#現代思想
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現代思想 1974年2月号 特集=現代のマルクス主義 青土社 表紙作品・構成=加納光於
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W先生は、テクストに書かれていることはひとまず全部真実であると受け止めるべきだとよく言う。そこではフィクションかフィクションではないのかという区別はいったん失効する。テクストの作り出す世界自体が、一つの現実であり、そのことに読者は忠実でなければならないからだ。
— アダム・タカハシ著「読書会のススメ 哲学の教室でル・グィンを読む」(『現代思想』2024年9月号〈第52巻第12号〉─特集…読むことの現在─、青土社)
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https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/36227
ロラン・バルト『明るい部屋』考察 : 写真の時間と「狂気」
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「一次性用品你嫌髒,為什麼別人用過的人,你卻愛得不行?」💔
📌 別人用過的一次性杯子、筷子、拖鞋,你肯定嫌髒。 📌 可別人用過的人,啃過的嘴,���至根本不愛你,你卻還放不下,愛得死去活來?
💡 到底是細節不夠傷人,還是敷衍不夠明顯? ✔ 你明知道這段關係沒結果,還是要在玻璃渣子裡找糖吃? ✔ 結果呢?傷嘴又傷胃,扎心還崩潰。
📢 愛情不是「誰先愛得深」,而是「誰先看清現實」。別讓自己一遍遍受傷,學會放手,才是對自己最大的溫柔!✨
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転生しないで、人生やりなおし 3
もしかして:全人類転生してる?
『幼児期健忘《ようじきけんぼう》』という言葉がある。これは幼児期の記憶がなくなってしまう現象を指す言葉で、その理由はまだハッキリとはわかっていないという。
幼児期健忘を『自分も経験した』と思う人は多いのではないかと考える。実際、殆《ほとん》どの人が経験していることではなかろうか。ともすれば全人類が。
経験も含めた記憶が無くなって仕舞《しま》うという話なのに、『経験した』という言い方ををするのも何だか違和感があるが、それはさておき。
私は昨日、幼児期健忘と転生《てんせい》は関係が有るのでないかという考えに行き当たった。つまり、『全人類が転生を実はしているのだけれども、幼児期健忘によってそれを忘れてしまっている』という仮説だ。
もしこの仮説が真《しん》であるならば、私もあと三年足らずで、こういった『以前の人生』の記憶を失うということになるだろうか。
そうなってくると、もしかしたら全人類は、『何度も何度も繰り返し、自分の人生をやり直している』という、また新たな可能性の発想にも展開していく事が出来る様に思える。それは、
『人生は修行で、修行が完了すると旅立つ』
といった趣向の、よくある考えにも通じていく。
ところで、それが何だか私にしてみれば、仏教めいた思考回路に感じられるのだった。生《せい》という牢獄。無限のサイクル。延々と出ることの出来ない、閉じた円環という、そういう世界観だ。
これは一般的に言われる、所謂《いわゆる》『輪廻転生《りんてんせい》』に近い考え方だろうか。否《いな》、『一般的な輪廻転生』と、わたしの提唱する仮説の異なる。その相違点《そういてん》は、『何に転生するのか』という点であると思える。私の今回の考えは、『他の生物に転生する訳ではなく、何度も何度も自分の人生をやり直しているのかもしれない』としているが、一般的な輪廻転生は他者どころか人間以外生物にも転生し得る考える。此の点が異なっている。
ここまで考えたことで、またまた当たらな可能性について考えが及《およ》ぶ。
それは、矢張《やは》り一般的な『輪廻転生《サンサーラ》』の様に他の生物にも転生する、とは考えないものの、『自分』に転生する訳でも無いとする。では何に転生するのかという、同じ人間の『他者』に転生していくのだ、と考える。つまり此の考えでは、全人類は順繰《じゅんぐ》りに他の人に転生し続けていくものであり、世界人口が1億人であった大昔であっても、『ある一人の魂』が『全員を経験するには』、何億年もの主観時間を要するとまで想定していく事も出来得る。
前者の場合は、恰《あたか》も完璧になるまで繰り返せと言わんばかりに、『修行』が完成するまで自分を繰り返すのだろうと思う。
後者の場合の特筆すべき着眼点《ちゃくがんてん》は、もし全人類が皆《みな》順繰《じゅんぐり》りに転生していってるのだとすれば、我々は皆、『全員が同じ存在だ』と言えるのではないか、という点にあるだろうか。これは「全てが一つ、一つが全て」という言葉で表す事が出来、『一元論《いちげんろん》』にも通ずる発想である。またその上で『神』という概念を採用するのであれば、『汎神論《はんしんろん》』にも近づいていける考え方だ。
ここで私が此《こ》の世界に於《お》いて、歴史上の数々の哲学者よりも優位性があると言える点は、『現に自分が一度死んだ事を覚えており、にも拘らず再び自分として生まれなおし、そしてこれが二度目の人生である、という事を覚えている』という点にある。
つまり現に『死んだら自分になる』という現象を現在進行形で体験している点である。これにより此処迄《ここまで》に挙げた幾つかの仮説への否定材料が一例、実感と確信を以って担保《たんぽ》出来る、と言うのは一種の優位性だと言わざるを得ない。
ただしこれは、哲学者達が転生していないとか、一度目の人生であったと考えた場合に於いての話であり、そもそも『すべての人間に同じ法則が適用される』とする根拠は何も無い。
我々の常識上の世界の自然法則であらば、概ね銘々同じ法則に縛られていると考える事は出来るが。転生という非常識の中にあっては、そいういった常識を信奉《しんぽう》するに足る盲信的確信がそもそも論として揺《ゆ》らいでしまうので、果たして全人類が同じ法則に縛られ、同じ経過を辿るか、というのは『分からない』というのが実情である。
もし自分が誰かの転生を観測したとしても、それは自分の主観から見た観測事実でしかなく、それをどれほど客観視したところで、『自分の主観を客観的に見ている主観』でしかない。果たしてその相手が本当に、同じ認識をもっているのか、それはわかない。
もしかすると相手はプログラムの様なもので、認識を持っている様なそぶりをしているだけの人形であり、認識を持っていないかもしれない。しかしそれを自分というものが確かめる術は無い。
とはいえこれに就いては別に、転生|云々《うんぬん》という前提が無くとも、成立し得る仮説であるからして、今回はこちらの方向に話を膨らませる事は、避けようと考える私であった。
ところで、私は先《さき》ほどから此《こ》れ等《ら》の想定に就《つ》いて、何度か『仮説《かせつ》』という単語を用《もち》いて話をしている。だか其《そ》の語は適当ではなかったかもしれない。という《《気掛《きが》かり》》が私の中に立ち込めて離れない。
『仮説』と言うとどうにも『論理学《ろんりがく》』の匂いが漂《ただよ》い出す気がするのだ。しかし私は全く論理学的な作法《さほう》に則《のっと》って此《こ》れ等《ら》の発想を取り扱おうという積もりがない。
従《したが》って代わりとして、『仮設《かせつ》』だとか『仮定《かてい》』と言った単語を使用した方が適切かもしれないと考え、実際に其の様にしようかと悩む。
然うしてもまだ、『仮設』は『仮定』と同義であるとする向きもあるし、『仮定』という語句《ごく》も大概として論理学の匂いを包含《ほうがん》している事は重重《じゅうじゅう》承知の事ではあるのだが。
而《しか》して『仮設』には、『現実とは別に頭の中で考えた内容』と言った意味があり、『仮定』には『不確かな事を仮にこうと定めた事柄《ことがら》』と言った意味があるので、此《こ》れ等《ら》の事から其《そ》れ等《ら》の言葉を用いるのは適当である様に感ぜられた。
更に個人的なイメージを付け加えるならば、『仮説』はその後《ご》何《なん》らかの『実験』をしてみることを前提としている様な雰囲気が付随《ふずい》している様に思われる。それに対し、『仮定』は何かを仮に定めてはいるが、其れは其処《そこ》から考えを発展させて行くための出発点として、取り敢《あ》えず設定しているものであって。それが事実であるかどうかはさして一旦は頓着《とんちゃく》をしていない雰囲気が有る様に思われた。
『仮設』に就いては先ほどの『仮定』のイメージの説明の中で、『設定』という言葉を用いるのが自然と感ぜられた様に、矢張《やは》り『仮定』とは近しいものがあるのだろうと思える。そして、『物語の設定』といった使い方での『設定』という語を用いて『頭の中の仮の設定』、という風な意味であるのだと主張することが何とか出来そうだと理屈づけた。めんどくさいね。
『まぁそんなどうでもいいことで、さっさと本題に入ってくれよ』
と私の心内のさる客観的な部位がツッコミを入れてきたので、この話はこれくらいにしておこうか。
というよりも、此れに関連した離散的《りさんてき》な与太話《よたばなし》をアレコレと思考したいだけだ。
そしてここまで採用してきたような心理内に於ける固めの口調にも、少し飽きてきたので、ここいらで崩してみるのも一興かもしれない。なんせ自分が考えているだけで、誰かに見せたり聞かせられるものではないので、好きに考えたらいいと思われるのであるからして、好きにしようとしている。
では何故誰かに見せたり聞かせられるものでもないのに考えているのかというと、暇だからな。
暇な赤��坊ゆえだ。
そして出鱈目《でたらめ》は楽しい。
そう、これは出鱈目な与太話なのだ。出鱈目は楽しい。与太話は楽しい。
現状の私が何かを実験したりなどする事が出来ない以上は、どこまでも思考上の児戯の域を出ないが、赤ん坊として動ける様になる迄は此の様にしてこの地獄の暇時間を空費していく他は道がない。
まぁ、能書《のうがき》はこれぐらいにするとして。
それでは、はじめようか。
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人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応
テクノロジーと人類(48)長内洋介
2025/3/29 10:00
人類が今日の繁栄を築いた根本的な理由は何か。その謎を解く鍵として注目されているのが「自己家畜化」という概念だ。人は優しく進化して飛躍を遂げたのだという。
家畜と共通点
人類は約1万年前、ヤギやヒツジ、ウシなどの野生動物を飼育して家畜化した。奇妙なことに、人はこうした家畜とよく似た性質を持っている。この事実は古代ギリシャ時代から知られ、19世紀にダーウィンも注目して研究したが、理由は突き止められなかった。
家畜化された動物は、どの種でも共通の性質が表れる。人を攻撃せず従順で、ストレスに対して鈍感、頭や顎は小型化し、体は白くなり、顔は平面的で幼くなるといった変化だ。
これは「家畜化症候群」と呼ばれ、その多くは人でもみられる。人はチンパンジーと比べて温和で、反射的に攻撃することは少ない。数百万年に及ぶ進化の過程で顎や歯は小型化し、顔は平面的になった。
人はなぜ家畜と似ているの��。その理由を説明するのが自己家畜化だ。人は誰かに家畜化されたのではなく、自ら家畜のような性質に進化したというものだ。
動物を家畜化するときは人に従順な個体が選ばれる。人類も攻撃的な人は排除され、仲良く協力できる人が自然淘汰(とうた)で生き残ってきたと考えられる。自己家畜化が始まった時期は不明だが、われわれホモ・サピエンスが誕生した頃に大きく進展したらしい。
東京大の外谷(とや)弦太特任助教(複雑系科学)は「人類は道具を使い、協力して狩りをすることで多くの食料を得られるようになった。人口が増えて社会が複雑化すると役割分担が始まり、より仲良くすることが有利になって自己家畜化が加速した」と指摘する。
愛知県立大名誉教授で野外民族博物館リトルワールド館長の稲村哲也氏(文化人類学)は「他者と協力し、相手を思いやる人間の特性は自己家畜化の過程で残ってきたのだろう。人は自ら作った高ストレス社会に適応して、より優しくなった」と話す。
仲良くなると情報や物資の交換が活発になり、新たなアイデアが生まれイノベーション(技術革新)が起きる。自己家畜化が人類の繁栄と文明の進歩に重要な役割を果たしたことは間違いないだろう。
人は大人になってもよく遊ぶ。旺盛な好奇心の表れであり、遊びによる探索や試行錯誤が新たなひらめきの源泉になる。イヌは進化の過程で自ら人に近づいたともいわれ、人と同じようによく遊ぶ。
人類は道具や社会制度を作り、農耕や都市化によって人工的な環境を生み出してきた。人が作った環境の中で家畜が飼育されるように、人間も自ら作った社会や環境の中でしか生きられない存在だ。こうした視点からも人は自己家畜化したと指摘されている。
言語にも関係
自己家畜化は人間らしさの根源である言語の誕生にも関係しているという。小鳥のジュウシマツは野生種を品種改良した家畜で、野生種より複雑なさえずりができる。人も自己家畜化によって言語の進化が起きた可能性がある。
京都大の藤田耕司名誉教授(進化言語学)によると、野生動物は生きていくため常に天敵や餌の心配をしているが、家畜はその必要がないため余裕が生じ、多くのことに注意を払い考えられるようになる。
「これが複雑な構造を持つ人間の言語が生まれた一つの要因ではないか。言語による複雑な思考やコミュニケーションが可能になった背景には自己家畜化がある」と藤田氏は指摘する。
家畜化の研究は、ロシアで20世紀半ばに行われたキツネの家畜化実験で大きく前進した。人に従順な雄と雌を交配させ、生まれた子から従順な個体を選び交配させることを繰り返した結果、わずか数世代でイヌのように尾を振る人懐っこいキツネが生まれたのだ。
しかもこのキツネは耳が垂れ、色が白いなどの家畜化症候群も呈していた。数千年は要したであろうオオカミからイヌへの進化を人工的に再現したようなものだ。
この実験によって、従順さを求めると家畜化することが実証されたが、なぜ体の変化も同時に起きたのか。これを説明する画期的な仮説が約10年前に登場し、注目されている。
鍵となるのは神経堤細胞という特殊な細胞だ。胎児のときに脊髄付近から全身に散らばり、ホルモンを分泌する副腎や骨などさまざまな場所の形成を促す。
この働きが低下すると、攻撃性を高めるホルモンの分泌が減るなどして穏やかで従順になる。骨や軟骨の形成も阻害されるため、頭が小型化したり、耳が垂れたりする変化が同時に起きることも説明できるのだ。
この仮説が正しければ、動物の家畜化は神経堤細胞の働きが低い個体を選別する行為といえる。人の自己家畜化も、そういうタイプの人が仲間や結婚相手として多く選ばれ、進行した可能性がある。
京都大ヒト行動進化研究センターでは、チンパンジーと、近縁種で自己家畜化した性質を持つボノボの人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使って、それぞれの神経堤細胞を作り、その働きを比べることで自己家畜化の決め手となる遺伝子を探す研究が進んでいる。
権力への依存
現代人も自己家畜化が進んでいるという。山口大の高橋征仁教授(社会心理学)によると、日本での代表的な美男子コンテストの候補者は、時代を追うごとにひ弱で優しく幼い印象の顔になっている。家畜化で生じる特徴的な変化だ。
分析の結果、女性は男性の優しい顔に恋愛や結婚の相手としての魅力を感じることが分かった。女性が穏やかで従順な男性を選ぶことで人の自己家畜化が進んでいる可能性がある。
自己家畜化の進行は人類の将来に何をもたらすのか。高橋氏は「幼くなるのは若々しくなることで良い面だが、課題は巨大な権力への甘えと依存が強まることだ」と話す。
インターネットが普及した今日、現代人は巨大IT企業が支配する情報インフラを従順に受け入れ、すっかり依存している。人はネット空間という見えない柵の中で飼育され、情報という餌を与えられて生きる家畜への道を自ら選んだと言ってもいいだろう。
一方、外谷氏は「人が協力して行ってきたことの多くは生成AI(人工知能)に置き換わる。人は協力することに価値を見いださず、他者や社会に無関心になっていく」と予想する。
家畜は人間に興味を示す半面、自分と同じ種への関心は低い。人間同士が無関心になることは自己家畜化の帰結ともいえそう��。
稲村氏は「人は自己家畜化によって社会性や共感を強めてきたが、集団を超えた協力はできていない。集団内の結び付きが強いほど、外部の集団と戦争を起こしてしまう。この矛盾をどう解決するか問われている」と警鐘を鳴らす。
自己家畜化論は人種差別や優生思想と結び付いて政治的に利用された過去があり、現在でも誤解されやすい。だが人間の本質を探る上で重要な論点であり、人類史を俯瞰(ふかん)して理解する新たな視座になるだろう。(科学報道室編集委員)
(人は自己家畜化で優しく従順に進化した 人工環境と社会に適応 テクノロジーと人類(48)長内洋介 - 産経ニュースから)
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天羽 希純は、日本のアイドル、タレント、アーティスト、モデル、女優、グラビアアイドル。東京都江戸川区出身。ゼロイチファミリア所属。 本名、小松 希純。愛称は「きすみん」「きっちゅー」。ファンの総称は「ちゅー魔」。 ウィキペディア
生まれ: 1996年8月12日 (年齢 28歳), 東京都
本名: 小松希純
身長: 164 cm
テレビ番組: アイドルゾーン20時
カップサイズ: G
スリーサイズ: 84 - 58 - 84 cm
家族構成は両親、弟2人(3歳下と8歳下)の5人家族。
2020年4月の時点で「バブ」「ぷり」「ポン」という3匹の猫を飼っている。
好きな食べ物は栗きんとん。苦手な食べ物は野菜。健康管理、体調管理、体型管理にはとても気を遣っているとのこと。
趣味はクラシック鑑賞、温泉・銭湯巡り、御朱印集め。神社も好き。特技はピアノ、トロンボーン、水泳。
将来の夢は女優になること、武道館ライブをすることを挙げている。数々のアイドルグループを経験しており、「普通に生きてちゃ目立てない」を座右の銘としている。
「希純(きすみ)」という名前は、氷室京介ファンの父によって、氷室の曲「KISS ME」から名付けられた。
母親の影響を受けてか看護学生時代あり。
八百屋、居酒屋、東京ドームシティでアルバイトをした経験がある。
アーマーガールズとしてデビューする前に、乃木坂46の2期生オーディションを受けて落ちた経歴がある。その乃木坂46のブログはブックマークに入れてしょっちゅう見ているほどで、いつか共演して必ず追い抜いてみせるという野望を抱いている。
『週刊プレイボーイ』(集英社)開催「適乳(てきちち)」番付には選ばれていないものの、自分こそがという思いで「適乳」をグラビアアイドルとしての売りにしている。2022年まではスリーサイズを前述のように公表していたが、2023年現在では身長以外を非公表にしている代わりにバストはGカップと公表している。
実年齢よりも幼く見え、『cream』の常連モデルを���める。自身では「高校3年生の受験シーズンの感じ」と例えている。
所属する#2i2の最年長メンバー。チームへの思い入れや責任感が強く、#2i2をより有名にしたいとの思いがモチベーションになっている。
本人は自分が不在の間#2i2のメンバーに支えてもらった事をとても感謝しており、そのメンバーの気持ちに応えるため頑張り続けたいとのこと。チーム愛も人一倍強い。
家族想い、メンバー想い、動物想いである。動物愛好家であり、2023年6月時点で3匹の猫と4匹の犬を飼っている。
人柄は明るく、謙虚さを兼ね備えている。TIF2023PR大使決定戦総合ポイントランキング1位になった際も、本人の実力ではなくファンのお陰だからとのコメントを添えている。イベントでは周囲から「神対応」と称されており、ファンとの触れ合いを大事にしている。これは学生時代交流が下手くそで、煙たがれた経験から、好きって言ってくれる人にはできるだけ感謝を伝え、1回でもドキッとして帰ってもらいたい、思い出の爪痕を残したい考えからの行動である。
2023年9月2日、国指定の難病である潰瘍性大腸炎に罹患していることを、自身のSNS投稿で公表した。
2024年10月10日夜にバイクとの接触事故に遭い、頭部を縫う怪我を負ったことをグループ公式サイトが発表した。
2024年10月28日、ヒカルチャンネルのお泊まりシリーズに初出演。
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足立区でケースワーカーやってるけど、まだギリギリ20代だし基本情報技術者試験受かったから保守運用系の底辺エンジニアに転職しようと思っている。 多少給料が下がってもいいからもう生活保護受給者や路上生活者と関わりたくない。 人間性の底辺に触れ続けて完全に疲弊した。根本的な価値観の壊れた人間とこれ以上関わり合いたくない。 知的障がい者、ひとり親、高齢単身女性はまだ許せる。 まず、知的障がい者は素直な方が多い。 知的ハンディに善性を見出すのは健常者の傲慢かも知れない。それでも窓口や電話で延々とゴネてくる人間が(少なくとも自分が関わってきた人間の中では)いないという点だけで本当に感謝したい。 彼らは余計な知識に基づく邪念がない。問題を起こさず粛々と生活を営んでくれる。就労継続支援(いわゆる作業所)を通じて自分なりに社会に貢献しようとしている。本当にそれだけでありがたい ひとり親世帯はDVやモラハラ��弱りきった女性が多い。 DVの被害に遭う女性は幼少期からの虐待や性犯罪によって自己肯定感を健全に育めなかった女性が多い。 そんな脆弱な立場にいる女性が懸命に子どもを育てているわけで。 倫理的にも心情的にも、そしてこの方たちが育てている子どもの内包する将来的な生産性を考えても、この方たちが最も優先して保護されるべき存在だと個人的に思う。 高齢単身女性は善良な方が多い。 専業主婦・パートタイム労働者として夫を通じて地域社会を支えてきた女性が夫に先立たれて経済的に困窮するというパターン。 一番話が通じるのはこの方々。ボランティアへの参加率も高い。阪神淡路大震災で高齢単身女性の死亡率が高かったことが悔やまれる。 逆に助けたくないのは、暴対法によって仕事を失ったヤクザ、生育歴がグチャグチャで頭おかしくなった元受刑者、発達や精神に障がいを抱えた男 X(旧Twitter)では常に男女が権益と正邪を巡って論争しているが、少なくとも女性は底値が高く基本的に最低限の常識と良心を持っているという点で女性の方が正しいと思う。それほどまでに底辺の男は酷い。 そして、そんな底辺の異常な男に路上やネットで絡まれて削られているであろう女性の苦労を思うと男から見ても苦しく思う。 なぜ底辺の女は結婚できて底辺の男は結婚できないか?なぜ電車やゲーセンやカラオケは女性専用エリアを設けてるか?なぜ女性を保護する施策や団体はあって男性を救済する施策や団体はないのか? 答えは簡単。男の底辺は男から見ても想像を絶するほど底が抜けているから。この国で男が弱者になるのは自業自得としか言いようがないから。 暴対法の施行によって食いっぱぐれたヤクザが、子飼いのフィリピーナを利用して、生活保護を受給する、窓口で職員を恫喝、時には暴力を振るう、集団で押し寄せて開庁から閉庁まで延々と文句を言う。 ヤクザが死に絶えるまでの過渡期だとは分かっているが、一番マンパワーを削られるのはこいつらへの対応。 そしてこいつらは生活保護の受給によって得た余暇で、街宣車に乗って駅前や繁華街で街宣車を止めてスピーカーで大音量を鳴らして市民に迷惑をかけている。 「暴対法に反対してください。家族や友達にヤクザがいるだけで貴方も暴力団の関係者として罰せられる可能性があります」 お前らがヤクザから足洗えば済む話だろ、被害者ぶるなと言いたい。 生育歴で頭がバグって犯罪を犯した元受刑者はもう野獣としか言いようがない。 家庭訪問をすると暴言で済めばまだマシ。普通に手や足、場合によっては凶器が出てくる。 そしてこいつらが暇な時間で公営住宅や近所を徘徊して、ネグレクトで放置されている女児にわいせつ行為やグルーミングを行い、メンヘラを生産し、その女児が母親となり虐待に繋がって暴力の連鎖となる。 ここ数年で増えてきて、個人的に最も不愉快なのが、発達や精神、人格に障がいを抱えた男。 弱者男性(笑)を慰撫する言説によって、大した境遇でもないのに被害者意識を膨らませ、弱者男性を相手にしたビジネスを通じて得たライフハックを通じて福祉を利用している。 こいつらは暇な時間を如何に相手を言い負かすかの理論武装に時間を費やしているからとにかく気力と時間を削られる 少し強い態度で挑めば怯むチー牛であることだけが救い。 自閉症スペクトラム症+二次障がいで生活保護を受給していた男性が、ネット上で女性に対するヘイトスピーチを繰り返して過去の発言が身元を探られて福祉事務所に通報が入ったケースもある。 福祉に携わる人間として言いたい。弱者男性を無責任に甘やかすのは社会悪。 と、こういう経緯で福祉職に疲れ果て、現在エン転職に登録してゆるゆると就活している。 どれほど助けたくなる姿をしていない弱者であっても血の涙を流しながら救済するのが使命。自分は福祉の最前線にいる。基本的人権の守護者。 そんな信念だけを糧に苦難と不条理に耐えていた時期もあった。それはもう遠い昔の話 自分一人が消えたところてメサイアコンプレックを持った人間は続々と生まれては福祉に携わっていく。 俺はもう疲れた。
弱者と福祉に対する失望
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現代思想 1979年4月号 特集=言語論 その新しい地平 青土社 表紙作品〈おしり〉=久里洋二
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いま知識が豊富だからという理由で昇進することなどありえない。どれだけはやく深く学習し身につけられるかが評価される
最初の100日で何をすべきで何をすべきではないか?|miyasaka
新任リーダが最初の100日ですべきは?してはいけないことは?なにだろうか? 最初の100日でもっともしてはいけないことで共通するのが「華麗にビジョンを語り戦略を策定して期待値をあげること」はしてはいけない。 逆に最初にすべきことはなにか?「勉強マシーンになること。具体的には資料を読み人に会って話を聞きまくる」こと。つまり最初の100日は「口はほどほどにして耳と目と足を動かせ」ということだ。
いま知識が豊富だからという理由で昇進することなどありえない。どれだけはやく深く学習し身につけられるかが評価される
何が問題かわかっていると思っていた。そして、それは間違いだった
前任者をどう扱うは極めて重要であり、しかもひどく簡単に過ちを犯しやすい
よそ者には、バカな質問が許されるという得難い特権が与えられる
自分は何も知らない部外者だと考えるようにした
せっかちすぎて上手く進まなかったことがいまになるとわかる。
最初にすべきことは何もしないことだ。新任リーダーは自分が思ってるほど状況を理解していない。仕事ができることを見せつけようとか思わないことだ。まずは立ち止まってできるだけ聞き役に徹すること。それがトップとして最も大切なことだ。
口を開く前にやるべきことがあることを理解していなかった(サマーズ)
座って聞くだけで、多くを成し遂げられるのだということを私は学んだ。
たとえ危機が迫っていても、聞くことに時間を費やすのは無駄ではない
人間は自分の話を聞いてもらうのが大好きである。
人を知るには質問することだ
今、現在のIBMに最も必要でないもの、それはビジョンである。たった今求められてるものは実践性の高い事業ごとの戦略である(ガースナー)
短期戦略は「小さな約束、大きな成果」
新CEOが着任するなり、戦略を披露するなんて馬鹿げている
新しい事業環境に乗り込んできた新米経営者は必ず苦い現実に気が付く。それは、最も無知な時に最も自分の最高を発揮しなければならないという事実だ
文化に馴染めないトップは簡単に弾き出される
改革は上から命じるものではなく、中から生み出すものだ。何万人もの社員の考え方や行動を変えるのは、大変な難事業だ。二、三度演説をしたり宣言文を書いたぐらいでは何も変わらない。社員を信じなければダメだ。(ガースナー)
誰、ではなく、何、が悪かったのか?
上司(または取締役会)の仕事へのモチベーションを理解する
株主にもっと高い価値を提供する、などと言っても社員は心を動かされない
最も好ましくない過ちは立派な約束をしてお粗末な結果を出すこと
会議にはかならず2分前に到着する
最初の100日はあちこちに回って有権者に訴える選挙運動期間のようなもの
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[B! 組織] 最初の100日で何をすべきで何をすべきではないか?|miyasaka
raimon49 全社員から聞いて回る、最近読んだサンリオ2代目社長のインタビューでも実践したって言ってた。 https://www.yomiuri.co.jp/economy/20240227-OYT1T50108/ HAL研社長時代の岩田さんも社員との面談を重視していたと本に書いてあったよね。
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ハローキティ1強に限界、次世代のカワイイはファン投票…サンリオ2代目「予想以上の業績好転」 : 読売新聞
サンリオ社長 辻朋邦氏
痛切な反省のもと第2の創業を掲げた中期経営計画では「サイロ化した組織」「頑張っても報われにくい人事制度」など反省すべき点をしっかり掲げました。 ただ、自分だけの考えでは空回りしてしまうと思いました。そこで1年半かけて私と社員、1対4の形で年代別に全社員と対話する場をもちました。何のための改革かを理解してもらおうと。 祖父はトップダウン的な部分が強かった。それが悪いわけではないですが、反面、社内の議論が少なかった。キャラクターをどう育てていくのかという議論もあまりなかった。まずはそこを変えようと、経営会議を新設しました。
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昭和の大修理の際の西岡常一棟梁の言葉をまとめた、「法隆寺を支えた木」をぜひ読んでみてください。 1400年経ったヒノキにかんなをかけると、新品のヒノキと同じ香りがするそうです。 瓦屋根の下地には、杉の樹皮が使用されていますが、これも1000年以上前のものだそうです。 1200年前のヒノキですが、新品のヒノキと同等の強度があるという実験が紹介されていました。 ヒノキは、切り出した後から、結晶化が進行し、強度を増していくそうです。 もっとも強度が上がるのは、切断した約200年後。 すべての結晶化が終わってから、強度の劣化が始まると想定されていますが、 1200年経った、現在、切り出したときと同じ強度にまで強度が低下したのではないか、ということでした。 五重塔は、芯柱が子供がしゃがめるぐらい?浮いているらしく、 西岡常一さんは、「たぶん建築中に腐ってきたから、切断したんじゃないでしょうか?」とおっしゃっていました。 キッチンも御風呂場もなく、冷暖房による結露も発生せず、通気性抜群で、雑草はもちろん、日差しを遮る樹木もないような状況であれば、木材は腐るはずがありません。 法隆寺だけではなく、薬師寺の如来、菩薩、東大寺の仁王像、興福寺の阿修羅像、古くからある仏像などは、細い指先までも、一切腐りません。 それより不思議なのは、弥生時代の遺跡から、地下水につかった状態の杉で作られた舟が残っていたり、古墳時代からきれいな壁画が残っていた高松塚古墳を現代人が発掘し、以前と同じ環境を人工的に作り出��たら、大量のカビが発生して、壁画が消えかけてしまったりすることのほうが不思議です。 法隆寺では鉄をたたいて作った釘が現在でも活躍しています。 いったん、外したのですが、同じような釘を作ろうとすると、とてつもない手間がかかるようで、同じものを使用することにしたそうです。 なんでも、鉄を何層にも重ねてたたき、さらに重ねてたたくことによって、木の年輪のように作り、奥までさびが進行しないようになっているそうです。 法隆寺に至るまでにたくさんの寺社仏閣が建てられましたが、いずれも数十年で腐ってしまいました。 山田寺など。 現在でも、木曾のヒノキを使用して、伊勢神宮が作られますが、20年ごとに建て替えています。 原因は、ヒノキの柱を地面に埋める工法を採用しているからです。 法隆寺を含めた古いお寺は、仏様を守りたいという先人たちの知恵の結晶なのでしょう。 最近では、現代人が文明を持ち込むため、たくさんの木造建築が破壊されています。 法隆寺の昭和の大修理では、金堂壁画の絵を模写して、保存しようとしていた人が、寒いからと暖房器具を持ち込んだために火事が発生し、法隆寺の金堂は全焼してしまいました。 金閣寺は、放火によって、全焼してしまいました。 東大寺の南大門は、クレーン車が、通行する際に、クレーンが上がったままになっていることに気づかず、南大門の主要建築材に多大なる破損を与えてしましました。
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転生しないで、人生やりなおし 2
『老いとは執着を手放す事である』からはじまる五蘊盛苦、それと退屈地獄
『老いとは、執着を手放していく事』だと私は思う。
若い頃を振り返ると、随分といろんな事に拘っていたなと感じる。特に学徒の頃なんかは顕著で、半ば『狂信的で』『潔癖症な』ものがあったな、とほろ苦い。そういう『ほろ苦さ』さえも、次第に『懐かしさ』として受容していってしまうのだから、人間とは良く出来たものだ。加齢と共に色んな事を受け入れられる様になっていくのであるから。
歳を重ねるごとに色んな事を経験する。厳密には、|種々様々《しゅしゅさまざま》な体験をし得る累計時間が増えていく。見聞を広め、この世界への自分なりの理解を深めていくことで、大体の事は『大したことではない』と言える程の、ある種の『寛容さ』が身についていくのである。
その|些事《さじ》に|狼狽《うろた》えない、どっしりとした姿は、なるほど確かに、謂わば『大人である』と言える様な姿であろうと思う。子供や若者が騒ぐ事に、落ち着いて対応する様になっていくのだから。
しかしそれは、一方では、『枯れている』とも言える状態なのだと私は思う。子供や若者が、『全力で』『素直に』体験を享受するのに対して、どこか『手を抜いていて』『ニヒルに』物事に当たるのだから。それだから、子供心を失った大人が『心が弾力を失う』だとか、『同じ様な日々の繰り返しだ』などと|宣《のたま》う様になるのは、当然の帰結だとさえ思う。
これ即ち『執着を手放していく』ことなのだ。
『色んな事を受け入れられる様に成っていく』と言えば聞こえは良いが、それはつまり『色んな事に拘らなく成っていく』ことと同義であり、『色んな事がどうでも良く成っていく』ことでもある。
幼児は欲しい欲しいと駄々を捏ねるのに、だんだんとその傾向は鳴りを顰めてしまう。それは一種の社会化であって、適応の一つであろうが、それこそがこの話の|骨子《こっし》、というか、全体に重苦しく横たわる根本的なものの正体だ。
若者が夢を追ったり、理想に燃えていたのに、だんだんと現実を見る様に『成ってしまう』のもそうだ。
いま私は成って『しまう』と述べたが、『しまう』という言葉には、『不本意ながらそうなる』ひいては『望ましくない』というニュアンスが含まれているきらいがあると思う。これに対して私の中で『それって別に悪い事じゃないよね』という価値観の一派が鎌首|擡《もた》げ、旗を揚げた。これぞまさに執着を手放した結果であろう。 何故ならば、私がもし夢や理想という執着を手放していなければ━━或いは手放しつつあるのでなければ━━その様な一派が心の片隅に巣食う事を許す筈がないのだから。つまりそういった変化に対して、成って『しまう』とは感じなく成り、『ただ単にそう成ったのであり、そこに良し悪しはない』と感じる者は、既にそれについての執着を手放しているのである。
それは言葉を変えれば『諦め』であり、『明らめたからこそ諦めた』のであろうから、人生経験の可能時間が子供たちよりも多い大人には、疾うにそう成っている者が多いのだ。
さて。『諦め』ときたところで、それはもうある種の『ブディズム』にさえ通じて居るとの考えが浮かぶ。『多くの事は大した事では無く、どうでも良い事なのである』『執着を手放して自由に成る』などと言うのは、なるほど確かに仏教の一部そのものではないか。『執着』を『煩悩』という言葉に置き換えると一層わかりやすい。
『煩悩』という言葉で真っ先に思い浮かぶのは、根本的な三つの煩悩たる『三毒』である。即ち、|貪《むさぼ》り求める心『|貪欲《とんよく》』、怒りの心『|瞋恚《しんに》』、無知の心『|愚癡《ぐち》』である。これらについて、老いて執着を手放した者はどうか。
執着を手放しているのだから欲は浅く、細かい事に拘らないので怒らない。物理的な過処分時間の多さから、見聞を広める機会が膨大にある分、無知になりづらい。
なるほどどうにも、煩悩の根本たる三毒を克服しつつある状態だと言えそうである。つまり煩悩を手放しているとも言えるのではないか。
などと、『執着|≒《にありーいこーる》煩悩」の図式に拘って、執着している自分に苦笑する。それに煩悩は三毒だけではないという考え方もある。ただまぁ、そちらに進むのは止しておこうか。
ではどちらに進むか。深掘りすべき方向はどちらか。
仏教で執着と言えば、直ぐに『四苦八苦』の事が思い浮かぶ。
『四苦八苦』という言葉は、苦労する事やその苦労そのもののといった常用的な意味があるが、元々は仏教の言葉であって、苦しみを分類、説明している言葉であると記憶している。それは『生』『老』『病』『死』という四つの苦しみ、即ち『四苦』を根本に、愛する者と別れる苦しみ『|愛別離苦《あいべつりく》』、怨み憎む者に会う苦しみ『|怨憎会苦《おんぞうえく》』、求める物が得られない苦しみ『|求不得苦《ぐふとくく》』、心身が思うままにならない苦しみ『|五蘊盛苦《ごうんじょうく》』の四つを合わせて『八苦』とする。
四苦八苦の|殆《ほとん》どは常用漢字で表記でき、|字義《じぎ》と掛け離れた意味の概念も確か無かった筈なので、|字面《じずら》からもすぐ理解できるのだが、『五蘊盛苦』に関してはそうはいかない。こいつを最初に知った日から今に至るまで、なんと言うか、いつも、『わかりづらいなぁ』と感じてしまう。
しかもこいつは『|五陰盛苦《ごおんじょうく》』と言ったり『|五取蘊苦《ごしゅうんく》』と言ったりもしてややこしい。どの表記でも仏教の知識が無いと、文字通りにパッと理解するのが難しいのは変わらない。ムカつく。
加えて説明についても様々で困る。先述の『心身が思うままにならない苦しみ』の他に、『心身があることで次々と生じる苦しみ全て』といった旨のものもある。『心身を持ち生きている事による苦しみ』と言えるかもしれない。だがそれだと理解が『ふわっ』としていて気持ち悪かったので、もう少し深く掘り下げて調べたのを覚えている。
まず分解的に字義から理解していくのが分かり易かった。『|五蘊《ごうん》』とは『五つの|蘊《うん》』であり、『|蘊《うん》』の意味は『集まり』『同類のものの集積』『集合体』『要素』『グループ』『コレクション』といった所である。これはサンスクリット語の『|skandha《スカンダ》』の漢訳であるらしく、パーリ語では『|khandha《カンダ》』と言うらしい。
それを知って思ったのは、原語や原義を知る事の大切さである。漢字には表意文字として理解を助ける効果があるが、しかし仏教はサンスクリット語やパーリ語が元であるからして、漢字だけで理解しようとするよりも原語も当たった方が理解は促進されるように思えるのだ。因みに『五蘊』はパーリ語で『|pañca《パンチャ》||-《・》kkhandha《カンダ》』、サンスクリット語では『|pañca《パンチャ》|-《・》|skandha《スカンダ》』という。『|pañca《パンチャ》』は『五つの』といった意味だ。
話を戻そう。
『五蘊』とは『なんか五つの集まりなんだなぁ』というのはわかった。恐らくこの二字自体で仏教とは関係なく『五つの何かのコレクション』を表意出来るが、そんな事はまずしないだろうし、一般的に『五蘊』と言ったら仏教の言葉であろう。
『じゃあその仏教における五つの何かって何さ』という話だが、『|色《しき》』『|受《��ゅ》』『|想《そう》』『|行《ぎょう》』『|識《しき》』というものらしい。『|色蘊《しきうん》』『|受蘊《じゅうん》』『|想蘊《そううん》』『|行蘊《ぎょううん》』『|識蘊《しきうん》』ともいう。
個人的理解の世界では多少の語弊があっても良いだろうという事で、私はそれを『身体』『感覚』『心象』『意志』『判断』と同じく二字統一で平易に理解することにした。『色』とは物質的なもの全般なのでこと人についてはその体であろう。『受』とは肉体的知覚。『想』とは心に思い描くイメージ。『行』とは何かをしたいという心とか、心が特定の方向に向く事。『識』とはものごとを区別する心の機能。そういう理解である。
この内、『色』だけが体に関するものであり、他の『受』『想』『行』『識』は心の機能や作用であると分ける事も出来よう。それこそこういった区別が『識』だろうか? まぁそれは兎も角として、ここでは『つまりは心身』であるとざっくり纏めることにする。
さて。『五蘊盛苦』を字義的にこの状態で解釈すると、『心身が盛る事に依る苦しみ』となる。なるほど、確かに体がある事で苦しむ事はあるだろうし、感覚によって生じる苦しみもあるし、心象によっての苦しみもある。意志のせいで苦しむ事もあるし、判断なんてそれこそ苦しみの元であるとさえ言える。
仏教に影響を受けた一連の思考術━━心理状態と言った方が正確かもしれないが━━及び瞑想メソッドとしての『マインドフルネス』がこの国で流行ったのは2010年代頃だったと記憶しているが、その中心概念として『今ここに集中する。評価をせず、ただそのままに受け取る』といったものがあるが、あれは『識』に依る苦しみを排するものであったのだろうか。
などと考えてマインドフルネスを調べると、それはそれで『|八正道《はっしょうどう》』という八つの実践徳目、修行システムの内の一つが元ネタらしく、これには『|中道《ちゅうどう》』というまた別の概念が関わっている様子で、仏教的に正しくはない知見らしいことを知る。堪らず、『いやぁ仏教って奥が深いなぁ』という建前と『用語ばっかだなぁ』とか、『数字列挙好きだなぁ』といった本音を抱いた事は懐かしく思い起こされる。
まぁそれはいいや。 とりあえずここまでで、『|五蘊盛苦《ごうんじょうく》』は『心身がある事に依る苦しみ』といった意味だと解釈する事が出来た。だがまだ欠けているピースがあり、それを埋めない事には早計というものである。情報の出揃っていないミステリーで推理をするようなものだ。それはそれで楽しいし、当たるかもしれないが、論理的で再現性があるとは言えない。閑話休題。
そのピースとは『|五取蘊苦《ごしゅうんく》』という別称である。『五取蘊』もまた色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の事であり、省略して五蘊とするという事なのだが、その省略された『|取《しゅ》』が実は大事なヤツである。『取』とは『執着』を表すパーリ語の『|upādāna《ウパーダーナ》』の漢訳であり、それ自体がサンスクリット語の言葉、及び仏教の概念である。
この『取』は煩悩の一種ともされ���苦に繋がるものであるともいう。私としては『執着』と『煩悩』は近似であるという主張を推したいが、この考えに倣えば『煩悩』が『執着』を包含しているという事になる。私としてはそっくりそのまま採用していないが、まぁいずれにせよ近しい間柄っちゅーこったね。私としてはアレだけどね。
でその『取』を含んでいる方の呼び方である『|五取蘊苦《ごしゅうんく》』という言葉、実はこっちの方が『五蘊盛苦』よりも原語に忠実なのである。『|五取蘊苦《ごしゅうんく》』及び『五蘊盛苦』はパーリ語では『|pañc《パンチャ•》|upādānak《ウパーダーナ•》|khandhā《カンダ•》 |dukkha《ドゥッカ》』と言うのだから。
『|upādānak《ウパーダーナ•》』は先述した通り『取』のこと、つまり『執着する事』である。『|pañca《パンチャ》』が『五つの』といった意味であることも、『|khandhā《カンダ•》』が『|蘊《うん》』の事だということも、前述の通り。『|dukkha《ドゥッカ》』は『苦』とか『苦しみ』という意味であり、仏教について調べ物をする際には直ぐに現れる言葉なので意味は知っていた。
これらを踏まえると、『|pañc《パンチャ・》|upādānak《ウパーダーナ・》|khandhā《カンダ・》 |dukkha《ドゥッカ》』とはつまり、『五蘊に執着する苦しみ』だと訳す事が出来る。
これを知って私は『そうか! そうかそうか!』と唸った。今は昔の芸人の如くテンポで。などという話はさておき、『|五取蘊苦《ごしゅうんく》』の方やその原語である『|pañc《パンチャ・》|upādānak《ウパーダーナ・》|khandhā《カンダ・》 |dukkha《ドゥッカ》』に着目すれば、その意味は『五蘊に執着する苦しみ』だと言えるという事がこれでわかったのだ。
では『|五陰盛苦《ごおんじょうく》』は? これは訳の違いであって、『|五陰《ごおん》』とは『|五蘊《ごうん》』の事であるという。『|五陰《ごおん》』は旧い訳、『|五蘊《ごうん》』は新しい訳で、同じ概念を指してはいるものの、しかして漢字文化圏の経典に於いては『|五陰《ごおん》』の方しか出てこないという情報があった。
しかしあの時はもう調べ物に疲れていて、そこについて深掘りする気にはなれなかった。他にも別称が幾つかあるという話もあったものの、調べても出てこず余り一般的ではないのだなと結論付け、記憶から消した。
あと『ごおん』だの『ごうん』だの思考音声を脳内再生しすぎて、鐘につかれた体のように頭がぐわんぐわんとしてくる様な錯覚を覚えたので、『この話はこれくらいにしておこう』という提案が私の中で成された事を何故か鮮明に覚えている。何故だろう? まぁいいか・
ただ、最後にもう二、三くらい何か調べてから眠ろうと、あの時は思って、その通りにそのまま調べものを続けていたら、一つ重要な視座の情報に行き当たって嬉しかった事も覚えている。
私はずっと疑問だった。『|五蘊盛苦《ごうんじょうく》』の様々な説明を読む度に、どうにも、『それって他の四苦八苦の苦しみと内容重複してねぇ?』という風に思えてならなかったのだ。『でもそんな筈ないしな』という謎の先入観によって、その所感に不協和を感じていたのだが、遂にそれが晴れる時が来たのだ。
それは『四苦八苦の前七つも含めて五蘊盛苦なんだよ』『五蘊盛苦とは全ての苦しみのことなんだよ』といった旨の情報である。これには痺れた。今までの疑問、違和感、不協和が全てダントツに爽快に晴れるかのように感じられるところであった。
とはいえ待て待て、と自分を抑止する。『これはネットの検索チョットの情報でしかない。果たして信じられるのか?』『経典の根拠が示された所で、それが��迦の考えとは限らないしなぁ。特に大乗仏教の経典は』という風に。
同じくインターネットに経典がアップロードされていたりもするが、それが本物であると担保する信用など何処にも無いのだ。ネットは嘘ばかり。何故ならリアルが嘘ばかりだから。かといって門外漢の素人が経典の全文を正当で権威ある筋から入手するのはハードルが高い様に思われた。知らないだけかもしれないけれど。
なにより、釈迦は自ら文献を遺しておらず、仏典というものは全て釈迦以外の人間が記したものである。今日において仏典は数千巻もの膨大な数にのぼるというが、釈迦の書いた言葉はそこには一つも無いのである。各経典の成立年代や釈迦が生きていた時代を照らし合わせると、千年近い開きがあるものもすぐに見つける事が出来る。
別に初期仏教しか認めないという過激派ではない。大乗非仏説を唱える様な気はなく、大乗仏教も素晴らしいものであることには違いない。ただどうにもそこには、今も昔も、宗教団体の利権的なものが横たわっている様に感じずにはいられない。
実際に兄の葬儀で生臭坊主に当たってからというもの、その不審感は増すばかりだ。あ、そういえば私の葬儀はちゃんと行われたのだろうか? ……まぁもう関係ないか。産まれ直しちゃったし。そもそもここはパラレルワールドなのか、タイムリープなのか、そこからして不明だ。どういう理屈で、何故私は産まれ直されたのだろうか。
…………今はいいか。
いずれにせよ仏教は様々な考え方やら解釈があり、それは宗派やさらにその分派があることからも明らかである。一筋縄で行く様な単純なものではなく、教えをただ守っていればいいというものでもないのではないかと思う。
ちゃんと自分で考えて、研鑽、探究、追求すべきだ。
大乗仏教の一切衆生を救うというのは素敵なことだが現実的ではない。まぁ今まさに現実的でない状況に置かれている私が言っても説得力がないが、別に誰かを説得したい訳では無いので困らない。
現実的でない繋がりで言えば、もし今ここにお偉い歴史上の御高名な坊さんが現れたとしても、私はその話は聞けども盲信することは努めてしないだろう。その坊さんに私の仏教観について間違っているだとか言われても、『じゃあ全ての宗派やら派閥を統一してください』と返すだろう。私は私の考えを持っており、私の仏教観は私の仏教観であり、私の考察は私だけのものだ。言うなれば、私は私の宗派を持っているのだし、実はそれは全ての仏教徒がそうであるのでないかと思う。
感覚器官や脳構造が一人一人違う以上、クオリアという主観的事実が皆微妙に異なっている筈であり、同じ波長の可視光線、音波、同じ言葉でも『どのように感じるか・受け取るか』というのは人それぞれである。考え方や価値観というものも人それぞれ違う筈だ。
『多様性』とか『ダイバーシティ』という言葉を、人々��バズワードや自分を守る盾としてだけで無く真に信奉しているならば、それを受け入れられる筈だが、現実にそうはなっていないし、そうなることも恐らくあり得ないだろう。
人が人である以上、人は争い、人の邪魔をする。利己を追求し、愉悦の為に非道な事をする。これは変えられない。誰にも。その実変えようともされていない。
だがそんなことはどうでもいい。
『だって執着を捨てたから』
……何の話をしていたっけ?
仏教の前のことだ。何だっけ?
……まぁ思い出せないので、思い出すまでは仏教の話の続きでもしようか。
といってももうエピローグみたいなものだ。クオリアの話を思考している時にちょうど五蘊についてその関連性から想起していたのだが、科学の発展していないどころではない時代に、よくもまぁこれほどの事を考えたものである。
仏教は素晴らしい。 他の宗教も素晴らしい。
そして執着を手放した私にとって。
仏教はどうでもいい。 他の宗教もどうでもいい。
これらは両立している。矛盾した考えを持つなという論理学か何かのルールに縛られるつもりはない。人間は矛盾しているものだと思うし、『矛盾していて何が悪い』とも思う。この『何が悪い論法』を私は好んで使っているし、自分の発明だと思っている節があるけれど、絶対ずっと昔に誰かが疾うにやっているし、今も多くの人が採用しているんじゃないかな? 知らんけど。
この『知らんけど』も私は子供の時分から使っており自分の発明だと思ってる節があるが、絶対ずっと昔に誰かの口癖だったろうし、今や多くの人が使う定型文みたいになっちまって私は悔しい。どうでもいいけど。
この『どうでもいい』が口癖の人間は周囲を苛立たせがちだが、とあるゲームの主人公の口癖であって、彼が使っている分にはカッコよく見えるのは、神目線のフィクションを見ているからなのであって、実際にその『彼』が現実にいたらやっぱり『ウザい』のだろうか。
この『ウザい』という言葉も最早古いと感じる向きがあり、今時は『ダルい』だよねという話が|方々《ほうぼう》でなされていたりするのだけれども、そう感じない人もまだ多数存在する訳で、そんなしょうもない事に拘ってるのって如何にも若者だなぁというカンジ。
この『カンジ』というのとか、『如何にも若者だなぁ』とか、『しょうもない』とか……ああ、キリがない。これくらいにしておこう。
連想ゲームみたいなこのお遊びをしている程に私が暇なのは、私が赤ちゃんだからだ。
どうやら産まれ直したらしいとわかったのは、私を生んだ瞬間の母と、その後やってきた父や兄を『産まれてはじめて』見たからだ。厳密には前に一度だけ、同じ光景を見たのかもしれないが、幼児期記憶は消えるのが一般的なので、この表現をしても差し支えなかろう。
私がずっと仏教やらに哲学めいた思索に耽っているのも、私が赤ちゃんだからだ。
十数年前頃から流行り出し、今や定着した『転生もののネット小説』のように、転生したりはしなかった。どうにも同じ人生やり直しらしいとわかったのは、『産まれて直ぐのことである。』
うん、この赤ちゃんジョーク、気に入った。これからも使っていこう。まぁまだ、自分の心の中でしか喋れないので、オーディエンスは自分だけなのだが。
��った事に、手も足も出ない。赤ん坊とは斯くも退屈なものか。それに無防備であって、排泄物を『このトシで』人に処理されるというのは、非常に遣る瀬ない気持ちになるのだが、共感して貰えるアテは絶望的だろう。
骨折とかして動けずに、入院している人とかはわかってくれるかもしれないが、如何せん喋れもしなければ当然ネットも出来ない。気持ちを伝える事が出来ないというのはもどかしい。自分はこれほどまでに強く共感を求めるタイプだったか? そう思うくらいには、なんというか、『寂しい』のであると思う。
知らんけど。
しっかし、目もよく見えないし、ほんとうに、考えることぐらいしかやることがない。かといって理系の方はからっきしなので、生前から若干興味のあった哲学とか、宗教とか、そういうものぐらいしか今は思いつかない。
勿論何か思い出せば、連想すればその限りではないが、両眼視野闘争などが大人の自分と異なっているからなのか、単純に脳の発達がまだ未熟なのか、思い出せることや気付ける事に限りがある様に感じる。
一体どういう理屈でこの赤ん坊の体に、年寄りの自分の知識や意識が存在しているのか、皆目見当も付かないし、不思議で仕方ないのだが、現に今ここでそういう事が起きているのだから受け入れる他ない。
赤ん坊の見える世界が白黒なのだという事など全く知らなかったが、これは果たして正常なのだろうか。産まれたての頃は余り遠くも見えなかったのが、最近は少しずつ視界良好になってきているが、これは成長をしているのだろうか。だとすればその内に色彩感覚を獲得するのだろうか。それともこの奇妙な状況に置かれている自分にだけ起きている、矢張り奇妙な現象として世界は白黒なのだろうか。
また、何もわからなかった。
わからない事を考えても仕方がないので━━仮説を立てることは立てるが━━とりあえず成長を待つ事にした。というか、それ以外にやり様もない。それで暇なので、すぐに連想ゲームめいた思索に耽けってしまうのだ。
今だって、また五蘊の事が気になっている。五蘊。五蘊ねぇ。赤ん坊の身からすれば、五蘊そのものも、色も受も想も行も識も含めて、より一層興味深い話だ。
五蘊は人間の肉体と精神の話だが、肉体と精神とは即ち自分というものの全てではないだろうか。この世界を観測し認知出来るから自分があるという方向性に哲学出来そうだし、自分にとっては観測し認知する自分という存在が消えれば、それはこの世界が無くなるのと主観的に同義だとか、そんな思考に耽る事も出来る。
最初はやけに取っ付きづらい概念に感じたが、ちょっと調べて知ってみれば実に楽しい概念である。そこから色んな話に考えを発展していく事が出来るのだから。
『生前は』日常の中で忙殺されてそんな十分な時間もなかったけれど、今ならば赤ん坊。時間はこれでもかという程ある。それに他に出来る事もないし、考え放題だ。やったね。
……いや、暇なんだけどね。
……はぁ。
……やめよう、暇について考えるのは。
うん、別のことを考えよう。そうだな、例えばさっきの話で、五蘊こそが、心身こそが自分の全てでないか、という話についてもう一度少し考えてみよう。
『そうである』と言い切れない理由としては、真っ先に思いつくのが『他の要素があるかも』という指摘であり、その第一案は『魂があるのでは?』という考えだ。魂などというものがもしあるのだとすれば、どうだろうか。そもそも魂とは?
色んな価値観やアイディアがあると思うが、魂と精神は同義であると考えることもできると思う。別と考える事も出来るが、斯くも不思議な体験をすると、同義だと思えるもので、今の私は同義派に一票といったところである。そういえば宗教は、物質界と精神界を分けていたっけ? うろ覚えだけど。
しかし魂といえばキリスト教ではないか? と、キリスト教的な事も考えたいが、キリスト教について何故か今日はよく思い出せない。まるで頭に|靄《もや》がかかったように覚えていたことを思い出せないのだ。ダンテの|神曲《しんきょく》とか、読んだことは覚えているのに、一節どころか一要素も思い出せないのはどうしたことか。辛うじて浮かぶイメージは氷……悪魔……煮えたぎる鉄……? それは別の本だったっけ?
ああもどかしい! 思い出せないことを思い出そうとうするのは今はやめよう! 魂については色々とオリジナルな持論があるけれど、それも敢えて再び俎上に上げるだけの魅力を今は感じない。つまるところ、今日の私はどうも、魂についてはそれほど考えたくないらしい。今の私の状況的に、そいつも大いに|唆《そそ》るトピックである筈なのにね。
まぁそんな日もあるさ。そうだ! 五蘊について考えよう。色は物質的なもののことだが、色と言われると今の私にはどうしても『カラー』の方の色が色濃く連想されてしまう! 色々と考えたいのだけれど、色については連想していくと色んな怖い想像が浮かんで私内の全私が色めき立つので、色については止めよう!
そうだ、受についてはどうだろう? それも感覚器官やんけ! こんちくしょう!
想については?
……。
…………。
…………何も浮かばない……。
…。
辛うじて浮かぶのは……。
氷……天使……吹き荒ぶ光…………? なんだろうこの心象風景は。 なんかのゲームかな? それともライトノベル? ネット小説かも。わからないな。
…。
……わからないけど何故だろう。
……。
………………すごく悲しい気がする……。
…。
……。
…………。
やめよう!!!!!! 想はナシだナシ!
じゃあ識はどうだ!? 識は!? 判断、判断ねえ。 おそいなぁ、母さん。 父さんも兄さんも。 これじゃネグレクトだよぅ。 欧米だったら犯罪やで?
ああやめよう! 碌な事思いつかない! もう今日はダメだ! 考えるな! 感じろ!
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何を????????
うわあああああああああ退屈だあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああおあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ��ああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!あああああああああああああああああああああああああああああめあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 早く大人になりたいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいリいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
うわあん、これじゃまさに『生きて心身があることによる苦しみ』だよぉ!!!!! 『心身が活動をしているだけで、次から次へと湧き上がる苦しみ』だよぉ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
まさに五蘊盛苦。
���ぁいいか。
退屈に対する執着を捨てる。
こうして私は、またひとつ大人になった。赤ちゃんだけど。
と、創作物のようにオチがついて終わればいいのだけれどね。 現実は続き、眠くなるまではこの膨大すぎる時間と、『手も足も出ない現状』を持て余すんだよね。 はぁ。
…………そういえば、『老い』と『執着』と『四苦八苦』について考えていたんだったっけ。
心の中で暴れ回った結果、何の話をしていたか思い出した。あれも無駄じゃなかったんだね。人生全部、意味があるね。二界目だけど。二回目で。
さて。
『四苦八苦』について、『生前』の私はどうだったろうか。
生まれた事を受け入れ、老いる事を受け入れ、病む事を受け入れ、果ては死ぬ事を受け入れていたとおもう。
私は思春期から今日にかけて、生まれる事による苦しみを受け入れたし、最近になって老いる事や、同時に病む事を受け入れた。死ぬのも怖かったが、きっと加齢と共に受け入れていけるのだろうという予感がある。そしてこの道程は決して、私個人だけが辿るものではないのだろうと察している。
では四苦八苦の残りの『八苦』はどうであろう。親しい人と別れる事を受け入れ、恨み憎む人と出会う事を受け入れ、求めるものが手に入らない事を受け入れ、心身が思うまま生じる苦しみや痛みを受け入れてゆくのは、これも矢張り『老人』が経るであろうものと思われる。
現状では人間誰しも親があって生まれるが、多くの者は親を看取る事になる。親と不仲な者も居ようが、そうであっても親友との別れなど、親しい者との別れは人生を生きれば生きるほどに避けられないところだ。人生を経るほどにと言えば、恨み憎む者と出会う事は避けられないであろうし、求めるものが手に入らないという体験も沢山するだろう。そして五蘊盛苦。
五蘊盛苦をどう解釈するかによって話は全く変わってくるのだが、いずれにせよ、私はそのどれをも受けれいてきているように思う。
こういうと、『偉そうに。自慢か?』と、自分の中の、アメリカンダイナーで朝食を摂っていたら襲撃してくる世紀末めいた、パンクロックファッションの、顔を白塗りにして、どこぞの美少女戦士の如く両お団子なヘアースタイルにした、くすんだブロンドの、アメリカンなガール(それこそ某有名アメコミブランドのヴィランでそういう娘いたなって感じなのだけれども)が、僕を睨みながら吐き捨てるのだった。退屈すぎて、めちゃくちゃ長いセリフ(というかモノローグになるのか?)を、頭の中で誦じた。そして頭の中で括弧付きで思考する。退屈すぎて。話を戻して?
ええと、つまりだね、ワトソンくん。わたしゃもう疲れたということだよ。この肉体の牢獄から我を解き放っておくれ! ええい、いつまでこんな退屈地獄を味わにゃならんのだ! こんな所に居られるか! ワシは部屋に帰らせても貰うからな! ってここが部屋じゃったわい。どうして俺っちがこんな目に遭わない行けないんだYO! アタ���早く大人になりたいの。ミーはもう限界でやんす。さっさとこのつまらない状況を脱したい。フィクションだったらシーンチェンジしたり次の話に切り替われば脱せられるだろうに、ワテはリアルを生きとるさかい、そうは問屋が卸しませんがな。ガハハ! 自分は! この様な状況に於いても、冷静に! 任務を果たすであります! ボクチンあたまおかしくなりそう。もうおかしいのかも。おかしくて何が悪い。出たな何が悪い論法。えいや! えいや! どうだ! 参ったか! 観念しろ! |某《それがし》に楯突いて、五体満足で帰れると思ったか! このたわけめ! おおうつけもののお主には斯様な憂き目がよくお似合いじゃあ! ハッハッハッハ! 拙者マジで辛いでござる! ボキのご飯といえば粉ミルク、あとは母乳だけ。何が悲しくてこのトシで母親の以下略。思い出したら気持ち悪くなってきた。おえ。
ああ! 窓に! 窓に!
猫ちゃん!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
猫ちゃんを眺めて、退屈を凌ぐか。
うちも猫飼ってくんねぇかなぁ。無理だろうなぁ。だって昔飼ってなかったもんなぁ。てかそういやスマホもないよな、ここ。インターネットも? ヤバ。生きてけない。生きていけるんだろうか。
|漸《ようや》く眠たくなってきた。 やったね。これでもう今日とはおさらばだぜ。もしまた今日起きたら泣いちゃうかも。
……ああ、だから赤ん坊って、泣くのかな。
……………。
アレ?
『もしかして:人類全員自分の人生やり直してる?』
幼少期の記憶はないのが殆ど……。輪廻転生……。生という牢獄……。終わらないサイクル……。
ま、まさかね??????
そんな訳ないよね????????
うう、俄に怖くなってきたぞお!!!!!!
さっさと眠ってしまおう!
俺はこんなところに居られるか! だからやり直しなんてしたくないのに!!!!!!!!!!!
もう五蘊盛苦なんて、こりごりだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!
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なぜ人は共産主義に騙され続けるのか
2019年08月20日 23時00分
なぜ人は共産主義に騙され続けるのか。私が共産主義の失敗を予見したのは小学2年生のときである。担任の先生が産休に入り、自習の時間が多くあった。私は与えられた課題に黙々と取り組んでいたが、普通の小学2年生が自習を課せられて、黙って勉強するはずがない。周りの生徒はみんな大騒ぎだったので、隣のクラスの先生が注意に来た。結局、私を含めクラスの生徒全員が罰を受けることになった。
私はそのとき、共産主義は絶対うまくいかないと確信した。私が小学2年生だった1978年当時、ソ連はまだ大国として健在で、共産主義は素晴らしいと考える人が多くいた。でも、私は彼らを信じなくなった。真面目にやってもやらなくても、みんな同じように怒られるなら、誰も真面目にやらない。結果の平等は絶対うまくいかない。そんな単純なことをなぜ大人は分からないのだろう。とても不思議だった。その11年後ベルリンの壁は崩壊し、さらにその2年後にはソ連も崩壊した。
ソ連が崩壊して以降も、数は少なくなったが共産主義を信奉し続ける人は存在し続けた。それがまた不思議だった。左翼はウソつきなのか、それとも単に学習能力がないのかという点が当時の関心事だった。正直で頭のいい人は左派にはなれないというレイモン・アロンの言葉を知ったのはその後のことである。
左翼とは何か。人はなぜ左翼になるのか。私にとって常に頭の片隅に存在し続けた謎であった。しかし、私の専門は工学であって人文社会科学ではないため、この問いは仕事として取り組むべきものではなく、ずっと放置したままだった。ところが、幸いにもここ2、3年の間に、その謎がかなり解けてきたのである。
1つのきっかけは、英語圏の政治系YouTuberのウォッチを始めたことである。そこで、欧米でも人々が左翼の横暴に苦しんでいる現状を知ることができた。それを通じて、欧米の左翼と日本の左翼の共通点を見出すことに成功し、左翼というものを一段高い段階に抽象化して理解することが可能となった。
もう1つのきっかけは、インターネット・SNSの隆盛により、大量の言語資源が簡単に取得できるようになったことである。私自身の専門分野の一つに人工知能があるが、インターネット上のビッグデータを機械学習に使えるようになったため、政治問題や社会問題に関する言説を定量的に分析できる時代になった。それにより、自らの理工系の知見を左翼の分析に使えるようになったのである。
今回はそのうち、欧米の左翼運動と日本の左翼運動の共通点から見える左翼像を紹介することにする。左翼運動は、人権、平和、寛容、多様性など常に美辞麗句を看板に掲げる。しかし、その運動の矛先は極めて恣意的に選ばれている。
日本の場合、左翼の人権運動は北朝鮮による拉致被害者の人権を無視する。平和運動も、中国や北朝鮮の核開発や軍拡に抗議をしない。反原発運動も、中国や韓国の原発には反対しない。これらに共通するのは、周辺諸国が日本を侵略しやすい状態を作り出す方向に運動が向いていることである。それゆえ、日本では「左翼=反日」と理解されていることが多い。日本人の目につく左翼運動にかかわる外国人は、みな反日勢力に見えるため、外国の左翼も反日的であるとの誤解を持つ保守系日本人は多い。しかし、それは間違いである。
欧米の左翼にとっての最大の敵はキリスト教的価値観に基づく西洋文明である。であるから、イスラム教などの異文化に対するトレランス(寛容)を主張しつつ、キリスト教的価値観を弾圧する。たとえば、米国の大学では学内のキリスト教徒のサークルを解散させるなどの動きがある。また、欧米のフェミニストは女性の権利を主張する一方で、イスラム系移民の性犯罪の被害を受けた女性に対しては口封じをする。
日本と欧米の左翼に共通する点は、いずれも自らの属する社会や文化を憎み、その破壊を意図していることである。その憎悪の感情は、過大な自己評価ゆえに、周囲が自分を正当に評価していないと不満を持つことから生じている場合が多い。ただし、これは全ての左翼に該当するわけではない。左翼運動は、さまざまな種類の人間の複合体である。
私は、左翼運動の構成員を次の3つに分類している。
1.中核層
自らが属する社会を憎み、それを破壊することを目指す人たち。見せかけの理想を掲げて活動を興し、その活動が社会の破壊に結びつくよう巧みに制御する。良心は無いが知的レベルは高い。
2.利権層
中核層に従うことで、活動資金や仕事(テレビ出演など)を得ることが目的の人たち。
3.浮動層
中核層が掲げた理想に共感する人たち。正義感に基づいて行動するが、いい人と思われたいという虚栄心があることも多い。知識を身に着けると、騙されたと気づいて活動から去る。
初代FBI長官のジョン・エドガー・フーヴァー氏は、左翼(コミンテルン)を
・「公然の(共産)党員」
・「非公然の党員(共産党の極秘活動に従事する人)」
・「フェロー・トラベラーズ(共産党の同伴者)」
・「オポチュニスツ(機会主義者)」
・「デュープス(騙されやすい人)」
の5種類に分類している。(この分類は、江崎道朗氏の著書『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』に紹介されている。)このうちの最初の3つが中核層、利権層がオポチュニスツ、浮動層がデュープスに対応する。
正直で頭のいい人は左派にはなれないというレイモン・アロンの言葉に対応させると、中核層と利権層は不正直で頭のいい人であり、浮動層は正直で頭の悪い人である。その複合体が左翼というわけである。
保守派は左翼と違って単純な人が多い。そのため、上で述べた左翼の全貌が見えていない。左翼はみな浮動層であると勘違いして甘く見る。しかし、その認識自体が完全に左翼の術中に嵌っているのである。
左翼運動が巧みなところは、その運動において浮動層を前面に押し出すことである。中核層は基本的に表に出てこない。浮動層は善良な庶民であるから、左翼運動を叩く人は庶民の敵だとレッテルを貼れる。浮動層には悪意がないから、左翼運動の真の目的が破壊であるとの批判は濡れ衣に見える。彼らには知性も感じられないから、取るに足らない相手だと保守派も油断する。
左翼運動の知性の高さは、その攻撃先の選定に見て取ることができる。例えば、日本の自然保護運動を考えよう。彼らは、ダム、堤防、防潮堤、基地建設、高速道路、リニア新幹線、地熱発電のように、日本の安全や経済にプラスになる開発行為の自然破壊は非難するが、太陽光発電、風力発電、中国の珊瑚乱獲のように、日本にとって経済的・社会的マイナスが大きい自然破壊は問題視しない。中でも、発電に関する態度の違いは、それなりに高度な知識がないとこのような見極めはできない。
さらに左翼の頭の良さは、主力は上述のような攻撃先の選択をしつつ、それ以外の勢力はある程度意見を散らしている点にも見ることができる。これにより、批判されたときに傍流の人々を引き合いに出し、批判が不当なものであると反論できるように準備している。
左翼運動は、今後もその頭脳を駆使して庶民の味方を詐称し続けるであろう。現実には、彼らは庶民に選択の自由を与えない。自分の言いなりにならないものは、弱者であっても容赦なく叩きのめす。であるから、左翼はリベラリスト(自由主義者)とは最も遠い存在である。にもかかわらず、彼らはリベラルを自称し、その称号を社会的に広く認めさせることに成功している。
左翼の欺瞞を示す最も有効な手段は、過去の共産主義国家が何をしたかを思い起こさせることである。彼らは、常に庶民(労働者)の味方であると自称したが、過去全ての事例において特権階級が庶民を虐げる社会が生まれる結果となった。おびただしい数の人命も奪われた。その歴史をできるだけ多くの人に直視させることが、共産主義の悲劇を繰り返さないために最も重要なことである。
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ラガーマン向けの「サポート」
何となくもんもんとして性欲が高まって、Xでスケベ動画あさりをしていたら、「現役ラガーマンをサポートします!」という内容のポストが流れてきた。エロ動画に出るとお金がいくらかもらえるようだ。体育会系のノンケをエロ動画に出演させるためのアカウントのようだったけど、ラグビー部員は特別待遇らしい。即金50万とあった。
想像するに、オナニー動画で◯万。チン毛剃ったら◯万。ケツにオモチャ入れたら◯万。しゃぶりながらのオナニー動画で◯万。男と絡んで射精したら◯◯万。顔出ししたらプラス◯◯万。ケツ掘ったらプラス◯万、ケツ掘られたらプラス◯◯万。顔出しでケツ掘られて射精したら◯◯◯万、という感じか。
昭和の時代から、ラガーマンは金になると思われ狙われてきた。ノンケラガーマンを性的にしごきまくる秘密のサークルのビデオを見せてもらったことがある。出演しているノンケラガーマンを紹介するサービスもしていたと思う。
甘い話には裏があると思うべきだ。ノンケラガーマンならまだしも、ホモを隠してノンケのふりをしているラガーマンはやめておいた方がいい。捕食者の手に掛かったら骨の髄までしゃぶられる。ノンケかどうかなんて下手な嘘をついてもすぐにバレる。バレたら最後。ラグパンの中に隠している性的な願望はすべて引きずり出され商品に変えられてしまうだろう。
大抵のラガーマンのエロ動画は、半袖ラガーシャツをめくり上げ大胸筋を露出し、太い脚にラグビーソックスを履き、ラグパンを脱がされた姿でビデオカメラが回される。捕食者達は男を感じさせるプロなのだ。その触手に掛かって感じないフリなどできない。体の反応でノンケではないことなんてすぐにバレる。乳首とチンコを勃起させないように頭で考えても一切無駄だ。経験の浅いケツ穴を感じて感じて仕方がないモロ感マ◯コに変えることなんて朝飯前だろう。
男好きのラガーマンだとバレれたら最後。容赦なく責められる。カマトトぶってどんなに隠しても体は喜んでることを隠せない。ラグビーで鍛えた大胸筋をオンナの乳のように揉まれ、乳首を吸われ、潰れたギョウザ耳を甘噛みされ舐められてみろ。相手はノンケラガーマンですら落とす男達だ。ラガーマンが演技で感じてるのか本気で感じてるのかなんて簡単に見抜く。男の手ていじくられ、ゾクゾクしてケツの毛まで鳥肌を立てるノンケはいない。
ラグビーで鍛えた下半身は左右に股裂きにされ、上反りのデカマラで発情したケツマ◯コを串刺しにされる。そして、その一部始終をビデオカメラに撮られる。どんなに強靭なラグビー精神の持ち主でも、そんなことされたら理性を保てないだろう。白ラグビーソックスを履いた脚と鍛えた太い腕で男に抱きつき、発情したメス犬のようにケツを男の股間に擦り付けてアンアン泣く。ノンケラガーマンはそんな風にならない。本性を暴かれてから後悔しても後の祭りだ。スイッチを入れられてしまった体は止められない。
ゴム付きの約束がいつの間にか生で掘られる。こっそりゴムを外される。ダメだと分かっていても初めての生チンポに感じてしまい体に力が入らない。ラグビーで鍛えた肉体は食われるためだけの肉の塊になり下がる。生種付けをOKしたら報酬がまた上がる。種付けされる度に10万が積まれる。捕食者は骨の髄までしゃぶりつくそうとする。
全頭マスクで顔出ししない約束のはずが、チンポをしゃぶらされ、鼻まで出される。そして、顔出ししても後でモザイクにすればいい、それでも◯万プラスすると言われて全頭マスクを外される。短く刈り上げた男らしいラグビー顔がさらし者になる。モザイクなんて掛けてもらえないのに能天気なラガーマンだ。捕食者達はほくそ笑む。晒せば晒すほどタガが外れて感じるようになる。
ラガーマンが狙われやすいのは、体もケツも丈夫だからだ。激しい練習に耐えたおかげで、激しいセックス動画を撮りやすい。オンナのマンコを犯すようにガンガン掘られる。ゴツいラガーマンを激しく掘れば掘るほど動画は売れる。儲かる。ラガーマンは稼げるマ◯コなのだ。
10人近い種馬達に犯され、数え切れないほどの種をケツに出され、白いホイップマ◯コと精液を漏らす萎えチンポと大胸筋とラガーマンの顔が動画に収められる。これをネタにゆすられるリスクに気付いていないラガーマンは本当にあわれだ。放心状態でケツマ◯コ開きっぱなし。グランドでの精悍な姿からは想像もできない姿を晒される。
動画に出演するたびに内容がハードになっていく。さんざん動画を撮られたら、次は客を取らされる。金持ちの性のおもちゃにされるデリヘルラガーマン。あわれだ。俺はそんなふうに堕ちていったラガーマンの先輩を一人知っている。
だから、ノンケじゃないならラガーマン向けのサポートを甘く見てはダメだ。下手をするとラグビーを続けられなくなるかもしれない。弱みに付け込まれる。男に感じるのならサポートには向かない。割り切れなくなって、気付いたら骨の髄までしゃぶられて捨てられるのが関の山だ。
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