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#業習力
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快樂的本質和真實的自由10 自由意志和行苦 | 基督徒正在苦膽之中,被罪惡捆綁 | 自由意志與習慣的力量
.................................
人類是有自由意志的,
但自由意志的盲目造作,卻讓我們越來越不自在。
你是在追求自由,還是在隨順業力?
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mouniassn · 3 days
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身上的真本事(一)
以下一位有緣人分享,來文照登:
近期干擾很多,但凡覺得有什麽不對勁時,就是干擾來了。六月底時有請示過,一想要說話,喉嚨就會發癢,癢到只能咳嗽數下後,才能開口講話。這就很不正常,一次、兩次是偶發,但這樣的狀態已經持續了快半年,有時咳得厲害些,有時咳一下就好,但真的讓我很困擾、很不舒服,都不敢說話了,不知道的還以為我得了什麽病。實在難受,於是請示,開示是煞到,但處理後也還是會咳。
七月初,請夫家的歷代祖先和無緣親眷都去精舍三皈依,在寫皈依地址後,胸口就開始不舒服,且越來越痛。後來痛到手伸出去一點點都被拉扯到,痛到每做一個小動作,都要倒吸一口氣,要使勁的用手按住胸口,但不管我如何敲打、按摩都沒用,痛到晚上側躺也不是,平躺也不是,連呼吸都覺得痛。那天又剛好過了請示的截止時間,我想,要這麽痛的熬一周,真的好慘。但過了兩天,又忽然發現不痛了。請示後開示胸口痛是沖犯。
前幾日,忽然又間歇性的出狀況,血會一陣上湧,頭發暈、發熱、心跳加快,手心直冒汗,過一會兒又自動消退,一天內能發作很多次。又去請示,開示有外靈干擾。
沖犯、煞和干擾,一樣沒落,都占全了。心中有疑慮,恰好此時看到一篇分享文裡說,如果長時間被干擾,可試著請示一下,看看是否有隱藏業力。於是送出請示單,果不其然,真的有業障干擾!「前四世因利益沖突,用棍子打人致死,故遭此報,三經各110遍。」感恩佛菩薩調解,感恩業主菩薩願意因果債、功德還。
有好幾年沒在迴向時主動開出業障了,感覺還是有不願意現身、默默干擾的業主菩薩。這樣的狀況,除了天天懺悔外,也要努力誦經,拿出誠意來,相信頑石也有點頭的那一天。此外,〈藥師灌頂真言〉也要努力唸,琉璃體、轉心輪也要練起來。求助是救急,是下策,本事長在自己身上,才是真的。
(分享完畢)
有緣人因為陸續被煞到、沖犯、外靈干擾,而出現咳嗽、胸口痛、頭發暈、發熱、心跳加快等等健康問題,因為長時間干擾不斷,他試著請示,佛菩薩才開示出新業力:「前四世因利益沖突,用棍子打人致死。」有緣人感嘆,生活中除了懺悔、誦經,也要練習「銀河大手印」的觀想,有一點本事在身上,才不會遇到干擾時,需要向他人求助才能改善。
學會銀河大手印的觀想,能預防和減緩因外靈干擾造成的不適感。每天最起碼要唸108遍〈藥師灌頂真言〉,但如果每天只唸108遍是不夠的,要花25年時間才會唸到佛菩薩開示的100萬遍。所以必須提高每天唸誦〈藥師灌頂真言〉的數量,才能早日銜接回過去世修行的修行。
然而,觀想只是一個方便法,若有業力干擾,觀想無法用在業主菩薩身上發揮效用,因果債功德還呀,我們對業主菩薩要懺悔、補償,這對業主菩薩無效!《阿伯的話—現場開示精華語錄》:「神通與心性,是密不可分,心性提升到哪,神通方能提升到哪,與其求神通之高強,不如先求心性之提升。」
業主菩薩的討報,不只提醒我們注意自己累世的不良習性,是因為錯誤因果觀念和行為而傷害他人,才會造下業力,以至於需要承受其果報。因此,面對每一條業力開示,除了要懺悔對業主菩薩的傷害,也要反省自己內在隱藏的錯誤思維,或外顯的錯誤行為,並努力修正。
《六祖壇經》中,六祖慧能大師說一〈無相頌〉,若眾生用這方法來修行,與祂沒有區別,如果不能依此認真修行佛法,就算剃髮出家,也不能有所增益。頌曰:「心平何勞持戒?行直何用修禪?恩則孝養父母,義則上下相憐。讓則尊卑和睦,忍則眾惡無喧;若能鑽木出火,淤泥定生紅蓮。
苦口的是良藥,逆耳必是忠言;改過必生智慧,護短心內非賢。日用常行饒益,成道非由施錢;菩提只向心覓,何勞向外求玄?聽說依此修行,西方只在目前。」
聽得進忠言,才能改過。如果心性不佳,總是一意孤行,就會經常遇到各種外來沖犯、煞到或外靈干擾和考驗。這除了提示我們本身心性有問題,還有許多干擾是來自隱藏的業障。
業主菩薩會找靈界好友協助沖犯,業障重的人黑氣重,也容易和各種煞氣相應,因為胡思亂想,又容易引來外靈干擾,而進入無止盡的惡行循環。因此,只有老實唸經,「因果債,功德還」,迴向業力圓滿,才能停止這個無止盡的迴圈。
什麼是真本事?就是正知正見!正確的觀念幫您解決各種事情,針對業障好好懺悔與功德迴向,提升心性,改變自己!用對方法解決這些疑難事,人生將過得如意!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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carenote · 1 month
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ICFステージングとは?
ICFステージングは、介護の手間を評価者の主観に頼らず、利用者の日常的な行動をICF(国際生活機能分類)に基づいて客観的に評価する方法です。これにより、介護の質を「わかりやすく、使いやすい」基準で評価し、ケアマネジメントやLIFEシステムなどで広く利用されています。
ICFステージングの開発背景
従来の「障害穴埋め型介護」から、利用者の能力を支援する「能力サポート型介護」への進化が必要とされ、ICFステージングが開発されました。これにより、要介護高齢者の生活機能を精密に把握し、介護の質を向上させ、医療と介護の共通言語として機能します。
ICFとは?
ICFは、WHOが提唱する「国際生活機能分類」で、人の生活機能と障害を「心身機能・身体構造」、「活動」、「参加」の3つの次元で評価するモデルです。この分類は、健康状態や環境因子、個人因子との相互作用を考慮し、包括的な視点から機能を評価します。
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令和のアンチヘイトへの偏見と不満を綴ったマイナス思考のはらのおそばもりのポエム・ド・メリー(賛否両論はでると思う。一応。)
一時間目 陰口は本人のコメントにモグラ叩きすると号泣必須(逮捕状確定)になるからもしいいたきゃ自分の心の中にいっとけ?(で、それでもしお金化石逮と思ったら戦局ビートに乗って思いっきりぶつけてくるんだな!ちなみにあたしは観戦派(ゆーちゅーとテレビ観戦のこと)だからあまりみないけどね笑)
さっそくだが変形性関節症の性癖をもつオタクとネトハイの素人たちよ。まずは家の中にパソコン教室の教科書がまだあるかさぐるといい。(小学校の時はまだただのタレコミ情報を綴る記者と映像クリエイターだけのための教科書だがいまはネットワーク技術も進化してAIというものもできはじめているからあまり教科書の意味はないがな?)
理由はこの現代社会を往き来するためが一つともう一つは政治の動き(サイバーテロ組織は行るな?お前はやった時点で包囲網と法医学にこの教科書を提出してバカンスにいっているスナノミだらけの患者だ。治療費はかさむと思うから絶対に悪用するなよ?ミームにもな?いいな?)をよく理解するためだ。これを知らなければいつどこに居��もお前は炎上と犯罪を助聴器で波紋を拡げるネガティブインフルエンサーになる。なりたくない?ならばいますぐアンチヘイトや家族や友達とだれかを傷付けるような陰口を言うのはやめるんだな?でないと世間に好評航海された後にあとで「ストレス発散!」と思ったときにめちゃくちゃ後悔するからやめとけ!夜のキャバクラでポロチンをだすような将軍にはなりたくないだろ?(銀魂ネタ)家族や仲間は金やコネに頼らず平穏に生活するんだぞ!?いいな!視聴者と隠れアンチども!
注意:この説教は犯罪を助長する者じゃねえからな?肉まん食って憶えとけよ今この世をいきる人生の社会適合活動法式神拳の継承者たち。あたしはお前らのことを愛してるぜ。じゃあな。
今日の喝言(言いたいこと)
誰でも手を出してしまう週刊誌の性犯罪と機密文書を凶兆するページには手を出すな?できるか視聴者とこれからネットをはじめる若者も右も左もわからないアンチ効果はいずれ自分に感染・伝染していくからちゃんと自分だけの交換日記をつけておけよ??さもないとあたしのように怒り新党で殴り書きした言論がそのまま現出されておもてにでてしまうからなホントにごめんだそう言うのはホントにな?な?わかったらいますぐ親の手伝いをしろ!働けクソビッチども!!いいな!!?
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アンチヘイト防止委員長 by推草楓時
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wutaijiemei · 10 months
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hehe. its soo crazy 一年前我什麼繁體字都看不懂但現在我只用繁體來寫中文 wooooo i worked so hard this year fr.
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julian-tech-journey · 11 months
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提高決策效率和企業競爭力
在當今的商業環境中,我們時常聽到「數位轉型」這個詞彙。但究竟,它意味著什麼呢? 簡單來說,數位轉型指的是企業採用數位技術來改變業務運營的方式,從而提供更好的價值給顧客。想像一下,過去我們需要在銀行大廳等待辦理業務,但現在,只需透過手機就能完成轉帳或查詢餘額。這就是數位轉型帶來的便利。 而在這轉型的旅程中,有一個技術在近年來特別受到關注,那就是人工智慧,或簡稱AI。AI不只是一個炫酷的科技詞彙,它真正地改變了我們的日常生活和商業運營方式。從智慧音箱到自動駕駛汽車,AI的應用已經滲透到我們的日常生活中的各個方面。 所以,當我們談論數位轉型時,我們實際上是在談論如何更好地利用AI技術,讓企業不只跟上時代的步伐,更能成為行業的領頭羊。透過本篇文章,我們將深入探討AI的奧秘,並了解其在業務中的真正價值。 AI的基本概念 當我們提到AI,也就是人工智慧,大家可能會想到科幻電影中的機器人或是…
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domioblog · 1 year
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「実用性バツグン!世帯年収400万円でもできる就活に役立つ習い事ランキング」ー就活に有利な習い事で、自己アピール力アップ!就活を成功に導く習い事をご紹介!
「実用性バツグン!世帯年収400万円でもできる就活に役立つ習い事ランキング」ー就活に有利な習い事で、自己アピール力アップ!就活を成功に導く習い事をご紹介! #習い事 #教室 #レッスン #手作り #趣味 #ならいごと
こんにちは!Domioです。 今回は、世帯年収400万円でもできる就活に役立つ習い事ランキングをご紹介します。就活に有利な習い事で、自己アピール力をアップし、就活を成功に導きましょう! 英会話プログラミング ビジネスマナー習得 営業力向上 プレゼンテーション能力 ビジネス書・経済書の読書 ボランティア活動…
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koch-snowflake-blog · 8 months
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大原 優乃は、日本のグラビアアイドル、女優、ファッションモデル、ダンサー、YouTuberである。エイベックス・マネジメント所属。Dream5の元メンバー。 鹿児島県川内市。 神村学園高等部卒業。 ウィキペディア
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出生地: 鹿児島県 鹿児島市
生年月日: 1999年10月8日 (年齢 24歳)
身長: 154 cm
カップサイズ F
学歴: 神村学園高等部 (2018年)
事務所: エイベックス・マネジメント
愛称は、ゆーの、ゆのふぃー。趣味は、枝豆を育てること、雑誌を読むこと。特技は、犬と蛙の物真似。
魚のアレルギーがあり、加工食品も含めて食べることを控えている。一度でも魚の調理に使った器具を用いた他の料理や、魚の調理中の排煙や匂いなどにも過敏に反応してしまうため、飲食については制限があり、専用のメニューを用意してくれる学校選びなど、本人と家族は大変苦労したという。
文字は右手で書くが、その他は左利き。テレビドラマ『ゆるキャン△』(テレビ東京)で演じる「各務原なでしこ」が右利きだということに気づかぬまま、クランクイン前日に「右でやってみようか」と言われ、準備をする間もなくクランクインしてから練習したが全然つかめなくて悔しい思いをしたとインタビューで述べている。なお、同作品の第2シーズンにはなでしこが福原遥演じる志摩リンと共に鰻重を食べるシーンがあるが、前述の理由からなでしこが鰻重を食べる最中の姿は描かれておらず、撮影時も魚を扱うフリをしたり、代替食を用意したり、店舗外へ避難させたりと、徹底した安全対策が取られている。
2013年3月22日、当時13歳の大原は、Dream5のブログで、憧れのモデルとして桐谷美玲と北山詩織の名を挙げている。2019年3月24日(19歳時)のインタビューでは、土屋太鳳が女優としての目標で、芝居はもちろん、人柄や文章、表情の豊かなところにも魅力を感じていると言い、ダンサーとしての格好良さにも憧れていると答えている。
声優の高橋李依の大ファンを公言しており、自身が出演するドラマ『ガールガンレディ』(毎日放送)の主題歌を高橋が担当することになった際には高橋のTwitterにリプライを送った。
グラビアアイドルでは浅川梨奈を尊敬しており、グラビアで活躍できるのは彼女の存在があったからと公言している。浅川も「グラビアをけん引する存在」と大原を高く評価しているほか、後輩のアイドルにも人気が高く、本郷柚巴、田中美久、和泉芳怜などが大原のファンを公言している。
Dream5のメンバーとして活動していた頃にはすでに大きかったバストを目立たせないよう、晒(さらし)を巻いて活動していたという。
映像や雑誌を通して発信される大原のイメージは“いつも明るく前向きな女の子”であるが、先述したようなネガティブな実像とのギャップに悩んだことも多いという。大原本人は、グラビアモデルのデビュー当初は水着姿を撮られることに自信が無かったことや、生来の高い声も、Dream5に属していたころは他のメンバーとの調和が取れないと考え、自己紹介の際にわざと低めの声を使うこともあったことを述べている。
  
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lastscenecom · 11 months
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マネジャーたちに「誰をコーチングしているのですか」と尋ねた。すると答えは、「成績が最も芳しくない従業員」でほぼ一致していた。しかし、彼らの成績はわずかでも改善すればよいほうだと嘆いていた。  そこでマネジャーたちに、誰にコーチングが必要かではなく、こう問うよう促した。「私がコーチングに時間を費やした場合、最も大きなインパクトをもたらすのはどこだろうか」 「最もコーチングのしがいがあるのは誰か」 「学習スピードが速いのは誰か」 「顧客に対する責任を担っているのは誰か」  マネジャーたちは、ハイパフォーマーとミドルパフォーマーにもっと時間をかけるようになった。ハイパフォーマーには、最も価値の高い仕事に関して個人的にコーチングした。ミッドパフォーマーにもさらに注意を払い、グループコーチングサークルやピア・トゥ・ピアのロールプレー研修を実施した。ローパフォーマーへのコーチングを放棄したわけではないが、コーチングを何時間も割く代わりに、オンデマンドコースやセルフスタディなどの自主学習に誘導した。  成果はすぐに表れた。ハイパフォーマーはさらに業績を高め、ミドルパフォーマーも向上した。さらに興味深いのは、ローパフォーマーが次の3つのうちのどれかを行ったことである。 ・努力してミドルパフォーマーになった�� ・マネジャーのコーチング時間をほぼ独占していた時と変わらず、わずかに改善した。 ・自身の成長に責任を持つという課題を突きつけられると、みずから辞退した。向上心のない従業員の指導に何時間も費やすよりも、プロセスとして早く、フラストレーションも少なかった。  全体として、チームは記録的な収益を上げ、充実感も高まった。
燃え尽き症候群に陥らないためのリーダーシップの進化 奉仕型からパーパス重視型へ | リーダーシップ|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー
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ryotarox · 7 months
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「記憶した」だけの学習成果を「理解した」と誤認していないか
(「記憶した」だけの学習成果を「理解した」と誤認していないか: 心のうちから)
セミナーや研修・勉強会で人に教えてもらった、本で読んだ、検索したら書いてあったというので「新たに知ったこと」を何も見ずに言えるようになったら、それは確かに「一つの学習プロセス」だが、「一つ目の学習プロセス」に過ぎないとも言える。 それで何かできるようになったかというと、何もできるようになったことはないということが多いのではないだろうか。聞かれたら答えられるとか、「あぁ、聞いたことはあります」とは答えられても、それで人の役に立つことは難しい。概ね、仕事では役に立たない。キャリア上の戦力アップとも言いがたい。 アンミカさんのいう「白って、200色あんねんで」以上に、ブルームさんの「理解するって、7プロセスあんねんで」は、もっと理解されたい。図にしてみると、左から2番目のステップである(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。
これに関連した私の気がかりを挙げると、企業の人材育成施策で、多くの学習はせいぜい「記憶した」どまりになっているのを「理解した」と誤認されているのではないかということ。学んだことを「応用する」まで持っていけていないことを問題視する声はよく聞かれるが、そもそも「理解する」に至っていない事案が多いように思うのだ。 ブルームの分類体系に照らせば、研修や勉強会で学んだことをそのまま「思い出して言える」だとか、テストをやったら「選択肢から正解を選べた」だとかは、複雑さが一番低い「記憶する」どまりである。 じゃあ「記憶した」にとどまらず「理解した」状態に達したとはどういうことを言うのかというと、図に並べた「理解する」列の7項目ができるかどうかで検証できる。 解釈すること 例示すること 分類すること 要約すること 推測すること 比較すること 説明すること といっても、こんな概念的な言葉の羅列では、まだまだ分かりづらく誤認を呼んでしまうこと請け合いなのだが、これを詳細に「理解する」となると、どうにも専門書をきちんと読む工程なしに難しいところがあるので、それは下の書籍紹介にとどめるとして。ここでは「理解する」1語を7項目で言い換えることで、いくらか詳細度をあげて「理解する」ことまでを目標としたい。かように「理解する」への到達は複雑なのだ。
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mouniassn · 4 days
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先迴向業障,還是先迴向功德?
以下一位有緣人分享:
有位朋友貼了她的開示給我,這是她母親身體問題的請示結果:
一、請誠心持誦《金剛經》、《藥師經》、《地藏經》各108遍。待持誦完畢,來信專案迴向「心臟瓣膜手術平安的福德資糧。
二、此有業力干擾。前世,因利益衝突,用棍子打人致死,故遭此報。需先以最虔誠的懺悔心跟其懺悔,並誠心持誦《金剛經》、《藥師經》、《地藏經》各109遍。待持誦完畢,來信專案迴向。
她接著說:「佛菩薩的開示已出來,因在月底前就要動手術,我們唸經最快只可以迴向《金剛經》、《藥師經》、《地藏經》各108遍手術平安的福德資糧,第二條業力,估計是來不及誦經迴向了。我想到的是,讓母親給業主菩薩懺悔,讓其能給我們更多的唸經時間,想請問師兄有何建議?」
我回答她:「建議應該業障優先,母親手術部分,可以用行善的方式,比如說儘量多做善事,累積福報資糧。依照我的經驗,『吉不擋兇』,當業障祂想干擾,隨時都可以,不管你有沒有福報。
如果是我的話,可能先求業障不要干擾,誠摯的懺悔,發願在手術後多一點功德給祂。我會奉請業主菩薩過來接受我的懺悔,問到祂有筊、同意為止。但108遍的經文,在月底可能也是無法唸完,所以我儘量多做善事。若真的不行,還是得要跟其他家人問問看,可不可以集資迴向。」
後來她告訴我:「如果真的都想完成,我看看能否湊夠錢給母親助印經典轉換功德,因為醫生有跟我說,這次手術風險也挺大。我有想過自己唸的20萬遍〈藥師灌頂真言〉迴向給母親,這樣可行嗎?」
我回答:「用印經轉換功德當然要看經濟狀況,若真的沒那麼多的錢,趕緊多做善事,也是有幫助,特別是流通善書或是散播因果知識,這些助益最大。
至於20萬遍〈藥師灌頂真言〉,這個真心建議不可以迴向!在精舍提倡的修學中,這是不迴向的功德資糧,為的是要讓自己與過去的修為相接,是修行的基底。人都有隔陰之迷,接回過去所學,對本世的幫助很大,尤其現在很多師兄姐沒有很認真唸〈藥師灌頂真言〉。一天若只唸108遍,也得5年才能達到20萬這數字;若要累積到佛菩薩開示的至少100萬遍,得要幾十年呀!人生沒多少個這樣的5年可以用,千萬不要打〈藥師灌頂真言〉的主意。」
在此推薦多寫幾篇自己的感應文章投稿,渡眾的功德力最為殊勝,您幫眾生解脫苦難,佛菩薩也幫您解脫苦難。她文筆不錯,我鼓勵趕快多寫幾篇自己的故事,一定能幫到母親!後來她同意我說的,說:「剛也跟母親溝通,先求業障不干擾,三經先迴向給開示出來的業力。剩下補福德的經文,就先轉換功德。一急我心又亂了,一切盡在不言中,感恩佛菩薩,感恩阿伯與感恩您。」
人生,還真的是要多多行善,以免遇到這種事情的時候,不知道怎麼辦!
(分享完畢)
遇上人生重大關卡,通常是業力上門討報的最佳時機,而這往往也是人最需要福報的時候。文中有緣人朋友的母親,即將面臨心臟瓣膜手術,卻被佛菩薩同時開示新業力和需補讓手術平安的福德資糧。母親開刀有風險,且時間迫在眉睫,算一算日子,即便全家願意通力合作唸經,時間上也僅來得及迴向一件開示。遇到這種事情的時候,該怎麼辦呢?
一、遇事多問問,問對人尤其重要
人在緊急危難的時候,通常容易心慌意亂、下錯決定,這時務必先冷靜、深呼吸,告訴自己別慌、別亂,先別急著下決定,想想能尋求哪些人的建言或幫助。問清楚了再來做決定,才不會後悔莫及。
朋友得知母親同時有兩筆開示,處理業障和補福報一樣重要,奈何時間上不允許,朋友心亂之餘,想到有緣人這方面的經驗豐富,請教之下,解了疑惑,也安了心,同時有了清楚的處理方式。由此可知,遇事多問問,問對人尤其重要;找到對的人問,能少走許多冤枉路,少花許多冤枉錢,同時,也少受許多不必要的折騰。
二、〈藥師灌頂真言〉屬個人不動資產,任何關頭都要守住
〈藥師灌頂真言〉是個人修行的基礎,幫助個人無縫接軌過去世的修為。人都有隔陰之迷,投胎後記憶重新歸零,過去世的修為也同時被封存。〈藥師灌頂真言〉是連結過去世的重要橋樑,佛菩薩設定至少要滿100萬遍以上,神通觀想或修行功力才能日益臻熟。除此之外,〈藥師灌頂真言〉也能保護個人少受外靈的侵擾,真言數越多,防護的功力越強。所以,〈藥師灌頂真言〉屬個人不動資產,禁止迴向,禁止轉讓給別人,任何關頭都要守住,千萬別打〈藥師灌頂真言〉的主意!
三、平時誦經有存糧,業力上門不用愁
業力討報的時間不一定,但因緣到了一定會來。所以現在養成誦經的好習慣,好比辛勤工作、努力存錢,有業障來就消業障,暫時沒業障上門,就做好誦經記錄,以備不時之需,平時誦經有存糧,業力上門不用愁。將眼光放遠,凡事先未雨綢繆,等到發生不可預期的事故時,才能馬上迴向,救自己也能救家人,避免上述同時有業力討報和需要補福報的窘境。
四、誠心懺悔,善意溝通,凡事有轉圜
雖說遇上緊急關頭,能用助印經典、捐款家扶中心做功德轉換,但轉換的金額並不是人人都有能力負擔,且人遇緊急危難,往往也是業力密集討報的時候,迴向完一筆業力,被開示另一筆新業力的機率是很高的,若每筆都想用錢轉功德,也是不小的負擔。這時還請回歸初心,誠心懺悔,善意溝通,業主菩薩的心也是肉做的,如有緣人建議:「誠摯的懺悔,並且發願在手術後多一點功德給祂。我會奉請業主菩薩過來接受我的懺悔,問到祂有筊、同意為止。」
「多做功德」給業主菩薩,確實是很好的辦法,此時會建議從三經各一遍,慢慢往上加,要評估自己的能力,不要漫天亂開價,到時執行有困難,會加深業主菩薩的怒氣和干擾力道。一般來說,誦經養成了習慣,將「因果債,功德還」奉行多年的人,在靈界已有良好的償債信譽,善意溝通下,凡事都有轉圜機會。
此外,懺悔、溝通之餘,若能再加上銀河大手印「楊枝淨水」觀想,幫助熄滅業主菩薩的怒火,業主菩薩的心清涼了,也能大大提高答應不干擾的機率。總之,把握好三個原則--老實面對、誠心懺悔、積極誦經,誠意足了,沒有解不開的因果怨結。
五、多寫因果感應文,也是很好的行善方式
「渡眾的功德力最為殊勝,您幫眾生解脫苦難,佛菩薩也幫您解脫苦難。」眾生最缺的是智慧,若能從眾生最欠缺的部分著手,功德不可思議!人會做惡,都是因為不明白有因果業報,宣導因果觀念,讓眾生明瞭「善有善報,惡有惡報」,從此約束自己的行為,不敢做壞事,多寫因果感應文,確實是很好的方法。
許多人擔心自己的文筆不流暢,這方面倒不用多想,只要將自己誦經迴向後的改善與改變,如實寫出投稿,文章編輯組會幫忙潤飾。精舍每天發布1~2篇感應文,文章的需求量很大,不怕沒機會刊登,只怕您不寫!之前有位有緣人發願,若能讓自己和妻子同時順利調職成功,願意一個月寫出30篇的感應文以饗眾生。
有願才有力,事後證明人的潛力無窮,有緣人願意用自己十多年誦經迴向的親身經歷渡化眾生,當然上天也會特別眷顧這類善心、善願、善行的人,讓有緣人心想事成。因此,經濟不寬裕,確實無法捐款佈施的人,除了誦經,也鼓勵朝寫感應文法佈施這方面多努力,功不唐捐。
多寫感應文,讓眾生對誦經消業有信心,對外幫助眾生,對內則是讓自己消業、消黑氣,還能為自己快速累積福報。人生,還真的是要多多行善,以免遇到業力討報和缺福報的時候,不知道怎麼辦!
文末,以諾貝爾獎文學獎得主泰戈爾的詩篇《用生命影響生命》與大家共勉:
「把自己活成一道光,因為你不知道誰會藉著你的光,走出了黑暗。
請保持心中的善良,因為你不知道誰會藉著你的善良,走出了絕望。
請保持你心中的信仰,因為你不知道誰會藉著你的信仰,走出了迷茫。
請相信自己的力量,因為你不知道誰會因為相信你,開始相信了自己。」南無大願地藏王菩薩!
南無本師釋迦牟尼佛
南無藥師琉璃光如來
南無阿彌陀佛
南無大悲觀世音菩薩
南無大願地藏王菩薩
南無韋馱菩薩
南無伽藍菩薩
南無十方一切諸佛菩薩摩訶薩
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chikuri · 1 year
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文部科学省「教員不足…そうだ!!」 ↓ 「やりがいをPRしよう!」 「秋に追加募集をしよう!」 「免許がなくても教員にしよう!」 「教員採用試験日程を早期化しよう!」 「退職した教員に戻ってきてもらおう!」 「県外で説明会を開催して魅力を発信しよう!」 「中高生を対象に教員の魅力を発信するイベントをやろう!」 「教員免許をとったけど教員にならなかった人も採用しよう!」 「大型商業施設で教員採用試験をアピールするチラシを配ろう!」 「教員になった人の奨学金返済を免除する方針を新たに盛り込もう!」←New!! 私「教員不足なのは、『過重な学習指導要領による授業負荷に加え、保護者対応、部活指導、膨大な書類や会議への対応等による過労死ライン超えの過酷なタスクを、無賃残業と休日出勤も厭わずこなさないといけない労働環境』が超絶ブラックだという厳然たる事実が明らかになったため、ただでさえ数少なくなった若者から忌避されているからです。 なのに、そんな小手先の対策ばかりにリソースを割いてたら、来年度はさらに教員不足状態からのスタートになりますよ。しかも「新たに」なんて言ってますけど、奨学金返済免除は前に一度廃止した制度を復活させるだけじゃないですか。なんで『労働環境改善』と『給与UP』という根本的な対策をかたくなに無視し続けるんですか」
新田 龍 / X
173 notes · View notes
simamamoru · 2 months
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汚辱の日々  さぶ
  1.無残
 日夕点呼を告げるラッパが、夜のしじまを破って営庭に鳴り響いた。
「点呼! 点呼! 点呼!」
 週番下士官の張りのある声が静まりかえった廊下に流れると、各内務班から次々に点呼番号を称える力に満ちた男達の声が騒然と漠き起こった。
「敬礼ッ」
 私の内務班にも週番士官が週番下士官を従えて廻って来て、いつもの点呼が型通りに無事に終った。辻村班長は、これも毎夜の通り
「点呼終り。古兵以上解散。初年兵はそのまま、班付上等兵の教育をうけよ。」
 きまりきった台詞を、そそくさと言い棄てて、さっさと出ていってしまった。
 班付上等兵の教育とは、言い換えれば「初年兵のビンタ教育」その日の初年兵の立居振舞いのすべてが先輩達によって棚卸しされ、採点・評価されて、その総決算がまとめて行われるのである。私的制裁をやると暴行罪が成立し、禁止はされていたものの、それはあくまで表面上でのこと、古兵達は全員残って、これから始まる凄惨で、滑稽で、見るも無残なショーの開幕を、今や遅しと待ち構えているのであった。
 初年兵にとつては、一日のうちで最も嫌な時間がこれから始まる。昼間の訓練・演習の方が、まだしもつかの間の息抜きが出来た。
 戦闘教練で散開し、隣の戦友ともかなりの距離をへだてて、叢に身を伏せた時、その草いきれは、かつて、学び舎の裏の林で、青春を謳歌して共に逍遙歌を歌い、或る時は「愛」について、或る時は「人生」について、共に語り共に論じあったあの友、この友の面影を一瞬想い出させたし、また、土の温もりは、これで母なる大地、戎衣を通じて肌身にほのぼのと人間的な情感をしみ渡らせるのであった。
 だが、夜の初年兵教育の場合は、寸刻の息を抜く間も許されなかった。皓々(こうこう)とした電灯の下、前後左右、何かに飢えた野獣の狂気を想わせる古兵達の鋭い視線が十重二十重にはりめぐらされている。それだけでも、恐怖と緊張感に身も心も硬直し、小刻みにぶるぶる震えがくるのだったが、やがて、裂帛(れっぱく)の気合
怒声、罵声がいり乱れるうちに、初年兵達は立ち竦み、動転し、真ッ赤に逆上し、正常な神経が次第々に侵され擦り切れていった。
 その過程を眺めている古兵達は誰しも、婆婆のどの映画館でも劇場でも観ることの出来ない、スリルとサスペンスに満ち溢れ、怪しい雰囲気につつまれた素晴しい幻想的なドラマでも見ているような錯覚に陥るのであった。幻想ではない。ここでは現実なのだ。現実に男達の熱気が火花となって飛び交い炸裂したのである。
 なんともやりきれなかった。でも耐え難い恥辱と死につながるかもしれない肉体的苦痛を覚悟しない限り抜け出せないのである。ここを、この軍隊と云う名の檻を。それがあの頃の心身共に育った若者達に課せられた共通の宿命であった。
 この日は軍人勅諭の奉唱から始まった。
「我ガ国ノ軍隊ハ代々天皇ノ統率シ賜ウトコロニゾアル……」
 私は勅諭の奉唱を仏教の読経、丁度そんなものだと思っていた。精神が忘れ去られ、形骸だけが空しく機械的に称えられている。又虐げられた人々の怨念がこもった暗く重く澱んだ呻き、それが地鳴りのように聞こえてくるそんな風にも感じていた。
 勅諭の奉唱が一区切りついたところで、一人の古兵が教育係の上等兵に何か耳うちした。頷いた上等兵は、
「岩崎、班長殿がお呼びだ。すぐ行けッ」
 全員の目が私に集中している。少くとも私は痛い程そう感じた。身上調査のあったあの日以来、私は度々辻村机長から呼び出しをうけた。あいつ、どうなってんだろ。あいつ班長殿にうまく、ゴマすってるんじゃないか。あいつ、俺達のことを、あることないこと、班長殿の気に入るように密告してるんじゃないか。同年兵も古兵達も、皆がそんな風に思っているに違いない。私は頑なにそう思い込んでいた。
 つらかった。肩身が狭かった。
 もともと私は、同年兵達とも古兵達とも、うまくいっていなかった。自分では余り意識しないのだが、私はいつも育ちや学歴を鼻にかけているように周囲から見られていたようである。運動神経が鈍く、腕力や持久力がからっきし駄目、することなすことがヘマばかり、ドジの連続の弱兵のくせに、その態度がデカく気障(きざ)っぽく嫌味で鼻持ちがならない。そう思われているようだった。
 夏目漱石の「坊ちゃん」は親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしていたと云うが、私は生まれつき人みしりのする損なたちだった。何かの拍子にいったん好きになると、その人が善人であれ悪人であれ、とことん惚れ込んでしまうのに、イケ好かない奴と思うともう鼻も引つかけない。気軽に他人に話しかけることが出来ないし、話しかけられても、つい木で鼻をくくったような返事しかしない。こんなことではいけないと、いつも自分で自分を戒めているのだが、こうなってしまうのが常である。こんなことでは、同年兵にも古兵にも、白い眼で見られるのは至極当然内務班でも孤独の影がいつも私について廻っていた。
 あいつ、これから始まる雨霰(あめあられ)のビンタを、うまく免れよって――同年兵達は羨望のまなざしを、あいつ、班長室から戻って来たら、ただではおかないぞ、あの高慢ちきで可愛いげのないツラが変形するまで、徹底的にぶちのめしてやるから――古兵達は憎々しげなまなざしを、私の背に向って浴せかけているような気がして、私は逃げるようにその場を去り辻村班長の個室に急いだ。
 2.玩弄
 部屋の前で私は軽くノックした��普通なら「岩崎二等兵、入りますッ」と怒鳴らねばならないところだが、この前、呼び出しをうけた時に、特にノックでいいと辻村班長から申し渡されていたのである。
「おう、入れ」
 低いドスのきいた返事があった。
 扉を閉めると私はいったん直立不動の姿勢をとり、脊筋をぴんとのばしたまま、上体を前に傾け、しゃちこばった敬礼をした。
 辻村班長は寝台の上に、右手で頭を支えて寝そべりながら、じっと私を、上から下まで射すくめるように見据えていたが、立ち上がって、毛布の上に、どっかとあぐらをかき襦袢を脱ぎすてると、
「肩がこる、肩を揉め」
 傲然と私に命じた。
 私も寝台に上がり、班長の後に廻って慣れぬ手つきで揉み始めた。
 程よく日焼けして艶やかで力が漲っている肩や腕の筋肉、それに黒々とした腋の下の毛のあたりから、男の匂いがむっと噴き出てくるようだ。同じ男でありながら、私の身体では、これ程官能的で強烈な匂いは生まれてこないだろう。私のは、まだまだ乳臭く、淡く、弱く、男の匂いと云うには程遠いものであろう。肩や腕を、ぎこちない手つきで揉みながら、私はふっと鼻を彼の短い頭髪やうなじや腋に近づけ、深々とこの男の乾いた体臭を吸い込むのだった。
「おい、もう大分、慣れて来たか、軍隊に」
「……」
「つらいか?」
「いエ……はァ」
「どっちだ、言ってみろ」
「……」
「つらいと言え、つらいと。はっきり、男らしく。」
「……」
「貴様みたいな、娑婆で、ぬくぬくと育った女のくさったようなやつ、俺は徹底的に鍛えてやるからな……何だ、その手つき……もっと、力を入れて……マジメにやれ、マジメに……」
 辻村班長は、岩崎家のぼんぼんであり、最高学府を出た青白きインテリである私に、マッサージをやらせながら、ありったけの悪態雑言を浴びせることを心から楽しんでいる様子であった。
 ごろりと横になり、私に軍袴を脱がさせ、今度は毛深い足や太股を揉みほぐし、足の裏を指圧するように命じた。
 乱れた越中褌のはしから、密生した剛毛と徐々に充血し始めた雄々しい男の肉茎が覗き生臭い股間の匂いが、一段と激しく私の性感をゆさぶり高ぶらせるのであった。
 コツコツ、扉を叩く音がした。
「おお、入れ」
 私の時と同じように辻村班長は横柄に応えた。今時分、誰が。私は思わず揉む手を止めて、その方に目を向けた。
 入って来たのは――上等兵に姿かたちは変ってはいるが――あっ、辰ちゃんではないか。まぎれもなく、それは一丁目の自転車屋の辰ちゃんなのだ。
 私の家は榎町二丁目の豪邸。二丁目の南、一丁目の小さな水落自転車店、そこの息子の辰三は、私が小学校の頃、同じ学年、同じクラスだった。一丁目と二丁目の境、その四つ角に「つじむら」と云ううどん・そば・丼ぶり物の店があり、そこの息子が今の辻村班長なのである。
 私は大学に進学した関係で、徴兵検査は卒業まで猶予されたのであるが、彼―― 水落辰三は法律通り満二十才で徴兵検査をうけ、その年か翌年に入隊したのだろう。既に襟章の星の数は私より多く、軍隊の垢も、すっかり身についてしまっている様子である。
 辰ちゃんは幼い時から、私に言わせれば、のっぺりした顔だちで、私の好みではなかったが、人によっては或いは好男子と言う者もあるかもしれない。どちらかと言えば小柄で小太り、小学校の頃から既にませていて小賢しく、「小利口」と云う言葉が、そのままぴったりの感じであった。当時のガキ大将・辻村に巧みにとり入って、そのお気に入りとして幅をきかしていた。私が中学に入って、漢文で「巧言令色スクナシ仁」と云う言葉を教わった時に「最っ先に頭に想い浮かべたのはこの辰ちゃんのことだった。ずる賢い奴と云う辰ちゃんに対する最初の印象で、私は殆んどこの辰ちゃんと遊んだ記憶も、口をきいた記憶もなかったが、顔だけは、まだ頭の一隅に鮮明に残っていた。
 辻村班長は私の方に向って、顎をしゃくり上げ、辰ちゃん、いや、水落上等兵に、「誰か分かるか。」
 意味あり気に、にやっと笑いながら尋ねた
「うん」
 水落上等兵は卑しい笑みを歪めた口もとに浮かべて頷いた。
「岩崎、裸になれ。裸になって、貴様のチンポ、水落に見てもらえ。」
 頭に血が昇った。顔の赤らむのが自分でも分った。でも抵抗してみたところで、それが何になろう。それに恥ずかしさに対して私は入隊以来もうかなり不感症になっていた。部屋の片隅で、私は手早く身につけていた一切合切の衣類を脱いで、生まれたままの姿にかえった。
 他人の眼の前に裸身を晒す、そう思うだけで、私の意志に反して、私の陰茎はもう「休メ」の姿勢から「気ヲ付ケ」の姿勢に変り始めていた。
 今日は辻村班長の他に、もう一人水落上等兵が居る。最初から突っ張ったものを披露するのは、やはり如何にもきまりが悪かった。しかも水落上等兵は、私が小学校で級長をしていた時の同級生なのである。
 私の心の中の切なる願いも空しく、私のその部分は既に独白の行動を開始していた。私はどうしても私の言うことを聞かないヤンチャ坊主にほとほと手を焼いた。
 堅い木製の長椅子に、辻村班長は越中褌だけの姿で、水落上等兵は襦袢・軍袴の姿で、並んで腰をおろし、旨そうに煙草をくゆらしていた。班長の手招きで二人の前に行くまでは、私は両手で股間の突起を隠していたが、二人の真正面に立った時は、早速、隠し続ける訳にもいかず、両手を足の両側につけ、各個教練で教わった通りの直立不動の姿勢をとった。
「股を開け。両手を上げろ」
 命ぜられるままに、無様な格好にならざるを得なかった。二人の視線を避けて、私は天井の一角を空ろに眺めていたが、私の胸の中はすっかり上気して、不安と、それとは全く正反対の甘い期待とで渦巻いていた。
 二人は代る代る私の陰茎を手にとって、きつく握りしめたり、感じ易い部分を、ざらざらした掌で撫で廻したりしはじめた。
「痛ッ」
 思わず腰を後にひくと、
「動くな、じっとしとれ」
 低い威圧的な声が飛ぶ。私はその部分を前につき出し気味にして、二人の玩弄に任せると同時に、高まる快感に次第に酔いしれていった。
「廻れ右して、四つん這いになれ。ケツを高くするんだ。」
 私の双丘は水落上等兵の手で押し拡げられた。二人のぎらぎらした眼が、あの谷間に注がれていることだろう。板張りの床についた私の両手両足は、時々けいれんをおこしたように、ぴくッぴくッと引き吊った。
「顔に似合わず、案外、毛深いなアこいつ」
 水落上等兵の声だった。突然、睾丸と肛門の間や、肛門の周囲に鈍い熱気を感じた。と同時に、じりッじりッと毛が焼けて縮れるかすかな音が。そして毛の焦げる匂いが。二人は煙草の火で、私の菊花を覆っている黒い茂みを焼き払い出したに違いないのである。
「熱ッ!」
「動くな、動くとやけどするぞ」
 辻村班長の威嚇するような声であった。ああ、目に見えないあのところ、今、どうなってるんだろう。どうなってしまうのだろう。冷汗が、脂汗が、いっぱいだらだら――私の神経はくたくたになってしまった。
  3.烈情
「おい岩崎、今日はな、貴様にほんとの男ってものを見せてやっからな。よーく見とれ」
 四つん這いから起きあがった私に、辻村班長は、ぶっきらぼうにそう言った。辻村班長が水落上等兵に目くばせすると、以心伝心、水落上等兵はさっさと着ているものを脱ぎ棄てた。裸で寝台の上に横になった水落上等兵は、恥ずかしげもなく足を上げてから、腹の上にあぐらを組むように折り曲げ、辻村班長のものを受入れ易い体位になって、じっと眼を閉じた。
 彼白身のものは、指や口舌で何の刺戟も与えていないのに、既に驚くまでに凝固し若さと精力と漲る力をまぶしく輝かせていた。
「いくぞ」
 今は褌もはずし、男一匹、裸一貫となった辻村班長は、猛りに猛り、水落上等兵を押し分けていった。
「ううッ」
 顔をしかめ、引き吊らせて、水落上等兵は呻き、
「痛ッ……痛ッ……」と二言三言、小さな悲鳴をあげたが、大きく口をあけて息を吐き、全身の力を抜いた。彼の表情が平静になるのを待って、辻村班長はおもむろに動いた。大洋の巨大な波のうねりのように、大きく盛り上がっては沈み、沈んでは又大きく盛り上がる。永落上等兵の額には粒の汗が浮かんでいた。
 凄まじい光景であった。凝視する私の視線を避けるように、流石の永落上等兵も眼を閉じて、烈しい苦痛と屈辱感から逃れようとしていた。
「岩崎、ここへ来て、ここをよーく見ろ」
 言われるがままに、私はしゃがみこんで、局部に目を近づけた。
 一心同体の男達がかもし出す熱気と、激しい息づかいの迫力に圧倒されて、私はただ茫然と、その場に崩れるようにすわりこんでしまった。
 戦いは終った。戦いが烈しければ烈しい程それが終った後の空間と時間は、虚しく静かで空ろであった。
 三人の肉体も心も燃え尽き、今は荒涼として、生臭い空気だけが、生きとし生ける男達の存在を証明していた。
 男のいのちの噴火による恍惚感と、その陶酔から醒めると、私を除く二人は、急速にもとの辻村班長と水落上等兵に戻っていった。先程までのあの逞しい情欲と激動が、まるで嘘のようだった。汲(く)めども尽きぬ男のエネルギーの泉、そこでは早くも新しい精力が滾々(こんこん)と湧き出しているに達いなかった。
 「見たか、岩崎。貴様も出来るように鍛えてやる。寝台に寝ろ。」
 有無を言わせぬ強引さであった。
 あの身上調査のあった日以来、私はちょくちょく、今夜のように、辻村班長の呼び出しをうけていたが、その度に、今日、彼が水落上等兵に対して行ったような交合を私に迫ったのである。しかし、これだけは、私は何としても耐えきれなかった。頭脳に響く激痛もさることながら、襲いくる排便感に我慢出来ず私は場所柄も、初年兵と云う階級上の立場も忘れて、暴れ、喚き、絶叫してしまうので、辻村班長は、ついぞ目的を遂げ得ないままであった。
 その時のいまいましげな辻村班長の表情。何かのはずみでそれを想い出すと、それだけで、私は恐怖にわなないたのであるが、辻村班長は一向に諦めようとはせず、執念の劫火を燃やしては、その都度、無残な挫折を繰り返していたのである。
 その夜、水落上等兵の肛門を責める様を私に見せたのは、所詮、責められる者の一つの手本を私に示す為であったかもしれない。
「ぐずぐずするな。早くしろ、早く」
 ああ、今夜も。私は観念して寝台に上がり、あおむけに寝た。敷布や毛布には、先程のあの激突の余儘(よじん)が生温かく、水落上等兵の身体から滴り落ちた汗でじっとりと湿っていた。
 私の腰の下に、枕が差し込まれ、両足を高々とあげさせられた。
「水落。こいつが暴れんように、しっかり押さえつけろ。」
 合点と云わんばかりに、水落上等兵は私の顔の上に、肉づきのいい尻をおろし、足をV字形に私の胴体を挟むようにして伸ばした。股の割れ目は、まだ、水落上等兵の体内から分泌された粘液でぬめり、私の鼻の先や口許を、ねばつかせると同時に、異様に生臭い匂いが、強烈に私の嗅覚を刺戟した。
「むむッ」
 息苦しさに顔をそむけようとしたが、水落上等兵の体重で思うにまかせない。彼は更に私の両足首を手荒く掴んで、私の奥まった洞窟がはっきり姿を見せるよう、折り曲げ、組み合わせ、私の臍の上で堅く握りしめた。
 奥深く秘められている私の窪みが、突然、眩しい裸電球の下に露呈され、その差恥感と予期される虐待に対する恐怖感で、時々びくっびく��と、その部分だけが別の生き物であるかのように動いていた。
 堅い棒状の異物が、その部分に近づいた。
 思わず息をのんだ。
 徐々に、深く、そして静かに、漠然とした不安を感じさせながら、それは潜行してくる。ああッ〃‥ああッ〃‥‥痛みはなかった。次第に力が加えられた。どうしよう……痛いような、それかと云って痛くも何ともないような、排泄を促しているような、そうでもないような、不思議な感覚が、そのあたりにいっぱい。それが、私の性感を妖しくぐすぐり、燃えたたせ、私を夢幻の境地にさそうのであった。
 突然、激痛が火となって私の背筋を突っ走った。それは、ほんのちょっとした何かのはずみであった。
「ぎゃあッ!!」
 断末魔の叫びにも似た悲鳴も、水落、上等兵の尻に押さえつけられた口からでは、単なる呻きとしか聞きとれなかったかもしれない。
 心をとろけさせるような快感を与えていた、洞窟内の異物が、突如、憤怒の形相に変わり、強烈な排便感を伴って、私を苦しめ出したのである。
「お許し下さいッ――班長殿――お許しッ ――お許しッ――ハ、ハ、班長殿ッ」  言葉にはならなくても、私は喚き叫び続けた。必死に、満身の力を振り絞って。
「あッ、汚しますッ――止めて、止めて下さいッ――班長殿ッ――ああ――お願いッ――お許しッ――おおッ――おおッ―― 」
「何だ、これくらいで。それでも、貴様、男か。馬鹿野郎ッ」
「ああッ、……痛ッ……毛布……毛布……痛ッ――汚れ――汚れますッ――班長殿ッ」
 毛布を両手でしっかりと握りしめ、焼け爛れるような痛さと、排便感の猛威と、半狂乱の状態で戦う私をしげしげと眺めて、流石の辻村班長も、呆れ果てで諦めたのか、
「よしッ……大人しくしろ。いいか、動くなッ」
「うおおおー!!!」
 最後の一瞬が、とりわけ私の骨身に壊滅的な打撃を与えた。
「馬鹿野郎。ただで抜いてくれるなんて、甘い考えおこすな。糞ったれ」
 毒づく辻村班長の声が、どこか遠くでしているようだった。
 終った、と云う安堵感も手伝って、私は、へたへたとうつ伏せになり、股間の疼きの収まるのを待った。身体じゅうの関節はばらばら全身の力が抜けてしまったように、私はいつまでも、いつまでも、起き上がろうとはしなかった。 
 班長の最後の一撃で俺も漏らしてしまったのだ。腑抜けさながら。私はここまで堕ちに堕ちてしまったのである。  瞼から涙が溢れ、男のすえた体臭がこびりついた敷布を自分の汁と血で汚していた。
 どれだけの時間が、そこで停止していたことか。
 気怠(けだる)く重い身体を、もぞもぞ動かし始めた私。
 「なんだ、良かったんじゃねぇか、手間取らせやがって」
 おれの漏らした汁を舐めながら辻村班長が言った。
 そして汚れたモノを口に突っ込んできた。
 水落上等兵は、おいうちをかけるように、俺に覆い被さり、聞こえよがしに口ずさむのであった。
 新兵サンハ可哀ソウダネ――マタ寝テカクノカヨ――
        (了)
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kozy-ogawa · 3 months
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今月で現在勤務している介護施設を退職する。
オープニングから3年ほど勤めたが、シフトがショート夜勤(22時~7時)からロング夜勤(16時~9時)に変更になったため、還暦前の自分としては体力の限界を感じ転職することとした。
4月・5月・6月の3ヶ月で夜勤回数が25回。もうくたくただ。
新しい職場ではショートステイの生活相談員として採用された。勤務時間は日勤になるため体力的にはかなり楽になる。
ベトナム人技能実習生から餞別でベトナムのコーヒーをもらった。職場の人間関係はとても良好だった。若くて仕事のできる日本人リーダー。ベトナム人技能実習生。インドネシア人技能実習生。皆、20代の女性たちで、自分にとっては娘のようなもので、一緒に仕事ができて本当に良かった。ありがとう。
介護業界は、どこの職場も崩壊しかかっており、みんな生き残ってくれと願うばかりだ。
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kennak · 2 months
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その事件は私が1歳の時に起きました。覚えていることはありません。 中国人の父と母は、大きくなってからも私に語ろうとはしませんでした。 中国政府は事件の死者数を319人としていますが、それよりもはるかに多いという指摘もあります。 あれから35年。真相は今も、明らかにされていません。 あの時、私のもう1つの祖国で、何が起きたのか。 (中国総局 高島浩) 日本人の祖母と中国人の両親 私の祖母は日本人です。満蒙開拓団として旧満州に渡りました。 戦後、帰国できずに大陸に残った「中国残留婦人」で、養子に出されていた中国人の男の子を引き取り、育てました。のちの私の父です。 父は中国人の母と結婚。1988年に中国東北部・黒竜江省で私が生まれました。そして6歳の時、国の援護事業のもと家族4人で帰国し、私と両親は日本国籍を取得しました。 私が生まれた翌年に起きた「天安門事件」 1989年6月4日。中国の首都・北京で、あの事件は起きました。 天安門広場に集まった民主化を求める学生や市民たちを、当時の共産党指導部が軍を出動させて武力で鎮圧した「天安門事件」です。 軍による発砲などで多くの犠牲者が出ました。中国政府は死者数を319人としています。 しかし当時、北京に駐在していた各国の外交官の報告などから、犠牲者の数はそれよりもはるかに多いという指摘が根強くあります。 中国政府はこの事件を、政治的な「騒ぎ」で「すでに結論が出ている」という説明を繰り返しています。 「知る必要はない」父のひと言 戦車の前に立ちふさがった市民の姿。民主化の動きを武力で制圧した事件。 天安門事件の前の年に生まれた私は、日本の教育で学ぶまで、こうした事件の表���的な情報でさえ、知りませんでした。真相を公表せず、事件を人々の記憶から消し去ろうと腐心してきた中国政府からみれば、もくろみどおりに育った、ある意味で“優秀な中国国民”だったでしょう。 中学生の時、一度だけ父に事件について尋ねたことがあります。そのときの父のことばが記憶に残っています。 「よく知らないし、知る必要はないよ」 記者になって、父と私のもう1つの祖国でもある中国のことを話すことが増えました。父は自分が共産党員だったことを明かしてくれました。共産党の実態を知っているからこそ、私に忠告したのです。 「天安門事件に関心を持つことで、いつか中国に赴任した時、どのような理不尽な目に遭うかわからない」 遺族取材の担当に もう逃げない 4年前の2020年、希望がかなって中国南部の広州駐在の記者となりました。 当局の厳しい監視下に置かれた人権派弁護士の家族などを取材。私自身も当局者に連行され、警察署に留め置かれる経験をしました。 国家の安全を最優先する習近平指導部は言論統制を一段と強め、外国メディアの取材環境はますます厳しくなっていることを身をもって感じてきました。 天安門事件は、そうした中国社会の中でも最もタブー視されていて、深く取材すればどんな目に遭うのか。恐怖すら感じていました。 私と同じように中国の若い世代は事件を知りません。私がおおまかな概要を話すと、「うそを創作するのが上手ですね」と、まるで信じようともしません。今の中国社会の現実です。 事件がまた1つの節目を迎えたことし、北京に赴任、遺族取材の担当となりました。 そして、誓いました。事件を深く知ろうともしてこなかった過去から逃げず、まっさらな気持ちで取材しようと。 集会を断念した遺族グループ 6月4日に向けて取材を始めたところ、ある情報が入ってきました。 これまで5年ごとの節目に、遺族グループが開いていた追悼集会が断念に追い込まれたというのです。原因は当局による厳しい監視のためでした。政府が例年以上に神経をとがらせていることが感じられました。 遺族グループの名は「天安門の母」。グループは集会の代わりに先月(5月)、海外の動画投稿サイトに声明を公開しました。 「私たちには軍隊が銃撃に及んだ真相を知る権利がある」 「政府は社会に謝罪し、私たちに公正と正義を返しなさい」 事実を隠ぺいし、遺族の日常生活への干渉を続ける政府を強く非難する内容でした。 そして、いまなお分からない犠牲者の正確な数や名前の公表、犠牲者と遺族への賠償、責任者への法的な追及を求めました。 厳しい監視、通信遮断の面会 声明が公開される少し前、グループの中心メンバーの遺族を訪ねました。今の気持ちを伝えたいと、当局の監視をかいくぐって取材に応じてくれた張先玲さん(86)。 遺族に直接、話を聞くのはこれが初めてです。心臓がバクバクと打つ胸を必死でおさえました。 張先玲さん 呼び鈴を鳴らすと、張さんがやや固い表情で出迎えてくれました。周囲をうかがうように招き入れてくれたあと、すぐに携帯などの電源を切るよう伝えてきました。当局の盗聴を警戒していたのです。 自身も自宅の通信設備の電源をすべて切っていて、奥の部屋に移るまで、会話もしないよう身振り手振りで伝えてきました。 記者を志した息子の死 張さんは、事件で当時19歳だった息子の王楠さんを亡くしました。 記者を志していた王楠さん。天安門広場で起きている歴史的なできごとを記録に残したいと、事件前日の3日深夜、カメラを持って自転車で現場に向かったそうです。 張さんの息子 王楠さん そして4日午前1時すぎ、人民大会堂の北門の向かいで軍の銃撃を頭部に受けました。地面に倒れた王楠さんを現場にいた人たちが助けようとしましたが、軍の部隊が近づくことさえ許さなかったといいます。兵士たちはひざまずいて助けさせてくれという人たちの懇願に対し、「あいつは暴徒だ」と聞き入れなかったそうです。 のちに現場で目撃した人から聞くなどしてわかった当時の状況です。張さんは、中国政府がひた隠しにする、あの事件の真相の1つだと信じています。 なぜあの時… 消えぬ後悔 張さんの自宅のリビングの壁には笑顔の王楠さんの遺影がかけられていました。毎日のようにその写真に手をあわせながら、張さんは胸にある後悔を拭いきれずにいます。 なぜ、あの時、息子を送り出してしまったのか… 張先玲さん 「天安門広場に向かう前、息子が私に聞いてきました。『まさか軍が発砲することはないよね』と。私は『まさか、ありえないよ』と答えてしまったのです。今もずっとあの言葉を後悔しています。生きていれば、今ごろは父親になって家庭を持っていたでしょう。私の脳裏にある息子は、永遠にあの日の、あの晩の、19歳の時でとどまったままです」 黙り続けることは許されない 王楠さんの遺体はほかの犠牲者とともに天安門の西側にあった中学校前の草むらに埋められていました。雨で遺体は地表から露出し、3日後、衛生当局などによって発見されたそうです。変わり果てた姿の息子。 張さんの脳裏から焼きついて離れず、毎年6月4日が近づくにつれて、張さんは体調を崩しています。 息子はなぜ死ななければならなかったのか。この日も体の調子が悪く、取材に応じてくれた時間は10分余り。それでも張さんは気力を振り絞るように、遺族の声を広く伝えてほしいと、1人の母親としての怒りを伝えてきました。 張さん 「国家が進歩していく上で、この事件が解決されないのは正常なことではない。『人民のために奉仕する』という中国政府が、人民の尊い命を奪っておきながら、なんの説明もなく、30年以上も知らないふりをして黙り続けるのは到底許されない」 「ごめん、生きてくれ…」最後のことば 今、遺族グループの活動の中心は犠牲者の親たちから、そのパートナーや兄弟に移っています。その中の1人に会うことができました。 尤維潔さん 尤(ゆう)維潔さん(70)。事件で当時42歳だった夫の楊明湖さんを奪われました。 政府系の経済団体の職員だった楊さんは、当日の深夜、銃声を聞き、広場に集まった学生たちを心配して現場に向かったといいます。そこで、下腹部に銃弾を受けました。倒れた楊さんをその場にいた人たちがリアカーで病院に運びました。撃たれた骨盤は粉々に砕けていたといいます。 病院に駆けつけた尤さんに、手術室から出てきた楊さんはこう漏らしたそうです。 尤さんの夫 楊明湖さん 「ごめん、しっかりと生きてくれ」 2人が交わした最後の会話となりました。2日後、楊さんは息を引き取りました。わずか6年の結婚生活。国によって突然、終止符を打たれました。 尤さん 「35年がたっても、あのときの記憶は少しも消えていません。一瞬一瞬が頭の中に残っています。夫を見守った2日間で涙は流し尽くしてしまい、今はもう出ません。遺族は皆、この世を去らないかぎり、暗い記憶の中を生き続けるのです」 若者たちはなぜ立ち上がったのか 天安門事件とは結局、何だったのか。その疑問を持ちづけていた私に、尤さんは「若者たちが立ち上がったのは、社会に対する責任感だった」そう説明してくれました。 天安門事件は、1980年代に共産党トップの総書記を務め、言論の自由化など政治改革にも前向きだった胡耀邦氏が4月15日に突然、死去したことに端を発しているとされています。 胡氏は、学生の民主化運動に理解を示したなどと保守派に批判され、失脚していました。 学生や市民による胡氏の追悼集会は、民主化を求めるデモに変わり、各地に拡大。5月には10万人が参加する大規模な��会に発展していきました。訴えは汚職の撲滅や言論の自由などを求める社会的なうねりとなっていったのです。 天安門広場に集まった市民や学生たち 尤維潔さん 「当時、北京の市民は皆、天安門広場にいた学生たちをとても心配していました。特に印象深いのは、戒厳令が最初に出された日です。市民たちが天安門広場に軍隊を行かせてはいけないと、路上にバスを止めて道路をふさぎました。多くの人たちが、ハンガーストライキを続ける学生たちに食料や水を届けていました。すべてが自発的な行動だったのです。その光景に私はとても感動しました。政府はなぜこうした状況を理解できなかったのか、思い出すと、今でもとても腹立たしい」 “隠ぺい”と“沈黙”の35年… さらに大事なことを話してくれました。 当時、軍によって制圧された天安門広場やそれに続く大通りなどあちらこちらには死体の山があったそうです。連絡が取れない人も多く、尤さんの夫とともに病院に運ばれ、その後死亡した男性も身元が分かっていなかったといいます。 しかし、中国政府は事件発生から犠牲者や行方不明者についてほとんど説明を行ってきませんでした。それどころか、事件から1年余りの間、政府は「天安門広場に行ったのか」や「デモに参加したのか」など多くの人に聞き取りを行うなど徹底的に調査していました。 尤さんはこうした政府の心理的な圧力が、今の中国社会につながっていると語気を強めて訴えました。 尤さん 「政府の圧力によって、市民は自分たちの家庭で何が起きたのか、言い出すことを恐れていきました。時間の経過とともに真相を語る人を探し出すことはいっそう難しくなっています。今では多くの人が事件についてよく知りません。35年がたち、若い世代は天安門事件に関心すらない状況です。これはこの間、政府が隠ぺいと沈黙を続けてきたからだと思います」 メッセージアプリに突然、使用制限 今、中国政府は、事件を国民の記憶から消し去ろうとする動きをさらに強めています。 遺族グループの今の活動の中心メンバーとなっている尤さんに対する監視は、6月4日が近づくにつれて厳しさを増していました。 尤さんのメッセージアプリ「ウィーチャット」は、4月ごろから機能が突然、制限され、ほかの遺族とのグループでのやりとりが一切できなくなりました。 ウィーチャットは中国国内では、使っていない人はいないほど、最もポピュラーなSNSです。“遺族どうしがつながることを阻みたい”、35年という節目に当局が神経をとがらせている様子がうかがえました。 尤さんが所在不明に 警告、そして尾行 尤さんに話を聞いてから、およそ1か月半たった先月(5月)31日。私は再び彼女の自宅を訪れました。もう一度話を聞きたい、そう思ったからです。 しかし、不在でした。連絡すらつかず、所在がわからなくなっていました。 自宅から立ち去ろうとした時、突然、警備員に呼び止められ、「何をしに来た。2度と来るな」そう警告されました。さらに、私服警察官とみられる2、3人の男たちが、私のあとを追うようについてきました。尾行は、私たちが車に乗り込むまで続きました。 尤さんとようやく連絡がついたのはその4日後、6月4日の午後でした。電話口の声は重く、監視役としてそばにいるとみられる当局者らしき女性の声が聞こえました。 「しばらく自宅にいることができない。近況も話しづらい。ごめんなさい」 短く状況を伝えてくれました。身に危険はないか心配する私に、彼女は「大丈夫」そう返し、電話は切れました。 男たちに囲まれて警告、墓地に近づけず あの日が近づくにつれて、天安門を東西に突き抜ける大通り「長安街」は異様な雰囲気に包まれていきました。前日3日午後、同僚のカメラマンが、多くの犠牲者が見つかった木※せい地という場所に向かいました。(※木へんに「犀」) 今は地下鉄の駅があり、隣には警察の派出所が設けられています。撮影機器が入ったリュックサックを開けようとした瞬間、十数人の男たちに取り囲まれ、立ち去るよう警告されました。 厳しい警備の共同墓地 6月4日の様子 そして4日当日。犠牲者が埋葬されている北京郊外の共同墓地には、多くの警察官が配置され、厳戒態勢が敷かれていました。近づくことすら許されず、命日の墓参りに訪れる遺族への取材はできませんでした。 天安門の叫び、今も 「天安門事件は、中国共産党による『国民の虐殺』にほかならない」 遺族たちのこうした訴えは「人民のために奉仕する」という共産党の正当性を、根幹から揺るがすことになりかねない、そう政府は考えているのかもしれません。だからこそ、政府は沈黙を貫き、時がたち人々が事件を忘れ去るのをじっと待っているように感じます。 かつて、私に「知る必要はないよ」と語った父と同じように、多くの国民が知らされずにきた35年。 それでも中国国民のなかには、天安門広場で民主化を叫んだ若者たちと同じように、一党支配への不満や、社会への責任感を持つ人がいます。 北京での白紙運動(2022年11月) おととし、中国政府のゼロコロナ政策への不満を背景に起きた抗議活動「白紙運動」。 そして去年、李克強前首相の急死後に各地で広がった追悼の動きと現指導部を暗に批判する追悼のことば。 私は、もう1つの祖国で今、事件とどう向き合うのか。 取材に応じてくれた張さんと尤さんの2人のことばを反芻しています。 「生きている間に事件の解決は見ないかもしれないが、それでもかまわない。 息絶えるその瞬間まで、生きているかぎり、訴え続ける。あなたも、この声を多くの人に届けてほしい」 (6月4日 ニュース7などで放送)
中国の習近平政権下で強まる抑圧と監視 天安門事件35年 記者にも尾行が?遺族が訴え続ける意味とは? | NHK | WEB特集 | 中国
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wankohouse · 2 months
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福良の大綱曳
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南あわじ市福良の大綱曳 淡路島
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はっきりしないけど、六尺褌に化粧まわしを付けてるんじゃないかな? 
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