報告されるという。さらに低くなると強制送還される)だが王はこの年の9月、同級生とトラブルを起こし、その時の学校の対応に不信感を抱き、ほとんど学校に出てこなくなった。同級生によるとこの頃から王の様子が変わっていったという。03年4月の時点で、王はMさん宅から700mほどのところ��ある家賃2万円のアパートに楊とともに住んでいた。5月15日に日本語学校から、このままで除籍処分になると通告された。就学生が除籍処分されると、就学ビザを取り消され不法滞在になる。王は1度中国に帰り、両親に再編入のための授業料の工面を依頼していた。だが、両親が王持たせたはずの授業料は学校に納めておらず、除籍処分となっていた。
楊寧(ヤンニン 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
吉林省出身。父親は長春市の中日友好協会に勤め、母親は同市の製紙工場に勤務。王とは両親同市が古くからの知り合いだった。01年10月に就学ビザで来日し、日本語学校を卒業した後、私立大学国際商学部に入学し、アジアの貿易経済について学んだ。02年には1科目を履修しただけでさぼり、後期には病気と称して休学したが、実際は福岡市内のハンバーガーショップでアルバイトをしていた。03年4月に1度は復学したが、年間50万円余の学費が払えず、納入期限の6月末を前に「親から学費を受け取るために一旦帰国する」と大学側に説明して出国した。この時、実家には戻っていない。
魏巍(ウェイウェイ 当時23歳)
出典福岡・一家4人殺人事件
河南省出身。父は工場を経営する資産家。魏自身も高校卒業後、3年間人民軍(※)で班長を務めた。その後大連の外国語学院で日本語を学び、日本留学後は先端技術を学ぶという希望を持ち、01年4月、福岡の日本語学校に入学している。02年4月には予定通り、コンピューターの専門学校に入学した。ここでは成績もよく、奨学生候補だった。故郷には恋人もいて、ごく普通の学生だったが03年になると一転して学校を欠席がちになった。魏のアパートには中国人の女性が何人も出入りするようになり、4月には留学生仲間と中国人宅に押し入り、26万円を強奪、6月には知人の女性に暴力をふるったとして傷害容疑で逮捕された。この頃、インターネットカフェにしばしば通うようになり、王や楊と知り合った。4月9日にはかつて住んでいたアパートへ強盗を押しこんだこともある。また、他人名義で携帯電話を契約する詐欺も働いている。金にも対して困っていない優秀な学生だった彼が、03年春を境に突如犯罪行為を繰り返すようになっていた。
出典blog-imgs-34.fc2.com
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
Mさん一家
殺害されたMさん一家は、Mさん(41歳)、妻C子さん(40歳)、小学6年の長男K君(11歳)、小学3年生の長女H子ちゃん(8歳)の4人暮らし。
Mさんは1962年福岡市で生まれた。私立博多高校を中退し、中州のクラブ勤めを経て上京。東京・麻布十番の焼肉店などで修行した後、88年に福岡市中央区で韓国料理店をオープンさせた。この店は繁盛し、有名人なども多く来店、テレビでも紹介されるほど有名店になった。その後、東区にも別の焼肉店を開店し、売上も好調だった。
C子さんも福岡県出身。九州女子高校を卒業後、94年頃まで化粧品会社の美容部員として福岡空港の国際線ターミナル店で働いていた。MさんとC個さんは高校時代から交際しており、90年5月に結婚した。Kくん、H子ちゃんも生まれ、幸せ家庭を築いていた。
しかし、最初の悲劇が起こった。01年9月、BSE(牛海綿状脳症)騒動が起こり、その煽りを受けて経営していた両店は廃業に追い込まれたのである。
MさんはC子さんの親族と一緒に婦人服販売会社を始めるが、売上が低迷、さらに東区の焼肉店開店のために自宅を抵当に入れて借りた4000万円の返済も滞るようになった。
03年3月、夫婦は婦人服販売業の業績が上がらないことから、C子さんの親族から独立して、衣料品などをデパートに卸す仕事を始めた。その2ヶ月後、Mさんの知人から休眠中の会社「W」を継承して復活させた。C子さんを社長にして、衣料品販売業を本格的に乗り出した。
また失業し、金に困ったMさんは闇ビジネスと呼ばれる仕事にも手を広げていく。事件後、家宅捜索で福岡市中央区のマンションから大麻草が発見されている。Mさんは大麻草を栽培して、売りさばいていたとされている。
またMさん一家は94年から96年にかけて、外資系生保会社と、99年には国内の生保会社と、一家4人の生命保健契約を締結した。保健金額はMさんが1億2000万円、C子さんが2500万円、KくんとH子ちゃんが各2100万円の総額1億8700万円に上り、その月々の保険料は14万円近くになっていた。
ちなみにMさん一家は王、楊、魏の3人とは面識はなかった。
http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
強襲
凌遅刑
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%8C%E9%81%85%E5%88%91
凌遅刑(りょうちけい)とは、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。また「水滸伝」にも凌遅刑の記述が記載されている。また、この刑に処された人間の人肉が漢方薬として売られることになっていたとされている。この刑罰は李氏朝鮮(朝鮮王朝)でも実施されていた。また、これに酷似したものとして隗肉刑がある。
Mさんの帰宅
日付が変わって翌午前1時40分頃、Mさんが帰宅してきた。愛車のベンツC200に乗って、自宅の車庫前まで帰ってきた時、携帯電話で友人と会話している。Mさんは「今、家についた。これから駐車場にいれるから、後でかけ直す」と電話を切ったが、その友人に再び電話がかかってくることはなかった。家に入ろうとしてきたMさんを犯人達は玄関で待ち伏せていた。工事現場から盗んできた鉄パイプを、いきなり後頭部を殴りつけた後、前に向かって横から額を殴り、さらに左目周辺や頬を殴ったり、全身を蹴ったりした。さらに犯人達は2階で失神していたH子ちゃんを担ぎ下ろし、父親の目の前でいたぶったり殴打しながら、Mさんに何かを聞き出そうとリンチを加え続けていた。だが、Mさんはなにも答えず、「用がなくなった」ということで、H子ちゃんの首を絞めて殺そうとした。Mさんは土下座して、「娘だけは助けてくれ」と言ったが、彼らはこれを嘲笑し、殺害した。さらにMさんの首を白いビニール紐で絞め、気を失った彼を浴槽に浸けて溺死させた。
3人は一家の遺体を運びやすくするため、まずMさんの両手に手錠をかけ、首から足にかけて工事現場で盗んできた太い電線で縛り、H子ちゃんを背負わせる格好で固定した。また、ちょうど血のついて放置しておけない玄関マットがあったので遺体を覆い隠すために持ち出し、車を乗り捨てる際に近くの草むらに捨てた。
3人は一家4人をベンツに乗せ、その車に一緒に乗りこんだ。
博多港箱崎埠頭の岸壁に到着した3人は遺体を海に沈めるために、前もって用意しておいた重りを1個ずつつけ始めた。Mさんの腕とH子ちゃんの足を手錠でつなぎ、その手錠のチェーンの部分に別の手錠をつないで、鉄アレイをつけるなど、万全を期した。C子さんとKくんはそれぞれ両手に手錠をかけ、鉄アレイをつけた。千加さんは服を着ていないので浮き上がりそうだったので、特別に鉄製の重りを針金で巻きつけていた。
遺体を捨てた後、Mさんのベンツを運転して久留米市に向かった。これはNシステム(自動車ナンバー自動読み取り装置)でも確認された。ベンツは「ブリジストン久留米工場」クラブハウスの専用駐車場に乗り捨ててあるのが発見されてい。3人はベンツ放置後、JR久留米駅から福岡に戻った。
20日午後、博多港箱崎埠頭付近の海中から一家の遺体が次々と発見された。これほど早く遺体が発見されることは、3人にとって誤算以外の何物でもなかったはずだ。
なお事件当日の行動については3人の供述をもとに書いたが、3人が責任をなすりつけ合ったり、供述そのものを変えているので、不確かな点も多い。
http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
3人の浮上
事件に使われた手錠は台湾製でレバー操作をすれば簡単に取り外しができる金属製のおもちゃ、鉄アレイは重量20kgのもので、それぞれ福岡市内にある量販店で売られていた。この店の防犯カメラにそれらを買った人物が映し出されていた。その映像から似顔絵が公開されると、日本語学校の生徒が「同級生(王)に酷似している」と証言、ここで王とその交友関係が洗われるようになった。ここで楊の存在が浮上し、楊の携帯電話の通話記録から魏の存在も明らかになった。
また、遺体に付けられていた直方体の鉄製の重り(重量30kg)は魏が過去に頻繁に出入りしていた女性宅がある福岡市博多区の賃貸マンションの所有会社が非常階段への鉄製扉を開放させておくために特別注文したものだった。
事件後、魏は出国2時間前に空港へ向かう途中の路上で、別の暴行事件により身柄を拘束された。だが、この時すでに王は楊とともに福岡空港から上海に出国していた。この航空券は犯行の3日前に楊が用意していた。2人は中国の公安当局に身柄を拘束されることになった。
供述
「窃盗目的で侵入した。黒幕は存在しない」(王、楊)
「Mさんは高級車を持っていて金持ちそうだったから狙った」
「5月下旬に王から『おまえは格闘技ができるだろう。それなりに荒っぽいが、カネになる仕事がある』と誘われ、楊を入れて3人でMさん一家を襲った。家族4人の首を絞めて殺した後、遺体をMさんのベンツでう実まで運んで投げ捨て、その車も遠くまで捨てに行った。王は誰かに殺しを依頼されていたようで、私は成功報酬として約1万円を受け取っただけだ。残りの報酬はまだもらっていない」 (魏)
http://yabusaka.moo.jp/fukuokaikka.htm
出典kyushu.yomiuri.co.jp
公判を終え福岡地裁を出る魏被告
福岡一家4人殺害事件
王被告土下座にも消えぬ怒り 遺族、厳罰求める
出典kyushu.yomiuri.co.jp
福岡一家4人殺害事件
中級人民法院裏門で、通行人をチェックする職員
憤りは収まらなかった。昨年六月に起きた福岡市の松本真二郎さん一家四人殺害事件。遼寧省遼陽市の中級人民法院で十九日に開かれた初公判で、孫たちの命を奪った元留学生二人と初対面した遺族には、日本語での謝罪もむなしく響いた。「頭を下げれば済むと思っているのか」。一年四か月を経ても消えない激しい怒りが、異国の法廷に広がった。
王亮被告(22)は白いワイシャツ、白っぽい綿のズボン姿で法廷に姿を見せた。楊寧被告(24)は、黒いトレーナーに白っぽいズボンをはき、二人ともオレンジ色のベストを着ていた。両足には鎖、両手には手錠がかけられていた。
起訴状が読み上げられる間、楊被告は、検察側の質問に対し、はきはきと答えたが、何度もまばたきするなど緊張が見て取れた。王被告も時折、目元に手をやるなど、落ち着かない様子だった。
犯行現場となった松本さん宅の子供部屋や浴室、廊下に残された血痕などの写真がスクリーンに次々と映し出されると、王被告は終始目をそらし、楊被告も顔を上げようとしなかった。
静寂が破られたのは、王被告の意見陳述の途中だった。突然、後ろを振り返り、約三メートル離れた傍聴席の最前列に座っていた松本さんの妻千加さんの父親、梅津亮七さん(78)に向かって土下座し、約三十人いた傍聴席から驚きの声が上がった。さらに、裁判長に向き直った後、もう一度後ろを向き、日本語で三回、「すみません」と繰り返し頭を下げた。
数日前に遼陽市入りした梅津さんは、公安当局などを回り、両被告の逮捕に謝意を伝え、厳罰を要請したという。公判終了後、「頭を下げて済むものではない。それ以上にひどい目に遭わされた」と怒りが収まらない様子だった。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news-spe/20090427-462876/news/20090427-OYS1T00564.htm
裁判経過
楊寧被告人は1審で死刑判決を受け、控訴棄却を経て2005年7月12日に死刑執行された。一方、王亮被告人は遼寧省遼陽市人民検察院により無期懲役が確定した。 日本で逮捕起訴された魏巍被告人は1審の福岡地裁で事実を認めた後、ほぼ黙秘を通し、死刑判決を受けた。2審では、一転して動機や犯行過程、3人の役割、遺族への謝罪などを詳細に証言したが、控訴は棄却された。上告したが2011年10月20日に最高裁第1小法廷(白木勇裁判長)は上告を棄却して死刑が確定した。
2014年現在、魏巍は福岡拘置所に収監されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
出典stat.ameba.jp
福岡一家4人殺害事件
福岡一家4人殺害事件
日中の捜査共助と問題点
同事件は主犯格2人が中国に逃亡したため、中国との捜査共助が最大の焦点となった。結果的には日本国内の反響の大きさに配慮した中国当局が積極的に協力したため、早期逮捕が実現したが、一方で他の事件では日中間の捜査協力がほとんどなされていない実態や、アメリカ、韓国以外と犯罪人引渡し条約が結ばれていない���状も指摘され、国際化する犯罪に各国捜査当局の対応が遅れている点が浮き彫りとなった。
また、福岡地裁で行われた魏巍被告人の公判では、中国公安当局が作成した王亮、楊寧両被告人の供述調書が日本の裁判で初めて証拠採用された。これまで日本の刑事裁判では、海外の捜査当局が作成した調書は「証拠能力なし」とされることが多かったため、この判断は「国際犯罪の捜査に道を開く」と評価されたが、黙秘権が存在しない中国の調書を問題視する意見もあり、議論を呼んだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E4%B8%80%E5%AE%B64%E4%BA%BA%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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8/26(金)
まきちゃんと飲んだ。この日は西荻窪の餃子屋に行く予定で、仕事帰りに中央線が止まっていてなかなか電車が動かなかったので一旦新宿に降りてまきちゃんを待っていた。そういえばまきちゃんの誕生日だったのに何も買っていないと思い、土壇場で買うのがわたしらしいと思ったがいくつか店を見て回った。
(友達の誕生日を計画的に祝えないのが本当に非情だなと思うけどこれから改善する予定なのでやさしく見守っていて欲しい。)
誕生日プレゼントって、自分が欲しいものをつい買ってしまうんだけど、そうなるとやっぱり消耗できるいい匂いのものを選んでしまう。化粧品だと好みも似合う色も悩んでしまいがちだけど、匂いものはあまり変わったものでなければ大抵は大丈夫だろうとたかを括っている節がある。大丈夫だろうか、この認識で。
最初はSHIROに行ったが、リブランド以降距離を置いていたのと、いまいちイメージに合うものがなかったのでAíamという店にした。初めて買うお店だったけど、店員さんがいろいろ香りを教えてくれて、パケの見た目も香りもまきちゃんっぽいのが見つかったのでボディクリームにした。最初はオイルを見繕っていたけど、夏だから水っ気のあるほうがいいといいことになった。ついでに安かったので自分用に同じ香りのロールオン香水を買い、こっそりおそろいを仕込むというナチュラル重たい女の才能を発揮した。
カラオケで時間をつぶしているうちにまきちゃんの仕事が終わり、金曜日の夜に新宿で彷徨うのは「違う」という意見が一致して、動き出した中央線で西荻窪へ移動した。まだダイヤが乱れており、無理やり乗り込んだが、引き裂かれ、ベタベタの夏らしい電車で、人の隙間を目配せしながらたどり着いた。まきちゃんの近くには、大きな禰󠄀豆子を待ち受けにした変な人がいたらしい。
西荻窪の餃子屋は3回目くらいだけど、毎回食べている餃子のタレと、お通しのパクチー入りスープと、やかんでおかわりできるレモンサワーがお気に入りだ。店内のテレビで『耳をすませば』が金曜ロードショーで流れており、時々ふたりで目を向けながら飲んだ。友達と一緒に映画を観ながら飲むことが大好きなので、嬉しかった。
話している時にまきちゃんにハンドクリームをあげたら、薬物を吸うみたいにラッピング袋から匂いを吸う写真を撮ったんだけど、かなりお気に入り。かわいいし。
また飲みすぎてしまったので帰り道の記憶が曖昧だが、ちゃんと風呂に入って寝ていたので、次の日の朝は普通に会社にいけた。自転車を駅に置いてきてしまった。カメラロールに残っていた放置自転車撤去の写真だけが、心当たりなさすぎて気になる。なんだろう。
8/27(土)
まだ酒が残っていたのに、元々の予定だったのでぴーと三軒茶屋で飲んだ。わりと直前に誘ったのに、わたしが指定した日付がちょうど空いていたようで、会いたいと思ったタイミングですぐに会えて嬉しかった。約束を取り付けた時に、まず飲む場所を聞いて「三茶、豪徳寺、池尻大橋」の候補が出てきたので、わたしがぴーを誘う理由がよく理解されていて嬉しかった。地元が同じ田舎のふたりで、お洒落の街へ行き、お洒落な男を漁るのだ。結果としていい男を捕まえたことはないが、この目的があって飲むのは愉快なのだ。
約束の時間に余裕を持って到着できたので、早めに予約した「サンチャモニカ」へ行った。流行りのネオ居酒屋っぽさと小綺麗さが癪に触るが、いい店だった。カウンターだったのだが、ちょこちょこ握る店員さんが会話に混じってくるのも楽しい時間だった。
近況報告を交えつつ、好き勝手食べで飲んだ。10貫の寿司を1個ずつ取って食べたのだが、遠慮なく美味しいネタをぴーが選んでいくのが面白かった。そこが好き。追加で頼んだ大人のいなり寿司というのをぴーが先に食べたのだが大袈裟に悲しそうな顔をしだして、わたしはワーワーと批難したのだが、追いかけてわたしも食べたら本当に辛くて涙巻きどころじゃなかった。その様子を見た店員さんが、それを握った別の店員さんのせいだと教えてくれて2人して文句を言ったら、帰り際にまた涙巻きが食べたくなったら来てくださいと言われた。
店を出て、三角地帯で飲もうと画策したが、ビビり2人では何も出来ず、少し移動して見つけたお洒落なビールスタンド?屋さんの前をウロウロした。中で飲むには、雰囲気が内輪っぽかったので、買って下北沢へ歩きながら飲むことにした。ぴーはビールが飲めないのでわたしだけ買った。主に輸入だからか(セレクトショップ的な感じ)1本数千円するようなものもあったが、700円くらいのやつを買っても十分に美味しかった。レジのところにシルバニアのくだもの赤ちゃんのクッションがあって、あまりにかわいいので声に出して誉めていたら、店員さんが近くにいたお姉さんにもらったのだと教えてくれて、そのお姉さんに詳細を聞いた。買おうか今も迷っている。その場の人たちが全員綺麗な出立でビビったけど気さくでいい人たちだった。
下北沢に行くまでの道も、ふたりでキャアキャア言いながら歩いた。昔ぴーが付き合っていた男と3人で下北沢で飲んでいた時、わたしがやさぐれて駅前で知らない男と話して1人取り残された記憶が苦く蘇ってきたが、結局また駅前でダベりコンビニで買った緑茶ハイを飲みながら、弾き語りを聴いたりした。その時点で結構飲んでいたので、知らない人に話しかけたりし始めていた。投げやりすぎる自分の行動にだいたい後悔するのだけど、ぴーといるとまぁ面白かったしいいか、と思える部分もある。
トイレに行きたくて駅横のトイレに入ったら全部の個室に紙がなくて、すぐそばにいた男性陣に紙を持ってきてくれと頼んだら、男性側にもなかったらしい。恐ろしい街だ。最近できた駅前の小洒落た店群の前でウロウロしていたら、親切な若いお兄ちゃんがトイレの場所を教えてくれた。若くて好みの関西お兄ちゃんだったのでちょこちょこ話したけど、ぴーの好みではなかったらしく、引き裂かれた。
コンビニ前で追加の酒を買ったら、野球部に囲まれ、逃げられずカラオケに行った。湘南エリアの同級生3人組らしく、もうここらへんからの記憶はぼんやりしている。ぴーが飲み歌でしかカラオケをしないと言っていたので、持ち込み可能な店でギャアギャア歌いながら飲んだ。適当に帰ろうとしたら見つかってしまい、ぴーは電車に乗ったがわたしはタクシーに乗り込むあたりで野球部の1人に同乗されてしまった。どうやって追い出したのか、覚えていないが半ギレで1000円くれたことだけ覚えている。向こうからしたら、楽しく飲んでいたのに急に脱走した迷惑な人だっただろうが、次の日仕事で早く帰ることは先に伝えていたので別に気にしなかった。タクシーの運転手と一緒に1000円は少ないと、理不尽な悪口を一緒に言った気がする。住所を伝えたら寝てていいよと言われて寝たが、時々吐き気を催し、途中で止まったりしながら自宅付近に着いた。そこまでタクシー代がかからなかったことや、酔っていたわりに極端に何かを失ったわけではなかったので「やってやったぜ」という達成感があった。
ただ、降りた時に本当にわけのわからない場所にいて「どこ!?」と言ったので運転手に心配された。ほぼ目が見えていない状態に近かったので、そこから家に着いたのはすごいことだが、服をきちんと脱いで、(風呂に入らず寝てしまったので)ベッドではなくてヨギボーで寝ていたのも少し理性的だった。
そんな感じだったので、日曜日の朝会社に向かう途中から昼くらいまではまだ酔いの中にいる感じだった。雨が降っていたのに、酔いを覚まそうとずぶ濡れで歩いていて、出社した私を見た人はちょっと怖かったと思う。そのあとぴーにLINEしたら楽しそうな写真が送られてきて、迷惑をかけたことを申し訳なく思いつつも、やっぱり楽しかったなと思った。本当はふたりきりでいいのに、ワクワクを求めて子どもっぽい遊び方をしてしまう。
ちなみに土曜日もまた自転車を駅に置いてきてしまったので、今日は三日間分の料金を精算し、悔しかったのでナイトオブファイヤーを聴きながら駅の周りを無駄にぐるぐるして帰った。
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JR九州 指宿枕崎線 枕崎駅 ~ 本土最南端の始発・終着駅
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2024.01 木曽駒ヶ岳
今年初の雪山は、去年も厳冬期に訪れ、登頂はしたものの天気予報に騙されてとんでもない天候だった木曽駒ヶ岳。今回は最高のコンディション!
お昼すぎに新宿発の高速バスに乗って駒ヶ根へ向かい、駒ヶ根プレモントホテルで前泊。このホテルだと最寄りのバス停が「文化センター北」となり、ホテルからだと徒歩10分くらい。素泊まりのため夕食は近くのお蕎麦屋さんへ。
翌朝は快晴、これから登る木曽駒ヶ岳は奥にあって見えないが、その手前にある宝剣岳などは見える。始発バスが0800発なので朝はゆっくりできる。
駒ヶ根駅始発のバスは自分含めて6名しか乗せずに菅の台駐車場へ到着、ここでチェーン巻いたバスに乗り換える。駅組が乗り換えた後にマイカー組が乗車して出発するというシステムになっており、マイカー組は約70人ほどと、こっちが大多数。終点のしらび平からRWに乗り換えて一気に標高2600mへ。
RW駅直結のホテル千畳敷から外へ出ると、白銀の千畳敷カールが眼前に広がり圧巻。雪のカーテンのよう。アリのように小さく見える先行者が列をなしてカールを登っている最中。
【コースタイム】ホテル千畳敷(0940)→乗越浄土(1020-1025)→中岳(1040)→木曽駒ヶ岳(1055-1120)→中岳(1135)→乗越浄土(1145)→ホテル千畳敷(1205)
背中に日差しが差し、しかもカール内は無風のため、途端に非常に暑い。振り返れば麓に伊那市、奥には南アルプスの峰々と、その更に先に富士山が頭を少しのぞかせている。
傾斜は強く疲れるが、去年来たときは視界がかなり悪い中苦労して登ったのに対し、今回はゴールが見えているためだいぶラクに・・・こんな距離しか無かったんだ。
カール上部の岩がイカツクてとてもカッコいい(左に登山者)
どんどん抜かし、後ろは渋滞気味。抜かせてよかった。左にホテル千畳敷が見えるが、やはり去年天候悪かったときと比べ断然と近く感じる。
乗越浄土直下が最も危険。傾斜が非常に強いため蛇行して登るが、道幅が20cmあるかどうか。アイゼンの爪を効かし、ピッケルも雪に深く刺して注意深く通過する。
40分で乗越浄土へ到着、ここまで登ればあとはかなりラクな道に。去年の悪天候時と比べ15分の短縮となった。この稜線上から先は偏西風が非常に強く吹きすさぶため、防風対策を万全に。素肌を見せた部分は寒さに耐えられなくなるため、顔も全て覆う。
左手には朝麓から見えていた宝剣岳。あそこも登ろうとしたけど、もともと危険な道だし、風強いため今回はパスで。登るとしたら夏季にだな。
いくつも山荘が並ぶ。左の宝剣山荘はこの日開いていた。中には入らなかったが、発電しているような音も聞こえたし、宿泊もやっていたのだろうか?冬季は不定休らしい(基本閉まっていると思うが)。
宝剣岳への登り。かなり岩が露出している。登っている人もチラホラ見える。
カールを登りきり次に向かうのは中岳(2925m)乗越浄土からすぐ近くであっという間に到着するが、とにかく風が強すぎて吹き飛ばされそう。標高もだいぶ高いので通常よりも1.5倍くらいは疲れる。
乗越浄土から15分で中岳到着。
振り返ってみてもほんの300mくらいしか移動してないように見える。右が宝剣岳。
眼の前にはゴールの木曽駒ヶ岳が見える。ここの直下は岩が露出していて(風強すぎて雪が積もらない)、アイゼンの爪を引っ掛けて転ばないように注意は必要。アップダウンはそんなに大きくない。途中に見えるのが頂上山荘。
中岳から15分、ホテル千畳敷からは75分で木曽駒ヶ岳に到着。半分以上はカールを登り切るための時間だった。奥に御嶽山。
正面が少し冠雪した八ヶ岳連峰、麓に伊那市~箕輪市。
北アルプス山脈。
駒ヶ嶽神社。威厳がある。
日差しがあって温かいが、たまに爆風が吹いてこんなかんじ
右に見えるのが三沢岳?左奥が空木岳と思われる。駒ヶ岳から空木岳へは縦走してみたいと前々から思っていた。空木岳への非常に大きなアップダウンがとてもキツイんだとか。
南アルプス連邦が並ぶ。富士山も頭だけ見える。
帰りのバスは予約していないからいつ下山してもいいのだが、翌日は仕事もあるので30分くらいして下山する。
中岳へのアップダウン。
カールを下る。やはり危険なのは非常に急角度な乗越浄土直下。とはいえアイゼンとピッケルを駆使すれば大きな問題はない。
乗越浄土からカールの下りはわずか20分(登りは40分)。傾斜が急なだけに下るスピードも早い。休憩含めわずか2時間強の行動時間だった。短時間とはいえ、雪山の道具に慣れてないと要所要所危ないし、偏西風の影響もあるため装備は特に大事。
駅に着いたときには次発RWまで時間的余裕があったので(RWは1時間毎)、ホテル千畳敷にて昼食。カレー1800円とお高いが、まぁ山の上だし。レトルト感は無くけっこう美味しい。
RWを下ってしらび平駅に着き、来たときと同様そこからバスを乗り換え駒ヶ根駅方面へ。去年もそうだったが、新宿行きの高速バスへの接続が1~2分差とわずかに合わず、今回も目の前で高速バスが行ってしまう。高速バスは1時間毎に出ているのでそこまで長時間待たないが、やはりどうにかしてほしいところ。そんなわけで時間つぶしのクラフトビールのお店が行きつけになりそう。駒ヶ根の地酒で、ぶどうを使ったビールが美味しかった。
他にも、昨日の夕食に入ったお蕎麦屋も美味しかったし(けっこうそばの量が多い)、そこで出された日本酒もとても美味しかった。信濃鶴という地酒で、ちょうどこの時期新酒が出るため、酒屋で1本買って帰るほど。毎年この時期、このお蕎麦屋さんに、このクラフトビールのお店に、お土産の日本酒のローテーションでいいかもしれない。
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冷たい市街
意図的に自分を見失うため、何も考えずに神戸に行った。住む街と違う場所であれば、目的地はどこでも良かった。ただ最近読んだ本のなかに出てきたその街が、私が今までに持った印象とは真逆のかなり魅力的なものだったためそこに決めた次第だ。だが結局、旅を終えてみてもその印象が覆ることはなく、街は外来者に冷たいままだった。後で友人からの慰めとして受け取った言葉を借りれば、誠に運が悪かった、それとしか言いようがない。以下はそのネガティヴな記録である。なお、神戸が好きな人や暗い気持ちになりたくない人には読まないことをお勧めする。
電車で1時間あまりの旅。十三を経由し、昼過ぎに三宮に到着した。かつてその中にある服屋の店員になぜか試着を拒否された、個人的に嫌な思い出しかない高架下の商店街を歩き、元町方面へ。朝とは打って変わって爽やかな天気だ。こざっぱりとした表通りの先、極彩色の門を構えた南京町は観光客でごった返していた。朝から何も食べておらず腹が減っていたが、何か口に入れる前に少し散策をすることにした。
裏道で見かけた中古カメラ屋に入る。店番のおばさんが眠りこけていた。ひどく雑然とした店内。扉を閉める音に気づき、むくりと起き上がった彼女が口を開く。私は留守番なんです、何かお探しですか? ――いえ、特に。主人を呼びましょうか? ――大丈夫です。古いカメラの数々がおよそ1万円以上の値で売られている。しばらく棚を見ていると、口ひげを蓄えてでっぷりと太った店主が現れた。呼びましたので、私はここで交代...。フィルムカメラを探していると言うと、私がそれを一台も持っていない前提で話が進み、デジタルを否定しアナログを賛美する旧弊な饒舌に予期せず30分以上も耐えることとなった。俺がイロハを教えてやると言わんばかりの口調。終わる気配がないのでほとほと参った。もう行きます、と言うか言わないかのところで次の話が始まる。店主が黙ったかと思えば、彼の目の先30cmのところでこちらに背を向けて鎮座するテレビから、吉本新喜劇の大げさなリアクションが大音量で放たれる。仕方なく質問をすると、ライカを買えと言う。ライカは私の求める写りを実現してくれないことを知っているので、興味があるふりをしてお茶を濁した。10万超えのガラクタを買うつもりはない。そうして散らかった店内の真ん中でちょこんと座る店主を見ていると、汚い部屋で原稿を前にしてカメラを睨みつける坂口安吾の写真を思い出した。やられっぱなしで悔しかったので、店内の写真を撮っていいかと聞くと、断固として拒否された。面白いのに、何もわかっていやしない。そして聞いてもいない理由をべらべらと喋り出したので、途中で出ようと思ったが、なんとか堪えて最後まで相手をした。私は良い子だ。話の通じない店主含め、店全体がアナログのジャンク品のようだった。しかし、どうして「若者は苦労してナンボ」論者は、関わりの薄い他人にさえも不要な苦労を強いることができるのだろう。何よりも貴重な若さを費やすだけ費やして結果が実る保証などはどこにもないというのに。自称苦労人の彼に至って言えば、初見の若者に対してそのように重大な責任を持つことができるというのか。確かに人は、自分の経験を以てのみ説得力を持って話すことができる。だが、売れないカメラ屋を道楽経営しているという事実が説得力とは真逆の方向に働き、「フィルムは金払って失敗して上手くなるんや、それがデジタルならタダやろ? 一枚一枚を大事にせえへんねん」という主張の内容をさらに空虚なものにしていた。デジタルの恩恵を拒絶して懐古主義に浸るのも人によってはアリだが、それを他人にまで強要すべきではない。若者は、を枕詞に据えて話し始める、ストレート・アウタ・ショーワ(昭和)の親父たちは、その話さえも若者にとっては無駄な時間であるという観念など大抵持ち合わせていないため、遭遇した時には素早く距離を取ろう。
さて、出鼻を挫かれて向かったのは「ぎょうざ大学」、その名の通り餃子の専門店だ。5人ほどの待ちができていた。行列の伸びる方向とは別の方向に誤って並んでいた男が、こっちが最後ですか? と言いながら舌打ちをして私の後ろに付いた。ここでもいきなりやられてしまい、笑うしかなかった。店員に注文を聞かれ、餃子は2人前以上が注文必須だったので2人前、飲み物は水で、と言うも返事がない。誰に対してもそのような感じだったが、忙しいようなので仕方がない。南京町の餃子は、なぜか酢醤油に甘味噌を混ぜたタレで食べる。ほどなくして提供された焼きたての餃子は、皮はパリパリ、中はジューシーでかなり美味かった。店を後にし、続けざまに台湾タンパオにて小籠包をテイクアウト。皮からアツアツのスープがほとばしり、口内を優しく暴れ回る。これは美味い。分かち合える相手がいないのが残念だ。最後に近くの精肉店で巨大な唐揚げ串を買って食べた。ジューシーで、定食一人前ほどの食べ応えがある。おかげで腹がパンパンになった。ようやく食欲が落ち着いたのでコーヒーを飲みつつ文章を書く。このあたりは観光客が多すぎて店員は皆疲弊しているようだ。金持ちが相手だとしても愛想は悪い。しかし私は何よりも、ここが関西とは思えないほど関西弁が冷たく聞こえることに驚いた。むしろ優しいのは日本人より中国系だとも思えてくる。ゆく人の会話からも物質的な内容ばかり聞こえてくる。例えばこうして喫茶店で座っている横でも、おそらくだが上司と部下が仕事の話をしていて、しきりに集金集金と繰り返している。すっきりとした街並み同様、あまりにも血が通っていない人々。彼らは容姿の美醜に拘らず着ているものは一流であり、入念に施された外見、つまりは見栄の下、三宮からこのコールド・ヴェインを通り抜け、再び神戸という街の心臓に絶え間なく注ぎ込んでいるのだ。それでは、この心臓を動かす酸素の供給源はどこにあるのか? その答えを、私は旅の終わりに知ることとなる。
歩いて異人館方面へ向かう途中、「縁結びの生田さん」こと生田神社に立ち寄った。元陣内夫妻が結婚式を挙げた場所である。朱塗りの大きな鳥居と神殿に、多数の参拝客。境内の端で史蹟「生田の森」という看板を見かけたので、裏手にある鎮守の森を覗いた。数本の神木の下を人工的に固められた遊歩道と申し訳程度の小川が這っており、辺りには石碑が散在している。ここに限らず、全国どこでも史蹟というものは似たような様相を呈している。かつてあったという事実がそこに残ってさえいれば、形はどうでもいいのである。ここは雰囲気こそ薄暗く神聖な感じで、昔は広大な広葉樹林が社を囲んでいたものと思われるが、京都下鴨の糺の森がもはや森とは呼べないほど縮小しているのと同じで、空の光があちこち透けて見える程度の木立と化している。本当の意味での自然などどこにもないこの現代、かつてあったものの威光は一体この先をどこまで照らすのか。もの寂しさだけを覚えて私はそこを去った。
山手へ向かう長い坂を登り、神戸北部の一角にある北野異人館街に到着した。ここは旧外国人居留地で、瀟洒な洋館が立ち並んでいる。その中のいくつかは一般公開されており、入館料を払えば中に入ることができる。「公開異人館」や「一般公開異人の家」などという看板が目につくが、決してタダという訳ではなく、入口では安くない入館料が請求されるため注意しなければならない。通りにある有名なスタバを含め、なんとなく全てがハリボテであるかのような印象を受けた。北野という地名については、京都の北野天満宮を勧請したことに由来するそうだ。上り坂を終えた後に現れる長い石段の先には北野天満神社があり、その境内からは神戸市内が一望できる。私はそれらに用がなかったので、広場の猿回しの芸者と数名の観客を横目に足早に通り過ぎた。うろこの家裏手の細い横道から山へと入ると展望台があった。街を眺めやると、近くに聳えるひときわ高いビルが目についた。ジークレフ��神戸タワーというマンションだ。葉陰からにょきっと飛び出た大建造物という構図が面白く、数枚のモノクロ写真を撮った。道中、先日の台風の影響か崖崩れが起こっていたが、崩れた土砂の上に道が作ってあった。そのまま山道を突き進んでいると、ヨーロッパから来たと思しきカップルとすれ違った。このような観光地から外れた自然の中を歩いていると、地元の人の他になぜか欧米人と出くわすことが多い。その一方で、アジア系の旅行者を見ることは少ない。これら二者は旅に求めるものの傾向が異なるようだ。私はどこにいても緑を欲するタイプなので、山や森へと続く道を見かけるとするする入ってしまう。そのせいでフランスに行った時などは、ブーローニュの森であわや迷子になるところであったが、それもまた良い思い出だ。布引ハーブ園へと延びるロープウェイの下を通り、北野から1.5kmほど歩いて辿り着いたのは落差43mを誇る布引の滝である。この雄滝と少し下流にある雌滝を合わせて夫婦滝と称する。神瀑の名に相応しい威容で、水の流れ落ちる様子はまさに白布が垂れているかようだった。モノクロ写真を数枚撮った。良い画が撮れたと思う。カメラ屋のおっさんに見せてやりたいと思った。日が暮れかかっていたため、そこにいたのはハイカーが10〜20名ほどと少なかった。が、階段を下りてくる年配の彼らは皆酒臭く、それは山中に茶屋があるためであった。古びた茶屋を少し冷やかした後、再び滝を見上げた。滝壺はたっぷりとした水量があり、翡翠色の水が綺麗だった。傍に立っていた説明看板を見ると、観光客への配慮で、滝の水が一定になるよう上流のダムからの放流量を調節しているという。一時の来訪者としてはありがたいが、やはりここも人の手が加わった「自然」であるのかと思うとまた少し虚しくなった。
麓まで引き返してきたあたりで、ふと三宮駅からポートライナーに乗ろうと思った。それはこの旅の中で最良の選択だった。吉田篤弘が『神様がいる街』で、神戸港につくられた人工島を一周して戻ってくるこの無人運転の電車のことを、「横に回る観覧車」だと言っていたのである。私はそれがどのようなものなのか興味をそそられていた。以来、神戸に行ったら乗ってみようと思っていたのである。三宮で切符を買ってホームへ。空港行きと埠頭行きがある。電車は時間通りに客を吐き出し、かつ吸い込み、淡々と運行している。埠頭行きの一番前の席を陣取って足を投げ出すと、自分が歩き疲れていることに気づいた。車両は音もなく発車した。そうして至極のろまなジェットコースターにのったような気分で、目の前で次々に繰り広げられる光景をぼーっと眺めた。もう夜になっていた。埠頭、海、ポートターミナル、公園、団地、学校。レールの下に浮かんでは消えた。いくつかの駅を経て、電車はもと来た方向へと戻る。船舶、イケア、流通基地、駐車場、ビル。最後に、海にかかる橋から言いようもなく綺麗な市街の夜景が見えた。それは今日、唯一の感動であった。神戸よ、煌びやかな街を黙々と動かし続けているのは、これらの埠頭や空港から送り出される人や物なのではないか。街路が血液の体循環を象徴しているとすれば、きっとポートライナーが結ぶラインは肺循環であり、海をぐるりと一周し、街と一時的な自然状態とを往還することで神戸のダイナモを支えているのだ。車両に乗り込んだ人々は、ぼんやりと景色を眺めたり、おしゃべりしたり、仕事や学校に向かったり、または家路に着いたりと、目的はバラバラであろうが、普通の夜の電車にありがちな雰囲気とは違った、何か独特な、人をわくわくさせる期待に満ちた空間が夜を滑って行くかのように思えた。海で仕入れた清新な大気とともに貿易センター駅で降り、三宮駅まで歩いて戻る時にこの仕組みが分かって納得した次第だ。あまりに疲れていたのでそれ以降は何も考えられなくなり、駅前でうどんを啜って帰った。京都に着いた時、友人から連絡があり、元田中の中華料理屋「上海バンド」で落ち合った。そういえば、海から見えた神戸市街も、以前にネットで見た上海外灘(バンド)の夜景に似ていたな、などとぼんやり思いながら麻婆白子やら羊のクミン炒めやらをつつくうち、ついつい飲み過ぎ、結果として予想とは違った方向で自分を見失う夜となった。
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第6回One fifty!サークルツーリングレポート
2021年7月25日に実施されました第6回One fifty!サークルツーリングのレポートをお届けします。
まず一言。
「暑かった!!!!!」
という見も蓋もない感想から始まった今回のツーレポでございます。
そして今回も、走る事に集中してしまって写真をほとんど撮っていないという失態をやらかしましたので、大変申し訳ないのですが文字ばかりのツーレポです…ゴメンナサイ
集合はファミリーマート河内長野向野店にて朝8時です。
じゅうぶん間に合う時間に出ましたら、じゅうぶん過ぎるほど早く着いてしまったのですが、それより早くメンバーのめぐさんとチャーリーさん夫妻が到着しておりました。
チャーリーさんは初参加+初対面でしたのでご挨拶。35年ぶりにバイクを購入されたそうです。お二人とも新型フォルツァの新車です。良いですねぇ(^q^)
チャーリーさんは土曜日のお休みがなかなか取れないとの事で、日曜日にツーリング実施の時にゲストというかたちでの参加をご希望されていました。
次に江崎さんが到着。相変わらずかっちょいいアエロックスです。アクラポのマフラーの存在感が凄いです。
江崎さんとチャーリーさんめぐさん夫妻は初対面でご挨拶。
そして最後に伏尾さんがADV150で到着しました。
伏尾さんは複数人数でのツーリングの経験がほとんどないそうで、正式加入前にお試しで参加してみたいとの事で、今回ゲスト参加頂く事になりました。
今回のメンバーは私含めてこの5人で走って参ります。
時間までに全員揃いましたので、5分ほど早くスタートです。
まず国道371号線を南下して行き、「御幸辻南交差点」のY字路を右へ。ここが「紀ノ川広域農道」の起点となっており、ここから約33kmの快走路がスタートします。
果樹園の中を突っ切るこの快走路の途中には、真っ直ぐな直線道路が上下に激しくうねっている「ジェットコースターの道」があります。実際にその場に行くと圧倒される情景です。(写真は過去のものです)
8時半くらいに紀ノ川広域農道起点から入って約45分、走り切る少し手前に「道の駅 ねごろ歴史の丘」がありますので、こちらでしばし休憩。
再スタートし、岩出市根来の市街地を抜けるべく南下して行きます。
市街地の標高は30mほどですが、いくつかの県道を経由しながら15分ほど走ったあたりから徐々に高度が上がり始め、30分後には市街地も抜けて海南市の山の中へ入って行きます。
ここから有田川町まで約15kmほどの山越えになりますが、一番標高の高い場所で480mあり、なかなかの涼しさでした。
山越えのあと、湯浅町の町並みに入って行きます。
商店と住宅が立ち並ぶ、なんとなく懐かしくなるような風景の中、生活道路っぽい道を進んで行くと、湯浅醤油に到着。
駐車場は広く、そして醸造蔵の良い香りで溢れていました。
ここでの目的は、「しょうゆソフトクリーム」です。文字通り、しょうゆ味のソフトクリームな訳ですが、甘いモノ+しょうゆ、というとみたらし団子のような味を想像しておりましたが、これはみたらしよりもややしょうゆ感が強く、風味が活きていました。
さらに、流石は醤油蔵だけあって、湯浅醤油を「かけて」頂く事が出来ます。つまり「追い醤油」です。
これは初めての味でした…なかなかの衝撃。たいへん美味しかったです。
参加メンバーの皆さんはどうお感じになられたでしょうか。
さて湯浅醤油を後にして次の目的地へ向かいます。
時刻は11時過ぎ。そろそろ日も高くなって来て、暑さが本格的になって来ました。
ここからは、和歌山県道22号-吉備金屋線に乗って東進。市街地を抜けると県道は国道480号線に切り替わります。
たくさんの人達が川遊びをしている有田川に沿って走り、市街地で30mほどだった標高は二川ダムを越えたあたりで200mを越え、少しずつ風がひんやりして来ます。
ちなみに二川ダムを越えた少し先に、紀美野町へ抜ける県道180号線へ続く分岐があるのですが、マップ上で見るとその先はなかなか楽しそうな峠道が広がっているエリアのようです。いずれ探検に行ってみようと思います。
(写真提供はメンバーのMEGUMIさんです)
そのまま有田川沿いを進み、道の駅あらぎの里に到着。ここでしばし休憩します。
あらぎの里は自家製の豆腐とこんにゃくが有名で、食堂の方ではそのこんにゃくを使った「こんにゃくうどん」が提供されています。
それにしても暑い…。
気温は高度100m上がるごとに0.6℃下がると言います。あらぎの里が260mですから、平地よりも約1.5℃低い事になります。
しかし…この猛暑の中の1.5℃ですから、体感的にはあんまり変わりませんね(^^;;
軒先の日陰の下でしばらく休んだら、再出発です。次の目的地「あらぎ島」は、ここから坂を登ってすぐそこです。
あらぎ島。日本の棚田百選にも入っている景勝地です。
傾斜の少ない平地では、川は様々な方向にうねりながら形成されるそうで、ここもそんな土地なのだとか。穿入メアンダー地形というそうです。ムズカシイ…
開墾され始めたのは江戸の初期で、一番上段の水田では献上米が栽培されているんだそうです。
この日は雲が多かったですが、逆にそれが立体感のある景色として映り、なかなかの景観でした。
あらぎ島から降りてきて国道480号線に戻ります。
山間ののどかな快走路を有田川沿いにどんどん進みます。
ここ最近の雨で崩れた場所があったようで、片側交互通行になっている場所が数ヶ所ありました。
決して急ではない微妙な上り坂を徐々に涼しくなって来る空気を感じながら延々と上り、花園温泉付近の橋を渡って国道480号線が県道115号線に切り替わった後、一般道としては相当長い約2kmという花園美里トンネルへと入ります。
同行メンバーさんは皆さん感じたと思いますが、トンネル内は寒い!まるで冷蔵庫に入ったかのような急激な冷気に襲われます。
ここは今回のルートの最高高度地点で、高度約550mあります。外にいても結構涼しいはずですが、そこで更に長距離トンネルです。汗をかいているだけに更に寒い!
肩をすくめながらトンネルを抜けると、シールドやミラーが一瞬で曇ってしまうほどです。
そんな天然冷蔵庫なトンネルを抜け、今度は下りのワインディングが始まります。
そのまま県道115号線を下って行き、貴志川を渡った所で右折、国道370号線・高野西街道に入ります。
標高350m前後の涼し気な街道のはずですが、ここを走っていた時は一番気温が上がる時間帯でかなりの暑さでした。それでも平地を走るよりはだいぶ快適です。そんな道を進み、突き当りで左折。ここで高野西街道は終わり、国道480号線梨子ノ木バイパスへ。
ゆるやかなカーブを繰り返す田舎道を快走し、10kmほど進んだあたりでY字路を右へ分岐、ここから紀の川フルーツラインへ入って行きます。
正式な名称は「紀ノ川左岸広域農道」といいます。紀の川フルーツラインという愛称は2014年に一般公募で付けられたそうです。
果樹園の中を、遥か眼下に広がる紀の川市を眺めながら走る絶景ロード。あくまで農道なので、果樹園の繁忙期には農機が行き交う作業用途の道路ですが、それも土日はさほど多くなく、気持よくツーリングするには最高の道路です。
果樹園という事もあって、日光を遮ってしまうような立地にはなっていません。なのでとにかく日当たりが良い!つまりこの時期はとにかく暑い!(笑)
しかしその暑さも忘れてしまうかのような、最高の眺めの中を走れる気分の良さ。
大好きなバイクに乗って、最高のロケーションの中を風を切って走る、バイクに乗ってて良かったと思える瞬間です。
そんな猛暑ロードを走ったあとのご褒美(?)は、紀の川フルーツラインの終盤にある「くにぎ広場」という休憩スポットで販売されている、絶品のフルーツサンドです。
お洒落なカフェで出て来るような見た目ではありませんが、かなり大きくカットされた果物が端までぎっしり詰まったボリュームのあるフルーツサンド。時期が合えば、この地区で採れた果物も使われるそうです。
疲れた身体に甘味が染みます。何よりも気分的にとても回復出来た感じがするんですよね。この日は桃のサンドを頂きました。
この地区では「はたごんぼ」と呼ばれる巨大なごぼうが特産だそうで、この地区にしかない地元の伝統野菜なのだとか。一度は栽培が途絶えてしまったのを復活させたそうです。
このごぼうを使った「はたごんぼ寿司」という巻き寿司が人気だそうで、予約しないと買えなかったりする事もあるそうですが、この時はいくつか残っていたようなのでお昼に頂きました。とにかく香りの強いごぼうで、とても美味しかったです。
くにぎ広場を出たら、もう紀の川フルーツラインのラストパートです。かなりの勾配の急坂を下って果樹園の広がる��を降り、国道371号線に乗って橋本市を一気に縦断します。
来る時に紀ノ川広域農道へ入った御幸辻交差点を過ぎたら、あとは最初の集合場所のコンビニに向かって、来た時と同じ道を帰ります。
集合場所から出て同じ場所に帰って来るまでの走行距離が約210km���そこに参加メンバーの皆さんのご自宅までの往復距離を足して、この日の総走行距離となります。
暑い中本当にお疲れ様でした。皆様のご協力により、事故もなく安全に走行する事が出来ました。
皆さん無事にご自宅へ戻られたようですので、これで今回のツーリングは終了です。
しかし暑かったですね…7月末でこれですから、来月はもっと暑いかもしれません。
…それでも走り出してしまうのがバイク乗りというやつです(笑)
次はなるべく涼しくなるようなルートにしてみたいと思います。
兵庫から京都あたりを巡るルートなど良さそうですね。あの辺りは涼しい場所も多いです。
それと大台ヶ原山なども良さそう。あそこは標高が1200mを超えます。もしかしたら少し寒いくらいかもしれません。しかし、日本屈指の降水量を誇る土地なので、もし行くなら雨を覚悟して行かなければなりません…。
いずれにせよ、とにかく涼しそうな場所を選んでみたいと思います。
次回のOne fifty!ツーリングは8月28日の土曜日を予定しています。
ルートは決まり次第グループLINEにてお知らせ致します。
皆様のご参加をお待ちしております。
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#044 ボーイ
日本国千葉県市川市塩浜二丁目にある市川塩浜というなにもかもが中途半端な駅の安っぽいベンチに、その男の子は座っていた。毎日いた。毎晩いた。日がな一日そこにいた。あるときは、菓子パンを頬張っていた。あるときは、ペットボトルを握っていた。あるときは、電車のドアが閉まるタイミングに合わせてフエラムネを鳴らしていた。あるときは、ぶんぶんゴマを回転させていた。どこで湯を調達したのか、カップヌードルに蓋をして、三分、じっと待っていることもあった。だいたいは小ぶりのリュックサックを背負っていたが、コンビニのビニール袋だけを持っているときもあった。紙袋を横に置いているときもあった。いつも、何も持っていないような顔をして、そこにいた。
市川塩浜駅の利用客は、周辺の工場や倉庫に努めている会社員や契約社員やアルバイトがほとんどだった。あとは、周辺の工場や倉庫に視察にきた本社の人間。男の子はそのことを知らない。なんだかみんな、一様に、具合の悪そうな顔で電車から出てくるな。男の子はそう思っていた。
ごくまれに、駅のホームで電車を待っている人が、男の子に話しかけてきた。ぼく、どうしたの? 学校は? お母さんは? 話しかけてくる人は、なぜかほとんどが女性だった。小さなツヤツヤしたバックを肩から下げ、パンプスかヒールを履いているような。視察の人間。男の子はそのたび、相手をじっと見つめ、意味ありげなジェスチャーと、意味ありげな口パクをした。自分の耳の辺りを指したり、言葉にならないうめきのような声をかすかに出した。そうすると、だいたいの人は黙り込んだ。困った顔もした。そしてそのあと、大抵の人が慌てた様子でカバンから紙とペンを、あるいはスマホを取り出した。男の子はそれを受け取り、毎回、こう書いた。
「ひとを まっています だいじょうぶです ありがとう さよなら」
相手は安心と困惑とバツの悪さが入り混じった顔をして、手を降って男の子から離れる。だいたいそんな感じだった。
男の子は考える。どうして話しかけてくるとき、最初にぼくが付くんだろう。なんだか、名前みたいだ。マイネームイズボク。男の子は不思議だった。僕はただここにいるだけなのに、話しかけてくる人は、どうしてみんな学校のことや親のこと(それも、なぜか必ず、お父さんじゃなくて、お母さんのこと)を聞いてくるんだろう。どうしたの? と言われても、答えようがなかった。そっちこそ、どうしたの? と、逆に聞いてみたかった。みんな、どういう答えを求めているのだろう。
男の子はその日、小さな巾着袋を持っていた。中にはパインアメが袋いっぱいに詰まっていた。男の子はパインアメを舐める。眼からじわじわと湧き出る涙で、男の子はこの駅にも春がやってきたことを知った。男の子は、花粉症だった。
「最近悪夢ばっか」
男の子のとなりに男が座っていた。男の子は男がしゃべりだすまで、男が近づいてきたことにも、となりに座ったことにも気がつかなかった。男の子は横目で電車の発着を告げる電光掲示板を見て、自分がほんの少しの間、眠っていたことを知った。
「この前見たのは、嵐の二宮とピアノコンサートをする夢。ステージ上にヤマハのグランドピアノが二台置いてあって、客席から見て俺は右、ニノは左のピアノの前に座って、演奏したんだ。俺はその楽譜を、そのとき初めて見た。知らない曲だった。当然、弾けない。それでも俺は頑張った。でもダメだった。コンサートは大失敗だった。俺は曲の途中でステージ上から逃げ出して、ペットショップで犬用のトイレを買った。それからあとは、覚えていない」
男は、男の子の方を見ながら、オーバーな表情と身振りで話し続けた。
「そのさらに前は、映画を撮る夢を見た。俺は寂れた小学校みたいなところで寝泊まりしていて、隣の部屋で寝泊まりしていたカメラマンみたいな奴にカメラを渡されるんだ。で、こう言われる。『俺の代わりに映画を撮ってくれないか』俺はカメラを渡される。録画機能のない、古いタイプのデジタル一眼レフカメラだった。俺は写真を撮りまくった。写真を撮るっていう行為が、つまりは映画を撮るってことだった。それから色々あって、俺は幼なじみと二人で、サバンナみたいな場所を、大量のチューバを担いで、幼なじみは引きずって、歩いていた。それからあとは、やっぱり覚えていない」
男は缶コーヒーを持っていた。プルトップは開いていない。熱くてまだ飲めないのだ。男は、猫舌だった。
「昨日は、ヤクザになった友達から逃げ続ける夢を見た」
男は、あらかじめ決められていたかのように背中を曲げて、男の子の顔をのぞきこんだ
「なあどう思う?」
男の子は男の方を向き、あらかじめ決められているジェスチャーと口パクをした。耳の辺りを人差し指でトントンと叩き、うめき声をあげた。男は眼を少しだけ見開いて、笑いを堪えるように口を尖らせた。それから、缶コーヒーのプルトップを開けて恐る恐るコーヒーを口に入れた。
「ふうん」
缶コーヒーの中身は男の舌でも味がわかるくらいぬるくなっていた。男は缶コーヒーを、今度はさっきより勢いをつけて飲み、男の子の耳元に顔を寄せた。
「つくば山に、喰いつくばあさん」
男はささやいてから、吹き出すのをこらえるような顔をして、缶コーヒーに口をつけた。男の子はそれが、駄洒落だということに遅れて気づく。男の子の脳裏に、つくば山を食い荒らす巨大な婆さんの画が浮かんだ。男の子は、自分の顔が歪むのをなんとか堪えた。
「あの、人を、待ってるから」
男の子は、口を開いた。なんだかもう、嘘をついてもどうしようもないような気がした。
「係長がさあ」男は男の子の言葉を無視して言った。
「係長が、俺に言うんだよ。『社員にならないか』って。冗談じゃねえって話だよな。部長だか支店長だか知らないけど、とにかく係長より偉いおっちゃんもそれに賛成しているふうでさ。たまったもんじゃないよな」
男は缶コーヒーを飲み干した。
「どうしたもんかしらね。やんなっちゃう」
男は立ち上がり、缶コーヒーをホームの白線の上に置いて、助走をつけて思い切り蹴飛ばした。缶コーヒーは向かいのホームの壁に当たり、地面に落ちてころころと転がった。向かいのホームにも、男の子と男がいるホームにも、男の子と男以外に人はいなかった。向かいのホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。
「みんなさ、忘れてるんだよ。俺、ちゃんと言ったんだよ。面接のときに『半年で辞めます』って、ちゃんと。忘れてるんだよな。半年。頑張ってると思うわ」
男はジーパンの尻ポケットからぱんぱんに膨らんだ長財布を取り出した。
「なんか飲む?」
「いらない」
「あ、そう」男は立ち上がり、自販機に向かった。「てか耳、聴こえてんじゃん」
男はさっきと同じ銘柄の缶コーヒーを買って、男の子のとなりに戻ってきた。男は男の子に爽健美茶のペットボトルを渡した。男の子は、それを左手で受け取った。
向かいのホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。男は缶コーヒーを右手から左手に、左手から右手に、何度も持ち替えながら、缶コーヒーが冷めるのを待っていた。最初からつめた〜いの方を押せばいいのに、男はそうしなかった。男は、ぬるい缶コーヒーが好きだった。
「どうしたもんかしらね……。やんなっちゃう」
男の子は、それが男の口癖なのだと知った。
「だから、なーんか今日、起きたときから行く気、しなくって。こんなところにいるわ」
男はジーパンのポケットからiPhoneを取り出し、男の子に見せた。
「ほらこれ、係長、しつこいんだから」
男はiPhoneを男の子のほうに向けながら、指で画面を下にスライドさせた。
「こんなに。連絡しない俺も俺だけど。どんな病気がいいかなあ。風邪って言えばじゅうぶんかな? どういう咳ならそれっぽいかな?」
「なんの仕事」
「いつの時代も、流行り病は仮病だよ。係長、困っちゃってんだよ。俺がいないと仕事、回んないから。大幅にペースダウンよ。結局、ペースダウンするだけよ。代わりなんていくらでもいるって。やんなっちゃう。いいんだけど」男は言った。「仕事? 倉庫だよ倉庫」
「どこの倉庫」男の子は言った。
「どこだっていいよ」男は言った。「あっちのほう。海の近く」
「海沿いなのに潮の匂いがしないって、やんなっちゃうよな。この駅もそうだよ。もっと漂ってきてもいいだろって。いいけどさ。山派だし」
「耳が悪いのは、ほんとだよ」男の子は言った。
「仮病?」男は缶コーヒーを振った。缶コーヒーは、着々と温度が下がってきていた。
「ちがう」
「いやでも、あの演技はなかなか。将来有望なんじゃないの」
「ちがう」男の子は言った。「きいて」
「やなこった」男は缶コーヒーのプルトップを開けた。「さっきの駄洒落、最高じゃない?」
「もっといいの、知ってる」
「ほーん」男は恐る恐るコーヒーを口に入れた。「言ってみ」
「ブラジル人のミラクルビラ配り」
「それは早口言葉だ」男は言った。「ブラジル人のミラクルビラ配り! しかも、あんまり難しく、ない!」
「おやすみなさいを言いに行くと、ママ、いつも戦争してる」
男の子と男がいるホームの電光掲示板とスピーカーが、電車がまもなく到着することを簡潔に伝えていた。その電車は、東京まで行くらしかった。男の子は、眼をこすった。主に眼にくるタイプの花粉症だった。
「去年の大晦日はひどかったな。普段は五、六個の駅も二〇とか三〇だし、舞浜なんてただでさえいつも出荷数が断トツで多いのに、一五八だぜ。一五八。やんなっちゃったよ。ほんと。シールの束がこんな量、あんの。あれは戦争だった」男は缶コーヒーをぐびぐび飲んだ。
「それで、だんだん、耳がおかしくなった」男の子は言った。「戦争って、うるさいから」
「俺も俺の周りのバイトもひーこら言いながらカゴにひたすらダンボール積んだよ。いや、言ってないけど。実際は黙々としてたよ。静かなもんだったよ。うるさいのは係長とそのとりまきの契約社員どもだけ」
男の子と男がいるホームに電車が止まり、しばらくして、また動き出した。電車に乗る人も、降りる人もいなかった。電車は二〇分ほどで東京に着く。東京駅には、電車に乗る人も、降りる人も、たくさんいた。
「今思えばあれはバケツリレーみたいだった。あんまり数が多いもんだから、みんなカゴ持っておんなじ場所に集まっちゃうんだよ。とてつもない流れ作業で、なんとか普段通りの時間に帰ることができたけど。でももう、無理だね」男はタバコが吸いたかった。「無理だね、もう」
男の子は、巾着袋からパインアメを取り出し、口に入れた。
「あ、ずる」男は言った。「ちょうだい」
男の子は、男にパインアメを一つあげた。
男は、それを口に入れた。
パインアメが溶けてなくなるまで、男の子と男はほとんど口を開かなかった。男の子と男は、それぞれ違うものを見つめていた。男の子は向かいのホームに転がっている缶コーヒーを、男は男の子のうなじを見つめていた。男の子の髪は陽を浴びて、輪っか状に光っていた。天使の輪っか、と男は思い、そんなことを考えてしまう自分が気持ち悪いとも思った。駅のホームには男の子と男以外誰もいなかった。男の子と男以外、みんなみんな、工場で、倉庫で、コンビニで、それぞれの場所で働いていた。係長はいつものように奇声を発しながら嬉しそうにフォークリフトでパレットを移動させている。バイトや契約社員はカゴ台車で、あるいはローリフトにパレットを挿して、駅構内の売店へ出荷するための飲料水が詰まったダンボールを駅別の仕分けシールを見ながらどんどん積み上げている。シールの束を口に加えて全速力で倉庫の中を端から端まで走り抜けている。そのことを男は知っていた。男の子は知らない。
男の子と男がいるホームを快速列車が通過したとき、男の子と男の口からパインアメはなくなっていた。男は空になった缶コーヒーを両手でもてあそんでいた。男の子は右手で両眼の涙を拭った。男は、花粉症ではな��った。
「将来の夢は?」男は言った。缶コーヒーをマイクに見立て、男の子の前に差し出す。
「ふつう」
「ふつう、て」男は缶コーヒーを下げた。「どうしたもんかしらね」
「たのしいよ」
「うそつけ。ママの戦争でも終わらせてから言いな」
男は立ち上がり、伸びをした。
「んーあ」
「ママ、神様が死んじゃったことに気づいちゃった」
「へえーえ」あくび混じりの声で男は言った。「そいつはすげー。もはやママが神様なんじゃないの」
「ある意味、そう」男の子はパインアメを舐め始めた。「ママ、なんでもできるよ」
「ある意味?」男はまたベンチに座った。
「うん。……うん」
男の子は、神様が死んだときのことを思い出していた。つい最近のことだ。男の子が家に帰ると、神様はリビングのホットカーペットの上で、あお向けの状態で小刻みに震えていた。男の子は震える神様を両手でうやうやしくすくいとり、テーブルの上にティッシュを二枚重ねて、その上に神様をそっと寝かせた。朱色だった身体は見る間に灰色に変わっていき、柔らかな尾ひれは押し花のようにしわしわに乾燥していった。男の子は神様の前で手を合わせ、しばらく眼を閉じてから、ティッシュで神様をくるんで持ち上げ、近所の公園の隅に小さな穴を掘って埋葬した。線香が無かったので、台所の引き出しから煙草を一本抜き出し、それに火をつけて、埋めたばかりでまだ柔らかい土にそっと差し込んだ。男の子は、もう一度神様に手を合わせた。
「僕が勝手に埋葬したから、怒ってるんだと思う」
向かいのホームに箒とちりとりを持った駅員がやってきて、掃除を始めた。男と男の子は、それを黙って見つめていた。ここからでは何かが落ちているようにも、汚れがあるようにも見えないけれど、きっといろんなものが落ちているのだろう。男は思った。駅員はこっちのホームにも来るのだろうか。何かが落ちているようには見えないけれど、きっとやって来るのだろう。駅員は階段のそばの点字ブロック付近を執拗に箒でなぞるように掃いていた。
男は、自分がまだ男の子だったころのことを思い出していた。朝が苦手で、ドッチボールと給食の牛乳が好きで、放課後はランドセルを武器にして誰かとしょっちゅう戦っていた。まあだいたい、今とさして変わんないな。男は兄のことを思い出した。
「兄妹は?」男はもう一度缶コーヒーを男の子の前に差し出した。
「いない」男の子は言った。
「一人っ子ぉ〜」男は言った。「ま、俺もそんな感じだけど」
男がまだランドセルで戦っていたころ、男の兄は家からいなくなった。車の免許を取ったあと、親の財布から抜き出したお金を使って北海道まで飛び、ネットで知り合った人の家や車を転々としながら徐々に南下し、今は沖縄本島の小さな民宿で、観光客に広東語やフランス語を教えてもらったりしながら住み込みで働いている。お金が無くなったら自殺するつもりで家を出たんだ。一年ほど前、カメラ通話で外国人みたいな肌の色をした兄が笑ってそう言うのを、男は白けた気分で聞いていた。
「行かなくていいの」男の子はパインアメを舌で転がしながら言った。
「ん? 何?」缶コーヒーが男の子の前に差し出された。「仕事?」
「そう」
「何をいまさら」男はふふんと笑う。「そのセリフ、そっくりそのままお前にお返しするわ」
「僕は人を待っているから」
「いつまで?」
「いつまでも」
「そうですか」男は缶コーヒーをベンチの下に置いた。「やんなっちゃう」
「帰らないの」
「帰ってもいいよ。でも」男はベンチの上であぐらをかいた。「でもお前が待ってた人って、実は俺のことなんじゃないの」
「……」
「あ、それ、わかるよ。絶句、ってやつだ」男は男の子を指さして笑った。
「人を待っているから」男の子は繰り返した。溶けて薄くなったパインアメを歯でガリガリと砕く音が、男の子の耳にだけ響いた。
「ああ、ほらこれ、係長からラブコール」男は震え続けているiPhoneを取り出し、男の子に見せた。「係長も、どうやら人を待ってるらしい」
やがてiPhoneの震えは止まり、男はiPhoneをジーパンの尻ポケットに押しこむようにしまった。
男と男の子は、喋りながらまったく別々のことを考え続けていた。男は兄と、兄がいたころの自分を。男の子は、神様について。思い出し、考えていた。ほんとうはどうするべきだったのか。何か間違ったことをしたのだろうか。何か決定的な間違いをおかしてしまったのだろうか。男と男の子は、それぞれが何を思って、考えているのかを知らない。ふたりは知らない。
ふたりのホームに鳩がやってきて、数歩ごとにアスファルトをついばみながらベンチの前を横切った。鳩の片足には短いビニール紐のようなものが絡まっていて、鳩が歩くたびにカサカサと微かに音が鳴った。
「帰ろうかなあ」男は男の子の左手にある未開封の爽健美茶のペットボトルを見た。「次の電車で帰るわ」
「これ」男の子は爽健美茶を男の鼻先に掲げた。「いらない」
「パパにでもあげな」男は言った。「最後の質問。お名前は?」
「ボク」
「は」気だるそうに立ち上がりながら男は短く笑った。「ママの戦争が終わるといいね」
「待ってる人が来れば、終わるよ」
「うそ。お前次第だろ」男は腰に手を当てて線路を見た。腰の形に沿ってシワができたTシャツを見て、この人ちゃんと食べているんだろうか、と男の子は思った。
「あーあ、俺も行きてえ〜、南の島」
男はあくびを噛み殺しながら、線路を見つめ続けていた。
○
男の子は、日が暮れて夜になっても、市川塩浜駅のホームのベンチにずっと座っていた。帰宅ラッシュでホームが人で溢れ、ベンチがすべて埋まっても、男の子は座ったままだった。ラッシュも終わり、駅のホームがふたたび廃墟のような寂れた静けさを取り戻したころ、男の子は立ち上がった。巾着袋をベンチに置き、ベンチの下にある缶コーヒーを拾ってゴミ箱へ捨てた。左手に爽健美茶のペットボトルを、右手に巾着袋を持って、男の子は二三時五六分発の東所沢行きに乗った。
人の少ない電車の中で、男の子は少しだけ眠り、少しだけ夢を見た。夢の中で、男の子は大学生だった。数人の友人と数人の先輩に囲まれて、お酒を飲んだり煙草を吸ったり、笑ったり泣いたり、怒ったり喜んだり、走ったりうずくまったりしていた。それは夢にしてはあまりにもありふれた、だけどどこか切実な、現実の延長線上にあるような夢だった。
目が覚めた男の子は、停車駅の看板を見てまだ電車が二駅分しか移動していないことを知る。男の子は夢を見たことすら覚えていなかった。男の子は発車ベルを聞きながら、眠っている間に床に落ちてしまった爽健美茶を拾った。
男の子は想像する。駅のホームを行き来する電車のこと、その電車に乗る人のこと、駅員のこと、そして今この電車に乗っている人のこと。みんなの家のことを。その神様のことを。そして自分の家を思う。新しい神様を見つけないといけないのかもしれない。母親を戦場から引っ張り出すには、それしかない気がした。男の子は頭を窓にくっつけて、眼を閉じた。今度は、夢を見なかった。
○
男の兄は、何かと繊細なやつだった。人混みや集団行動が苦手で、電車に乗ったり、ひどい時は家から外に出ただけで歩き出せなくなるほどだった。ネット上には大勢の友人がいた。変なところが凝り性で、パソコンのマインスイーパーやタイピングゲーム、パズルゲームをひたすらやりこんでいた。肉が駄目で、馬のように草ばかり食べていた。首筋と腕の関節部分にアトピーのような肌荒れがあり、四六時中かきむしってフケのような皮膚のかけらをあたりにばらまいていた。男が兄について知っていることは、それくらいだった。
男はアパートに帰ってから、敷きっぱなしの布団の上でしばらくボーッとしていた。係長はもう、男に電話をかけてこなかった。誰も男に電話をかけてこなかった。それでいいと男は思った。
「ブラジル人のミラクルビラ配り」
男はあお向けに寝転び、眼を閉じて呪文のように何度もつぶやいた。簡単すぎるな、そう思った。つぶやき続けているうちに男の口はしだいに動かなくなり、静かに息を吐いて、眠りはじめた。
日付が変わる少し前、男は起き上がった。頭をかきながらしばらく時計と窓を交互に見つめ、水を飲み、トイレに行ったあと、兄に電話をかけた。自分から兄に電話をかけるのは初めてだな、と男は電話のコール音が鳴ってから気づいた。
「おお」
「よお」
「もしもし?」
「うん。もしもし」
「急にどうしたの。めずらしい」兄の声は穏やかだった。
「沖縄は今、何℃だ」
「えっと……えーっとね」兄の声がくぐもって聞こえる。iPhoneを顔から離して、天気情報を見ているのだろう。「22℃っす〜」
「元気か」
「まあ元気」
「焼けてんのか」
「そりゃもう。こんがり」
「野菜ちゃんと食ってんのか」
「それ俺に言う?」
「もう死なんのか」
「そうだね」兄は間髪入れずにそう言った。「まあなんとか、生きてみようと思ってるよ。今んとこ」
「つまんね」
「なんだそれ」兄は笑った。「そっちはどう?」
「何が」
「元気か」今度は兄がインタビュアーだ。
「ノーコメント」
「家賃とかちゃんと払ってんのか」
「ノーコメント」
「野菜ちゃんと食ってんのか」
「ノーコメント」
「話にならねー」兄はまた笑った。「両親は元気か」
「しらん」男は間髪入れずにそう言った。「知ってたとしても、お前には教えないね」
「そりゃそうか。ま、いいや。とりあえず生きてるでしょ、たぶん」
男と兄はしばらく黙った。通話口からは、よくわからない言葉で笑い合う人の声が聞こえた。沖縄語も外国語も、同じようなもんだな。そして兄の言葉も。男の部屋は、静かだった。隣の部屋の生活音も聞こえない。
「電話出て大丈夫だったのか」
「いまさら。大丈夫。宿泊客と酒盛りしてただけだから」
「タノシソウデナニヨリデスネ」
「なんだよ。もしかして酔ってる?」
「ノーコメント」
「めんどくさいなー」笑いながら兄は言った。
「来週の日曜日、ヒマか」
「ヒマかどうかはわかんないけど、まあ、この島にはいるよ」
「そうか」
「何?」
「俺、お前んとこ、行くよ」
「あ、ほんとに?」
「お前をぶっ殺しに行くわ」
「わ、殺害予告」
「通報でもなんでもすりゃいいよ」
「しないよ。ワターシノアイスルブラーザーデスカラ」
「つくづくお前はつまんねえ」
「知ってるよ、そんなこと」
「逃げるなよ」
「逃げないよ」兄の声は優しかった。兄が家にいたとき、こんな声で話したことがあっただろうか。男は思い出せなかった。「まあ、おいでよ。待ってるよ」
「ファック」
男は電話を切り、電源も切ってからiPhoneを放り投げた。男は本気だった。部屋を出て、コンビニへ行き、ATMで残高を確認した男は、これから自分がやるべきことを考えながら、昼間と同じ缶コーヒーを買った。まずは、包丁。
○
男の子がグランハイツ東所沢の四〇五号室の玄関扉を開けたのは、日付が変わってからおよそ一時間半後のことだった。男の子はリビングのテーブルの前に爽健美茶のペットボトルを置いた。床に散らばっていた不動産のチラシを一枚手に取り、テーブルの上に無造作に転がっていた赤ボールペンでチラシの裏に大きく「パパへ」と書いて、爽健美茶のペットボトルの下に挟んだ。
男の子はキッチンでお茶碗に炊きたてのご飯をよそい、フライパンの中からサンマの照り焼きを小皿によそい、リビングのテーブルの上にそれらを置いて、立ったまま食べた。男の子は、少食だった。それから男の子はお茶碗と小皿を簡単に洗い、自分の部屋から着替えを取って風呂に入った。男の子は、風呂が嫌いだった。浴槽に浸からずシャワーだけ浴び、男の子は風呂を出た。それから洗面台の前で入念に歯を磨き、綿棒二本と竹の耳かきで両耳を入念に掃除した。男の子は、きれい好きだった。それから男の子は、風呂場と洗面台と、リビングとキッチンの電気を消し、玄関へと続く狭い廊下の途中にある白い扉の前に立った。部屋の中からは、銃撃、爆撃、悲鳴、ファンファーレなどの音が絶えずとてつもない大きさで聴こえていた。男の子は、扉をノックした。それから、返事を待たずに扉を開けた。男の子は部屋の中に入る。
「おやすみなさい」
男の子は、この言葉が好きだ。
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